3-2. f
2019 / 01 / 26 ( Sat ) 「あったかいフトンってやつで眠ってみたいとおもったことならある。そういうのはアリか」
「いいね! あったかい布団、いいと思うよ」 唯美子は手を叩いて賛成した。手軽に叶えてやれるリクエストだし、新しいものを発見する感情は、どんなにささやかな挑戦からも得られるだろう。 「……でも何百年も生きてるのに温かい布団が未体験って、ちょっと信じられないね」 「それはほら」 「!?」 少年は一瞬で唯美子の腕の中に飛び込んでくる。勢い余って後ろに倒れると、まるで出番を待ち受けていたかのように布団一式がそっと受け止めてくれた。 しゅふん、と微かな音を伴い、ふたりして沈み込む。 腹の上にかかった重みに戸惑った。水辺を思い起こさせるほのかな匂い。小柄な体は、相変わらずぬるま湯といった程度のぬくもりだ。 「じぶんじゃほとんど産熱しないから。ただフトンにくるまってもあったかくなんねーんだな」 「擬態でも一応、体温はあるんだよね」 「恒温動物のまねしてな。たべたものを熱に変えて血を皮膚にめぐらせて……燃費がわるくてやってらんね」 哺乳類ならば内臓も一定の体温で保たなければ生きていけないはずだが、そのぶん一日に何度も食事を採らなければならない。ナガメの食事頻度では人間の基準である三十六℃に届かないのもうなずける。 「えっと、じゃあ一緒にくるまってみる? わたしの体温でよければおすそ分けするよ」 おそるおそる言い出してみた。 みる、と言って唯美子の胸にうずくまっていた頭がひょっこり持ち上がる。 (わるい顔) 茶色の瞳が光ったように見えたのは、天井の丸型蛍光灯を反射したからか。 「なんでかな。誘導された気分だよ」 「へへ」 軽やかで気持ちのいい笑い声が返ってきた。 いざ消灯する時間になり布団の中で腹這いになって肘を立てていると、浴衣を着たままのナガメ少年が隣に潜り込んできた。闇の中でスマートフォンをいじる唯美子をじっと見つめる。 観察されている、ふとそう意識した。 小学生がダンゴムシにするように、生物学者が研究対象にするように。微かに黄色の輪を描いて光った双眸は、画面ではなく唯美子自身の動作を追っていた。 気になるのでやめてほしいとも何がそんなに面白いのとも訊けなかった。温かみをまるで感じさせない無機質な視線に気圧された。何かを探しているようだとも思った。 誰かに送ろうと思っていたはずの他愛ない言葉を忘れてしまい、画面の上で指を宙におどらせる。 ――ヘンな感じ……。 いつかの彼も、こんな風に至近距離から覗き込まれたことがあったのだろうか。知りたい。知りたいが、どう切り出せばいいかがわからない。 「ゆみさー」 「はいっ!?」 耳にかかった息に飛び上がった。考え込んでいて、接近されたことにまったく気が付かなかった。 「ずっとなんか言いたそうにしてるけど、なに」 こちらが言葉を選ぼうとしたのに対してなんてダイレクトな訊き方か。数秒ほど唖然となったが、気を取り直して咳払いした。 「織元さんにね。見せてもらったというか見せられたというか、不可抗力だったんだけどわたしも拒んだわけではなく……あの」 喋り始めてから段々としどろもどろになる。ため息をついて、スマホを枕元に置いた。 画面を消し忘れたため、ブルーライトが暗闇を頼りなく照らし上げている。 冷ややかな青い光が不思議と少年によく似合う。 ヒトではないモノを相手取るのがどういうことか、何度考えても自分はやはり理解できないような気がする。けれど――ナガメ単体を理解したいと願うのは、本心だ。 「きみの過去を少し見たよ」 「へー」 瞬きすらない、平淡な応答。 「驚かないんだね。頭の中? を覗かれるのって、嫌な感じがしないの」 「みられてヤなもんをわざわざ狸にやらねーし」 「な、なるほど」 あっけらかんとしすぎていないか。唯美子は拍子抜けした。 「んで、それがどーかしたか」 「あのね。できればナガメの口から聞きたいんだ……ラムさんって、どんなひとだった? きみが一番使いまわしてるふたつの姿は、あのひとを模したんだよね……?」 質問の内容にも驚いた様子はなかったが、答えるまでに意外なほど長い間があった。やがて、スマホの明かりがフッと消えた。 どんなやつかー、と少年は短く唸る。 「いつもは押しが弱いくせに、しょーもないとこでガンコ。潔癖? そんで昔はなきむしだったな」 「うん」 彼の言う「昔」がいつを指すのかよく掴めなかったが、唯美子は相槌を返した。 「いっぱいあそんでくれた。いいやつだった」掛け布団を頭から被ったのか、布が擦れる音の後、言葉が途中からくぐもって聴こえる。「もっと、あそべたのに」 言葉尻に向かって早口になっていた。 あのひとの結末は、思っていた通り、明るく幸福ではなかったのだと察する。 (どんなに経ってようと辛いものは辛いんだ) 嫌なことを思い出させた罪悪感に、とにかく慰めなくてはと慌てる。逡巡してから、布団の盛り上がりにそっと手の平をのせることにした。 一転して、気が付けば布団の中に引きずり込まれていた。 己の右手首の方を見つめた。暗がりで何も見えないが、確かに巻き付いたぬくみが――細い指が、あった。 「もっときくか」 「きみが話したい分だけ、わたしは聞くよ」 それから続いた間が数秒だったのか数分だったのか、正確なところはわからない。ただその間ずっと、小さな手から力が抜けることはなかった。 「…………ハカを」 「え?」 ハカオとは何だろうと首を傾げると、ナガメは静かに続けた。 「すげードラマじゃあないし、たぶん特別でもなんでねーんだけど。おいらが――」 ――ニンゲンに墓を建ててやった話をしよう。 亀の歩みで申し訳ない…。 3話でお会いしましょう! |
3-2. e
2019 / 01 / 15 ( Tue ) 「どうやって」
「誰かに教えてもらいなさい」 織元はそっけなく答えた。立候補をするつもりはないようだ。打って変わって、笑顔で唯美子に向き直る。 「すぐに食事をお持ちします。食べられないものがありましたら、教えてください」 「ありがとうございます。食べられないものはたぶんないです」 「わかりました。ではしばらくお待ちください」 彼は会釈してその場を後にした。 (至れり尽くせり……) 唯美子ひとりのみのためのルームサービスとなれば、いよいよ先ほどの懸念が現実味を帯びてくる――彼らには食卓を囲う習慣もなければ、その必要もないということだろう。 ついでに言って、部屋の隅に用意された布団は一組だけだった。 (そこに面白い意味は一切ないんだろうけど) ドラマなどで旅館のスタッフが「あとは若いお二人で」と気を利かせるのとはわけが違う。ナガメはどんな場所でも寝るので布団を用意しなくてもいいだけの話だ。彼は寝心地の良し悪しに頓着したためしがない。 むろん、知り合ってこれまでの月日、同衾した回数はゼロである。 荷物を置いて座布団に腰を落ち着かせると、静まり返った空気が気になってくる。この家にはほとんど生命の気配が無いような気さえする。 「織元さんの家って、ほかに住んでるひといないの」 「僕《しもべ》ならいるぜ。ふだん地中に潜ってるみたいだから姿をみかけたことねーけど」 手元の本を未だ睨みつけたナガメが答える。 (地中かぁ。盲点だったな) おもむろに足元に目線を落とした。白い靴下をはいた己の足の下に、畳が敷かれた床よりずっと下にも、未知の世界が広がっているという。 「『自分の知る世界が、世界のすべてではない』」 「んー? なんだそれ」 「どこかで聞いた言葉……意味はたぶん、自分が日頃意識している世界以上に世界は広いんだって感じじゃないかな。わたしにとってのナガメたちは、まさに知らない世界の有無を意識させる、ふしぎな存在だよ」 「しらないと、どうなんだ」 ――こわいよ ひと呼吸の間をかけて迷ったが、結局言い出せなかった。 ひゅるり、冷たく湿った風が部屋を吹き抜ける。何かに追い立てられたように、二匹のトンボが慌ただしく飛び込んできた。窓が開け放たれている点に、唯美子はその時はじめて気が回った。 寒いから窓を閉めてもいいかと訊ねる。どーぞー、と興味なさげな返事があった。 夕食を待つ間が手持ち無沙汰だ。床に座ってスマホを弄っていると、衣擦れの音がした。 ナガメが本を持ったままごろごろ回転している。よく目が回らないものだ――漏れそうになる笑いをこらえて、声をかける。 「ひらがなとカタカナ、わたしでよければ教えようか」 回転が止まった。かと思ったら小さな背中が反転した。転がりすぎたのだろう、いつしか紺色の浴衣が大きくはだけてしまっている。そこから覗く胸元の皮膚は鱗に覆われていた。一日に何度か変化すると段々と粗が目立つようになるものらしい。 浴衣だけでも直してやりたいが、訝しげに細められた双眸に躊躇した。 「なんで? ゆみ、別にひまじゃねーんじゃん」 「暇かどうかじゃなくて、わたしはきみが日本語が読めるようになったらいいなって」 「なんで?」 同じ質問が繰り返された。どう答えたものか、唯美子はやや首を傾げて言葉を探した。 「知らない世界が開けた時の感動を、味わってほしいから……? そういうのって、傲慢かな」 「ぬー」 少年は本を閉じて四つん這いから起き上がる。分厚い小説のタイトルは「籠城の果てに慟哭」だった。いったい織元は彼に何を読ませようとしているのか。 「昔、ナガメがわたしにひとつの感情を手放してみろって言ったよね。その逆かな。いろんな気持ちを取り込んでみたら、面白いんじゃないかな」 |
3-2. d
2019 / 01 / 06 ( Sun ) 「戦利品の提示をどうぞ」
「おう」 促され、少女は胸元に手を突っ込んだ。そんな真似をしたら襟元が伸びてしまう――唯美子は制止の声を出しそうになり、思いとどまる。 (ほとんどの服も擬態だって言ってたっけ……って、わっ!) ブラウスの下からにゅっと現れたのは、干からびた手に似た何かだった。正直、見つめていて気分の良いものではない。だというのに美丈夫もまた、何でもなさそうに干からびた手首を着物の内にしまっていく。 「確かに受け取りました、これにて依頼完了とします。ご苦労様でした。報酬は食糧と金品のどちらにしますか」 「んじゃ、今回は金目のもん」 「了承しました」 ビジネスめいた会話が終わると、こちらに気付いて、ナガメが軽く手を振りながら近づいてきた。かと思えば怪訝そうに片眉を捻った。 「なんでゆみ、泣きそーな顔してんだ」 「え?」 無自覚のうちにどんな顔をしていたのか、確認のため己の表情筋に手を触れてみる。それでもよくわからなかった。泣きそうと言われても泣いていたわけでもないらしく、頬は濡れていない。 もしも悲しい顔をしていたとすれば、きっと先ほどまでに辿っていた過去の像を想ってのことだろう。そのことを詳しく語るのは憚られる。 「ところで」音もなく織元が傍まで歩み寄ってきた。「風呂を沸かしてあります。お使いになりますね? いっそのこと、ふたり一緒に入りますか」 「それはだめ!」 半ば条件反射で否定するも、はたとなって現在のナガメをまじまじと見上げる。見られている当人は、きょとんとした表情で長い睫毛を上下させた。 どこをどう見ても女性でしかない。では何故、揃って風呂に入るのがだめなのか。彼の中身を異性と意識しての反応かもしれないが、そこでもまた疑問が沸き起こる。この異形のモノは異性と思っていいのだろうか。今更ながら、蛇であった頃に雄だったと明言されたことがない。 「……まさか小さい頃に一緒に入ったことがあったりする?」 「じょーだん。湯はむかしから苦手だ」 滑らかそうな女子の手をひらひらと振って、ナガメはあっさり否定した。 「そうなの? わたしのアパートで入ってるのはお湯じゃないの」 「冷水にきまってんじゃん」 「えぇ……寒いよ」 想像してみたら遅れて身震いがやってきた。どこまでも彼は唯美子の当たり前の感覚とかけ離れている。だがひそかに、一緒に水を浴びたことがないというその答えに安堵した。 気が抜けたらふいにくしゃみの衝動に襲われた。風邪をひいてしまう前に、風呂には入っておくべきだ。 「お言葉に甘えて、わたしは浸かってくるかな」 店の裏に居住スペースがあるらしく、奥に案内された。店を後にする時に目に入ったアナログ調の壁の時計は既に七時を回っている。夕食はいつも何時くらいなのかと問うと、「あなたの望んだ時が食事時です」などと曖昧な答えが返ってきた。彼もナガメ同様、毎日食べなくても平気なのだろうか。 まとまりのない思考で風呂に入り、芯まで温まって、ぽかぽかとした気分で上がった。心地良い眠気を迎えつつ、持参していた寝間着に着替えた。 廊下に出ると、壁に背をあずけて織元が待っていた。縦縞の入った揃いの浴衣と羽織を纏い、髪をゆるく三つ編みにしている。 「ヒヨリ嬢の古い衣服を見つけたんです。背丈もあまり違わないようですし、差し上げます」 「ありがとうございます。おばあちゃんの服、持っててくれたんですね」 丁寧に折りたたまれた着物の束を受け取る。 「元より、返す機会を逃したもので」織元は薄明かりに艶美な笑みを浮かべた。「では客室に案内いたします」 彼の足取りに応じて、ぎ、と一度だけ床が軋んだ。 家に漂う木材の匂いにどこか懐かしさをおぼえながら、唯美子は廊下を進んだ。あとは柔らかい布団に飛び込めれば言うことなしである。 織元の手がスッと襖を開ける。明るくなった視界に慣れようと、唯美子は目元に手をかざした。 部屋の中には先客がいた。畳の上に仰向けに寝転がる子供は、分厚い本を手に持って唸っていた。 その少年の姿を認めて、唯美子の心臓は小さく跳ねた。 「いかがですか、その小説。結構面白いでしょう」 「んにゃ、ぜんぜん読めねー」 「いい加減、平仮名と片仮名をおぼえたらどうです」 |
3-2. c
2018 / 12 / 17 ( Mon ) 地面にまで下りて、草の隙間を縫っての進行に移った。次にどこへ向かうのか、皆目見当がつかない。 外は薄暗かった。(時系列で言えばさっきの場面より前、でいいんだよね) 木陰でナガメの進行が止まったかと思えば、形容しがたい感覚が全身を包んだ。 超高速で、あるはずのものがなくなって、あったものに替わって何かが浮かび上がっている。自分自身が、元の場所から脱していくようだ。 数分して、曖昧にしかつかめなかった周囲のイメージが鮮明になっていく。足元を見下ろすと、小さな蛇が脱皮した抜け殻があった。それをナガメは感慨なさげに踏みつぶす。 「ここにいたか」 突然かけられた声の源をたどると、息を切らしたラムが、いつぞやのように大股で駆け寄って来ていた。彼は流れるような慣れた動作で、自らの羽織っていた上着をナガメに譲った。 「外で変化したら寒くないか」 「へーき」 「だからって全裸で歩き回るな。誰かに見られたら、」 「わーってるって」 幾度となく繰り返されたやり取りなのか、ナガメは煙たそうにする。少年の体には明らかに大きすぎる着物になんとか帯を締めて、再び顔を上げた。 「で、なに」問われた青年は目に見えて怯んだ。きっと言いにくいことだろう、唇が微かに震えている。「てかなんつー顔してんだ。おまえ、なぐられたんか?」 その言葉で、唯美子はラムの顔を二度見した。すると片方の頬が、最初に目に留まらなかったのが不思議なくらい、すごいことになっていた。顎まわりが腫れてあざができ始め、口元には血がついている。 「そうだ。歯も一本抜けてしまった」 「うわーヒサンだな。ただでさえオトナの歯は生え変わらないんだろ」 「……どうして蔵の食べ物を盗んだんだって、あのひとに事情を聞こうとした。でも取り合ってもらえなかった。自分はやってないの一点張りで、しまいには激昂して……このザマだ」 「なにやってんだよ、ばっかじゃねーの。犯人がスナオにやりましたってふつう認めるわけないじゃん」 ナガメは青年の脛辺りに軽い蹴りを入れる。ラムは短く呻いた。 「返す言葉もない。僕はお前の証言を信じてるけど、あのひとが目を合わせて否定してくれれば、そのまま受け入れようと思っていたんだ。だけどかえって不信感を抱いてしまう結果になった」すっかり意気消沈したような、悲しい苦笑を浮かべる。「教えてくれないか。お前は動機を知っているって、前に言ったな」 知ってる。肯定を述べて、ナガメはぽすんと草の上に腰をかけた。隣の位置を手の平で叩いて、ラムにも座るように示した。青年は神妙な面持ちで応じた。 それから少年は語る。 これまでに見聞きしたすべてを。三つ子を産んだ夫婦の抱える秘密と、その代償を。最後に彼らの悪意の向いた先についても、淡々と伝える。 当事者となってしまった青年はまず驚きに目を見開き、表情を曇らせ、そして深く頭を垂れた。 「話してくれて、ありがとう。蛟龍」 一言一句、重いものを引きずるように、彼は口にした。 「ん。これからどーすんの」 胸中に巣食う心配を声に出さないのは努めてのことなのか、それとも自然とそういう仕様なのか。ナガメは足元の草を片手でぶちぶちと引き抜きながら返事を待っている。 そんな折、唯美子は思い返した。水田でラムを見送った際の独り言を。 (責められない……きっと同情する) かくして、憂えていた展開に繋がったわけだ。 「どうもしないさ。どうしようも、ないことだ」 ナガメが俯いていたため表情は見えなかったが、答えたラムの声は穏やかだった。 「ほんとばっかじゃねーの」 ――ぶちっ。 ひと際大きな音を立てて、草の束が根ごと大地から引っこ抜かれた。 * 他者の記憶をたどる旅が中断された。まだもやのかかった頭で、なんとなくそれだけは理解できる。 夜中に細かい物音で起こされるような浮遊感があった。人工的な灯りが照らす室内は明るく、目が慣れるまでに何度も瞬きをしなければならなかった。あの三人組の女性客は既に立ち去った後なのか、それらしい影が見当たらない。 ふと唯美子の耳に剣呑なやり取りが届いた。意識が呼び戻された外的要因はこれか、とゆっくり上体を卓から起こす。 「てめーはいつも面倒ごとおしつけるな。大物相手ならさいしょからそう言え、よけーな体力つかわせやがって」 「おや、あなたほどの個体に『余計な体力』という概念があったとは驚きです。もしや苦戦したのですか? いい気味ですね」 「狸のくせに狐みたいな顔すんだなー」 「それより水を滴らせながら店内を動き回らないでいただきたい」 「なんか拭くもんくれ」 手ぬぐいが宙をよぎったところで、ちょうど唯美子の目の前がクリアになった。出かけた時と同じ、十六歳ほどの少女の姿をしたナガメが、乱暴な手つきで髪を拭っている。 (この姿も知ってるひとを写したのかな) 段の入ったショートヘアやほっそりとした手足、上下が完全にコーディネートされたパステル色のふわふわとしたブラウスとスカートが、あまりにも調和が取れている。かなりの美少女と言えよう―― 片足を椅子にあげていなければ、の話だが。いかに見た目が可憐そうでも、中身まで擬態する気がないのかもしくはこの場は織元の目しかないのでスイッチを切り替えているのか、ナガメはやはりナガメだった。 |
3-2. b
2018 / 12 / 02 ( Sun ) おうむ返しにナガメが「感謝な」と囁いた。 「わからない感情だ」「わかりたいか? 初めて会った時と比べて、今のお前は、人間に大分興味を持っているように見える」 少年の表情筋が動いて、むっとした顔をつくった気がした。しかしラムには見えていなかったのか、言及されなかった。 「身ひとつでこの国に着いたばかりの頃、右も左もわからなくて、言葉もしゃべれなくて、どんなにか不安だったか。村人たちが見つけて受け入れてくれたおかげで僕は、毎日……屋根の下で眠れて、温かいご飯が食べられた。幸せだよ。十何年もの間、ずっと、幸せだ」 ナガメは何も答えず、ただ嘆息した。会話が途切れ、風の音ばかりがしつこく響く。こんな状況では満足に眠れるはずがない――。 ふと、ラムの言葉が過去ではなく現在形であることに、唯美子の意識が向いた。 「蛟龍……お前も長いこと、よく僕の平凡な人生に付き合ってくれたものだな」 「こんなん、まばたきの間ですらねーよ。もっとつきあわせりゃいいのに」 「……感謝してる。もうお前がこの国に留まる理由もなくなるな……最後に頼まれてくれないか」 「やだ」 食い気味に答えて、ナガメはそっぽを向く。 (なんてもったいない!) 友と過ごせる限られた時間だというのに。穏やかに過ごしたいと、彼は思わないのだろうか。こんな時、最期の願いを、叶えてやりたいものではないのか。しかしナガメが自分で明確に「友」と口にしたわけでもないので、こちらが勝手に親しい間柄なのだと勘違いしているのかもしれない。 (それにこの拒絶の仕方はどっちかというと、認めたくないみたい) 大切な相手がいなくなるのだと信じたくないがために、話題を全面的に否定してしまう心理だ。唯美子自身は逆にできるだけ相手に尽くしたくなるタイプだが、母辺りは、こうだった気がする。 結局、風景が中途半端なところで崩れてしまい、続きを見ることはできなかった。 次の場面は一室を見下ろすようなアングルからだった。 だが遠近感がおかしい。というより視界そのものが不明瞭で、色彩が極端に少ない。待てども、ナガメ自身が動こうとする気配がない。 なんとか慣れない映像からヒントをかき集めようとした。 体の感触にも違和感がある。まるで全身が触覚になっているような、座っている時よりも「地面」に触れている表面積が多く感じるような――温度情報に敏感になっている気がして、そこでようやく思い至る。 (これって蛇バージョンなのかな) 蛇と言っても既存の枠からはみ出た身だ、ナガメの五感はたぶんかつて同種だった蛇よりも優れているのだろう。視界はやがておぼろげながらちゃんと形を成し、聴覚も人の声を拾い始めた。 男性と男性が囲炉裏を挟んで何かを言い争っている。若い方の男性の糾弾を、年上の男性が頑なに受け付けない感じだろうか。泣き喚く赤ん坊をあやす女性が、不安そうにふたりを見比べている。 言い争いはこの場では解決されなかったのか、ついには年上の男性が立ち上がって出口を指さし、もうひとりの男性を追い出した。 「ねえあんた。あのひとはあれで、ごまかせたのかな」 女性の問いに、男性は舌打ちした。 「だめだろうな。なんでばれたかわかんねえが、おれたちが蔵のもんをとったって、知ってやがる。ほっといたら告げ口すんじゃねえか」 「どうしよう!」 女性がわっと泣きだした。それを夫らしき男性が「騒ぐな! 近所のやつらが不審がる!」と怒鳴りつける。 (この夫婦、山に来てた……!?) 自分の背筋でもないのに、スッと冷えたような感覚があった。これが古い時代なら、きっと双子が忌み嫌われていたはずだ。双子どころか三つ子となれば、村の者からひた隠しにしなければならないのも致し方ない。 聞けば、真実を唯一知っていた産婆が流行り病で死んだため、夫婦は自分たち家族に運が向いていると考えたらしい。なんとかこっそりと子供を育てようとしたが、さすがに三人分の乳を出し続けるには授乳の頻度が足りなかったし、母親の疲労も著しい。 (かわいそう――) 同情しかけた次の瞬間、耳を疑うはめになった。 「なすりつければいいんだ」低く、泥の中を這うように笑って、夫が提案した。「そうさ、告げ口される前に告げ口してやりゃあいいんだ」 「そんな! 村のみんなにうそをつくってのかい。あんないいひとに、そんなひどいことできないよ!」 「きっとみんな信じるさ。それともなにか、おめえはわっぱの命より縁もゆかりもねえ南蛮人がだいじだってえのかい」 「そうじゃないよ……でもラムさんは何年もいっしょに畑で汗流した仲間じゃないか……」 「わかってる。背に腹はかえらんねえだろ」 話はなおも続いたが、妻の説得が夫に届くことはなかった。 (ナガメはこうなるって、いつから予想してたのかな) しゅるり、小蛇の体は屋外へと進み出る。 |
3-2. a
2018 / 11 / 26 ( Mon ) ひどい騒音が空間に反響している。継続的に聞いていては頭痛を引き起こしそうなそれは、折り重なる赤ん坊の泣き声だった。 ――前回の記憶の断片の始まり方とは打って変わって、ここは落ち着かない。「うるせー」 ナガメがわずらわしそうに小指で耳の穴をほじくる。しゃがんで覗き込んだ先は、浅い洞穴のようだった。 「みつかりたくなかったら、だまってたほうがいいぜ」 少年が洞穴の中に無造作に手を突っ込むと、泣き声はたちまち勢いを失くしていった。 静寂を取り戻した暗闇。ひんやりとした風、木々の匂い、まるで山にいるような印象を受ける。ナガメの記憶を通して五感の情報を得ている唯美子は、奇怪な状況に驚いていた。 穴の中にはまだ生後数か月といったところの小さな赤ん坊がふたり、一枚の布にくるめられて寝かされている。 「しょーがねーな」 そう言って、少年が己の袖を破いた。もともとあまり強靭な生地ではなかったのか、紙を破くような容易さで着物が裂けていく。小さな布切れ二枚を、ナガメはそれぞれの赤ん坊に巻いてさるぐつわとした。 (だ、大丈夫なのかなそんなことして……おしゃぶりじゃあるまいし、苦しいんじゃ) 異を唱えようにもこの映像はすでに過ぎ去った記憶、変えようのない出来事である。どこの誰の赤ん坊が山奥に捨てられていようと、助けてやることは叶わない。 にわかに空気が震えた。直前、ナガメは己の呼吸を鎮めたようだった。 猛獣の気配に反応したのだ。夜の山に赤ん坊が置き去りにされていて、近隣の肉食獣が興味を抱かないわけがなかった。 「また来たのか」 闇の向こうから威嚇してくる野生動物にまったく引けを取らずに、ナガメの発した声は底冷えしそうな迫力を有していた。しばらくして、猛獣の足音は遠ざかっていく。 (「また」……?) 慣れた様子で、少年は歯と歯の間から鋭い呼気を吐き出していた。こうして赤ん坊たちを脅威から守ったのが、まさか今夜が初めてではない――? 疑問の答えは、少しずつほどかれていった。 夜が更けると新たな来訪者が現れ、赤子のおむつを替えたり体を拭いてやったり、粥のような食事を与えてやったりと手厚く世話をした。その男性が穴に近付くよりずっと以前に、ナガメはさるぐつわを取り除いて己の身を木の上に隠していた。 もっとも驚くべきは、男性が別の赤ん坊を背負ってきたことだった。帰り際にその子を置いて、ほかのどちらかを入れ替えに持ち帰っていく。 これが毎晩続いた。男性の妻であろう女性が来ることもあった。 (村にいてはいけない子供を、こっそり生かしてるみたい) それをナガメは邪魔をするでもなく手伝うわけでもなく、時々やってくる肉食獣を追い払うだけして見守っていた。 けれど何故だか子の両親を見下ろすナガメの心情には蔑みが――否、怒りが――含まれているように感じられた。 そういえば順不同だった、と次の場面に移り変わった時に思い出した。物置のような狭い小屋の中は、血管が凍りつきそうな寒さだ。もしかしなくても季節は冬である。 数分おきに木板を叩く風がいやに激しく、唯美子は竦み上がりそうになる。けれど記憶の主である少年は恐怖どころか寒さも感じていないらしく、それどころか燃え上がりそうな怒りを胸の内に宿していた。 こんなに激情することもあるのかと唯美子が驚いていると、向かい合っている青年もまた、同じ感想を漏らした。 「お前でも怒るんだな、蛟龍《ガウロン》」 「そっちがくだらない理由でしにそうになってるからな」 ナガメが苛立たしげな早口で応じる。ラムは苦々しく笑った。 小屋の中は真っ暗だが、ナガメは夜目が効くため簡単な輪郭以上の映像が網膜に映っている。水田を歩いていた健康的な青年の面影は今やほとんどなく、痩せ細って皮膚と骨しか残っていないような儚い命が目の前にあった。 (どうして……それにさっきから気になってたけど、この臭い……) まるで何日もここに閉じこもっていたような――。ただし閉じ込められていたのだとすれば、ナガメはどうやって小屋の中に入ったのだろう。 ラムは座っているだけでも億劫な様子だったが、物置きは散らかっていて、横になれるようなスペースがなかった。壁に背をあずけるのが精いっぱいだ。 「くだらない……か」 「そーだよ。なんでお前がこんなとこで朽ちてやんなきゃなんねーんだ? ぬれぎぬだし、ばかばっかりだし、逃げるなら手を貸すっていったじゃん」 「ありがとう」 「だー! 礼は言っても、来る気はないんだろ」 ラムは今度は「ごめん」と小さく笑った。 「罪を認めれば領主さまのもとで裁かれる、逃げたなら罪を認めたと同じ、それか無実の主張を貫いて餓死するしかない。選択肢をぜんぶ検討したうえで、僕はこうするのが一番だと決めた」 「納得いかねー」 「……あの人は、決して名乗り出ない。せめて僕ひとりの口減らしができるなら、結果、村のためになるだろう」 「そこがいちばん納得いかねー。なんで、ラムがしんでやんなきゃなんねーんだ。逃げていきのびればいーだろ? べつの村にいけば? 最悪、ひとりで野に生きてればいいじゃん」 「別の村に辿り着いても、領主さまからお触れが出るはずだ。どこまで逃げれば安息がある? 前にも教えただろう、人間は社会がないと生きていけない。孤独に生きるくらいなら、僕は民家に囲まれて死ぬことを選ぶ」 「わっけわかんねーよ! 生きてればそれでいいじゃん。生きてる以上に、なにがそんなにだいじなんだ」 ふしぎだ、とラムは静かに呟いた。 「永遠のような生を送る化け物が、生きることそのものを至上とする――生きていることを、誇りに思うんだな」 「…………」 「きっと人間は、どうしようもなく欲張りなんだ。息をしているだけじゃあ物足りないと感じてしまう――……蛟龍、僕は」 消え入るような声だった。ナガメはしゃがんで続きを待った。 「この村に感謝している。未練や悔いはあるし、悲しいと思うこそすれ、恨めしいという感情は少しも無いんだ」 大筋は立ててあったものの、細部がしっくりこなくて練り直してました。 |
3-1. f
2018 / 11 / 13 ( Tue ) 促されるままに屋内に入ると、そこでは先ほど見かけた女性三人組が歓談していた。通りすがりに会釈を交わして、唯美子は隅の席に腰を下ろす。 織元から渡された手ぬぐいとしいたけ茶を手になんとか人心地がつく。けれど頭の中はつい先ほどまで見ていた白昼夢でいっぱいだった。まとまらない思考、次々と沸き上がる疑問。ざあざあと激しく降り注ぐ雨の音が、心のざわめきを余計に掻き立てる。 (いまどき年貢を収めてる地域なんてあったっけ? もっと昔の時代なのかな) 知らない日本と、知らない彼。訊いたら答えてくれるだろうか。 それとも二百年近くナガメと知り合っているという、ちょうどいま近付いてきているこの男性なら、答えを持っているだろうか。 「織元さん」 「はい?」 彼が隣の席に腰を掛けてくるより早く、声をかけた。長髪の美丈夫は艶やかな黒目で見返してくる。 「わたし、気を失ってたんですか」 「そうですね。すぐ傍に落ちていた小瓶の欠片で、何が起きたのか察しがつきましたが」 「あの小瓶は何なんですか……あやしい術がかかってたんですか」 言ってから、詰め寄りすぎたか、余裕のない訊き方だったかなと反省した。卓の上で乗り出していた上体をさりげなく引き戻す。 ところが織元の方から距離を詰めてきた。互いに吐息がかかりそうな近さで、彼はフッと口角を吊り上げた。 「この茶屋では茶や菓子や茶葉のほかに、ちょっとしたサービスを提供しておりまして」 「裏メニューみたいな」 「ええ、そんなものです。私の本性を知らずとも『すこしふしぎな品揃えの店』とニンゲンたちの間にも噂が広まっています」 目を輝かせて織元は語った。いままでに解決したトラブルや、処方した薬について。 「あの小瓶は試験的に作っているもので、いくつか試作品があるのですよ。対象の記憶を抜き取って、本人が意識していない細部まで磨いて顕現させる術です。本来、記憶とは断片の寄せ集めですからね。正確性が次第に落ちるのはもちろん、感情との結びつきによって意図せず改ざんされることもありましょう。紡がれた場面を己で見つめ返して懐古に浸るもよし、誰かに渡して共有するもよし」 「……ではあなたは、あの子を実験台に」 織元が無言でにっこり笑ったのが答えだった。中身も見たのですかとおそるおそる問うと、整合性を確かめる必要がありますから、と至極当然そうにうなずかれる。それから織元は意味深に顎に手を添えた。 「割れた瓶の内容は一場面でしたね、確か」 「もしかして続きもあるんですか!?」 「あるとすれば、どうします。紐解きたいですか、ミズチの旧い記憶を。そこにどのような痛みや激情が含まれているのか興味がおありでしょう」 それは、と唯美子は口ごもった。甘やかな言の葉が、半ば誘導尋問のようだと気付けずに。 「試作品は無料で提供いたしますよ」目にも止まらぬ速さで織元は小瓶を五、六本取り出し、卓の上にずらりと横一列に並べた。「順序不同です。初期に作っていたものは断片的で内容が整理されていないのが難点ですが、どれからでもどうぞ。目にさしてご利用ください」 もはや押し売り販売――いや、販売ですらないのか。 「待ってください!」 色とりどりの小瓶の列に視線を張り付けていながら、唯美子の脳裏には、ラムの言った「本人の知らないところでする話じゃない」という言葉が浮かんでいた。首を傾げる織元に、つたない言葉で己が躊躇する理由を語る。 「ああ、ご心配なく。他者に見られて心底困るものを、実験に出したりしないでしょう。もっとも我々の間にはそんな思いやりや気遣いがありませんので、ユミコ嬢がマナーに反すると気にしていても、私はまったく気になりません」 ――見られて困らなくても、進んで他人に開示したい過去とは限らない。 なおも抵抗する唯美子の手を、美丈夫はさりげなく取った。思わず息を呑むほど冷たい手だ。黒い瞳に刹那の燐光が浮かび上がる。 「構いません。こうした方が面白い結果を生みそうなので、勝手ながら手を打たせていただきます」 手を打つってどういう――。 声が出なかった。視界がスローモーションにたわんでいく。意識が遠ざかるわけではなく、見える世界が作り替えられている。 「目を開けたまま眠るような感覚でしょう。ごゆっくりどうぞ」 耳元に聴こえたひと言の言いしれぬ不気味さに、指先が震えた。 後ろめたく思う。けれどそれ以上にナガメとラムのかつての物語の結末を知りたくて、唯美子は好奇心のままに記憶の奔流に身を任せた。 |
3-1. e
2018 / 11 / 05 ( Mon ) (誠実そうなひと)
驚くべき印象の違いだ。この捉え方がむしろ逆か、ラムがオリジナルなら、ナガメが海賊版のようなものだろう。彼が真似たのは明らかに容姿だけである。 立ち去ろうとする青年を、少年が呼び止めた。正確には草履の後ろを、かかとが離れた瞬間を狙って踏んづけたのである。ラムは盛大にたたらを踏んだ。 「げんきだせよー」 そう言って着物の懐から何かぬめったものを取り出す。手の平に触れた感触は冷たく、感覚を共有している唯美子は、背筋を這うような気色悪さをおぼえた。だがそうであっても悲鳴は出せない。 「……また蛙をとってきたのか」 振り返ったラムの表情に驚きや嫌悪は表れておらず、ただ呆れがあった。 「おう。蔵なんかにたよらなくてもたべものはそこらじゅうにあるだろ」 それには、ラムは少し笑ったようだった。 「食糧難が気がかりで元気がないわけじゃないさ。蛟龍、お前は相変わらずだな」 「なんだよ。たべねーの?」 「焼けた時の匂いで周りに興味を持たれたら困る。この国はどうやらあまり蛙が食卓にのぼらないようだ」 「はあぁ、ニンゲンは気にするトコが多くてめんどくせーなー」 「仕方ない。前にも話しただろう、人間には群れが必要なんだ。嫌われたら困るし、少なくとも僕は居場所が欲しい。暖かいごはんや屋根のついた家を持っていても、安心して帰れる家じゃないと意味がない。人の気配を感じながら目を覚ましたいんだ」 「ラムはひとりぐらしじゃん。カゾクいないじゃん」 「隣の家から漏れる子供の声や朝餉の匂いがあるからいい」 「ふーん。おいらはひとりのが安心できるけどな」 わからない、との内なる声が聴こえた気がした。 (ナガメには前者のふたつだけで十分なんだ。お腹いっぱい食べられて雨風にさらされないなら、それで満足なんだね) 仲間や同族に囲まれた団らんをこいねがうことがない、個のみで完成された生物。生殖能力も備わっていないから伴侶を求める必要もない。それを唯美子が寂しいと思うのは、余計なお世話なのかもしれない。 (このひととは仲良さそうだけど) 話しぶりからは旧友のような距離感が読み取れる。 水に映った屈託のない笑みを思い出す。織元とは嫌々関わっている風に見えたナガメが、この青年には飛びついて近付いていったのだ。ラムの方も、異形のモノと知っていながら邪険にしない。 「おまえさ」 「ん?」 深刻そうに話を切り出そうとする少年。対する青年は、三角笠の紐を結び直しながら、微笑を返す。 ナガメが何かを伝えようとして躊躇したのが、わかった。 「……これからなにすんの? ひまならあそぼうぜ」 「残念ながら暇ではないな」 遥か遠くを流れる薄雲を見上げて、ラムは頭を振った。 「んなら、やることおわったらあそんでー」 「家事や用事が終わるのが夜中だったら、さすがの僕も疲れて遊べないぞ。ちなみに具体的に何がしたいんだ」 「んーと、カエルとり……?」 「その手に持っているものは何なんだ!」 鋭く突っ込んでから、ラムはハッとして辺りをきょろきょろと見回した。怒鳴ったのが誰かに聴こえなかったのか気にしているらしい。 「とにかく情報を提供してくれたのは感謝している。また今度、相手になるから」 「ほい。じゃーな」 「以後《イーハウ》再見《ジョイギン》」 意外にあっさりと別れの挨拶を交わした。ラムの後ろ姿が民家の中へ消えるのを待たずに藪の中へ戻った。 「おまえにはせめられないだろ、あいつが。きっと同情する」 ため息交じりの独り言。瞬間、唯美子には手に取るようにわかってしまった。 ナガメはあの青年の未来を憂えていた。 確かな予感をもって、心配、していたのだった。 「――嬢。ユミコ嬢! お気を確かに」 近くで呼ばわる美声が、意識を現実あるいは現代へと引き戻す。視界が明瞭になると、至近距離に織元の顔があった。長髪から滴る雨粒が唯美子の頬を打つ。 「あの、わたし、」 「よかった。戻って来られたのですね」 彼が唯美子の身を襲った現象をしっかりと把握していることを、戻ってきた、の言い回しが物語っていた。問い質すも、織元はとりあえず屋内で話をしようと答えた。 お待たせしてしまいすみませぬ(o_ _)o)) 旅行から戻ってきて風邪に翻弄されてましたが、それ以外には大きく体調を崩すことなく普通に生きてます。ねむい。 |
3-1. d
2018 / 10 / 08 ( Mon ) 「この時期に田んぼ見ても気持ち悪いんじゃないの。ヘビがうじゃうじゃいるでしょ」
「そデスね。いぱい、います」 「まあラムさんはヘビ怖くないものね。それよりもねえ、ちょっと困ったことになってて」 「大丈夫デスか?」 「あのね……」 離れているのに、二人の話している内容がよく聴こえた。 女性の相談は、食物の蓄えが少なくなっていることにあった。ただでさえ毎年領主に年貢を納める量が多いのに、これでは村の皆が食べる分までなくなってしまう。何か心当たりがないか、怪しい動きをした者は見ていないか、そういう話だった。 なんでも、このラム氏はよく蔵に入り込む小動物の退治を任されるらしい。他に出入りしている人間がいれば、いち早く目にするはずだった。 「わかりまセン。今度から気をつけてみマス」 「いつもありがとうねー」 人の好い笑顔を浮かべて、女性は踵を返した。彼女を見送りながら、ラムはのんびりと手を振る。 女性の姿が家屋の陰に消えるのを見届けて、彼はぐるりと身を翻した。 「――ガウロン!」 ものすごい剣幕だ。大股で坂を駆け上がって来る。 「まだそこにいるんだろう、蛟龍《ガウロン》。出てこい」 彼が口にしたのは耳慣れない単語だったのに、呼ばれたのだと何故かわかった。 (何語なんだろう) 先ほどの女性と交わしていたのは間違いなく日本語だった。しかし今話しかけられているのは違う。言葉の意味は何故か理解できるが、音の羅列や抑揚の付け方に、未知の響きがある。 藪の中から歩み出ると、唯美子は己の目線の低さにぎょっとした。ラムの腰辺りを見上げている程度である。 そして口を開けば舌から転がり出て来たのは、相手と同じ言語だった。 「なにおまえ、なんかおこってんの」 「それだ。その姿でうろうろするなと言っただろう、過去の鏡像をみているようで気分が悪い。誰かにみつかったらどうするんだ」 頭のてっぺんをはたかれた。瞬間的に痛かったが、怒りをおぼえることはなかった。 「えー? 弟ができたみたいだっておもえばいいんじゃん。おまえ、末っ子でずっと弟妹がほしかったって言ってたよな」 「そんな無茶な。何百年も年上の弟がいてたまるか。いきなり村人たちに紹介しても、不自然すぎる」 「ラムのいじわるー、懐がせまければココロもせまーい」全くやる気のない罵り言葉を吐きながら、ひと跳びで青年の背中にとりつく。「おいらに、小蛇の姿でいろってゆーんか。タイジされろってかー」 「別にそこまでは。もっとこう、違う動物に化けたらいいじゃないか。小鳥とか」 「でもなー」 ラムの背中から水田の縁まで飛び降りて、しゃがみ込んだ。 水面に映っているのは、前歯の欠けた少年。そこを嬉々として指さした。 「でもおいら、おまえのカオ気に入ってるし」 「…………」 リアクションに困る、と言いたげな苦い表情で、ラムは額に手の平を当てた。 ようやく唯美子は悟った。 ――この幻は、記憶だ。 どういう原理かはわからないが、おそらくナガメの記憶の中に囚われているのだろう。彼の経験した会話、事象をたどっているのだから、唯美子の意思で手足を動かせないのは当然だ。もしかしたら、あの小瓶に細工がされていたのかもしれない。 そしてもうひとつ。今まで思い付かなかったのがおかしいくらいだ―― ナガメの少年と青年の姿は、知っている人間をなぞったものだった。それ以外の擬態の精度が著しく落ちるのは、モデルとなった人物がいないからか。 するとナガメとラムという男性はどういう関係であったのか。自然と気になってくる。 「なーなー、そんなことよりほかにききたいことあんじゃねーの」 心の内を見透かされ、ラムは大きく嘆息した。 「そういう察しのいいところが全然子供らしくないんだ……蛟龍、やはり蔵の食糧をくすねているのが何なのか知っているのか」 チッチッチッ、とリズムのきいた舌打ちを返す。 「何、じゃなくて、誰、のまちがいだな。しってるぜ」 「一体誰なんだ!」 村人の裏切りが信じられないのか、ラムはナガメの細い肩を掴んで声を荒げた。揺さぶられながらも、ナガメはのんきな声で名を答えた。 「あの人がどうして――いや、言わなくていい。僕が直接訊き出す。本人のあずかり知らないところで、交わすような会話じゃないな」 「そーか? いちおー動機も知ってるけど」 「やめておく」 ラムは弱々しく頭を振って立ち上がった。 |
3-1. c
2018 / 10 / 01 ( Mon ) (なんだろう。織元さんのかな)
もし大切なものだったら雨に濡れては困るだろう。そっと手の平で包んで、屋内に持っていこうと考える。 俄かに視界が明るくなった。 背後の天空を稲妻が駆け抜けたのである。 遅れてやってきた轟音に驚いて、唯美子は大きく肩を震わせた。小瓶を取り落としてしまうほどに。 転がりゆく小瓶を急いで追う。瓶は把手がない形であるため、妨げられることなくどんどん先を行った。ひょっとしてこのまま山からも落ちるのではないかと焦る。 さすがにそんなことにはならなかったが、唯美子の見ている前で、瓶は樹の根元に激突して割れた。 (そんな……) 落胆を胸に、瓶の残骸を覗き込む。大小さまざまな破片となって砕けてしまい、きれいに繋ぎ合わせて復元するのは難しそうだ。 幸いにも中身は空っぽで―― ――空っぽだったのか? 唯美子の視覚は、立ち上る微かな霧をとらえた。雨粒が地面に弾けてできた霧ではないと断じたのは、色がついているように見えたからだ。 己のうかつさに気付かずに、破片のひとつを拾い上げる。 「熱ッ」 指が焼けるようだった。痛みに身じろぎをした一瞬の間に、破片は霧と化した。 紫色の霧が渦を巻いて濃くなる。 ――取り込まれる! 悲鳴ごと、空間から切り取られたような感覚があった。 次に意識が浮上した時には、肌を細やかに打つ水の感触が消えていた。 雨が降っていない。それどころか、振り仰げば、多彩な雲が散らばる晴天だった。湿気や気温は秋というよりも春か夏に近いものがある、と唯美子は奇妙に思いながら辺りを見回す。 そんなに長く意識を失っていたのだろうか。そもそもどうして意識が途切れたのだろうか。 わけがわからずに一歩、二歩と足を踏み出す。 眼前を覆い尽くす藪をかき分けると―― まったく見覚えのない景観が少し坂下にあった。 見渡す限りの、水田。 等間隔に植えられた瑞々しい稲を包む水は穏やかで、明瞭に空の模様を映し上げている。時折響く蛙の鳴き声が、いい雰囲気をつくり上げる。 美しい景色だ。美しいが、感心している場合ではなかった。 (え? え、なんで?) 一気に混乱がこみ上げてきた。 (ここはどこ? いま何時? なんでわたし……さっきまで茶屋にいたはずじゃ) 水田はひとりを除いてほぼ無人だった。ひとりの男性が、叫べばかろうじて声が届くような距離にいて、稲の様子を確かめていた。 三角笠と丈の短い着物を着た青年だ。 (このひとに訊ねてみよう) 体を動かそうとして、しかしうまくいかなかった。何度試しても、意識して手足を繰ることができない。さっきは歩けたのに、何故――? 声も出せない。 やがて青年がこちらに気付いて、近寄ってきた。そのことが不思議とうれしかった。 変な気分だ。まごうことなき自分自身の感情と受け入れるほどに自然に沁み込んで、けれども心のどこかで、これが自分の心情ではないことを俯瞰して知っているようだった。 おかしなことばかりだ。金縛りがとけたのか、藪から飛び出し、青年の元に行こうとした。 彼が笠を右手の親指でくいっと持ち上げた瞬間、唯美子はふたつの意味で驚いた。 (ナガメ……!?) 三角錐の笠の下から現れたのは、確かに見知った顔だった。新たに驚いたのは、その表情が怒っていて、或いは不機嫌そうに見えたからだ。ナガメのこのような表情を見るのは初めてだ。 まるで別人のように、「人間臭い」顔だと思った。 男性の唇が開きかけるのを認めた。 かと思えば、視界がぐるんと反転した。気が付けば再び藪の中に戻り、身を隠すようにして、青年の様子を窺っていた。 「ラムさーん!」 水田の向こうから呼ばわる声がある。女性の声だった。 「ハーイ、いま行きマス!」 これはまた驚いた。確かにナガメと同じ声帯だったが、使い方がずいぶんと違った。喋るトーンはいくらか高く爽やかで、言葉の節々にぎこちなさが――訛りがあった。 別人のようではなく、別人なのだ。 ラムと呼ばれた、ナガメと瓜二つの青年は水田の間のあぜ道を駆け下りて、女性に向かって会釈した。 |
3-1. b
2018 / 09 / 20 ( Thu ) 「少なくとも必要な齢の過半数は重ねているはずです。水神には、眷属になりたがるモノ、利用したがるニンゲンなど、お呼びでなくても勝手に集まってくるものです。どんなにうまく隠しているつもりでも、必ず誰かが気付きます」
織元の言を追うように、橙色の葉っぱがどこからかひらひらと舞い降りる。何気なく目で追っていたら、織元の長い指がぱしっとそれを捕らえてみせた。そのまま口元を覆い隠す。一瞬、葉を食べる気なのかと思った。 「掛かり合いたいと願いますか。あなたは人の身ひとつで、畏敬すべき異形に、つながりを持ち続けてもいいのですか」 遠回しに何を訊かれているのか、察しがついた。安易に頷かずに、唯美子はゆっくりと返事を組み立てる。 「わたしは、ミズチと関わり続けていたいです。でも、彼以外の未知の脅威と向き合えるかは自信がありません。そのためにあなたを訪問しました。わたしの……体質? をどうにかしてもらいたくて」 みなまで言わずとも祖母の師たる彼は知っているのだろう。ナガメも事前に話を通していると言った。 果たして、織元は朱に彩られた瞳を思慮深げに細めた。それから木の葉を口元から取り除いて、薄い唇を開く。ひとつはっきりさせたいのですが、と切り出した。 「どうにかする、とは、あの者との思い出を再び忘却の彼方へ追いやることと同義です」 衝撃だった。期待した答えではなかった。身を乗り出して、抗議する。 「そんな! 改めて相談しに来たくらいだから、おばあちゃんのかけた術とは違う、ほかのやり方があるものかと」 「ええ、この機に改めて検討しました。結論は同じでした。あなたの我々への『認識』が封印をほころばせる。ではミズチにニンゲンのふりを徹底してもらって、あなたからも我々への認識を引き抜くのは、どうか」 唯美子をも欺き、人ならざるものであることを隠すなら―― 「そう考えましたが、いま一度不可視の術をかけたとしても、あの者の残り香がうつってしまえば隠れ蓑は消滅します。解決たりえないでしょう」 「香りって、あの水の匂いみたいな……?」 「匂いと表現するのがもっとも近いだけで、嗅覚が感じ取れるそれとは別です。枠に収まらぬモノを察知する、直感のようなものと言いましょうか。あなたの、そう――我々の瞳がときおり光って見えるのは、そういう直感の表れです」 織元は次々と仮定を積み上げていった。 いっそのこと、ミズチ自身にも「己はニンゲンだ」と思い込ませる催眠と、彼にも不可視の術をかけてはどうか。それも厳しい。ほかの問題点をなんとかごまかせても、擬態に過ぎない体への違和感から自覚が芽生えてしまい、催眠は長くもたないだろう。 「それ以前に、あの子はそんな仕打ちに納得しませんよね」 おや、と織元は唯美子の反論に目を瞬かせた。 「お気遣いなく。あの者からは、あなたの望む通りにするようにと言われています。極端な方法を用いても、承服するでしょう。けれど私の見解では、やはり記憶を消して、接触を断つ以上にうまいやり方はないかと」 「ミズチはこのことを」 「最初から全部、理解した上であなたをここに連れてきています」 ――どうして話してくれないの。 詰問すべき相手はこの場におらず、唯美子はやるせない気持ちを視線に込めて織元にぶつけることしかできなかった。それを受けた正面の彼は、不思議そうな表情で長い髪を結っている。 彼らの性質、だろうか。 ナガメが自由気ままに過ごしているのはいつものことで、悪く言えば自分勝手な性格だが、大事なことは話し合ってから決めると思っていた。その前提はしかし、友人や家族同士でも成り立たない場合は多い。どうして、頼まなくても彼がそうしてくれると思い込んだのだろうか。 この関係はそもそも、いったい何であるのだろうか。 「こちら側からの厄にも立ち向かう覚悟で、我々と関わり続けてもかまいません。あまりお勧めできませんが。あなたはヒヨリ嬢の才能を引き継いでいませんし、また、見たところ『攻撃性』に欠けているようです。たとえば法術の修行をしてみても、実際に誰かに術を向けられるとは思えません」 「攻撃性……」 男性の物腰は柔らかいが、歯にものを着せない言い方をする。曖昧な表現や嘘をつかれるよりはずっといい。妙な感慨を受けた。 「それが悪いこととは言いません。他者を傷つけられないのが、ユミコ嬢の特性であり長所なのですよ」 ありがとうございます、と小さく点頭すると、織元は優しく微笑んだ。 「失礼。どうぞくつろいでいてください」 「はい」 話し込んでいた間に、山道をゆったりと登る人影が現れていた。三人の高齢の女性客だ。織元は颯爽と彼女らの傍らに馳せ参じて、足の悪そうなひとりに手を差し伸べた。親しげに話すあたり、常連客のようだ。 だが不運なことに、彼女らの到着と同時に小雨が降り出した。織元が客を小屋の中に案内する間、せめて使っていた茶器を片付けようと唯美子が立ち上がる。 (あれ?) 急須に隠れて死角にあったのだろうか、その時になって初めて、古そうな小瓶が目に入った。 更新遅れました。いきてます/(^o^)\ |
3-1. a
2018 / 09 / 10 ( Mon ) 山奥の茶屋から日没を眺めていた。向かいの席には大層うつくしい男性、その横顔は、暮れ行く太陽の最後の熱気を受け取るかのように赤く染まっている。 映画のワンシーンのような光景――それに、唯美子は見惚れるよりも落ち着かなさをおぼえていた。肩よりも長い黒髪と目の上にひいた朱色が印象的な男性は、逆に肌が陶磁器のように白かった。彫りが深く端正な顔の中にある黒目は意外に大きく、丸みを帯びていて、可愛らしいと言えなくもない。 自らを織元と名乗った男性は銀鼠の着物を着こなし、湯飲みを片手でもてあそびながら頬杖をついている。深い物思いの最中なのかわからなくて、唯美子は声をかけづらい。そもそも共通の話題と言えば、彼を狸野郎と呼ぶナガメだけだ。 当のナガメはこの場にいない。茶屋に着くなり、織元に「近くの温泉からバケモノ払いの依頼が入っています。即刻行ってきてください」と送り出されたのである。しかも出るのは女湯らしく、ナガメはご丁寧に若い女子の擬態をしてから出発した。 「ユミコ嬢」 「え、あ、はい」 にわかな呼びかけに狼狽する。 「お茶のおかわりはいかがですか」 滑らかな声だ。はちみつの海をたゆたうような、撫でられる猫が出す声のような。男性が微笑むと、大きな目がやさしく細められた。ドギマギせずにはいられない。 「じゃあ、いただきます」 「ええどうぞ」 織元はふわりと腰を上げ、優雅な仕草で急須を傾けた。湯気と共に、ほうじ茶の芳醇な香りが鼻孔を通り上がる。 再び席に腰かけて、織元は破顔した。 「やはり、ヒヨリ嬢の若い頃の面影がありますね。こうしてお会いできてうれしいですよ」 「私もおばあちゃんが師事した人に会えて、うれしいです」 そう返せば、彼はくすくすと上品に笑った。そういえば彼は人ではないのかもしれないと唯美子は遅れて気が付いた。 「型だけです。もともと才能のある娘でしたので、基本だけ教えたらあっという間に伸びたものです」 「そうでしたか」 「時にユミコ嬢、ミズチはどうです。迷惑をかけられてはいませんか」 話題を変えた途端、織元の柔らかい雰囲気も一変し、わずらわしいものを思い浮かべる顔になった。 「迷惑だなんてそんな。いつも助けられてます」 唯美子は両手を振って否定するが、織元は胡乱げに応じる。 「本当に? あの者は長く生きていながら他者とあまり関わってこなかった弊害で、気配りなどまったくできませんし。何かあったら遠慮なく相談してくださいね」 そう言って彼はスマートフォンを取り出して番号交換を促した。この浮世離れした山奥の茶店の主人は、見た目に反して現代的であった。電波が届くのも驚きだ。 連絡先をお互いに登録すると、唯美子はひとつ訊ねた。 「ミズチとは知り合って長いんですか」 「あの者がこの国に来てしばらく経ってからですね。百五十は超えますが、おそらく、二百年に満たないかと」 唯美子が無言で驚愕している間、織元は茶をのんびりとすすった。 「そんなに経ってるんですか。あれ、彼は自分のことを五百年とちょっとを生きてるって言ってたから……何歳くらいで日本に来たことに……?」 織元は意外そうに眉を吊り上げた。 「五百? ああ、あの者はサバをよんでいますよ」 「えっ、どっちにですか」 「実際に生きた年数はもっと多いはずです。大雑把さゆえにおぼえていないだけとも考えられますが、私の推測では、別の理由があるように思います」 ふう、と織元は湯飲みの縁に息を吹きかけた。数秒の沈黙の後、話を続けてくれる。 「千五百年を生きた水蛇はおのずと龍に昇格します。そのことを周りに感付かれれば面倒だからと、なるべくごまかそうとしているのかと」 「龍に……」 例によって実感の沸かない話だった。 いわく、水蛇は五百年で蛟に、さらに五百年経て龍になれるらしい。そこから五百年、また千年生きればより上の階級に進めると言うが、いずれも龍神である。蛟とは龍神の幼体なのだ。 こいつらいつもお茶のんでんな…( ^^) _旦~~ |
α.6.
2018 / 09 / 09 ( Sun ) ←前の話 次の話→
昔々、創造の女神が遥か大きな岩を顕現させた。 その表面を叩いてできたヒビや溝を塩水で満たし、大地と海をつくりたもうた。楽しくなり、踊り狂った女神の足が触れた箇所を中心に、動植物の実りをゆるす三つの大陸が出来上がった。 それぞれの大陸の間には海と荒野と容易には超えられない山脈が残った。 大地にはさまざまな命が芽吹き、人が誕生し、文明や魔法が生まれた。人類は見事に栄えてみせた。 だがいつからだろうか、文明が行き詰まった。大陸のひとつは激しすぎる戦禍に、草も生えない不毛の土地に成り果てたのである。 あとの二つの大陸も同じ末路をたどるのではないかと危惧した女神が、ある策を立てた。御身から切り離した精《エーテル》を金魚の形に替え、残る二つの大陸に送り込んだのだ。金魚の精は自らの器たりえる魂を探し出し、その肉体にとりついた。 金魚たちは、鏡を通したように姿が似ていながら異なる性質の人間を選び、ふたりが出会えるように特殊な方法で道をつないだという。 金魚の器たちは紆余曲折を経て相手とわかりあい、双方の大陸が手を取り合えるように計らった。それは、ふたりにしかできないことだった。 人の世はこうして生き永らえた。 後の世の者はこのことをおぼえていなければならない。リグレファルナの伝説は、教訓である――。 * アイヴォリが知っている限りを語り尽くしても、アイリスとカジオンは「意味不明」「お子様向け」と言って真に受けなかった。運命の乙女だとか世界の流れを変える金魚だとか、そんな眉唾物が自分と関係あるはずがないと、アイリスは頑なに聞き耳を持たない。 (私も半信半疑ではあるかな) 内容もうろ覚えだ。伝説の中の金魚に憑かれた御使いたちは、強い意思と輝かんばかりのカリスマ性や求心力を持っていたように思う。どれほど甘く見積もっても、自分に到底務まるような使命ではないだろう。 「お父様、お母様。私は生きるだけで精一杯なのに、世界の為に何ができるかしら」 胸元を見下ろしてひとりごちる。 「セカイとかあんたまだそんなこと言ってんの」 「ひゃあ!」 背後から声をかけられ、アイヴォリは地面から足の裏が飛び上がるほどに驚いた。声の主は普通にアイリスだったが、今この場にいることの方が意外だった。 「あの、どうしてここに」 急を要する用事があるのだろうかと身構える。 「あんたが体拭くだけにすっごく時間かかってるなって思ってきてみたんでしょ。まだモタモタと服脱いでたとはね」 「もたもた……」 「さっすがはお貴族サマね、自分で着替えたことないんじゃないのってくらい手際悪いわ」 「うう、そんなこと……肌着とか、自分で着れるとこもある、よ」 一方で口と同時にアイリスの手がせわしなく動いていた。見ているこちらが混乱しそうなほどだ。彼女はチュニックを脱ぎ捨てるのではなく結び紐のみを解き、襟元を広げて腕や肩をあらわにした。 ――なるほど、そうやればいいのか! アイヴォリが目をみはっている間にアイリスは桶の縁にかかっていた手ぬぐいを取って水に濡らし、顔や首、肩や胸元をさっさと拭ってみせた。右手から左手に手ぬぐいを持ち替えてからも流れるような手際の良さだ。 「なにぼーっとしてんのよ。手伝ってあげようか?」 願ってもない申し出に、アイヴォリは消え入るような声で「おねがいします」と応じる。請け負うアイリスの笑顔は朗らかそのもので、まるで嫌味がない。それどころか城の召使いの女性らよりもはるかに快く感じる。 アイリスがすぐ後ろに立った。 「手のかかる妹みたいで面白いわー。ね、アイヴォリってきょうだいいる?」 背骨に沿って上下に並んだボタンが、ひとつずつ外れていくのを感じる。 「いないわ」 「そか。うちは一応カジが年上だけど、兄っつーより弟みたいな時もあるし、なんだかね」 「ふたりに血のつながりはないんだよね」 ここぞとばかりに、気になっていた事項を確認した。 触れてはいけないことを訊いているかもしれないという可能性は視野になかった。そしてどのみちその心配は無用だった。アイリスはよどみなく、平然と答える。 「ないわよー。あたしらは同じ孤児院にいてね、そこがある時ヘンないちゃもんつけに来た奴に取り壊されちゃって。行き場を失くした者同士、一緒に逃げたの」 衝撃的な事実がこともなげに羅列される。 肩から衣服がすでにはだけている現状、羞恥心も忘れ、アイヴォリは自分と顔立ちだけ似た少女を振り返って口をパクパクさせた。 「むごい……どうして」 「政治的? な理由があったんじゃないかって誰かが言ってたわ。そーゆーのあたしらにはどーでもいいし。考えても無駄ムダ。下手人はとっくに掴まって処刑されたわ」 「つらく、なかったの……?」 「つらくないわけないでしょーが」後ろ肩をはたかれた。思わぬ衝撃に、背を逸らせる。「でもただ絶望して終わるのは悔しいじゃない。そこまでしてあたしらを消そうとしたヤツらがいたんなら、何が何でも生き延びてやらないと。それが、あたしたちなりの復讐よ」 復讐という言葉の響きに背筋がゾッとした。アイリスは表情こそ笑っていたが、橙色寄りの赤い双眸が昏く冷たかった。 「そんな大昔の話より、ついこの前、村をつぶした奴らにこそ報復したい気がしないでもないけど。目下、あんたの身柄をどうにかする方が先かな」 「……ありがとう」 「いいってことよ。じゃあ今度はこっちから質問――」アイリスの指先が、アイヴォリの首元をなぞり、鎖骨を伝って、胸元に流れた。くすぐったさに身じろぎする。「あんたさあ、こんなとこに、宝石? 埋め込んでんの」 ヒュッと息を呑み込んだ。 確かにアイヴォリの胸元には、表面が滑らかな大きな水晶が埋め込まれている。長年そうしてあったため、肌とひとつ繋ぎに見えるくらいになじんでいた。透き通った柘榴色の奥には、模様のような一文字が浮かんでいる。 別段、隠さねばならない代物ではないのだが、理由を説明するのが恥ずかしい。けれども興味津々なアイリスをうまくあしらう方法が思い付かず、結局白状した。 「これは魔法を制御する道具。普通は装飾品にして身に着けるものなんだけど、私は体に触れているくらいじゃないと魔力が……すぐ暴走しちゃうから」 語尾に向かって声が消え入ってしまった。 元素魔法は、使い手の意思に連動する。制御がきかないのは、つまりアイヴォリ自身の心の未熟さに由来するのだ。自覚あるものの、出会って間もない相手に語るのは気が引ける。 ところがアイリスの反応は、違う意味でアイヴォリをうずくまらせることになった。 「あそっか、あんた魔法が使えるのね!? 忘れてたわ! 見たいみたい、超みたい!」 自分とよく似た顔が目を輝かせて迫ってくる。 アイヴォリは悲鳴を上げて後退した。 それから騒ぎを聞きつけたカジオンが「おいどーしたよ」と様子を見に来そうになり、アイヴォリはますます狼狽した。こんな姿を異性に晒せるはずがない。 だと言うのに、アイリスは半裸のままで「なんでもない! 来んな」と怒鳴ってみせた。 そういうところは兄妹ゆえの距離感だろうか。 兄弟がいたことのないアイヴォリには、まったく理解ができなかった。 本当はアイリスが全裸で夜盗とやりあう場面も考えてたのですが、没w |
2-3. e
2018 / 08 / 27 ( Mon ) 「お前の体質をどーにかできるとしたら、あいつだ」あくびを挟みながらののんびりとした答えだった。「なんてったって、ひよりの『 』のシフだからな」
「シフ? なんて言ったの」 謎の名詞は、濃い異国の響きを伴っていてどうにも聴き取れなかった。「ふぁ」「す」と発音した気はするが、間に「つ」または「T」の音も入っていたような。 「んあー、日本語読みわかんね」 ナガメはゆみの手の平を引き寄せて、指先でするすると文字をなぞった。くすぐったいが、我慢する。「法術」に続いて「師父」だ。 「それは『ほうじゅつ』かな」 「ほうじゅつ。法術《ふぁっ・すっと》、まじないのことだろ」 「おばあちゃんの術のお師匠さんなんだね。うん、会ってみたい」 断る理由がないどころか願ってもない話だった。唯美子は厄寄せ体質に関してはまだ実感が持てないが、助けになってくれてもくれなくても、祖母の昔の師だという人に会ってみたい。 「決まりだな」 「そうだね、楽しみになってきた」 諸々の出来事からの心労も、過去を思い出した衝撃も、少しだけ和らいだ気がした。 (このひとは、ヒトに見えても、人の倫理観や道徳観を持ってない) では本能のみのケダモノなのかといえば、それも違う。感情があるし、理性もある。 (信じていいの――) 脳裏にちらつく血濡れた大蛇は相変わらずだ。 それでいて、幾度も助けてくれたナガメは、一貫して約束を守ってくれている。祖母に求められて助力したのも事実だろう。 礼は敢えて言わないことにした。まだ、昔のことを整理しきれていないのだ。 大きく伸びをして立ち上がった。 すっかり日は暮れかけて、ハトたちもいつの間にか離れた場所で新しい標的に群がっている。そろそろ帰宅した方がいいだろう。母が待っている。 それにしてもさっきのは何語なの、ふいに訊ねてみるも、青年は首を傾げるだけだった。 * 救命行為というものを遠くから見守っていた。 ぐったりした少女が大人たちにもみくちゃにされているようにしか見えない。胸を圧迫したり、口や鼻をまさぐったりとわけがわからないが、強引に呼吸をさせているのだと、後に説明を聞いた。 成人済みの方のニンゲンたちは口々に少女の名を呼んでいる。目を覚ませだの死ぬなだのと、同じセリフの繰り返しで騒がしい。湖畔に居た他のニンゲンまでもが手を貸しに集まっている。 ――死ぬ もしも救命措置が実を結ばなかったならばと、その先にある別れを予感して、ミズチは口元をおかしな形に歪ませた。いつになく明瞭な思念を抱く。 (オワカレはやだなぁ。もうあんな、あれは、やだ) 無意識に、近くのやぶを掴んで揺さぶり始めた。行き場のない焦燥感を、発散するかのように。 周りの心配をよそに、少女はやがて目を覚ました。取り囲む大人たちが喚く中、当人はぼんやりとしている。 「おかあさんどうしたの」 「よかった、ゆみ……! よかった!」 「くるしいよおかあさん」 「だから僕は早くこんな町出ていこうとあんなに」 男親が険しく言い捨てると、女親が噛みつきそうな勢いで反論した。 「こんな町って、あなたの故郷でしょう」 「ここで生まれ育ったからこそ、さっさと出ていくべきだと思っている。過疎っていく一方だし、唯美子まで母さんみたいに変なものが見えてしまうんだから」 「おまえ、全部あたしのせいだって思ってるのかい。言っとくがね、都会に出たって、見えるもんは見えちまうよ」 オトナたちの言い合いは悪化する。 「なかよくしてよう……」 涙ぐんだ少女のひと声でなんとかその場は収まった。 結局、口論はひよりのあの決断に続いた。唯美子の記憶と知識から、枠をはみ出たものたちに関する一切を封印するという決断に。 「そういうわけだから。異論は認めないよ」 「…………ん」 縁側に座るよう招かれたミズチが、幼児の姿で座布団にあぐらをかいていた。大して美味しくもない醤油せんべいを口の中でもごもごと動かして、ひと思案する。 ここに来ていいのは今日で最後だと、ひよりに言い渡されたばかりだった。明日からは唯美子の気配が異形のモノに認識されないように不可視の術も施すという。 ――忘れられる。 ――見つけることも、できない。 それがどういうことなのかを、不味いせんべいと共にゆっくりと咀嚼する。 「この前はでも、助かったよ。か弱い人間を傷つけないように立ち回るのは大変だったろ。見直したよ。おまえさん、ほんとうにゆみが大好きなんだね」 「だからそー言ってんじゃん」 答えた自分の声には抑揚がなかった。 あのねえ、と女は忌々しげに切り出した。 「今生の別れじゃあないさ。あたしがくたばったら、ゆみのこと頼んだよ。あの子はしっかりしてるつもりでなんか危なっかしいのよ。人外絡みに限らず、厄の方が寄ってくるんだねえ」 「わかってる」 ボキッ、奥歯に割られたせんべいの音が脳にまで反響したようだった。奥歯は普段ほとんど使わないので、変な感覚だ。 「都合の良いこと言っちゃって、悪いね」 「別に」 何故とは言えないが、ひよりがこう願い出ることはなんとなく予想できていた。 「最期まで守り抜くつもりで関わることだね。人間は――……もろいんだ」 「わかってるよ、それも」 ありがとう。安堵したように、ひよりは胸に手を当てた。 「願わくばあたしがいなくなる頃のゆみが、己を取り巻くすべてを受け止める強さを身に着けていることを。今は大人が守ってやるしかなくても。忘れさせることが我々の尽くせる最善、でも」 和服姿の女は遥か遠くにある月亮を潤んだ眼差しで見つめ、ため息をつく。 「あの子にもいつか選べる時が来る」眼差しは、ミズチへと焦点を合わせた。「ゆみがもう一度全部忘れたいと願うなら、尊重してやってほしいんだ。でももしも関わり続けていたいと願うんなら――よろしく頼むよ」 「ん。頼まれてやる」 けどそれっていつ? 訊いても、ひよりは肩をすくめる。ニンゲンの時間で十年以上はかかるだろうと言う。 「えー。待ってんの退屈だなー」 「修行の旅にでも出たらどうだい」 「いいなそれ。じゃあアレだ、既存の大型爬虫類とかたっぱしからやり合ってくるか」 「戻る頃にはゆみは水が平気になってるといいね。あれからプールも嫌がってるんだ。水の精であるおまえさんには、きつい話だろ」 「なんだよ。おいらに気ぃつかうとからしくねーな」 「うるさいよ」 女の笑い声は、夜の空気を静かに震わせた。 時が経つのは遅いようで早い。 あれが漆原ひよりと交わした最後の会話だった。その事実をミズチは悲しいとも惜しいとも感じず、「意外にあっけない」とだけ思うのだった。 十年以上、経っている。唯美子が選ぶ時が迫っていることも明白だ。 気乗りしない。 唯美子が公園を去り、ミズチはひとり残って砂場の中で横になっていた。夜までこうしていると通りすがりにホームレスと呼ばれることはわかっているが、別段どうでもいい。 (俺は……選んでもらえないかもしれないのが、) 思考回路はそこで詰まる。 ハンカチの結び目をいじって、気を紛らわせてみた。紛れるどころか、もやもやは増すばかりだ。別のことに意を向けるとする。 何十、何百年前だったか、かつて出逢ったひとりのニンゲンを思い浮かべた。 ――善意は、心地良い。 別れは、嫌だ―― (三章につづく) |
2-3. d
2018 / 08 / 22 ( Wed ) そのまま、数分間動かずに過ごした。 真向いのベンチの下で、大小さまざまなハトたちが、たい焼きの食べ残しらしきものを激しく取り合っていた。気分が未だに優れない唯美子には、羽根がけたたましく飛び交うさまが目まぐるしい。まじまじとは見たくないものだった。けれども蛇は元来肉食であるはずだ。あの鳥はナガメには美味しそうに見えたりするのだろうか、視線がぼうっとそちらに注がれている。 「大体思い出したみてーだな」 どこか無機質に彼が問いただす。うん、と小声で応じると、それからナガメはぽつぽつと足りない部分を補足してくれた。 「ついてくんなとは言われたけど、ひよりは俺の眷属の姿形を知らなかった。鉄紺・栗川に離れた場所から様子を探らせてたんだ。だから、ひよりが式神を飛ばして助けを求めた時、早くに気付けた」 式神とは実体の無い霊的存在を使役する呪術らしい。映画や漫画の中ならともかく、それが身近な人間の名と一緒に挙げられるのが不思議だ。 「おばあちゃんが……?」 「あいつはそういう判断に手間取ったりしない。自分の手に負えない事態だってわかった時点で、術を発動したんだろーな」 それでも呼ばれてから駆け付けるまでに十五分はかかった。 二匹の獣は、水中で対峙した。ナマズは最初から「ミズチ」と取引をするつもりもなければ追い払う気もなく、徹底的に始末する心積もりだったそうだ。 状況の不利を覆したのは、ナマズの意識の外にあった、人間の動きだった。 「人質を取られていてもひよりの機転でどうにかなった。あいつが隙を見つけてゆみを助け出して、後は」 「きみが金色のナマズを倒したんだね」 「ん」 語る過去が尽きたかのように、青年は言葉を続けなかった。 そよ風が、彼の黒い前髪を無音に揺すっている。 (昔のわたしはあれがナガメの別の姿だってわかってたのかな) どうやっても思い出せそうにない。だがその後に何があったのかは、忘れていたのが信じられないくらいに、今でははっきりと思い出せる。 あの日を境に家族の歯車が合わなくなった。 転勤を以前から考慮していた父が何日もかけて母と言い合い、環境を変えた方が唯美子の為だとの主張を押し通したことや、引っ越し先の新しい職場になじめなかった母がどんな顔で夜帰ってきたのかなど、鮮明に思い出せる。両親の仲は冷める一方で、別居、離婚、と物事は知らぬうちに展開していった。 どちらが唯美子を引き取るかでまた、何週間も揉めていたように思う。最終的に父のもとに残ったのにはいくつか決定的な理由があったのだろうが、いずれにせよ家族がバラバラになってしまった。とても、とても悲しかった。 ちなみに父は唯美子が中学生の時に再婚した。相手に連れ子がおり、急に兄ができた。今ではそれなりに仲は良好で兄夫婦の家に遊びに行くことも少なくないが、当時はずいぶんと戸惑ったものだ――。 記憶の川を漂い始めて数分。お互い黙り込んでいるのがはた目には変だが、決して嫌な空気ではない。 「ね、責任、感じてたりする」 急な問いに、ナガメは黒い瞳をぱちくりさせた。 「責任って何の?」 「んーん、やっぱなんでもないや」 唯美子は所在なげに足をぶらぶらさせる。 家族というものを、きっと彼はあまり理解できていない。爬虫類には卵生ではなく胎生の種もいれば子を大切に育てる種すらいるらしいが(再会して以来、何度か蛇の生態を検索にかけて知った)ナガメが自責の念に駆られているとは考えにくい。もちろん、責めたいとは思わない。 「でさ、ゆみ。来週末ひま?」 競うように急な問いが返ってきた。今度はこちらが目を瞬《しばた》かせる番だった。よくわからないままスマホを取り出し、カレンダーアプリを覗いてみる。 「今のところ予定はないよ」 「じゃーちょっと出かけるか」 「え、きみとわたしで?」 「他に誰がいるんだよ。狸野郎のとこ、行こうぜ」 狸野郎とは、彼が以前に言っていた「やどぬし」を指しているのだろうか。ナガメの交友関係には興味あるものの、またどうして、そんな話が出るのか。 「突拍子のない提案だけど……その心は……?」 長くなったので分割しました。次の記事で三章終わりっす。 |


