1-2. i +あとがき
2018 / 04 / 17 ( Tue ) (いまのセリフ……夢の)
一歩踏み出した瞬間、遅れて既視感がやってきた。夢の中の声とミズチが発したばかりのそれが、折り重なるようにして頭の中で再生される。 ありえない。けれどあの子を中心に、ありえないことが次々と起きているのもまた事実だった。 再び店内に踏み出すと、気のせいだろうか、部屋の温度が少し下がっているように感じられた。寒気に身を震わせた。唯美子の着ている長袖ブラウスは、冷房をあまり強くつけない職場に合わせて薄めの生地のものを選んでいる。 「お待たせしました。そろそろ出ましょうか」 以前よりもいくらか落ち着きを取り戻して、唯美子は挨拶をした。席に戻るなり、マスターに勘定を頼む。 「そうだね」 笛吹は組み合わせた両手で口元を隠している。微笑んでいる、ように見えた。 しまったと思った時には遅かった。無警戒に目を合わせたのだ。 今度は、はっきりと何かをされた手ごたえがあった。 視界が歪み、口を開いても舌が痺れて動かせない。テーブルに腕を置いて身体を支えようとしたが、それも遅かった。 ゆらり、景色が反転する。 体の右半分が地を打ったはずなのに、何も感じない。 「あの旅行の時に漆原さんは『かかりやすい』のだとわかったよ。女性全員に術をかけてみたけど、最も素直だったのはきみだ」 靴音が近付いて来る。 声が出ない。遠くに浮かぶマスターの輪郭に向かって、たすけて、と唯美子は唇を動かした。しかし黒のエプロンがよく似合う彼は、こちらのことなど興味がないとでもいわんばかりにカウンターで忙しなく動き回っている。 行きつけの店。ああそうか――彼らはグルだったのか。 「今更だけど、あの質問に答えよう。好みのタイプは……内臓がほどよく柔らかそうな、それでいてコシがあるような、若々しい女性だ」 内臓。その言葉を最近聞いた気がして、ぞっとした。どこで聞いたのか。思い出したくないけれど、思い出さねばならない……。 「きみを抱き起こした時に感じた。きっと、いい腎臓をしているだろうなと」 怪しく光る瞳を見上げた。 恐怖に喉が収縮する。それでなくとも、喋れない。動けない。 髪に触れられたような気配があった。直後、男の手が離れた。それを追うように、細かい空気の振動がちょこまかと宙に踊っている。 翅が発する激しい振動は、青いトンボと、茶のトンボのものだ。 「また虫か。強い生命力の波動がついて回っている……貴様ら、誰の眷属だ」 笛吹が鬱陶しげに鉄紺と栗皮を払おうとするのが聴こえた。吐き捨てられた言葉の意味はわからない。ただ、二匹が護ってくれようとしているのはわかった。恐ろしさは潮引かないが、少しばかり心強い。 (四分……経ったかな……) 気を失うこともかなわず、心を強く保つしかなかった。待つしかできないのがもどかしい。トンボたちが乱暴に床に叩き落されても、何もできない。 それでも確信はあった。あの子はきっと、見捨てない。 よだれを垂らした恐ろしい形相で、端正な顔の男が振り向く。 心臓が縮み上がった。せめてもの抵抗に、睨み返す。 ――爆音がした。 大量の水しぶきが飛び、唯美子は反射的に瞬こうとしたが、瞼は緩慢にしか動かない。視界が濡れて滲んだ。 「なあ、ゆみ。おぼえとけよ。野郎ってのはな、例外なく餓えてるんだよ。ま、コイツが欲しがってるのは雌としてのおまえじゃなくて別のもんだろーけどさ」 水柱の向こうから、滑らかに低い、大人の男性の声がした。またもや既視感に頭が混乱した。 「浜辺の夜から、異質な気配の残滓がしたと思えば。貴様、獲物を横取りするか」 殺意のこもった笛吹の威嚇は、口調からしてもはや別人のもののようだ。 「横取りもなにも、ゆみはもっとずっと前から俺んだし」 話し方が少し違うが、「ゆみ」の独特のイントネーションが一緒だ。この男性は、トイレにいた子供と間違いなく同一人物だ。 もう驚く力も沸かなかった。 男性は唯美子をかばうようにして仁王立ちになっている。 「ならば致し方ない。どちらかが死ぬのみだな」 「おう、いいぜ。やりあおうか。ここはこれから、俺の縄張りになるんだからな」 二人の会話は、そこまでしか聞き取れなかった。 唯美子の息はすっかり浅い。水に濡れて、髪が受ける微風がやたら冷たく、頭の奥がじんじんと痛む感覚が不快だ。 ――そうか。この声、浜辺での―― あの夜のみならず別の古い記憶の蔵が揺さぶられた。彼の言う通り、もっとずっと前に共に過ごした時の。 何かが思い出せそうだ。 またお待たせしました<(_ _)>すみませぬ 先週はちょっと書きあぐねて(?)いたんです。自分が思い描いている物語と書き出す力が追いつかなくて、あぎゃー してました。全然抜け出せてないんですが、次の回想シーンが楽しみなので、頑張って書きます。 余談。 「おいらは」いいんだよ、「そいつは」ダメだ、の意味がわかりましたでしょうか。 同族嫌悪ってほどじゃないんですけどね。同族だからこそ警戒。 |
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