4.取り戻す男、ゲズゥ - d
2020 / 10 / 18 ( Sun ) ――町長の出方は、敵がどれほど悪趣味な手を使うかにもよるだろう。 通常、「言うとおりにすれば愛娘を返す」とでも迫られると考えるが、せっかく人質がふたりもいるのだから、両方とも使おうとするかもしれない。たとえば下劣な手で「言う通りにすれば片方を返すが、残る方は殺す」と条件が付くとする。得られる結果は同じだが、後味の悪さが長く尾を引いて町長の後の人生を狂わせかねない。 その場合、町長はミスリアを町民と思って助けようとするのか、或いは娘のためならば多少の犠牲も致し方ないと見捨てるのか。 どのような展開になっても、動けるようにしなければなるまい。 ゲズゥは町長の人柄や評判を一応耳にしているが、だからと言って当てにはしていない。他人の出方に身内の命運を賭けられるほど、安易な人生を歩んでいないのである。 物思いに耽っていると、ふと「星が明るいな」とロドワンが呟いた。 つられて夜空を見上げる。言われてみれば空気が澄んで、星々は輝きを増してきたように感じられる。今夜は月がか細い代わりに星がよく冴えるが、かといって地上に降りてしまえば木の葉などの遮蔽物もあって、視界は良好と言えない。 罠、視界、地上、水源――頭の中でいくつかのキーワードが回っていた。二、三度と瞬いて、塀が無いことをゲズゥは改めて不審がった。 また秋の夜風がひゅるりと吹いた。裾の長い外套に身を包んでいなければ、手足が動けなくなる程度には寒い。 「堀」 「は?」 端的に過ぎて、ロドワンに話が通じなかったらしい。 「水の貯められた堀か、落とし穴の類に用心しろ」 「わかった」 馬蹄の音が近づいてくる。次いで、気を引き締めた。 本当に言われたとおり単身やってきた町長が、見張りの者に向かって声を張り上げた。 「来てやったぞ! さあシェニーマを返せ!」 「急(せ)くな。ここじゃ寒いだろ、中で茶でも飲んでいけ。雇い主がお前を待っている」 「人を誘拐するような輩と茶なんて飲めるか。早く娘に会わせてもらおう!」 「あ? 調子に乗るなよ。誰が主導権握ってると思ってんだ」 見張りの者三人のうちふたりが、まだ馬上にいる町長を取り囲んだ。輪郭から判断するに、ふたりとも剣と盾で武装している。離れている三人目は弓矢を備えているようだった。 緊張感が、ここまで伝わってくる。 主人の危機に今にも飛び出しそうなロドワンに「迂闊に出るな」と小声で念押ししておく。 しかしこれはまずい。屋内に入られたら、突入する隙を見極めるのが格段に難しくなる―― こちらの苦悩を知ってか知らずか、好都合にも町長の方が簡単に折れなかった。娘の無事を確認できないならば今にも踵を返すと主張している。不毛と思われたやり取りが数分続き、やがて敵方の代表たるあの男が出てきた。状況を聞くと、部下に向かって命令した。 「いいだろう。娘を連れてこい」 事前に話を通したのか、秘密の合図でもあったのか、「どちらの」娘を連れてくればいいか明言されていない。 ――ここが分かれ目。 重く軋む、地下へ扉の音を聞きながら、ゲズゥは奥歯を噛みしめた。 |
4.取り戻す男、ゲズゥ - c
2020 / 10 / 03 ( Sat ) 「また『待つ』か……。私は貴殿の口車にのせられて、旦那様に無断でこんな――らしくもない真似を……」
歯切れの悪い呟きの後、どうかしている、とロドワンは疲れたように言った。 「その認識に間違いはない」 「責任転嫁しているように聞こえたなら謝罪する。そうではなくて、私が、常になく動揺しているのだろう」 「……だろうな」 ゲズゥは短く肯定した。奴にとって、攫われた女がそれだけ気にかかる相手だということは、最初から察していた。だからこそ手をこまねいていないで自らの足で動けと煽ったのだ。 そこから続く話がなく、しばらく周囲の観察に専念する。 確かに森の中の家は明るく照らされているが、庭が広く、隅々にまで灯りが行き渡っていない。塀も建てられていない。女たちを助け出してからの退路を確保するに当たって、これらの事実は好都合と言える。或いは、庭に踏み入った途端に灯りが一斉につく罠が仕掛けられているかもしれないが。 どこからか虫がしきりに鳴いていた。 見張りの三人を除いて、すっかり人の気配が引いている。 この場にあるもの、ないもの、そしてあって欲しいものを考えた。虫の鳴き声の合間に聞こえるこれは――流れる水の音か。 目を凝らしてみると、伸び放題の野草の影に、裏庭を横切る小川を見つけ出せた。音の深みから水量を想像する。 「あれの流れ着く先がわかるか」 「この方角なら、町中を流れる河と合流するはず」 なぜそんなことを訊くのかと余計な返しはせずに、ロドワンが思案して答える。 「使えそうだな」 ――来た道を素直に戻れるのは、きっと一組だけだ。 敷かれた警戒網をかいくぐるだけでも困難なのに、帰りは人数が倍になる。しかも半数は非戦闘員、皆で無事に脱出するには工夫が必要となろう。加えて、来た時に用いた馬は二頭。ふたり乗りでは速度が落ちるため、ひとり乗りを保つのが望ましい。 臨機応変に当たるしかあるまい。隙を見て二手に分かれるべきだと、端的に説明した。ロドワンは了承の意を示し、隙があっても見極められるだろうか、との不安を口にした。 「無ければつくる。ひとつ目は町長の到着……」 剣の柄に巻いたペンダントを見やる。 もうひとつ混乱が欲しいところで、それには魔物を頼るつもりだと続ける。 「魔物を? やはり貴殿は魔物狩り師なのか」 「違う。縁があるだけだ」 その返答に嘘はなく、ゲズゥは主に日雇いの仕事で生計を立てていた。時々、教団や魔物狩り師連合との伝手から仕事をもらったりもして、その時だけ稼ぎがやや増えたが、無駄なく質素に生活していれば特に困ったりはしなかった。 この世界で言う魔物とは神出鬼没で不規則、夜間のみ実体を持っていて霊的で不可思議、そして明確に人間を襲う習性がある。一般の認識では超常現象や災厄のように捉えられているが、個体差は大きくとも、その実態がある程度に法則めいていることをゲズゥは知っている。 先ほど屋敷で話題に上った通り、数年前に聖獣が大陸を浄化してから魔物の残数と発生率も限りなく減っている。 そんな中でも条件次第で「ここに現れるかも」と予測のつけようはある。たとえば魔物が本能的に近付きたいと願う、聖なるモノ。条件のひとつに当てはまるのが攫われたミスリア・ノイラートの存在だが、彼女だけでは足りえなかった前提条件が、ここにはもうひとつ揃っていそうだった。 ――他者に、もっと言えば死者に。払拭されていない怨みを、現在進行形で抱かれる対象―― あの雇われたという荒くれ者どもがいかにも適任だが、とりわけ雇い主と話していた男の空気には、遠くからも片鱗が感じ取れる「何か」があった。 たとえ聖獣が瘴気を一掃した後の世の中であっても。これだけ一か所にきな臭い連中が集まっていれば、残留思念として浮遊していただけの死者の残滓も魔物という実体を得るかもしれない。そこに全部の期待を向けずとも、意識の先端に置くくらいはいいだろう。 あと整理すべきは、町長の行動予測か。 |
4.取り戻す男、ゲズゥ - b
2020 / 09 / 26 ( Sat ) さてどうやって奪い返すか、脳内で様々なパターンを思い描く。 その一方で、地上ではふたつの人影が言い争っているようだった。ゲズゥは神経を耳に集中させた。話し声の抑揚に耳が慣れた頃には、よりはっきりと盗み聞きできるようになっていた。争うよりも、どちらかが一方的に相手をなじっているらしい。「――い、お前――……に大丈夫、だろうな! 何でふたりも女をさらってきたんだ、どっちかは偽物の、関係ない娘なんだろ! 面倒を増やしやがって」 体格が一回り小さいほうが苦情を喚き散らしている。いずれも男のようだった。 「どっちかが本物であれば、町長には通じる。ハズレだった方は口封じに始末すれば問題ない」 瞬間、全身が総毛立った。 させない。始末されてたまるものか。喉の奥から目の裏まで、火がついたように熱くなる。 今すぐに飛び出したい衝動を、ゲズゥは拳を握って堪えた。冷静さを手放したら一貫の終わりだ。怒りが収まるまで、浅くなっていた呼吸を意識的に引き延ばした。 「そういう話をしてるんじゃない! どこの誰とも知れない女だ、そいつの縁(ゆかり)に厄介な人間がいたらどうするんだ」 「どうもしない。関係ないならそれだけに、こんな人気のない森奥まで嗅ぎつけて来ない。足が付かないように消せば済む」 「ちゃんとやれよ? 何のために高い金を払ってまであんたらを雇ったんだか」 「心配しなくとも報酬分の働きは」 する、とおそらく続くはずだった言葉を切って、男が鋭く首を巡らせた。 双眸の煌きが、こちらを探るように動いた気がした。実際は遠くて、よく見えない。 「なんだ突然」 状況を読まずになおも喚く雇い主を、男が「シッ」と黙らせた。 ゲズゥは息を静めて動かなかった。その間の会話は息を潜められて行われたものだったが、聴覚の優れているゲズゥには、かろうじて聴き取れる音量だった。 「視線を感じた」 「どこから」 「それがわかれば苦労しない」 「みつけられないってことは野生の動物じゃないのか。この家の周りは明るくしてるから、ひとが隠れる場所なんてほとんどないぞ」 「ほとんどないだけで、まったくないとも言えない」 「そうかよ。警備も侵入者対応もお前らの仕事だからな、隙があるならどうにかしろ。おれは中に戻る。寒い」 雇った男の意見をいかにも軽視している様子で、小柄の方の男がその場をあとにした。身にまとった外套をバサバサとうるさく翻しながら歩いているとおり、他人の目など意に介してもいないようだった。 残った方の男は他の警備の者――部下か仲間だろうか――を数人呼び寄せて何かの指示を出した。それを受けた連中は散開し、明らかに周囲を警戒した。指示を出した男も数分はその場に残っていたが、やがて手元の灯りを消し、影の中へと消えていった。 ざあっと、冷たい風が吹き抜ける。 ようやくそこで、ゲズゥは斜め後ろの樹の幹に背を預けていたロドワンを振り返った。地上の人影に悟られないように細心の注意を払って動いていたのが、今になってようやく追いついたようだった。 「あれは、まさか」知っている人間でも見つけたのか、ロドワンは口元に拳を当てて考え込んでいる。ゲズゥは無言で続きを待った。「顔が見えなかったから確信が持てないが、声が似ていた……ああいう風に怒鳴り散らすのは初めて聞いたが」 「つまりお前には誘拐の動機の見当がつくんだな」 「大体は予想できる。しかし彼らはなんて言ってもめていたんだ? 私には内容までは聞こえなかった」 「気にするな。俺にも聞こえなかった」 「そうか……ではこれからどうする?」 問いかけに対してゲズゥは、待つ、と答えた。 |
4.取り戻す男、ゲズゥ - a
2020 / 09 / 19 ( Sat ) 星明りの下に、まだ新しそうな轍をみつけた。 ゲズゥ・スディルはその場に片膝をつき、窪んだ土の感触を指先で検める。深さからしてそれなりに大きな馬車が残したものと思われた。その旨を背後の者に伝えると、ロドワンという男は少なからず声を弾ませた。「では馬車が行き着いた先にお嬢様たちがいるかもしれないと」 馬車の通った痕跡を見つけ出すまでに要した時間は、そう多くなかった。この森の中は木々もまばらで人が好きに動き回れそうだったが、馬や馬車が通れるほどの幅となると、選べる道筋は限られていた。逆に言えば、馬車を通すために人為的に道が開けられているとも考えられる。 だが森の奥に潜む相手もそのことを理解しているはずだった。行き先までほとんど一本道ともなれば罠が待ち構えている可能性は高いと、ゲズゥは指摘した。 「我々が罠にかけられるというなら、旦那様だって危ないのではないか。目的によってはそうとも限らない、か? ともかく、罠を警戒しつつ人質の居所を探さなければならないということだな」 「……不利な話だ」 ゲズゥは借りた馬の背に再び跨った。ロドワンはまだ何か言いたげだったが、同じように己が連れた馬の鞍上に戻った。 旦那とやら――もとい、町長には何も断らずに先に家を出ている。つまり「交渉」の刻限までに人質を助け出す多少の猶予があるわけだが、囚われている場所の見当がつかない以上、既に滞っている。 いっそのこと。 「火をつけるか」 ゲズゥが何気ない思いつきを口にしたら、ロドワンが驚愕を押し殺したような咳を漏らした。 「焼き討ち!? 探し人が巻き込まれるかも知れないだろう」 「その程度で死ぬようなら、どうせ救えない」 「火事は『その程度』ではないと思うが」 「混乱をつくれば、罠を突破するまでもなく敵をあぶり出せる」 「だとしてもリスクが高すぎるのではないか」 「…………」 会話は途切れ、結局、放火の案は不採用になった。もとよりゲズゥとて本気で検討していたわけではない。 そうして夜が更けた。森の奥深くへ進むうちに、人家のものと思しき煙の匂いが漂ってきた。暖炉か、食事の残り火かもしれない。これ以上騎乗したまま近付いては感付かれるだろうとおそれ、二人は下馬した。 馬を樹に繋ぎとめると、ゲズゥは空を仰いだ。視線をやるのは星の眩い天空ではなく、高くそびえる樹々の方だ。ざっと見て枝と枝が絡み合う輪郭を把握し終えると、登り始めた。 しばらくして、ロドワンが後に続く。口に出さずとも意を察したようで、こちらとしては楽である。 「どうだ、何か見えるか」 そう言って、ゲズゥよりひとつ下の枝に止まった。荒事と縁が無さそうな風貌をしているものの運動能力は十分備わっているらしく、ここまでまったく息を乱さずについて来ている。身のこなしからも俊敏さが感じられる。戦力として当てにできそうで、何よりだった。 問いに対してゲズゥは斜め左の方を指差す。 斜線上のずっと先に建物があった。森小屋と呼ぶには規模が大きく、おそらく誰かの隠れ家とでも言ったところだろう。隣に厩舎があり、屋外に幾人かの人影があった。 ここからだと建物の裏の様子がうかがえない。 「もっと近づく」 言い終わるより早く、ゲズゥは別の枝へと跳び移っていた。 「貴殿はあまり音を立てずに移動できるのだな……私には樹と樹の間を移動するのは難しそうだ」 後ろから感心の声が挙がる。 「遅れて構わない。だが静かに進め」 「わかっている」 数分間たどった後、空中の枝の道が途切れた。幸い、ここからは裏庭がよく見えた。何せちょうど灯りを持った人間が動いたのである。その者が立ち止まった場所のすぐ近くで、地面の扉が開いた。成人男性の体格をした人間が、ゆっくりと地上に上がってくる。 ――地下とはよくよく縁がある。 かつて聖女と大陸を旅した日々を思い返して、ゲズゥは苦笑した。 きっとあの扉の向こうにミスリアが居るはずだという予感に、根拠も理屈も何もなかった。 |
3.焦る男、ロドワン - d
2020 / 07 / 20 ( Mon ) 『ほっといて! 保護者面しないでよ、家族でもないくせに!』
再生された瞬間だけ周りの音が遠ざかった気がした。ずっと朝から息苦しい思いをしているが、吐き付けられたこの一言を思い返す時こそが、何より息苦しい。 迷いがそのまま口をついて出ていた。 「助けに行って、いいのだろうか。私はきっと嫌われている。顔も見たくないと思われていたら」 何故お前が来たのかと、帰れとでも言われたら、その後立ち直れる自信がない。何食わぬ顔で屋敷で生活し続けられるほど、ロドワンは器用な方ではなかった。 「どうでもいい」 まったく感情ののらない声で、今日出会ったばかりのゲズゥが一蹴した。彼にしてみればどうでもいい話かもしれないが、もう少し言い方というものがあるのではないか。何か言い返さんと顔を上げると、見返す瞳は、意外に真剣そうだった。 「それは互いが生きていてこその悩みだ。優先順位を間違えるな」 「生きていてこそ……?」 反芻した。最悪の事態を、二度と会えなかった場合を想像する。 今この時も敵の手中に収まっている彼女が、どんな拍子で命を落とすことになるのか。相手の気が変わるなどして、交渉どころではなくなったら。 確かに、お嬢様が息災であること以上に重要な問題はない。嫌われているか好かれているかなんて、実に些事である。ロドワンは己の浅慮を深く恥じ入った。 「旦那様がお嬢様を無事に連れて戻るのをただ待っていても、望む結果になるとは限らないのだな。だから、先に赴くべきと」 ゲズゥは答える代わりに顔を僅かにしかめた。言葉に出していない考えが他にもあるのだとロドワンは察したが、訊かないことにした。 「失礼した。貴殿の言う通りだ。何よりも彼女たちの身の安全が最優先だ、どうして行動せずにいられようか」 身支度をするのでついてくるように伝えると、自室に戻って装備を整えた。その間、ゲズゥは自身が持ってきた大剣の他に、短剣の状態を確かめたり、長靴の紐の締め加減を調整していた。 大剣の表面は光を鈍く反射する程度に磨かれていて、研がれたばかりに見えた。かといって新品ではなく手入れが行き届いているのであろう、柄や刃の染みからは使い込まれている印象を受ける。それを恐ろしいと受け取るべきか頼もしいと受け取るべきか、ロドワンは今更ながらに目の前の男性の素性を思った。先ほど主に職業を問われて彼は「薪売り」と答えていたが、どうも腑に落ちないものがある。 (道中、背後から斬られるなんてことはあるまいな……私には嘘をついているとも思えないが、こんな時お嬢様がいたら……) ――あんたはひとを疑わなすぎよ、何回痛い目みれば気がすむの。 そう言ってあの麗しい顔が呆れに歪んだのがいつのことだったか。つい最近だったようで、懐かしいと感じるほどに昔だったようでもある。 しかし疑えと言われても、どうやればいいのかわからない。ひとまずもっと目を凝らして相手の動向に注意していようと結論した。 ゲズゥは先ほどテーブルから拾い上げたペンダントを、左手首に結び付けていた。 「そんなところにアクセサリをぶら下げては邪魔にならないか」 口に出してしまったと気付いたのは言葉も半ば言い終わっていた時だった。 いかにも面倒そうな顔で、客人が否定した。 「これは道標――いや、道標は魔物の方か」 「魔物がどうやって? 言っている意味がわからない」 「…………」 訊ね返しても返事はなかった。 もしかすると彼は魔物狩り師なのでは、とロドワンはふいに思った。理由はわからないがそう名乗り出るのを憚っているとすれば、辻褄が合う気がする。 「私は夜の森についても魔物についても知識が足りない。不得手なことばかりで、きっと頼り切りになってしまうが、よろしく頼む。我々の共通の目的のために、手を取り合おう」 今度こそ握手を求めて手を差し出す。 ゲズゥがその手を凝視して、握手を返してくれるまでの間に、たっぷりと五秒はあった。 「ああ。少なくとも途中までは、道連れだ」 真意を問い質すのが怖くなるようなことばかり言う――とは口に出さずに、協力感謝する、とロドワンは応じた。 |
3.焦る男、ロドワン - c
2020 / 07 / 05 ( Sun ) 主人は手紙を読み終わるなり握りつぶした。衝動だったのだろう。疲れたように嘆息し、丸めた紙を軽くロドワンの方に投げてきた。 受け取った黄ばんだ紙の端々を伸ばし、インクが描く文字を指先で辿った。娘を返してほしくばウーデルハインツ家当主が単身で指定の場所へ来るように、と意味する文章があった。時刻の指定はなく「星が最も明るい頃」とだけ書かれている。ロドワンは客人にも伝わるように、手紙の内容を声に出して読み上げた。「旦那様に供もなしに馬を駆れと言うことですか。危険です!」 「仕方あるまいよ、ロドワン。言われた通りにしなければ、人質の身がどうなるか知れないんだ」 「しかし、どんな交換条件を出されるか。無事に済むでしょうか」 「私が行くしかないんだ」 「旦那様……」 拳を握り、唇を引き結んでいる主人は、自棄になっているとしか思えない。娘の安否を想うばかり、判断力が損なわれているのではないか。ロドワンは心配したが、そうとは口に出せなかったし、自分も冷静でないのはわかっていた。 ふと、細やかな金属が擦れ合う音がした。 ロドワンは音のした方を振り向いた。どうやら黒髪の客人がテーブルにあったものを拾い上げた音らしい。それも巾着袋から転がり出たのだとすれば、手紙の下に隠れていたのだろう。 銀細工のペンダントと、その細い鎖部分には黒いリボンが結ばれている。シェニーマの趣味とは思えない味気ない色合いに、すぐにロドワンはそれが誰の持ち物であるかを察した。客人はスッと目を細めては無言でペンダントを懐に押し込んだ。 「呼び出された場所は町の結界の外か」 低く、夜の静寂に響くような声だった。部屋に漂う動揺が、切り裂かれた気がした。 主人は口髭と顎髭を手で撫でながら答えた。 「ゲズゥさんと言ったね、そうだ。町の外の森で、街道からも遠い。誰かの私邸が建っているという話は聞かないけれど、何せ森が深いから、行ってみなければわからない。ああ、そういえばロドワン、頼まれていたリストを作っておいたよ。あの机に置いてある」 「本当ですか! この短時間に、ありがとうございます」 暖炉の隣の小さな机を目指してロドワンは立ち上がった。先ほど帰宅した際に、主人に容疑者をリストアップするように頼んでいたのだった。それによると当家の敵と思しき相手は四人だった。どれもロドワンの知る名前ばかりだが、森の中に土地を持っていると聞く者はいなかった。 主人はバレッタを握り締め、嘆息した。それから出かける時間までひとりで支度したいと言って、客人に挨拶をして、その場を後にした。 「お茶のおかわりをどうぞ」 入れ替わりに入ってきた女性使用人が熱々のティーポットからそれぞれのカップに新たに茶を注いでくれた。最後に、主人の飲みかけのものを下げると同時に部屋を辞した。 ゲズゥとふたり部屋に残されたロドワンは、己のカップから立ち上がる湯気をしばらく見つめていた。 呼ばれたのはウーデルハインツ家当主のみ――お嬢様を迎えに行く大役は、自分が務めるものではない。 (何を当たり前のことを。私は旦那様が迎え入れた、ただの孤児ではないか) 割り振られた役割だけをこなしていればいい。それすらもできなかったのだから、せめてシェニーマを助け出したいと願うのは、おこがましいだろうか。案じることくらいは許されるのではないか。 放っておけばどんどん暗い方へ思考が向かいそうだった。まだ熱すぎる茶を無理に一口飲みこんでから、両手を膝の上で組み合わせた。 「さっきはなんだって結界のことを聞いたんだ?」 気を紛らわせようと思って客人に話しかける。ゲズゥは黒革の手袋をつけている最中だった。 「魔物」 「つまり、魔物を警戒すべきか知りたかったと? だが数年前に大聖女が聖獣を召喚して以来、一晩中外を出歩いていても遭遇することは稀なのではないか。結界の内外はあまり問題ではないはず」 彼は応答しなかった。席を立ち、持ち込んできた大きな荷物から巻き布を解いていた。露になった湾曲した大剣に、ロドワンは目を瞠った。平均的な成人男性の身長ほどの尺がある。なぜそんなものを、と訊けるより早く、ゲズゥが振り返った。 「例の場所、わかるか」 「貴殿は助けに行くつもりなのか……? 旦那様でなければ交渉がこじれるのでは」 「みつからなければいいだけの話だ」 「そうかもしれないが……」 「来るのか、来ないのか」 決断を迫られて、ロドワンの脳裏に今朝聴いた声がよみがえった。 ゲズゥの剣は、たぶん本編さいごらへんでリーデンが回収してました。 |
3.焦る男、ロドワン - b
2020 / 06 / 25 ( Thu ) (旦那様、私はどうすれば)
呼吸が浅くなり、考えがまとまらなくなる。何か話を繋げなければと、男性を引き留める文言を出そうにも、己の内で言葉をかき集めるのが困難だった。 幸いにも男性は場を一歩も動かないどころか微動だにしていないようだった。冷静なのか、そう見えるだけなのか。こちらをじっと見つめる瞳は依然として何かを探っている。 「連れ去られる動機に心当たりがあるか」 男性は淡々とした声で問うた。改めて顔を見合わせると、髭を生やしていないのが目に入った。最初の印象よりも更に若いのではないかと思う。歳のほどは二十代半ばだろうか。 「動機か。ないと言い切れないのが苦しいところだ。私が捜しているお嬢様は町長の娘だ、そういった線から狙われたかもしれない。そちらはどうか?」 訊き返してみたが、男性はすぐには答えず、腰に提げた短剣を指先で弄っていた。考え込んでいるようでいて、言葉を選んでいるようにも見えた。 「動機がないとは言い切れないが――可能性が低い」 「では貴殿らは巻き込まれたのだと考えるのが妥当か。申し訳ない」 ロドワンは頭を下げた。憤られても仕方ない想いで顔を上げると、信じられないことに、男性は肩を竦めただけだった。 「対策」 「あ、ああ。旦那様と敵対している者を順次当たっていけば、犯人が特定できるかもしれないな」 「要求があれば向こうから接触してくるだろう。闇雲に動くより、お前の言う『旦那』の元で待っていた方が確実だ」 言われてみればそうだった。普通に考えたら連絡を待つのが一番手っ取り早いはずなのに、気が急いて思いつかなかった。 「ただ待っているだけだなんて、そんなことでいいのだろうか……」 「待つだけとは言っていない」 しゃりん。 いやに澄んだ音がしたかと思えば、男性は瞬く間に短剣を抜き、手元でそれを二度回転させてから、またしゅるりと小気味のいい音を立てて鞘に収めた。 無言の圧に何か感じるものがあった。――連れていけと、きっとそう言いたいのだろう。 彼の大切な人もいなくなったというのなら、放ってはおけない。 「私はロドワン・イェルランス。よければ名を教えてくれないか。貴殿も無関係でないから、ぜひ旦那様の屋敷までついてきてほしい」 慣例的に握手を求めようとして、ロドワンはすんでのところで思いとどまった。なんとなく拒否されるような気がしたのだ。 黒い髪と瞳の男性はその場に片膝をついて、買い物籠の形を少し押し潰しながら、その中身ごと背嚢に詰め込んだ。そうした作業から顔を上げることもなく――「ゲズゥ」とだけ答えたのだった。 * 進展があったのは夕方になってからだった。ロドワンはずっと屋敷の自室にこもり、何をして過ごしたのかもよく思い出せない。 護衛としての役割を果たせなかった自分を、屋敷の人間は過剰に責めることをしなかった。 (旦那様はご自身の言葉がシェニーマお嬢様を追い詰めたのだと考えておられる。私を怒りはしても、罰したりしない) だからと言ってそれを喜んだりしない。誰から責められなくても、自責の念は大きくなるばかりだ。 その一方、ゲズゥと名乗った男性は、屋敷の場所を覚えた後にいったん宿に荷物を下ろしに行っていた。彼が更に大きな荷物を背負って戻ってきたと聞き、ロドワンは部屋を辞して迎えに行った。 居間で客人を主人に紹介し終わった頃のことだ。慌ただしい足音が廊下から響き、必死な形相の使用人の女性が現れた。 「失礼します、旦那様! 玄関にこれが投げかけられたとのことで――」 「見せなさい」 主人は使用人から巾着袋を受け取り、中身をテーブルの上にぶちまけた。その中から転がり出た金細工のヘアバレッタに真っ先に視線が行き、ロドワンは息を呑んだ。 主人もまた同じものを目にして顔面蒼白になっている。そっと手を伸ばし、バレッタを手に取って撫でた。 「シェニーマや……お前の十六の誕生日に買ってやったこれを……無理に外されたのか? 髪は千切れなかったか?」 今にも泣きそうに呟いている姿が、痛ましい。見ていられない。 目を逸らしたついでにロドワンはテーブルの上を睨んで、三つ折りにされた紙を見つけた。これも巾着袋から出てきたのだと、主人に手渡した。 「旦那様。なんと書いてありますか」 |
3.焦る男、ロドワン - a
2020 / 06 / 14 ( Sun ) 歩き続けること数時間。まずは対象が行きそうな場所を順に回り、次に知り合いをひとりずつ当たって聞き込んでみたが、午後になっても未だに手がかりのひとつも得られなかった。 胃の底から沸き起こる不安が全身を駆け巡る。決して暑くはないのに、革鎧の下で背中が汗ばんでいた。不快感を拭うこともできずに、男はまた街中に見知った顔を見つけては同じ質問を繰り返した。自分はよほどひどい顔をしているのだろうな――応対した壮年の女性が眉根を寄せるのを見て、そう思った。 「ああ、見たよ」 今回もどうせダメだろうと思って心ここにあらずに聞いていた。だから女性の返答が短く核心をつくものになるとは予想できず、既に答え終わったのだと気付くのに遅れた。 「いま、なんて」 「あんたがさがしてるお嬢さんがそこに座っているのを見たって、そう言ったよ」 「本当だな!?」 「あのねぇ、ロド坊。そんなことで嘘ついてどうするってんだい。そうだよ、シェニーマお嬢さんはそこに座ってお友達と仲良くおしゃべりしてたんだ。しばらく前だったね、一時間、いや二時間前かな」 雑貨屋の女店長は、その時の様子をざっと話した。店といってもカウンターから客の注文を聞いてやり取りするような簡単な設計で、店内に人を招き入れたりしない。 いわく、シェニーマと彼女によく似た髪色の歳の近そうな女性が、歩道脇のベンチに座って談笑していたという。 「友達……いったい誰だ……? 橋のこちら側にお嬢様のご友人なんていただろうか」 歳の近い同性の友人と言えば、思い当たる者はどれも屋敷の近くに住んでいるはずだった。 「まあここからの角度じゃ、ちょこっと目の端にとらえてた程度だからね。お客に物を売ってた間に、ふたりともいなくなってたんだ。それ以上は知らんよ」 「ありがとう、大収穫だ。恩に着る」 男は深く頭を下げ、女性が指さしたベンチを調べようと踵を返した。すぐに背後から「ロド坊や」と呼び止められた。 「店長さん、その呼び方はよしてくれ。ちゃんと、ロドワンと呼んでくれないか」 彼の抗議には構わずに店長はカウンターに身を乗り出した。 「あんたとは長い付き合いだけどね。あの家とはもっと長い。この町のみんなだってそうだ、お嬢さんに危害を加えたいなんて思うはずがないよ。手を出すとしたらよその人間さね」 「どうして事件が起こった前提なんだ。ふたりで仲良くどこかに遊びに行っているかもしれないじゃないか」 ロドワンは笑って返したが、声に力が入っていないのは自分でもわかっていた。 「かもね。だと、いいのだけどね」 「そうに決まっている」 嫌な予感を振り払わんと足を速めた。だが石造りのベンチに歩み寄ると、先客がいた。 人影はしゃがみ込み、道端に落ちている根菜のようなものを拾い上げては編み籠の中に入れていた。黒い髪と褐色肌をした若い男性だ。濃い紺色の外套に大きな背嚢を背負っている。全体の印象からして、明るい色の可愛らしい編み籠だけが、男性の所有物に思えなかった。 男性は首を振り返らずに、視線だけでこちらを向いた。何かを探るような視線だった。そうしてゆっくりと立ち上がる。かなり背が高い。 ロドワンは身構えた。 「なんだ貴様」 出会い頭に喧嘩腰になる必要はないだろうに、男性の風貌には、思わず剣の柄を握りたくなるような異様な雰囲気があった。自分よりも高い身長か、表情の無さだろうか、それとも黒い右目の圧力だろうか。左目の方は長い前髪に隠れていて見えない。 男性はこちらの警戒や誰何をまるきり無視して、口を開いた。 「お前も女を捜しているのか」 雑貨屋の店長との会話を聞いていたらしい。一瞬、警戒がほぐれてしまった。 「も? ということは」 「これは、うちの物だ」――男性は編み籠を揺らした――「買い出しに行っていた。今晩の食事に使うつもりだったんだろう」 「そうか。察するにお嬢様と話していたご友人と言うのは、貴殿の奥方だったのだな。ふたりしていなくなった……ああいや、気を揉むのは早い、仲良くどこかに出かけたという可能性も」 下手に相手の不安を煽りたくないというよりも、単にロドワンは自分にそう言い聞かせたかっただけだったかもしれない。男性は首を横に振った。 「落ち合う予定だった時間を、大分過ぎている」 「それは……」 夕食に使う食材を放り出してどこかに行ったというのが、そもそも不自然な話であろう。 嫌な予感が強くなった。眩暈がするほどに。 |
2.逃げたい娘、シェニーマ - c
2020 / 06 / 07 ( Sun ) 「まあいい。餌として機能するなら、どっちが本物でも大差ない」
男はぬっと、燭台を持っていない方の手を出した。指は長いが傷痕の多い、不格好な手だった。 「身元を示すものを出せ。ウーデルハインツ家が一目見てお前のものだとわかるものがいい。渋るなら、身ぐるみを剥がす」 流れるように脅し文句を口にした男は、表情筋を動かさなかった。いっそ事務的と呼べるやり取り、そこに一切の私情も容赦も感じられない。言うとおりにした方が得策に思えた。 「どうぞ」 ミスリアの方を見やると、彼女は既に懐から装身具を取り出し、男に明け渡していた。男は鎖部分を親指に引っ掛け、手を挙げて十字に似たペンダントを無感動に眺めた。 縦長の棒を、中心よりやや上のところに交差する横棒は直線ではなく、左右がそれぞれ端に向かって渦のような形を描いている。この大陸に住まう大抵の人間は見覚えがある象徴だ。鎖の半ばのところに黒いリボンが結んであった。 「信徒か」 「教会でいただいてから、肌身離さず付けていたものです。私が貴方がたのもとにいること、確かに伝わるでしょう」 男はミスリアの答えに満足したのか、ペンダントを黒衣のポケットに突っ込んだ。 「お前は、どうだ」 次いで矛先を向けられ、シェニーマは急いで考えた。真に貴重なものを渡すのは憚れる。 髪を後ろで留めていたバレッタを外し、男の手の平に落とした。成人した時に父が職人に特注した珍しい金細工のものだ。値は張るものの、身分証明のために着けているアンクレットの価値とは比べるべくもない。 「これなら間違いないわ」 受け取り、男はバレッタに施された花の形に指を這わせた。まるで芸術品を愛でるような目をしているのが、かえって不気味だった。 「よし。ウーデルハインツ家当主を呼び出し、雇い主と対面させる」 男が不自然なほどはっきりと告げた。 (わざわざ予定を教えてくれるの? 親切心……なわけないか) 男の背後に、部下と思しき人影が現れた。予定を教えていた相手は、彼らの方だった。 「お前らはここで大人しく時間を待て」有無を言わせぬ圧力だった。「水くらいは与えてもいいが、それだけだ。小便はその場でしろ。わかっていると思うが、お前らが逃げられる隙などどこにも無い。変な真似をしたら、迷わず足首をへし折る」 男はそう言い捨てて、何故か燭台ごとろうそくを置いて行った。 (だからいちいち脅さなくたって! 迷わずって何よ、誰もあんたが人様の骨を折るのに迷うなんて思わないわよ!) 腹いせに、去り行く背中に舌を出す。 ふう、と横のミスリアが小さく息を漏らした。張りつめた緊張が緩んだのだろう。 「大丈夫?」 「ええ。シェニーマさんこそ、気を落としていませんか」 「へーき。あんな嫌味くさいヤツ、怖くない――怖くなんてないんだから」 強がりだ、声が震えたのは自分でもわかっていた。ゆらめくろうそくの火を見つめ、心を落ち着かせようとゆっくり呼吸した。 そうしていつの間にやら舟をこいだらしい。ろうそくはいくらか短くなっていた。 膝を抱えた姿勢で眠ったのがこたえて、肩や首が凝ってしまい、お尻も硬い地面のせいで痛くなっていた。心の中で悪態をついた。立ち上がり、伸びをして、傍にいるはずのもう一人の栗色の髪の女性の姿を探す。 ミスリアは両手を組み合わせて頭を垂れ、瞳を閉じて祈祷の姿勢をとっていた。裾の長いスカートが汚れるのも顧みず地面に膝をついている姿が、どこかさまになっている。 彼女はこちらの視線に気付くと、顔を上げて微笑んだ。 「祈ってたの?」 「貴女をさがしているひとと、私をさがしているひとが、出会えますようにと」 妙な答えだった。出会ってどうなるのかと訊き返そうかとも思ったが、その前に謝罪した。 「どうして謝るのですか」 「だって、あのペンダントは大事なものだったんでしょ? あたしの事情に巻き込まれたせいで、もう手元に戻ってこないかも」 するとミスリアはきょとんとした。 「大切といえば大切ではありますけれど……何しろ量産品ですし」 「へ?」 これまた妙な答えだった。 ミスリアは握り合わせていた手を開いて見せた。なんと、十字に似た形の銀のペンダントが握られていたのだった。先ほど例の男に差し出したものより一回りも二回りも大きく、左右の棒の渦巻く部分には紫色の石がはめられている。 シェニーマにも知識はあった。 水晶の嵌められたアミュレットは数が少なく、ヴィールヴ=ハイス教団の関係者のみが持っている代物だ。教団の象徴を模しただけのペンダントと違い、神秘的な力を行使するための道具であるはずだ。 「ミスリア、あなたいったい……?」 質問に込めた感情は畏怖であったように思うし、期待か希望のようなものでもあったかもしれない。 それを受けた小柄な女性はポスンと音を立てて腰を下ろし、膝の上に両手を休ませて、にっこり笑った。 「私はただの主婦ですよ」 次話、「3.焦る男、ロドワン」 |
2.逃げたい娘、シェニーマ - b
2020 / 05 / 31 ( Sun ) 「長く一緒にいるのですね」
「なのかな」 「他には?」 「背が高くて姿勢が良いの。顔はまあ、人目を惹くタイプじゃないけど、真剣な横顔がかっこいいというか……。普段おしゃべりとかしない方だけど、パパの言うことは絶対遵守、あたしにはお小言が多い感じ」話しながら、その姿を脳裏に思い浮かべていた。「朝ね、パパに結婚のことをまた言われて、ついちょっと声を荒げちゃったの」 いつまで先方への返事を先延ばしにすればいいんだ、うやむやにするのも大概にしろ、みたいなことを言われて頭に血が上ったのをおぼえている。言い合いになり、シェニーマは廊下に飛び出たのだった。護衛は父の書斎のすぐ外で待機していた。 すれ違いざまに腕を掴まれた時の感触を思い返し、無意識にそこをさすった。 「あいつ、『わがままを言うのはやめなさい』って。喧嘩の理由も知らないくせに、真っ先にパパの肩を持つんだ。ひっどいのよ」 せっかくミスリアが楽しい話で気を紛らわせようとしてくれたのに、いつの間にか愚痴ばかりになってしまった。 「――ですね」 「いま何て?」 前半が吐息混じりだったからか、返事がうまく聞き取れなかった。 「喧嘩別れのままでは、つらいですね。お父君とも、想い人とも」 「そんなこと」 ない、と言い切れなかった。 今生の別れになるのだろうか、あれが。何年も悶々と傍に居た者と、こんなにもあっさりと会えなくなるなど、ありえるのか。 それに父は――母を亡くして長いのに、未だに後妻を娶るつもりはないと言い張る父は、独りになってしまうではないか。想像しただけで胸がぎゅっと締め付けられた気がした。 (逃げなきゃ。こんなんじゃダメだ) 握り合わせた指先が震えている。ただでさえ暗い視界が、涙で歪んだ。 「助けに来てくれた時の様子を妄想してみたら、楽しいのではありませんか」 鬱々とした思考に、やけに明るい声が切り込んできた。こんな時にどこまでものんきな! 「もう十分でしょ! ふざけないでよ」 半ば反射のように怒鳴った。他人に当たるのは間違っているとわかっていても、止められなかった。 「ふざけていません。必要な――いえ、私のためだと思って、もうしばしお付き合いください」 暗がりの中で、再び手を握られる。当たり前のように、温かい。 「……うまいね」 そう呟いても、ミスリアは首を傾げるだけだった。とぼけているようには見えないが、この気の遣い方は計算なのか無意識なのか、やはり判別つかない。 シェニーマはため息を漏らした。もうしばらく付き合うくらいいいだろう。 「助けに来てくれるかなぁ。けっこうひどいこと言ったんだ、朝」 「貴女を護るのが彼の役目であれば、どのような感情が間にあっても、来てくれますよ」 「役目、ね。あいつがあたしのためにしてくれることが全部、役目だからなんだって思うと、相当むなしいものがあるわ」 「むなしいと思うのでしたら、再会できた時に訊ねてみましょう。お役目がなくても大切に想ってくれますか、と」 「簡単に言ってくれるね!」何故だか、笑ってしまった。「でも、融通が利かない感じでね。へたすると正門叩いちゃうんじゃないかな。護衛なんだし、腕は立つ方だと思うんだけど、荒事に慣れてるかっていうと、あやしいわ」 「なるほど」 「ねえ。ミスリアこそ、助けに来てほしい人がいるんじゃない?」 訊き返すと、彼女は虚を突かれたように、一拍の間黙り込んだ。やがて苦笑交じりに答える。 「来てほしいと言えばそうですね。いえ、おそらく私が何かをしてもしなくても来るでしょう」 「うわー! ねえどんなひと!? 根掘り葉掘り聞きたいわ」 「まず、正門を叩くようなひとではないですね」 そう言った声音が驚くほどに優しくて、これは冗談でなく惚れこんでいるな――と、シェニーマが置かれた状況を忘れてはしゃぎそうになったところで、物音がした。 恐ろしく近い。いつの間に接近していたのだと気付くと、体が凍り付いた。 おい、と男の鋭いひと声が闇を切った。路地に現れたあの男のものだとすぐにわかった。 「もう一度確認する。シェニーマ・ウーデルハインツは、どっちだ」 「あたしよ」 「私です」 今度は後れを取らなかった。隣のミスリアとほぼ同時に応答する。 静寂があった。 そして、男の手元に火が灯る。 |
2.逃げたい娘、シェニーマ - a
2020 / 04 / 29 ( Wed ) (やばいやばいやばい!)
意識が戻るなり、シェニーマは跳ね起きた。 腹を殴られたという最後の記憶通り、下腹部に鈍い痛みが残っていた。だがそんなことより、状況確認だ。 暗い。やや離れた場所に人の気配があるが、近くにも誰かいる。 「――……!」 口を開けようとして、塞がれた。 「お静かに。騒がない方が体力を温存できるかと」 耳元で若い女性の声がした。華奢な体のどこにそんな力があるのか、シェニーマを黙らせる小さな手はびくともしない。 無言で頷くと、女性が手を放してくれた。暗くて顔こそ確認できないが、出会ったばかりの人の好い彼女で間違いない。 「ごめん、ごめんね……! あたしのせいでこんなことに」 手を取り、小声で必死に謝った。ミスリアの手は妙に温かく、握っていると逆に安心できた。応じた声もまた、妙に落ち着いていた。 「そんなに落ち込まないでください。私は大丈夫ですよ」 「何言ってるの。大丈夫なわけないじゃない!」 シェニーマは家の関係で、人攫いに遭ったことが人生で初めてではなかった。しかしミスリアはどうか。平穏な場所で日々を真面目に生きてそうな彼女に、理不尽な暴力や唐突な恐怖を味わわせてしまったのが、あまりに申し訳ない。 (あたしに親切にしたばっかりに……あたしが、お腹なんか空かせていたばかりに!) 涙がにじみ出るほど悔しかった。こうなることくらい、予想するべきだったのに。 かばってくれたのは予想外だったが。 誠意と謝意の表れとして、シェニーマは己の身の上についてすべて明かした。自分が町長の娘であること。父が今の役職に就くより以前から商いで大成していて、そのせいで何かと敵を作っていること。 近日父は大きな商談を予定していたから、きっとこれも商売敵の大掛かりな妨害工作のうちだろう。 「よくご存じなんですね」 ミスリアは本気で感心しているようだった。 「最初から話してればよかったね」 屋敷内ではシェニーマに味方する者が多く、父の動向は日ごろから子細に耳に入れているものだが、その点には触れないでおいた。 「聞いてたところで、拉致されるのを防げたとは思えませんし。お気遣いなく。この類の体験でしたら、お恥ずかしながら初めてではありません」 「強がらなくていいのよ」 こちらが気を落とさないように気丈に振舞っているのかと思うと、ますますつらかった。暗がりの中で、ミスリアは小さく笑ったようだった。 「馬車が走っていた時間の長さと着いた時の雑音の少なさからして、市街地を離れたような気がします。それ以上は、移動の際に頭に毛布をかぶせられたのでわかりません」 「どこかの蔵か倉庫? 寒いし、カビっぽい匂いがするから、地下かな」言い終わらないうちに、シェニーマは悪寒に震えた。人里離れていて、なお大声で叫んでも誰にも届かないような場所に軟禁されている――。より一層、声を潜めて呟いた。「逃げる算段を……」 「見張りの方が複数いるようです。難しいでしょう」 「おとなしく助けを待ったって、みつけてもらえないかもしれない!」 唇を噛みしめる。わかっていた。何もしなければ恐ろしい目に遭うかもしれないとわかっていても、何かをしては、もっと危険な目に遭いかねない。 「シェニーマさんを交渉の道具にするつもりでしたら、すぐに命の危険は無いのでは?」 「だとしても生きていればいいだけならいくらでも危害は加えられるよ」 「それも、そうですね」 沈黙が続いた。 静かにしていると、多少離れた場所にある人の気配に意識が向いてしまう。見張りなのだろう、数分経っても動く様子はない。 いやな緊張感だ。己を抱くように腕を組むと、肩から震え始めた。 「無力な自分を嘆くのも仕方ありません。でもいますぐできることはなくても、できることがある瞬間を見極めて、その時に行動できれば、十分だと思いますよ」 「――――」 急に何の話、とは答えられなかった。彼女は読心術でも心得ているのだろうか、的確にシェニーマの心情を言い当てていた。呟く声は不思議と大人びていて、心の奥底に沈み込むようだ。歳は近いはずなのに。 ところが、次には明るい声になっていた。 「少し、楽しい話をしませんか。そうですね、シェニーマさんの想い人は、どんな方なのでしょうか」 「え」 「ぜひ聞かせてください」 「えっと、どんなって……えー……? そうね、一応は使用人なのかな。うちの屋敷の、あたしの護衛であってお目付け役みたいなものなの。もう十年以上前から知ってる」 |
1.相談にのる娘、ミスリア - c
2020 / 04 / 18 ( Sat ) 「らしい、ということは、まだどなたともお会いしてないんですね」
シェニーマはゆっくりと首肯した。 「パパがすすめる結婚相手に嫁げば家のためになるけど、あたしはこの町を出て遠くに行くことになる。そんなの嫌」 「難しいですね」 「……まあ、ね」 外套のボタンを指先でいじりながら、彼女は言葉を滞らせる。 ミスリアは歩道脇にあったベンチに腰をかけ、シェニーマにも隣に座るよう促す。共に腰を落ち着けると、話が継がれた。 「パパは、他に結婚したい相手がいるなら縁談は考え直すって言ってくれたの。婿を跡継ぎに迎えればいいんだし」――いったん言葉を切り、俯く――「でもあたし、好きなひとがいるって言いだせなかった」 「想い合っている方がいると、お父様に相談するのが何よりの第一歩でしょうね」 恋愛結婚が少数派である世の中、家の立場を思えばなかなか言い出せないのも仕方ないだろう。けれど彼女は異を唱えられる段階にありそうだ。だとすると、無理に我慢をすることもない。 シェニーマは急にしどろもどろになった。 「そ、それがね」 「?」 「想い合っているわけじゃないかも、ていうか、向こうは何も知らないどころか、受け入れてくれそうかっていうとむしろダメかも」 遠回しな言葉が続いた。ミスリアは数分ほど静聴していたが、折を見て「要するに」と切り込んだ。 「相思相愛の相手ではない、と?」 「うわー! そうよー! あいつなんも知らないどころか、絶対、全然、みじんもあたしの気持ちに気づいていないわよー!」 「きゃっ!?」 シェニーマが奇声を上げたので、隣にいたミスリアは驚いて足元の買い物籠を蹴ってしまった。籠が倒れされた拍子に、芋が三個、それぞれ違う方向に転がってゆく。立ち上がり、一個ずつ拾ったが、三個目は路地の影の方に消えてしまった。ひとまず拾った二個を籠に戻した。 「ごめんね。こういう話、興味ある?」 「ありますよ。ただ私はあまり……うまく相談に乗ってあげられるほどの人生経験がなくて、申し訳ないです」 「そんな感じするー。あれ、でもミスリアがしてる指輪って、」 不自然に質問が途切れる。シェニーマは黄緑色の双眸を大きく見開き、表情をかたまらせていた。その視線の先を辿り、ミスリアは首を巡らせた。 黒衣の男が佇んでいた。 路地に並ぶ建物の影がかかっていて、顔や身なりはよく見えない。片手に、先ほど転げて逃げたばかりの芋を握っている。 「みつけたぞ」一瞬、彼女の迎えが来たのかと思ったが、次の問いかけがその可能性を完全に打ち消した。「お前が、シェニーマ・ウーデルハインツか。いや、後ろのもうひとりか?」 この男は危険だ。直感がそう訴えかけてくる―― 「私です」 「なっ、待って!?」 男の視線を遮るように、ミスリアは一歩踏み出て答えた。背後で本物のシェニーマが口を出そうとするのを、片手で制する。 「この際どちらでも構わない。おい、まとめて確保しろ」 路地の奥からさらにふたつの人影が出てきた。声を出す間もなく捕らえられ、担がれ、そしてどこかに投げ込まれた。 骨を打ったのか、肩からじわじわと痛みが広がっている。 (干し草の匂い……?) 眩暈がおさまるのを待っている間に、馬のいななきと、振動がした。どうやら荷馬車に放り込まれて、その馬車が動き出したらしい。 辺りを手探り、すぐ近くでシェニーマが横になっているのを知る。囁きかけても返事がない。咄嗟に彼女の顔に耳をよせ、ちゃんと息をしていることを確認した。 座り直して、胸をなでおろす。 他にも人の気配がする。こちらをじっと観察――否、監視か――しているのを感じられる。 (白昼堂々と、人攫い) 町の治安が良いという評価を改めねばなるまい。 (困ったわ) こうなっては、遅れるどころでは済まない。また、呆れられるだろうか。 暗闇の中、ミスリアはそんなことを考えていた。 次回、2.逃げたい娘、シェニーマ |
1.相談にのる娘、ミスリア - b
2020 / 04 / 11 ( Sat ) 「シェニーマさんは、どこかへ向かう予定がないのでしたら、一緒に歩きませんか。話し相手が欲しかったんです」
「予定なんてないけど」 「出会い頭に馴れ馴れしいと思うのでしたら、もちろん断ってかまいませ――」 「ううん。いく」 「え、あ、はい。ではついてきてください」 自分で誘っておきながら、もう少し警戒心を持った方がいいのではとミスリアが心配するほど、あっさりと彼女は首を縦に振った。 改めて相手の顔を見上げる。歳は近いだろうけれど、身長はシェニーマの方が頭半分ほど高い。卵型の輪郭に白く透き通った肌が魅力的で、陽射しにきらめく黄緑色の瞳はペリドット《橄欖石》に似ていて、色こそ珍しくないが、見る者を吸い込むように美しい。 ふたり並んで歩きながら、他愛のない話をする。来月催される祭事や、流行りのかわいい髪留め、或いは最近みつけたおすすめのカフェについて談笑した。ほぼミスリアから振った話ばかりだったが、シェニーマはどれにも食いつきがよく、無邪気な笑顔を絶やさなかった。いろいろなものに興味があるらしい。 あっという間に橋を渡り切ってしまい、そこでミスリアは外套のポケットから小さなリンゴを二個取り出した。 「話し相手になってくださりありがとうございました。お礼にどうぞ」 差し出されたみずみずしい果実を、シェニーマはまず無言で見下ろした。数秒後にはひとつ取って、手の平にころんとのせた。 「意外としっかりしてるんだ」 「それはどういう意味で?」 「ただ食べ物を恵んでくれるんじゃなくて、お礼って形にしたでしょ。そうすればあたしは『借り』ができずに済む」 首を傾げて、ミスリアはしばらく言われたことを反芻した。 「私は本当に話し相手が欲しかっただけですよ」 「自分のおやつを他人に分けてまで?」 「はい」 「無意識なら、もっとすごいと思う」 シェニーマは残る二個目のリンゴをも手に取り、ジャグリングをし始めた。 手先が器用というのか、運動神経がいいのか。宙を舞う赤い軌跡に思わず見惚れてしまう。 「ミスリアは、これから織物を買うんだよね。その荷物持つよ。食べ物はもういらないから、あたしの悩みを聞いてくれる?」 唐突にジャグリングの手を止めて、彼女はリンゴにかぶりついた。シャク、と小気味のいい音がする。 頼みごとをした声音は明るいままだが、視線が泳いでいて目を合わせてくれない。その悩みは、家に帰りたくない理由と繋がっているのだろう。 「ええ。喜んで」 ミスリアが微笑を返したのと同じタイミングでシェニーマが盛大にくしゃみをした。家を飛び出たスタイルだからか、彼女が着ているワンピースは長袖であっても薄そうな生地を使っている。もののついでに外套を買ってあげることにした。 さすがに受け取れないと意地を張る彼女をなだめ、一番安価のものをプレゼントした。 「なんか……ありがとう。後で、ちゃんとお金返すよ」 「私は別に構いませんよ」 「あたしが貸し借りナシにしたいの! まだ悩みも聞いてもらってないのに!」 「そうでしたね。いつでもどうぞ」 店を出ると、遠くで時計塔が短い音の羅列を奏でた。既に待ち合わせの時間だが、この奇妙な成り行きが楽しくて、名残惜しい。遅れてしまうことを心の中で詫びた。 「将来のことをね、決めなきゃなんないの」 「はい」 背筋を正し、相談を聞く姿勢に入った。彼女の歳を考えれば、遅い悩みにすら感じられる―― 「パパがね、結婚相手を選べって。何人か候補がいるらしいの」 「は、はい」 少しミスリアの予想していた話の運びと逸れて、困惑した。 |
1.相談にのる娘、ミスリア - a
2020 / 04 / 06 ( Mon ) 声がした方向に視線をやると、橋を縁取る手すりの下に丸まった人影があった。 そこまでの距離、四フィートほどか。遮るものがないとはいえ、独り言などの呟きがハッキリと聴こえるにはやや離れている。空耳かと疑い、辺りを見回したが、ちょうど周辺にはほかに誰もいなかった。なんとなく空を見上げる。そこにも遮るものはなく、青空と薄い雲が広がっているだけだった。スズメが一羽、忙しなく横切った。 「だー! おなかすいたぁ!」 「きゃっ」 今度は鋭い叫び声がした。驚き、肩をすくめる。 手すりの下の人影が、手足をばたつかせて唸っている。明らかに飢えている様子ではなかった。まだ十分に暴れる元気が残っている段階の空腹と見受けるが、それでも無視するのはしのびないと思い、歩み寄ることにした。 「大丈夫ですか」 その一言を、相手に気付いてもらえるまでに何度か繰り返す。やがて顔を上げたのは、二十歳前後の若い女性だった。 「……あなたは?」 「ただの通りすがりの者です。ミスリアと申します」 名乗ると、女性はハッとし、座り込んだままに背筋を伸ばして頭を下げた。後頭部でひとつに結った髪が揺れる。緩く波を打つ栗色が自分とお揃いだとミスリアは静かに気に留めた。 「ご丁寧にどうも。あたしは、シェニーマっていうの。お見苦しいところを」 「初めまして。いえ、シェニーマさんは、お腹が空いているのですか?」 「そうなのよ!」 がばりと立ち上がった彼女は、足首までの丈の綺麗な桃色のワンピースを着ていた。歳のほどに合った平均的な身長と肉付きだが、要所を飾るアクセサリと刺繍によって華やかな印象を受ける。束ねた髪を飾る花柄のバレッタにも、高そうな繊細な金細工が施してある。 「朝、家を出てから、何も食べてないの」 シェニーマは一句ずつ、重々しく吐き出した。 やはり飢えているわけではないようだった。 「どうしてでしょうか」 ミスリアは周辺に視線を走らせ、言外にどこかで食事していけばいいのではと問うた。 人道橋の下を流れる河は深く広く、運搬に適していた。岸に並ぶ建物の多くは飲食店を営んでおり、河を伝って材料を仕入れている。特にこの時間帯はどこも美味しそうな匂いを発している。 ないから、と彼女はボソリと答えた。 「はい?」 「……お金が、ないから」 「――はい?」 意外な返答に、ミスリアは思わず目をぱちくりさせた。流暢で上品そうな共通語、裾についた新しそうな汚れを除けばなかなかに整った身なり、これでどうして手持ちが無いと言うのだろうか。 「お財布を落としたのですか」 「ちがうの、勢いで家を飛び出したから何も持ってなくて……そもそも、出かける時はいつも別の誰かがお金を管理してたし……あたしはあんまり持ったこともないし……」 目を伏せての言い訳じみた口ぶり。 (どこかいいところのお嬢さんなのかしら) 重ねて質すのはかわいそうな気がして、ミスリアはとりあえず笑顔で話題を変えた。 |
0.であい、橋の上にて
2020 / 04 / 04 ( Sat ) 人道橋を渡っていたら、右手の丘の上から厳かな旋律が転がり落ちてきた。 正午を報せる音の波は遠目にそびえる時計塔が奏でているものだ。となると待ち合わせの時間まであと三十分か、と彼女はひとりごちる。腕に抱いた手作りの買い物かごを見下ろした。今夜分の食材と、珍しい品だというので買ってみた少量の調味料と、羽ペンに使うインクの替え。あと足りないものといえば、これから冬に向かって冷えてくることを予想して、ひざ掛けか肩掛けが欲しいところだ。 橋の向こうに、織物を取り扱っている店があったと思う。なければ毛糸から自作するという手もある。 鼻唄交じりにのんびり歩き続けた。 この町に来てまだひと月経ったばかりだが、しばらく定住してみようと検討するほどに気に入っている。秋の気候は過ごしやすく、朝晩がやや寒くて午後は通り雨がたまにある程度で、困ることはない。商人と物資の出入りは多いながらも治安は悪くないし、すれ違う人々の雰囲気が明るい。聞けば町長は民の声によく耳を傾けるような御仁で、広く支持されているらしい。 今のところ非の打ち所がない。物乞いや孤児の影すらあまり見たことがないくらいで―― 「……おなかすいた」 「え」 タイミングがいいのか悪いのか、ふいにそばから、覇気のない声がした。 0~5の六話編成を予定しています。しばらくお付き合いいただけると嬉しいです。 次話:相談にのる娘、ミスリア |