9. b.
2026 / 03 / 26 ( Thu )
「私はね――」
 自宅に近いショッピングモールの美容室の名を答える。
 そのあともしばらく雑談が続いた。主にシェリーが昨日あった出来事を語り、リクターが相槌を打ちながら横で食べているという形で。

 昨日といえば、叔父夫婦が訪問してくれたのだった。ここ数週間の内に親族を代わる代わる呼んで、母の遺品の処理を進めていて、もうすぐひと段落しそうなところである。遺品を手にしてかつてを振り返り、思い出を語り合ったりもした。その間、シェリーは法律事務所の仕事に復帰し、少しずつ日常を取り戻しつつあった。
 喪失感は完全には癒えない。それでも穏やかな気持ちになれる日が増えていく。
 なあ、と言ってリクターは最後のプレッツェルの一口を飲み込んだ。

「前のアパートを引き払うんだろ」
「うん。まだ次どうしようか決めてないけどね」
「新しいとこ探さねえか」
「うん……?」
「お前が過去を清算しようとしてるの見てると、オレもコンドミニアム売った方がいい気がしてきてな」

「探すって、つまり」
「一緒に住むかって話」
「え、買うの? 賃貸? それより、一緒にって」
 貯金はそれなりにあるが――思い切りすぎでは、という考えがまず最初に浮かぶ。
「別にツーベッドルームアパートでも、タウンホームでもいい。いきなり共同が無理なら、区切って生活すればいいだろ」

「あの、そうじゃなくて。私たち、夫婦でも長く交際してきたわけでもないから、提案自体にびっくりしてるんだよ」
「長さは関係あるか?」
「あ、あるよ」
「つっても、どうせ......」

「ちょっと待って。ちょっと、考えるから」
 シェリーは食べかけのプレッツェルを見下ろす。中心のまだ繋がったままの結び目が目についた。指先でプレッツェルの柔らかい結び目をほどき、千切っては食べる。甘さに包まれた絶妙な旨味が、ハニーマスタード味の魅力だ。

 彼の言いかけた先がわかってしまう。結婚していなくても、長年の付き合いでなくても、どうせ毎日会いたいのである。同じ家に帰りたい。別々に暮らしている間は移動時間やら家賃やら、無駄が多いとすら言える。
 むしろこれはチャンスと見るべきか。お互いのタイミングが合うのだから、この決断が前倒しになっても不思議ではない。

「でもいま流れに任せたらずるずる何年も同棲だけして『結婚しよう』って話がなかなか持ち上がらなくなるかも。それはなんか嫌だ」
 シェリーはそう口に出していた。
「まさか書類上の契約にこだわってんのか。わざわざ結婚してどうなるってんだ」
 意外そうにリクターが眉を上げる。確かに、お互い両親が別れているので婚姻という制度に思い入れは無い方であるが。

「保険とか税金で大きくアドバンテージがあるよ」
 と、淀みなく答えた。世間体のことも多少なりとも気になるが、それは言わないでおく。
「……すげえ現実的な動機。法に触れる職種なだけあるな」
「信頼関係を築くなら、二人の口座を開けるとか、退職金の話もしなきゃだよね」
「確かに」
 男は手をぱんぱんとはたいて、指についた菓子のパウダーを払う。そして顎に手を当て、考え込む素振りをした。

「じゃあさ、こうするか」
「うん」
「三年一緒に住んで、それでまだ一緒に居たいって思えるなら、結婚しよう」
「その、三年って数字の意図は」
「オレが三十歳になるから。キリがいいし、決めたことを簡単に覆さなそうな感じがするだろ」

「なるほど?」
 そんな感じがするかも、とシェリーは首を傾げた。たとえば車のローンも三から五年契約を結ぶのがメジャーな気がする。
 ――結婚、か。

 改めて口にするまで、自分にそのような願望があるとは思ってもみなかった。花嫁やウェディングへの憧れは人並み以下にしかなく、両親の昔の記念写真を眺めてうっとりした日々はあまりに遠い昔のことだった。高価な指輪も要らない。
 欲しいのは、そう、契りだ。
 共に老いることができたなら、どんなに素敵だろうか。

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