1-2. g
2018 / 04 / 04 ( Wed )
「そこまで言うなら、わたしもまずブラックで味わってみます」
 セラミック製の小型の水差しを手放し、マグカップを両手で持ち上げる。
 黒い液体は顔に近付けるにつれて芳香さを増してゆく。しばしためらっていると、鼻先が湯気で湿気った。

「無理することないんだよ」
 返答の代わりに唯美子はひと口飲んでみた。
 苦い。知れたことだが、混じり気のないコーヒーは苦い――落胆して顔をしかめたところで、思わぬ甘やかな後味が舌を撫でた。もう一度口を付けてみる。もっと多く飲み込んでみると、今度は苦さのインパクトと一緒に、別の味が舌を打った。

「フルーツっぽい……?」
「チョコレート・ラズベリーだって。味付きのコーヒーは僕はそんなに好きじゃないけど、女性には人気らしいね。どう、いける?」
「はい、これなら何も加えなくても飲めそうです。フルーティと言っても甘いだけじゃなくて酸っぱいようなコクがあるような」
「気に入ってもらえてよかった」
「笛吹さんのは違うんですか」

「スマトラブレンドだよ。飲んでみるかい」
 差し出されたマグカップを、間接キスにならないように、さりげなく回してから口に触れさせる。
 結論から言って強烈な味だった。ついでに変な匂いがする。口元を震わせながら、カップを返した。

「わたしには早すぎたみたいです」
「あはは、気にしないで。口直しにケーキを食べるといいよ」
「そうさせていただきます」
 イチゴがのったチーズケーキを堪能する傍ら、他愛のない話をいくつか交わした。お盆の予定はあるのか、海で日焼けをしたのか、ペットは飼っているか、などと。

 車内と比べるといくらか自然に、リラックスして会話ができた。
 笛吹は動物に嫌われる体質らしく、道行く野良猫にもれなく襲われるのだという話をした時は、お互いに声に出して笑ったほどだ。
 次第に、マグカップの底が見えてきた。壁にかけられたアナログ時計を瞥見し、既に店に入ってから三十分が経っていることを知る。お開きにするべきかもう一杯頼もうか、唯美子は迷った。もう少し話していたい気もするし、やはりそれはやめた方がいい気もする。
 ふいに、目が合った。

(この人も一瞬、光って……?)
 黒い瞳の奥に、炎のような激しさを見た気がした。それは決してありきたりの光景ではないはずなのに、視線を交えていると、脳の芯が溶けるようで何も考えられなくなる。
 すべてが些事だ。陶酔感が、胸に広がってゆく。

「きっかけは不穏だったけど、こうして二人で会う機会ができてうれしいよ。きみとは気が合いそうな気がしていたんだ」
 そんなことを言われたのは初めてだった。何と返したらいいかわからない。
「この後、食事に誘ってもいいかな。イタリアンなんてどう」
 意図せず点頭しかける。

 了承し終える前に、邪魔が入った。茶色の翅をしたトンボが弧を描いて飛び過ぎ、唯美子の手の甲に停まったのである。
 昆虫の足が触れたくすぐったい感触に、我に返った。どもりながらも声を出す。

「う、いえ、今日この後はちょっと都合が悪くて。すみません」
 金曜で明日は仕事も休みだ、都合が悪いという断り方は、無理があるかもしれない。
 けれども、いくら話が弾んできたと言っても、食事のムードはまだ無理だった。むしろどうして「はい」のひと言を舌が発しそうになったのかがわからない。どうかしている。
「その虫――」
 トンボと笛吹が睨み合っていた。心なしか、男性の形のいい切れ長の双眸が、強い感情に歪んでいる。敵意だ。

(栗皮ちゃん?)
 ふと唯美子は、店内が未だにガランと空いていることを意識した。
 嫌な予感がする。
「すみません、お手洗いに行ってきます」
 相手の反応を待たずに、バッグを鷲掴みにして席を立った。

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