4-1. e
2024 / 01 / 16 ( Tue ) * 強烈な夢を見た。内容を断片的にしか覚えていなくても、ただの夢だと自分に何度言い聞かせても、胃の奥に残る嫌な感触は消えなかった。 (遅くまでネット検索してたからかな) 布団にくるまっていても寒さがしみ込んでくる夜は、いまは遠くに行ってしまった居候のことを思い出してしまう。眠りにつけず、スマホを眺めている時間が長くなる。 軽い気持ちで、インドネシアと蛇について調べるべきではなかった。 (ちがう。ナガメが、そういう目に遭うわけじゃないんだから) 半分飲んでしまったアールグレイを片手に取り、もう片方の手でマウスを繰り、ループにして流していた「心を落ち着かせるせせらぎの音」の動画を止めた。マグカップから、すっかり冷めてしまったお茶をすする。誰もいない部屋に帰る気になれなくて、連日、唯美子は職場近くのカフェにとどまっていた。 東南アジアは蛇革の産地だという。 大小さまざまな種類の蛇が、現地民に乱獲されては、残酷な方法で皮を剥がされている――どこかの記事にはそう書かれていた。動物愛護団体も爬虫類にはそこまで関心が無いのか、または蛇革を使ったファッション用品が高く売れるからか、売買を取り締まる厳密な法は無いらしい。 ブログ記事を読み漁っただけだから真偽のほどはわからないが、唯美子の不安を募らせるには十分だった。 ナガメはいつも、肝心なことは教えてくれない。彼が助ける「同胞」とは、ほかの爬虫類なのではないか。そもそも、どういう助けを乞われたのか。 (思い過ごし……全部ぜんぶ、変なこと考えてるわたしが悪いんだ) 大蛇の姿で、知り合いの引っ越しを手伝いに行くだけなのかもしれない。戦いに行くとはひとことも言っていなかったはずだ。 『なるべくはやく帰ってくる』 幼児が単独で旅をしていたら不自然だろうとの唯美子の進言を受け、出かける日は青年の姿になって、ナガメは少しぶっきらぼうに言ったのだった。 帰ってくるという言い回しにとまどって、返事はすぐにできなかった。色々と考えたものの、最終的に「待ってるね」と答えた。自分がどんな顔をしていたのかはわからない。 最初の数日は普通に寂しかった。一週間も経てば少し前の一人暮らしに戻っただけのように感じた。それが二週目に入り、更にもう一週間も経つと、心配し始めるようになった。 何といっても連絡を取る手段が無いのである。織元に連絡してみたりもしたが、彼は何も聞いていないという。 『何故、発つ前の本人に詳細を訊ねなかったのですか?』 『それは……だって……』 『ゆっくり、言語化してみてください。私はそれなりに暇です。ユミコ嬢が己の中の答えを見つけるまでの時間くらいはあります』 ――怖いから。 何も教えてくれないと不満に思う一方で、本当は自分のせいだとわかっていた。踏み込んだ質問をして、干渉しすぎて、それでナガメに嫌な顔のひとつでもされてしまったら。 名前の無いこの関係はきっと、崩れ去ってしまう。 悶々とした気持ちのまま、アパートに戻った。 当たり前のように明かりのついていない部屋に、うっすらと隙間風が吹く。ため息を漏らしつつ壁をまさぐって、電気をつけた。 届いてからまだ一度も使われていない座布団にまず目をやるのが、もはやくせになっている―― が、今日はそこにちょこんと座している何者かの姿があって、唯美子は仰天した。 あけましておめでとうございます!! 今年はいっぱい書きます絶対! |
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2023 / 12 / 10 ( Sun ) 「たすけを乞われた」
お互いに話し出すこともなく、帰路について、アパートの扉が閉まったタイミングで、ナガメがぽつりと言った。パーカーのポケットに両手を突っ込み、片足のかかとを使ってもう片足のスニーカーを器用に脱ぎながら。 「助けって、ほかの……『けもの』だっけ? からお願いされたってこと」 人類のことは人類がどうにかすればいいと彼が以前に言っていたのを記憶しているので、助けを求めたのは同類かと推測する。織元を通した依頼からナガメが人間のために動く場合は、しっかり報酬を受け取っているはずだった。 「そ」 彼は居間に入るや否や、スニーカーにしたのと同じ方法で靴下を脱ぎ始めた。 「ナガメは応えるつもりなの」 「ん-、たぶん」 「あんまり気乗りしない感じ?」 少年が質問に答えるまでに、不自然な間があった。その間、唯美子は荷物を置いたり上着を脱いだり、暖房をつけたりした。 「知ってるヤツが……関わり合いになりたくねーけど、ほっといたらめんどくさくなりそう、つーか」 ナガメにしては歯切れの悪い物言いだな、と思いながらも、唯美子は続きを待った。けれども数分ほど経ってもそれ以上は語られず、目があうこともなく、ナガメはちゃぶ台の下に転がり込んでしまった。知り合いに助力するのは普通のことだろうに、渋る事情でもあるのだろうか。 「今晩はレトルトでいいかな」 「んにゃ。水曜だし、もう食わなくていーや」 「あ、お昼もそんなこと言ってたね」 もとより蛇は大きさによって週に何度か、或いは二週間に一度くらいしか食事をとらない生き物だ。昼間の温泉では気を遣って(?)残さず食べてくれたが、当分は満腹なのだろう。 ならば自分の食事を軽く用意するだけで済む。作り置きしてあったおかずと漬物、インスタント味噌汁、あとはご飯だけ炊いて。丼に適当に盛り付けて、テレビをつけようとする。 にゅるりと、ナガメがちゃぶ台の下から出てきた。驚いて、思わず声を上げる。 「急にどうしたの」 「ちょっと遠いんだよな」 助けを求めてる相手の話だと、すぐに気が付いた。唯美子は味噌汁をすする合間に、「どのくらい?」と訊く。テレビは結局、付けないことにした。 「わかんね」 「え?」 「インドネシアかもしれないし、もっと近いかもしれないんだよな。でもたぶん実際は遠い」 「意味がわからないよ」 やたら曖昧な話に首を傾げる。 「場所が幻術で覆われてるってさ。だから、踏み込んで調べてみないとどうしよーもない」 ――胸騒ぎがした。 「調べるって、時間がかかるってことだよね。それこそ、どのくらい?」 「…………」 ナガメの双眸が淡く光った気がした。 「きみがやらなきゃいけない、ううん、きみがやりたいことなんだね」 「そうなるな」 子供の姿と声での大人びたトーンが、いつも以上に含みのあるように聞こえた。口元を手で隠して窓の外を見やる横顔はまるで知らない誰かのもののようで、何故だか泣きたい気持ちにさせる。 これ以上は何も言えないと思い、唯美子は静かにご飯を咀嚼した。 |
4-1. c
2023 / 11 / 01 ( Wed ) そう言って断ったのに、目線を外したのと同時に、右手に指が絡まってきた。ぬるま湯に似た体温だったので、不意打ちだと少し冷たいとすら感じる。 驚いて振り返った。ナガメが舌を出して悪戯っぽく笑っている。彼がよくやる、蛇のように舌をちろちろと動かす風にして。 「なあ。ゆみは、子供ほしいん」 語尾の捻り方が曖昧で、質問なのかすぐにはわからなかった。動揺を悟られまいと視線を逸らす。 「どうだろ。好きだとは思うけど、ほしいかどうかはわからないよ。相手もいないし」 なぜ動揺しているのか自分でもわからなくて、早口に続けた。 「お兄さんがね、家族がいるほうが人生に張り合いが出るみたいなこと言ってたな。あれ、張り合い? 潤いだったかな。わたしはコレって言える生きがいがあるわけでもないし、仕事も生活のためにしてるだけだし、平穏に生きられたらそれでいいかなって」 言っているうちに、思い当たったものがあった。 心の奥底では、厄寄せの性質から、周りに嫌われるのを恐れていたのかもしれない。祖母の術によって記憶を消されていた間も、他人と関わることに消極的だったように思う。 子孫にこの性質は遺伝するだろうか。目にはっきりと見えない、来るかどうかもわからない厄災に怯える日々を、我が子が送らなければならないと思うとやりきれない。 (でも、わたしは) 同年代の誰もが人生設計を進めているのにひとりだけ取り残された気分になる――のが、普通の感覚のはずだった。 のんびりした性格だから、とか、まだ二十代で結婚を焦るには時間があるから、というのは違う気がした。 今までにも増して家庭を持ちたいと強く願わなくなったのは、「死ぬまで一緒にいる」と言ったナニカが、手を繋いでくれているからではないか。寂しくなければ、退屈もしない。 感謝している。話が迷走したけれど、これだけは伝えたいな、と思って立ち止まる。 頭上から細かい振動の音がした。 見上げると、青いトンボが旋回している。 「鉄紺」 ナガメがトンボを呼ばわる声がどこか強張っていて、嫌な予感がした。 青いトンボは主に語り掛けているみたいだが、唯美子にはもちろん聴こえない。 「いつまでに?」 長い沈黙のあと、ナガメが静かに訊き返した。 質問の答えをいつになく真剣な表情で聞いている。やがて右手に触れている指が、びくりと動いた。 「......わかった。今夜中に決めるって返しとけ」 羽音が一瞬大きくなった。主の意図を受け取った僕は、そのまま上昇して遠ざかっていく。 何の話だったのかと訊けずに、唯美子は足元に落ちている枯れ葉をしばらく見つめ続けた。 |
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2023 / 10 / 26 ( Thu ) 「わたしは、遠慮するかな」
かつてのナガメとラムが経験したようなスケールの大きい旅は、いくらなんでも無理だ。 そう思う一方で、羨望に似た気持ちがあった。 きっとそれは彼らにとってかけがえのない思い出で、絆だったのだろう。旅でなければ見れなかった互いの一面も、そうして知れたのかもしれない。 誰かと特別な日々を分かち合えるのは素敵なことだ。 (わたしの比較対象は修学旅行とかだよ) 住む世界が違い過ぎる、としみじみ思う。 ナガメは唯美子の返事に「ふーん」以上の感想は無いらしく、大きく欠伸をしただけだった。 遠くで列車の音がする。 冷たい風が耳を撫でた気がして、無意識にマフラーを巻きなおした。 (何百年も生きてきたっていうナガメの中のわたしって、なんなんだろう) 近くにいるのに遠く感じる。するりと唯美子の生活に入り込んできたこの子は、逆に自分にとっての何なのだろう。 少なくとも昔は友達だと思っていた。けれど今は友と定義するには、違和感がある。 また列車の音がした。先ほどよりも近くなっている。 「ちょっと散歩しない?」 このまま帰るのが名残惜しくなって、気が付けばそんな提案をしていた。 「アレ乗らなくていいんか」 「まだ本数あるし、もう少しあとのでもいいよ」 おー、と言って彼はベンチからぴょんと飛び降りた。淡いオレンジ色のパーカーの左右のポケットに手を突っ込んだまま、器用に着地してみせた。 特に行き先があるわけでもなく、ふたりで近くをぶらぶらした。建物の向こうの山を見上げたり、小石を蹴ったりするナガメの少し後ろに、唯美子がついていく形となった。 途中で子連れの家族とすれ違った。母親が、手を繋ぎたがらない女児を叱りつけているのが聞こえる。 「はなしてー! ゆーちゃんもうななさいだもん、自分であるけるよ!」 「何言ってるの、さっき車の方に走っていったくせに。七歳になったからって、不注意なとこは相変わらず」 「ふちゅーいふちゅーいって、ママいっつもおなじことゆー」 「あなたが一回で言うこと聞いてくれたら何回も言わなくて済むんでしょうが――」 ふと、叫び合っていた親子が黙り込んだ。 目が合ってから、ハッとなった。 「す、すみません」 唯美子は急いで頭を下げて、ナガメの背を押した。親子が黙ったのは唯美子とナガメが足を止めて彼らの方を振り返ったからだ。 (なんか背後からの視線が痛い気がするなぁ) こちらが周りにどう見えているか、急に意識する。温泉センターのスタッフには親戚の子を預かったみたいな作り話をしておいたけれど、ぱっと見には親子に見えるだろうか。 「おいらたちも手つないだほーがいいんか?」 「......きみは、危険な方に駆け出したりしない......から、別に必要ないんじゃないかな」 ナガメは温泉には入ってません。 たぶんお湯苦手。 |
4-1. a
2023 / 10 / 22 ( Sun ) 働きづめの日々が続くうちに、あっという間に年が明けていた。そして二月に入ると、上司の方針により何故か有給休暇を使わされた。 (駅が温泉ってやっぱり素敵だな)最近寒いし、休みの日には温泉――我ながら安直な選択だと思う。 ベンチに腰掛けて、ぼうっとプラットホームを眺める。 平日の午後なので全体的に人気《ひとけ》がない。静かに湯に浸かることができたのはもちろん、食事も堪能できたし、帰りのトロッコ列車を待つ間も心は穏やかだ。ここはたまに思い出したように来るけれど、今回もかなりいいリフレッシュになれたと言えよう。 スマートフォンを見下ろせば、ちょうど座布団をショッピングカートに入れる画面だった。座り心地や熱のこもり具合を検討してさんざん悩んだ結果、自分がもともと持っていた平均的な値段のものとよく似た品に落ち着いた。 (いま買えば明後日には届くのね、と) 数回のタップ操作を経て会計を済ませた。そのままスマホを膝の中に休ませることをせず、バッグの中へと戻す。 唯美子の膝を枕にして眠る男児を起こさないように、そっと。 所かまわず寝転がる彼のためを思っての買い物だった。見た目は七歳ほどの子どもだが、正体は数百年以上を生きてきた蛇の変異体である。未だに人間の常識をポロリと忘れてしまうこの居候は、食事を風呂場に持っていくこともあれば、洗濯物の積み上がった籠の中で意味もなく体育座りになることもある。普通にここと決めた場所でくつろいでほしいものだ。 これでも最初の頃に比べると同居の具合は良くなっており、彼なりに徐々に家事を身に着けては手伝ってくれている。 「……やめとけって。その水牛は、くさってて……おまえには、むりだ……」 ちょうどその時、少年がパッと瞼を開いた。 本来の蛇に瞼は無く、気を抜くと彼は目を開けたまま寝たりもする。人間の姿をしている間ではさすがに眼球が乾いてしまうので、何度か起こして諭したくらいだ。 「おはよう、ナガメ。面白い寝言だったね、何の夢を見てたの?」 「おぼえてねー」 「水牛が腐ってるみたいなこと言ってたよ」 少年は起き上がり、寝ぐせのついた黒髪をボサボサと手でほぐした。次第に頭が冴えてきたのか、何かを思い出したような表情をした。 「あー、あれだな。どこだったか、水牛の死体を見つけたんだった。ラムが火を通せば自分でも食えるとか言い出して、おいらが止めた。あいつじゃ腹壊すだろって」 ナガメが友を諭す当時の様子を想像してみて、唯美子はくすりと笑いを漏らした。 「二人でいろんな冒険をしたんだね」 「ゆみも冒険してみるか?」 「……え」 思いがけない質問に、すぐには答えられなかった。 冒険なんて自分には似合わない――。 少し遠出をするだけで落ち着かないし、雑踏の中を歩いているとたまに首の後ろがざわざわするし。電車の乗り継ぎが多すぎるとか、タクシーからホテルにちゃんとたどり着けるのかとか、現代人が抱く程度の悩みですら自分の身に余るのに。 すごい脳内紆余曲折あってやっと書けました。作者も設定とか過去のできごと忘れてるかもしれないので間違ってたらその時はDMでやさしく教えてください(笑) |
ほねがたり - c.
2023 / 02 / 07 ( Tue ) 風が止んだ。 登ったばかりなのにもう降りていいのかと問うと、ヲン=フドワは満足げにうなずいた。「探してた空気を見つけられたからなァ。共有してくれ、ネママイア」 「わかったわ」 「待ちたまえ、それは二度手間となろう。土の記憶と合わせて物語を組み上げよう」 「おっ、クヴォニス、オメェ頭良いな」 「だから褒めても何も……いや、ありがとう、と言っておこうか」 早速クヴォニスは地面に片手片膝をついた。この狭間の空間の土を通して、物質界の事象に触れるためだ。 地中に這う生命に連なる、土の精霊を手繰り寄せる。それは彼の手足の先のようであり、吐いたばかりの息のようでもあって、今なお神霊クヴォニスと存在を分かち合うものだ。 彼らの持つ断片をかき集め、右手に集中させる。淡い光が散ってしまわないようにクヴォニスはそっと拳を握ったまま、立ち上がった。 「こちらも準備ができたよ」 手繰り寄せたものたちをネママイアに渡す。ちょうど手のひら同士を重ねる形になった。 同じく、少女のもう片方の手を、ヲン=フドワが取った。青年の腕周りで舞っていた風が、繋がれた手に向かって収束する。 ヒヤシンスの花に似た青みの混じった紫色の髪が、ネママイアの神力を通して微かに振動しだした。それをクヴォニスが視認した途端。 大空に沈んだような錯覚に陥った。 (これを経験するのがひとの身だったなら、さぞ矛盾だらけに感じるのだろうね) 本来「上」にあるはずのものが真横にあったり、「下」にあるはずの何かが己の内側にあったり。 おそらく、気持ち悪いとすら感じるはずだ。五感がぐちゃぐちゃにされて、情報過多に精神が押し潰されかねない。そうならないようにネママイアは力を制御してやったかもしれないが、神霊であるクヴォニスとヲン=フドワにそのような配慮は必要なかった。 やがて断片が物語を構築する。 物質界に生きる人間たちはある日、森の中に――倒れた大樹を見つけた。 ロウレンティア神殿に仕える巫女数人がそれを取り囲んでいる。大樹がいつからそうなったのか誰もわからないらしく、再生できそうな状態なのか諦めて薪にすべきか、皆で論じ合っているらしい。しばらくして、再生はできそうにないということで話がついた。 ところが巫女たちが木を掘り返してみたところ、根本に骨が絡まっていた。 ひとりのものではなかった。ふたりーー或いは。 破片を細かく分け、骨を何度か並べなおしても、できあがった骨格はどれも小ぶりだった。 「赤子と猫……」 |
ほねがたり - b.
2023 / 01 / 18 ( Wed ) 実は、と彼女は手の指を組み合わせてから切り出した。 「ヲン=フドワも呼んであるの」「なるほど。土と大気の記録を辿るためだね」 大気と風を操れるヲン=フドワもまた、ロウレンティア神殿に坐す神霊の一柱である。そしてネママイアの霊力は人の精神に働きかけたり未来を垣間見るのに対し、クヴォニスのそれは土と結びつきが深い。 なんとなく話が見えてきたところで、クヴォニスは席を立った。 「庭に出よう」 彼が宣言し、ネママイアは頷く。そこに数人の供を連れて、彼らは建物の外へ出た。 * 屋外は、風が強かった。髪をゆるくひとつにくくっていたクヴォニスは頭巾を締めてしのげたが、ネママイアのまっすぐでサラサラな髪は視界を妨げるほどに乱れている。 「なんとかしてくださいな、ヲン。あなたの仕業でしょう」 ここは狭間の空間。天候とは幻、島の日々の天気と連動こそしていても、神霊たちにとっては背景のようなもので、たとえばどんな台風も実害はないに等しい。だからこの風は意図的に起こされているものだと、クヴォニスたちはすぐに思い至った。 「ちょっと待ってくれなァ」 何故か庭の樹に、青年がひとり、しがみついていた。彼はそのまま太い枝の上までよじ登って腰を落ち着けると、地上の者らに向かって明るく手を振った。たったそれだけの動作から巻き起こった微風は、ひんやりとしている。 物質界のマスカダイン島がいま、初冬にあることをクヴォニスは思い出した。 「そこでなにをしているのかね」 「己の手足で高く登るコトでしか、出せない脳汁があンだよ」 「のうじる……快楽を感じさせる分泌物のことかしら」 「おう、オメェらもやってみっか?」 クヴォニスとネママイアは顔を見合わせ、揃って頭を振った。 ザンネン、と木の上の青年は軽やかに笑って、秋風に舞う木の葉のようにふわりと地に降り立った。人の姿をしていながらまるで重量を感じさせない身のこなしはいつものことである。 みじかめ。 あけましておめでとうございます!!!(遅い |
ほねがたり - a.
2022 / 11 / 16 ( Wed ) 誰かが鍵盤を奏でて織りなす緩やかな旋律に、少女の清らかな声音が意図せぬ協和音となっていた。窓の外から時々鳥の鳴き声が混ざるのも心地いい。 長髪の男は訪問者に背を向けたまま、その言葉を聞いていた。内容にちゃんと興味はあるが、手元の作業を終えてから顔を上げるつもりでいる。相手とは仲が良くも悪くもない距離感であるため、目を合わせる必要もない。 男は、現在は神霊クヴォニスという呼び名で通っている。そして訪問者、紫色の長い髪をした一見儚げな少女は、神霊ネママイアという。 彼らは担当する現象こそ違えど、同格の存在であり、同じ神殿を預かる主だった。 「物質界にある方のロウレンティア神殿の裏の森でね、見つかったそうなの。眷属の娘たちが怯えちゃって……」 「ふうん」 折を見て相槌を打つだけの彼に、少女は特に気を悪くする様子もなく、つらつらと話を続けている。音楽的な声には、常にはない深刻そうな響きがあった。 「クヴォニスの精霊《ナトギ》で視てくれないかしら」 神霊クヴォニスは虫メガネを目から離した。手の平にのっていた尾の裂けたトカゲを、そっと卓上に下ろす。 直に会わずとも念じるだけで会話はできるのに、彼女が何故にわざわざロウレンティア神殿のこの区画――岩棚と木の上と滝の中に入り混じった、複雑な構造の建物――にまで足を運んできたのかが、気になっていた。 クヴォニスは部屋の隅で穏やかな音楽を奏していた者に向かって手を振った。神霊クヴォニスの眷属のひとりである男は合図に気づき、旋律を止める。 「……骨と言ったかね」 「ええそう、問題は骨なのだけれど」 「珍しく相談事があるから何かと思えば――我に白骨を見てほしい、とね」 「そう言っているわ」 「ネママイア、いくらあらゆる生命体を分け隔てなく愛する我でも、かつて他人様のものであった有機物は引き取りかねるよ」 「引き取ってほしいわけではないの。弔ってあげたいの」 「まるで人間のようなことを言うね」 「人間だったでしょう、わたしもあなたも」 神霊クヴォニスは、ふう、と口元で遊ばせていた指先に軽くため息を吹きかけた。己を訪ねてきた少女をまじまじと見直す。 ネママイアは見た目こそ儚げな少女のままであるが、神霊となってからなかなかの年月が経っているだけあって、物事に対して遠慮というものがなかった。元の性格はもっと大人しかったらしいが、クヴォニスが彼女と知り合った頃にはすでに、己の考えをはっきり言う、能動的な性質が濃かった。 「詳しい話を聞こう。きみが弔いなんて言葉を使うくらいだから、その骨の持ち主たる人の霊は、さ迷っているのかね」 「クヴォニス、相変わらず察しがよくて助かるわ」 「褒めても何も出ないよ」 |
置き場のない掌編
2022 / 04 / 07 ( Thu ) 4/6/2022
その男は長いあいだ記憶喪失状態にあったらしい。かつての人格が消え失せていたほどの欠落、ようやくすべてを取り戻したのがまだ先々月のことだったという。 かなり特殊な身の上のようだが、仕事さえこなしてくれるならばどうということはない。 「思い出は人生の潤いだ。何も無いと不安だったろう。記憶が戻ってよかったな」 魔物狩り師連合から割り当てられた討伐依頼で一緒に組まされ、なんとなしに雑談をしていた時、ふと私はそう言っていた。「過去の無い人間はなかなかに信用を勝ち取るのが大変だろうな」 「そりゃあそうだ。それに、確かに誰とも思い出を共有できないってのも、相当な孤独感だった」 「想像を絶する」 「人格も記憶も無い俺とあんたが、たとえば今こうして話していたなら、そういう状況だからこそ得られるものもあったのかもな――って、あいつなら言ったかもしれない」 訊けば、あいつとはかつて共に旅をした聖女を指しているらしい。それは独特な世界観を持っていたのだと彼は言う。 「けどあいつならこう思っただろうかって想像して少し楽しい気分になれるのも、俺がカタリアを思い出せたからだしな。やっぱ、記憶が戻ってよかったと思うぜ……そこに、どうしようもなく苦しい記憶があったとしても」 「……心中察する」 「気を遣わなくていいぜ」 わかった、と私が返事をした途端、集合の合図が伝達されてきた。 「行くか。エザレイと言ったな。今回はよろしく頼む」 「あんま信用しすぎない程度に任せろ」 完全に思い付きSS。久しぶりに書いたら想像よりすんなり書けた……ヨカッタ… |
5.混乱と混乱 - e
2021 / 10 / 01 ( Fri ) 「刺さった……? 手当しないとですね」
気にするな、と彼は手を振った。強がりではなく、今すぐどうにかなるほどの怪我ではないということだろう。 「いい機転だったな。動けない的は楽だ」 そういえばゲズゥの投擲の腕は決して良い方ではなかったと思い出す。 「お役に立ててうれしいです。後味は――悪いですけど」 「良かった方が少ないだろう」 それもそうか、と納得する。 「でも困りましたね。これからどうしましょう」 さすがに帰路を急ぐための体力がもう残っていない。かといって一晩中雨風に晒されるわけにもいかず、何より怪我人を長く放ってはおけない。 (二人を先に帰すというのは……) そうしてひとり残って、まだくすぶっているかもしれない追っ手と魔物から身を守りぬく算段も、ミスリアには無かった。 全身に大きく震えが走った。外套は着たままなのに、雨が内まで沁み込んできて、寒い。 口を開きかけたゲズゥがふいに何かを聞きつけたように首を巡らせた。彼に倣い、しばらくじっと耳をすませてみると、まさかと思って耳を疑った。一定のリズムを持った、それでいて聞き覚えのある――馬蹄が地面を打つ音だった。 川辺伝いに近付いてくる小型の馬車の輪郭が浮かぶ。車を引いている馬は一頭のみ、御者は片手にオイルランプを掲げ、狭い進路をなんとか進められている。 幻覚でも見ているのだろうかと今度は目を疑っている間に、馬車は激しく泥を飛ばして停車した。 「ミスリアちゃん! 無事!?」 「シェニーマさん?」 唖然とした。彼女がフードを目深に被っていたため、声を掛けられるまでは何者かわからなかったのである。 言いたいことが次々と浮かんでは消えた。保護者の制止を振り切ってまた抜け出してきたのか、それとも説き伏せたのか。一度帰ったはずの彼女がここまで戻って来れるだけの時間が経過していることにも、そもそも単身で戻って来ようと考えたことにだって、驚いている。 「うん! はやく乗って」 「は、はい」 続く言葉が見つからない。促されるままに、停まった馬車に乗り込んだ。途中、馬が不愉快そうに鼻を鳴らしたのが聴こえた。夜中に駆り出されて機嫌が悪いのかもしれない。 「狭くてごめんね」 「大丈夫ですよ」 向かい合った座席が二つ。横幅からして、それぞれに載せられるのはひとりと多少の荷物が限界のようだった。 ゲズゥは担いでいた男性を片方の席に座らせ、壁にもたれるように姿勢を調整した。その様子を戸の外から見守っていたシェニーマが眉間にぐっと皺を寄せたのが、暗がりの中でも見てとれた。 残る席に、ゲズゥが流れる動作で座り込む。 ベルトを外し、装備していた武器やらを横にどけたのを見届けると、ミスリアは迷いなく彼の膝の上に腰を下ろした。シェニーマから奇異の視線が送られたのも一瞬で、特に言及せずに彼女は御者席に戻った。 それからどれほどの時間が経ったのか。雨もいつしか止んでいた。 始終、揺れがひどかったが、疲労によるふわっとした眠気が寄せては返していた。我が身を包み込む腕に安心したのも大きい。 「ごめんね」 だからか、謝る声が夢の中から響いたように感じられて、返答するまでに数秒の遅れを要した。 「どうして謝るんですか?」 「こんな面倒ごとに巻き込んだ上に、あたしずっと足でまといだったし……肝心な時に何の役にも立てなかったわ」 落ち込んでいる相手に対して失礼と思いつつも、ミスリアはたまらず噴き出してしまった。 「な、なんで笑うの」 「すみません。シェニーマさんがご自身をどう評価しているかはともかく、私たちのために夜の獣道を馬車で飛ばしてきた貴女は、とても勇敢だと思いますよ」 最近のお嬢さんは馬車を御する技術も身に着けているのですね、とは言わないでおいた。 「勇敢……そうかな」 「そうですよ」 彼女が「えへへ」と照れ笑いをするのが聴こえたのを最後に、ミスリアの意識は深い眠りの中へと沈んでいった。 |
5.混乱と混乱 - d
2021 / 07 / 31 ( Sat ) 間髪入れずに、ビュッと何かが飛んできた。ミスリアに襲い掛からんとしていた異形は絶叫し、苦しみ悶えて身を捻った。見上げれば、どろどろとした黒い影にゲズゥが投げた短剣が刺さっている。 「おのれオノレよくもよくもよくも」奇妙に聞き覚えのある声だった。だというのに、先ほどまで差し迫っていたあの男とはまったく別の存在だ。 (同化されたの) いくら専門知識を蓄えても、少しわかった気になっても、魔物とは底の知れない超常現象なのである。喰らった人間の特性を魔物が我が身に表した例は、思い返せば過去にもあったように思う。 「クッテヤル、くってやる……くるしめ! おまえのせいか!」 融合してから主導権が定まらず、意思がせめぎ合っているようだった。なぜそう感じたかは言葉にできないが、確かにそんな印象を受けた。 呑気に分析している余裕は当然ながら、ない。這って逃げた。今はそうするだけで精一杯だった。魔物の内なる争いがいつまでも続けばいいと願いながら。 背後の気配は動かないが、消えもしない。本質が泥であるなら、沼と水ばかりのこの地形を自在に動き回ることもできるかもしれない。男の二の舞はごめんだった。満身創痍でゲズゥの元に辿り着く。 「無事か」 差し出された無骨な手をとると、安堵に泣き崩れそうになる。けれど今はそうしていられない。負傷者を抱えている彼を、なんとか支援したかった。 「リボンを」 持っていませんか。問いたいのに、息が切れてみなまで言えなかった。 言葉が少なくとも察してくれるのが伴侶というものか。ゲズゥは無言で、元はペンダントの鎖に結んであった黒いリボンをポケットから取り出した。 ピンと伸ばせば両腕の長さほどある。 今度は逆に、おどろおどろしい影に向かって駆けた。 (生き物だったら急所があったり、首を絞められたりするのに) 魔物に、一貫したわかりやすい弱点はない。とっかかりは、探すしか――ない。 「ギョオオオオ」 耳をつんざく絶叫。泥っぽい影は伸縮し、蠢き、ついには破裂しそうに見えた。 途端、伸びてきた。 人の腕の形をしていたかもしれない。ミスリアは腕とも触手ともとれぬものに太ももを掴まれ、引きずられた。喉から悲鳴が漏れた。 (落ち着いて、これは、狙いどおり) 形の曖昧なものの中に、人間らしい何かがあった。引きずられながらも、手首っぽい部分をまさぐり、リボンを巻き付ける。 魔物は目に見えて怯んだ。 それもそのはず、教団から賜ったアミュレットのような聖なる道具ほどの聖性はなくとも、このリボンには普段からミスリア自身の強い祈りが込められている。加えて、教団を象徴する銀細工のペンダントに巻き付いていたのだから、聖なる因子はそれなりに付着している。 触れた先から魔物を浄化することはできずとも、動きを御する用途にはうってつけだ。 (あとは……どこか、手頃な……!) 空いた片手で近くの植物をわしづかみにした。細い木の幹だ。触手の力が緩んだのをいいことに、その隙にリボンの先を結び付けた。濡れた指が震えずに結び目を作れたのは、神々のくださった奇跡に思えた。 ――こうすれば、追ってこれなくなるだろうか。 それとも泥のような魔物なら分離できるだろうか。答えを知るのが恐ろしい。ただ今は、放してほしかった。 願いに沿うように、何かが飛んできた。またしても魔物は苦しみ悶えて身を捩り――まるでその場に縫い付けられて踊り狂っているよう――ふいにぱかりと切り裂かれた。 得体のしれない塊がぼとぼとと地に落ちて、雨に穿たれて形を崩していく。 「貴方が持ち歩く短剣は、一本だけかと思っていました」 「ああ。そいつのナイフを返した。さっき捌ききれずに刺さった」 大剣にこびりついた泥らしき物体を革手袋の甲部分で擦り落としながら、ゲズゥは何気なく答えた。 |
5.混乱と混乱 - c
2021 / 06 / 30 ( Wed ) 背筋を伝う冷たさは、雨に濡れたからというだけではなかった。 けれど怯えて身を竦ませるには、この場は乱れすぎていた。恐怖すべき対象を、見極めなければならない。地面の下を這う気配に、元・聖女ミスリアは少し前から気が付いていた。化生のものがまだ近くにいる。それが最も興味をひかれる相手にも、彼女は察しがついていた。 頭上高くから轟音が鳴り響く。 相方がこちらを素早く振り返った。短く目配せしてから、彼は大剣を持ち直し――そして目を閉じた。 再び閃光が空を駆ける。ミスリアは手をかざしてやり過ごした。 眩さと暗闇に順に責められて、残像がちらつき、人々の視覚は一時的に惑わされる。そうとわかっているのはあの男も同じで、やはり目を閉じていた。身近に迫った音に反応して、再び目を開けた。人質を助けに来るはずのゲズゥを迎えうつつもりで身構えている。 けれど男に覆い被さるように襲ったのは、湾曲した剣ではなく、黒い液体を滴らせる大きな影だった。 「!?」 男が苦しげに喘いだ。なんとかして影を振り払おうと、でたらめに手足を動かしている。 影であるのに、微かな燐光を帯びている。泥沼の奥から浮かび上がる気泡を思わせるような、耳障りの悪い音を時折吐きながら、異形のモノは男に巻き付いた。あっという間のできごとだった。 「天が人を見放しただなんて、そんな白黒がはっきりとした話ではありません。神々の試練も慈悲も、出どころは同じです。不幸と嘆くか、好機を見出すか、受け取る者次第では?」 「……!」 男が抗弁しようとしているのかはわからない。もごもごとした呻き声が漏れるだけだった。部下らしき男たちは、助けに入るかどうかで迷っている。下手に近付いて巻き添えを喰らうのが恐ろしいのだろう。 憐れむ気持ちはあった。常であらば、助けてやりたいと思ったかもしれない。 ゲズゥの言葉を借りるなら、「優先順位の問題」である。 その彼はというと、稲妻の沸き起こるタイミングをかいくぐって、既に最後の悪漢を無力化していた。ぐったりとした男性を肩に担いで、踵を返している。 「川に沿えば町に戻れるらしいが」 「他に道はあるんですか?」 ゲズゥは三拍ほど考え込んでから答えた。 「この雨で森の中に戻っても、無駄に迷って体力が削られる」 「そうでしょうね。もたついていても魔物の餌食ですし、川辺を伝うしかなさそうです」 方針が決まったところで、二人はすぐに行動に出た。ゲズゥに手を引かれ、小石によって明らかになった地面模様の縁に出た。 次いで目を伏せ、雷光が周囲を照らすのを待つ。なるべく遠くまで見通せた方が、いちいち石で確かめるよりも早く、進路を見定められるはずだった。 待ち望んでいる時に限って、自然現象はなかなか起きなかった。 背後から骨が折れる音が聴こえる。断末魔は、ない。 胃の柔らかいところが搔き乱される気分だった。状況が状況であっても、あの男の死の責任は自分たちにある。そして何より、魔物が獲物を喰らいつくしてしまえば、いつこちらに矛先を向けるのか知れないのだ。 ――白い光が視界を満たした。 「走れ!」 号令がなくとも走り出していた。庭を抜ければ沼は途絶える、そう信じて駆ける。雨を吸った服は重く、髪も皮膚に張り付いて気持ち悪い―― どこかで見落としがあったのか、ふと踏み出した場所に地面が無かった。 心臓が恐怖一色に塗り替えられんとした瞬間、奥歯を噛みしめた。 (ここで足手まといになってはダメ) 先を急ぐ背中は、こちらが足を踏み外したことにまだ気が付かない。 気合だけでそういきなり冷静になれるものではないが、懐から浮かび上がったアミュレットを目にして、ミスリアは何故か上を仰ぐ気になった。 細いものがいくつか垂れている。 蔦なのか、柳の枝なのか、はたまた蛇なのか、暗闇ではわからない。手に取るしかなかった。 女ひとりの腕力でどうにかなるようなはまり具合ではなかったはずだが、不思議と迷いはなかった。時々手が滑っても、必死さが勝った。 ずるりと沼から片足まで抜け出し、近くの草をまさぐるようにして身を引き上げる。後日、上半身が何日もの間の筋肉痛にさいなまれることになろうと、今の安堵感を忘れたりはしない。 (いけない、稲妻二回分も休んでしまった) ますます重い手足を引きずり上げて、立った。小川はこんなに遠かっただろうか? 否、もう目と鼻の先だ。後二十歩。十歩。 ミスリアの遅れを知って振り返っていたゲズゥの表情が、唐突に険しくなった。 (え) 嫌な気配に全身が震え―― 「ニガサナイ」 頭上から、濁った声がした。 |
5.混乱と混乱 - b
2021 / 05 / 19 ( Wed ) 次々と空を切るナイフをゲズゥは弾いてみせた。鉄と鉄がぶつかる短い音が何度も響く。音ばかりで、凶器の影を認めることは、数度に一度くらいしかできない。 (水場なら星明かりを反射するはずなのに)伸び放題の水草や木々などの遮蔽物が多すぎるのか、沼の位置を知る術がない。闇の濃さは緩和されずに、辺りを、心すらをもじわじわと呑み込まんとする。 「さしずめ向こうの男は、貴様が囚われのその女を探し出すまでの時間を稼ごうとしていたのだろうが」 攻める手をまったく休めずに、敵が口を開いた。飛び道具は無数に持っているのか、尽きる予感がない。 「涙ぐましい話ではないか」 男の言葉には嘲笑が含まれていた。 「時間を稼いでいるのが私たちの方だとは考えないんですか。たとえば、町長さんが兵を連れて戻って来るまでの」 「一理あるな。報復も視野に入れるべきか。ならば、さっさとお前たちを始末してここを引き上げればいいだけの、話!」 ミスリアを狙ったらしいナイフを、ギリギリのところで大剣が防いだ。ガキン、と鋭い音と共に火花が散る。 (音……そうだわ、相手だって松明を持ってないんだから、私の声のした方を狙ったはず) 一方でゲズゥはしばらく声を発していないが、もともと的としては大きい。敵が適当に投擲していても当たりかねない、それだけで牽制になる。加えて、周囲が濡れているせいでどうやっても足音を立ててしまっている。だいたいの位置が知れてしまっても仕方ない―― 足音と水音からひらめくものがあった。ミスリアは足元を手探り、小石をいくつか拾い上げては投げた。 別段、誰かを狙っての行為ではない。むしろ人には当たらないように、低く、けれどもできるだけ遠く、石を一個ずつ飛ばしてみせた。 ミスリアの動きを怪訝に思った男が「小賢しい」と呟いた。無視した。なるべく計画的に、一度投げた場所を再びなぞらないように、左から右、手前から奥へと、小石を投げ続けた。この行動の意図を正しく理解する者はひとりだけでいい。 そうしていると、願った通りに彼は初めて「前」へ進み出た。 ゲズゥ・スディルは耳が良く、また、空間認識力と記憶力も良い方だ。小石の立てる音の具合から既に脳内に地面の図を構築できていることだろう。どこを踏めば水が浅く、どこならば深いのか。把握できたならば、これで防戦一方であった状況から脱せる。 彼は大胆に距離を詰めては横薙ぎに剣を振るった。実際の歩の進め方はかなり紆余曲折していたが、そこに迷いはなかった。 大きな鉄の塊が空気を裂く勢いを前に、ほとんどの人間は反射的に退くか避けるかするだろう。しかし男は懐から棒のようなものを取り出して、その一撃を仰け反りながらも半ばで受けた。 余った衝撃が発散し、男の髪を切り払う。 背を後ろに曲げた姿勢のまま、棒を放し、またナイフを繰り出した。 ゲズゥは避けなかった。男の持っていた棒を弾き飛ばした姿勢からさらに一回転して、斜め下へ剣を奔らせた。その際にさばききれなかったナイフは外套を裂いたが、肉に刺さるまでには至らなかったようだ。 今度は男は舌打ちしながら横へ跳んだ。近接戦闘への備えはしていなかったらしい。数度跳んでゲズゥの間合いから逃れ、嘆息した。 「まさかそんな方法で沼を攻略するとはな。だがさすがに逃げ道の確保にまでは至るまい、地道すぎるし、そもそも我々が妨害する」 男は大げさに両手を挙げた。まるで見計らったかのように、背後から二人の人影が歩み出た。一方は、何か大きなものを雑に引きずっている。 ぐったりとした様子のそれは成人男性に見えた。彼が何者なのかは、ゲズゥが動きを止めたことから、察しがついた。 「貴様らとこいつの間柄は知らんが、捨て置けないだろう? 回収にきてはどうだ」 やはり雑に、悪漢たちが男性を見せびらかすように引き上げた。 (なんて卑怯な連中なの) たとえばゲズゥが残る敵を全員倒せたなら、逃げ道云々は問題ではなくなっていた。朝を待って、日さえ昇れば、罠があろうと何だろうと安全な帰り道を選ぶのがぐっと簡単になる。魔物との乱闘で敵の数は減っているのだから、現実的な解決法と言えよう。 (けれどその人を盾にされたら、反撃しづらい) 自分は本当にもう祈ることしかできないのかと、ミスリアは歯噛みする。 これ以上悪くなりそうにない状況で、更に辺りに分厚い水滴が降り始めた。 「天まで貴様らを見放したようだな。大雨では、川辺を伝って町に戻る難易度も格段に高くなる」 こちらのあらゆる退路を見透かしていたのか、男は嫌味っぽく笑った。 「貴方は! ……楽しんでるんですか? お金を払われたからではなく、ただ人を追い詰めるという行為を」 たまらず、叫んだ。 瞬間、男の微笑が雷光に照らされる。 「むろん」 |
5.混乱と混乱 - a
2021 / 04 / 22 ( Thu ) 展開した聖気が、捧げた祈りが実を結んだことを、肌を掠る静電気のような具合にミスリア・ノイラートは感じ取った。 (よかった、うまくいった)ミスリアは、聖女でなくなってから久しい。 己の本質は変わっていなくとも、以来、自身の聖気の器としての性能が著しく落ちてしまっているのは事実だった。奇跡の力と称される業(わざ)の数々はまだ十分に扱えるが、一度行使してから次に何かをできるようになるまでの間隔が徐々に長くなっている。少なくとも今日から最短一週間は聖気を扱うことができないだろう。 愛しい人と暮らすために支払った代償だ。後悔したことは一度だってない。 驕らず、只人として精一杯生きるのみである。 ゲズゥもまたそのことをよくわかっているからこそ、以前のような無茶はしなくなった。どのような理由であっても、負った怪我を自力で治す心積もりで日々に臨んでいる。 (ただの私にできることは……) 覚束ない足取りで立ち上がる。 ここに閉じ込められてからしばらくして、手首を拘束され目隠しをされた。本来ならそれだけでこの広い地下を動き回る気力がみなまで削がれてしまうところだが、先ほどのシェニーマの叫び声の響き方と、流れ込んでくる僅かな風が、地上への扉が開いたままであることを物語っていた。 口の中で小さく彼女へのお礼を呟いた。その勇気に報いて、何としても出口を探さねばならない。 手を背後に縛られては手探りで道筋を探すことも難しいが、大体の方向がわかっているのだから這ってでも進めばいい。 何度も転び、何度も立ち上がり、諦めずに歩を進めた。 地上の喧噪は勢いを増していた。 (不思議ね。魔物の気配が懐かしいわ) 魂があらぬ姿に変貌した存在。恐ろしかったり、歪だったり、もの哀しかったりするそれを、ミスリアが自らの目的の為に呼び出して利用したような形になってしまった。 しかも、聖気で彼らを昇華させてやることができないのだ。目と鼻の先にいても、今は救ってやる手立てがない。 後ろめたさは感じるが、背に腹は代えられない。今夜この場をやり過ごすことができたなら、いくらでも反省しよう。 (あとどれくらいなの) 視界も身動きも封じられていては、ほんの少しの距離を歩くだけでも変に疲弊する。途中、どこかで方向を誤ったのかと不安が募る。だが杞憂に終わった。 やっと階段らしきものにぶち当たると、意図せず膝から倒れ込んだ。そこから再び立ち上がるまでにやはり時間がかかったが、なんとか上りつめた。 空気の匂いが変わった。 カビ臭さから解放され、草花の薫りと、水っぽい匂いがした。混乱の方へ一歩踏み出そうとして、すかさず転びかける。 目に見えぬ誰かに抱き留められて、転ばずに済んだ。そして耳に慣れた低い声に迎えられた。 「……さがす手間が省けた」 「お役に立てて何よりです」 「久しぶりだな、お前がさらわれるのを助けるのは」 「そんなにいつもさらわれてたまりますか」 彼は、元より無駄なことをしない性質だった。口を動かすよりも手を、とあっという間に拘束を解き、目隠しを外してくれた。 「どういう状況ですか?」 ある意味での「暗闇」に慣れてしまっていた目は、すぐに屋外の景色を受け入れた。 「連中は、突然の光と魔物の出現に反応が遅れた。二、三人は簡単に倒せた」 ついでに暴れまわる町長の馬もなんとか捕まえて、まだ気を失っていたシェニーマと町長を帰路につかせたと言う。 「さすがですね」 しかし敵方が体制を立て直したため、町長が来た道はもう通れない。別の退路を探すしかないそうだ。 「……あの男も残って戦っているが」 「あの男とは、どなたのことですか?」 ゲズゥはすぐには答えなかった。どう説明したものかきっと考えあぐねているのだろう、そう思ってしばらく待とうと思ったが、ふと気になってミスリアは別の問いを口にした。 「外套が随分と濡れているようですね、雨でも降ったんですか」 「いや。これは動き回っている間についた泥――」 ゆらめきのように近付く人影があった。路地で遭遇した物騒な男なのだと、すぐにわかった。無意識に体が強張る。 ミスリアを背に庇うように、ゲズゥが進み出る。 「オマケの方に厄介な縁者がいればどうするのかと雇い主は心配していたが、なるほど、厄介だったな」 「…………」 「あの光はなんだ? 何故その直後に魔物が現れた?」 殺気に満ちた質問に、ゲズゥは剣を構えて応じた。口を開けば、彼は幾つか前の質問に答えていた。 「……家の側面と裏に沼が疎らに広がっている。おそらく、正確な模様を把握しているのは住人だけだ。雇った用心棒連中にはどこが安全か教えてあるのだろう」 「ほう、よく気付いたな。その通り。ただ足を取られるだけでなく、下手なところに入ればすぐに全身を吸い込まれて溺れるぞ」 男は得意げに笑って、どこからかナイフを数本、取り出した。脅すように切っ先を揃えて向ける。 「さあ、逃げられるものなら逃げてみるがいい」 投げナイフ勢はエンリオ以来な気がします |
4.取り戻す男、ゲズゥ - e
2021 / 04 / 09 ( Fri ) 見張りの男がひとり、階段を下って消えていった。ほどなくして、微かな足音が戻ってくる。 しかしその足音の主を確認できるより前に、別の方向からけたたましい音がした。家の中から誰かが出てきたのである。「何をもたついてる。あんまり遅いから、おれ自ら出迎えにやってきたぞ」 「戻れ。話をややこしくするな」 現れた雇い主を掌で押し戻しながら、例の男が厳しく諫めた。だが既にその顔を見咎めた町長が、無遠慮に指を指す。 「きみは! そうか。今回のことはきみの家が絡んでいたのだな」 「ふん。父上がぼやいていたぞ。お前たちの家がいつもいいとこでうちの商売の邪魔をするって。だから今度はおれが邪魔をするんだ。来月の祭の準備、食糧調達から要人の接待まで、全部お前に任されてるらしいな。自分には荷が重いとか言って辞退しろ。そんでうちがその穴を埋めて大活躍、そっちは地位と信頼を失えばいい」 「短絡的な……父君が知ったら、失望するんじゃないかね」 「バレなきゃいいんだ。お前さえ黙ってれば」 「商売を妨害するにももっといろいろとしたたかにやれるものだ。だいたい私が辞退したところで、きみたち以外の別の者が代わりに選ばれるとは考えないのかい? そんなだからいつまで経ってもきみは跡目に選ばれない」 「う……うるさい! 知った風な口をききやがって」 指さされた男は怯んだように間を置いてから、喚き返した。成人済みの男にしては言動にどこか幼さが感じられる。一方、町長は相手の目的を知った余裕からか、いくらか冷静さを取り戻して対峙していた。 会話を聴き取りながらも、ゲズゥの視線は今なお地下への扉を捉えていた。開(ひら)けたままの、闇への穴。地上でのいざこざを聞きつけたのだろうか、階段を上がる足音は警戒気味に遅くなっている。 そうして押し出された人影は小さく、女のものに間違いはなかった、が。 ――まだ識別するには至らない。 それはロドワンにしても同じらしい。先ほど盗み聞きした会話の内容をゲズゥが共有しなかった理由は、それを知っては咄嗟の判断を鈍らせるのではないかと危惧したからだ。律義そうなこの男が、大事な「お嬢様」に加えてミスリアの安否にまで気を回す必要はない。 「シェニーマや、無事だったか!」 町長が人影を娘と信じて呼ばわる。 女は、手首が背後に拘束されているためか、全体的に軸がふらついて見える。しかしそれを別にしても、輪郭の揺らぎ方、足取りが、ゲズゥにとっては見覚えのないものだった。そして次の一声が決定的だった。 「逃げて! ミスリアちゃ――」 拘束はしても口までは塞いでいないようだ。女の叫びは、後ろの男に横腹を殴られたことによって遮られた。 ロドワンが跳んだのはその直後だった。地に一直線に向かっていく背中を、ゲズゥは無言で眺めた。制止の声を投げかけたところで無駄に終わっただろう。 「お嬢様を放せ、外道」 剣が鞘を擦れる音と共に、鉄の鈍い光が瞬いた。 「何だお前、どこから……木の上から現れたのか!?」 誰何(すいか)した男を、ロドワンはおもいのほか手慣れた様子で斬り伏せた。更に飛びかかってきたもうひとりを蹴り飛ばし、項垂れている女を抱き起こすまでに、僅か数秒間。 だが二人が顔を上げた時には用心棒らに囲まれてしまっていた。町長もいつの間にか、例の男に捕まっている。 しかも、木の上からロドワンが跳び降りたのがはっきりと見られた。まだ仲間が潜んでいないか、検めるためにこちらに向かう人影もある。 そうなってもゲズゥは動かない。 どちらの娘が「本物」か割れた以上、まだ地下にいるはずのミスリアが今後生かされる可能性は低いだろう。だからと言って考えなしに飛び出したところで、全員分の帰り道が確保できそうにない。 剣に結び付けたペンダントを見下ろす。これは普段ミスリアが持っているものだが、たまに典礼に出席する彼女に付き添う時だけ、この手に渡る。形だけでも皆さんに合わせて祈祷してください、そう頼まれるからだ。 ゲズゥに神々や聖獣を敬う心は無いが、こういった道具の有用性は理解している。 ――逃げろと懇願した叫び声が聴こえたのなら、アイツが次にすることは―― まるで心の声に呼応するように。ぱちり、黄金の光が弾けた。 闇の中に生まれた火花にも似た現象に、驚くわけもなかった。むしろこれを待っていた。離れていても届くのが、ミスリア・ノイラートの祈りというものだ。 ゲズゥは目の前に片手をかざし、教団の象徴を銀の鎖から引きちぎっては放り投げた。 閃光。 突然に視界を奪われた地上の人間たちの困惑する声を、しばし聞いていた。 それに交じって――獣の遠吠えのようなうすら寒い鳴き声がどこからか響くと、今度こそゲズゥは大剣を手に取り、大地に降り立った。 次回、5.混乱と混乱 くっそお久しぶりです。なんでか年末から今まで、更新できる文量に至ることができず、なんと去年の誕生日あたりに始めたこの番外編がずるずる今年の誕生日を過ぎても完結してない事態に陥りました( かろうじて感覚が戻ってきた気がするので、これから終わりに向けて頑張って進めたいと思います。 ミズチもいい加減に再開したい…… もう誰もこのブログのことはおぼえていないでしょうけど、今年もよろしくお願いします!(おい |