5.混乱と混乱 - d
2021 / 07 / 31 ( Sat ) 間髪入れずに、ビュッと何かが飛んできた。ミスリアに襲い掛からんとしていた異形は絶叫し、苦しみ悶えて身を捻った。見上げれば、どろどろとした黒い影にゲズゥが投げた短剣が刺さっている。 「おのれオノレよくもよくもよくも」奇妙に聞き覚えのある声だった。だというのに、先ほどまで差し迫っていたあの男とはまったく別の存在だ。 (同化されたの) いくら専門知識を蓄えても、少しわかった気になっても、魔物とは底の知れない超常現象なのである。喰らった人間の特性を魔物が我が身に表した例は、思い返せば過去にもあったように思う。 「クッテヤル、くってやる……くるしめ! おまえのせいか!」 融合してから主導権が定まらず、意思がせめぎ合っているようだった。なぜそう感じたかは言葉にできないが、確かにそんな印象を受けた。 呑気に分析している余裕は当然ながら、ない。這って逃げた。今はそうするだけで精一杯だった。魔物の内なる争いがいつまでも続けばいいと願いながら。 背後の気配は動かないが、消えもしない。本質が泥であるなら、沼と水ばかりのこの地形を自在に動き回ることもできるかもしれない。男の二の舞はごめんだった。満身創痍でゲズゥの元に辿り着く。 「無事か」 差し出された無骨な手をとると、安堵に泣き崩れそうになる。けれど今はそうしていられない。負傷者を抱えている彼を、なんとか支援したかった。 「リボンを」 持っていませんか。問いたいのに、息が切れてみなまで言えなかった。 言葉が少なくとも察してくれるのが伴侶というものか。ゲズゥは無言で、元はペンダントの鎖に結んであった黒いリボンをポケットから取り出した。 ピンと伸ばせば両腕の長さほどある。 今度は逆に、おどろおどろしい影に向かって駆けた。 (生き物だったら急所があったり、首を絞められたりするのに) 魔物に、一貫したわかりやすい弱点はない。とっかかりは、探すしか――ない。 「ギョオオオオ」 耳をつんざく絶叫。泥っぽい影は伸縮し、蠢き、ついには破裂しそうに見えた。 途端、伸びてきた。 人の腕の形をしていたかもしれない。ミスリアは腕とも触手ともとれぬものに太ももを掴まれ、引きずられた。喉から悲鳴が漏れた。 (落ち着いて、これは、狙いどおり) 形の曖昧なものの中に、人間らしい何かがあった。引きずられながらも、手首っぽい部分をまさぐり、リボンを巻き付ける。 魔物は目に見えて怯んだ。 それもそのはず、教団から賜ったアミュレットのような聖なる道具ほどの聖性はなくとも、このリボンには普段からミスリア自身の強い祈りが込められている。加えて、教団を象徴する銀細工のペンダントに巻き付いていたのだから、聖なる因子はそれなりに付着している。 触れた先から魔物を浄化することはできずとも、動きを御する用途にはうってつけだ。 (あとは……どこか、手頃な……!) 空いた片手で近くの植物をわしづかみにした。細い木の幹だ。触手の力が緩んだのをいいことに、その隙にリボンの先を結び付けた。濡れた指が震えずに結び目を作れたのは、神々のくださった奇跡に思えた。 ――こうすれば、追ってこれなくなるだろうか。 それとも泥のような魔物なら分離できるだろうか。答えを知るのが恐ろしい。ただ今は、放してほしかった。 願いに沿うように、何かが飛んできた。またしても魔物は苦しみ悶えて身を捩り――まるでその場に縫い付けられて踊り狂っているよう――ふいにぱかりと切り裂かれた。 得体のしれない塊がぼとぼとと地に落ちて、雨に穿たれて形を崩していく。 「貴方が持ち歩く短剣は、一本だけかと思っていました」 「ああ。そいつのナイフを返した。さっき捌ききれずに刺さった」 大剣にこびりついた泥らしき物体を革手袋の甲部分で擦り落としながら、ゲズゥは何気なく答えた。 |
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