2.逃げたい娘、シェニーマ - a
2020 / 04 / 29 ( Wed )
(やばいやばいやばい!)
 意識が戻るなり、シェニーマは跳ね起きた。
 腹を殴られたという最後の記憶通り、下腹部に鈍い痛みが残っていた。だがそんなことより、状況確認だ。
 暗い。やや離れた場所に人の気配があるが、近くにも誰かいる。

「――……!」
 口を開けようとして、塞がれた。
「お静かに。騒がない方が体力を温存できるかと」
 耳元で若い女性の声がした。華奢な体のどこにそんな力があるのか、シェニーマを黙らせる小さな手はびくともしない。

 無言で頷くと、女性が手を放してくれた。暗くて顔こそ確認できないが、出会ったばかりの人の好い彼女で間違いない。

「ごめん、ごめんね……! あたしのせいでこんなことに」
 手を取り、小声で必死に謝った。ミスリアの手は妙に温かく、握っていると逆に安心できた。応じた声もまた、妙に落ち着いていた。
「そんなに落ち込まないでください。私は大丈夫ですよ」
「何言ってるの。大丈夫なわけないじゃない!」

 シェニーマは家の関係で、人攫いに遭ったことが人生で初めてではなかった。しかしミスリアはどうか。平穏な場所で日々を真面目に生きてそうな彼女に、理不尽な暴力や唐突な恐怖を味わわせてしまったのが、あまりに申し訳ない。
(あたしに親切にしたばっかりに……あたしが、お腹なんか空かせていたばかりに!)
 涙がにじみ出るほど悔しかった。こうなることくらい、予想するべきだったのに。
 かばってくれたのは予想外だったが。

 誠意と謝意の表れとして、シェニーマは己の身の上についてすべて明かした。自分が町長の娘であること。父が今の役職に就くより以前から商いで大成していて、そのせいで何かと敵を作っていること。
 近日父は大きな商談を予定していたから、きっとこれも商売敵の大掛かりな妨害工作のうちだろう。

「よくご存じなんですね」
 ミスリアは本気で感心しているようだった。
「最初から話してればよかったね」
 屋敷内ではシェニーマに味方する者が多く、父の動向は日ごろから子細に耳に入れているものだが、その点には触れないでおいた。

「聞いてたところで、拉致されるのを防げたとは思えませんし。お気遣いなく。この類の体験でしたら、お恥ずかしながら初めてではありません」
「強がらなくていいのよ」
 こちらが気を落とさないように気丈に振舞っているのかと思うと、ますますつらかった。暗がりの中で、ミスリアは小さく笑ったようだった。

「馬車が走っていた時間の長さと着いた時の雑音の少なさからして、市街地を離れたような気がします。それ以上は、移動の際に頭に毛布をかぶせられたのでわかりません」
「どこかの蔵か倉庫? 寒いし、カビっぽい匂いがするから、地下かな」言い終わらないうちに、シェニーマは悪寒に震えた。人里離れていて、なお大声で叫んでも誰にも届かないような場所に軟禁されている――。より一層、声を潜めて呟いた。「逃げる算段を……」

「見張りの方が複数いるようです。難しいでしょう」
「おとなしく助けを待ったって、みつけてもらえないかもしれない!」
 唇を噛みしめる。わかっていた。何もしなければ恐ろしい目に遭うかもしれないとわかっていても、何かをしては、もっと危険な目に遭いかねない。

「シェニーマさんを交渉の道具にするつもりでしたら、すぐに命の危険は無いのでは?」
「だとしても生きていればいいだけならいくらでも危害は加えられるよ」
「それも、そうですね」

 沈黙が続いた。
 静かにしていると、多少離れた場所にある人の気配に意識が向いてしまう。見張りなのだろう、数分経っても動く様子はない。
 いやな緊張感だ。己を抱くように腕を組むと、肩から震え始めた。

「無力な自分を嘆くのも仕方ありません。でもいますぐできることはなくても、できることがある瞬間を見極めて、その時に行動できれば、十分だと思いますよ」
「――――」

 急に何の話、とは答えられなかった。彼女は読心術でも心得ているのだろうか、的確にシェニーマの心情を言い当てていた。呟く声は不思議と大人びていて、心の奥底に沈み込むようだ。歳は近いはずなのに。
 ところが、次には明るい声になっていた。

「少し、楽しい話をしませんか。そうですね、シェニーマさんの想い人は、どんな方なのでしょうか」
「え」
「ぜひ聞かせてください」
「えっと、どんなって……えー……? そうね、一応は使用人なのかな。うちの屋敷の、あたしの護衛であってお目付け役みたいなものなの。もう十年以上前から知ってる」

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