7. d.
2026 / 02 / 27 ( Fri )
もうひとつ――
 温かくて柔らかい、いつかの少女との約束。
 どういう声だったか、どういう顔だったか。年々記憶は薄れていったが、その時に抱いた感情はずっと覚えている。

 たとえ新しい連絡先を手に入れていたとしても、きっとあの母親に妨害されて話をすることは叶わなかっただろう。脳内で何度もそう言い訳して、心底やっていられない時にあの約束を思い返して、腐らずに生きていこうと己を鼓舞した。
 それが数日前の夜、リビングに現れた女を認識して、驚愕した。

 懐かしい面影を見つけて、それでも警戒したままに話を聞き出して――ああやっぱりそうなったか、とどこかで腑に落ちたりもした。
 彼女はアレクスと違って裕福な家庭で可愛がられて育ちながら、心の休め方を知らないまま成長してしまった。それを憐れに感じたから、泊めてと乞われたらあっさり受け入れた。

 最初は深く考えていなかった。
 昔の知り合いと言ってももはや他人、また距離を縮めるプロセスは、どうしても面倒だった。
 だったのに――
『いらっしゃい!』
『おはよう』
『おかえりなさい』

 迎え入れる満面の笑顔が、昔と重なった。後にも先にも、こんなに嬉しそうに自分に挨拶をしてくれる人間はシェリーだけだろう。
 身体が成長していても、中身の純真なところはまるで変わっていない。この世に変わらないものを見つけられて――口には絶対に出さないが――実は感動していた。

 ――なんだ、この安心感は。
 ダラダラ喋っていても飽きが来なくて、気楽なものだった。彼女には打算的な部分が認められない。
 これが、拠り所。

 いつしか考え込むようになっていた。どうすればこの娘は手元に残ってくれるだろうかと。そして思い至った。
 ここに居て欲しいなら、居座りたくなるような環境を作ればいい。半ば無意識に、あれこれと手を焼いてやっていたのは、つまりそういう思惑があってのことだった。

 だが無理強いはできない。
 何故なら、あれはまだ、自由意志というものを掴もうとしている段階にあるからだ。考え抜いた末に元の生活に戻りたいと結論付くのであれば、引き留めるのは野暮というもの。
 けれど今度はちゃんと電話番号と住所を聞いておこう、とだけアレクスは考えていた。



 水を飲んで冷蔵庫から出したストリングチーズを食べ終わった頃合いに、電話が鳴った。
(いや、朝の六時)
 どうせチームリーダーだろう。あの男はいい記事の芽を見つけ出す嗅覚に優れているが、一度走り出すと周りの都合を考慮しない猪突猛進な性質がある。

(あー……ワインはどうにも相性悪ぃな)
 体感、赤ワインは後日胃腸に響いたり、頭痛に転じやすい。今回はどこが悪いと特定はできないが、全体的にだるい。
 急がずに向かい、三回鳴ったところでようやくたどり着けた。受話器を耳に当てると、途端に元気いっぱいな声が響いた。

『よろこべリクター!』
「うるさっ――何ですか朝っぱらから」
『昨日の嵐、案外積もらなかったぞ。除雪車が頑張ってくれた甲斐もあって、車道はすっかり開通してる。おまえいつも仕事増やしたがってるだろ』
 今日は休みではなくなったから、出社して来いとのことだった。

 ――人をまるで働くマシーンみたいに。
 が、これまでを振り返ると、否定はできなかった。金はいくらあっても足りないし、時間を拘束しうる他の要素がアレクスの生活には無かった。もともと定時に上がるような職種ではなかったし、週末だろうと夜中だろうと呼び出しに応じてきた。

 けれど今日は――
 室内に視線を巡らせて、はっとする。
 ここ数日ソファの横に置きっぱなしになっていたボストンバッグが無くなっている。

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