1-2. d
2018 / 03 / 26 ( Mon )
(ひらがなが読めないのかな)
 珍しいこともあったものだ。通常ひらがなからカタカナへ、果ては漢字へと順に教えられるものではないか。彼の家庭事情を気遣って、唯美子は訊ねることができなかった。
(それに漢字も。意味はわかってたみたいだけど、音読みですらなかったような)
 流暢な日本語を話しているのに、外国の子だろうか。謎だらけだ。

(既読ついちゃったから、返事書かないと)
 大丈夫でs――まで入力したところで、視界が急にぼやけた。
 両耳と鼻にかかっていた圧が消えた、つまり眼鏡を取られたのだ。
「こら、なにするの。返して」
 取り返そうとするも、子供は絶妙に上体を捻って、唯美子の手の届く範囲から逃れた。

「ゆみは『いく』気なんだな」
「うん? もともと約束を取り付けたのはこっちからだよ?」
 というより、たったあれだけの文面でこの子は、自分がどこへ行くと思ったのだろう。
「よくしらないやつとふたりきりで会うんだろ」
 ずばり、言い当てられた。
「それを言うならまったく記憶にないきみとふたりきりで晩御飯を食べたけど」
「おいらはいーんだよ。そいつは、ダメだ」
 ぎくりとした。

 冷たい、声だった。幼児にこんな声音が出せるものかと思わずたじろいだほどだ。黒い視線も、同様に冷たい。どんな感情で「ダメ」と言われているのか、唯美子にはわからなかった。
 その双眸を見つめ返していたら、瞳の奥が光ったようだった。視界がぼやけているのに、それだけがはっきりとわかった。

「あ、あのミズチくん、眼鏡返して。それがないとわたし、家の中でもすっころんじゃうの」
 威圧に負けて、目を逸らした。その間にどうやら少年は眼鏡を自分でかけてみたらしい。
「うぅわ……わざわざこんなもん使って……あたまいたくなんねーの? 多少みえなくたって、しにゃしねーだろ」

「死ななくても生活しづらいんだよ。特に現代はね、視覚情報に大いに偏ってるの」
 あくまで個人的見解ではあるが。
「ふーん。まあいいや」――慣れない手つきで彼は眼鏡をあるべき場所に戻してくれたので、視界がクリアになった――「おまえがそのつもりなら、こっちにも考えがあるぜ」
 唐突に話も戻った。

 思えばどうして、会って間もない子供に自分の明日の予定を語らなければならないのだろう。むっと眉をいからせ、目と鼻の先の彼を睥睨する。
 視線を交えたまま少年は赤い舌をちろちろと、歯の間から出入りさせる。何気ない動作はまるで無意識の癖のように、自然と繰り出された。

「きみには、関係ないんじゃ、ないかな」
「そう、かも、な」
 彼はわざとらしくゆっくりと答えた。そして身をひるがえし、窓に向かっていった。
「ま、まって。ききたいことがまだたくさんあるよ」
 半ば衝動で引き留めた。

「たとえば」
「どうやってわたしの住んでるアパートを見つけ出したの……とか」
 最初に会ったあの浜辺は別の県にある。連絡先を交換したわけでもないのに再び会えた、この事実はどう考えても普通ではなかった。
 ぶうん、と羽音がした。
 一対の大きなトンボが少年の肩にとまる。いつか見たのと同じ、青と茶色の二匹だ。

「そりゃー鉄紺と栗皮にさがしてもらったにきまってるだろ。こいつらな、特定の気配ってゆーか、魂の痕跡を追跡できるんだぜ」
 虫を指さしながら、また当たり前のように小難しい話をしている。
 そう思ったが、次いでミズチは窓枠に片足をかけて「こんせきをついせき……せきせき……なんかへんな響きだな。これであってるんかな」と自信なさげに呟いた。受け売りだろうか、どこまでうのみにしていいものかわからない。

「とにかく明日はきをつけとけよ。じゃ」
「えっ」
 ――危ない!
 急いで窓辺まで駆け寄り、外を見回した。暗がりの中で、怪我にうずくまる子供の姿を探し求める。

 だが、そこには何もなかった。いくら目を凝らそうとも――
 街灯の照らす地上には人どころか小さな影のひとつも浮かび上がらない。

     *

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