2-2. e
2018 / 07 / 28 ( Sat ) 「よくやった栗皮」
振ってかかった声に唯美子は「やっぱり」と額を押さえる。ナガメがのんびりと河川敷を下りて来た。 「きみが変化できるなら、きみの仲間もできると考えるべきだったね」 「精度が低いけどな。ほらこの服、本物の布じゃねーぜ」 ナガメが我が物顔で少女の袖を引っ張ると、それは奇妙な伸縮性を見せて、伸びるほどに色素が薄くなっていった。布というよりは皮膚に見えなくもない。 「あるじ。もっとほめて」 男の背を膝で抑えつけたまま、かわいらしい声でねだる少女。声がかわいくても片目複眼の恐ろしさは相変わらずである。 (喋ったー!?) 唯美子は驚愕したが、顔に出さないよう頑張った。 「おー、すごいすごい。よくゆみを守ってくれたな。変化も前よりできてるぜ」 「えへん」 ナガメに頭を撫でられて、栗皮少女は大変にうれしそうだ。そこでもやはり、黒光りする複眼だけが表情にそぐわない。 「この虫の目は課題だなー。もういいぜ、戻っても」 主人のひと言が引き金となったのか、栗皮少女の輪郭が瞬時に揺らいで、その場に崩れた。崩れた跡には抜け殻のようなものが残り、やがてそれも解け落ちた。精度と引き換えに、速く変容できるのだろうか。 一匹の茶色のトンボが飛び上がり、青い方のトンボと合流する。二匹はナガメが差し出した手の甲にそっと降り立った。何故か、さまになる。 背にのった少女の体重がなくなっても、男性は草に突っ伏して動かない。気絶しているのか、戦意喪失しているのかは不明だ。 「ミズチさん、足はっやっ……!」 そこに真希が駆けつけた。ずいぶんと息が荒い。 彼女にはミズチと名乗ったのかと、唯美子はひそかに安堵した。 「おまえが遅いんだろ、じゃなくてその靴が走りにくいからじゃん」 「わかってるわよそんなこと――あら? その人」 見覚えがあるのか、真希は眉間に皺を刻みながら、地面に伏した男性をどこで見たのか懸命に思い出そうとする。バッグを手首からぶらんとさげてしゃがみ込み、しばらく唸った。 「真希ちゃんの知ってる人なの」 「なんだろね。それなりに頻繁に見てるような、日常的な風景にいるような――あっ」ぱん! と膝を叩き、素早く立ち上がる。「思い出したわ。あなた、自動販売機を補充してる人じゃないの」 むくり。胡乱な目をした男性が頭を起こす。背筋が凍るようなまなざしだったが、気付いていないのか、なんでもなさそうに真希が話しかける。 「そうよね。たまにすれ違いざまに挨拶したと思うわ。おぼえてるかしら」 「……ぼえ……る」 「え、なに? 聞こえない」 真希に訊き返されて、男性は言葉をうまく紡げずに赤面し、目を泳がせる。 「はっきり言ってほしいわね。だいたい何でそんな姿勢にされてんの。まさか……この人が『視線』のもとだったワケ? ゆみこ、何かされたの?」 射貫くような視線を向けられ、今度は唯美子がどもった。 「え、っと……」 それだけで察したらしい、友人は激怒して怒鳴る。 「サイッテー! なんてことしてくれてんのよ! 軽蔑するし、警察も呼ばせてもらうわね」 一切の躊躇なくスマホを取り出した。 刹那、冷徹な煌きが視界に入った。 ――刃物!? 男性が腕を振り上げて飛び上がる。 「おまえのせいで嫌われた! おまえが悪い! つまらない日常にやっとみつけた癒しだったのに! 唯一笑いかけてくれた天使と近付けるチャンスだったのに!」 刃先が下りてくる――! その場に凍り付いて動けない。だが唯美子と男性の間に黒いものが割り込んだ。シワ加工の施されたシャツ、すなわちナガメの背中だ。 「いみわかんね。逆恨みってやつじゃねーの」 ザシュ、っと耳慣れない音がした。赤い飛沫が飛ぶ―― (え、え) 呆気に取られたこと数秒、その間にナガメはものの見事に男性を捻じ伏せてみせた。そして、首の後ろを強く殴りつけて気絶させた。 (言ったのに) 視線の先が一点に吸い付いて離れない。 青年の前腕を滴るそれは、鮮血ではないのか。唯美子はわなわなと震える手を伸ばし、勢いよく腕をひったくった。 「うぉ。なんだなんだ」 「――血は出ないって言ったのに!」 |
2-2. d
2018 / 07 / 22 ( Sun ) 「ゆみ、別れるふりして立ち去ってくれ。最低でもお互いの視界から消えるように、離れてな」
彼はさりげなく近くを飛んでいる大きなトンボを一瞥する。貸してくれるという意図だろうか、栗皮色の雌が進み出た。 「……わかった」 口先では了解を示し、しかしどこか釈然としない思いで踵を返す。またあとでねー、と手を振る真希が妙に楽しそうに見えた。 歩道橋を下りて遊歩道を歩く道中、何度かさりげなく振り返ってみた。橋の上の二人は、「初対面」とは思えないほどに、朗らかに談笑している。 (何話してるんだろ) ふりだとわかってても変な気分だ。まずナガメが他の人間と関わっているところを滅多に見ない。手すりに背を預けて大笑いしているさまは、いつもの彼の、人類へ無関心そうにしているイメージとは結びつかなかった。 羨ましいと思った。あそこにいる方が、自分はよかった。ストーカーをおびき寄せる作戦なら真希がひとりで立ち去っても効果があったのでは? (ううん、だめ。真希ちゃんを危ない目に遭わせちゃ本末転倒だ) 束の間の負の感情を振り払う。ナガメが人間との交友関係をひろげても、それは彼の勝手であって、唯美子には口出すいわれも独占する権利も当然ながらない。 足し合わせてたった数ヶ月、構ってもらっただけの仲だ。彼がこれまでに過ごしてきたらしい数百年に関して、自分は何も知らない。 元祖「善意を向けたくれた人間」についても―― 自転車に乗ったジャージ姿の男子高生数人とすれ違ったところで、我に返る。唯美子は現在地を確認した。 (失敗した。逆側に渡った方が建物の死角に入れたのに) こちらは河川敷に連なり、遮蔽物などちょうどいい隠れ場所がない。中途で方向転換するのは不自然だ、いっそのこと川辺まで降りようと歩を速める。小川は浅く、流れも遅々としているため、唯美子は問題なく近付くことができた。 「これだけ離れてればいいのかな、栗皮ちゃん」 傍らを飛んでいたはずの茶色のトンボに問いかける。ところがナガメの僕《しもべ》だという虫の番《つがい》の片割れはそこにいなかった。 羽音が聴こえなくなったのはいつからだったか、明確に思い起こせない。 「栗皮ちゃん?」 周りを見回してもそれらしい影がみつからない。空中にも、草の上にも、水面の上にも。ナガメのところに戻ったのだろうか。 とりあえず、ここからでは歩道橋が視界の中に入らないことを確かめた。二人の方からももう唯美子の姿は見えないだろう。後はナガメに任せて待つのみだ。 (ひまだなぁ。どこかに座って、電子書籍でも読もうかな) 急いで家を出たため、じっくりと持ち物を整える余裕がなかった。小型リュックに入っている文庫本は、この前読み終わったきり未だに取り出していないものだ。 草に覆われた斜面に腰を下ろす。吹き抜ける風が涼しい。 (そうだ、更新されてるかも) スマホを取り出し、漫画雑誌の公式サイトへアクセスしてみた。最新話が公開されたばかりの作品群の中に、いくつか追っている物語があった。可愛い動物が主役の日常系には、特に癒される。 サムネイル画像にタップして、数ページほど夢中で読み進めたところで。 画面に影がかかった。 顔を上げると、見知らぬ人が立っていた。 五十やそこらの小柄な男性、猫背で、表情もどこか卑屈そうな印象だ。何かの業者なのか青い制服を着ている。こんにちは、と唯美子は通常の挨拶をした。 男性は応じなかった。細長い三角型の両目をこちらに合わせようともしない。 「あの、わたしに何かご用ですか?」 努めて明るく問う。胃の底では、不吉な予感が渦巻きつつあった。男性の瞳が翳っていたからかもしれない。 「ず、ずるいぞ。おまえさえ来なければ、おれが……、おれだったのに」 「すみません。何を言ってるのかちょっと」 わかりません、と続けられる前に飛びかかられた。 「はな、して! 誰か!」 無我夢中で抵抗するも、男性はまったく怯まなかった。 「あの男は誰だあの男もじゃまだ。でもまずはおまえだおまえのせいだ」 衝撃で頭がくらくらする。息苦しい。重い。こうしている間にも男性の呪詛のような言葉はどんどんうわずって速くなる。 「さびしそうにしてるかのじょをおれが慰めるはずだったおまえが来たからおまえが悪いおれのチャンスをせっかくのチャンスを」 目が合った。戦慄した。 日本人にありがちな、一見普通の茶色の双眸であった。怪しげな光を放つわけでも瞳孔がおかしいわけでもない、けれどもどうしてか狂気的な色を感じる。 大声を出せば通行人が来るはずだ。声さえ出せば。頭ではわかっているのに、喉から音を出すことが叶わない。 視界がぼやけていく―― のしかかっていた重圧がフッと消えた。と同時に、鈍い衝突音がした。なんとかして起き上がると、小さな人影が男性を翻弄しているようだった。 飛び蹴り、回し蹴り、肘落とし。さきほどまで唯美子を支配していた恐怖心も吹き飛ぶほどの鮮やかさだ。 (カンフーかな? かっこいい) ぐったりとなった男性の腕を背後に締め上げて、人影は満足そうに鼻を鳴らした。 取り押さえたのはおかっぱ頭の少女のようだった。通りすがりの子供が格闘技の有段者(推定)とは、末恐ろしい世の中になったものだ。 「誰だか知りませんけどありがとうございま――うっ!?」 振り返った少女の片目が複眼だったことに驚いて、お礼を最後まで言い切れなかった。よく見れば、顔や首の肌が不自然に滑らかそうで、白い蝋を彷彿させる。 (うう、わたしの子供の頃に似てる。なのにお人形さんみたいにきれい……ホラー感……) 極めつけに服装は、膝丈の浴衣ときた。もしかしなくても、ナガメとの関係性を疑ってかかるべきであろう。 |
α.5.
2018 / 07 / 19 ( Thu ) ←前の話 次の話→
なだらかな丘陵を、鹿のつがいがのんびりとよぎっていく。方々から小鳥のさえずりが絶え間なく響いて、意識しきれないほど多くの生命が既に目覚めている事実を教えるようだった。 雲間から漏れる太陽光に照らされ、点々と群生する野花が深緑の背景によく映えた。青空では、丸い練り菓子をかき集めたみたいなもこもことした雲が自由に泳いでいる。緩やかにぶつかり合って合体しては、また引き離される。 美しい光景だ。絵本を彷彿させる、牧歌的な眺望であろう。 木陰に佇んでいるアイヴォリは、ため息を漏らした。どうにも状況を心から楽しめないのである。 (肌に服がべたつく感じ、気持ち悪いわ。これでも裾を切ってもらったのに……着替えも風呂もなくて、ふたりはどうして平気なのかしら) 明朝だというのに大気は既に熱をはらんでいて、しかも重く湿っていた。 あまり多くの時間が過ぎていないと前提したうえで思い出すと、祖国マスリューナではちょうど冬に差し掛かっていたところだった。そうでなくとも、アイヴォリの知る夏季とは肌に届く感触が違う。聞けばこれから日々を追うごとにもっと暑く、もっと湿っぽくなるらしい。 慣れないことだらけだ。 「アイヴォリよう、キノコ食うか?」 別の樹の根元でしゃがんでいた青年が、大声で呼ばわる。彼の手には巨大な野生のキノコと思しき青い物体が握られていた。蛍光色の派手な青だ。とてもではないが、人が食せる物には見受けられない。 背の半ばまでに届く長い髪が扇状に広がるほど、大げさに頭を振った。 「そか。気が変わったら言えよ、こっちで焼いてっから」 返答の代わりにアイヴォリは作り笑いを浮かべた。暑いし食欲ないしで、あんな気持ち悪いものを食べたい気は全然しない。本音では、あの男となるべく関わりたくもない。 (うう、疲れた) 次の村か町にはいつになれば着くのだろうか。徒歩での旅が始まって既に数日、一向に人里の気配に近付かない。 地面に座るのが嫌なのだが、いつまでも立っているわけにもいかず、諦めて腰を下ろした。そこに黒髪を首の後ろでで縛ったアイリスがやってくる。手の平にのせた黄色い木の実を差し出してくれたので、いくつかもらい受けて口に含む。 酸っぱい。黙って悶絶した。隣からアイリスの笑い声がする。 「この前採った果物は甘かったのに……」 「あはは、あれは日持ちしないからね。二日で食べ切ったでしょ。こっちは、非常食ってとこかな」そう言って、アイリスは残る木の実を巾着に詰めた。「今日は焼きキノコで腹ごしらえしてから、めいっぱい歩こうね」 「…………」 青キノコから逃れられないのかと、知らず表情をこわばらせる。思えば、美味しかったのは最初のあのスープだけだ。ほんの少ししか持ち出せなかった調味料を節約して、あれからは味の薄い食事が続いている。 王城での食事と比べると、毒見をしない分、食べ物はいつも熱すぎるくらいに温かい。その点は嬉しいが、どうしても貧相に思えてしまう。もともとあまり量を必要としないアイヴォリではあったが、自分は同じものを食べ続けていると早々に飽きてしまうのだということを新たに発見した。 空腹を感じるのに、食欲がない。毎日歩き詰めで全身が痛くてだるい。なのに他のふたりは平然と、毎食同じような品並びでもいやな顔ひとつせずにガツガツと飲み込み、歩いても走っても疲労の色を見せずにひたすら元気そうだ。きっと自分が一緒でなければ、半分以下の日数で目的地に辿り着けたはずだ。 「ところでさー、アイヴォリってカジに対してゴミムシを見るような目をするわよね」 「ごみっ――そんなことない……よ」 アイリスの突拍子のない話に狼狽する。 「即で否定できないのが証拠じゃん。触られたところを毎回払ってんのバレバレよ? まあ、本人は多分、汚いって思われてんだろうなって軽く流してるっぽいけど」 返す言葉が見つからない。口をゆっくり開閉していると、アイリスはひとりでにしゃべり続けた。 「あんたがいいとこのおじょーさんなのはなんとなくわかるよ。ホントは悪いとも思ってなくて、下賤の者は『見下すのが当然』みたいな雰囲気するし。でもそれだけじゃあないわよね? あたしたちのことが、怖い?」 「私は……あの」 図星であったため、やはり咄嗟に否定できなかった。あたふたしているアイヴォリに対し、アイリスはスッと目を細めた。この無遠慮に値踏みするようなまなざし、カジオンと同じだ。家族というのは仕草が似るものなのかとぼんやり考えた。 口を開いても、言葉が出てこない。 やがて、香ばしい匂いと共に「めーしー」と間延びした声がした。いまいくー、とアイリスがくるりと振り返り、陽気に答える。 なんとなく、こんなところで会話を途切れさせたくない。手を伸ばした。アイリスの服は袖が無いので、チュニックの腹周りの結び紐を思わず掴んでほどいてしまった。 「ごめんなさい! いますぐ直すから!」 そうは言ったものの、指先がもたついてうまく結べない。 「いいよ、自分でできるって。で、何?」 目が合った。こうして向かい合うと、アイリスの方がわずかに上背があるんだとはっきりわかる。 生まれ育った環境がどうあれ、こうして相対する彼女は、悪人に見えなかった。己と同じ顔だからそう思いたいだけかもしれないが……。 「あの、ね。最初に助けてもらった時、カジオンが略奪者の人を殺すのを見たの」 「ふーん」 彼女の言葉を借りれば、「それが当然」と思っていそうな気のない相槌であった。 「その時の残像が目の奥にちらついて。うかつに近付けなくて、怖い……の。それでなくても私、男の人に……免疫……? なくて。傍にいられるのも顔を見るのも苦手で、それとあの人、口に恐ろしい傷痕が」 なるべく顔を直視しないで日々を過ごしているが、それでもたまに目に入ったことがあった。唇の右端から上へ細く伸びて、頬骨に届くくらいに長い。 「きずあとぉ? ああ、唇のやつ。口裂けのお化けじゃないわよ。あれが何、なんかすごい闘いを生き延びたみたいに見えるとか?」 「え、そうじゃないの」 怯えた声音で訊き返すと、アイリスは腹を抱えて爆笑した。息も切れ切れに「ぜんっぜんそういうんじゃないわ。しょーもなくアホな理由だから本人に訊いてみなよ」と言う。 ――そんな風に言われてしまえば、気になるに決まっている。 絶対無理だと思い込んでいた青キノコの秘めたる旨味に驚いている間、アイヴォリはずっと向かいの青年の口元が気になった。ついチラチラと目をやってしまい、犬歯が結構尖っているのだなという不要な情報まで拾うことになった。 「カジー、アイヴォリがあんたに訊きたいことあるってさ」 ふと余計なひと言を発したのはアイリスだ。 「あん? なんだよ」 黒い双眸に見つめられて、背筋がぞわっとした。咀嚼しきっていなかったキノコの破片をごくっと飲み込む。 震えに耐えて、喉の奥に控える質問を吐き出してやる。 「その唇から伸びてる傷痕、どうやってついたのかなって」 「こんなんが気になんのか。大したアレじゃねーぞ」 「ね。ほら、教えてやりなよ」 「なんでか忘れたけど、ガキの頃に釣り針が引っかかってよ。まあガキだからよくわかってなくて、自分で引っこ抜こうとしたら、こう、がーっと」 曲げた指の先で頬をなぞる。当時の様子を想像したアイヴォリは「ひっ」と声を漏らした。 「い、痛かったの」 「おぼえてねえな。失神して気がついたら周りすげー血だらけだったとしか」 「あとでめちゃくちゃ怒られたわよね。どうアイヴォリ、しょーもなかったでしょ」 「あはは……」 ふたりは、過去の可笑しい思い出を語っているつもりのようだが、アイヴォリにはまるで理解できない。 (変な人たち) なるべく早く別れたいという気持ちに突かれ、急いで話題を切り替えた。 「ところでアイリス、カジオン。『鏡双子の金魚《リグレファルナ》』の伝説って、知ってる?」 んー? とふたりは首を傾げる。 「初耳だな」 「あたしも聞いたことないけど」 アイヴォリはいずまいを直してから、口を開いた。 「信じられないかもしれないけど、もしかしたらそれが、私たちが出会うことになった鍵ではないかと思うの」 |
2-2. c
2018 / 07 / 14 ( Sat ) 会計を済ませ、おもむろに店を出た。外は曇り空で少し暗くなっている。 人間観察がしたいと真希が言い出したので、先にある交差点へ向かい、歩道橋を上った。人が四人は並んで歩ける横幅がある。ここから不審者の気配を探れたらいいのにと思う。 隣の真希は風にさらわれそうになる長い髪を片手で抑えながら、手すりに身を寄せ、楽しそうに地上の人の流れを観察している。当事者がリラックスできているなら、それでいいのだろう。 「どこかにイケメン落ちてないかなー。そんでこっちに都合よくひとめぼれしてくれないかな。ねえ、一緒に探してよ」 「そんな、落ちたお金を拾うみたいに。顔だけ良くても生活力が無かったらどうするの」 「よほどグレードの高いイケメンなら養ってもいいわ」 冗談めかしているのかと思えば振り返った友人は真顔だ。絶対やめた方がいいよ、と言いたいところを、思い直した。 「この前とだいぶ意見が変わってるような……」 「だってさー! 疲れるじゃん、結婚を前提にしたお付き合いって。コレ! ってピンと来る相手がみつかれば別だけど。堅実で収入も安定してて更に顔が好みの男が選択肢にいないなら、せめて見た目だけでも好みの方がいいって。ゆみこも思うでしょ?」 食い気味にまくしたてられた後に水を向けられて、唯美子は狼狽した。 「わたし? わたしは、うーん」 今朝母に同じ話題を振られたのだと思い出し、あいまいに笑う。母にはそのうちお見合いするよと答えておいたのだが。本心では、独り身の方が気楽でいいじゃないかと思っている。 (子供は嫌いじゃないし、家庭を持ちたくないわけじゃないけど……) きっとなるようになる。少なくとも夏からは退屈していないので、急がなくてもいい気がしている。 「真希ちゃんがそれで幸せなら、いいと思うよ」 「思考放棄したみたいな結論ねえ。ゆみこは安定した将来の為なら心惹かれない相手と一緒になれる? さっきの映画の婚約者とかさ。あー、でもあの婚約者役も顔よかったし、たとえとしてはいまいちか」 どうだろ、と唯美子は色あせた手すりを見つめる。 安定した将来の為に誰かとゆっくり愛をはぐくんでみるか恋愛の為にすべてを捨てるかの二択なら、前者の方が性に合う気はする。では直感でダメそうな相手と、無理して一緒になるまでのことかと言うと、違うだろう。 ――ほどよく末永くうまくやっていけそうなパートナーがいいな。でも見つからないなら見つからないままでも、いい。 「ねえ、あの人とか良くない!?」 横から興奮の隠せていない小声がした。しきりに小脇をつつかれてもいる。 どれ、と真希の目配せする先を追った。 こちらに向かって歩いている、緑っぽいカーキ色のズボンの縁に右手をひっかけた青年を指しているらしい。身長は180センチ未満といったところか。シワ加工をされた黒いシャツの袖を肘までまくりあげ、ボタンを三個も外した首元からは褐色の素肌と胸筋が覗いている。まるでファッション誌から飛び出したような着こなし、悠然とした姿勢や歩き方が印象的だ。 無造作に過ぎるボサボサの髪だが、もみあげを除けば長すぎず、本人が醸し出すワイルドさに似合っている。通った鼻筋、力強い顎のライン、やや厚めで滑らかそうな唇、いずれも彫りの深い東洋系の顔立ちを魅せてくれる。 (ん? もみあげ?) 男性が上を仰いだ。斜めに流れる前髪の下から、濃い茶色の瞳が見上げる。 「なっ――」 みなまで言う前に口を手で覆った。さすがに同じ名で呼べば、友人に不審がられる。 青年の挑戦的な笑みが、とろけるような甘い笑顔に変わっていく。そんな表情もできたのかと驚いた。 (なんで大人の姿になってるの) 思わず目を泳がせ、ついには逸らした。力になってくれるかなと期待して喫茶店の外に出たのは唯美子の方だが、予想外のアプローチである。 「ねえちょっと、こっち来るんだけど」 「う、うん」 どういうつもりだ。わからない。彼はいつも、何を考えているのかわからない。 足音が近くで止まった。 「よ。そっちは、どーもハジメマシテ」 「……ゆみこの知り合い?」 訊ねられてしまえば、精一杯に確答を避けることしかできなかった。いつ子供の方と似ていると気付かれるかヒヤヒヤする。 「ごめんね、今は説明を省かせて。信用できるとだけ言っておく」 言ってておかしな気分になる。「ミズチ」を人間である自分たちが信用していいものか、真の意味では唯美子にも把握できていないというのに。 「いや説明してよ」 「お前を気にしてるやつがちょうどこっち見てるぜ」 真希の詰問を、ナガメが遮った。 「えっ。どこ――」 素早くナガメが真希の後頭部を抱え込み、動きを制する。突然のことに驚いて唯美子も心臓がドキリと跳ねた。 「自然にしてろ。いいか、あたかも親密そうに振るまうんだ」 「嫉妬させておびき出すってわけね」 「話が早くて助かる」 二ッと唇の端を吊り上げて、青年は詰めていた距離を少し離した。 |
α.4.
2018 / 07 / 10 ( Tue ) ←前の話 →次の話
今回文字数多めですが、会話割合も多いです。 この「地球」は、我々の地球よりも体積が二回りくらい小さい感じをイメージしてます。 マスリューナ王国。 国民の八割が生まれつき「元素魔法」を扱う素質を持っているという、この世界で唯一無二の在り様を誇る一大国家だ。優れた知識と魔法がもたらすアドバンテージにより、千年前には既にその権威を周囲に知らしめ、いつしか他国の方からこぞって交流を持とうと競い始めたほどである。あれからさらに数百年経って、世情は移ろい、現在ではマスリューナの影響力も以前ほどではなくなっているが。そういった情勢の副作用のひとつが、言語の統一だった。遠い世界の裏側の、国にすら発展していない地域にまで、かの大国の母語が浸透した次第だ。 さて、魔法大国に住む民にとって、摩訶不思議な現象を引き起こす「魔法」とは、日常的で当たり前に生活に組み込まれているものである。 では風聞のみを知る外の人間にとってはどうか。アイヴォリは今まさに、それを新たに発見しているところだった。 「マスリューナって! 呪文唱えるだけで大地を爆発させられる超ド級に変な奴らが住んでんでしょ? 人間の皮をかぶってるだけの化け物だって、血が紫色だって聞いたわよ!?」 「そんな噂があるの!? 私たちは人間で血が赤いよ! 魔法は使うけど!」 ずいぶんな言われようだ。アイヴォリは涙目になって抗議した。 「つってもよ、いくらオレでも知ってっぞ、世界の裏側じゃねえか! バカにしてんのか!」 「してないわ! 本当に私はマスリューナにいたの! 生まれてから十六年間、首都を出たこともなかった!」 「箱入りかよ!」 「は、ハコイリの意味がわからない」 「言葉通りだろ、他にどんな意味があるってんだ」 「それがわからないって言ってるの!」 「箱に閉じ込められて大事に育てられたっつーんだろ、バカじゃねーの!」 「バカって『頭悪い』に代わる罵り文句だよね!? 『国』の意味も知らないあなたにだけは言われたくない! それと箱じゃないわ、王城だもん!」 「オマエ、城に住んでたんかよ!?」 「そうよ! 悪い!?」 口を利くべき相手ではないとひそかに思っていたのが嘘みたいに、気が付けばお互いに肩で息をして怒鳴り合っていた。呼吸が苦しくなりしばし休戦していたら、横合いから、しばらく発言していないアイリスが手を伸ばした。 「まあまあ。脱線したわね。訊きたいことが一気に増えたけど、要するにアイヴォリは魔法でここまで来たってこと?」 ――返答に窮した。 色々な意味で、なんと言えばいいか、アイヴォリは言葉に詰まった。やむなく正直にそれを伝える。 「ごめんなさい……自分でもよくわからないの。頭ぐちゃぐちゃで。もうしわけないけど、あなたたちをどこまで信用していいものかも、わからない……」 後半部分を聞いても、アイリスたちが気分を害することはなかった。隣の青年はただ肩を竦め、彼の右隣の少女は真っすぐな短髪を左右に揺らしながら、頭を振った。 「旧知の人間でも信用できるかは別問題だし、言葉の裏を疑うくらいでちょうどいいんじゃない。そっかあ、あなたでもどうなってるかわからないんじゃあたしらにはもっと意味不明よ」 「世界の裏側な、想像つかねーな。言葉通じてるだけでスゲーわ」 「ね。アイヴォリの知る魔法にそれっぽいのないの? 答えたかったらでいーわ」 「移動や転移ができる魔法はあるよ」 現在この世で使用される「魔法」は二つの枠に分類される。 まずは元素魔法。その名称が示唆する通り、四大元素――地、水、火、風――を意に添わせる方式の集大成だ。元素とは世の理の一部であり、人間の意識が媒体となって僅かに理を曲げることになる。 そしてそれを捻って、長い距離を楽に移動することは可能だ。が、たとえば風に乗って飛ぶにしても、人体が耐えうる速度限界のようなものが存在するし、魔法は利用するにあたってさまざまな制限もかかる。マスリューナからスクリザフ山をひとっ飛びしようにも、遥か及ばない地点で力尽きるだろう。 二つ目の分類――神聖魔法は、第五の幻の元素、創造の女神の分身と言われる精《エーテル》に呼びかけて奇跡を起こす力だ。元素魔法と違い、生まれ持った素質に頼らない分、厳しい戒律に従った生活を要する。戒律に従い正しく手順を踏めば理論上は誰にも使える。誰にも使えるその一方で、最も優れた神聖魔法の使い手は神官職に通ずる者ばかりとなる。 そのような神聖魔法であれば、転移魔法により瞬間移動は可能―― だが最も追究すべき問題は、方法そのものではない気がしてきた。 「できるかできないかより、誰が、何の為に、こんなことを。私を城から遠ざけて助けようとした人がいたとでも……」 言いながらもずきりと胸の奥が痛んだ。全世界で最も優れた魔法の使い手の内に含まれる、女王と王配が計らったとは考えにくい。他の誰かの仕業であっても、上述のふたりを優先的に救うべきであった。 思わず口元に手をやる。弾みで思い出してしまって、気分が悪い。人体は、裂かれればあんな風になる――帰らなければとあんなに切望していたのに、帰ったら息の根を止められるのではないかと、ドス黒い不安が頭の奥で渦巻いて広がった。 ――今の私には行き場がない。誰も、助けてはくれない――! 「なあ、オレらんとこに現れる前のことなんもおぼえてねーのか?」 カジオンの問いかけで、渦巻いていた黒い霧が薄まった。声のした方に顔を向けると、青年がじっと黒い視線をこちらに注いでいた。射すくめる鋭さではなく、観察しているような、値踏みしているような雰囲気だ。 アイヴォリは咳払いをして、答えを探した。 「直前にものすごく眩しい光に包まれたのはおぼえてる。そっか、それが発動の印……」こうやって冷静に思い返せば、新しい発見があるかもしれない。頭を抱え込んで、懸命に記憶の糸を手繰った。「あれはそう、白い光だったから、きっと神聖魔法だったんだわ。使い手の意思と自然に連動する元素魔法と違って神聖魔法は意思を『示す』必要がある……でも誰かの詠唱を聴いた記憶がない。もしや紀文で? 玉座の大広間にそんな、書けるものなんてあったかしら。あの混乱の中で」 「おぉう、何言ってるかゼンゼンわっかんね」 「そっとしてあげようね。アイヴォリは声に出して考えをまとめるタイプかもよ」 「大広間……血が飛んで……」 網膜に何かが閃いた。束の間の映像の再現だ。ひどく恐ろしく、吐き気のする光景だったが、耐えた。 「壁の方に。そうだわ、血しぶきがついて、その後に光……聖画が魔法発動の鍵だった? ううん、血がかかったのは玉座の背後を飾る女神の聖画じゃなくて横の――」 腕にそっと触れるぬくもりと「おい、そのくらいにしたらどーだ。真っ青んなってるぞ」の呼びかけが遠く感じられる。 ――流れるように長いひれと大きい目玉が美しい金魚が水彩絵の具で描かれていた、広間を飾る仕切り。 金魚の絵より下、小さく文字が書かれていたのをおぼえている。あれはただの詩だと思っていたけれど、もしも、魔法を顕現する紀文だったとしたならば。 (そんな方式、聞いたことない) 自分が知らないだけでは、存在しない確証たりえない。 (あの絵のモチーフとなった伝説は確か、訓話だった。なんてお話だったかしら……) ともかくも、もう少し熟考する時間が必要だ。 ――彼らの傍で。 青年の手をさりげなく払ってから、新たに話を切り出した。 「あの、アイリス、カジオン。ふたりはもう家に帰れないみたいだけど、これからどうするの?」 遠慮がちに訊ねると、彼らは顔を見合わせ、軽い調子で答えた。 「なんとかして生きるぜ、他にどうしろってんだ」 「当たり前のことから答えてんじゃないわ、カジ。そうね、あたしたちだけで森で暮らすのも悪くないけど、やっぱり他に人間がいた方が便利ね。どっか次の村か町でも探すわ。あんたはどうすんの?」 赤橙色の双眸が、まるで魂の奥まで見透かすように見つめる。その力強い輝きに気圧されて、アイヴォリはうなだれた。つくづく同じ顔なのが信じられない。 「……どうしたいか決められるまで、一緒にいてもいい?」 消え入りそうな声で願う。 さんざん心の中で彼らを見下ろしていながら、調子のいい頼みだとは思う。現状、他に縋れる相手がいないのだ。ひとりで森に残されたら明後日まで生きていけるはずがないことくらい、自覚の上だった。 返事を待つ間、胃がきりきりと痛んだ。幸い、待たされたのは数秒程度だった。 「別にいんじゃね」 「あたしもさんせー」 「あ、ありがとう」 拍子抜けするほど簡単に受け入れられた。 |
2-2. b
2018 / 07 / 08 ( Sun ) ――「林 永命」 永命、の部分がナガメと読むのだとして、苗字はどこから来たのだろうか。思い付きでつけたのか、それともそれも誰かから貰ったのか。(わたしに会うまでは、個人の名前を持ってないみたいな口ぶりだったのに) 疑問に思えば思うほど、言いようのないモヤッとした気分になる。 これではいけない。せっかくの友達との時間だ、暗い気持ちはどこかへ追いやって、オーダーに集中すべきである。メニューを吟味し、真希は特産ブドウの入った色とりどりのパフェを、唯美子はアールグレイラテとチョコタルトをひと切れ頼んだ。 他愛のない話をするうちに、ウェイトレスが注文の品々を持ってきてくれる。最初にひと口ずつを分け合って、それからじっくりと自分の頼んだものを味わった。どれも甘味と渋味のバランスがちょうど良い。絶賛すべきクオリティだった。 「んまーい!」 向かいに座る真希はまず写真を撮った。それが終わると次にスマホを片手にレビューを投稿しつつ、残る手で忙しそうにパフェを口に運んでいる。 こうして腹は甘いもので満たされた。晩ごはんの時間になったらちゃんとお腹すくかなー、とぼうっと思いながら唯美子は自身の飲み物をわけもなくスプーンでかき混ぜる。 「なんだかこの頃、誰かに見張られてる気がするんだよねー」 ぽつりと漏らされた呟きに、唯美子はアールグレイラテをかき混ぜる手を止めた。動揺のあまりすぐには返事できなかった。友人がストーカー行為の被害に遭っている――? 「そういう大事なことは早く言って!」 反射的に声を荒げてしまう。ハッとなり、テーブルに両肘をのせて上半身を低めた。 「え、ど、どうしたのよ。具体的に何をされたってわけでもないからさ、警察どころか誰かに相談するのもバカみたいじゃない。自意識過剰みたいで」 彼女らしくない消極的なスタンスであった。 「バカみたいだなんてことない。わたしは真希ちゃんを信じるよ。わたしじゃあ何の力になれないかもしれないし、頼りたくないって思われてもしょうがないけど」 「ありがと。ちゃんと頼ってるわよ、だからさっきひとりでいるのが嫌で、映画に誘ったんだよね」 「まさか駅にいた時点で視線感じてたの!?」 なんとも気まずそうに、答えづらそうに、真希が首肯した。 (……じゃあ) 席を立って辺りを見回す。広い店内は仕切りのついたブース席が主で、他の客を観察するには向かない。 よく考えてみれば、唯美子に不審者をどうこうする力はない。たとえそれらしい人を見つけても「見られた気がしたから」と相手に詰め寄ったら、ただの言いがかりもいいところだ。確信を持って特定できたとしても、通報するに値する理由がない。 せめて二度と真希に近づくなと堂々と釘を刺せたならよかったけれど、生憎と、普通に怖い。そんな果敢さを、唯美子は持ち合わせていないのだった。 「おーい、挙動不審って思われるわよ。心配しなくても今は感じてない」 「今はそうでもわたしが帰った後にまたその人が浮上してくるかも」 力説すると、友人は苦笑した。 「ゆみこってのほほんとしてるのにたまにいいところ突くわよね」 「のほほん……」 「ともかくね、いつもは家の近くが怪しいのよ。職場だと全然だし、出かける時に視線を感じたのって今回が初めてだわ」 「家の近くって、真希ちゃんもひとり暮らしだよね」 ひやりと背筋に悪寒が走った。住所を知られているということではないか。恐る恐る、その旨を訊ねる。 「どうだろねー。近くって言ってもいつも駅周りとかスーパーとか通勤中に交差点渡ってる時とかよ。帰り道は何事もないわ」 「強がってる? 相手がいつエスカレートして帰り道にも現れるかわからないよ、なんとか――」 なんとかしようよ、と言いたかったのだが、言葉の先を呑み込んでしまった。なんとかとは、何だろう。口先だけのアドバイスでは単なる余計なお世話ではないか。 (ストーカーがすぐそこに……一緒にいる今のうちにあぶり出せたら) その後のあらゆるパターンを想定してみるも、無茶だと結論づいた。格闘家でもあるまいし、大人の男性に果敢に立ち向かえるほどの力が自分たちには無い。 途端、背後の席から仰天した声が上がる。 「ぎゃっ! 窓の外にでっかい虫!」 後ろのカップルが窓ガラスを叩いて払おうとしている。件の虫がぴょんぴょんと横にずれて、こちらの視界に入った。 見知った形状のトンボが二匹。 (ナガメ……?) 逃げられた、と真希は言った。あれから数時間経っているし、どこか別の場所へ去ったと勝手に思い込んでいたが、まだこの辺りにいるというのか。 気にかけてくれている、そう考えるのは自惚れだろうか。彼が唯美子を「まもる」と約束した、その重みを未だに測りかねている。 とにかく近くにいるという可能性が重要だ。 「えっと、この後少し散歩しない?」 唐突すぎる提案を却下されたらどうしようと内心焦ったが、杞憂に終わった。 「いいね」 |
α.3.
2018 / 07 / 06 ( Fri ) ←前の話 →次の話
謎の光によって城から飛ばされて以降「初めて」だらけに見舞われているアイヴォリ・セレマイナ・シャルトランであったが、その流れにはまだまだ続きがあった。 屋外で、しかも地面に腰を下ろして食事をするのは初めてだ。女神への祈祷をせずに食べるのも初めてだ。熱が届く範囲にむき出しの焚き火があって、こんなに近くに他人が座っている状態で食べるのも、食器が一組しかない状況で食べ始めるのもまた、初めてだった。 (ま……回し飲み!?) 自称・家族の男女は順にお椀と木製レードルを取っては四、五回ほどスープを啜り、次の者に渡すという行動に出ている。アイリスからカジオンへ、そしてカジオンからアイヴォリへと回って来た。 「ほらよ。アイヴォリ」 絶句して、青年の差し出す物を見つめた。確かに空腹がひどくて頭痛すらするが、いくらなんでもこれは受け入れられない。先に彼らが食べたから別の毒見役の人間が要らないという意味では得したけれども。 「遠慮すんな」 ――遠慮の問題じゃ……。 硬直が解けなくて、何も言い返せない。 すると、強引に持たされた。アイリスが水筒を押し付けて来たのと同じだ――呆然とそんなことを考えていたら、ぶるりと手首から先がひとりでに震えた。 原因に思い当たり、危うくお椀と落としそうになる。 (やだ、男の人に触っ――しかも下々の、) 人を殺めるような野蛮人の手に。 嫌悪感がこみ上げる。起きがけの時は疲弊していて意識しなかったが、この男は雑巾を顔に投げつけたのだった。たとえ助けてくれた恩人なのだとしても、決して長く一緒に居たい人種ではない。 早く帰らねば。その強い想いを原動力に、勇気を振り絞る。 「あの、他に食器があるかしら。私、もう少し小さいお椀とスプーンの方が食べやすいかな」 苦し紛れだが、嘘をついてはいない。レードルはスープをよそう為の代物であって、普通は食す為に使わない。 「そんなもんないわよー。隙を見て何かしら持ち出せたってだけで、悠長に荷造りしてる余裕なかったし」 あっけらかんと答えるアイリス。隣のカジオンが片膝を立てた姿勢で――なんと行儀作法のなっていない――うなずく。 「なんとか略奪者《マローダー》をやり過ごせると思ったら、第二波が来ちまってな。命からがら逃げてきたんだぜ。ついでにオマエを担いで、な」 びし、っとアイヴォリは指をさされる(礼儀の著しい欠如に関していちいち意に留めるのも面倒になってきた)。 「あなたがたにとってはついでだったとはいえ、助けてくれたことには、感謝してる」 精一杯の笑みを添えて伝える。このような粗暴な男に担がれた事実が屈辱だったが、過ぎたことは考えても仕方がない。意識がなかった点だけが不幸中の幸いと言えよう。 「気にすんな。んなことよりアイヴォリよう」 「何でしょう」 カジオンは改まって何を訊くつもりなのか――つい、丁寧な口調で応じてしまう。 「つーか、食いながら聞けよ。冷めちまうだろーが」 威圧的な黒い双眸と一瞬目が合い、たじろいだ。 「う、は、はい」 これ以上の抵抗は無駄だと諦める。汚らしい食事と飢え死にとでは、どちらを選択すべきは明白だ。 スープから立ち上る湯気は、思いのほか香ばしかった。体は素直なもので、乾いた口腔の中はたちまちよだれで湿った。 おもむろにレードルを動かす。 驚くべきことに、スープは美味しかった。口当たりもやさしい。胃の奥から温まってゆく。 ただし具が何なのかは、知らない方が幸せな気がする。下流階級の人間が手に入れられる食材など、たかが知れている。 ふいに視線を感じて、顔を上げた。他のふたりがうれしそうにこちらを見ていた。 なぜ、の問いを口にするのは憚れた。 「ちょっとは人心地ついた? めいっぱい食べて元気出しなね」 自分と似ているからだろうか、アイリスの笑顔が変に眩しく感じられた。木漏れ日の下で改めて見ると、アイリスの瞳は赤みがかった橙色だ。アイヴォリの赤みがかった紫色の瞳とは、似て非なる印象である。 なんとなく目を逸らした。 「…………うん。それで、私に訊きたいことがあったんだよね」 「おうよ。オマエ、どっから来たんだ? オレらが住んでた集落は全方位が森に囲まれててよ」 「もうあそこには帰れないけどねえ」 と、アイリスが付け加える。 「ったりめーだ。で、まさか略奪者のニモツから逃げ出したわけねーよな」 「そりゃあないでしょ、カジ。襲撃に、足手まといになるモノ持って来るバカはいないわよ」 「待って」 食べながら――どう答えるべきか、どこまで情報を開示していいものか決めあぐねていたアイヴォリは、そこでひとつ気になって、口を挟んだ。制止の声を受けたふたりが、じっとこちらを見つめ返す。 「まずはっきりさせてほしいの。ここは、どこの国なの?」 「くに」 異口同音に訊き返された。彼らは、国という概念すら知らないようだ。 「もしかして、為政者の居ない区域なの」 ふたりはきょとんとして顔を見合わせた。 「いせいしゃ? ってなんだよ」 「……質問を変えるね。地名が知りたい。あなたたちの住んでた森はなんていうの? それか、一番近い村や町の名前を教えて」 「森は森よ。近いのは、そうね。ウマンディの丘じゃない?」 知らない地名だ。 「他には?」 「あと近いっつったら、スクリザフ山だろ。そんなに近くねえけどよ」 聴覚がその地名を受け取り、脳に届けて、記憶の網を揺すった。こう見えて、アイヴォリはひと通りの世界地図を頭に叩き込まれている。城の広大な図書室に飾られていた地球儀を思い出し、子供の頃に山脈のある場所を嬉々として指でなぞったのを思い出し―― 「うそ」 うわごとのように呟いた。 「何だよ。オレらはウソなんてついてねーぞ」 「嘘だわ」被せるようにカジオンの文句を遮る。「スクリザフは、だって、遠すぎる」 それこそ地球の裏側と言う度合いに遠い。どんな移動魔法でも転移魔法でも一瞬でそこまで飛ばすのは不可能だ。逆に、城を去ってから何か月も経っていて、無意識に移動に時間を取られていたとも考えられるが。 ガタガタと全身が震えだす。 恐ろしくて、難しい理論を整理する余裕がなかった。 「アイヴォリはそれじゃあどこから来たって言うのよ?」 「…………」 囁きというほどに静かに、祖国の名を述べる。無知な彼らでもさすがに知っていよう。 アイリスとカジオンは二の句を告げようとして、しかしそれぞれに顎をゆっくりと落とした。 |
2-2. a
2018 / 07 / 04 ( Wed ) 巨大なスクリーンに映し出される映像に、誰もが釘付けになっていた。 『泣かないでくれ。君だけを愛している、永遠に愛し続ける! 僕は何も持っていないし、この戦争から必ず生きて帰ると約束できないけれど! 君が例の婚約者と結婚して家庭を築いても構わない、僕は君の幸せをいつまでも願っているよ』この作品のクライマックス、家と職の事情により引き裂かれそうになっている恋人同士が、涙ながらに永遠に心を通じ合わせると誓う場面だ。女性は良家の令嬢で、家人の目を盗んでまで、遠征に発つ男性の見送りに来たのだった。 切なくも激しいピアノ演奏曲がスピーカーから流れ、場面をますます盛り上げる。 『私もよ! アキトさんが無事に帰って来るように毎晩祈ってる! 家の命令には逆らえないの、でもアキトさんさえいれば――全部捨てられるわ!』 『ハルミさん! 君の祈りがきっと僕を守ってくれる!』 ひしと抱き合う恋人たち。結局男性は戦場から帰ることなく、女性は家の役目を顧みずに自害した。 最期まで愛を貫いた彼らの、遠く離れたそれぞれの墓前には、同じ色のアジサイが咲く――。 「あー、最高! ベタでもよかったわ、主演俳優の演技がばっちりはまってた感じ。ボロボロ泣いたな、久しぶりに」 映画館から出て喫茶店の方へ足を向けている最中だ。友人の八乙女真希が、歩きながら伸びをした。 「面白かったね」 唯美子はひと言のみの相槌を打った。おや、と先を歩く真希が足を止める。 「どうしたゆみこー。テンション低いぞぉ。感動しなかった?」 温度差に不満を感じているらしい。彼女は眉根を寄せ、唇を尖らせている。 思わずたじろいだ。 面白かったのは確かだ。チケット代を払わなかった点を差し置いても、演出や音楽、全体的にいい映画だったと思う。男性が観たら退屈に思いそうなテーマだが、唯美子には普通に楽しめた。 ただ手放しで褒め讃えるには、シナリオと登場人物に共感できない部分があったのだ。 「家の反対を押し切ったり安定した生活を捨ててまで誰かと一緒に居たいとか、愛のためなら死ねるって感性がちょっと、わたしには遠いかな」 「ぜんぶ情熱《パッション》ゆえでしょ」 「うん、情熱的な恋愛ってのがわたしにはわからないんだ……婚約者さんはいいひとだったし、結婚から始まる恋愛を選んでもよかったんじゃ」 「それはねえ。愛が盲目だからよ。ほかの人じゃダメ! ってなっちゃうくらい好きだったんだよ。ゆみこにはそういう恋、なかった?」 「人を本気で好きなったことはあるよ、あるけど。障害が出てくると諦める選択肢に傾いちゃって、どうしても手に入れたいって押し切るパワーが沸かないや」 そうやって踏み出すことすらなかった片想いのなんと多かったことか。やはり、「本気」の度合いに不足があったのだろう。 「あんたちょっとぼんやりしてるもんね。前の彼氏も、横恋慕してきた子に譲った形で別れたんでしょ」 「譲ったつもりは……」 三年前のことをちらと思い返す。彼はあの時、自分と彼女の間で揺れていた。彼らのひどく苦悩した姿を見て、自分さえ身を引けば皆が解放されるのではと思ったのは憶えている。 それに裏切られたのだと感じた時点で、終わりを予感してしまっていた。己が浮気を一切許せないタイプなのだと、あの時に知った。 (譲ったことになるのかな) 過去のできごとを延々と分析しても仕方がない。この話題は終わり、と手を振る。 「ふーん。あ! あそこ入ろう。アイス食べたい気分だわ」 真希が指さした先では、外に立ててある看板に秋パフェが派手に宣伝されていた。 席に案内される途中、子供連れの家族を通り過ぎた。小さな兄妹が携帯ゲーム機を取り合っている。お兄ちゃんもういっぱい遊んだでしょ! と妹が訴えかけると、親が譲りなさいと叱る。 外見年齢ではナガメと同じくらいの少年は嫌々従うも、むすっとした顔で「こわすなよ!」とテーブルを叩いた。 こうしていると気付かされる。そうだ、子供の姿をしていてもあの子は――演じているだけで、子供らしい感情の起伏がない。人の供ではない、ミズチと呼ばれる彼は、たとえば癇癪を起こすことがあるだろうか。まるで想像ができない。 席に落ち着き、小型リュックを肩から下ろしながら、ふと唯美子はナガメがメモ帳に書き記した名を思い出していた。 |
α.2.
2018 / 07 / 01 ( Sun ) この前試験的に冒頭を書いた話、ふらふらと続けるかもしれません。
不定期。五話くらいたまったら目次作りますかねぇ。 ←前の話 →次の話 不快な夢から目が覚めた。 濃厚な、食べ物が熱されている匂いがする。アイヴォリは小さく呻いて右手の甲を額に触れた。熱い。手も、額も、燃えているようだった。 目をぎゅっと瞑って改めて見開き、状況を掴もうとする。 (城の中……じゃない) 天蓋どころか、いくら仰げども天井が見当たらず。手足や背中を支えるは、自室の広く柔らかいベッドとは遠くかけ離れた、ざらついているようで湿った感触だ。 思わず涙がこぼれた。 夢ではなかった。寝て起きればすべてが元に戻るわけが、なかった――。 「やっと起きたわね、眠り姫さん」 若い女性が覗き込んできた。反射的にアイヴォリは急いで起き上がる。 急ぎすぎて目が眩んだ。 「大丈夫? だいぶうなされてたっぽいけど、食事の用意してて起こしに行く余裕がなかったのよ、ごめんね」 気分が悪い。胸元を押さえてうずくまっていた間、女性が力強い手つきで背中をさすってくれた。 「はい、呼吸はゆっくりシッカリとね」 「……う」 「とりあえずほら。水飲みなよ」 視界が揺らぐ中、右手の中に何かを無理やり突っ込まれた。革製の水筒らしい。アイヴォリは水筒を弱々しく握り、口に運ぶ。 不味い。不味い水というものが世に存在するのだと初めて知った瞬間だった。咳き込んだ。 ついでに言って、革製の水筒はかなり生臭かった。革の元となった動物の臭いなのだと理解が追い付けば、ますます気分が悪い。 吐きそうだと思った時にはもう吐いていた。 「あらら。キレイな服が汚れちゃったね。カジ、なんか拭くもの持ってきてー」 傍の女性は、まったく怯んだ様子がない。いっそ大げさに反応してくれた方がよかった――羞恥に、アイヴォリは消えてしまいたかった。 こちらの心境を知ってか知らずか、女性はテキパキと世話を焼いてくれる。されるがままに任せた。 「かわいそうに……いい夢は、まあ見れなかったかな。まだ横になって休んでていいよ。あ、自己紹介がまだだったわね、あたしはアイリス」 アイリスの手も、微笑みも、信じられないくらいに温かい。初めて会う人間に、こんなに優しくできるものなのか。偽りなのだろうか。横たわったアイヴォリは、わけがわからずに泣いた。 ぱさり。その時、頭の上に布が被せられた。 「オマエ、どんだけメソメソしてんだよ。アイリスと同じ顔なクセに」 暗闇に響いた声に、アイヴォリは身を竦ませる。この男性はどうも苦手だ。目の前で残酷に人を殺した男を、好きになる方が無理だろう。 「なんとか言えよ、ほら。ほらー」 「…………」 黙り込んでいると、アイリスが布を取ってくれた。 「カジ、いい加減にしなさい! 女の子の顔に雑巾被せるとかふざけんじゃないわよ。自分と同じ顔なだけに余計に胸糞悪いわ」 「はっ、急にイイ人ぶってんなよ。そこで横んなってたのがオレだったらオマエ、同じことしてただろ」 「そりゃあ、あんたみたいなのは労わらなくても勝手に回復するからね」 「お姫サマは特別扱いなー、へーい」 びくりと肩を震わせた。アイヴォリの警戒を高める単語があったからだ。 息を潜めていると、アイリスが男性に結構大きい石を次々と投げつけた。男性は身軽に全ての石を避けて見せる。おそるべき反射神経だ。 「ああもう! 拭くものありがと、さっさとあっち行きなさいよ」吐き捨てて、アイリスは再びこちらを見下ろす。「ごめんね、アイツはカジオンっていうの。あたしらは腐れ縁っていうか家族っていうか。後で何発かブン殴っておくから、怖がらなくていいのよ」 「…………」 こんなにも活発そうで暴力的な女性に会うのは初めてだ。自分と同じ顔でこうも違うなんて、アイヴォリには不思議でならない。 落ち着いて眺めると、似ているのは顔のつくりだけだとよくわかる。アイリスの肌色はより日に焼けていて暗いし、髪は顎の下に届くほどにしか伸ばしていない。袖のないチュニックから除く腕は筋肉が盛り上がっていて、陰影がくっきり浮かんでいる。 「喋れる? よかったら名前教えて? 服が立派だし、やっぱどこかの貴族のお姫サマかしら」 質問に答えるまでに、しばらく逡巡した。名を明かして素性が悟られてしまえば身が危険ではないだろうか。ここが何処なのかわからないまま、助けてくれたこの人たちが、王国の敵か味方かもわからないのだから。 (このひとたち、教養がどれくらいあるかしら。どこの国の民かしら。もしかして本名を名乗っても、身分まではバレない……?) 話し言葉は形になってはいるが、いたるところで発音が訛っている。単語の節目も不明瞭で、抑揚の付け方が粗い。聞き取る側の技量を試す話し方だ。 すなわち、学を得ていない階級の出。 アイヴォリの様相についても「服」にばかり注目していて、家柄をより的確に象徴する細かい装飾品や刺青にまったく注意が向かないのも、妙だ。そういった物に関する知識が無いのか。 ――本来であれば口を利くべき相手ではない。 (でも助けてくれたわ) 恩に報いないことには、シャルトラン家の誇りと品格を損ねかねない。 心を決めて、姿勢を正す。起き上がらなくてもいいとアイリスは言ってくれるが、なんとか背筋を伸ばしたかった。 視線も真っすぐにして、唇を舌先で湿らせる。 「初めましてアイリス、カジオン。まずは、助けてくれてありがとう。私の名前は――アイヴォリ」 眼前の少女と、彼女の背後で大きな鍋をかき混ぜていた青年が、ギョッと目を見開いた。 「すごっ! 喋れるんじゃん! 言葉超キレイ、音楽みたい!」 「つーか声までアイリスに似てんな。気味悪ぃぜ」 「そんなことないわ」 「いいや、似てる。ピッチがアイリスよか高いけどよ、なんつーの、声質? 響き方? 似すぎててキメェ」 「キモイとか言うな! ホント失礼ね! 今すぐ蹴らせろ!」 「いいぜ来いよ、返り討ちにしてやる!」 宣言通りに拳と蹴り技が飛び交う。このふたり、じゃれ合い方がどこまでも暴力的だ。 「あ、あの……」 この様子では、素性を感付かれた心配は無用そうだ。胸を撫で下ろすと、今度はお腹から切なげな音がした。 なんて恥ずかしい。笑ってごまかせる間もなく、カジオンが大笑いし出した。 「スープできてるぜ、食ってみるか? 吐いたばっかで腹減ってっだろ。具少なめで胃にも楽なはず。タブン」 笑いの後に続いた呼びかけは――何故だかとても、優しかった。 |
2-1. e
2018 / 06 / 30 ( Sat ) 「名づけた人の趣味がすごかったって話。あれ、あなた小学校にもあがってなさそうなのに、漢字で書けるのね」
手帳から目線を上げて、マキがふさふさのまつ毛に縁どられた目を意外そうに瞬かせる。つい注視してしまいたくなる動きだ。 そんな折、青と茶の軌跡が視界の端で踊るのが見えた。 彼らの知らせがなくとも、ミズチにも伝わっていた。まだ遠いが、相当な速度で近付いてきている。 「それより『まきちゃん』、ゆみを呼んだな」 「へえ! なんでわかったの。エスパーみたいよ」 女が端末の画面をこちらに向ける。長い爪が邪魔だが、画面に己の姿が収まっているのがなんとか見えた。マキが会話の合間にさりげなく撮っていたらしい。ブレていて見づらいが、背格好や服装で丸わかりである。邂逅して間もなく送りつけたのだろう。 続いた数秒の間で、ミズチは速やかに判断した。 鉢合うまでここで待っても構わないが、この場合、様子を見たほうがいいだろう。 「保護者同伴なんて嘘なんでしょ。まずその格好、パジャマっぽい」 「きがえるの忘れてた」 寝間着で外を出歩くのは人間の感覚では恥ずかしいことなのだと、指摘されてから思い出す。道理で何かと他人の遠慮がちな視線を感じていたわけだ。 「なに、喧嘩でもして飛び出したの? お姉さんに相談してみなさい」 マキがニヤニヤ笑いながら両手を組んだ。だがこちらはもう去るつもりである。 「いらねー。じゃあな、あと、あやしいやつに気をつけろよ」 「ちょっと待って!」 待たない。女の制止の声も伸ばされた手もかわし、ミズチは鉄紺と栗皮を連れて人込みの中に一旦身を隠す。数分も経つと物影に移動し、そこで自らの周りの水滴を浮遊させ、薄く膜を張った。姿を認識されなくする術だ。 そして息を切らせた唯美子が駆け付けたのと合わせて、物影から踏み出た。何かにぶつかると術が解けてしまうため、慎重にマキの席の後ろに回る。 「ナガメ!? あ、真希ちゃん、連絡ありがとね」 唯美子は空いた椅子の背もたれに手をのせ、ぜえはあと苦しげに呼吸を繰り返した。探し人の姿がないことに眉の端を下ろし、きょろきょろと辺りを見回している。 ――なぜ彼女は走ってきたのだろう。 急ぐ理由などどこにもなかったはずだ、むしろ、吉岡由梨と談笑していたのではないのか。汗に濡れた前髪をかきあげる唯美子を、ミズチは奇妙な心持ちで眺めた。 (いいにおい) ひそかに。当人に気づかれずに、近くで観察する。 唯美子をかぐわしいと感じるのは、捕食衝動とは別のところから生じているように思う。数百年生きてきてニンゲンを喰らったことは確かに何度かあったが、美味いとはまったく感じなかった。今でも、ニンゲンよりも食べたいものはいくらでもある。 生物が同族の異性をかぐわしいと感じるのとも、おそらく違う。敢えて言葉にするなら、彼女が心から発する優しい波動が、好きなのだと思う。 傘を置いて行ってくれた日からだ。 彼女だけの呼び名を聞く度に、よくわからない感覚をおぼえる。うれしい、のかもしれない。 「やっほー、いいってことよ。でもごめん、ついさっき逃げられちゃったわ。なんなのあの子? あんたが来るの、前もって気づいてたみたいだけど」 マキが気さくに応じた。まあ座りなよ、と手の平で示している。唯美子は促されるままに腰を下ろした。 「逃げたの……。ううん、気にしないで。あの子はひとりでも大丈夫だから。いつものことだよ」 「そうみたいね。ねえ、ゆみこって親戚にハヤシさんがいたのね。初耳」 「木が二つ並んだ字のハヤシさんのこと? いないよ?」 そうなの、と訊き返したマキの声が明らかに驚いていた。唯美子もまた驚いた顔をしている。 これが何の話かは、ミズチにはいまひとつ掴めない。 「名前、なんていうのって聞いたらこう書いたんだ。この字で『ナガメ』は、読めなくもないな」 マキが手帳を開いて見せると、唯美子は上体をテーブルの上に乗り出し、真剣な面持ちでページを見つめた。納得の行かないような顔だ。 自信があったのに、それほどまでに変な字だっただろうか。 「ゆみこさー、電車乗ってきたんだよね。わざわざ来たんだし、今から映画観ない? 実は今日、デートの相手にドタキャンされちゃって。チケットおごるよ」 「うーん。お母さんが家にいるんだよね」 「ちょっとくらいいいじゃないー」 「そうだね、あの人は放っておいても自由に動き回るだろうし、とりあえず訊いてみるね」会話にしばしの間があった。唯美子の端末が鳴るまでの数十秒だ。「好きにしていいよだって。晩ごはんまでに戻りさえすれば」 「やったー!」 そこまで聞いて、ミズチはその場を足早に立ち去った。映画館となれば二人は少なくとも数時間は一か所に留まることになる。 ――その間に探してみるのもいいか。 指を軽く振って眷属の二匹に合図を送った。 追跡すべきは、特定人物に向けられた『悪意』だ――。 いつにもまして漢字vsひらがな表記が不安定な今作ですが、生ぬるい目で見守っていただけるとうれしいです…(;´Д`) 2話でお会いしましょー☆彡 |
2-1. d
2018 / 06 / 25 ( Mon ) 深く考えずに、香立ての前であぐらをかいた。割と最近に誰かが来たのだろう、新鮮な花が飾ってある。 ミズチは頬杖をついて物思いにふけった。自らに、死者に語りかける習慣があるわけではない。墓石をつくるという慣習はニンゲンだけのものだ。死者を悼むことからして、地球上のどこを探しても、ニンゲン以外に取り組む種がいない。 失った家族を恋しがる動物ならありふれている。寂しさにとりつかれて後を追うように衰弱する事例は広くあるし、植物にもそれがないとどうして言い切れよう。だが、複雑なシステムを作り上げてまで「去った者を能動的に思い出す」のは、ニンゲンだけのように思える。 そうする行為に意義を見出すのは遺された生者だけかと思っていたが、案外そうでもないのだと過去に教えてもらった。 不思議だ。 忘れないでくれ、時々でいいから思い出してくれ――そんなわがままな願いを、愛する者に投げつけながら逝くのも、ニンゲンだけではないだろうか。わかったよ思い出すよと口約束をしてやるだけで、死ぬ時の表情がまるで別物になるのだ。 命を次世代に繋ぐ術を持たない獣には不可解なことばかりだった。 (二ホンに戻ったんだから、あいつのとこにも行ってやらないとな) 胸中に浮かぶ感情をなんと呼ぶのか、ミズチはまだ知らない。別段、知りたくもない。 ぼんやりと仏花の色合いを脳内で評価していると、ふわり、慣れ親しんだ生命の波動が頭上を旋回した。頭頂部の髪が僅かに乱れた。 「どした? 鉄紺」 大型アオハダトンボの雄の飛び方に動揺が表れている。ただならぬ事態が起きたのかと懸念した。 主と眷属に音声言語は不要だ、意思の矢印みたいなものを拾い合うだけで事足りる。思念を丁寧に受け取り終えると、ミズチは脱力して姿勢をだらりと崩した。 「そんなん、おいらに言われても。ニンゲン同士で解決すればいいじゃん」 声に出して返事をするのは、他者との「会話」のしかたを反復練習するためだ。 鉄紺は飛び回りつつ、自身が持ち帰った情報の重要性を再度主張する。 「あー、あー……そりゃほっとけねーかな。わーったよ、様子を見るだけなら」 どうせ今日は暇だ。 呟きながらも足を高く蹴り上げる。次に両足を勢いよく蹴り落として腰を浮かせ、ぴょんと跳ね起きた。 * 県内で何番目かに大きい駅にふさわしく、にぎやかな場所だ。近辺にはニンゲンが好む娯楽施設――カラオケやら映画館やらバーやら――が幾つも並んでいた。 土曜日の朝は人通りが多いのか、横断歩道の信号機が緑色のアイコンに変わる度に、人がうじゃうじゃと動き出すのが見えた。 行きたいところもなしにミズチはそんな駅周辺をうろついていた。 やがて、どこぞのカフェの屋外の席にするりと身を収める。 先にそのテーブルに座っていた長髪の女が、驚いたように手の中の端末から顔を上げた。テーブルの上には手帳とシャーペンが、もう片方の手には、飲み尽くされて氷しか残らない何かのドリンクの抜け殻があった。甘ったるい残り香は、あいすかぷちーの、のそれかもしれない。ミズチは思わず嫌そうな顔をした。 「なに、あなた」女も嫌そうな顔をした。すぐに表情が移ろい、化粧っけの濃い顔に認識の色が広がる。「もしかして、ゆみこが預かってるっていう遠い親戚の子じゃないの。この前写真で見せてもらったわ」 アパートでじゃれていた時に携帯端末で撮られた画像のことか、と得心する。 「そーゆーおまえは『まきちゃん』だ」 肩の開いた派手な服装、目元を強調した化粧。それだけで特定したのではない。というよりも、ミズチは見た目で判別しない。 もともと蛇は視覚より嗅覚に頼る生物だ。擬態に際して視覚の機能を多少向上してみたものの、興味のないニンゲンは基本的にみな同じに見えてしまい、誰が誰なのか断言できなくなる。 識別する材料は匂い、そして気配(これもトンボたちの方が精度が上だが)に限る。 「こら。年上のお姉さんに『お前』はないでしょ。生意気ね」 「…………」 断じてこの個体はミズチよりも年数を経ていない。が、それを口にするわけにもいかず、首を傾げるだけだにした。 「あなたの家庭の事情はよくわからないけど、しばらくゆみこのところで厄介になるんでしょ? 大変ね、あの子も」 「ふーん。どうたいへんなんだ」 「どうって……」 マキの顔にはいかにも「がきんちょに教えても無駄」と書いてあったが、一応答えることにしたらしい。 「世話する手間はもちろんのこと、遊びに行く時間も減るし。彼氏だって――あれ? そういえばあなた、ひとりで出歩いてるの」 「ひとりじゃない」 「ホントに? 保護者は?」 疑惑いっぱいで、ピンク色のケースをはめた端末を口元に当てながら、マキがこちらを窺う。瞬く睫毛が不自然なまでに長い。たぶん、偽の毛を取り付けているのだろう。 「こう見えてどーはんしてるよ。おまえのしんぱいには及ばねー」 「難しい言葉を知ってるのね……」 「それよりカレシがなんなんだ。別にゆみに男ができよーが、おいらには関係ねーんじゃん」 「関係ないわけないでしょ。あなたに居座られてると、デートに出かけられないのよ。家にも呼べないし」 「なるほど、相手ができても交尾できないって話か」 「こうっ……!? あなたんちの親はどういう教育――……そういえば、あなた名前なんていうの? ゆみこに聞いてなかったわ」 呼びづらさに今更気付いたのか、マキが端末を下ろして改めて聞いた。 ミズチはまずその爪先に目をやった。ピンク色の爪がやたらと長いが、形が均一だ。これも作り物か。 テーブルの上を舐めるように眺めてから、手帳とシャーペンを手に取る。後ろの方の空いているメモページに三文字書いて、持ち主に返す。 開かれたページを顔に近付けて、マキは口元をひくつかせた。 「……キラキラネーム?」 「なんだそれ」 聞き覚えのない単語に、またも首を傾げる。 |
2-1. c
2018 / 06 / 23 ( Sat ) 「ああ言えばこう言う! いけ好かない奴だよおまえさんは」
「ひよりに好かれたいと思ったこたぁないなー」 そう返してやると、女は額を押さえて深くため息をついた。動きにつられて、かんざしの先についている金色の扇子を模した部分がしゃりんと揺れる。一瞬そこに視線が釘付けになった。こういった細やかに動きは、つい目で追ってしまう。 「おまえたち人外は厄介だよ。『蛟』ほどの個体ともなれば、悪意や真意を悟らせないようにうまく隠せるだろ? まあ……ゆみが気に入ってる時点で、たぶん悪意はないのだろうね。あの子には、そういったモノが視えてしまうから」 「わかってんじゃん」 ミズチは数歩の距離を保ったままに、中庭でごろんと横になった。逆さの視界の中で、ひよりを見上げる。 目の前のこの和服女は、おそらく既に己の寿命の半分以上は生きているという。その面貌には皺もあればシミもあり、笑っていない間は、全体的に皮膚が緩やかに垂れているように見える。 大抵の生物には当たり前に訪れる、老い、というものの一環だ。老化現象に取り残されたミズチには掴みづらい概念だが、どうやら漆原ひよりはそれなりに老いているらしい。 それが能力の衰えと同義かは知れないが、少なくともこの家を囲って張り巡らされた微かな結界の糸はなおも頑丈だ。術者と命をかけてやり合う気がなければ、簡単に破れるものではない。 ゆえに、術者の許しを得るか唯美子が自ら出てくるまで待つしかない。いつものことだ。よほど目を凝らさなければ見えないこの銀色の糸は、許可なく入ろうとする侵入者を拒むが、内から出ようとする住人をあっさりと通す。 「どうして、そんなにしつこいんだい」 「ゆみが好きだからじゃねーの」 と、感慨のない声で答える。 「信じられないね。獣《ケモノ》が何の見返りも求めずに、自分よりずっと弱い生き物に愛着が沸くものかね」 「さー」 「おまえさんのそれは、庇護欲じゃないか」 「なんだそれ」 ぐるんと反転し、肘を支えにして上体を起こす。ひよりは縁側に座したまま前のめりに身を乗り出し、胡散臭いものを見るような目で言った。 「ゆみを愛玩動物《ペット》みたいにかわいがってるつもりなんだろ」 「ペット? ってなんだ。眷属みたいなもんか?」 「いや。上下関係はあるけど忠誠とか家族じゃなくてもっと生活の上で依存した……ああもう、どうせわかりゃしないのに、説明がめんどうだね」 女は諦めたように膝の上に片手で頬杖をつく。 「よくわかんねーけど。なんびゃくねんの生の中でニンゲンに善意をもらったのは二度目だ。もっと観察してみたいと思ったのも、な」 さわっ、と木の葉が風に揺らされてこすれ合う音がする。 放たれた言葉の意味を咀嚼する間、女は値踏みするような目でこちらを見下ろした。 「いいじゃん、あそぶだけ。おいらがついてんだ」 「おまえさんはそれでよくても、ゆみには異形にかかわってるだけでも危険なんだ。理由はわかっているくせに」 「けどあいつ他にともだちいないだろ。ほっといたら夏中家からでないんじゃねーの」 ひよりは何か言い返そうとして口を開き、一拍して、唇を閉じた。事実であるから、反論を持っていないのだろう。 そのうち、家の中から「おばあちゃーん」と呼ばわる少女の声が響いてくる。 「……仕方ないね」 迷いの残る目で、ひよりはこちらから視線を外した。 回想はそこで終わりだ。 あの頃と同じ姿のミズチは、黒い墓碑の前で頭をかいた。 「踏んでも平気そーなやつだったのに……『がん』かあ」 病気というものは、頭では理解できても真に実感を抱くことはできない。 ひよりが息を引き取って間もなく、あらかじめ設定してあったらしい式神が発動して、ミズチの元まで飛んで彼女の死去を報せてくれた。術式とはいえ遠く離れたギリモタン島までは時間がかかり、更にミズチ自身が日本まで来るのにもそれなりの時間を要した。 「遅れてわるかったな。おまえとのやくそくも、ちゃんとまもるよ」 |
2-1. b
2018 / 06 / 18 ( Mon ) その問いに対して、母が重くため息をつき、少年は舌をべっと突き出した。 「ながめ? ――ああ、おまえが化け物につけた名ね。もちろん知ってるわ。昔、こっそり唯美子を遊ぼうと誘い出しては、傷や泥だらけで連れ帰ってきた嫌なやつよ」「そうだっけ?」 正直、唯美子が思い出せたのは雨の中で出会った最初とその次の邂逅だけである。 チラリと当事者の方を見やるも、彼は目線をあさっての方向に飛ばして、何も語るまいと唇を引き結んでいる。 「そうよ。百歩譲って遊ぶのはいいとしても、ミズチみたいな化け物には人の労わり方も思いやり方もわからないの。何度も無自覚に危ない目に遭わせたでしょ。唯美子が風邪をひいて帰ってきたのは一度や二度じゃないわ。湖で溺れた時だって――」 ひと息にまくしたてながら、母は押し込むように入ってきた。慣れた手つきで古びたスニーカーを脱いで揃える。 「吉岡由梨にはかんけーねーだろ」 「関係ないはずがありますか。母親ですよ! 一生心配するし、小言も言わせてもらうわ」 「んなこと言ったって、おいらにはよくわかんねーよ。オヤってーのは」 「わかるはずがないでしょう。化け物だもの」 「わるかったなー、ニンゲンじゃなくてー」 応酬は一向に止まりそうにない。これではいけない、と唯美子は駆け寄った。 「ね、立ち話もなんだし、二人とも中で落ち着いて」 ところがナガメの方がくるりと踵を返した。一度閉まったばかりの扉をまた開けている。 「どこ行くの?」 「てきとーにその辺。そいつが帰るまで、もどらない」 「残念だったわね、今日は泊まっていくわ」 母が、自身が引いて来たキャリーケースをぽんぽんと叩く。 少年はそのまま無言で出て行った。晩ごはんどうするのと訊く暇もなく。 (いいのかな……) 実際、心配する必要はないのだった。彼は以前言った通りに、週に数度何かを口にしただけで十分らしく、睡眠ですら毎日とらなくてもいいらしい。放っておいても自力で生命活動を維持できるだろう。 何も心配はいらないというのに、胸の奥に沸き起こるこのモヤッとした感触はなんなのだろう――。 ふと、母の視線と視界の中でひらひらと振られているものに気付いた。薄緑色のふっくらとしたパックだ。 「ちょっと前の旅行のお土産。お高い煎茶らしいわ。これで、お茶にしましょ」 「いいよ」 破顔し、唯美子は湯飲みや急須を用意した。次にトラの印がついた給湯ポットに向かった。 二人でちゃぶ台を囲んで、高級煎茶を堪能する。猫舌気味の唯美子には80℃でもまだ少し冷ましたいくらいなので、のんびり飲んでいる。 「大丈夫だよお母さん。ナガメはあんなだけど、わたしを危険に巻き込んだりしないよ。むしろ何度も助けられてる」 ふう、と急須に軽く息を吹きかける。九月とはいえまだ暑く、水で淹れられなかっただろうかと今更ながらに思案した。これを飲んだら余計に汗をかきそうだが、こうなっては致し方ない。 母はなかなか言葉を継がなかった。 「……それなら、いいけど」 今の間は何だったのだろう。色々と訊きたいことができたものの、「仕事どう?」と先に質問されたのでひとまずミズチの話は打ち切られてしまった。 * 在りし日の漆原家が住んでいた家は、山麓の住宅街にあった。地価の安い県だ、一般家庭が買えるレベルの一戸建てでも快適に広い。 当時は三世代で暮らしており、仕事で出払う他の大人たちに代わって、漆原ひよりが孫・唯美子の世話をすることが多かった。唯美子と知り合って間もないミズチも、既にそのことを知っていた。 ひよりは、こちら側に踏み込んでいるニンゲンだ。漆原に嫁いだ彼女は元からそういった素質を秘めていたらしく、そのことを自覚して、己の潜在能力を引き出す修行をした。 彼女とは顔見知り程度に面識があったが、それが雨の日に出会った少女の祖母だと知ったのは、より最近の話である。 ある夏休みの日のことだ。 蛙狩りに行こうと唯美子を誘いにやってきたら、うかつにも気配を消すのを忘れていた。 和室の縁側でくつろいでいた和服姿の女が、素早く目を見開いた。 「おまえ……ミズチ、また来たね」 おう、とめんどくさそうに返事をする。 「帰りなさいな。あたしの目が黒いうちはゆみに手出しさせないわ」 「じゃあ、ひよりが死ぬのを待てばいい?」 |
2-1. a
2018 / 06 / 09 ( Sat ) 九月に入ってから二度目の土曜日、ようやく唯美子は壁のカレンダーを放置していたのだと気付く。ぺらりと片手でページをめくりあげ、カレンダーは夏の風景から秋の風景写真に入れ替わった。紅葉が舞う部分になんとなく指先を滑らせたりもする。 時の流れはあっという間だ。会社の同僚と海に行ったのがまるで遠い昔のように感じる。いつの間にか、いたはずの人物がひとり消えて、どこの記録や誰の記憶にもその男が存在した痕跡が残らなかった。末恐ろしい話だけれど、それはそういうものだという。後始末や裏工作が得意だからこそ、彼らはヒトの警戒網から逃れ続けてきたわけだ。 「わっ!?」 考え事をしながら薄闇に包まれた居間を片付けていたのがいけない。いきなり柔らかいものにつまずいてしまった。 ちゃぶ台が眼前に迫る。咄嗟に腕を突き出して、倒れ込むのを阻止した。 (あぶなかった) 自身をつまずかせたものを探り、ちゃぶ台の下を覗き込む。そこに、十歳未満の少年が座布団の上にうつ伏せになって寝ていたようだ。突然の衝撃に起こされて、眠そうに唸っては頭をもたげている。 「ごめん、今日ここだったんだね」 ところかまわずに横になる彼にも非はあるが、蹴ってしまったことにはすかさず謝っておいた。 小鳥が陳列した赤いパジャマを着たこの少年は、不定期に唯美子のアパートに遊びに来ては、いつの間にかいなくなっている日もあれば、朝までよくわからないところで寝ている日もある。昨夜は後者だったようだ。 「うー……もう朝かぁ」 「午前八時だよ。ナガメ、起きたのなら顔洗ってうがいしてきて。それで、ちょっとここ片付けるの手伝ってくれる?」 「ぬー」 嫌そうな声を出しながらも、彼は半分だけ目を開ける。ボサボサの黒髪を指で梳いて、のっそりと起き上がった。 半目のままではあるが、ナガメは望まれた通りの行動をとった。彼は寝起きの時が一番素直なのかもしれない。 そして少々、無防備だ。 カーテンの隙間から漏れる朝日が、ちょうど少年の右腕を照らした。そこに、ぬらりと、鈍く光を反射する部分があった。 鱗である。 人間の七歳ほどの男児とほとんど見分けがつかない姿をしていながらも、ナガメは人間とは異なる存在だった。では何なのかと問われても、唯美子は完全に答えることができない。 以前、質問にはゆっくり答えてやると彼は言った。その割にはお盆の季節に何も言わずにふらりといなくなるなど、未だに見えない一線を画されている感じはする。 結局ナガメは自分のことはあまり教えてくれなかったが、自分たちの性質については教えてくれた。 数百年の生を経て龍の位階に登った蛇、わかりやすく呼んで、蛟《ミズチ》。彼のような異形は人間が認識している以上に数多く、ひそやかに人に紛れて暮らしているという。 妖怪の類と混同されることもあるが、彼らは実体を持っていて生物寄りだ。その辺りの説明は、学生時代の生物の授業をあまりおぼえていない唯美子には難しかった。 ――生物でありながら、既存の生物の枠からはみ出たもの。 いつだったか、誰かが獣《ケモノ》と呼び始めた。 通常、遺伝子がタンパクに翻訳され肉体を構築していくはずだが、獣においてはその過程に謎のあやふやさが、柔軟性がある。なんと言っても変化ができるのだ。しかしいくら変容した彼らを調べたところで、元々属していた種の遺伝子と大した違いが見られないらしい。 一方、生殖能力は確かに失われている。代わりに「精神力」と「生命力」を軸として、長い長い時間を生きられるそうだ。 そんな彼らの本質が瞳に浮かびあがる瞬間を、何故か唯美子には視えるらしい―― ――ぴーんぽーん。 呼び鈴の間延びした電子音が、思考を中断させる。 思っていたより到着が早い。両手いっぱいに雑誌を抱えていた唯美子は、玄関とナガメを見比べた。出てくれる? と目で訴えかけると、少年は意を汲んで出入口へ向かっていった。 その間に雑誌を縛って隅にやった。背後では、ガチャリと扉が開く音がする。ナガメは無言で来客に応じたのか、しばらく沈黙があった。 次いで鋭く息を呑む音が重なる。 「げっ、吉岡由梨」 「あんた!? まさか、『みずち』……! カンボジアとかに行ってたんじゃないの!」 「インドネシアな」 「どっちでもいいわ! なんでいるのよ! お義母さん――じゃなかった、ひよりさんが追い払ってくれたと思ったのに! また唯美子につきまとう気!?」 「はあ? 別においらは、ひよりに追い払われたんじゃねーし」 いきなり険悪だ。唯美子は玄関付近を振り返った。二人の間に入って言い合いを止める決定的なひと言が放てたならよかったが、驚きの方が勝ってしまった。 唖然となって二人を順に指さす。 「……お母さんとナガメって、知り合いだったの?」 |
1-3. e
2018 / 05 / 15 ( Tue ) 「え? そんな怖いこと考えてないよ。ただ、あの人たちは悔い改めも償いもしないのかな、って」
ナガメは不可解なものを見るような顔をした。子供の姿の時の表情をそっくりそのまま大人にしたようで、不思議だ。普通は、誰かが年を重ねる前後の姿を見比べる機会は写真や映像の中でしかない。 「たとえばコモドオオトカゲが人里に降りて人を喰い殺した時、その個体に悔い改めて欲しいと思うか」 「なんでそんなマニアックなたとえなの」苦笑する。「えっと、思わないかな」 「な、人を喰った動物は退治するか、遠くに追い払うかするだろ。害獣だっつって。種をまもりたいなら、不安要素は放っておけない」 ――言われてみれば、そうだ。 「でもコモドオオトカゲとは意思疎通ができないよ」 「さっきのやつらとだって、言葉が通じても意思疎通ができるかはわからないぜ」 それで遠くへ追い払ったのかと思えば、どこか納得できそうだった。でもこの場合は唯美子にとっての遠くであって、人里に届かないようなところではない。また犠牲者が出ることは十分に可能だ。そう漏らすと、ナガメは二匹のトンボたちを指先にのせて遊びながら、実にどうでも良さそうに答えた。 「人類のことは人類がどうにかすればいーだろ。俺がまもるのは、ゆみだけだ」 「そ、そう」 感覚の不一致に、越えられない溝を感じる。先述の通り、言葉が通じても理解し合えるわけではないのだと思い知らされているようだ。 けれど彼は助けてくれた。今はそれだけに、感謝すべきだろう。 「ナガメ、ありがとう。ごめんね忘れてて。十七か十八年前のことだから」 難しいことを考えるのはやめだ。昔そうしてもらったように、今度はこちらから彼の手を握る。 握り返してきた指は記憶の中のそれと違って骨が太く、慣れない感触だった。心臓が二、三度大きく跳ねる。 作り物の温もり――ぬるま湯のようで、触れているとなんだか気が楽になる。 ニヤリ、青年は片方の口角だけを吊り上げた。 「やーっと思い出したか。まあ、思い出せなかったのもたぶん、ひよりの術のせいだろーな」 「また、おばあちゃんの術――」 タイミングを見計らかったかのように、地鳴りのような低い轟きが響いた。と言うのは大げさで、実際はただの腹の虫だったが、恥ずかしい。いいかけていた言葉を飲み込み、唯美子は耳元の髪を指先でいじった。 歩いて帰らないかと提案する。ナガメは手を振って却下した。 「何時間かかんだよ、それ。川でも使った方が早くね」 「川を使うという発想がまずよくわからないのだけど。あ、そうか! きみ、蛇の姿にもなれるんだよね」 そう言ってぽんと手を叩き合わせた時、何かもうひとつ大事なことを思い出しそうになったが、空腹のせいかうまく頭が回らない。 「ん。『蛇』は手の平サイズ、『蛟』だと全長十メートル。ミズチっつってもその単語が一番わかりやすいから使ってるだけで、記録の中の蛟と比べて、独自の生態があるから」 「自分のこと、生態とかいうんだね」 「生態は生態だろ。だから、蛟の姿なら川」 「待って。きみが何を言おうとしているのかわかってきた。やっぱり、タクシー呼ぼう」 両手を突き出して制止を呼びかける。いくらナガメが一緒とはいえ、水辺や鱗はできれば触れずにいたいものだ。 ふいに静寂があった。もしや、断ることで傷付けてしまったかと焦る。 唯美子が少し上に目線を上げると、そこには、難しい顔をして額を押さえる青年がいた。どうしたのと問いかけると、ナガメは歯切れ悪く言った。 「いや……たくしぃってなんだっけなって。車の種類なのはおぼえてるけど。うーうー鳴るやつか?」 「タクシーは鳴らないよ。お金を払って車で快適に送り迎えしてもらうシステム……?」 乗ればわかるから、と唯美子は思わず笑って返した。 * 外食は節約の敵だ。多少の空腹を我慢することになろうとも、自炊がベストの選択と言えよう。 残り物のご飯に冷凍野菜を加えてサッと炒飯に仕立て上げ、卵でとじる。後は豆腐とワカメたっぷりのみそ汁でたんぱくを補えば事足りる。 ごはんできたよと呼ばわりながら振り返ると、なんとちゃぶ台の前に、七歳くらいの少年がちょこんと座っていた。危うく皿を取り落しそうになる。 「いつの間に縮んだの!」 「体積を減らすへんげは四十秒でできるぜ。外皮は特殊仕様でみずにとけるから、トイレにながしとけばすむし」 「うわあ……」ドン引きだ。この話題はあまり引きずりたくなかった。唯美子は散らばってた雑誌や新聞紙をちゃぶ台の上から落として、皿を下ろす。「きみも食べるよね」 訊くと、黒い目線がぐるんとこちらを向いた。 「きょう何曜日だ」 「金曜日だけど、それがどうしたの」 「じゃーくわなくてもいいや。小さいときは、省エネだし」 「なに言ってるの。少しでいいから食べないと」 半ば強引に小皿とスプーンを持たせ、ついでに「いただきます」などの挨拶について教え込んでおいた。こうなってしまえば、意外に彼は素直だ。咀嚼音とテレビの音が、しばらく続いた。 「ごちそさま。しってたか、ゆみー? ヘビの舌って、ほぼ味覚がねーんだよ」 「えっ」 この時にして、もしかしたら本日一番の驚きに出会ったかもしれない。驚く点の多い一日だったのだから、相当だ。 「なんとかソン器官のほうに、舌でひきこむんだよ」 思わずスマホで検索した。厳密にはヤコブソン器官というらしい。 「それで『多分おいしい』なんて感想になるんだね」 スマホから顔を上げた唯美子は、あれ、と目を瞬かせた。少年の朗らかな笑顔に、違和感をおぼえたのである。その源を特定しようとして、さんざん見つめることとなった。 歯だ。前歯の欠けている部分が、大人の時と子供の時とで違うのだ。欠けた歯の種類も、位置も合わない。そう指摘した。 「こっちは子供の歯が抜けた穴で、あっちは大人の歯が殴られて折れたんだよ」 「うん? 脱皮して変化してるのにそういうの関係あるの」 「まあ、いいじゃねーか。細かいことは」 あからさまにはぐらかされた。 そして追究する間もなく、にゅっとナガメが唯美子の腕の下をくぐり、懐に入ってきた。きゃ、と反射的な悲鳴を上げる。 腹部に小さな背中が当たっている。嫌ではないが、変な感じだ。 「ナガメは、大人の時と子供の時とでちょっと雰囲気違うね?」 「おう。ニンゲンのたいどって相手の見た目によってかわるから、こういう姿なら、あまえほーだいなんだろ」 「……なんか作為的だね」 「うけうりだけど。そーゆーもんじゃねえの」 「たぶん根っこのところではみんなそうなのかも……そんなこと考えながら生活してるのって、計算高い感じがするけど」 「ケーサン?」 少年がぐりっと頭を後ろに傾けた。双眸に光る黄色い環は、時折現れては消える。それは「ミズチ」の非人間的な本質を象徴しているようだった。 この子は、人間を冷静に分析していながら、さらなる一歩を踏み込む気がないのではないか。計算高いのではなく、本当に素直に、誰かに言われたことを実現しているだけに思える。 「ううん、気にしないで。それよりきみはいつまで居座る気なの」 流れで夕食に誘ってしまったが、彼にも帰るところがあるのではないか。 「ゆみが死ぬまでかなー。だってほっとけねーし」 「……それってすごく長くない?」 困った顔で問い返すと、ぶかぶかの服に着られている少年はニッと笑んでみせた。 「おまえもききたいこといっぱいあんだろ? ゆっくりこたえてやっから。これからめんどーな目に遭うんだしな」 「でも」 「おいらは長寿だ。不死じゃないけど、不老なの。ゆみひとりの人生に付き合ったって、何も減らないどころか暇が有り余るんだな、これが」 「わたしの生活費が……というよりきみの食費……」 「一週間に一度食えりゃたりる。そんなにかさばんねーとおもうぜ」 安心しろ、と彼は舌を歯の間にちろちろと出し入れしてみせた。ちゃんと人間の舌の形をしていたそれは、蛇である時の動作をそのままクセにしたようなものだという。 唯美子が思い悩んだ時間はそう長くなかった。 (可愛いから、いっか) 長くなっちゃってサーセンッ ミズチの擬態はいい加減なとこもあって、蛇の構造を人型のまま使ってたり、人間の構造を真似ているところもあります。自分ではうまいと思っているけど微妙に化かし切れていなくて、血が出ないのは雑さの表れみたいなものです。 これにて第一章は終わりです。いざ書き終わってみるとあまり言うことがないですね… 次でお会いしましょうとしか…w |