1. c.
2025 / 12 / 19 ( Fri ) すると後頭部に感じていた嫌な圧力がなくなった。足音がしたかと思えば、今度は電気がついた。 目を片手で覆って振り返る。 「おまえ、シェリーじゃねえか」 「おぼえててくれたの」 ゆっくりと手をどけて、シェリーは明かりに慣れるまで目を瞬かせた。 「オレは物覚えはいい方だ」 得意げに言ったのは、すらりと背の高い長髪の男だった。髪を首の後ろで束ねていて、長いトレンチコートが様になっていた。 今年で二十七歳のはずだ。眉と目元の力強い印象は記憶の中と変わらない。直線的でスッと通る鼻梁に、角ばった頬と顎も。 肩辺りに少し雪が積もっているのが気になった。もう深夜一時を回っているのが、棚の上の時計からも明らかなのに。 「あなたは、変わったかも」 「最後に会ったの何年前だと思ってんだ。そりゃ変わるわ」 「十年とか十二年……?」 はあ、と男は長いため息をついた。そして慣れた手つきで拳銃を大きなショルダーバッグにしまった。それでようやく、場に満ちていた緊張感が空に弾けた。 この男こそ、記憶の中の近所の少年に相違ない。髪型と声音が変わっていても、はっきりと面影があった。 苗字はリクター。ドイツ系の移民の子孫なものの、代を経て「リヒター」ではなく英語読みをしているらしい。ちなみにファーストネームは知らない。好きじゃないからと、本人が頑なに教えてくれなかった。 「で。その荷物、なに」 リクターの視線は、シェリーの足元にある大きなボストンバッグに流れた。 「えっと、ちょっと泊めてもらえないかな、って」 「なんで」 男が単刀直入に訊いた。 シェリーは、己の身の上に起きたことを掻い摘んで語った。母の死後、寂しくて気が狂いそうになっていたこと、途方に暮れたこと。子供の頃の約束を思い返していた点は、なんとなく省いた。 いつしか、リクターはコートを脱いでソファでくつろいでいた。間に開いた人ひとり分の距離が、十年とちょっとの心の距離感をも表しているようだった。 話しながらもシェリーは辺りに目をやっていた。タバコの煙が気まぐれそうに宙を舞う。 ほどほどに片付いている部屋だ。あまり頻繁に掃除していないのだろう、埃っぽさはあったが、隅に積まれた雑誌を除いて、余計なものは置かれていない印象だ。リビングと台所の空間が繋がっている設計だった。 話がひと段落すると、シェリーは横を盗み見た。 ガラス製の灰皿にタバコの先を押し当てる指は、やや骨ばっていて、長い。 「ま、いんじゃねえの。とりあえず今日のところはそこで寝てもらうか」 そこ、と言って彼はソファを差していた。ベッドルームが二つあっても片方は物置きになっているという。 「い、いいの。迷惑じゃない?」 話があっさりと進みすぎて、思わず訊き返した。そういえば彼が当時と同じコンドミニアムに住んでいる時点で驚いたが、他の家族の痕跡が無いのも気になった。 「迷惑かけないんなら迷惑じゃねえよ」 なんとも、答えになっていない答えだった。 「ほぼ他人だよ。信用されなくても仕方ないものと」 「おう。寝首かかれないように気を付ける」 男はわざとらしく欠伸をした。 「ありがとう」 「ご愁傷様。そうか、あの母親ついにいったか。よかったな、つうのもなんか違うか。腐っても肉親だしな」 「…………うん」 肉親と言った時の声は、どこか皮肉そうに聴こえた。 「気が済むまでいれば。予備の毛布、テーブルの下な。共用のトイレは廊下。風呂設備はマスターベッドルームの中にしかないから、シャワー浴びたくなったら言え」 踏み入った質問を重ねずに、リクターは席を立った。 その夜、シェリーは年季の入ってそうな冷蔵庫の音を聞きながら、浅い眠りについた。 (私はお母さんの敷いたレールの上を走るだけでよかったのに) 完全に自分の意思で行動をしたのが久しぶりに思えて、気持ちが落ち着かない。近くから人の気配がするのも、それが成人男性のものであるのも、慣れない。 冬に触れる頃の、とある金曜日のことだった。 |
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