α.7.
2020 / 03 / 07 ( Sat ) ←前の話
「あの、それは何をしているの?」 ようやく街道を見つけて町もすぐそこというところで、三人は休憩をとることにした。最も体力のないアイヴォリが岩の上で息を整えている横で、アイリスとカジオンは暇だからと妙な遊びを始めたのだった。 それぞれ片手で握り拳を振り合って、揃って掛け声を出しては、手の形を変えている。一斉に開示した手の形次第で勝ち負けが決まるらしい。 「じゃんけんだろ」 「なぁに、あんたの故郷じゃやらないの」 「私はやったことないけれど」 「えぇ、じゃあ誰かとモノを取り合う時の平和解決には、どうしてるのよ」 「しらない……」 アイヴォリの答えが「やらない」ではなく「知らない」になってしまうのは、幼少期の過ごし方に起因する。第一王女という立場にはある程度の甘やかし、ある程度の贅沢、そしてある程度の不自由を伴った。 「んだよアイヴォリ、まるでトモダチいねーみたいな答え方だな」 「いないわ。きょうだいもいないから、何かを取り合う相手がいないの」 朝夕みっしりと詰め込まれた魔法の修行に習い事、食事、両親や親戚との茶会、それ以外の時間は一人で読書という名の勉強をしていた。十六歳だというのに未だ社交界に顔を出すことも許されておらず、友人と呼べる相手を持ったこともなかった。 あまりその事実を意識せずに生きて来たが、二人は、憐れむような顔で黙り込んだ。どうしたのかと問い質しても返事を濁すばかりで、結局この話題は流れた。 転じて、しばらく後に剣呑な場面に行き会った。 夕立で視界が悪いが、荷馬車が襲われているのが遠目に見える。ぬかるんだ地面に車輪を取られ、ずれた軸を御者と護衛が揃って直そうとしている間に盗賊に囲まれたようだった。 そんな一部始終を目撃したことが信じられない。愕然とするも、アイヴォリは雨音にかき消されないように声を張り上げた。 「助けに入った方がいいんじゃ……!」 「ハァ? 戦闘力ねーくせにバカ言い出すなよ」 カジオンが瞬時に却下した。冷たい目が相変わらず威圧的で、アイヴォリは思わず逃げるように隣のアイリスに縋った。 「あなたたちにはある、よね。なんとかしてあげられるよね」 門もすぐそこのところで荷を盗まれるのはあまりに不憫ではないか。そう思って言い出したのに、アイリスまでもが乗り気でないらしく、腕を組んで唸っていた。 「あのねえ、敵の数が多いからこっちもタダじゃ済まなそうよ。見ず知らずの他人を助けたところでお礼《メリット》があるとも限らないのに、骨折り損じゃない?」 「で、でも二人は私を助けてくれた――」言いかけて、ハッとする。アイリスとカジオンが礼金を期待して自分に手を差し伸べてくれた可能性に思い至ったからだ。だが彼らは顔を見合わせて、思ってもみない答えを返した。 「んなもん、オマエがアイリスと同じ顔してるからだろ。他人って感じしねーから見捨てらんねーんだよ」 「突き詰めればそうね。良心を働かせる相手は選ぶものよ」 「つーワケで、行きたきゃひとりで行くんだな」 「そんな……」 良心とはそういうものだっただろうか。アイヴォリは己の倫理観に自信が持てなくなった。人を助けるべき瞬間に立ち会ったことがそもそも初めてな気がするし、自分ひとりで行動できるかと問われれば――尻込みしてしまうのが正直なところだ。 「まあ、待ちなって、カジ。馬車の主がお礼してくれる可能性もあるわけだし」 途端にアイリスが意見を変えた。 「んだよ、オマエそっちに賭けんのか」 「賭けないわよ。そうねえ、あんたとアイヴォリが『じゃんけん』して、それで行動方針決めちゃわない?」 「テキトーだな……いいぜ。その勝負ノッた」 「え、え」 アイヴォリがまともに異を唱える間もなく、強引にルールを教え込まれた。煽られるままにあたふたと右手を繰り――勝った。というのも掛け声を聞いたら頭が真っ白になり、手のひらを開いて提示しただけである。相手のカジオンは握り拳、これで行動方針は「助けに行く」に決定した。 「気乗りしねーけど、負けは負けだな」 言い終わる前にも彼は後ろ手に自身が背負っている奇妙な形の槍を掴んだ。 刹那、アイリスとカジオンが視線を交わす。カジオンが槍先を逸らして、何かを合図した。対するアイリスは頷いて、両の脚に手をやった。下手すると扇情的なしぐさに見えるが、どうやら太ももに括り付けた短剣を取り出しているらしい。構える動きが素早く、風の切れる音がした。 カチャン、と何かのからくりが作動する音もした。アイリスの短剣がそれぞれ左右に枝分かれして、三叉の形状をとった。 見とれる間にも二人は駆け出している。 突然の乱入者に盗賊も馬車の人員も対応が遅れる。カジオンが跳躍した次の瞬間には三人が倒れていた。青年はひとつの流れるような動きで盗賊をなぎ倒し、また別の方向からアイリスが次々と敵方の剣を弾いている。 「何奴!?」 「ただの通りすがりだ! あんたらに加勢するぜ!」 「させるか! 女からやれ!」 短いやり取りを聞いて状況を察した盗賊団が、まずはアイリスに狙いを定める。しかし少女の動きが身軽で、なかなかとらえられない。 敵の苛立ちや焦燥感をうまく誘導し、すんでのところで身を翻しては、怒りの矛先を逸らしている。逸らされたものの一部をカジオンが槍で受けた。ところどころ動きが速くて視認できないが、彼らが連携した流れに慣れているのはなんとなくわかる。 ――いま、どちらが優勢なのだろうか。 離れた場所で身を隠すアイヴォリは手を握り合わせ、唇を噛んだ。 場慣れしていない者にとっては、どのような規模でも、戦場は総じて混乱にしか見えないものだ。泥が、水が、血が、暗いしぶきとなって飛び交うのを、アイヴォリは肝が冷える想いで見守った。 これは自分が言い出したことなのだ。じわじわと実感が湧き上がる。自分の提案がどんな結果を招いたとして、責任逃れはできない。 今後の安全な旅路に彼らが必要な事実は別として、二人には無事でいてほしい。損得を抜きにした純粋な願いだった。 大丈夫なのだろうか。不敵そうに走り出していたが、彼らの実力がどれほどのものなのか、アイヴォリには測り知れない。 焦りが募る。 ――あとどれくらい経てばこの戦いは終わる? すでに誰かがけがをしていないか? わからない。よく見えない。 無意識に目を凝らしていたのだろう。ふいに動きを止めた盗賊の一人が、こちらを振り返った。 目が合った。 冷たい恐怖が手足を駆け巡る。男性の表情は、一瞬のうちに警戒を強めた――ように見えた。 (こないで) 自己防衛意識と、まだ戦っているであろうアイリスとカジオンへの心配が、胸の奥で絡まり合う。状況を打破できる手助けができたならどんなにいいか。アイヴォリが持つ手段は、魔法のみである。けれど魔法は、使いたくない。使いたくないのに。 盗賊の男が走り出した。一直線に向かってくる。 恐慌で頭が真っ白になった。 そして目の前が、真っ赤になった。 |
遠くよりも目の前に
2020 / 02 / 29 ( Sat ) 観光目的の二段バスが、ブシュッと大きな音を立ててゆっくり動き出す。これでもう何度目のことか知れない。香港の道路はいつでもひどく渋滞しているというのに、なぜわざわざバスなのか、少女には不可解だった。 ライリーは鬱陶しげに嘆息する。再び話し出したハキハキとしたガイドの声が耳障りで、読書に専念できない。「本なんて読んでると酔うぞ?」 隣の席からやんわりとたしなめる声がした。 髪と髭を短く剃った東洋系の中年男性がのぞき込んでくる。ワイシャツの襟が少しよれているが、全体的に清潔そうな印象である。そうだった、この男が誘ったから今ここにいるのだった。 「別に平気」 「いやあ、でも、せっかくのツアーがもったいないじゃないか。この町は面白いぞー。初めてなんだからもっとよく見たらどうだ」 「……」 彼女は面倒くさそうに眼をそらす。観光が嫌だとか、街並みに興味がないというわけではない。問題はこの男だ。 両親が別れたのが十年前、まだ五歳となかったライリーは母親についてずっと英国で過ごしてきた。それが今になって突然、父方の祖母が体調を崩したからと、顔を見せに行くよう母から言いつかってきた。ついでに兼ねてからしつこく連絡してきた父親にも会ってきたらどうだ、とのことだ。まったく大人というものは理不尽である。 祖母は人当たりがよくて落ち着くひとだったが、常に見舞いをしているわけにもいかない。かくしてライリーは、これまで手紙と贈り物を通してでしか知らなかった、ほぼ他人な男と二人きりで出かけることになった。 「おっ、交差点渡ったばっかりのあの青年。両手に提げている袋、あれタピオカドリンクが入ってるんじゃないか? 結構な数だな」 特に興味のある話でもないが、父が「ほら、ほら」とうるさいので、仕方なくライリーは前髪をとめていたヘアピンを一本抜いて栞にした。父が指さすほうを横目に眺めやる。眼鏡をかけた細身の青年がポリ袋を持って早足に通り過ぎていくのが、ちょうど見えた。確かに相当な数のドリンクとストローだ。 「友達と飲むんでしょ」 「どうだろうな、袋にレシートが綴じてあった。デリバリーサービスじゃないか」 「ピザを頼むんじゃあるまいし、タピオカのためにわざわざそんなことするひといる?」 「いやー、時代が時代だからね。僕もむかし、新聞配達のバイトがんばったなぁ」 「何それ。全然ちがう話……」 言いつつも、ふと脳裏に浮かぶ映像を意識した。 アジア人の少年が、せっせと自転車をこぎ、ライリーのよく知る英国の住宅街で新聞を配っていく日常を。毎朝のように彼が住人たちに声をかけられ、犬に追われたり、子供たちと笑顔を交わす光景を。あくまでそれは想像でしかなかったが、とても身近に感じられる、温かさを伴った映像だった。 「おとうさん」 「な、なんだい」 急に呼ばれて、父はひるんだようだった。 「その話、わたしもっと聞いてみたい」 「どの話?」 「おとうさんの若いころのお話。バスガイドの町案内よりは、面白そうだから」 手元の本を膝の上からバッグの中へと移す。ライリーは微かに笑ってみせた。 「あ、ああ。いいよ。なんでも教えてあげる」 父は席に座り直して、微笑みを返した。 彼の物語を聞くことが、親を他人と感じなくなるために取る、きっと大きな一歩となろう。 ストーリーダイス https://davebirss.com/storydice-creative-story-ideas/ お題:本 新聞 ヘアピン バス ピザ |
3-3. h & あとがき
2020 / 01 / 11 ( Sat ) 「…………」
長い沈黙の後、そうかもな、と呟く。 「逃げようって、そそのかしたこと後悔してる?」 「んにゃ。後悔っつーのは、ニンゲンがつくった概念だろ」 二度、逃亡を提案した。一度目に受け入れられ、二度目には拒まれたが、それぞれの状況の差異に気付かないほど、ミズチは愚かではなかった。 「ラムが遊んでくれなくなるまで……あいつが所帯持って、歩けなくなるまで長生きするのを、見届けてもよかった。うまれた国で使用人してた方が、何事もなくそうなったかもな。けどもしもの話に意味なんてない。あいつは自分の意思でクニを出て、生きて、死んだ。そんだけだから」 「うん。わたしはその人を直接知らないけど、彼も責任を感じてほしくないと思ってたんじゃないかな。感謝してるって言葉が、きっと本心だよ」 唯美子は「話してくれてありがとう」と囁き、そっとミズチの肩を抱き寄せた。 「きみは長生きしてる割に他者と関わってこなかったって織元さんは言ったけど、そんなことない」 一瞬、耳をかすった彼女の声に、何かを決心したような力がこもっていたのを感じた。どういった決意であるかまでは感じ取れないが。 恒温動物の発する熱に包まれ、ミズチは気が緩んだ。長らく呼び起こしていなかった記憶を辿ってしまうほどに。 「はじめて海に出た夜、あいつすげーはしゃいでたな」 少年は見渡す限りの平面に愕然としたのだった。吹き荒れる海風に委縮して、甲板の手すりの前で立ち上がってはしゃがみ込み、を繰り返して涙の滲む目で叫んだのをおぼえている。 ――しんじられない! ――なにいってんだ。しんじるもなにも、海は海だろ。存在してんだよ、いまここに。 ――そうじゃないって。きみは、うみがぜんぜんこわくないんでしょ!? しんじられない! こんなにひろくてまっくらなのに、なんでへいきなの? ――ただのでっかいみずたまりみたいなもんだろ。 ――うみのなかは、みえないんだよ! いきができないんだよ! どんな妖怪がでるかわからないよ! しまいには少年は海面を見つめているうちに気分が悪くなったと言い出し、再び船内に身を潜めた。もちろん上陸するまでは船酔いもひどかった。なんとも情けない話である。ミズチは呆れながらも、終始そばについていた。 航海中、天気のいい日にはラムはこっそり甲板に出て果てしない空と海の青に感嘆していた。塩水を見ているだけで心が浮き沈みするのが、ミズチにはやはり奇妙に思えてならなかった。 姿形をいくら似せようとも、少年は己とは別の種に属する別の個体だった。相手を真に理解することはできないし、される日も来ないだろう。 けれどそれでいい気がしていた。距離感に、不満はなかった。 ――妖怪がでたらさ、おいらが倒してやるよ。だからそんな怖がるなって。 ――だめだよ。かわいそう。 ――じゃーおとなしく喰われるんか? ――たべられるのもたおしちゃうのもヤだな。だからそうなったら―― 隙間の空いた歯並び、屈託のない笑顔。 忘れていた。 「あー、そーか。あいつ『逃げるのを手伝って』って答えたっけ」 変なところで頑固で、変なところで潔い。そうしてその会話通りの展開もあったなと、遅れて思い出す。 これを滑稽と呼ぶのだろうか。 笑った。何が楽しいのかわからなかったが、やがて唯美子が心配そうに「大丈夫?」と声をかけてくるまで、うずくまって笑い続けた。 * どれくらい深く穴を掘れば、差し込んだ石が真っすぐ立つのか。かけた土をどう叩けば、土台が崩れずに済むのか。知らないことだらけの初めての作業に、ミズチはずいぶんと手間取った。 亡骸が埋葬された山の中。 夕方に始めたのに、もうこんなものでいいだろうと妥協した頃には、すっかり夜が更けていた。しかし雪雲が月明りを反射して、辺りは意外と明るい。 いつか亡骸にしたように、墓石のそばで膝を抱えて座り込んだ。ニンゲンならば墓に向かって言葉を添えるはずだ。返事があろうとなかろうと、そうするはずだった。 (こういうときなんていえばいーんだろーな。おまえの言語に『再見』以外の挨拶あんのか?) あるとすれば、ミズチは教わっていなかった。 別れの挨拶にしては前向きに過ぎる。 (またあおうって。いつ、あえんだよ) そう思っていても、言葉がわからないのでは仕方なしである。 頭をかいて、嘆息した。 「――以後再見」 空を仰ぐと、雪結晶が額に触れてそっと解けた。 ミズチは死後の世界を信じない。死者の霊が風を吹かせただの動物の使いをやっただの、ニンゲンが語るような事例《しるし》に一切期待しない。 なのでその挨拶は願いのようなものだった。 口に出してから理解した。二度と会えなくても、会いたいという想いを形にすることには意味があるのだと。 想いがどこかにある限り、共に過ごした日々が消えることはきっとないだろう。 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします! どんだけ時間かけて三章書いてるんだよって突っ込みは自分でしておきますね_OTL まあリアルに色々立て込んでたのと、創作に向ける集中力が低下していたのが敗因でしょうかね。その割にはこの過去エピソードはきちんと書きたかったので、半端なものを出したくなくてずっと未完のものに手を入れ直していました。それこそ何回も何回も書き直してきました(゚∀゚) これですべてよかったのかは後日また考えます…。 さておき、見た目双子・中身あべこべな二人の明るくアホいエピソードを書きたい気持ちはあります。完全に本編とは関係ないので外伝になりますが。そんなことより四章練ろって? あ、はい。ガンバリマス! |
3-3. g
2019 / 12 / 20 ( Fri ) まったくの無意識だった。自分でも何が楽しいのか、まるでわからない。 わからないが、何かが吹っ切れたような気がした。いつの間にか視界いっぱいに光が満ちていた。生命力が器から零れ落ちて、昇華されていく。 そんな光景をミズチは美しいとも寂しいとも感じなかったが、大気中の温度が微かに上がった点に、不思議な心地がした。命の温かみと、知った顔との別れに触れていることに、胸の内がざわついた。 「好了《わかったよ》。你可以放心《あんしんしていいぜ》」 光の海に沈む青年に近寄り、膝辺りに一度拳をぶつける。ふたつの願いを聞き入れてやるという意思の表れでもあった。 それを受けたラムは口元を僅かに震わせた。もう一度、微笑もうとしたのかもしれない。 「兄弟、你要照顧自己」 青年は言った――兄弟よ、自分を大事にするんだよ、と。 不規則な呼吸音が続き、やがて数分と経たない間にその瞳から光が失われた。 長かったようで、あっけない。この者がゆるやかに死に向かっていくのを見届けはじめてからどれだけの日々が経つだろう。 (大事にするもなにも……) 己の滑らかな指とラムの壊死したそれとを見比べる。ニンゲンの手足は大きく損傷したら再生できないが、ミズチの場合、再生できない損傷というのがむしろ稀有である。 ひとつため息をつくと、吐息が白くうねって霧散した。 いつしか気温は相当に低くなっていた。死の瞬間に感じた儚い熱量は気のせいだったのかと思うほどに、厳冬が猛威を振るっている。 あらゆる生命が息をひそめる時季―― 突如けたたましい音がし、小屋の扉が外れた。 物置の中を強風が吹き荒れる。次々と倒れてくる農具を、ミズチは僅かな動作のみで避けた。爬虫類であった頃ならいざ知らず、いまのミズチが極端な温度に動けなくなることはない。 生物の枠を超越した自分に、何を大事にする必要があるのか。そうとわかっていながら、なぜ彼は最期の挨拶にそれを選んだのか。 「よけーなせわだ、ばーか」 もう声を発することのない抜け殻は、倒れた農具に半ば埋もれてしまっている。いずれ村人が死体に気付くだろう。墓が建てられるかどうかを見届ける必要があるが、その後は、どうしたものか。ミズチにこの国に留まる理由はなくなってしまった。 「おいらの当面の悩みは、すげー暇んなったことくらいだ。どーしてくれんだ」 返答は当然ながら、無い。 思い立って、ミズチは重なった農具をひとつひとつ拾い上げてどけた。露になった骸を眺めやり、その傍らに膝を抱えて寄り添う。 暇になってしまったからには、じっくり考えてみるほかあるまい。 友の、兄弟の、願いを叶えるための手立てを。 * 追憶する。 村人が異邦人の死体を回収して山に埋めるまでの数日、腐敗してゆく青年をただ観察していた。想像した段階ではあんなに嫌悪感があったのに、いざ目の当たりにすると、抱いた感情は名状しがたい穏やかなものだった。 墓と呼べるようなものは建てられなかった。未だ罪人と疑われていながら最終的に彼がニンゲンらしく埋葬された点で厚遇と受け取るべきなのか。たとえ墓石が設けられたとして大多数が字の読み書きができない村人たちは、ラムの名をどう刻めばいいかわからなかっただろう。 かくいう本人もたいした教育を受けられていなかったので、己の家の名以上に書ける文字がなかった。 数年に渡る交流の果てに残ったのは、少年と青年の像と「林《ラム》」の一文字。 だがそれだけあれば忘れないでいられた。時々思い出すには、誰かに語って聞かせるには、こと足りた。 「ナガメはラムさんがすごく好きだったんだね。ううん、今も、大好きなんだね」 その思い出語りを聞かせていた相手が言う。 ご無沙汰すぎてもう(;^ω^) あと1記事って前回言いましたけど、長くなったので分割します! |
3-3. f
2019 / 07 / 04 ( Thu ) 家族と呼ばれて、胸の内にどのような感情が生じたのか、当のミズチにもわからなかった。 「とじこめられてるあいだ……自害して、楽になろうとはおもわなかったんか」葉を零れ落ちる朝露のような、ささやかな問いを投げかける。 「思ったさ。けどそれじゃあ、蛟龍の話し相手がいなくなるだろう」 「――――」 変な気を回すな、そう笑い飛ばしてやりたいのに、何故だか喉が詰まって何も言えない。感心しているのか――今わの際に、他者に心を割くこの者の気概に。 「おまえ、ニンゲンの中じゃ生命力は平均以下のくせに。精神力は、つよいほうだな」 「そう、かな」 ――味方がひとりでもいればそれだけで充分なものだ。 青年は目元に笑みを浮かべて言葉を継ぎ、時を惜しむように饒舌になる。 「十年以上経つのに、故郷の言葉を忘れずにいられたのは、蛟龍のおかげだ。お前が気まぐれに僕らの言語をおぼえたからだ。感謝してる。感謝しか、ないくらいだ」 「カンシャね」 またか、とは言わないでおいた。ラムの満足そうな声音は、以前に村への情を語った時のそれと似ている。 「何度か……死んで楽になりたいとも思ったさ。これが……さいごの心残り、それともわがまま、か」 一周して再び頼み事の話題に戻ったところで、今度は、ミズチも拒絶を示さなかった。 「僕に、墓、が建てられれば、そこに家名を刻んでほしい。ないなら、作ってほしい」 「なんでわざわざ」 「僕は家族から遠く離れた地で死ぬけれど、霊は、先祖の元に、逝きたい。その道しるべだ」 「あー、『死後の世界』しんじてるんだったな」 「妖怪であるお前は、信じないんだったな。でも魂の存在は肯定していただろう」 「死に際のいきものの生命力の残滓みたいなもんがとぶのは、みえる。それが消える時、いきつく先があるかどうかは、しらん」 「……なら、いまも見え」 「やなこときくんじゃねー」 言葉を被せて、ミズチは蛇として威嚇する時みたく、舌を出して鋭く息を吐いた。思いのほか気が立ったのか、外の強風に勝るほどの音量が出た。 ラムはか細く笑うだけだった。 得も言われぬ苦しさがミズチの喉の奥を襲う。 死にゆく者から生命力が溢れることは、ある。風に舞う雪結晶のように、光源の前に踊り出す埃のように。両目を凝らさねば気が付かないほど微かな何かが散る――まさにこの時、この場でも。 見たくなどないのに。無意識に目を逸らし、そこでしまったと思った。 狭い場所だ。いくら弱っていようと、ラムがそのような動きや気配をとらえないわけがなかった。時として行動は言葉以上にものを言う。 「僕が死んだら――お前への、せめてもの礼に、この身体を明け渡そう。肉は少ないだろうけど……食べて腹の足しにするのも、解剖して仕組みを研究するのも、自由だ」 「いらねー」吐き捨てるように答える。「そんなことしなくても、この数十日間、ずっとカンサツしてたからな。もうじゅうぶんだ」 実際、青年の身体機能がひとつずつ力尽きていくさまを、詳細に感じ取ってきた。次にニンゲンの擬態をする時は、これまでとは比べ物にならないくらい緻密に再現できるだろう。 解剖までしたならば、ますます精度を上げられるに違いない。 それはミズチにとって好都合のはずだった。かつての自分なら喜んで承諾していた。否、今でも、有益な取引だと思う。 であれば相手が悪いのか。他の誰かなら、肉体が腐り果てるまでじっくりと見守ってやったかもしれない。 この青年の白骨死体を想像すると、拒否感のあまり眩暈がした。 (情がうつったか) 認めたくない事実に意識を向ける。 悔しさともどかしさを発散する方法がわからなくて、ミズチは敢えてニンゲンがするように歯ぎしりをした。顎の筋肉が張る感覚がやたら不快だった。 (カゾク……家族だったら、どうする。承けるべきか?) どうすべきかではなくどうしたいかでしか物事を判断してこなかったゆえに、咄嗟に考え方を変えるのは困難だった。 石に一文字刻むだけ。大した労力のかからない頼みだ。どのみち暇だけは持て余している身で、この男が死ねば、これからどうやって暇をつぶせばいいのか改めて探す必要ができてしまう。 「だー、家の名前をほりゃーいーんだな。彫れば」 「ありがとう! もうひとつ、頼みがあるんだ――」 「おまえな」 「――忘れないでくれ。時々でいいから、僕という人間がいたこと、思い出してくれ」 瞬間、ミズチは息を呑んだ。 もとより忘れるつもりなどなかった。だがこの時を境に、長い一生の中で、能動的にニンゲンとの思い出をなぞるようになったのも確かである。 ふいにラムが笑った。何がそんなにおかしいのかと問い質すと、お前こそ笑っているじゃないかと返された。 三ヶ月も更新が開いてしまった…。 あと1記事でようやくこの三章も終わりです!!! |
3-3. e
2019 / 04 / 08 ( Mon ) * 狭い空間に充満する確かな死の予感と、臭いが、ミズチの嫌悪感を煽った。 臓腑を絞られるような嫌な気配だ。 生命の終焉そのものに思うところはないが、この類の死には、どうも慣れそうにない。 ――飢餓。 縮む筋肉の代わりに膨らむ下腹部、窪む皮膚に代わって突き出る骨。生物が一生を終えるに至るさまざまな手段の中でも、最もいたたまれないもののひとつだろう。病に屈する者のほとんどは、根本的には臓器と細胞の餓えによって力尽きているのだろうとも思う。 強靭な生命力とずば抜けた回復力を持ち合わせたミズチでさえ、飢餓による死だけは、どこか身近に感じられる。きっと生きとし生けるものがみな、五臓六腑の奥深い場所で実感できる苦難だからだ。 寿命というものから遠ざかった上位個体でさえ、本能を思い出すことはできる。 これが恐怖かと歯噛みする。 恐怖と、それから――憐憫ではない。憤りだ。 何故、平行線なのか。どうすればこの男は、わかってくれるのか。 うまく言葉にできない怒りを視線に込めるしかない。差し出した食物のことごとくをはねのけられ、途方に暮れた瞬間でさえ、自分は未だに諦めきれないらしい。 喪う恐怖――。 ほんの少し、受け入れてくれるだけでいい。かつてのように、こちらが差し出す食料を咀嚼して飲み込んでくれればいい。 どうして拒むのか。死んで無実を証明したとして、意味があるのか。たとえば村人の注意を引いて例の家族が夜逃げするだけの時間を稼げたとして、奴らは遠からず役人に捕まるのではないのか。 ニンゲンの社会はいつだって理不尽だ。それでも彼はこの社会《ムラ》を愛しているという。 そうまで言い切られては、ムラという輪の外に在るミズチが何を言ったところで無駄だろう。 もどかしい。元より先立たれるだろうとはわかっていたが、このタイミングで、こんな形で、とは予想していなかったのだ。 「っ、蛟龍……」 おぼえているか、と痩せ細った青年はため息のように囁く。乾いていくつもの亀裂ができた唇を苦しげに動かして。吐き出された息には、ほとんど体温が伴っていない。 幽閉されたばかりの頃、まだ五体満足だった姿から幽鬼のようなこの状態になるまでの変遷を、ミズチは眺めて来た。決して気分の良いものではなかった。 毎日、水だけは誰かが無理やり飲ませていた。「罪人」が罪を認めるまで死なせないつもりだったのだろう。 村人の目論見は外れた。この男の意地が、勝ったのである。 ただこの試練には果てが無い。期日まで無実を主張しきって生き延びれば釈放、という褒美はなく、ただ死すのみである。 ニンゲンのやることは時々、実に無意味だ。 「……港で、お前に食べさせてもらった、カタツムリ」 「おぼえてる」 確か食した直後にラムは目を丸くして固まったのだった。後になって聞かされた話、あまりの美味さに頭が真っ白になり、泣きそうになっていたのだと言う。 それを聞いた時、大げさなやつ、とミズチは笑い飛ばしたものだが。本人はいたって真剣だった。 「我々は、それを親切と呼ぶ……お前が自分の物を僕に分けてくれたのは、決してあの時だけじゃ、なかったな」 「そーだな。むしろあの日を皮切りにイロイロくわせてみたんだっけな」 「食べ物、以外も、だ」 冷たい闇の中で、青年が笑った気配がした。 ミズチは思わず頭をかいた。最もかけてやったのは、時間と労力だろうか。 本当はわざわざ指摘されなくても、自分の行為は記憶に残っている。このニンゲンが腹が減ったと嘆けば食物を確保し、寒いと訴えれば毛皮となりそうな野生動物を狩った。病に伏したなら、自らの鱗を口に含ませて生命力を分け与えたりもした。 そして歩き疲れたとくずおれた際には――大蛇となって幾里か運んでやったこともあった。他者のためにここまでしてやったのは、ミズチにとっても初めての経験である。 「この国の民以上に、僕に優しかったのは、お前だ。お前にそんなつもりなどなくても。祖国を発つ勇気、新天地を求めて旅立つ力は、蛟龍がいたからこそ……持てた。そそのかれて、『挑戦』してみて、よかった」 長く語り過ぎたのか、そこまで言って、ラムは激しく咳き込んだ。 「むりすんな。もうあんま声だす力もないくせに」 諫言はあっさりと無視される。 「だ……から、最後に、頼まれてくれないか」 「だからやだっつっただろ」 「そう、言わずに。僕にはほかに頼れる相手がいない……いや」また咳を挟んで数十秒。「お前だから、頼りたい」 ――家族だと思っている。 音にならない声で、言った。 |
3-3. d
2019 / 04 / 03 ( Wed ) 「ナマの方がおいしいのに」
「おなかこわすのヤダよ」 ちょっと火をおこしてくるから、と少年が立ち上がる。ミズチは仕方なくついていった。少し離れた浜辺で小枝や薪などの必要なものをそろえ、ようやくカタツムリを調理し完食し終えた頃には、なにやら日が傾きそうな時刻になっていた。 これだからニンゲンは面倒だ、とは言わずに。陸貝の旨味にいまだに目を丸くしている彼に話しかける。 「かえるとこないならいっそあたらしい土地にいけば」 港は、あれから何隻かの船が出航していた。 残るいくつかの大きな船影を、ふたりは足を抱き込んだ姿勢で眺める。常に誰かが何かを運び込んだり、何かを点検しているようだ。いずれも長い船旅を予定しているらしいのはなんとなく感じ取れた。 密航するなら夜のうちに人知れず乗り込んでしまえばいい。そのようにミズチは提案した。 「そんなうまくいくかなあ」 ただでさえ初めての航海に、人目を盗んで乗り込む危険。食事も排泄も寝起きもきっと満足にできないだろうし、見つかったらどのような罰が待ち受けているか――力説する七男に、ミズチは肩をすくめる。 「えらぶのはおまえだ」 個人的には、どちらでも構わなかった。 既に明らかになっている不幸と、あるかどうかまだ知れない不幸。結果がどうなろうとも、選択の責任を負えるのは当人のみだ。 「わかってるよ。でも、妖怪は、ぼくに……ついてくるつもりなの?」 「ん?」 一瞬、何を訊かれたのかがわからなかった。否、改めて訊くようなことだったのかと驚いてしまった。「つもりだぜ」 「海をこえるんだ。きっとたいへんだよ」 「塩水はまずいけど、べつに海なんてこわくねーよ」 「ことばがつうじないよ」 「おぼえなおせばいーんじゃん」 「し、しってるひとがほかにだれもいないんだよ!」 「ふつうじゃね?」 何をそんなに興奮しているんだ、とミズチは首を傾げる。 腕を振り回して抗弁していた七男は、急にがっくりと肩を落とした。疲れたような、呆れたような笑い声を漏らして。 「きみにこわいものはないんだね」 「恐怖かあ。そういわれりゃ、どーゆーかんじかわっかんねーなー」 ミズチが変異を遂げて蛇の「枠」から逸脱して以来、生命の危険を感じなくなったのは、何百年前からだったか。日々を必死に生きなくなったのは、いつからだっただろうか。 生命維持にさほどの努力を必要としないのだ。ニンゲンの不安など、わかろうはずもない。そしてニンゲン側からも、己が理解されることはきっとないだろう。 「もともときみは、ちがうところから……すごくとおくからきたんだっけ」 そう呟いた少年の横顔は、ミズチが模している状態に比べて幾分か成長を経ていた。その成長を細かく追って擬態してもよかったのだが、なんとなく最初に真似た小さい形状が維持しやすいのでそのままにしている。 ミズチは小さく首肯した。 生まれた土地について多くをおぼえてはいない。ひたすらに当てもなくさまよっていると、時間の流れにも地理にも執着を持たなくなるものだ。 「ぼくにもできるかな。こわいけど、きみがいっしょだったら、できそうなきがする」 「んん。なにが?」 「あたらしい……『 』だよ」 七男が口にしたのは、ミズチにとってまだ知らない言葉だった。厳密には、今会話している言語の中では初めて聞く単語である。 どういう意味かと訊ねる。 「ちょっとまって。そのまえに――」少年はゆっくりと腰を上げた。「しのびこむふね、どれにするかきめようよ」 にかっと少年は口を大きく開いて笑った。 出会った頃は欠けていた乳歯が、既に永久歯に生え変わっている。対するミズチは数年遅れの、同じ者のかつての笑顔を返す。 果たして、共に東の島国に渡った。 |
3-3. c
2019 / 03 / 17 ( Sun ) そうして、はじめの邂逅からしばらく経った頃。 下層の者がより裕福な家に使用人となるために売られるのは、当時にはよくあることらしかった。集団生活においての間引き、口減らし。たとえ売る側が得るのは一時のみの対価であっても、それを選択する家は少なくなかった。なかでも七男の家のニンゲンは「華人」と呼ばれる異邦の少数民族の枠に入るらしく、街に出ても働き口は限られていた。うまく成り上がったほかの華人の家に受け入れてもらうのが、ひとつの生き方だったそうだ。 潮の匂い、浮遊物が波に揉まれてぶつかり合う音。 何日も前から姿が見えなくなった七男の気配をたどった先が、港だった。物陰に縮こまっているところを背後から無遠慮に話しかけたら、見慣れた泣き顔がこわごわと振り返った。 目が合うなり、表情が目に見えて和らいだ。よほど心細かったようだ。 ミズチは隣に腰かけて、これまでどうしていたのかを聞き出した。売られたのだと聞いても、これといって感慨は沸かなかった。それならそうともっと早く教えてくれれば、探し出す苦労を省けたのに。 「つーかおまえはそこまで理解してて、なんでないてんだ」 「うぅ……『ご主人』がすっごく、きびしいんだ」 「それがどうしたよ」 衣食住を得る代わりに働くという仕組み、力関係はもとより一方的だったのではないか。わかりきっていた現実をいちいち嘆く理由が、ミズチにはつかめなかった。 「いたいのもこわいのも、もうやだ……」 言われて見れば着物からのぞく手足が生傷だらけである。まるで鞭に打たれたような痕だった。足は泥に汚れ、皮膚がめくれて鮮血が滲んでいる。 何度目かのせっかんの後、七男は思わず敷地から飛び出したのだと言う。当然、行き先に当てなどなかった。 「なんならおいらがそいつ、始末してやろーか」 「だめだよ! ご主人がいなくてどうやっていきれば……それに、ご主人はぼくの『しつけ』のためにやってるだけだって……」 途中から己の言い分に自信を失くしたのだろう、声が消え入り、ついには波の音にかき消されてしまった。 「じゃあもどるんか] 逆に提案してやった。だがそれにもはっきりとした否定が返ってきた――無我夢中で逃げ出しただけに、帰り方がわからないらしい。 「妖怪……ご主人のいえ、どこかわかる?」 「むり。接触したことないヤツの居場所なんてどーやってみつけだせってんだ。いまのおまえにはいろんなニオイがついてるし」 「ど、どうしよう。これからどうやっていきよう」 「そのうちだれかがさがしにくんじゃねーの」 「さがしに……さがされたら、また、いたいかな……」 目を泳がせて爪を噛む少年に対し、ミズチは頷いた。文脈から考えて、ある程度の覚悟は必要だろう。 七男は再び泣き出しそうな顔をした。だがそれよりも早く、腹部から空気の入った袋をねじるような音が響いた。 「とりあえず腹へってんなら、カタツムリでもくう?」 ミズチはつい先ほど採ったばかりの食糧を差し出した。 お約束のように叫び出すかと思えば、七男は気分悪そうに顔を歪めただけだった。やがて、おずおずと手を伸ばす。 「おっ!? くうんか!」 つい、歓喜に大声を出してしまった。 これまでにもさまざまな食べ物を差し出してみたものだが、このニンゲンがそれを受け入れた回数は、まだゼロであった。 言っているそばから、手が引っ込められた。 「や、やっぱりやめる……それ、どうみてもまだうごいてる……」 「うごかなければいーんだな」 「火! 火、とおして!」 |
3-3. b
2019 / 02 / 21 ( Thu ) 次に会いに行った時も、またその次に会いに行った時も、同様にニンゲンは泣き喚いて逃げた。ようやく話を聞いてもらえたのが何度目の接触でのことだったか、ミズチ自身おぼえていない。
逃げるものを追いたくなる衝動を我慢したのが最初の数回で、ついには逃げる背中に飛びついた。暴れて逃げようとするニンゲンに、ミズチは感心の声をかけた。 「おまえ、足はやいな」 「うわあああしゃべったあああ」 捕らえた獲物は後頭部を手で守るようにして草の上にうずくまった。 「れんしゅうしたからな」 「うわあああああれんしゅうするなあー! ……?」叫ぶ間の息継ぎで、ニンゲンが我に返ったように頭をもたげる。「れんしゅうしないとしゃべれないの」 何か奇異なものを見つけたような目だった。ミズチは肯定した。 「きみは『 』なの」 「そのことば、しらない。なんて言ったんだ?」 「ぃゆぅぐゎぁい」 「ゆっくり言われたからってわかんねーもんはわかんねーし」 「うーん……きみはぼくをたべるの」 「ニンゲンは、すっげーまずいってきいた。べつにたべたくないな」 「たべないならどうするの?」 「そだな、きこーとおもってて」 ニンゲンの姿を真似たついでに、ミズチは衣類の擬態もしていた。帯の中から、赤い果物を取り出してみせた。 手の平に二個のせて差し出す。それを見やり、ニンゲンは黒い目をぱちくりさせた。 「ライチー?」 「って、いうんだな。これのたべかたを、おまえにきこーとおもって」 「ライチ―おいしいよ」 一度的外れな返答があったが、しばらくして、ニンゲンは果物をひとつ指の間に取った。爪を立てて、器用に皮をむきとってみせる。 「ほら」 「おー、はやいな」 「えっへん。とくいなんだ」 褒められて、ニンゲンは嬉しそうに腰に手を当てた。以前までに感じられた警戒心も徐々にとけつつあるようだ。会話ができる相手というのは、それだけで親近感が沸くらしい。 これも後になってわかったことだが、他者を簡単に信じてしまうのは彼の個性の一部でもあったのだ。 「ほかになにがとくいなんだ」 つたない手つきでもう一個のライチをむきながら、ミズチは訊ねた。 「ほかー……ろくじゅうかぞえるまで、いきをとめられるよ。あと、かくれんぼもとくいだよ」 「くわしく」 「ききたいの?」 「おまえにきょーみが、あるからな」 そう答えると何故かニンゲンは頬を少し赤らめて俯いた。 こうして、かくれんぼとは何か、と話題はニンゲンの幼体が取り組むさまざまな遊びに及んだ。 やがて成体のニンゲンの「阿七! 遊んでないで戻れ!」と呼ぶ声によって、この小さなニンゲンとの邂逅は終わった。 次回は、出会い頭に叫ばれずに済んだ。 普段あまり話し相手になってくれる者に恵まれていないのか、それからニンゲンは毎度にこやかに迎えてくれた。自分に興味を持っている相手がいるということ自体がうれしかったらしい。 兄や姉が多くいる家の十二人目の子供あるいは七男で、存在自体が家族に煙たがられているそうだった。卵の殻を自力で破いた瞬間から終始、一匹で生きてきたミズチには家族というものがよくわからなかったが。 「『妖怪』は、どうしてぼくとおなじかおをしてるの」 「んー、あたらしくつくるより、まねするほうがうまくニンゲンになれるから」 「ほんとうはどんなかおなの?」 むき出しの土を枝でえぐるようにして、ミズチは小さく蛇を描いた。と言っても、目や口すら描き入れないような単純な輪郭だ。 「蛇ちゃん、かおがないよ」 「これだけで蛇ってわかったんだから、べつにいらなくね」 「どんなかおしてるのってきいたのに……」 ニンゲンはふくれっ面をしてしゃがみこんだ。指先で蛇の絵に目玉を加えていると、突然何かに気付いたように息をのんだ。 「あのときのちっちゃい蛇だ」 「やっとおもいだしたな」 「だって蛇が、ばけてでるなんて、そんな童話みたいなことがあるなんて」 恐怖の色が眼差しに侵入し、じわじわとニンゲンの表情に広がっていった。今更何を、とミズチは思う。 「おどろきおわったか」 「おわってない」 「それよりききたかったんだ。なんであのとき、ないてた? んだよ」 否定の返事を無視して、ミズチは質問をした。目と鼻から水を流す状態を泣いているというらしいことは調べがついている。そこには、強い感情が伴うものだと。 「さわるの、こわかったから。あと、かわいそうだったから」 何がかわいそうだったのかと訊き返すと、答えはこうだった――おうちからいきなりおいだされちゃうの、かなしいよ。 だがミズチはあの餌場に強い愛着を持っていたわけでもなく、深い目的があって水域をうろついていたわけでもなかった。 むしろ、後に棲家から追い出されて苦労するのは、どこぞの家のこの七男の方であった。 |
3-3. a
2019 / 02 / 04 ( Mon ) 出会ったのは、水田の近くでだった。 ミズチがその地に流れ着いて日が浅かったため、近辺の民が使う言語はまだ理解できなかった。ニンゲンの生活習慣、表情の機微などに興味もなかったので、何のために捕獲されたのか、当初は見当がつかなかったものだ。後になって聞いた話、ラムは害獣退治を押し付けられていたらしい。むやみにどうこうするよりは近づかない方が懸命だというのに、兄や姉たちはおそらく末弟をいじめて楽しんでいたのだろう。本人はそう推測していた。 小蛇の姿で昼寝をしていた。 つまみ上げる指の圧力と持ち上げられる感覚に意識が呼び覚まされ、しばらく空中を移動してから再び地面に下ろされた。元居た場所を振り返り、何をされたのだろうと不思議に思っていると、幼体のニンゲンの視線に気が付いた。 ニンゲンは目と鼻から水を流していた。しきりに口から言葉を発していたようだが、何を言っているのかはわからなかった。脱兎のごとくニンゲンは走り去った。 それだけだった。それだけの関わりで相手に興味をおぼえ、ついでに体臭もおぼえたので、探し出して観察することにした。 次に接触したのは果物の樹の下でだった。 果物の外皮は赤く分厚く、中の実は白かった。ミズチは自らのストーキングの標的と定めた小さいニンゲンが地面に座って果物の皮をむいていたのをしばらく観察した。あまりに真剣に手元を睨んで、あふれ出た汁をさも美味しそうに舐めとっていたので、自分も食べてみたら美味しいだろうかとふとミズチは考えた。 同じ姿になれば同じようにして食べられる。当時はニンゲンに化けるのがまだ不得手だったが、この個体は既に何日も眺めてきたのだから、概容はわかったつもりでいた。 そこに相手を驚かせようと意図はなかった。なかったのだが、そういう結果になった。 ニンゲンは悲鳴を上げてやはり走り去ってしまった。声をかけようとしたものの「うあ……か……」という具合に言葉を成すには至らなかった。 仕方なく、皮が半分むかれた果物を拾った。だが指を動かすことをはじめ何もかもが不慣れで、うまく口にすることができなかった。 あのニンゲンにコツを訊かねばなるまい。次に接近する時までにもっと完全な声帯をつくり上げて、ついでに言葉を習得した方がいいだろう――。 * 「のんびりだね」 途中まで聞いた唯美子の感想が布団の中に響く。 他には、相手と同じ姿に化けて出たら驚かれるのも無理ないとも思ったが、これには本人も後に気付いたであろうから指摘しないでいた。 「そうかあ? なにが」 「なんだか思ってたよりゆっくり知り合ったんだねって思って。長命だとそんなペースが普通なのかな。初めての異種間交流だから慎重になっちゃったり?」 比較対象はあくまでナガメと自分との出会いになってしまうが、それに比べると、のんびりとしている。 「慎重とかじゃなくて、まあ、ひまだったし。いそぐ理由なかったし」 「わたしと会った時はそういえば言葉の壁がなかったね」 思い返せば、最初から彼は日本語がペラペラだった。数百年前とでは状況が違ったのだろう――そう考えた時点で、素朴な疑問が沸く。 「ラムさんはもともとどこの国から来たの。村人は南蛮って言ってたと思うけど……タイ? フィリピン?」 「さー。ニンゲンがつくった線引きなんてすぐズレるし……位置的にベトナムだったんじゃね。あいつ、クニでも『いほーじん』だった気もするけど」 「う、うん?」 生まれ故郷でも異邦人というのは、どういうことだろうか。そのうち腑に落ちるものかなと思い、再び唯美子は聞き役に徹した。 |
らくがき雑多
2019 / 01 / 28 ( Mon ) |
3-2. f
2019 / 01 / 26 ( Sat ) 「あったかいフトンってやつで眠ってみたいとおもったことならある。そういうのはアリか」
「いいね! あったかい布団、いいと思うよ」 唯美子は手を叩いて賛成した。手軽に叶えてやれるリクエストだし、新しいものを発見する感情は、どんなにささやかな挑戦からも得られるだろう。 「……でも何百年も生きてるのに温かい布団が未体験って、ちょっと信じられないね」 「それはほら」 「!?」 少年は一瞬で唯美子の腕の中に飛び込んでくる。勢い余って後ろに倒れると、まるで出番を待ち受けていたかのように布団一式がそっと受け止めてくれた。 しゅふん、と微かな音を伴い、ふたりして沈み込む。 腹の上にかかった重みに戸惑った。水辺を思い起こさせるほのかな匂い。小柄な体は、相変わらずぬるま湯といった程度のぬくもりだ。 「じぶんじゃほとんど産熱しないから。ただフトンにくるまってもあったかくなんねーんだな」 「擬態でも一応、体温はあるんだよね」 「恒温動物のまねしてな。たべたものを熱に変えて血を皮膚にめぐらせて……燃費がわるくてやってらんね」 哺乳類ならば内臓も一定の体温で保たなければ生きていけないはずだが、そのぶん一日に何度も食事を採らなければならない。ナガメの食事頻度では人間の基準である三十六℃に届かないのもうなずける。 「えっと、じゃあ一緒にくるまってみる? わたしの体温でよければおすそ分けするよ」 おそるおそる言い出してみた。 みる、と言って唯美子の胸にうずくまっていた頭がひょっこり持ち上がる。 (わるい顔) 茶色の瞳が光ったように見えたのは、天井の丸型蛍光灯を反射したからか。 「なんでかな。誘導された気分だよ」 「へへ」 軽やかで気持ちのいい笑い声が返ってきた。 いざ消灯する時間になり布団の中で腹這いになって肘を立てていると、浴衣を着たままのナガメ少年が隣に潜り込んできた。闇の中でスマートフォンをいじる唯美子をじっと見つめる。 観察されている、ふとそう意識した。 小学生がダンゴムシにするように、生物学者が研究対象にするように。微かに黄色の輪を描いて光った双眸は、画面ではなく唯美子自身の動作を追っていた。 気になるのでやめてほしいとも何がそんなに面白いのとも訊けなかった。温かみをまるで感じさせない無機質な視線に気圧された。何かを探しているようだとも思った。 誰かに送ろうと思っていたはずの他愛ない言葉を忘れてしまい、画面の上で指を宙におどらせる。 ――ヘンな感じ……。 いつかの彼も、こんな風に至近距離から覗き込まれたことがあったのだろうか。知りたい。知りたいが、どう切り出せばいいかがわからない。 「ゆみさー」 「はいっ!?」 耳にかかった息に飛び上がった。考え込んでいて、接近されたことにまったく気が付かなかった。 「ずっとなんか言いたそうにしてるけど、なに」 こちらが言葉を選ぼうとしたのに対してなんてダイレクトな訊き方か。数秒ほど唖然となったが、気を取り直して咳払いした。 「織元さんにね。見せてもらったというか見せられたというか、不可抗力だったんだけどわたしも拒んだわけではなく……あの」 喋り始めてから段々としどろもどろになる。ため息をついて、スマホを枕元に置いた。 画面を消し忘れたため、ブルーライトが暗闇を頼りなく照らし上げている。 冷ややかな青い光が不思議と少年によく似合う。 ヒトではないモノを相手取るのがどういうことか、何度考えても自分はやはり理解できないような気がする。けれど――ナガメ単体を理解したいと願うのは、本心だ。 「きみの過去を少し見たよ」 「へー」 瞬きすらない、平淡な応答。 「驚かないんだね。頭の中? を覗かれるのって、嫌な感じがしないの」 「みられてヤなもんをわざわざ狸にやらねーし」 「な、なるほど」 あっけらかんとしすぎていないか。唯美子は拍子抜けした。 「んで、それがどーかしたか」 「あのね。できればナガメの口から聞きたいんだ……ラムさんって、どんなひとだった? きみが一番使いまわしてるふたつの姿は、あのひとを模したんだよね……?」 質問の内容にも驚いた様子はなかったが、答えるまでに意外なほど長い間があった。やがて、スマホの明かりがフッと消えた。 どんなやつかー、と少年は短く唸る。 「いつもは押しが弱いくせに、しょーもないとこでガンコ。潔癖? そんで昔はなきむしだったな」 「うん」 彼の言う「昔」がいつを指すのかよく掴めなかったが、唯美子は相槌を返した。 「いっぱいあそんでくれた。いいやつだった」掛け布団を頭から被ったのか、布が擦れる音の後、言葉が途中からくぐもって聴こえる。「もっと、あそべたのに」 言葉尻に向かって早口になっていた。 あのひとの結末は、思っていた通り、明るく幸福ではなかったのだと察する。 (どんなに経ってようと辛いものは辛いんだ) 嫌なことを思い出させた罪悪感に、とにかく慰めなくてはと慌てる。逡巡してから、布団の盛り上がりにそっと手の平をのせることにした。 一転して、気が付けば布団の中に引きずり込まれていた。 己の右手首の方を見つめた。暗がりで何も見えないが、確かに巻き付いたぬくみが――細い指が、あった。 「もっときくか」 「きみが話したい分だけ、わたしは聞くよ」 それから続いた間が数秒だったのか数分だったのか、正確なところはわからない。ただその間ずっと、小さな手から力が抜けることはなかった。 「…………ハカを」 「え?」 ハカオとは何だろうと首を傾げると、ナガメは静かに続けた。 「すげードラマじゃあないし、たぶん特別でもなんでねーんだけど。おいらが――」 ――ニンゲンに墓を建ててやった話をしよう。 亀の歩みで申し訳ない…。 3話でお会いしましょう! |
3-2. e
2019 / 01 / 15 ( Tue ) 「どうやって」
「誰かに教えてもらいなさい」 織元はそっけなく答えた。立候補をするつもりはないようだ。打って変わって、笑顔で唯美子に向き直る。 「すぐに食事をお持ちします。食べられないものがありましたら、教えてください」 「ありがとうございます。食べられないものはたぶんないです」 「わかりました。ではしばらくお待ちください」 彼は会釈してその場を後にした。 (至れり尽くせり……) 唯美子ひとりのみのためのルームサービスとなれば、いよいよ先ほどの懸念が現実味を帯びてくる――彼らには食卓を囲う習慣もなければ、その必要もないということだろう。 ついでに言って、部屋の隅に用意された布団は一組だけだった。 (そこに面白い意味は一切ないんだろうけど) ドラマなどで旅館のスタッフが「あとは若いお二人で」と気を利かせるのとはわけが違う。ナガメはどんな場所でも寝るので布団を用意しなくてもいいだけの話だ。彼は寝心地の良し悪しに頓着したためしがない。 むろん、知り合ってこれまでの月日、同衾した回数はゼロである。 荷物を置いて座布団に腰を落ち着かせると、静まり返った空気が気になってくる。この家にはほとんど生命の気配が無いような気さえする。 「織元さんの家って、ほかに住んでるひといないの」 「僕《しもべ》ならいるぜ。ふだん地中に潜ってるみたいだから姿をみかけたことねーけど」 手元の本を未だ睨みつけたナガメが答える。 (地中かぁ。盲点だったな) おもむろに足元に目線を落とした。白い靴下をはいた己の足の下に、畳が敷かれた床よりずっと下にも、未知の世界が広がっているという。 「『自分の知る世界が、世界のすべてではない』」 「んー? なんだそれ」 「どこかで聞いた言葉……意味はたぶん、自分が日頃意識している世界以上に世界は広いんだって感じじゃないかな。わたしにとってのナガメたちは、まさに知らない世界の有無を意識させる、ふしぎな存在だよ」 「しらないと、どうなんだ」 ――こわいよ ひと呼吸の間をかけて迷ったが、結局言い出せなかった。 ひゅるり、冷たく湿った風が部屋を吹き抜ける。何かに追い立てられたように、二匹のトンボが慌ただしく飛び込んできた。窓が開け放たれている点に、唯美子はその時はじめて気が回った。 寒いから窓を閉めてもいいかと訊ねる。どーぞー、と興味なさげな返事があった。 夕食を待つ間が手持ち無沙汰だ。床に座ってスマホを弄っていると、衣擦れの音がした。 ナガメが本を持ったままごろごろ回転している。よく目が回らないものだ――漏れそうになる笑いをこらえて、声をかける。 「ひらがなとカタカナ、わたしでよければ教えようか」 回転が止まった。かと思ったら小さな背中が反転した。転がりすぎたのだろう、いつしか紺色の浴衣が大きくはだけてしまっている。そこから覗く胸元の皮膚は鱗に覆われていた。一日に何度か変化すると段々と粗が目立つようになるものらしい。 浴衣だけでも直してやりたいが、訝しげに細められた双眸に躊躇した。 「なんで? ゆみ、別にひまじゃねーんじゃん」 「暇かどうかじゃなくて、わたしはきみが日本語が読めるようになったらいいなって」 「なんで?」 同じ質問が繰り返された。どう答えたものか、唯美子はやや首を傾げて言葉を探した。 「知らない世界が開けた時の感動を、味わってほしいから……? そういうのって、傲慢かな」 「ぬー」 少年は本を閉じて四つん這いから起き上がる。分厚い小説のタイトルは「籠城の果てに慟哭」だった。いったい織元は彼に何を読ませようとしているのか。 「昔、ナガメがわたしにひとつの感情を手放してみろって言ったよね。その逆かな。いろんな気持ちを取り込んでみたら、面白いんじゃないかな」 |
3-2. d
2019 / 01 / 06 ( Sun ) 「戦利品の提示をどうぞ」
「おう」 促され、少女は胸元に手を突っ込んだ。そんな真似をしたら襟元が伸びてしまう――唯美子は制止の声を出しそうになり、思いとどまる。 (ほとんどの服も擬態だって言ってたっけ……って、わっ!) ブラウスの下からにゅっと現れたのは、干からびた手に似た何かだった。正直、見つめていて気分の良いものではない。だというのに美丈夫もまた、何でもなさそうに干からびた手首を着物の内にしまっていく。 「確かに受け取りました、これにて依頼完了とします。ご苦労様でした。報酬は食糧と金品のどちらにしますか」 「んじゃ、今回は金目のもん」 「了承しました」 ビジネスめいた会話が終わると、こちらに気付いて、ナガメが軽く手を振りながら近づいてきた。かと思えば怪訝そうに片眉を捻った。 「なんでゆみ、泣きそーな顔してんだ」 「え?」 無自覚のうちにどんな顔をしていたのか、確認のため己の表情筋に手を触れてみる。それでもよくわからなかった。泣きそうと言われても泣いていたわけでもないらしく、頬は濡れていない。 もしも悲しい顔をしていたとすれば、きっと先ほどまでに辿っていた過去の像を想ってのことだろう。そのことを詳しく語るのは憚られる。 「ところで」音もなく織元が傍まで歩み寄ってきた。「風呂を沸かしてあります。お使いになりますね? いっそのこと、ふたり一緒に入りますか」 「それはだめ!」 半ば条件反射で否定するも、はたとなって現在のナガメをまじまじと見上げる。見られている当人は、きょとんとした表情で長い睫毛を上下させた。 どこをどう見ても女性でしかない。では何故、揃って風呂に入るのがだめなのか。彼の中身を異性と意識しての反応かもしれないが、そこでもまた疑問が沸き起こる。この異形のモノは異性と思っていいのだろうか。今更ながら、蛇であった頃に雄だったと明言されたことがない。 「……まさか小さい頃に一緒に入ったことがあったりする?」 「じょーだん。湯はむかしから苦手だ」 滑らかそうな女子の手をひらひらと振って、ナガメはあっさり否定した。 「そうなの? わたしのアパートで入ってるのはお湯じゃないの」 「冷水にきまってんじゃん」 「えぇ……寒いよ」 想像してみたら遅れて身震いがやってきた。どこまでも彼は唯美子の当たり前の感覚とかけ離れている。だがひそかに、一緒に水を浴びたことがないというその答えに安堵した。 気が抜けたらふいにくしゃみの衝動に襲われた。風邪をひいてしまう前に、風呂には入っておくべきだ。 「お言葉に甘えて、わたしは浸かってくるかな」 店の裏に居住スペースがあるらしく、奥に案内された。店を後にする時に目に入ったアナログ調の壁の時計は既に七時を回っている。夕食はいつも何時くらいなのかと問うと、「あなたの望んだ時が食事時です」などと曖昧な答えが返ってきた。彼もナガメ同様、毎日食べなくても平気なのだろうか。 まとまりのない思考で風呂に入り、芯まで温まって、ぽかぽかとした気分で上がった。心地良い眠気を迎えつつ、持参していた寝間着に着替えた。 廊下に出ると、壁に背をあずけて織元が待っていた。縦縞の入った揃いの浴衣と羽織を纏い、髪をゆるく三つ編みにしている。 「ヒヨリ嬢の古い衣服を見つけたんです。背丈もあまり違わないようですし、差し上げます」 「ありがとうございます。おばあちゃんの服、持っててくれたんですね」 丁寧に折りたたまれた着物の束を受け取る。 「元より、返す機会を逃したもので」織元は薄明かりに艶美な笑みを浮かべた。「では客室に案内いたします」 彼の足取りに応じて、ぎ、と一度だけ床が軋んだ。 家に漂う木材の匂いにどこか懐かしさをおぼえながら、唯美子は廊下を進んだ。あとは柔らかい布団に飛び込めれば言うことなしである。 織元の手がスッと襖を開ける。明るくなった視界に慣れようと、唯美子は目元に手をかざした。 部屋の中には先客がいた。畳の上に仰向けに寝転がる子供は、分厚い本を手に持って唸っていた。 その少年の姿を認めて、唯美子の心臓は小さく跳ねた。 「いかがですか、その小説。結構面白いでしょう」 「んにゃ、ぜんぜん読めねー」 「いい加減、平仮名と片仮名をおぼえたらどうです」 |
3-2. c
2018 / 12 / 17 ( Mon ) 地面にまで下りて、草の隙間を縫っての進行に移った。次にどこへ向かうのか、皆目見当がつかない。 外は薄暗かった。(時系列で言えばさっきの場面より前、でいいんだよね) 木陰でナガメの進行が止まったかと思えば、形容しがたい感覚が全身を包んだ。 超高速で、あるはずのものがなくなって、あったものに替わって何かが浮かび上がっている。自分自身が、元の場所から脱していくようだ。 数分して、曖昧にしかつかめなかった周囲のイメージが鮮明になっていく。足元を見下ろすと、小さな蛇が脱皮した抜け殻があった。それをナガメは感慨なさげに踏みつぶす。 「ここにいたか」 突然かけられた声の源をたどると、息を切らしたラムが、いつぞやのように大股で駆け寄って来ていた。彼は流れるような慣れた動作で、自らの羽織っていた上着をナガメに譲った。 「外で変化したら寒くないか」 「へーき」 「だからって全裸で歩き回るな。誰かに見られたら、」 「わーってるって」 幾度となく繰り返されたやり取りなのか、ナガメは煙たそうにする。少年の体には明らかに大きすぎる着物になんとか帯を締めて、再び顔を上げた。 「で、なに」問われた青年は目に見えて怯んだ。きっと言いにくいことだろう、唇が微かに震えている。「てかなんつー顔してんだ。おまえ、なぐられたんか?」 その言葉で、唯美子はラムの顔を二度見した。すると片方の頬が、最初に目に留まらなかったのが不思議なくらい、すごいことになっていた。顎まわりが腫れてあざができ始め、口元には血がついている。 「そうだ。歯も一本抜けてしまった」 「うわーヒサンだな。ただでさえオトナの歯は生え変わらないんだろ」 「……どうして蔵の食べ物を盗んだんだって、あのひとに事情を聞こうとした。でも取り合ってもらえなかった。自分はやってないの一点張りで、しまいには激昂して……このザマだ」 「なにやってんだよ、ばっかじゃねーの。犯人がスナオにやりましたってふつう認めるわけないじゃん」 ナガメは青年の脛辺りに軽い蹴りを入れる。ラムは短く呻いた。 「返す言葉もない。僕はお前の証言を信じてるけど、あのひとが目を合わせて否定してくれれば、そのまま受け入れようと思っていたんだ。だけどかえって不信感を抱いてしまう結果になった」すっかり意気消沈したような、悲しい苦笑を浮かべる。「教えてくれないか。お前は動機を知っているって、前に言ったな」 知ってる。肯定を述べて、ナガメはぽすんと草の上に腰をかけた。隣の位置を手の平で叩いて、ラムにも座るように示した。青年は神妙な面持ちで応じた。 それから少年は語る。 これまでに見聞きしたすべてを。三つ子を産んだ夫婦の抱える秘密と、その代償を。最後に彼らの悪意の向いた先についても、淡々と伝える。 当事者となってしまった青年はまず驚きに目を見開き、表情を曇らせ、そして深く頭を垂れた。 「話してくれて、ありがとう。蛟龍」 一言一句、重いものを引きずるように、彼は口にした。 「ん。これからどーすんの」 胸中に巣食う心配を声に出さないのは努めてのことなのか、それとも自然とそういう仕様なのか。ナガメは足元の草を片手でぶちぶちと引き抜きながら返事を待っている。 そんな折、唯美子は思い返した。水田でラムを見送った際の独り言を。 (責められない……きっと同情する) かくして、憂えていた展開に繋がったわけだ。 「どうもしないさ。どうしようも、ないことだ」 ナガメが俯いていたため表情は見えなかったが、答えたラムの声は穏やかだった。 「ほんとばっかじゃねーの」 ――ぶちっ。 ひと際大きな音を立てて、草の束が根ごと大地から引っこ抜かれた。 * 他者の記憶をたどる旅が中断された。まだもやのかかった頭で、なんとなくそれだけは理解できる。 夜中に細かい物音で起こされるような浮遊感があった。人工的な灯りが照らす室内は明るく、目が慣れるまでに何度も瞬きをしなければならなかった。あの三人組の女性客は既に立ち去った後なのか、それらしい影が見当たらない。 ふと唯美子の耳に剣呑なやり取りが届いた。意識が呼び戻された外的要因はこれか、とゆっくり上体を卓から起こす。 「てめーはいつも面倒ごとおしつけるな。大物相手ならさいしょからそう言え、よけーな体力つかわせやがって」 「おや、あなたほどの個体に『余計な体力』という概念があったとは驚きです。もしや苦戦したのですか? いい気味ですね」 「狸のくせに狐みたいな顔すんだなー」 「それより水を滴らせながら店内を動き回らないでいただきたい」 「なんか拭くもんくれ」 手ぬぐいが宙をよぎったところで、ちょうど唯美子の目の前がクリアになった。出かけた時と同じ、十六歳ほどの少女の姿をしたナガメが、乱暴な手つきで髪を拭っている。 (この姿も知ってるひとを写したのかな) 段の入ったショートヘアやほっそりとした手足、上下が完全にコーディネートされたパステル色のふわふわとしたブラウスとスカートが、あまりにも調和が取れている。かなりの美少女と言えよう―― 片足を椅子にあげていなければ、の話だが。いかに見た目が可憐そうでも、中身まで擬態する気がないのかもしくはこの場は織元の目しかないのでスイッチを切り替えているのか、ナガメはやはりナガメだった。 |