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2018 / 06 / 09 ( Sat ) 九月に入ってから二度目の土曜日、ようやく唯美子は壁のカレンダーを放置していたのだと気付く。ぺらりと片手でページをめくりあげ、カレンダーは夏の風景から秋の風景写真に入れ替わった。紅葉が舞う部分になんとなく指先を滑らせたりもする。 時の流れはあっという間だ。会社の同僚と海に行ったのがまるで遠い昔のように感じる。いつの間にか、いたはずの人物がひとり消えて、どこの記録や誰の記憶にもその男が存在した痕跡が残らなかった。末恐ろしい話だけれど、それはそういうものだという。後始末や裏工作が得意だからこそ、彼らはヒトの警戒網から逃れ続けてきたわけだ。 「わっ!?」 考え事をしながら薄闇に包まれた居間を片付けていたのがいけない。いきなり柔らかいものにつまずいてしまった。 ちゃぶ台が眼前に迫る。咄嗟に腕を突き出して、倒れ込むのを阻止した。 (あぶなかった) 自身をつまずかせたものを探り、ちゃぶ台の下を覗き込む。そこに、十歳未満の少年が座布団の上にうつ伏せになって寝ていたようだ。突然の衝撃に起こされて、眠そうに唸っては頭をもたげている。 「ごめん、今日ここだったんだね」 ところかまわずに横になる彼にも非はあるが、蹴ってしまったことにはすかさず謝っておいた。 小鳥が陳列した赤いパジャマを着たこの少年は、不定期に唯美子のアパートに遊びに来ては、いつの間にかいなくなっている日もあれば、朝までよくわからないところで寝ている日もある。昨夜は後者だったようだ。 「うー……もう朝かぁ」 「午前八時だよ。ナガメ、起きたのなら顔洗ってうがいしてきて。それで、ちょっとここ片付けるの手伝ってくれる?」 「ぬー」 嫌そうな声を出しながらも、彼は半分だけ目を開ける。ボサボサの黒髪を指で梳いて、のっそりと起き上がった。 半目のままではあるが、ナガメは望まれた通りの行動をとった。彼は寝起きの時が一番素直なのかもしれない。 そして少々、無防備だ。 カーテンの隙間から漏れる朝日が、ちょうど少年の右腕を照らした。そこに、ぬらりと、鈍く光を反射する部分があった。 鱗である。 人間の七歳ほどの男児とほとんど見分けがつかない姿をしていながらも、ナガメは人間とは異なる存在だった。では何なのかと問われても、唯美子は完全に答えることができない。 以前、質問にはゆっくり答えてやると彼は言った。その割にはお盆の季節に何も言わずにふらりといなくなるなど、未だに見えない一線を画されている感じはする。 結局ナガメは自分のことはあまり教えてくれなかったが、自分たちの性質については教えてくれた。 数百年の生を経て龍の位階に登った蛇、わかりやすく呼んで、蛟《ミズチ》。彼のような異形は人間が認識している以上に数多く、ひそやかに人に紛れて暮らしているという。 妖怪の類と混同されることもあるが、彼らは実体を持っていて生物寄りだ。その辺りの説明は、学生時代の生物の授業をあまりおぼえていない唯美子には難しかった。 ――生物でありながら、既存の生物の枠からはみ出たもの。 いつだったか、誰かが獣《ケモノ》と呼び始めた。 通常、遺伝子がタンパクに翻訳され肉体を構築していくはずだが、獣においてはその過程に謎のあやふやさが、柔軟性がある。なんと言っても変化ができるのだ。しかしいくら変容した彼らを調べたところで、元々属していた種の遺伝子と大した違いが見られないらしい。 一方、生殖能力は確かに失われている。代わりに「精神力」と「生命力」を軸として、長い長い時間を生きられるそうだ。 そんな彼らの本質が瞳に浮かびあがる瞬間を、何故か唯美子には視えるらしい―― ――ぴーんぽーん。 呼び鈴の間延びした電子音が、思考を中断させる。 思っていたより到着が早い。両手いっぱいに雑誌を抱えていた唯美子は、玄関とナガメを見比べた。出てくれる? と目で訴えかけると、少年は意を汲んで出入口へ向かっていった。 その間に雑誌を縛って隅にやった。背後では、ガチャリと扉が開く音がする。ナガメは無言で来客に応じたのか、しばらく沈黙があった。 次いで鋭く息を呑む音が重なる。 「げっ、吉岡由梨」 「あんた!? まさか、『みずち』……! カンボジアとかに行ってたんじゃないの!」 「インドネシアな」 「どっちでもいいわ! なんでいるのよ! お義母さん――じゃなかった、ひよりさんが追い払ってくれたと思ったのに! また唯美子につきまとう気!?」 「はあ? 別においらは、ひよりに追い払われたんじゃねーし」 いきなり険悪だ。唯美子は玄関付近を振り返った。二人の間に入って言い合いを止める決定的なひと言が放てたならよかったが、驚きの方が勝ってしまった。 唖然となって二人を順に指さす。 「……お母さんとナガメって、知り合いだったの?」 |
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