2. a.
2025 / 12 / 20 ( Sat ) 親の傀儡として生きてきたシェリーには理想の紳士像がなく、リクターという男からの優しさへの期待値も高く抱いていなかったので、古びたソファで一晩を過ごした事実に対しても悪感情がなかった。別の誰かだったならば家主の態度に「女性への気遣いが足りない!」のように憤慨したかもしれないが、押しかけたのは自分の方であることを自覚しているシェリーは、そんな厚かましい考えは持ち合わせていなかった。
異性と交際した経験、ゼロ。結婚相手はいずれ母が探してくる予定だった。男女間の事情に関する知識はフィクションや、人づてに聞いたエピソードの領域を出ない。 寝ぼけ眼をこすりながら、思い切ったことをしたものだ、と遅れて自省した。 ここに来て何がしたかったのだろう。昔の知り合いに会ってどうなるというものでもないのに。ただ、底なしの虚しさを紛らわせたかったという点では、成功したかもしれない。 コーヒーの香りが漂っている。そこでハッとなる。 慌てて腕時計を確認すると、もう時刻は昼過ぎだった。シェリーはソファから跳ね起きた。 ここから見て、左手にキッチンスペースがある。そして、キッチンカウンターに寄りかかってマグカップに口をつけている長身の男の姿があった。襟の高い灰色のセーターを着て、濃い茶色の髪は昨晩と同じく首の後ろで一つに結んでいる。そこからほどけた髪がひと房、緩く波を打って肩にかかっていた。 目が合うと開口一番にリクターはこう言った。 「眠れなかったか」 片手でカップを持ったまま、空いた方の手で目の下を指差している。シェリーは自分の目の下にそっと触れた。腫れている感触があった。 「寝たり覚めたりだね。お母さんが亡くなってからずっとこんな感じだから。ここがダメだとか、そういうことじゃないよ」 「眠剤は」 「処方してもらってない……だって、こわい、よ。相談できるお医者さん、いないし」 誰かに診てもらおうという発想が湧かなかったのも一因だが、改めて考えると、睡眠薬は恐ろしかった。それで誤って永眠してしまった俳優のニュースが、最近報道されたばかりだ。 まあそうだな、とリクターはなんともなさそうに話題を流した。ずず、と飲み物を啜る音がした。 「おまえ、コーヒー飲むひと?」 「飲むよ」 「いる? いるならもう一杯淹れる」 「じゃあ、いただきます」 おう、と短い返事で請け負って、男はくるりと背を向けた。豆から挽いてお湯で淹れるつもりらしい。一杯が出来上がるまでに数分かかったので、その間にシェリーは廊下のトイレへ着替えと顔を洗いに行った。 洗面台には歯ブラシが置かれていない。相変わらず、他の家族の住んでいる様子がない。 (昔、この家に入ったことあったっけ。なかったかな) だいたい少年の方から会いに来てくれたのである。うろ覚えだが、彼には父母と姉が居たはず。なのに今は一人で暮らしているとしか思えなかった。 ダイニングテーブルすら置いていない。食事はテレビの前のコーヒーテーブルとソファにて済ませているのではないかと疑うくらいだ。或いは、寝室か。 戻ると、リクターはカウンターの上に新聞を広げて読んでいた。いつの間にか長方形フレームの眼鏡をかけている。記憶の中の姿よりも日焼けしているな、となんとなく思った。 カウンターの上にマグカップを滑らせる形で、すいとコーヒーを差し出された。向かい合って立っているのが少し気まずくて、横にずれた。 「ありがとう」 「ブラックでよかったか」 「あるなら、砂糖はほしいかな」 ほれ、と今度は小さなスプーンの入った瓶を差し出された。二度すくって、カップに入れる。 新聞がめくれる音がする。 「今日予定ないなら、出かけるか」 「え?」 顔を上げたら目が合った。影がかかっているからか、リクターの双眸は今は青茶というべき色に近い。 シェリーは首を傾げた。出会った(正確には再会した)翌日の人間に共に出かける誘いをしてくるのに、驚いたのである。 次に続いた言葉を聞いて、腑に落ちた。 |
1. c.
2025 / 12 / 19 ( Fri ) すると後頭部に感じていた嫌な圧力がなくなった。足音がしたかと思えば、今度は電気がついた。 目を片手で覆って振り返る。 「おまえ、シェリーじゃねえか」 「おぼえててくれたの」 ゆっくりと手をどけて、シェリーは明かりに慣れるまで目を瞬かせた。 「オレは物覚えはいい方だ」 得意げに言ったのは、すらりと背の高い長髪の男だった。髪を首の後ろで束ねていて、長いトレンチコートが様になっていた。 今年で二十七歳のはずだ。眉と目元の力強い印象は記憶の中と変わらない。直線的でスッと通る鼻梁に、角ばった頬と顎も。 肩辺りに少し雪が積もっているのが気になった。もう深夜一時を回っているのが、棚の上の時計からも明らかなのに。 「あなたは、変わったかも」 「最後に会ったの何年前だと思ってんだ。そりゃ変わるわ」 「十年とか十二年……?」 はあ、と男は長いため息をついた。そして慣れた手つきで拳銃を大きなショルダーバッグにしまった。それでようやく、場に満ちていた緊張感が空に弾けた。 この男こそ、記憶の中の近所の少年に相違ない。髪型と声音が変わっていても、はっきりと面影があった。 苗字はリクター。ドイツ系の移民の子孫なものの、代を経て「リヒター」ではなく英語読みをしているらしい。ちなみにファーストネームは知らない。好きじゃないからと、本人が頑なに教えてくれなかった。 「で。その荷物、なに」 リクターの視線は、シェリーの足元にある大きなボストンバッグに流れた。 「えっと、ちょっと泊めてもらえないかな、って」 「なんで」 男が単刀直入に訊いた。 シェリーは、己の身の上に起きたことを掻い摘んで語った。母の死後、寂しくて気が狂いそうになっていたこと、途方に暮れたこと。子供の頃の約束を思い返していた点は、なんとなく省いた。 いつしか、リクターはコートを脱いでソファでくつろいでいた。間に開いた人ひとり分の距離が、十年とちょっとの心の距離感をも表しているようだった。 話しながらもシェリーは辺りに目をやっていた。タバコの煙が気まぐれそうに宙を舞う。 ほどほどに片付いている部屋だ。あまり頻繁に掃除していないのだろう、埃っぽさはあったが、隅に積まれた雑誌を除いて、余計なものは置かれていない印象だ。リビングと台所の空間が繋がっている設計だった。 話がひと段落すると、シェリーは横を盗み見た。 ガラス製の灰皿にタバコの先を押し当てる指は、やや骨ばっていて、長い。 「ま、いんじゃねえの。とりあえず今日のところはそこで寝てもらうか」 そこ、と言って彼はソファを差していた。ベッドルームが二つあっても片方は物置きになっているという。 「い、いいの。迷惑じゃない?」 話があっさりと進みすぎて、思わず訊き返した。そういえば彼が当時と同じコンドミニアムに住んでいる時点で驚いたが、他の家族の痕跡が無いのも気になった。 「迷惑かけないんなら迷惑じゃねえよ」 なんとも、答えになっていない答えだった。 「ほぼ他人だよ。信用されなくても仕方ないものと」 「おう。寝首かかれないように気を付ける」 男はわざとらしく欠伸をした。 「ありがとう」 「ご愁傷様。そうか、あの母親ついにいったか。よかったな、つうのもなんか違うか。腐っても肉親だしな」 「…………うん」 肉親と言った時の声は、どこか皮肉そうに聴こえた。 「気が済むまでいれば。予備の毛布、テーブルの下な。共用のトイレは廊下。風呂設備はマスターベッドルームの中にしかないから、シャワー浴びたくなったら言え」 踏み入った質問を重ねずに、リクターは席を立った。 その夜、シェリーは年季の入ってそうな冷蔵庫の音を聞きながら、浅い眠りについた。 (私はお母さんの敷いたレールの上を走るだけでよかったのに) 完全に自分の意思で行動をしたのが久しぶりに思えて、気持ちが落ち着かない。近くから人の気配がするのも、それが成人男性のものであるのも、慣れない。 冬に触れる頃の、とある金曜日のことだった。 |
1. b.
2025 / 12 / 18 ( Thu ) ――あんま洗脳されんなよ。いまはそれでもいいかもしんねえけど、大人になったらめんどくせえことになるぞ。 何度目かの目覚めの時に、頭の中に少年の声がした。ついに幻聴が聴こえるようになったのか。ゆっくりと頭を振る。 なんとか立ち上がり、コップに水道水を注いで飲み干してからも、その声はまだ意識の端に残っていた。 かつてそう言ってくれたのは誰だったか。ぶっきらぼうに、しかしどこか心配そうに。 (小さい頃よく遊んだ近所の子だ) 両親の離婚後、よりよい学区に入るためという名目でシェリーは隣町に引っ越したが、それまでは二年くらい、毎日のように顔を合わせた男の子がいた。 品格を落とすような友達付き合いはやめなさい。母からは口うるさく叱られたものだった。それでも隠れて会うのをやめられなかった。 口が悪くて時々乱暴で、なのに面倒見のいい少年だった。シェリーより二つ年上だったから、宿題を手伝ってくれたこともあった。もちろん、母には内緒で。 (あの子は窓から入ってきてたっけ。二階だったのによく怪我しなかったよね) 思い出を辿るうちに懐かしくなり、心の内側にポッと暖かさが灯った気がした。 ずっと、AからZまで母が決めてくれた。疑念を抱かなかったわけではないが、優秀で素敵な彼女を尊敬もしていたから、言うとおりにしていればいいんだと、無理やり自分を納得させてきた。 そんなシェリーでも、その少年に関してだけは、最後まで従わなかった。 母が厳選した「友人」とうわべだけの付き合いをしていたばかりの人生において、唯一、自分の意志ではっきりと「友達」と胸を張って言える人物。日々の生活に追われているとたまにしか思い出してやれないが、それでも、好きだった気持ちは残っている。 短く刈り上げられた茶髪に、少し痩せ気味の体躯。青と緑の中間のような瞳は確か吊り上がっていた。 まだ、彼はあの町にいるだろうか。 引っ越した時、シェリーは自身の新住所を伝えることが叶わなかった。それがずっと、心残りだった。 次いで少年の家族を思い出して、シェリーは顔を曇らせた。 そうだった。酒浸しで暴力的な父親とネグレクト気味の母親から逃げていたのだ、彼は。満足な食事をしていなかったから、シェリーはふたりの時間によくお菓子を分け与えていた。 そして―― 会わなくなる前に交わした約束を、あの子はおぼえているだろうか。 ――おまえ、引っ越すんか。つまんね。あーあ、クソみてえな毎日に逆戻りだな。いっそ、死んじまうか。 少年は真夏でも長袖長ズボンだった。横腹をさすりながら、苦々しい表情をしていた。 ――そんなこと言わないで。きみがいなくなったら、私、悲しいよ。すっごくすっごく悲しい。約束して。ひとりでいなくならないで、おねがい……死にたくなったら、会いにきて。 当時のシェリーは、死を決した人間を自分なら引き留められるとか、命を大事にしてほしいとか、そんな大それたことはもちろん考えていなかった。純粋に悲しかった。その子に害が及ぶのも、彼が生きるのを諦めたくなっているのも。 ――わかったよ。わかったから、泣くな。あと急に抱き着くんじゃねえ。暑いんだよ。 ――ほんと? 約束? ぜったい、会いに来る? ――約束する。だから、おまえもだ。おまえもいつか、死にたくなるようなことがあっても、ひとりで勝手に消えるんじゃねえぞ。 * カチッ。 規則的に時刻を刻んでいた時計の音が、妙に大きく、耳に届いた。それでも母とふたりで生活していたアパートにあった時計よりも、控えめな音だった。 鮮明になりつつある頭で、シェリーは状況を改めて理解した。 とにかく弁明しなくては。 「ご、ごめんなさい。外で待とうと思ってたんだけど、あんまり寒くて、つい」 「不法侵入を謝ってどうすん……あ?」 男は何かに気付いたように黙り込んだ。 |
1. a.
2025 / 12 / 17 ( Wed ) 慣れない場所で目を覚ました。 寝心地からしてここはベッドの上ではない。タバコと、男物の香水の残り香がする。どれも普段の生活の中では嗅ぐことのない匂いだった。 上体を起こしたら、手のひらに何か薄っぺらいものがついた。よほど古いソファなのだろう、ちょっとした拍子で表面が剥がれてしまったようだ。 (私、どうしたんだっけ) 薄暗い。 目前にコーヒーテーブル、その向こうには小型テレビのシルエットが見えた。電化製品が発しているであろう振動音を除いて、辺りは静かだったが――足音。 背後から人の気配が近づいている。 「動くな」 ガチャリ。 実物を見たことはなくても、映画やテレビで聞き知っている音。冷たく、無機質な感触が後頭部に触れる。 銃口だ。 「空き巣で寝落ちって、ふざけてんな」 抑え込まれたような怒気と警戒。男の掠れ気味の低い声に、全身がすくんだ。 動くなと言われているのに、震えながら言い訳した。 「違うの、私は、その……えっと、鍵が開いてて」 「あぁ? 鍵がかかってなきゃ何してもいいのかよ」 ごりっと、鉄の擦る感触が頭蓋骨に伝わった。 「ごめんなさい」 どうしてこんなことに――思考は数時間前までさかのぼる。 * 母が過労死した。 その事実に対して胸が張り裂けそうな悲しみが確かにあるのに、紛れもない安堵と解放感を覚える自分に、嫌気がさした。 (お母さん、私はどうしたら) 先々週までふたりで暮らしていたアパートの中で、シェリーはひとり身震いした。空調をつけるのがなんとなく気が引けて、ウール製ブランケットに包まりながら、何をするでもなく膝を抱えて悶々と過ごしていた。 ちっ、ちっ。壁の時計は午後九時を回っていた。すっかり夜なのだから暗くしなきゃ――義務感でリビング中の明かりを落とす。カーテンも閉めた。窓の外からのぞく世界は都会らしく、まだまだ行き交う車のヘッドライトや営業中のビルの明かりに彩られていた。 完全に暗くするとどうしようもなく寂しくなって、眠れない。だから明かりはひとつふたつ、残しておく。 もう何日もまともに寝れていない。寝室に行くには母の部屋の前を通らなければいけないので、それが嫌で、夜な夜なソファで横になっていた。値の張るソファクッションの寝心地自体は悪くないが、頭の中は黒い靄がかかったように重い。 シェリー・ハリスには、十年以上前から、母しかいなかった。大学教授だった父と法律家だった母はとうの昔に別れていて、そこからシェリーは女手一つで育てられたのである。 息苦しい人生だった。 お金ならあった。なかったのは、自由だ。行動の自由、選択の自由、そういった普通の人間が持っているはずのもろもろを、母は残らず奪ったのである。そうとわかっていながら、長年抗うことができずにいた。 だが母がいなくなったらなったで、どうやって生きればいいのかわからなくなってしまった。 (どうしよう) 仕事はしばらく休みをもらっている。司法試験に受かるまではここで経験を積むようにと母のコネクションで始めさせられた仕事なので、迷惑をかけているという申し訳なさはあっても、戻りたいという意欲はあまりなかった。 (アパートだって……) 遺品整理をせねばならないが、親族は手伝ってくれそうにない。もとから叔父や叔母とは疎遠気味で、彼らは葬式に顔を出した後はさっさとそれぞれの住む州へ帰ってしまった。 首都の中心部に高層ビルの部屋を借りられたのは弁護士だった母の収入があってこそできたことだ。法律事務所勤めとはいえ助手でしかない自分の給金と、保険金でこのまま住み続けていいものか、シェリーにはわからなかった。 精神衛生的にも出ていきたい気持ちはあった。住む地域を選んだのは母だし、内装も全部母の趣味だ。亡霊にまとわりつかれているようで気分が悪い。だからといって遺されたものを全部捨てるのは、亡くなったばかりの家族への無礼にも思えた。 いくら考えても答えは出なかった。やる気も出なかった。 質の悪い睡眠を繰り返し、目を覚ます度に時計を見やった。まだだ、まだ朝が来ない。 永遠のように続く虚脱感。なにも、何もしたくない。手足を動かすのも億劫だった。 お久しぶりです。皆様お元気でしたか。 たぶん毎日更新します。 ふんいき2000年代のアメリカ中西部のどこかの都市、携帯電話が普及する前後。 途中でR18がひょろっと入るのでその話には注意書きを入れます。(読んでも読まなくてもストーリーの流れは伝わる、はず |
4-1. e
2024 / 01 / 16 ( Tue ) * 強烈な夢を見た。内容を断片的にしか覚えていなくても、ただの夢だと自分に何度言い聞かせても、胃の奥に残る嫌な感触は消えなかった。 (遅くまでネット検索してたからかな) 布団にくるまっていても寒さがしみ込んでくる夜は、いまは遠くに行ってしまった居候のことを思い出してしまう。眠りにつけず、スマホを眺めている時間が長くなる。 軽い気持ちで、インドネシアと蛇について調べるべきではなかった。 (ちがう。ナガメが、そういう目に遭うわけじゃないんだから) 半分飲んでしまったアールグレイを片手に取り、もう片方の手でマウスを繰り、ループにして流していた「心を落ち着かせるせせらぎの音」の動画を止めた。マグカップから、すっかり冷めてしまったお茶をすする。誰もいない部屋に帰る気になれなくて、連日、唯美子は職場近くのカフェにとどまっていた。 東南アジアは蛇革の産地だという。 大小さまざまな種類の蛇が、現地民に乱獲されては、残酷な方法で皮を剥がされている――どこかの記事にはそう書かれていた。動物愛護団体も爬虫類にはそこまで関心が無いのか、または蛇革を使ったファッション用品が高く売れるからか、売買を取り締まる厳密な法は無いらしい。 ブログ記事を読み漁っただけだから真偽のほどはわからないが、唯美子の不安を募らせるには十分だった。 ナガメはいつも、肝心なことは教えてくれない。彼が助ける「同胞」とは、ほかの爬虫類なのではないか。そもそも、どういう助けを乞われたのか。 (思い過ごし……全部ぜんぶ、変なこと考えてるわたしが悪いんだ) 大蛇の姿で、知り合いの引っ越しを手伝いに行くだけなのかもしれない。戦いに行くとはひとことも言っていなかったはずだ。 『なるべくはやく帰ってくる』 幼児が単独で旅をしていたら不自然だろうとの唯美子の進言を受け、出かける日は青年の姿になって、ナガメは少しぶっきらぼうに言ったのだった。 帰ってくるという言い回しにとまどって、返事はすぐにできなかった。色々と考えたものの、最終的に「待ってるね」と答えた。自分がどんな顔をしていたのかはわからない。 最初の数日は普通に寂しかった。一週間も経てば少し前の一人暮らしに戻っただけのように感じた。それが二週目に入り、更にもう一週間も経つと、心配し始めるようになった。 何といっても連絡を取る手段が無いのである。織元に連絡してみたりもしたが、彼は何も聞いていないという。 『何故、発つ前の本人に詳細を訊ねなかったのですか?』 『それは……だって……』 『ゆっくり、言語化してみてください。私はそれなりに暇です。ユミコ嬢が己の中の答えを見つけるまでの時間くらいはあります』 ――怖いから。 何も教えてくれないと不満に思う一方で、本当は自分のせいだとわかっていた。踏み込んだ質問をして、干渉しすぎて、それでナガメに嫌な顔のひとつでもされてしまったら。 名前の無いこの関係はきっと、崩れ去ってしまう。 悶々とした気持ちのまま、アパートに戻った。 当たり前のように明かりのついていない部屋に、うっすらと隙間風が吹く。ため息を漏らしつつ壁をまさぐって、電気をつけた。 届いてからまだ一度も使われていない座布団にまず目をやるのが、もはやくせになっている―― が、今日はそこにちょこんと座している何者かの姿があって、唯美子は仰天した。 あけましておめでとうございます!! 今年はいっぱい書きます絶対! |
4-1. d
2023 / 12 / 10 ( Sun ) 「たすけを乞われた」
お互いに話し出すこともなく、帰路について、アパートの扉が閉まったタイミングで、ナガメがぽつりと言った。パーカーのポケットに両手を突っ込み、片足のかかとを使ってもう片足のスニーカーを器用に脱ぎながら。 「助けって、ほかの……『けもの』だっけ? からお願いされたってこと」 人類のことは人類がどうにかすればいいと彼が以前に言っていたのを記憶しているので、助けを求めたのは同類かと推測する。織元を通した依頼からナガメが人間のために動く場合は、しっかり報酬を受け取っているはずだった。 「そ」 彼は居間に入るや否や、スニーカーにしたのと同じ方法で靴下を脱ぎ始めた。 「ナガメは応えるつもりなの」 「ん-、たぶん」 「あんまり気乗りしない感じ?」 少年が質問に答えるまでに、不自然な間があった。その間、唯美子は荷物を置いたり上着を脱いだり、暖房をつけたりした。 「知ってるヤツが……関わり合いになりたくねーけど、ほっといたらめんどくさくなりそう、つーか」 ナガメにしては歯切れの悪い物言いだな、と思いながらも、唯美子は続きを待った。けれども数分ほど経ってもそれ以上は語られず、目があうこともなく、ナガメはちゃぶ台の下に転がり込んでしまった。知り合いに助力するのは普通のことだろうに、渋る事情でもあるのだろうか。 「今晩はレトルトでいいかな」 「んにゃ。水曜だし、もう食わなくていーや」 「あ、お昼もそんなこと言ってたね」 もとより蛇は大きさによって週に何度か、或いは二週間に一度くらいしか食事をとらない生き物だ。昼間の温泉では気を遣って(?)残さず食べてくれたが、当分は満腹なのだろう。 ならば自分の食事を軽く用意するだけで済む。作り置きしてあったおかずと漬物、インスタント味噌汁、あとはご飯だけ炊いて。丼に適当に盛り付けて、テレビをつけようとする。 にゅるりと、ナガメがちゃぶ台の下から出てきた。驚いて、思わず声を上げる。 「急にどうしたの」 「ちょっと遠いんだよな」 助けを求めてる相手の話だと、すぐに気が付いた。唯美子は味噌汁をすする合間に、「どのくらい?」と訊く。テレビは結局、付けないことにした。 「わかんね」 「え?」 「インドネシアかもしれないし、もっと近いかもしれないんだよな。でもたぶん実際は遠い」 「意味がわからないよ」 やたら曖昧な話に首を傾げる。 「場所が幻術で覆われてるってさ。だから、踏み込んで調べてみないとどうしよーもない」 ――胸騒ぎがした。 「調べるって、時間がかかるってことだよね。それこそ、どのくらい?」 「…………」 ナガメの双眸が淡く光った気がした。 「きみがやらなきゃいけない、ううん、きみがやりたいことなんだね」 「そうなるな」 子供の姿と声での大人びたトーンが、いつも以上に含みのあるように聞こえた。口元を手で隠して窓の外を見やる横顔はまるで知らない誰かのもののようで、何故だか泣きたい気持ちにさせる。 これ以上は何も言えないと思い、唯美子は静かにご飯を咀嚼した。 |
4-1. c
2023 / 11 / 01 ( Wed ) そう言って断ったのに、目線を外したのと同時に、右手に指が絡まってきた。ぬるま湯に似た体温だったので、不意打ちだと少し冷たいとすら感じる。 驚いて振り返った。ナガメが舌を出して悪戯っぽく笑っている。彼がよくやる、蛇のように舌をちろちろと動かす風にして。 「なあ。ゆみは、子供ほしいん」 語尾の捻り方が曖昧で、質問なのかすぐにはわからなかった。動揺を悟られまいと視線を逸らす。 「どうだろ。好きだとは思うけど、ほしいかどうかはわからないよ。相手もいないし」 なぜ動揺しているのか自分でもわからなくて、早口に続けた。 「お兄さんがね、家族がいるほうが人生に張り合いが出るみたいなこと言ってたな。あれ、張り合い? 潤いだったかな。わたしはコレって言える生きがいがあるわけでもないし、仕事も生活のためにしてるだけだし、平穏に生きられたらそれでいいかなって」 言っているうちに、思い当たったものがあった。 心の奥底では、厄寄せの性質から、周りに嫌われるのを恐れていたのかもしれない。祖母の術によって記憶を消されていた間も、他人と関わることに消極的だったように思う。 子孫にこの性質は遺伝するだろうか。目にはっきりと見えない、来るかどうかもわからない厄災に怯える日々を、我が子が送らなければならないと思うとやりきれない。 (でも、わたしは) 同年代の誰もが人生設計を進めているのにひとりだけ取り残された気分になる――のが、普通の感覚のはずだった。 のんびりした性格だから、とか、まだ二十代で結婚を焦るには時間があるから、というのは違う気がした。 今までにも増して家庭を持ちたいと強く願わなくなったのは、「死ぬまで一緒にいる」と言ったナニカが、手を繋いでくれているからではないか。寂しくなければ、退屈もしない。 感謝している。話が迷走したけれど、これだけは伝えたいな、と思って立ち止まる。 頭上から細かい振動の音がした。 見上げると、青いトンボが旋回している。 「鉄紺」 ナガメがトンボを呼ばわる声がどこか強張っていて、嫌な予感がした。 青いトンボは主に語り掛けているみたいだが、唯美子にはもちろん聴こえない。 「いつまでに?」 長い沈黙のあと、ナガメが静かに訊き返した。 質問の答えをいつになく真剣な表情で聞いている。やがて右手に触れている指が、びくりと動いた。 「......わかった。今夜中に決めるって返しとけ」 羽音が一瞬大きくなった。主の意図を受け取った僕は、そのまま上昇して遠ざかっていく。 何の話だったのかと訊けずに、唯美子は足元に落ちている枯れ葉をしばらく見つめ続けた。 |
4-1. b
2023 / 10 / 26 ( Thu ) 「わたしは、遠慮するかな」
かつてのナガメとラムが経験したようなスケールの大きい旅は、いくらなんでも無理だ。 そう思う一方で、羨望に似た気持ちがあった。 きっとそれは彼らにとってかけがえのない思い出で、絆だったのだろう。旅でなければ見れなかった互いの一面も、そうして知れたのかもしれない。 誰かと特別な日々を分かち合えるのは素敵なことだ。 (わたしの比較対象は修学旅行とかだよ) 住む世界が違い過ぎる、としみじみ思う。 ナガメは唯美子の返事に「ふーん」以上の感想は無いらしく、大きく欠伸をしただけだった。 遠くで列車の音がする。 冷たい風が耳を撫でた気がして、無意識にマフラーを巻きなおした。 (何百年も生きてきたっていうナガメの中のわたしって、なんなんだろう) 近くにいるのに遠く感じる。するりと唯美子の生活に入り込んできたこの子は、逆に自分にとっての何なのだろう。 少なくとも昔は友達だと思っていた。けれど今は友と定義するには、違和感がある。 また列車の音がした。先ほどよりも近くなっている。 「ちょっと散歩しない?」 このまま帰るのが名残惜しくなって、気が付けばそんな提案をしていた。 「アレ乗らなくていいんか」 「まだ本数あるし、もう少しあとのでもいいよ」 おー、と言って彼はベンチからぴょんと飛び降りた。淡いオレンジ色のパーカーの左右のポケットに手を突っ込んだまま、器用に着地してみせた。 特に行き先があるわけでもなく、ふたりで近くをぶらぶらした。建物の向こうの山を見上げたり、小石を蹴ったりするナガメの少し後ろに、唯美子がついていく形となった。 途中で子連れの家族とすれ違った。母親が、手を繋ぎたがらない女児を叱りつけているのが聞こえる。 「はなしてー! ゆーちゃんもうななさいだもん、自分であるけるよ!」 「何言ってるの、さっき車の方に走っていったくせに。七歳になったからって、不注意なとこは相変わらず」 「ふちゅーいふちゅーいって、ママいっつもおなじことゆー」 「あなたが一回で言うこと聞いてくれたら何回も言わなくて済むんでしょうが――」 ふと、叫び合っていた親子が黙り込んだ。 目が合ってから、ハッとなった。 「す、すみません」 唯美子は急いで頭を下げて、ナガメの背を押した。親子が黙ったのは唯美子とナガメが足を止めて彼らの方を振り返ったからだ。 (なんか背後からの視線が痛い気がするなぁ) こちらが周りにどう見えているか、急に意識する。温泉センターのスタッフには親戚の子を預かったみたいな作り話をしておいたけれど、ぱっと見には親子に見えるだろうか。 「おいらたちも手つないだほーがいいんか?」 「......きみは、危険な方に駆け出したりしない......から、別に必要ないんじゃないかな」 ナガメは温泉には入ってません。 たぶんお湯苦手。 |
4-1. a
2023 / 10 / 22 ( Sun ) 働きづめの日々が続くうちに、あっという間に年が明けていた。そして二月に入ると、上司の方針により何故か有給休暇を使わされた。 (駅が温泉ってやっぱり素敵だな)最近寒いし、休みの日には温泉――我ながら安直な選択だと思う。 ベンチに腰掛けて、ぼうっとプラットホームを眺める。 平日の午後なので全体的に人気《ひとけ》がない。静かに湯に浸かることができたのはもちろん、食事も堪能できたし、帰りのトロッコ列車を待つ間も心は穏やかだ。ここはたまに思い出したように来るけれど、今回もかなりいいリフレッシュになれたと言えよう。 スマートフォンを見下ろせば、ちょうど座布団をショッピングカートに入れる画面だった。座り心地や熱のこもり具合を検討してさんざん悩んだ結果、自分がもともと持っていた平均的な値段のものとよく似た品に落ち着いた。 (いま買えば明後日には届くのね、と) 数回のタップ操作を経て会計を済ませた。そのままスマホを膝の中に休ませることをせず、バッグの中へと戻す。 唯美子の膝を枕にして眠る男児を起こさないように、そっと。 所かまわず寝転がる彼のためを思っての買い物だった。見た目は七歳ほどの子どもだが、正体は数百年以上を生きてきた蛇の変異体である。未だに人間の常識をポロリと忘れてしまうこの居候は、食事を風呂場に持っていくこともあれば、洗濯物の積み上がった籠の中で意味もなく体育座りになることもある。普通にここと決めた場所でくつろいでほしいものだ。 これでも最初の頃に比べると同居の具合は良くなっており、彼なりに徐々に家事を身に着けては手伝ってくれている。 「……やめとけって。その水牛は、くさってて……おまえには、むりだ……」 ちょうどその時、少年がパッと瞼を開いた。 本来の蛇に瞼は無く、気を抜くと彼は目を開けたまま寝たりもする。人間の姿をしている間ではさすがに眼球が乾いてしまうので、何度か起こして諭したくらいだ。 「おはよう、ナガメ。面白い寝言だったね、何の夢を見てたの?」 「おぼえてねー」 「水牛が腐ってるみたいなこと言ってたよ」 少年は起き上がり、寝ぐせのついた黒髪をボサボサと手でほぐした。次第に頭が冴えてきたのか、何かを思い出したような表情をした。 「あー、あれだな。どこだったか、水牛の死体を見つけたんだった。ラムが火を通せば自分でも食えるとか言い出して、おいらが止めた。あいつじゃ腹壊すだろって」 ナガメが友を諭す当時の様子を想像してみて、唯美子はくすりと笑いを漏らした。 「二人でいろんな冒険をしたんだね」 「ゆみも冒険してみるか?」 「……え」 思いがけない質問に、すぐには答えられなかった。 冒険なんて自分には似合わない――。 少し遠出をするだけで落ち着かないし、雑踏の中を歩いているとたまに首の後ろがざわざわするし。電車の乗り継ぎが多すぎるとか、タクシーからホテルにちゃんとたどり着けるのかとか、現代人が抱く程度の悩みですら自分の身に余るのに。 すごい脳内紆余曲折あってやっと書けました。作者も設定とか過去のできごと忘れてるかもしれないので間違ってたらその時はDMでやさしく教えてください(笑) |
ほねがたり - c.
2023 / 02 / 07 ( Tue ) 風が止んだ。 登ったばかりなのにもう降りていいのかと問うと、ヲン=フドワは満足げにうなずいた。「探してた空気を見つけられたからなァ。共有してくれ、ネママイア」 「わかったわ」 「待ちたまえ、それは二度手間となろう。土の記憶と合わせて物語を組み上げよう」 「おっ、クヴォニス、オメェ頭良いな」 「だから褒めても何も……いや、ありがとう、と言っておこうか」 早速クヴォニスは地面に片手片膝をついた。この狭間の空間の土を通して、物質界の事象に触れるためだ。 地中に這う生命に連なる、土の精霊を手繰り寄せる。それは彼の手足の先のようであり、吐いたばかりの息のようでもあって、今なお神霊クヴォニスと存在を分かち合うものだ。 彼らの持つ断片をかき集め、右手に集中させる。淡い光が散ってしまわないようにクヴォニスはそっと拳を握ったまま、立ち上がった。 「こちらも準備ができたよ」 手繰り寄せたものたちをネママイアに渡す。ちょうど手のひら同士を重ねる形になった。 同じく、少女のもう片方の手を、ヲン=フドワが取った。青年の腕周りで舞っていた風が、繋がれた手に向かって収束する。 ヒヤシンスの花に似た青みの混じった紫色の髪が、ネママイアの神力を通して微かに振動しだした。それをクヴォニスが視認した途端。 大空に沈んだような錯覚に陥った。 (これを経験するのがひとの身だったなら、さぞ矛盾だらけに感じるのだろうね) 本来「上」にあるはずのものが真横にあったり、「下」にあるはずの何かが己の内側にあったり。 おそらく、気持ち悪いとすら感じるはずだ。五感がぐちゃぐちゃにされて、情報過多に精神が押し潰されかねない。そうならないようにネママイアは力を制御してやったかもしれないが、神霊であるクヴォニスとヲン=フドワにそのような配慮は必要なかった。 やがて断片が物語を構築する。 物質界に生きる人間たちはある日、森の中に――倒れた大樹を見つけた。 ロウレンティア神殿に仕える巫女数人がそれを取り囲んでいる。大樹がいつからそうなったのか誰もわからないらしく、再生できそうな状態なのか諦めて薪にすべきか、皆で論じ合っているらしい。しばらくして、再生はできそうにないということで話がついた。 ところが巫女たちが木を掘り返してみたところ、根本に骨が絡まっていた。 ひとりのものではなかった。ふたりーー或いは。 破片を細かく分け、骨を何度か並べなおしても、できあがった骨格はどれも小ぶりだった。 「赤子と猫……」 |
ほねがたり - b.
2023 / 01 / 18 ( Wed ) 実は、と彼女は手の指を組み合わせてから切り出した。 「ヲン=フドワも呼んであるの」「なるほど。土と大気の記録を辿るためだね」 大気と風を操れるヲン=フドワもまた、ロウレンティア神殿に坐す神霊の一柱である。そしてネママイアの霊力は人の精神に働きかけたり未来を垣間見るのに対し、クヴォニスのそれは土と結びつきが深い。 なんとなく話が見えてきたところで、クヴォニスは席を立った。 「庭に出よう」 彼が宣言し、ネママイアは頷く。そこに数人の供を連れて、彼らは建物の外へ出た。 * 屋外は、風が強かった。髪をゆるくひとつにくくっていたクヴォニスは頭巾を締めてしのげたが、ネママイアのまっすぐでサラサラな髪は視界を妨げるほどに乱れている。 「なんとかしてくださいな、ヲン。あなたの仕業でしょう」 ここは狭間の空間。天候とは幻、島の日々の天気と連動こそしていても、神霊たちにとっては背景のようなもので、たとえばどんな台風も実害はないに等しい。だからこの風は意図的に起こされているものだと、クヴォニスたちはすぐに思い至った。 「ちょっと待ってくれなァ」 何故か庭の樹に、青年がひとり、しがみついていた。彼はそのまま太い枝の上までよじ登って腰を落ち着けると、地上の者らに向かって明るく手を振った。たったそれだけの動作から巻き起こった微風は、ひんやりとしている。 物質界のマスカダイン島がいま、初冬にあることをクヴォニスは思い出した。 「そこでなにをしているのかね」 「己の手足で高く登るコトでしか、出せない脳汁があンだよ」 「のうじる……快楽を感じさせる分泌物のことかしら」 「おう、オメェらもやってみっか?」 クヴォニスとネママイアは顔を見合わせ、揃って頭を振った。 ザンネン、と木の上の青年は軽やかに笑って、秋風に舞う木の葉のようにふわりと地に降り立った。人の姿をしていながらまるで重量を感じさせない身のこなしはいつものことである。 みじかめ。 あけましておめでとうございます!!!(遅い |
ほねがたり - a.
2022 / 11 / 16 ( Wed ) 誰かが鍵盤を奏でて織りなす緩やかな旋律に、少女の清らかな声音が意図せぬ協和音となっていた。窓の外から時々鳥の鳴き声が混ざるのも心地いい。 長髪の男は訪問者に背を向けたまま、その言葉を聞いていた。内容にちゃんと興味はあるが、手元の作業を終えてから顔を上げるつもりでいる。相手とは仲が良くも悪くもない距離感であるため、目を合わせる必要もない。 男は、現在は神霊クヴォニスという呼び名で通っている。そして訪問者、紫色の長い髪をした一見儚げな少女は、神霊ネママイアという。 彼らは担当する現象こそ違えど、同格の存在であり、同じ神殿を預かる主だった。 「物質界にある方のロウレンティア神殿の裏の森でね、見つかったそうなの。眷属の娘たちが怯えちゃって……」 「ふうん」 折を見て相槌を打つだけの彼に、少女は特に気を悪くする様子もなく、つらつらと話を続けている。音楽的な声には、常にはない深刻そうな響きがあった。 「クヴォニスの精霊《ナトギ》で視てくれないかしら」 神霊クヴォニスは虫メガネを目から離した。手の平にのっていた尾の裂けたトカゲを、そっと卓上に下ろす。 直に会わずとも念じるだけで会話はできるのに、彼女が何故にわざわざロウレンティア神殿のこの区画――岩棚と木の上と滝の中に入り混じった、複雑な構造の建物――にまで足を運んできたのかが、気になっていた。 クヴォニスは部屋の隅で穏やかな音楽を奏していた者に向かって手を振った。神霊クヴォニスの眷属のひとりである男は合図に気づき、旋律を止める。 「……骨と言ったかね」 「ええそう、問題は骨なのだけれど」 「珍しく相談事があるから何かと思えば――我に白骨を見てほしい、とね」 「そう言っているわ」 「ネママイア、いくらあらゆる生命体を分け隔てなく愛する我でも、かつて他人様のものであった有機物は引き取りかねるよ」 「引き取ってほしいわけではないの。弔ってあげたいの」 「まるで人間のようなことを言うね」 「人間だったでしょう、わたしもあなたも」 神霊クヴォニスは、ふう、と口元で遊ばせていた指先に軽くため息を吹きかけた。己を訪ねてきた少女をまじまじと見直す。 ネママイアは見た目こそ儚げな少女のままであるが、神霊となってからなかなかの年月が経っているだけあって、物事に対して遠慮というものがなかった。元の性格はもっと大人しかったらしいが、クヴォニスが彼女と知り合った頃にはすでに、己の考えをはっきり言う、能動的な性質が濃かった。 「詳しい話を聞こう。きみが弔いなんて言葉を使うくらいだから、その骨の持ち主たる人の霊は、さ迷っているのかね」 「クヴォニス、相変わらず察しがよくて助かるわ」 「褒めても何も出ないよ」 |
置き場のない掌編
2022 / 04 / 07 ( Thu ) 4/6/2022
その男は長いあいだ記憶喪失状態にあったらしい。かつての人格が消え失せていたほどの欠落、ようやくすべてを取り戻したのがまだ先々月のことだったという。 かなり特殊な身の上のようだが、仕事さえこなしてくれるならばどうということはない。 「思い出は人生の潤いだ。何も無いと不安だったろう。記憶が戻ってよかったな」 魔物狩り師連合から割り当てられた討伐依頼で一緒に組まされ、なんとなしに雑談をしていた時、ふと私はそう言っていた。「過去の無い人間はなかなかに信用を勝ち取るのが大変だろうな」 「そりゃあそうだ。それに、確かに誰とも思い出を共有できないってのも、相当な孤独感だった」 「想像を絶する」 「人格も記憶も無い俺とあんたが、たとえば今こうして話していたなら、そういう状況だからこそ得られるものもあったのかもな――って、あいつなら言ったかもしれない」 訊けば、あいつとはかつて共に旅をした聖女を指しているらしい。それは独特な世界観を持っていたのだと彼は言う。 「けどあいつならこう思っただろうかって想像して少し楽しい気分になれるのも、俺がカタリアを思い出せたからだしな。やっぱ、記憶が戻ってよかったと思うぜ……そこに、どうしようもなく苦しい記憶があったとしても」 「……心中察する」 「気を遣わなくていいぜ」 わかった、と私が返事をした途端、集合の合図が伝達されてきた。 「行くか。エザレイと言ったな。今回はよろしく頼む」 「あんま信用しすぎない程度に任せろ」 完全に思い付きSS。久しぶりに書いたら想像よりすんなり書けた……ヨカッタ… |
5.混乱と混乱 - e
2021 / 10 / 01 ( Fri ) 「刺さった……? 手当しないとですね」
気にするな、と彼は手を振った。強がりではなく、今すぐどうにかなるほどの怪我ではないということだろう。 「いい機転だったな。動けない的は楽だ」 そういえばゲズゥの投擲の腕は決して良い方ではなかったと思い出す。 「お役に立ててうれしいです。後味は――悪いですけど」 「良かった方が少ないだろう」 それもそうか、と納得する。 「でも困りましたね。これからどうしましょう」 さすがに帰路を急ぐための体力がもう残っていない。かといって一晩中雨風に晒されるわけにもいかず、何より怪我人を長く放ってはおけない。 (二人を先に帰すというのは……) そうしてひとり残って、まだくすぶっているかもしれない追っ手と魔物から身を守りぬく算段も、ミスリアには無かった。 全身に大きく震えが走った。外套は着たままなのに、雨が内まで沁み込んできて、寒い。 口を開きかけたゲズゥがふいに何かを聞きつけたように首を巡らせた。彼に倣い、しばらくじっと耳をすませてみると、まさかと思って耳を疑った。一定のリズムを持った、それでいて聞き覚えのある――馬蹄が地面を打つ音だった。 川辺伝いに近付いてくる小型の馬車の輪郭が浮かぶ。車を引いている馬は一頭のみ、御者は片手にオイルランプを掲げ、狭い進路をなんとか進められている。 幻覚でも見ているのだろうかと今度は目を疑っている間に、馬車は激しく泥を飛ばして停車した。 「ミスリアちゃん! 無事!?」 「シェニーマさん?」 唖然とした。彼女がフードを目深に被っていたため、声を掛けられるまでは何者かわからなかったのである。 言いたいことが次々と浮かんでは消えた。保護者の制止を振り切ってまた抜け出してきたのか、それとも説き伏せたのか。一度帰ったはずの彼女がここまで戻って来れるだけの時間が経過していることにも、そもそも単身で戻って来ようと考えたことにだって、驚いている。 「うん! はやく乗って」 「は、はい」 続く言葉が見つからない。促されるままに、停まった馬車に乗り込んだ。途中、馬が不愉快そうに鼻を鳴らしたのが聴こえた。夜中に駆り出されて機嫌が悪いのかもしれない。 「狭くてごめんね」 「大丈夫ですよ」 向かい合った座席が二つ。横幅からして、それぞれに載せられるのはひとりと多少の荷物が限界のようだった。 ゲズゥは担いでいた男性を片方の席に座らせ、壁にもたれるように姿勢を調整した。その様子を戸の外から見守っていたシェニーマが眉間にぐっと皺を寄せたのが、暗がりの中でも見てとれた。 残る席に、ゲズゥが流れる動作で座り込む。 ベルトを外し、装備していた武器やらを横にどけたのを見届けると、ミスリアは迷いなく彼の膝の上に腰を下ろした。シェニーマから奇異の視線が送られたのも一瞬で、特に言及せずに彼女は御者席に戻った。 それからどれほどの時間が経ったのか。雨もいつしか止んでいた。 始終、揺れがひどかったが、疲労によるふわっとした眠気が寄せては返していた。我が身を包み込む腕に安心したのも大きい。 「ごめんね」 だからか、謝る声が夢の中から響いたように感じられて、返答するまでに数秒の遅れを要した。 「どうして謝るんですか?」 「こんな面倒ごとに巻き込んだ上に、あたしずっと足でまといだったし……肝心な時に何の役にも立てなかったわ」 落ち込んでいる相手に対して失礼と思いつつも、ミスリアはたまらず噴き出してしまった。 「な、なんで笑うの」 「すみません。シェニーマさんがご自身をどう評価しているかはともかく、私たちのために夜の獣道を馬車で飛ばしてきた貴女は、とても勇敢だと思いますよ」 最近のお嬢さんは馬車を御する技術も身に着けているのですね、とは言わないでおいた。 「勇敢……そうかな」 「そうですよ」 彼女が「えへへ」と照れ笑いをするのが聴こえたのを最後に、ミスリアの意識は深い眠りの中へと沈んでいった。 |
5.混乱と混乱 - d
2021 / 07 / 31 ( Sat ) 間髪入れずに、ビュッと何かが飛んできた。ミスリアに襲い掛からんとしていた異形は絶叫し、苦しみ悶えて身を捻った。見上げれば、どろどろとした黒い影にゲズゥが投げた短剣が刺さっている。 「おのれオノレよくもよくもよくも」奇妙に聞き覚えのある声だった。だというのに、先ほどまで差し迫っていたあの男とはまったく別の存在だ。 (同化されたの) いくら専門知識を蓄えても、少しわかった気になっても、魔物とは底の知れない超常現象なのである。喰らった人間の特性を魔物が我が身に表した例は、思い返せば過去にもあったように思う。 「クッテヤル、くってやる……くるしめ! おまえのせいか!」 融合してから主導権が定まらず、意思がせめぎ合っているようだった。なぜそう感じたかは言葉にできないが、確かにそんな印象を受けた。 呑気に分析している余裕は当然ながら、ない。這って逃げた。今はそうするだけで精一杯だった。魔物の内なる争いがいつまでも続けばいいと願いながら。 背後の気配は動かないが、消えもしない。本質が泥であるなら、沼と水ばかりのこの地形を自在に動き回ることもできるかもしれない。男の二の舞はごめんだった。満身創痍でゲズゥの元に辿り着く。 「無事か」 差し出された無骨な手をとると、安堵に泣き崩れそうになる。けれど今はそうしていられない。負傷者を抱えている彼を、なんとか支援したかった。 「リボンを」 持っていませんか。問いたいのに、息が切れてみなまで言えなかった。 言葉が少なくとも察してくれるのが伴侶というものか。ゲズゥは無言で、元はペンダントの鎖に結んであった黒いリボンをポケットから取り出した。 ピンと伸ばせば両腕の長さほどある。 今度は逆に、おどろおどろしい影に向かって駆けた。 (生き物だったら急所があったり、首を絞められたりするのに) 魔物に、一貫したわかりやすい弱点はない。とっかかりは、探すしか――ない。 「ギョオオオオ」 耳をつんざく絶叫。泥っぽい影は伸縮し、蠢き、ついには破裂しそうに見えた。 途端、伸びてきた。 人の腕の形をしていたかもしれない。ミスリアは腕とも触手ともとれぬものに太ももを掴まれ、引きずられた。喉から悲鳴が漏れた。 (落ち着いて、これは、狙いどおり) 形の曖昧なものの中に、人間らしい何かがあった。引きずられながらも、手首っぽい部分をまさぐり、リボンを巻き付ける。 魔物は目に見えて怯んだ。 それもそのはず、教団から賜ったアミュレットのような聖なる道具ほどの聖性はなくとも、このリボンには普段からミスリア自身の強い祈りが込められている。加えて、教団を象徴する銀細工のペンダントに巻き付いていたのだから、聖なる因子はそれなりに付着している。 触れた先から魔物を浄化することはできずとも、動きを御する用途にはうってつけだ。 (あとは……どこか、手頃な……!) 空いた片手で近くの植物をわしづかみにした。細い木の幹だ。触手の力が緩んだのをいいことに、その隙にリボンの先を結び付けた。濡れた指が震えずに結び目を作れたのは、神々のくださった奇跡に思えた。 ――こうすれば、追ってこれなくなるだろうか。 それとも泥のような魔物なら分離できるだろうか。答えを知るのが恐ろしい。ただ今は、放してほしかった。 願いに沿うように、何かが飛んできた。またしても魔物は苦しみ悶えて身を捩り――まるでその場に縫い付けられて踊り狂っているよう――ふいにぱかりと切り裂かれた。 得体のしれない塊がぼとぼとと地に落ちて、雨に穿たれて形を崩していく。 「貴方が持ち歩く短剣は、一本だけかと思っていました」 「ああ。そいつのナイフを返した。さっき捌ききれずに刺さった」 大剣にこびりついた泥らしき物体を革手袋の甲部分で擦り落としながら、ゲズゥは何気なく答えた。 |


