α.5.
2018 / 07 / 19 ( Thu ) ←前の話 次の話→
なだらかな丘陵を、鹿のつがいがのんびりとよぎっていく。方々から小鳥のさえずりが絶え間なく響いて、意識しきれないほど多くの生命が既に目覚めている事実を教えるようだった。 雲間から漏れる太陽光に照らされ、点々と群生する野花が深緑の背景によく映えた。青空では、丸い練り菓子をかき集めたみたいなもこもことした雲が自由に泳いでいる。緩やかにぶつかり合って合体しては、また引き離される。 美しい光景だ。絵本を彷彿させる、牧歌的な眺望であろう。 木陰に佇んでいるアイヴォリは、ため息を漏らした。どうにも状況を心から楽しめないのである。 (肌に服がべたつく感じ、気持ち悪いわ。これでも裾を切ってもらったのに……着替えも風呂もなくて、ふたりはどうして平気なのかしら) 明朝だというのに大気は既に熱をはらんでいて、しかも重く湿っていた。 あまり多くの時間が過ぎていないと前提したうえで思い出すと、祖国マスリューナではちょうど冬に差し掛かっていたところだった。そうでなくとも、アイヴォリの知る夏季とは肌に届く感触が違う。聞けばこれから日々を追うごとにもっと暑く、もっと湿っぽくなるらしい。 慣れないことだらけだ。 「アイヴォリよう、キノコ食うか?」 別の樹の根元でしゃがんでいた青年が、大声で呼ばわる。彼の手には巨大な野生のキノコと思しき青い物体が握られていた。蛍光色の派手な青だ。とてもではないが、人が食せる物には見受けられない。 背の半ばまでに届く長い髪が扇状に広がるほど、大げさに頭を振った。 「そか。気が変わったら言えよ、こっちで焼いてっから」 返答の代わりにアイヴォリは作り笑いを浮かべた。暑いし食欲ないしで、あんな気持ち悪いものを食べたい気は全然しない。本音では、あの男となるべく関わりたくもない。 (うう、疲れた) 次の村か町にはいつになれば着くのだろうか。徒歩での旅が始まって既に数日、一向に人里の気配に近付かない。 地面に座るのが嫌なのだが、いつまでも立っているわけにもいかず、諦めて腰を下ろした。そこに黒髪を首の後ろでで縛ったアイリスがやってくる。手の平にのせた黄色い木の実を差し出してくれたので、いくつかもらい受けて口に含む。 酸っぱい。黙って悶絶した。隣からアイリスの笑い声がする。 「この前採った果物は甘かったのに……」 「あはは、あれは日持ちしないからね。二日で食べ切ったでしょ。こっちは、非常食ってとこかな」そう言って、アイリスは残る木の実を巾着に詰めた。「今日は焼きキノコで腹ごしらえしてから、めいっぱい歩こうね」 「…………」 青キノコから逃れられないのかと、知らず表情をこわばらせる。思えば、美味しかったのは最初のあのスープだけだ。ほんの少ししか持ち出せなかった調味料を節約して、あれからは味の薄い食事が続いている。 王城での食事と比べると、毒見をしない分、食べ物はいつも熱すぎるくらいに温かい。その点は嬉しいが、どうしても貧相に思えてしまう。もともとあまり量を必要としないアイヴォリではあったが、自分は同じものを食べ続けていると早々に飽きてしまうのだということを新たに発見した。 空腹を感じるのに、食欲がない。毎日歩き詰めで全身が痛くてだるい。なのに他のふたりは平然と、毎食同じような品並びでもいやな顔ひとつせずにガツガツと飲み込み、歩いても走っても疲労の色を見せずにひたすら元気そうだ。きっと自分が一緒でなければ、半分以下の日数で目的地に辿り着けたはずだ。 「ところでさー、アイヴォリってカジに対してゴミムシを見るような目をするわよね」 「ごみっ――そんなことない……よ」 アイリスの突拍子のない話に狼狽する。 「即で否定できないのが証拠じゃん。触られたところを毎回払ってんのバレバレよ? まあ、本人は多分、汚いって思われてんだろうなって軽く流してるっぽいけど」 返す言葉が見つからない。口をゆっくり開閉していると、アイリスはひとりでにしゃべり続けた。 「あんたがいいとこのおじょーさんなのはなんとなくわかるよ。ホントは悪いとも思ってなくて、下賤の者は『見下すのが当然』みたいな雰囲気するし。でもそれだけじゃあないわよね? あたしたちのことが、怖い?」 「私は……あの」 図星であったため、やはり咄嗟に否定できなかった。あたふたしているアイヴォリに対し、アイリスはスッと目を細めた。この無遠慮に値踏みするようなまなざし、カジオンと同じだ。家族というのは仕草が似るものなのかとぼんやり考えた。 口を開いても、言葉が出てこない。 やがて、香ばしい匂いと共に「めーしー」と間延びした声がした。いまいくー、とアイリスがくるりと振り返り、陽気に答える。 なんとなく、こんなところで会話を途切れさせたくない。手を伸ばした。アイリスの服は袖が無いので、チュニックの腹周りの結び紐を思わず掴んでほどいてしまった。 「ごめんなさい! いますぐ直すから!」 そうは言ったものの、指先がもたついてうまく結べない。 「いいよ、自分でできるって。で、何?」 目が合った。こうして向かい合うと、アイリスの方がわずかに上背があるんだとはっきりわかる。 生まれ育った環境がどうあれ、こうして相対する彼女は、悪人に見えなかった。己と同じ顔だからそう思いたいだけかもしれないが……。 「あの、ね。最初に助けてもらった時、カジオンが略奪者の人を殺すのを見たの」 「ふーん」 彼女の言葉を借りれば、「それが当然」と思っていそうな気のない相槌であった。 「その時の残像が目の奥にちらついて。うかつに近付けなくて、怖い……の。それでなくても私、男の人に……免疫……? なくて。傍にいられるのも顔を見るのも苦手で、それとあの人、口に恐ろしい傷痕が」 なるべく顔を直視しないで日々を過ごしているが、それでもたまに目に入ったことがあった。唇の右端から上へ細く伸びて、頬骨に届くくらいに長い。 「きずあとぉ? ああ、唇のやつ。口裂けのお化けじゃないわよ。あれが何、なんかすごい闘いを生き延びたみたいに見えるとか?」 「え、そうじゃないの」 怯えた声音で訊き返すと、アイリスは腹を抱えて爆笑した。息も切れ切れに「ぜんっぜんそういうんじゃないわ。しょーもなくアホな理由だから本人に訊いてみなよ」と言う。 ――そんな風に言われてしまえば、気になるに決まっている。 絶対無理だと思い込んでいた青キノコの秘めたる旨味に驚いている間、アイヴォリはずっと向かいの青年の口元が気になった。ついチラチラと目をやってしまい、犬歯が結構尖っているのだなという不要な情報まで拾うことになった。 「カジー、アイヴォリがあんたに訊きたいことあるってさ」 ふと余計なひと言を発したのはアイリスだ。 「あん? なんだよ」 黒い双眸に見つめられて、背筋がぞわっとした。咀嚼しきっていなかったキノコの破片をごくっと飲み込む。 震えに耐えて、喉の奥に控える質問を吐き出してやる。 「その唇から伸びてる傷痕、どうやってついたのかなって」 「こんなんが気になんのか。大したアレじゃねーぞ」 「ね。ほら、教えてやりなよ」 「なんでか忘れたけど、ガキの頃に釣り針が引っかかってよ。まあガキだからよくわかってなくて、自分で引っこ抜こうとしたら、こう、がーっと」 曲げた指の先で頬をなぞる。当時の様子を想像したアイヴォリは「ひっ」と声を漏らした。 「い、痛かったの」 「おぼえてねえな。失神して気がついたら周りすげー血だらけだったとしか」 「あとでめちゃくちゃ怒られたわよね。どうアイヴォリ、しょーもなかったでしょ」 「あはは……」 ふたりは、過去の可笑しい思い出を語っているつもりのようだが、アイヴォリにはまるで理解できない。 (変な人たち) なるべく早く別れたいという気持ちに突かれ、急いで話題を切り替えた。 「ところでアイリス、カジオン。『鏡双子の金魚《リグレファルナ》』の伝説って、知ってる?」 んー? とふたりは首を傾げる。 「初耳だな」 「あたしも聞いたことないけど」 アイヴォリはいずまいを直してから、口を開いた。 「信じられないかもしれないけど、もしかしたらそれが、私たちが出会うことになった鍵ではないかと思うの」 |
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