2. a.
2025 / 12 / 20 ( Sat ) 親の傀儡として生きてきたシェリーには理想の紳士像がなく、リクターという男からの優しさへの期待値も高く抱いていなかったので、古びたソファで一晩を過ごした事実に対しても悪感情がなかった。別の誰かだったならば家主の態度に「女性への気遣いが足りない!」のように憤慨したかもしれないが、押しかけたのは自分の方であることを自覚しているシェリーは、そんな厚かましい考えは持ち合わせていなかった。 異性と交際した経験、ゼロ。結婚相手はいずれ母が探してくる予定だった。男女間の事情に関する知識はフィクションや、人づてに聞いたエピソードの領域を出ない。 寝ぼけ眼をこすりながら、思い切ったことをしたものだ、と遅れて自省した。 ここに来て何がしたかったのだろう。昔の知り合いに会ってどうなるというものでもないのに。ただ、底なしの虚しさを紛らわせたかったという点では、成功したかもしれない。 コーヒーの香りが漂っている。そこでハッとなる。 慌てて腕時計を確認すると、もう時刻は昼過ぎだった。シェリーはソファから跳ね起きた。 ここから見て、左手にキッチンスペースがある。そして、キッチンカウンターに寄りかかってマグカップに口をつけている長身の男の姿があった。襟の高い灰色のセーターを着て、濃い茶色の髪は昨晩と同じく首の後ろで一つに結んでいる。そこからほどけた髪がひと房、緩く波を打って肩にかかっていた。 目が合うと開口一番にリクターはこう言った。 「眠れなかったか」 片手でカップを持ったまま、空いた方の手で目の下を指差している。シェリーは自分の目の下にそっと触れた。腫れている感触があった。 「寝たり覚めたりだね。お母さんが亡くなってからずっとこんな感じだから。ここがダメだとか、そういうことじゃないよ」 「眠剤は」 「処方してもらってない……だって、こわい、よ。相談できるお医者さん、いないし」 誰かに診てもらおうという発想が湧かなかったのも一因だが、改めて考えると、睡眠薬は恐ろしかった。それで誤って永眠してしまった俳優のニュースが、最近報道されたばかりだ。 まあそうだな、とリクターはなんともなさそうに話題を流した。ずず、と飲み物を啜る音がした。 「おまえ、コーヒー飲むひと?」 「飲むよ」 「いる? いるならもう一杯淹れる」 「じゃあ、いただきます」 おう、と短い返事で請け負って、男はくるりと背を向けた。豆から挽いてお湯で淹れるつもりらしい。一杯が出来上がるまでに数分かかったので、その間にシェリーは廊下のトイレへ着替えと顔を洗いに行った。 洗面台には歯ブラシが置かれていない。相変わらず、他の家族の住んでいる様子がない。 (昔、この家に入ったことあったっけ。なかったかな) だいたい少年の方から会いに来てくれたのである。うろ覚えだが、彼には父母と姉が居たはず。なのに今は一人で暮らしているとしか思えなかった。 ダイニングテーブルすら置いていない。食事はテレビの前のコーヒーテーブルとソファにて済ませているのではないかと疑うくらいだ。或いは、寝室か。 戻ると、リクターはカウンターの上に新聞を広げて読んでいた。いつの間にか長方形フレームの眼鏡をかけている。記憶の中の姿よりも日焼けしているな、となんとなく思った。 カウンターの上にマグカップを滑らせる形で、すいとコーヒーを差し出された。向かい合って立っているのが少し気まずくて、横にずれた。 「ありがとう」 「ブラックでよかったか」 「あるなら、砂糖はほしいかな」 ほれ、と今度は小さなスプーンの入った瓶を差し出された。二度すくって、カップに入れる。 新聞がめくれる音がする。 「今日予定ないなら、出かけるか」 「え?」 顔を上げたら目が合った。影がかかっているからか、リクターの双眸は今は青茶というべき色に近い。 シェリーは首を傾げた。出会った(正確には再会した)翌日の人間に共に出かける誘いをしてくるのに、驚いたのである。 次に続いた言葉を聞いて、腑に落ちた。 |
|
|


