1. b.
2025 / 12 / 18 ( Thu )

 ――あんま洗脳されんなよ。いまはそれでもいいかもしんねえけど、大人になったらめんどくせえことになるぞ。

 何度目かの目覚めの時に、頭の中に少年の声がした。ついに幻聴が聴こえるようになったのか。ゆっくりと頭を振る。
 なんとか立ち上がり、コップに水道水を注いで飲み干してからも、その声はまだ意識の端に残っていた。
 かつてそう言ってくれたのは誰だったか。ぶっきらぼうに、しかしどこか心配そうに。

(小さい頃よく遊んだ近所の子だ)
 両親の離婚後、よりよい学区に入るためという名目でシェリーは隣町に引っ越したが、それまでは二年くらい、毎日のように顔を合わせた男の子がいた。

 品格を落とすような友達付き合いはやめなさい。母からは口うるさく叱られたものだった。それでも隠れて会うのをやめられなかった。
 口が悪くて時々乱暴で、なのに面倒見のいい少年だった。シェリーより二つ年上だったから、宿題を手伝ってくれたこともあった。もちろん、母には内緒で。

(あの子は窓から入ってきてたっけ。二階だったのによく怪我しなかったよね)
 思い出を辿るうちに懐かしくなり、心の内側にポッと暖かさが灯った気がした。
 ずっと、AからZまで母が決めてくれた。疑念を抱かなかったわけではないが、優秀で素敵な彼女を尊敬もしていたから、言うとおりにしていればいいんだと、無理やり自分を納得させてきた。

 そんなシェリーでも、その少年に関してだけは、最後まで従わなかった。
 母が厳選した「友人」とうわべだけの付き合いをしていたばかりの人生において、唯一、自分の意志ではっきりと「友達」と胸を張って言える人物。日々の生活に追われているとたまにしか思い出してやれないが、それでも、好きだった気持ちは残っている。
 短く刈り上げられた茶髪に、少し痩せ気味の体躯。青と緑の中間のような瞳は確か吊り上がっていた。

 まだ、彼はあの町にいるだろうか。
 引っ越した時、シェリーは自身の新住所を伝えることが叶わなかった。それがずっと、心残りだった。
 次いで少年の家族を思い出して、シェリーは顔を曇らせた。
 そうだった。酒浸しで暴力的な父親とネグレクト気味の母親から逃げていたのだ、彼は。満足な食事をしていなかったから、シェリーはふたりの時間によくお菓子を分け与えていた。

 そして――
 会わなくなる前に交わした約束を、あの子はおぼえているだろうか。
 ――おまえ、引っ越すんか。つまんね。あーあ、クソみてえな毎日に逆戻りだな。いっそ、死んじまうか。
 少年は真夏でも長袖長ズボンだった。横腹をさすりながら、苦々しい表情をしていた。

 ――そんなこと言わないで。きみがいなくなったら、私、悲しいよ。すっごくすっごく悲しい。約束して。ひとりでいなくならないで、おねがい……死にたくなったら、会いにきて。
 当時のシェリーは、死を決した人間を自分なら引き留められるとか、命を大事にしてほしいとか、そんな大それたことはもちろん考えていなかった。純粋に悲しかった。その子に害が及ぶのも、彼が生きるのを諦めたくなっているのも。

 ――わかったよ。わかったから、泣くな。あと急に抱き着くんじゃねえ。暑いんだよ。
 ――ほんと? 約束? ぜったい、会いに来る?
 ――約束する。だから、おまえもだ。おまえもいつか、死にたくなるようなことがあっても、ひとりで勝手に消えるんじゃねえぞ。



 カチッ。
 規則的に時刻を刻んでいた時計の音が、妙に大きく、耳に届いた。それでも母とふたりで生活していたアパートにあった時計よりも、控えめな音だった。
 鮮明になりつつある頭で、シェリーは状況を改めて理解した。
 とにかく弁明しなくては。

「ご、ごめんなさい。外で待とうと思ってたんだけど、あんまり寒くて、つい」
「不法侵入を謝ってどうすん……あ?」
 男は何かに気付いたように黙り込んだ。

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