遠くよりも目の前に
2020 / 02 / 29 ( Sat )
 観光目的の二段バスが、ブシュッと大きな音を立ててゆっくり動き出す。これでもう何度目のことか知れない。香港の道路はいつでもひどく渋滞しているというのに、なぜわざわざバスなのか、少女には不可解だった。
 ライリーは鬱陶しげに嘆息する。再び話し出したハキハキとしたガイドの声が耳障りで、読書に専念できない。
「本なんて読んでると酔うぞ?」
 隣の席からやんわりとたしなめる声がした。
 髪と髭を短く剃った東洋系の中年男性がのぞき込んでくる。ワイシャツの襟が少しよれているが、全体的に清潔そうな印象である。そうだった、この男が誘ったから今ここにいるのだった。
「別に平気」
「いやあ、でも、せっかくのツアーがもったいないじゃないか。この町は面白いぞー。初めてなんだからもっとよく見たらどうだ」
「……」
 彼女は面倒くさそうに眼をそらす。観光が嫌だとか、街並みに興味がないというわけではない。問題はこの男だ。
 両親が別れたのが十年前、まだ五歳となかったライリーは母親についてずっと英国で過ごしてきた。それが今になって突然、父方の祖母が体調を崩したからと、顔を見せに行くよう母から言いつかってきた。ついでに兼ねてからしつこく連絡してきた父親にも会ってきたらどうだ、とのことだ。まったく大人というものは理不尽である。
 祖母は人当たりがよくて落ち着くひとだったが、常に見舞いをしているわけにもいかない。かくしてライリーは、これまで手紙と贈り物を通してでしか知らなかった、ほぼ他人な男と二人きりで出かけることになった。
「おっ、交差点渡ったばっかりのあの青年。両手に提げている袋、あれタピオカドリンクが入ってるんじゃないか? 結構な数だな」
 特に興味のある話でもないが、父が「ほら、ほら」とうるさいので、仕方なくライリーは前髪をとめていたヘアピンを一本抜いて栞にした。父が指さすほうを横目に眺めやる。眼鏡をかけた細身の青年がポリ袋を持って早足に通り過ぎていくのが、ちょうど見えた。確かに相当な数のドリンクとストローだ。
「友達と飲むんでしょ」
「どうだろうな、袋にレシートが綴じてあった。デリバリーサービスじゃないか」
「ピザを頼むんじゃあるまいし、タピオカのためにわざわざそんなことするひといる?」
「いやー、時代が時代だからね。僕もむかし、新聞配達のバイトがんばったなぁ」
「何それ。全然ちがう話……」
 言いつつも、ふと脳裏に浮かぶ映像を意識した。
 アジア人の少年が、せっせと自転車をこぎ、ライリーのよく知る英国の住宅街で新聞を配っていく日常を。毎朝のように彼が住人たちに声をかけられ、犬に追われたり、子供たちと笑顔を交わす光景を。あくまでそれは想像でしかなかったが、とても身近に感じられる、温かさを伴った映像だった。
「おとうさん」
「な、なんだい」
 急に呼ばれて、父はひるんだようだった。
「その話、わたしもっと聞いてみたい」
「どの話?」
「おとうさんの若いころのお話。バスガイドの町案内よりは、面白そうだから」
 手元の本を膝の上からバッグの中へと移す。ライリーは微かに笑ってみせた。
「あ、ああ。いいよ。なんでも教えてあげる」
 父は席に座り直して、微笑みを返した。
 彼の物語を聞くことが、親を他人と感じなくなるために取る、きっと大きな一歩となろう。



ストーリーダイス https://davebirss.com/storydice-creative-story-ideas/
お題:本 新聞 ヘアピン バス ピザ

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