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2026 / 02 / 09 ( Mon ) 「全然。似合ってる。手首の傷跡も隠せてちょうどいいんじゃね」
「まったくもって同じこと思ってたけど……サラッと言うなあ」 「気ぃ悪くしたか」 「ううん。ありがとう」 「何の礼だよ」脈絡なく、乱暴に頭を撫でられた。何をするのだと上目遣いで睨んでやる。「あんま思い詰めんな。おまえは頑張って生きてる。それだけで、いいんだよ」 「…………ありがと」 涙を見られたくなくてぐっと顔を背けた。 ここに来てからやたらと謝罪と謝礼ばかり伝えているが、何度もそういう流れになってしまうのだから、仕方がない。 (雛鳥……私は、所詮は雛鳥なの) 弾みで零れた一滴が、ワイングラスの中に音もなく落ちる。 後に適当なテレビを流しながら、乾き終わった洗濯物を仕分けて畳んだ。男性のシャツは基本構造からして女性のそれとは違ったので、効率の良い畳み方を教えてもらうところから始まった。下着はもちろん、互いに触れたり見たりしないのがマナーだ。 その作業が終わっても、外には出れないので、各々の過ごし方で時間を潰していった。リクターは自室に籠もって、たぶん仕事の為に資料を読んだり整理したりしている。 昼間からワインなんて嗜んだものだから、シェリーはソファでひと眠りしてしまった。 午後になって、当初の予定通りに残り物を再加熱して食べた。 外では、強風が、建物を叩くようなひどい音を立てている。窓を覗いても雪が四方八方に飛んでいて空も地面も見えない。 「こえぇな。この音、夜中まで続いたら寝れなそう」 二人でソファに座って午後六時のニュースを聞き流しながら、食事を済ませた。空になった食器をコーヒーテーブルに下ろすなり、リクターが嫌そうに言ったのだった。 「それは冗談のつもりで言っているの?」 なんで――ワイングラスを口につけて、男は訊き返した。黒いセーターがやはりよく似合っている。 つい、高い襟に隠れた喉仏を探してしまう。 酔いが回り始めているのか、シェリーは普段よりも遠慮のない言葉を繋げた。 「だってあなたが怖がっているなんて想像つかなくて」 「おまえはオレを何だと思ってんだよ。恐怖の感情くらいあるわ」 「うーん、ダウト」 同じように食器を下ろして、シェリーはあることを思いついた。 ソファの上をザッと横切って、間にあった距離を無くした。心臓の音を聴いてみようと、胸元に耳を寄せに行ったのである。 鼓膜に伝わる心音は、予想していたよりもずっと速い。 「……あんまくっつくと、また手ェ出すぞ」 脚から肩まで密着したのだと気付いたのはそう呟かれてからだったが、右半身が温かくなってきて、離れがたい。 「謝らないよ。でも、男の人はそういうことばっかり考えてるって、本当なんだ」 嘲笑いじみた吐息が頭の上を掠めた。 「そりゃあ、いい女が目の前をうろちょろしてたらヤりたいに決まってる」 ぼっと首から上が赤くなったのを感じた。 そんな風に見られていたなんて――いや、今更驚くような話でもないか、むしろこの高揚は驚きではなく喜び―― あのね。 ソファの端に素早く戻り、膝を抱えて、シェリーは消え入りそうな声で切り出す。 「お願いがあるの」 「なに、改まって」 リクターはグラスに残り少ない赤ワインをぐるぐる回している。 その一挙一動を、息を潜めて見ていた。薄い唇の隙間に、赤い液体が吸い込まれていくまでの一連の流れを。 グラスが空になると同時にシェリーは囁いた。 「キスして、ください」 5 終わり。 ストーリー上、6は読み飛ばしても支障ないはずです。 |
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