8. b.
2026 / 03 / 17 ( Tue )

 外階段を一段、また一段と上っていくうちに、胸中が静かになっていく。
 リクターが先導して開けてくれた扉を通る。壁に差し込まれた小型ナイトライトだけが淡く照らす空間を、怖いとは感じなかった。

 大仰な音を立てて扉が閉まる。
 靴を脱ぎ終わったのと同時に、後ろから抱きすくめられた。
 わっと小さく声を上げた後、どうしたの、と訊くことができなかった。暗闇の中で立ち尽くす。

「…………今後は、勝手に消えるなよ」
 肩を包み込む腕の力の強さに驚きながら、男の指先が、声が、微かに震えていることに気付く。己の行動が彼を深く傷付けたのだという自覚が、この時にしてようやく芽生えた。
「うん。二度と、しないよ……。約束する」
 この決意が伝わればいいなと思う。
 肩を抱く手に自身の手を重ねて、心の中でそう願った。



「粉末ココアあったわ。飲むか」
 毛布に包まって温まってろと命じられておとなしく従っていたシェリーは、その質問に小さく頷いた。
 リクターは普段あまり使用しないという旅行用バックパックを漁っている。灯台を往復したのをきっかけに、前回使ってから荷ほどきをまだ完全にしていなかったと思い出したらしい。

「消費期限は大丈夫なの」
「半年過ぎてるだけだ、大丈夫だろ」
 ガスコンロが点火する。ケトルが温まるのを待っている間、ソファの端に座って、シェリーはぼうっとした。
「私、弁護士になんてなりたくないよ」

「あ? 急にどうした」
「だって人前に立って喋るのは好きじゃないし。弁論とか議論とか、苦手なんだよね」
「まあ、そんな気ぃしてた」
「これからどうしよう……」
 敷かれたレールをこのまま突っ走ることはもはや不可能だ。結局、自分の気持ちに折り合いをつけなければならないし、身の振り方も決めねばならない。

「難しいなぁ。自分で決めるのって、難しいよ」
 大海に投げ出されたような、そんな気分だった。もちろん実際にそんな経験をしたことはない。
 毛布を頭から被った。暗くて狭くて温かい空間に身を委ねる。
「そこんとこ、問題は一個ずつ向き合うしかないな」

「……ちょっと、喋っててもいい?」
 毛布をずらして隙間を作り、外に向かって問いかける。
「おう」

 了承を得たので、シェリーはとりとめのない話をした。順序不同、脈絡はあってないような独白。法律は何年学んでも特段好きになれないけれど、調べ物や読み物をするのは好きということ。リクターの棚で見つけて勝手に読んだSF冒険譚が面白かったこと。母に対する不満、尊敬、それから、子供の頃から知らず知らず他の人に抱いてきた憧憬について。抱いてきた対象の中には、かつてのルームメイトたちも含まれた。

 やがて話の焦点は、母を喪い、自分本位に生きることへの不安に戻った。何もかもダメなのに、こんな自分が生きていていいのか――。
 他人に愚痴ってどうしたいのだろう。これといった目的を見いだせないまま、ただ心の内を吐露した。対するリクターは時折短い相槌を打つだけで、口を挟まなかった。

 お湯が沸いて熱々のマグカップを手渡された頃にはシェリーにはもう話したいことがすっかり減っていた。毛布を脱いで室内の明るさに再び目を慣らすと、ざわついていた心も、いくらか落ち着いてきたように感じる。
 濃厚な甘い香りを発する熱い液体の表面に、息を吹きかけた。涙が滲んだのは心の動きがあったからなのか、それとも単に湯気がまつ毛をくすぐるからか。
 少し飲んでみる。さすがは粉末ココア――消費期限を過ぎていても、ちゃんと美味しい。

「やる」
 手のひらに載るほどの大きさの硬いものを差し出された。彼が以前の旅先で拾ってきたのだという。

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