8. e.
2026 / 03 / 21 ( Sat )
「もう大人にもなれば、いちいち自分が見捨てられたっていう落胆は感じなくなる。そんなもんを感じる余裕もなかった、が正しいな」
「……」
 いつの間にか、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちていた。せっかくのホットココアが台無しになってしまう、と慌ててシェリーはカップの中身を飲み干した。空になったマグカップを足元によける。その様子を、リクターは目を細めて眺めていた。

「いちいち同調しなくていいんだって」
「同調じゃないよ。私はあなたが送ってきて苦しい人生を代わりに嘆いているんだよ」
「なんで」
「なんでって、それは」
「おまえ、そんなにオレが好きなんか」
 突然言い当てられて、シェリーは立ち上がり、ソファの後ろにしゃがんで隠れた。相手の表情なんて確認できるはずがない。

「好きだよ。好きだもん。ごめんなさいね」
 と、早口でまくし立てた。
「いや、責めてるんじゃなくてだな。驚いてるだけ。出て来いよ」
「やだ」
「おい――」
「私、恋とかしたことないから、たぶん小娘みたいに舞い上がるし、下手したら粘着するかも。あなたの厚意を、どんどん勘違いする。縁を切るなら今だよ」

 言葉を被せて一気に喋った。もうこの際、自分の中にくすぶる醜い感情を全部吐き出してしまおう。これで軽蔑されるなら、もとよりされるべきかもしれない。
 嫌われたら悲しい。悲しいけれど、本心を偽ってまで一緒にいられる自信はなかった。ぎゅっと膝を抱えてうずくまり、意味もなく頭を横に振った。

「なんでそう……オレが受け止めきれないみたいに思い込んでんだ。別に舞い上がってればいいだろ」
「だって恋人はめんどくさいって、そう言ってたよ」
「言ったけど。『恋人』はめんどくさいって。気も遣うし」
 妙に間があったので、シェリーはおそるおそる振り返った。
 リクターはガシガシと髪を片手で乱している。

「おまえのことは、ずっと昔から、かわいくてしょうがないんだよ」
「本当に? 話合わせてくれてるんじゃなくて?」
「そこまで気ぃ回さねえって」本当、と念を押すように答える。「あの頃は……おまえが引っ越した時、アレ以上は互いの人生に踏み込めやしないだろうって。そんなもんだろうと思ってた」

 そうだね、とシェリーも同意する。
 実際に十年以上会わなかった上に、思い出す頻度も年々減っていった。別々の道を歩んでいるのだと、漠然と理解していたのだ。窮地に立たされなければ、再会したいと強く願うこともなかった。

「もう親はいないし、人生をどうするかは自分で決められるようなとこにいるだろ。だからどうしたいか、言ってみればいい。代わりにどうしてやれるか、オレも考える」
 その言葉を聞いて、カチリと頭の中で歯車が合った音がした。

 きっとこのひととなら生きていける。嫌なことももちろんあるだろうけれど、アレクス・リクターは、一緒に考えてくれるひとだ。シェリーと共に物事を解決してくれるひとだ。本人が意識しているかはわからないが、既にそうしたいと結論を出しているようだった。
 なので自分も考えていかねばならない。どうすれば一緒にうまくやっていけるか、努力を続けねばならない。その責任から決して逃げてはならないのだと思った。

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