1-3. d
2018 / 05 / 07 ( Mon ) さかのぼったのが数日分か、数週間分かは定かではない。 ――けがしてる……。ひとつの思考をきっかけに、場面が断片的に再現される。 その日も雨が降っていたが、唯美子は傘を手にしてしゃがんでいた。視線を注ぐ先は、地面でうごめく小さな生き物。 ――あめ、しみちゃう。でもながくてうねうねしてるの、きもちわるいなあ。さわりたくないなあ。 小さな生き物をどこかへ避難させてやりたかったが、運ぶ手段が問題だ。下敷きか何かで拾えただろうに、その時は思いつかなかった。 触りたくないけれど、雨に降られているのがかわいそうだ。結果、傘をあげることにした。後に母に「ずぶぬれじゃない! ちょっと目を離した隙にどうやって傘をなくしたのよ!?」とひどく叱られたものだ。 ――へびってなにたべるのかな。 呟いても、答えはなかった。大人の手の平に収まりそうなほど小さい蛇は、弱々しく頭をもたげようとするだけだ。 ――はやくげんきになってね。 せめてものエールを送るつもりで、唯美子は蛇に笑顔を向けた。 * 建物がひしゃげてつぶれるような凄まじい破壊音の連鎖で覚醒した。 浮遊感に、息が詰まる。寝ぼけた頭が発するそれではなく肉体全体で感じ取れる重力の欠如――つまりは落下が始まる予兆である。 恐怖は抱かなかった。唯美子を包み込む気配が、安心をもたらすものだからだ。 (…………ナガメ) これが偽りの温もりだと言われても、俄かには信じがたい。自身の肩を握りしめる大きな手も、膝を支え上げる力強い腕も、作り物だとは思えなかった。あるいは真偽のほどは大して重要でないのかもしれない。信頼できると直感できるなら、それで十分だろう。 着地の衝撃はほとんどなかった。 「先達に敬意を払えって、習わなかったのかあ? こいつの糸を引いてたのって、あんただな」 成人男性の姿をしたナガメが、毒を含んだ声で言い放つ。 数秒ほどの沈黙。さきほどまで喫茶店であったはずの瓦礫の下から、先にマスターが這い出て、恐縮したように深く頭を垂れた。 「まさか近くに上位個体がいたとは気付かず……礼を欠いてしまい、申し開きもありません」 「おう。わかりゃーいいんだよ」 「これからどうするおつもりですか。我々はニンゲンの法では裁けない。顔を変えることも、DNA鑑定をごまかすことだってできます」 「おとなしくどっか遠くに消えるんならどうもしないぜ。俺は別に、餌場荒らしがしたかったわけじゃねーし」 「慈悲を与えてくださり、感謝」 「はは、お前も大変だな。ニンゲンの味をおぼえた獣《ケモノ》は、大抵は餓え続ける。俺たちは確かに新鮮な内臓を喰えば生命力が跳ね上がるけど、喰った相手の思念も己の血肉に吸収されるからな。その業を消化できるほどの精神力がなければ、狂った化物と化すだけだ」 次のひと言は、マスターの後方からゆらりと立ち上がった影に向けられていた。 「ニンゲンの思念は、重くて粘っこいだろ。案外ギリギリのとこで理性保ってんじゃねーの」 「せっかくの、すごく、うまそうな、エモノ! じゃまを――するなぁっ!」 影は威嚇するように呼気を吐いた。察するにこれが笛吹の本性なのだろう。「これ」と会話して食事をしていたとは、なんと不気味な……。 「頭冷やせって。もっかい吹き飛ばしてほしいみたいだな」 唯美子はただ息を呑み、悠々としているナガメにしがみついた。 そこに、マスターが間に入って手を突き出す。 「ご心配には及びません。力ある眷属を育てたかったのですが、いつの間に勝手に食の範囲を広げて、収拾がつかなくなってしまいました。この個体はいずれ、私の方で『処理』します」 「おー、ぜったい半径百キロ以内に戻ってくんなよ」 「はい」 二つの影は瞬時に折り重なり、突風を伴って消えていった。悔しそうな雄叫びも一緒になって遠ざかる。 今になって振り返ると、笛吹秀明が真に経理課の先輩だったかどうかに自信が持てない。初めて会ったのがあの合コンで正しいのか、またはいつから勤めていたのかを思い出そうとしても、頭の中に靄がかかったように判然としない。 これまでに得た情報を疲れた頭でかき集めると――彼は、彼らは、人間ではないもので。この周辺で(死体を隣の県に捨てたりして?)、人に害をなしていたのだという。 非日常感が強すぎてなかなか理解しきれない。自分は死にそうになっていたのか。食べられるところだったのか。 騒ぎを聞きつけた者が駆け付けるよりも早く、ナガメもあっという間にその場を後にした。サイレンの反響から離れられたところで、やっと地に下ろしてもらった。 「泣いてんのか、ゆみ。よしよし怖かったな」 「……違うの。わたしは助かったけど、助からなかった他の女の人たちがどんなに怖かったのかと思うと、ほんとにこれでよかったのかなって」 ふと頭を撫でる手が止まった。 「報復したいって意味か?」 グロ派手人外バトルを描こうか迷いましたけど、今回は導入部でソフトスタート(唯美子にとっても)なのでおいおい行きます。書く前に抱いていた悪役像が結構あやふやだったので、書きながら勝手に進化していったのが面白かったです。 |
1-3. c
2018 / 05 / 03 ( Thu ) 「ひどい。なんでわらうの」
「ごーめんって。ほら、やってみろよ」 彼はもう一度両腕を広げた。加えて、目を閉じ、雨に感じ入るようにして顔を天に向ける。 そうすることに何の意味があるのか。 (やってみればわかるかな) とりあえず真似をしてみた。本音では自分も、怖いという気持ちを捨てられたら楽になれるだろうなと思う―― 瞼が下りた瞬間。ぐらりと、上体を支える体幹が傾いだ。パッと目を開け、姿勢を調整する。 一方のミズチは相変わらず瞑目して雨天を仰いでいた。しかも水を飲むように口を開けている。 水。喉が渇いていたことを唐突に思い出して、唯美子も彼に倣う。 舌に弾ける雨粒がくすぐったい。冷たい感触が喉の内を伝い落ちる。寒さと潤いを同時に感じて、身震いした。 雨は飲めるのだと思い出し、心の中で、あんなに恐ろしかった自然現象がただの水になった。ただの、日常的で身近なものだ。 ――捨てる。 余計な思考も感情も、被った布をするりと脱ぎ捨てるように手放せた。恐怖の対象だった雨とひとつになっているのが、妙な気分だ。 なるほど、とても開放的で、楽しい。 うっとりした。数十秒経つと、くしゃみの衝動で我に返る。 「はっくしゅん!」 「そろそろ川を見にいくか」 「やだ、かえりたい。かぜ……かぜひいちゃうよ」 「しょうがねーな。じゃあ、つれてってやるよ」 涙目で訴えてやると、ミズチは渋々承諾した。まるで寒さを感じていないのか、平然とあくびをしている。 「かえりみち……」 「わかるわかる。あと、おいらは夜でも見えるから」 少年の瞳が黄色い環を描いて光っていた。妖しくて、きれいだ。黒目の部分はやはり縦に細長い。 唯美子は、思いついたままに喋った。 「ね、おなまえないなら、メナガってどうかな。めがながいってかんじで」 「やだよかっこわりぃ。それ、なんかの虫の名前じゃねーの」 即刻、提案が跳ね返された。めげずにまた考える。 「じゃあじゃあ、ナガメ」 「それも虫……ふーん。ナガメ、な。悪くないひびきだな。くっさい虫とおなじなのはきになるけど……わかった、ゆみだけ、呼んでいいよ」 いしし、と少年は口角をいびつにつり上げて笑った。喜んでもらえたのが嬉しくて、唯美子は水を弾けさせながら飛び跳ねた。 話がついたところでようやく帰路についた。 奇妙な少年に手を引かれ、勢いの引きつつある雨の下を、二人でトコトコ歩く。道は濡れていて危ない。どうしても、暗闇を急いでかきわけることはできない。 山は異様に静かだった。動物の音も気配も一切しないのは、みな雨宿りしているからだろうか。 ――知らないひとについてっちゃだめよ。 母の警告がどこかから聴こえてきた。それに対し、もう知らないひとじゃないからいいよね、とひそかに自答する。 「きみ、ほんとはなんなの」 先導する背中に問いかけた。 「そうだな……」彼は振り返らずに答えた。ぽたぽた、との継続的な雨音に覆われて、へたすると聞き逃しそうになる。「二ホンの昔話にあるだろ、ツルのおんがえし的な? そーゆーあれだよ」 「ぜんぜんわかんない」 「まあいいじゃん。今日は、うねうねしてないからさわれるだろ」 「え?」 「おいらの『ギタイ』すげーだろ。ちゃんと、体温までまねしたんだ――」 暗くて、振り返った横顔はよく見えない。 薄っすらと浮かび上がる白い歯の隙間に視線が吸い付けられる。右手に絡んだナガメの手の温みを、唯美子は急に強く意識した。 * (……違う。初めて会ったのは、あの時じゃない) 不安定な子供の記憶を、大人の脳の処理能力でさかのぼる。なぜか今は不自然なほどに明瞭に呼び覚ませる。 彼は確かに擬態と言った。人の姿を、うまく真似ているのだと。ならば、ヒト型ではなかった時のミズチは果たしてどんな姿であったのか。 |
1-3. b
2018 / 04 / 29 ( Sun ) 「ぜに……? めい、よ? なんのはなし……きみ、だれ?」
安心というよりは困惑が勝る。けれどひとりではなくなったことに、ひそかに喜んでおいた。手を握る感触には確かに勇気づけられるものがある。 見ると、少年は袖なしのシャツと半ズボンを着ていた。偉そうな口ぶりの割には、何の変哲もない格好をしている。金持ちの家の子、というわけではなさそうだ。 「おいらは、みずちだ」 「ミズチくんっていうの」 「んにゃ、個体名でなければ種族名でもない。数百年の生を経て龍の位階に登ったから、蛟《ミズチ》だ」 聞いたことのない言葉が一気に並んで、唯美子は目を回した。「いかい」は異世界のことだろうか。異世界に登った龍の一族がなんとかかんとか……。 「りゅうっておそらをとぶ、あのひげのながいやつだよね。じゃなくてドラゴン?」 「空はまだとべねーなー。最低でもあと八百年かかりそう」 「とべるの!?」 びっくりして大声になる。洞穴の中でこだまして、変な感じがした。興奮のあまり、唯美子は少年が先ほど述べた数字を聞き逃していた。 「まだだっつーの」 「でも、とべるんだ!」 「はいはい。いつかとべるようになったら、雲の向こうに連れてってやるよ。もうともだちだし」 少年は目を細めて笑った。 胸の奥を突き刺す単語に、唯美子は手を引いた。知らず、目元に涙がたまる。 「……わたしといたらこわいことがいっぱいおきるんだよ。いたいことも。だからだめ。ともだちはだめ」 「はあ? 知ってるし、んなこと」 デコピンされた。 痛むおでこを押さえながら、近所にこんな子いたっけ、と唯美子は不思議に思った。こちらの事情を把握しているのだから、きっとそうなのだろう。 「知ってて、いってんだよ。だめとかはナシだぜ。おまえに拒否権ねーから。よし。川を見にいこーぜ」 「よるのやまはうろついちゃだめだっておとなたちがいってたよ」 「だいじょうぶだって」 「まいごになったら、たすけにきてくれないんだよ」 「ふーん、薄情なんだな。いくら夜が危険っつってもいなくなったのがガキじゃあ、捜索隊ってやつ、だすんじゃねーの」 「そうなの?」 思いもよらなかった可能性に、しばし唯美子は言葉を失くした。ハクジョウの意味はわからないが、ソウサクタイはなんとなくわかる。 「知らんし。どうなんだよ、まわりのおとなは」 「くる……かなあ。わかんない」 「ま、どっちでもいいや。心配すんな、おいらが家に帰してやる」 「でも――」未だに及び腰の唯美子を、彼は力づくで洞穴から連れ出そうとする。膝に力を込めて抵抗を試みたが、少年の腕力には勝てなかった。「あ、雨にぬれちゃう」 雨滴が皮膚に跳ね、服に吸い取られていく。濡れた土と草木の匂いが、むんと鼻孔に飛び込んだ。気持ち悪さと寒さに全身が強張った。 外の世界は暗かった。完全なる暗黒が刻一刻と迫り来る予感に、竦み上がりそうになる。悪天候の山中にて確認できる僅かな熱源は、ミズチの手のみだった。 その事実を実感した時、出会ったばかりの少年の腕にすがりついていた。 「なあ、ゆみ」 「な、なに……」 くっつきすぎだと文句を言われるのかと思って、身構える。 こちらを見下ろす双眸は愉快そうに光っていた。光っているように見えるのではなく、実際に黄色っぽい燐光を発している。しかも黒目の部分が細長い形で、動物みたいだった。 「ちょっとさ、うで、ひろげてみろよ。たのしいぜ」 「た、たのしくない……よ。さむ、さむいよ」 「いいから。いちど『こわい』っておもったらさ、からだぜんぶで怖がるんだ。だからその『こわい』ってきもちを手放してから帰らないと」 「てばなし……?」 「そ。こうやって、ばーん! って手をひろげて、余計なもんをすてるんだよ」 ミズチは唯美子の拘束をするりと逃れて数歩下がり、口にした通りに、両手を思い切り広げてみせた。 刹那、周囲が眩い光に照らされ――続いて、激しい轟音がした。 唯美子は悲鳴を上げて顔を覆った。雷鳴がさらに数回響く。骨の髄にまで届きそうな振動だった。 その場に成すすべなくうずくまる。次に目を開けたら雷に打たれて焼け焦げた新しい友達の姿が見えるはずだ。きっと、そうだ。 泣いて怯える唯美子の耳は、やがて妙な音を拾った。 ――笑い声。 おそるおそる顔を上げる。なんと、ミズチは無傷どころか笑いの発作に身もだえているようだった。馬鹿にされているらしいことがひしひしと伝わってくる。 一次選考を通過したのがうれしかったので、拍手御礼を特別に入れ替えてます。 |
1-3. a
2018 / 04 / 21 ( Sat ) かつて、雨音を怖いと思っていた。 あの唐突さがいけなかったのだろう。いついきなり激しく窓を叩くとも知れぬ雨粒や風、気まぐれに降りる騒音が、幼い唯美子を度々震え上がらせた。ゆえに、雨の時に外で過ごした思い出は極めて少ない。自身が雨天での外出を頑なに拒んでいたのだ。 そんな数少ない記憶のひとつの中に、いままさにとらわれている―― 乾いた唇に、軽く舌を滑らせた。冷えている。抱いた膝も、腕に直接触れている箇所以外は、ひどく冷たかった。ガチガチと歯を鳴らし、どうしてこんなことになったのかと、自責の念に占められる。 ああ、そうだった。きっかけは近所の子たちだ。 何人かが隣の家の庭で追いかけっこをしているの聞きつけ、勇気を出して、まぜてほしいと願い出たのだった。彼らは渋々ながらも「いいよ」と言ってくれた。 最初のうちは普通に楽しかった。 雲行きが怪しくなったのは、皆の跳び回る影が長くなり始めた頃からだ。頭上の樹から大きな枝が落ちてきたり、一見ただの芝生の上を走った子の足が穴にはまったり、ゆみを捕まえようとした子が何もないところで転んだりした。 ひとつひとつを不幸な事故と受け取れなくもないが、そういった「不幸な事故」と異常な頻度で結び付けられるのが漆原唯美子なのだと、近所では既に評判になっていた。その時も、子供たちの雰囲気が一変するまでが早かった。 『ゆみこのまわりだけいっつもおかしいんだよな』 『あたしやっぱり、いっしょにあそびたくない!』 『もう、うちにこないでほしいんだけど。ごめんね』 気が付けば、脱兎のごとく駆け出していた。 ――誰も悪くない。わかっていたはずだった。 何を言われても気にしちゃだめよと、母はいつも元気付けてくれる。自分のせいではないはずなのに、自分が人として欠陥しているように思えてきて、苦しい。 「どうしてゆみだけ……わたしだけ、いつもこうなの……どうして……」 ぼたぼたと大粒の涙を腕に落とし、鼻水を垂れ流しながら、うわごとのように繰り返す。 今日は、まだよかった方だ。もっと危ない目に遭ったこともあるし、もっとたくさんの人に迷惑をかけたこともある。他人と付き合っていけそうな境目を探りつつなんとか友達を作ろうとしてきたが、どうにもうまくいかない。 七歳の唯美子には、これ以上何をどううまくやればいいのかが、わからなかった。親戚の中にも煙たがる者がいるくらいだ。 死ぬまでひとりで遊ぶしかないのか。早くも悲観して、諦めかけている。 自分と一緒にいるせいで誰かに傷付いてほしくなんてない。でも、ひとりは、嫌だ。 「さみしいよぉ……やだよう」 がむしゃらに山道を走って見つけた洞穴の中――帰り方がわからずに、この上なく心細い思いをしていた。 雨が降りしきるほどに絶望が深まる。 外は宵闇の刻となっていた。あまり遅くなっては誰も捜しに来てくれない。夜の山に分け入るのが危険すぎるからだ。母は、お隣さんの家で遊ぶなら安心ね、と言い残して「パート」というところへ行ってしまった。唯美子がいなくなっていることに、しばらく気付かないかもしれない。 体育座りの形にうずくまって助けを待つのみだ。喉が渇いても、お腹が空いても、我慢しなければならない。 どれだけの間そうしていたかはわからない。涙が渇いて頬が嫌なざらつきを持ち始め、完全に夜のとばりが落ちる前だったように思う。 にわかに気配がした。ぎょっとする。 相当近づかれるまでに、気付かなかった。それもこれも雨音のせいで足音が聴こえなかったからに違いない。 「らっ、だ……」 誰、と問いたかったが震えがひどく、舌を噛みそうになる。怖くてまともに呼びかけることができない。 熊だったらどうしよう。狼でも、野犬でも嫌だ――! 「みぃつけた」「ひゃあ! たべないで、おねがいたすけて」 上機嫌なそれと、怯えきったそれ。重なった二つの声は全く別の方向に向いたものだった。 だが共に、紛れもなく日本語だった。咄嗟に頭を抱えていた唯美子はゆっくりと顔を上げる。 (おとこのこ……?) よっ、と元気いっぱいな声をかけて、雨に濡れた少年は洞穴の低い入り口をくぐった。 同い年くらいの彼はこちらの様子をじろじろと見下ろしては、無遠慮に距離を詰めて来た。呆然としていると、強引に手を掴まれた。 「あのう、きみ、なに」 「ニンゲンはあったかいと安心するんだろ」 少年は欠けた前歯を見せるように、にかっと笑った。 「『善意』を向けてくれたニンゲンは、おまえがふたりめだ。名誉におもえよ。ともだちになってやる。きょうは、それをいいにきた」 (たぶん)ふっかーつ。「ゴミしか出ないな」文章から「やっぱり自分が出すものは好きだ」文章に。 |
1-2. i +あとがき
2018 / 04 / 17 ( Tue ) (いまのセリフ……夢の)
一歩踏み出した瞬間、遅れて既視感がやってきた。夢の中の声とミズチが発したばかりのそれが、折り重なるようにして頭の中で再生される。 ありえない。けれどあの子を中心に、ありえないことが次々と起きているのもまた事実だった。 再び店内に踏み出すと、気のせいだろうか、部屋の温度が少し下がっているように感じられた。寒気に身を震わせた。唯美子の着ている長袖ブラウスは、冷房をあまり強くつけない職場に合わせて薄めの生地のものを選んでいる。 「お待たせしました。そろそろ出ましょうか」 以前よりもいくらか落ち着きを取り戻して、唯美子は挨拶をした。席に戻るなり、マスターに勘定を頼む。 「そうだね」 笛吹は組み合わせた両手で口元を隠している。微笑んでいる、ように見えた。 しまったと思った時には遅かった。無警戒に目を合わせたのだ。 今度は、はっきりと何かをされた手ごたえがあった。 視界が歪み、口を開いても舌が痺れて動かせない。テーブルに腕を置いて身体を支えようとしたが、それも遅かった。 ゆらり、景色が反転する。 体の右半分が地を打ったはずなのに、何も感じない。 「あの旅行の時に漆原さんは『かかりやすい』のだとわかったよ。女性全員に術をかけてみたけど、最も素直だったのはきみだ」 靴音が近付いて来る。 声が出ない。遠くに浮かぶマスターの輪郭に向かって、たすけて、と唯美子は唇を動かした。しかし黒のエプロンがよく似合う彼は、こちらのことなど興味がないとでもいわんばかりにカウンターで忙しなく動き回っている。 行きつけの店。ああそうか――彼らはグルだったのか。 「今更だけど、あの質問に答えよう。好みのタイプは……内臓がほどよく柔らかそうな、それでいてコシがあるような、若々しい女性だ」 内臓。その言葉を最近聞いた気がして、ぞっとした。どこで聞いたのか。思い出したくないけれど、思い出さねばならない……。 「きみを抱き起こした時に感じた。きっと、いい腎臓をしているだろうなと」 怪しく光る瞳を見上げた。 恐怖に喉が収縮する。それでなくとも、喋れない。動けない。 髪に触れられたような気配があった。直後、男の手が離れた。それを追うように、細かい空気の振動がちょこまかと宙に踊っている。 翅が発する激しい振動は、青いトンボと、茶のトンボのものだ。 「また虫か。強い生命力の波動がついて回っている……貴様ら、誰の眷属だ」 笛吹が鬱陶しげに鉄紺と栗皮を払おうとするのが聴こえた。吐き捨てられた言葉の意味はわからない。ただ、二匹が護ってくれようとしているのはわかった。恐ろしさは潮引かないが、少しばかり心強い。 (四分……経ったかな……) 気を失うこともかなわず、心を強く保つしかなかった。待つしかできないのがもどかしい。トンボたちが乱暴に床に叩き落されても、何もできない。 それでも確信はあった。あの子はきっと、見捨てない。 よだれを垂らした恐ろしい形相で、端正な顔の男が振り向く。 心臓が縮み上がった。せめてもの抵抗に、睨み返す。 ――爆音がした。 大量の水しぶきが飛び、唯美子は反射的に瞬こうとしたが、瞼は緩慢にしか動かない。視界が濡れて滲んだ。 「なあ、ゆみ。おぼえとけよ。野郎ってのはな、例外なく餓えてるんだよ。ま、コイツが欲しがってるのは雌としてのおまえじゃなくて別のもんだろーけどさ」 水柱の向こうから、滑らかに低い、大人の男性の声がした。またもや既視感に頭が混乱した。 「浜辺の夜から、異質な気配の残滓がしたと思えば。貴様、獲物を横取りするか」 殺意のこもった笛吹の威嚇は、口調からしてもはや別人のもののようだ。 「横取りもなにも、ゆみはもっとずっと前から俺んだし」 話し方が少し違うが、「ゆみ」の独特のイントネーションが一緒だ。この男性は、トイレにいた子供と間違いなく同一人物だ。 もう驚く力も沸かなかった。 男性は唯美子をかばうようにして仁王立ちになっている。 「ならば致し方ない。どちらかが死ぬのみだな」 「おう、いいぜ。やりあおうか。ここはこれから、俺の縄張りになるんだからな」 二人の会話は、そこまでしか聞き取れなかった。 唯美子の息はすっかり浅い。水に濡れて、髪が受ける微風がやたら冷たく、頭の奥がじんじんと痛む感覚が不快だ。 ――そうか。この声、浜辺での―― あの夜のみならず別の古い記憶の蔵が揺さぶられた。彼の言う通り、もっとずっと前に共に過ごした時の。 何かが思い出せそうだ。 またお待たせしました<(_ _)>すみませぬ 先週はちょっと書きあぐねて(?)いたんです。自分が思い描いている物語と書き出す力が追いつかなくて、あぎゃー してました。全然抜け出せてないんですが、次の回想シーンが楽しみなので、頑張って書きます。 余談。 「おいらは」いいんだよ、「そいつは」ダメだ、の意味がわかりましたでしょうか。 同族嫌悪ってほどじゃないんですけどね。同族だからこそ警戒。 |
1-2. h
2018 / 04 / 10 ( Tue ) ――そいつは、ダメだ。 扉を閉めた後の束の間の静寂。扉に向かってうなだれた頭の中には、昨夜の警告がよみがえっていた。(どうしよう) タクシーを呼んでも、到着するまでにどれくらいの時間がかかるのかは予測不能だ。逃げ場がない。 「イヤならイヤって、ガッツリいわなきゃダメだぜー」 ついさっき脳内に浮かんだのと同じ声が耳朶を打った。びくりと、大げさなほどに両肩が跳ねた。 なぜ。どうやって。神出鬼没そのものではないか。 「ミズチくん、ここトイレだよ! 鍵かけたけど!?」 涙目で振り返る。洋式便器の蓋を下ろして、その上に子供が頬杖をついて腰かけている。 今日は金魚柄の赤いTシャツにカーキ色の短パンという洋服姿だが、上下どちらもぶかぶかでまったく丈が合っていない。裾をひたすらにまくって無理やり着ているようだった。 「けっこーまえからいたし」 「……疑問が多すぎて逆に言葉が出てこない」 深いため息をついて、ゆみこはその場にしゃがみこんだ。 目線が低くなった途端、少年の脛辺りに五センチほどの切り傷をみつけた。その傷どうしたのと訊くと、忍び込んだときにやったんだろ、と彼はなんでもなさそうに答える。 かなり深く切れているのに血が出ていない。そう指摘してやると、ミズチは楽しげに傷口を広げてみせた。 「この姿のときはえぐってもめくってもなにも出ねーぜ」 「きゃあ!」 咄嗟に目をそらした。たとえ血が出ていなくとも、皮膚下の様子は生々しくていけない。くらっとした。抉っても捲っても、と彼は言ったのだろうか。 「そんなことよりさー。たすけてやろうか。おまえが望むなら、だけど」 「……やっぱりあの人、なにかが変なんだね」 「さっすが、ゆみにはわかったか」 「だって目が光ったし、死人みたいに冷たいし。怖いのに、怖がってたことがすぐどうでもよくなっちゃうの。さっきも栗皮ちゃんが来なかったら、ぼーっとしたままだった……」 「じょうできじょうでき。むかしよりも危険察知能力が発達してて、なによりだ。これにこりたらもうへんなやつについてくなよ」 まるで子供にするように、子供に頭を撫でられた。不思議と、嫌な感じはしない。 思い切って訊いてみた。 「きみにあの人をどうにかできるの」 「できる」不敵な笑みと、妙に説得力を感じるひと言だ。「おまえは四分ちょい、じかんをかせげ」 唯美子はしゃがんだままでうなずいた。何ゆえ四分なのかとか具体的に何をするつもりなのかとか、疑問がなくなったわけではないが、彼の言葉を信じてみようと思った。 「ねえ、どうして助けてくれるの」 「ゆみが望んだから」 「なんでわたしが望めば、助けてくれるの……?」 「ないしょ。ゆみがじぶんでおもいだすまでは、おしえねーよ」 そう言って、ミズチはデコピンしてきた。予想外に痛い。 「……きみの瞳も光るのに、なんでかな。こわくないよ」 「んー? そうかあ? こわがってくれてもいいぜ」 少年は屈託なく笑った。欠けた歯が惜しげなくあらわれる。 「そんなにかわいく言われたら、ますますむりかな」 「じゃあ役得ってやつだ」 「なにそれ」 ミズチが「えへへ」と笑うのでつられて笑い返す。 唯美子は膝に両手を当てて、立ち上がった。 「あの、めんどうかけて、ごめんなさい」 「いーってことよ。おいらが、ゆみをまもるから」 小さな体のどこにこれほどの力があるのか、力いっぱい背中を叩かれて、唯美子はたたらを踏んだ。 お待たせいたしました。誕生日に親が遊びに来たのであちこち行って遊んでました( そんな属性をつけたつもりはなかったんですが、どうやらミズチは変な柄のシャツが好きなようです。 |
1-2. g
2018 / 04 / 04 ( Wed ) 「そこまで言うなら、わたしもまずブラックで味わってみます」
セラミック製の小型の水差しを手放し、マグカップを両手で持ち上げる。 黒い液体は顔に近付けるにつれて芳香さを増してゆく。しばしためらっていると、鼻先が湯気で湿気った。 「無理することないんだよ」 返答の代わりに唯美子はひと口飲んでみた。 苦い。知れたことだが、混じり気のないコーヒーは苦い――落胆して顔をしかめたところで、思わぬ甘やかな後味が舌を撫でた。もう一度口を付けてみる。もっと多く飲み込んでみると、今度は苦さのインパクトと一緒に、別の味が舌を打った。 「フルーツっぽい……?」 「チョコレート・ラズベリーだって。味付きのコーヒーは僕はそんなに好きじゃないけど、女性には人気らしいね。どう、いける?」 「はい、これなら何も加えなくても飲めそうです。フルーティと言っても甘いだけじゃなくて酸っぱいようなコクがあるような」 「気に入ってもらえてよかった」 「笛吹さんのは違うんですか」 「スマトラブレンドだよ。飲んでみるかい」 差し出されたマグカップを、間接キスにならないように、さりげなく回してから口に触れさせる。 結論から言って強烈な味だった。ついでに変な匂いがする。口元を震わせながら、カップを返した。 「わたしには早すぎたみたいです」 「あはは、気にしないで。口直しにケーキを食べるといいよ」 「そうさせていただきます」 イチゴがのったチーズケーキを堪能する傍ら、他愛のない話をいくつか交わした。お盆の予定はあるのか、海で日焼けをしたのか、ペットは飼っているか、などと。 車内と比べるといくらか自然に、リラックスして会話ができた。 笛吹は動物に嫌われる体質らしく、道行く野良猫にもれなく襲われるのだという話をした時は、お互いに声に出して笑ったほどだ。 次第に、マグカップの底が見えてきた。壁にかけられたアナログ時計を瞥見し、既に店に入ってから三十分が経っていることを知る。お開きにするべきかもう一杯頼もうか、唯美子は迷った。もう少し話していたい気もするし、やはりそれはやめた方がいい気もする。 ふいに、目が合った。 (この人も一瞬、光って……?) 黒い瞳の奥に、炎のような激しさを見た気がした。それは決してありきたりの光景ではないはずなのに、視線を交えていると、脳の芯が溶けるようで何も考えられなくなる。 すべてが些事だ。陶酔感が、胸に広がってゆく。 「きっかけは不穏だったけど、こうして二人で会う機会ができてうれしいよ。きみとは気が合いそうな気がしていたんだ」 そんなことを言われたのは初めてだった。何と返したらいいかわからない。 「この後、食事に誘ってもいいかな。イタリアンなんてどう」 意図せず点頭しかける。 了承し終える前に、邪魔が入った。茶色の翅をしたトンボが弧を描いて飛び過ぎ、唯美子の手の甲に停まったのである。 昆虫の足が触れたくすぐったい感触に、我に返った。どもりながらも声を出す。 「う、いえ、今日この後はちょっと都合が悪くて。すみません」 金曜で明日は仕事も休みだ、都合が悪いという断り方は、無理があるかもしれない。 けれども、いくら話が弾んできたと言っても、食事のムードはまだ無理だった。むしろどうして「はい」のひと言を舌が発しそうになったのかがわからない。どうかしている。 「その虫――」 トンボと笛吹が睨み合っていた。心なしか、男性の形のいい切れ長の双眸が、強い感情に歪んでいる。敵意だ。 (栗皮ちゃん?) ふと唯美子は、店内が未だにガランと空いていることを意識した。 嫌な予感がする。 「すみません、お手洗いに行ってきます」 相手の反応を待たずに、バッグを鷲掴みにして席を立った。 |
1-2. f
2018 / 04 / 01 ( Sun ) (都会の電車なんて三分ごとに停まったりして、効率が悪そう)
会話と関係ない思考がよぎったのは、落ち着かなさゆえだろう。 「へえ、ひとり暮らしなの」 「そうです。笛吹さんは?」 質問されてばかりなのが気になり、唯美子は訊き返してみた。 「僕は会社から車で十五分、山の上に一戸建てを持ってるよ」 滑らかに車を左折させながら、彼はさらっと答える。 「すごいですね」 「そうかな」 二十代後半という若さで家を買ったのか。唯美子は驚嘆した。もしかして何かタネがあるのかもしれない。自称した年齢よりもずっと年上だとか、親族から相続したとか……。 あれこれ考えているうちに目的地に着いてしまった。シートベルトを外してバッグを肩にかけて、車から出るのにもたついていると、颯爽と助手席側に現れた笛吹がドアを開けてくれた。 差し伸べられた手を取るべきか、逡巡する。紳士的行動を、親切を拒否しては相手を傷つけかねない――そう結論を定めて、やがて唯美子は手を取った。 真夏だというのに笛吹の手の平は氷水のようにひんやりとしていた。漠然と抱いていた不安を、より一層と深めるような冷たさである。 地面に降り立ったが早く、手を放した。 (あからさますぎたかな) 内心では冷や汗をかいたものだが、当人は気を悪くした風でもなく、朗らかに「ここのコーヒーとチーズケーキは格別に美味しいんだよ」と言って先導している。しかも明らかに足の長さが違うのに、こちらの歩調に合わせてくれた。 困惑気味に後ろに続いた。 ――この人はこんなにやさしくしてくれているのに、どうして自分はその所作に、いちいちうがった見方をしてしまうのだろう。 唯美子は小さく首をひねった。異性に対して警戒心が強い方なのは自覚しているが、体温までをも深読みするのはさすがにおかしい。 ――カランカラン 入口にかかった鐘が立てた小気味いい音が、思考を中断させる。 「漆原さん、注文は僕が決めてもいいかい」 「はい、お任せします」 「お菓子とかは?」 「えっと……それもお任せで。わたし、食べられないものはないと思います。なんなら、さっき言ってたチーズケーキでも」 「わかった」 それから笛吹は、マスターと親しげな挨拶を交わした。 「挽きたては何があるんだい」 「そうですね、本日は――」 二人は呪文のような固有名称を応酬した。おそらくは、豆の種類について話しているのだろう。大体インスタントで済ませてしまう唯美子には、どこの秘境やらどこの国の高山やらからとった豆の違いはわからない。 手持ち無沙汰なので、店内を見回すことにした。 六席のバーカウンターに、四角いテーブル席が八組、ブース席はなし。赤茶や黒を組み合わせたシックな内装で、照明も淡くムーディーな黄金色を使っている。ローストコーヒー特有の香ばしさが空気中に漂っていて心地良い。ジャズだろうか、ゆったりとしたサックスやピアノがスピーカーから流れている。 雰囲気はとてもいい。ざわついていた心が少しはまともに戻れそうだった。気がかりなのは、他に客がいないことだけだ。 テーブル席に腰かけて注文が届くのを待つ間も、そこに意識を向けずにいられない。隣の空いた席にハンドバッグを下ろし、笛吹と向かい合って座った。 「貸し切り状態ですね」 「夕食の時間帯は、客足が遠のくものかな。ゆっくり話せるから、ちょうどいいんじゃない」 そう返されては微笑むしかなかった。 豆がゴリゴリと挽かれていく音が、穏やかな店内に響く。僅かばかり続いた、唯一の不協和音だった。 壮年の男性マスターが、大きめのマグカップ二つと皿に盛った可愛らしいチーズケーキを持ってきた。ごゆっくりどうぞ、と目を細めて笑ったのに対し、ありがとうございます、と答える。 唯美子はミルクの入った小さな水差しを手に取ったが、笛吹がマグカップをそのまま口に近付けたのに気づいて、ふと口に出した。 「笛吹さんはブラックで飲む派なんですね」 「まずは純粋に味わわないと、失礼だからね。コーヒー豆そのものにはもちろん、その豆を育てた人や焙煎した人、挽いては淹れてくれた人にも……あ、これはあくまで僕の美学であって、きみがどんな飲み方をしたっていいんだけど」 こちらの手が止まったのを見て、彼はそう付け足した。 |
1-2. e
2018 / 03 / 29 ( Thu ) 唯美子は某表計算ソフトとにらめっこをしながら、昨夜「ごちそうさま」と言ってもらえなかったことに対して、時間差でショックを受けていた。 (きっとあの子の国にその習慣がないだけだよね)過ぎたことを気にしてどうするのかという話だが、なんとなく、もう一度会いそうな気がしていた。二度あることは三度ある。次会ったら教えてやろう、そう心に決めた。 計算式の最終チェックやメール返信を済ませるうち、背後から足音が近寄ってくることに気付いた。振り返らずに己の作業を進めていると、その者が話しかけてきた。 「漆原さん、そろそろあがれそう?」 肩越しに爽やかな声が届いた。経理課の笛吹秀明である。 社に残っている周りの人間――主に山本女史や田嶋女史といった彼に興味を抱いている女性――の注目を浴びてしまわないかと内心ヒヤッとしつつも、振り向きざまに返事をする。 「はい、あと少し」 定時を過ぎてまだ数分といったところだが、今日はこの通り約束がある。そのつもりで仕事をさばいてきたし、幸いと残業の必要もない。 「じゃあ僕は下で待ってるよ」 そう言って、長身の男性は踵を返した。 「あの人気者とデートだなんて、どうやったの」 唯美子がパソコンの前から立ち上がるのを見計らって、隣の席から年配の女性がオフィスチェアを転がしてきた。内緒話をするみたいに手の甲を口元に添えて。 「誤解ですよ。この前助けてもらいまして、お礼にコーヒーをおごらせていただくだけです」 「お礼にコーヒーねえ? 後学のためにおぼえておくわ」 「だからそんなんじゃ……」 困ったように唯美子は笑った。こういう時、もっとうまく返せたらいいのにと常々思う。恋愛方面にからかわれるのはどうも苦手だ。 お先に失礼しますと挨拶だけして、逃げるようにその場を後にした。 「お待たせしました」 「お疲れ。さっそく行こうか」 こちらの姿を認めて、笛吹はスマホをコートのポケットにしまった。入れ替わりに同ポケットから車の鍵を取り出している。 「運転するんですか?」 驚きを隠せずに訊ねる。行き先は余裕で徒歩圏内のはずだった。 「ああ、駅前のチェーン店もいいけど、僕の行きつけの店を紹介しようと思って」 「そうですか……」 不安そうな表情を浮かべたかもしれない。後退りそうになるのを、なんとかこらえる。 「味は保証するよ。ごめん、さっき思い付いたもので。駅前の方がいいなら無理にとは言わないけど」 「あ、だ、大丈夫です。笛吹さんのおススメの方に行きましょう」 唯美子は慌てて取り繕った。 「ありがとう。車を回してくるから、ここで待ってて」 はい、と短く返事をする。 イケメンが高そうな靴を鳴らしながら駐車場へ向かった様は優雅そのもので、他意は感じられない。 (なのに、この落ち着かなさは何だろう) よく知らない男性の車に乗り込むのに、抵抗をおぼえるのは当然だ。だが一度は承諾してしまった以上、途中で「やっぱり気が変わった」と言い出すのは気が引ける。 ヘッドライトの光が近付く間に最後の迷いを振り払った。観念して、助手席に滑り込む。 密閉空間で成人男性と二人きり――会話はかろうじて続いたけれど、少しでも沈黙すると、息苦しさを感じた。窓を開けても、代わりに入る空気は夏の夜の淀みに満ちている。 「漆原さんは会社から近いとこに住んでる?」 「近いと言うほどでも……二つ先の駅です」 ただし、田舎でいう「駅二つ」はそれなりの距離である。 |
1-2. d
2018 / 03 / 26 ( Mon ) (ひらがなが読めないのかな)
珍しいこともあったものだ。通常ひらがなからカタカナへ、果ては漢字へと順に教えられるものではないか。彼の家庭事情を気遣って、唯美子は訊ねることができなかった。 (それに漢字も。意味はわかってたみたいだけど、音読みですらなかったような) 流暢な日本語を話しているのに、外国の子だろうか。謎だらけだ。 (既読ついちゃったから、返事書かないと) 大丈夫でs――まで入力したところで、視界が急にぼやけた。 両耳と鼻にかかっていた圧が消えた、つまり眼鏡を取られたのだ。 「こら、なにするの。返して」 取り返そうとするも、子供は絶妙に上体を捻って、唯美子の手の届く範囲から逃れた。 「ゆみは『いく』気なんだな」 「うん? もともと約束を取り付けたのはこっちからだよ?」 というより、たったあれだけの文面でこの子は、自分がどこへ行くと思ったのだろう。 「よくしらないやつとふたりきりで会うんだろ」 ずばり、言い当てられた。 「それを言うならまったく記憶にないきみとふたりきりで晩御飯を食べたけど」 「おいらはいーんだよ。そいつは、ダメだ」 ぎくりとした。 冷たい、声だった。幼児にこんな声音が出せるものかと思わずたじろいだほどだ。黒い視線も、同様に冷たい。どんな感情で「ダメ」と言われているのか、唯美子にはわからなかった。 その双眸を見つめ返していたら、瞳の奥が光ったようだった。視界がぼやけているのに、それだけがはっきりとわかった。 「あ、あのミズチくん、眼鏡返して。それがないとわたし、家の中でもすっころんじゃうの」 威圧に負けて、目を逸らした。その間にどうやら少年は眼鏡を自分でかけてみたらしい。 「うぅわ……わざわざこんなもん使って……あたまいたくなんねーの? 多少みえなくたって、しにゃしねーだろ」 「死ななくても生活しづらいんだよ。特に現代はね、視覚情報に大いに偏ってるの」 あくまで個人的見解ではあるが。 「ふーん。まあいいや」――慣れない手つきで彼は眼鏡をあるべき場所に戻してくれたので、視界がクリアになった――「おまえがそのつもりなら、こっちにも考えがあるぜ」 唐突に話も戻った。 思えばどうして、会って間もない子供に自分の明日の予定を語らなければならないのだろう。むっと眉をいからせ、目と鼻の先の彼を睥睨する。 視線を交えたまま少年は赤い舌をちろちろと、歯の間から出入りさせる。何気ない動作はまるで無意識の癖のように、自然と繰り出された。 「きみには、関係ないんじゃ、ないかな」 「そう、かも、な」 彼はわざとらしくゆっくりと答えた。そして身をひるがえし、窓に向かっていった。 「ま、まって。ききたいことがまだたくさんあるよ」 半ば衝動で引き留めた。 「たとえば」 「どうやってわたしの住んでるアパートを見つけ出したの……とか」 最初に会ったあの浜辺は別の県にある。連絡先を交換したわけでもないのに再び会えた、この事実はどう考えても普通ではなかった。 ぶうん、と羽音がした。 一対の大きなトンボが少年の肩にとまる。いつか見たのと同じ、青と茶色の二匹だ。 「そりゃー鉄紺と栗皮にさがしてもらったにきまってるだろ。こいつらな、特定の気配ってゆーか、魂の痕跡を追跡できるんだぜ」 虫を指さしながら、また当たり前のように小難しい話をしている。 そう思ったが、次いでミズチは窓枠に片足をかけて「こんせきをついせき……せきせき……なんかへんな響きだな。これであってるんかな」と自信なさげに呟いた。受け売りだろうか、どこまでうのみにしていいものかわからない。 「とにかく明日はきをつけとけよ。じゃ」 「えっ」 ――危ない! 急いで窓辺まで駆け寄り、外を見回した。暗がりの中で、怪我にうずくまる子供の姿を探し求める。 だが、そこには何もなかった。いくら目を凝らそうとも―― 街灯の照らす地上には人どころか小さな影のひとつも浮かび上がらない。 * |
1-2. c
2018 / 03 / 22 ( Thu ) その箸の持ち方がまた独特だった。上と下を先端から開閉する動きではなく、クロスさせた二本の隙間を縮めることでものを挟んでいる。それも、左利きで。 「スプーンの方がよかったかな」不慣れなものを使わせてしまったかと気を遣う唯美子に対し、ミズチは「んー」とだけ返事をしてお椀を片手で持ち上げた。 ものすごい勢いでかき込んでいる。よほど美味いかよほど不味いかのどちらかだと予想し、身震いした。 「煮物ね、ダシ入れ忘れて後で気付いてつけたしたの。ちょっと味薄めかも……大丈夫? まずくない?」 「うまいよ。たぶん」 無頓着そうに彼は応じる。 (たぶんってどういう意味だろ。そんなに微妙だったかな) これには、ちょっと傷ついた。というのも、唯美子の料理は必ずどこかでなにかが抜けている、とよく評されるからだ。気を付けているつもりなのだが、たとえレシピ通りに作っていても何かを入れ忘れるなり下ごしらえの手順を飛ばすなりしてしまう。 「でも肉たりない」 「ごめんね。今週高かったから、少なめでいいかーって」 見ず知らずの彼の要望を考慮して献立を組んでいるわけではないのに、つい謝った。 「ふーん。くえるときにくっとけよ、倒れっぞ。ただでさえほそっこいのに」 「う、うん」 それきり少年は黙り込んだので、テレビの声だけを供に、唯美子も食事を済ませた。 洗い物をしている間、ミズチは険しい表情でテレビを睨んでいた。殺人事件に関係がありそうな、どんな情報でもいいから連絡してほしいという視聴者への呼びかけで、報道はひと段落した。 「ねえ、きみの服……」 居間に戻るなり唯美子は質問しかけた。 「これか。童水干っていうらしいな。たぬきやろーに、面白がってきせられた」 ミズチは腕をばたつかせ、長い袖をうっとうしそうにみやる。 「えっと、その『狸野郎』さんは、きみの保護者なのかな」 「ちっげーよ。やどぬしだ。天気がわるいときに泊めてもらってるてーどの仲だよ」 宿主、と唯美子は口の中で単語を反芻した。 「天気が悪い時だけ?」 「晴れてるんなら、公園でねりゃいーだろ」 「あはは……」 やはりこの子供はおかしい。言動に、言葉選びに一貫して不自然さがにじみ出ている。補導されずに幼児が公園で夜を明かせるはずがあろうか。 おかしいのは言動だけではない―― 唯美子がおかっぱ頭だったのは小学校低学年までだ。後にツインテールに移り、ストレートセミロングや、何を血迷ったのか姫カットを試したこともあったが、最終的にボブに落ち着いた。それから会社勤めを始めてちょっと経つ頃、パーマに興味を持つようになったのである。 要するにミズチは小学校低学年までの唯美子を知っていると主張しているのだ。 少ない想像力を総動員して、考え込む。 (肉体の成長が止まった病気……ううん、それならわたし、どうしてこの子をおぼえてないんだろう。おばあちゃんからわたしの話を聞いて、思い出を捏造した、とか……?) 可能性としては後者の方が比較的苦しくない、気がする。 問い質すつもりで少年を見つめた。 その時、座布団に放置していたスマホが軽快な電子音を発した。チャットアプリからの通知だ。 内容を確かめようとして手を伸ばすと、ミズチが先に素早くかっさらっていった。眼前までスクリーンを寄せて、眉間にしわを刻んでいる。 「めん、る、ぎょう……なんだこれ」 「え、そんな暗号めいた文章を誰かが送ってきたの」 「わかった! 『あした』『いく』か」 少年がドヤ顔でスマートフォンを渡してくる。文面をみなまで確かめると、正確な内容は―― 『こんばんは、明日まだ行けそう?』 ――だった。 不思議とミズチは、漢字部分しか読もうとしなかったのである。 |
1-2. b
2018 / 03 / 19 ( Mon ) 「どこって、窓あいてんじゃん」
少年は悪びれずに親指で背後をさす。そういえば居間の窓は網戸がなく、全開だ。十歳以下の子供の小さな体躯であれば余裕で通れる幅である。 問題はそこではなかった。 「あの、ここ、三階だよ」 「三階だな」 言わんとしていることが伝わらなかったらしい。我が物顔でちゃぶ台の前にちょこんと座った少年に向かって、唯美子はいま一度問う。 「梯子なんて出してなかったよね。どうやって上がってきたの」 「ベランダ伝えばらくしょーだし」 少年は鼻で笑った。果たして彼が言うほど楽にできることなのか首を傾げざるをえないが、自信満々に言うので、そういうことにしておいた。 (押し入りの常習犯……? にしてはなんか……) 金目のものを探している風ではない。けれど子供の姿で相手を油断させて、実は大人の共犯者がいたりするのかもしれない。この物騒な世の中だ、どこに危険が潜んでいるのか誰にもわからない―― 黒い双眸が丼をじっと睨んでいた。 まるで初めて出会う料理を前にした時のように、唇に指をあてて何かしら考え込んでいる。ついにはちゃぶ台のふちを両手でつかみ、丼に鼻を寄せてひくつかせた。微かに立ち上る湯気を嗅いでいるようだ。 もしかして、と声をかけた。 「きみ、おなかすいてるの」 「んにゃ別に」 即答すぎてかえって疑わしくなる。 「意地張らないで正直に言ってもいいんだよ」 「ほんとだって。はらへってねーけど、それ、どんな味すんのかなって気になってるだけ」 「じゃあ食べてみる?」 唯美子が提案した途端、その子はわかりやすく顔を輝かせた。 無邪気そうな表情だった。一緒になってはにかんでしまう。 正体が物乞いでも押し入りでもいい、少なくともこの瞬間では、無害な児童にしか見えなかった。 (まあいいよねこれくらい) 独身生活を寂しいともつまらないとも思ったことはないが、誰かと食事ができるなら、それに越したことはないのである。 立ち上がりかけて、唯美子はぎょっとした。視界の端で少年が、丼に右手を突っ込もうとしている。 「ちょっと! お行儀悪いよ! きみの分の食器いま持ってくるから」 慌てて叱りつけると、不服そうな顔が返ってきた。 「そういえばそんなもんがあるんだったな。ニンゲンはめんどくせえなあ。それにギョーギってなんだ。ギョーザ?」 「お・ぎょ・う・ぎ。作法や礼儀のことだよ」 「れーぎ、ね。わかった」 わかってくれたか、とひと安心して踵を返す。まったくこの子の親はどういうしつけをしている――考えかけて、そういえば「親なんていたことない」と主張していたのを思い出す。言葉通りではなく、親と思えるような人間がいなかった、の意味だろうか。 さすがにこの歳で保護者がいないのはありえないはずだ。 唯美子は丼と同じように盛ったお碗と箸を手に戻り、まじまじと少年を見下ろす。太っていなければ痩せすぎてもいない、十分に健康そうな肉付き具合である。 身なりも、汚いという印象はない。むしろ服はきれいだ。 ――なぜか今日は、浴衣ではなく時代劇みたいな和装をしているが。 (七五三……違うか。平安時代の衣装っぽい) 陰陽師映画にでも出られそうな感じだ。撮影会か何かから逃げ出したのだろうか。 「えっと――」とりあえず声をかけようとして、なんて呼べばいいのかわからないのだと気付く。「きみ、お名前なんていうの」 奇妙な間があった。少年はじっとこちらの表情を窺っているような目をしている。 「おいらは、みずちだよ」 「ミズチくん?」 いざ口にしてみると、聞き覚えのある音の羅列のように思えた。神話か民話の化け物だった気がするが、そういったものよりももっと身近に感じる。 「べつにそれ名前じゃねーけど」 「え? 違うの?」 「厳密にはちがうけど、まあいちばんわかりやすいから。よんでいーよ」 まるで話題に興味を失くしたみたいに、ミズチと名乗った少年は箸を手にした。 |
1-2. a
2018 / 03 / 16 ( Fri ) 『先日、〇〇市〇〇区にて女性の刺殺体が発見された件についての続報です』
フライパンで野菜を炒めていた唯美子は、物騒なニュースに反応し、箸を動かす手を止めた。 しかし換気扇がうるさい。 これでは続きが聴き取れない。一旦火を弱めて箸を置き、居間のテレビの音量を上げに行った。 『去年十一月に〇〇県でも女性が発見された事件や一昨年の〇〇県での事件との関連性が懸念されており――』 ちゃぶ台に積み重なっていた新聞の下を探る。ほどなくリモコンを発掘することに成功し、「音量を上げる」ボタンを連打した。 満足した唯美子は、キッチンに戻って夕飯の支度を終えた。 『手口や発見場所が違ったものの、いずれの事件でも死体から内臓がごっそりなくなっている点が共通しており、犯人はまだ捕まっておらず――』 丼にごはんを盛り、その上におかずを仕分けてのせる。いただきます、と軽く手を合わせてから食事に至った。 作ったばかりの炒め物に残り物の煮物、某市場で買った佃煮で、三品。独り暮らしにしては頑張った方の日であろう(ちなみにこの盛り方は使用する皿の数を、すなわち洗い物を減らすためである)。頑張らない日には主に冷蔵庫にあるもので煮込みうどんを作って済ませている。 海での短い休息から数日経って、木曜日になっていた。後一日働けば週末だ。 夢中遊行――と呼んでいいのかはわからない――はあれきり発生していない。 真希に相談した時には検査してもらった方がいいと騒がれたものの、気が進まないので、様子見になっている。二度目があったら受診するつもりだ。 (あの時の真希ちゃん面白かったな) 野菜を咀嚼しながら、くすりと思い出し笑いをする。 皆のあこがれの的である男性に助けられた挙句、夜道を二人で歩いたのだ。こちらに感謝以上の感情がなくとも、事の顛末を聞いた真希が羨ましがったのも仕方がないだろう。 『――県警はこれまでに捜索願が出ている女性のリストを改めて検証しているそうです。その辺り、先生はどうお考えですか』 丼から顔を上げると、いつしか画面が切り替わっていた。中年の男女が向かい合って座っている。犯罪心理学の専門家だという男性が、犯人像について語るようだ。 唯美子は論議に注目した。怖いが、つい気になってしまう。 『こういった連続的犯行に及ぶ人間は、被害者を選ぶに用いるパターンと言いましょうか、好みがあるものでしてね』 彼らは深刻そうに声を潜め、それでいて、アナウンサー特有のハキハキとした語調を崩さない。 思わず箸を置いて見入ってしまう。 『でもこれまで見つかっている三件の被害者は服装や髪型もバラバラだったんですよね?』 『ええ、そこが問題ですね。現状、共通しているのは全員が若い女性だという点だけで、犯人がどうやって次の犠牲者を選んでいるかはほとんど見当がついていません』 また画面が切り替わった。これまで発見された女性たちの顔写真と短い紹介が並べられる。 左から順に――ぽっちゃり気味の穏やかな表情をした主婦、化粧の濃い短髪の女子高生、無表情で巻き毛のボブを茶色に染めた大学生。 なるほど、共通点は見当たらない。 「へー、ころされたヤツら、こんなんだったんか。みぎ端っこの女、ゆみに似てるな。髪色ちがうけど」 突然。実に、突然だった。 ひとりだけの空間に、他者の声が響いたのは。しかも耳元で。 「!?」 驚いて唯美子は膝をちゃぶ台の裏にぶつけた。痛みにしばらく動けずにいると、声の主は構わずに話し続けた。 「なあ、まえは黒髪おかっぱだったよな。なんでいまはワカメみたいな頭になってるん」 「……これはパーマです! デジタルパーマ! ワカメ言わないで」 いつか浜辺で遭遇した少年に向かって、抗議した。 「デジタルってなんだよ、サイバー空間でやってもらってんの? ちょっとはなれてたあいだに日本もすすんだなー」 つぶらな瞳が好奇心旺盛に見つめてくる。 「ちが――ううん、なんでデジタルって呼ぶのか、わたしにもわかんないけど。そんなことよりきみ、どこから入ってきたの!?」 すでにストックが底つきそうだけど気にしないよ… |
1-1. f
2018 / 03 / 13 ( Tue ) 「うぇ、まっず。やっぱ塩水まっずいなー、こんなとこにすむ奴らの気が知れねー」
助けてくれた人物は背を丸めて唾を吐き出している。すぐに気を取り直したように、唯美子の傍に来た。 「おい、しっかりしろ」 頬を叩かれた。顎に響くほどの衝撃で、麻痺していた皮膚に活気が戻るようだった。 お礼が言いたいのに、返事をしているつもりなのに、喉からは呻き声しか出ていなかった。 震える腕をふらふらと伸ばした。受け止めてくれた手は力強く、ほんのりと温かい。 「あーあ。全っ然、克服できてねーじゃん」 吐息のように微かな呆れ笑い。小馬鹿にしたような言動の向こうに、確かな心遣いがあった。その話し方に、既視感をおぼえる。 (だれ?) 月からの逆光で相手の姿はよく見えない。 疑問の答えに辿り着ける前に、男性がいきなり黙り込んだ。かと思えば鋭く舌打ちをした。 「いまみつかるのは得策じゃねー……またあとでな、ゆみ」 あっという間に気配が消えた。 (まって、いっちゃ、やだ) 取り残された唯美子は、わけもわからずに猛烈な寂しさをおぼえていた。 短い間、気を失っていたらしい。 頭痛にめまい、更にぐわんぐわんと頭の中でおかしな音が鳴っていたところで再び目が覚めた。 「大丈夫かい」 瞬く度に、視界の角度がわずかに変わった。誰かにそっと抱き起こされたようだ。 至近距離から覗き込む端正な顔には見覚えがあった。ウェットスーツに身を包んだ彼は会社の経理課の先輩、その名も。 「うすい……さん?」 よかった、と彼は安堵のため息をこぼした。 「曇ってたけど諦めきれなくて、波の様子だけでも見てみようと思って出て来たんだ。よかったよ。たまたま僕が通りかからなかったら、どうなってたことか。きみはひとりで何をしてたんだい」 「わかりません……目が覚めたら海の中で……あの、あなたがわたしを助けてくれたんですか」 「間に合ってよかった」 どうも会話がかみ合わない。かみ合わないと言えば、陸に上がった前後のあやふやな記憶と現状に齟齬を感じていた。 目の前の彼とは別の声が耳の奥に残っている。もっと言葉遣いや声音が荒い感じだった気がするが、頭が痛くて考えがまとまらなかった。 ――助かった。あの黒い海から生還した。今は、それしか考えられない。 「本当によかったです」 泣いているのをさとられないため、顔をそむける。すると視線の先、つまり脇腹に逞しい手があった。狼狽した。一旦意識してしまえば、そこの感覚のみが何倍にも拡張されてしまう。 察した笛吹がパッと手を放した。 「失礼。必死だったもので」 「い、いいえ」 「戻ろうか。立てそうかい」 「平気です、ありがとうございます」 これ以上世話になるのも悪いと、よろめきながらも自力で立ち上がった。 先導する背中をぼんやりと見つめる。ウェットスーツが濡れていないように見えるけれど、そんなはずはない。見間違いだろう。 (あんなに手が冷たかったんだもの) 無意識に脇腹をさすった。まだ感触が残っている気がして、頬が熱くなった。 訊いてしまえば早い。が、とにかく宿に戻って風呂に入りたい唯美子は、他のことは後回しでいいと判断した。笛吹だって一刻も早く温まりたいに違いない。 はやる気持ちに応じて、砂を蹴る素足に力を入れた。 ここまでで一話でした。いかがでしょうか。わかりやすい謎と、わかりにくい謎を混ぜたつもりです。次話から大きな動きがあります…たぶんw ゆみこ:割とのんびり屋&マイペース ???:割とフリーダム&神出鬼没 |
1-1. e
2018 / 03 / 10 ( Sat ) 「うそっ、うみ!?」
激しい焦りが急速に全身を巡る。 夢遊を経験するのは人生で初めてだ。この点だけでも十分に動揺しているのに、行き着いた場所が場所である。 唯美子はたちまちパニックに取りつかれた。 慌てて背後を振り返った。 視覚が頼りない。コンタクトを入れていなければ眼鏡もかけていないからだ。 光明を見出そうと、とにかく必死に目を凝らした。 遠いが、疎らに光が灯っているように見える。あちら側に岸があるのは間違いない。 そうとわかれば―― 安全圏へ進もうとして、足が滑った。波にさらわれたのである。 喉から飛び出た悲鳴は、黒い海に呑みこまれた。 皮膚を揉む感触は冷酷で。まだ足が付くような浅い地点であったにも関わらず、唯美子は必要以上に手足を暴れさせてしまった。 (いや! いや、誰か助けて!) 鼻や口や耳や目が浸食されている。冷たい。怖い。 なんとか頭を水の上に出すが、視界はますます悪くなっていた。光を反射する水泡がとけてなくなる度に、果てしない黒に取り巻かれるみたいだ。 「だっ、だれか……!」 必死に出した声はか細く、あっさりと風にかき消されてしまった。 次いで、むせた。しょっぱい味が不快だ。 ――ここはどこ。 岸は近付いたのか、それとも遠ざかったのだろうか。近くに船はないのか。 ――誰か。見つけてくれる誰かは、いないの! 寒い。激しい波に翻弄される。泳ごうともがいたが、濡れた衣服が絡みついて、手足の疲労は早かった。 (落ち着いて、落ち着かなきゃ。平泳ぎってどうやるんだっけ) 波に揺らされるほどに平衡感覚が失われていった。こうなっては浮力も何の役に立ちやしない。 (やだ。おぼれるのだけは――) いやいやをするように頭を振る。水中では嗚咽すら満足にできなくて、ただただ苦しい。 行き場のない恐怖が胃の奥に固まった。 「が、は……だ……」 空気を飲み込めるタイミングが、間隔が次第に長くなっていった。 酸素が足りない。意識が途切れそうになる。 『めんどーな目に遭うぞ』 こういう時に、どうしてか頭に浮かぶのはあの子供の警告だった。 (面倒どころじゃないよっ……!」 肺が痛い。耳も目も。 二十代で死にゆく自分を、かわいそうに思う余裕はなかった。走馬灯を見る時間も―― ――突如、腹部と膝周りが圧迫された。 ごぼぼ、と吐かされた息が泡になる。 瞑っていた目を開けても、暗くて何も見えない。 巻き付いた何かが、唯美子の体を運ぼうとしているらしかった。手探りでそれに触れてみる。 滑らかな触り心地ながら、微かにでこぼことした表面。 (うろこ……へび? 蛇はちょっと、もうしわけないけどおことわりしたいな……) 南米のアナコンダならいざ知らず、日本の海にこうまで太い蛇がいるはずがなかった。きっと錯乱している。錯乱ついでに、抗う力が沸かずにぐったりとされるがままになった。 じきに、水の呪縛から解き放たれた。 気が付けば仰向けに倒れていた。背に当たる大地の確固たる手ごたえが、いまだかつてないほどに愛しい。 砂を手で握りしめながら泣き笑いした。この瞬間に我が身に広がった安心感を、今後も忘れることはないだろう。 やがて、はっきりしない視界の中に何者かの輪郭が浮かび上がる。肩幅の広さからして成人男性――浜へいともたやすく唯美子を引き上げてくれたのだ、男性の腕力でこそ可能といえよう。 腕力――お腹と膝を抱いていたあれは、人の腕だったのだ。そう、無理やり自分に言い聞かせた。 |