5.混乱と混乱 - c
2021 / 06 / 30 ( Wed )
 背筋を伝う冷たさは、雨に濡れたからというだけではなかった。
 けれど怯えて身を竦ませるには、この場は乱れすぎていた。恐怖すべき対象を、見極めなければならない。
 地面の下を這う気配に、元・聖女ミスリアは少し前から気が付いていた。化生のものがまだ近くにいる。それが最も興味をひかれる相手にも、彼女は察しがついていた。

 頭上高くから轟音が鳴り響く。
 相方がこちらを素早く振り返った。短く目配せしてから、彼は大剣を持ち直し――そして目を閉じた。
 再び閃光が空を駆ける。ミスリアは手をかざしてやり過ごした。

 眩さと暗闇に順に責められて、残像がちらつき、人々の視覚は一時的に惑わされる。そうとわかっているのはあの男も同じで、やはり目を閉じていた。身近に迫った音に反応して、再び目を開けた。人質を助けに来るはずのゲズゥを迎えうつつもりで身構えている。
 けれど男に覆い被さるように襲ったのは、湾曲した剣ではなく、黒い液体を滴らせる大きな影だった。

「!?」
 男が苦しげに喘いだ。なんとかして影を振り払おうと、でたらめに手足を動かしている。
 影であるのに、微かな燐光を帯びている。泥沼の奥から浮かび上がる気泡を思わせるような、耳障りの悪い音を時折吐きながら、異形のモノは男に巻き付いた。あっという間のできごとだった。

「天が人を見放しただなんて、そんな白黒がはっきりとした話ではありません。神々の試練も慈悲も、出どころは同じです。不幸と嘆くか、好機を見出すか、受け取る者次第では?」
「……!」
 男が抗弁しようとしているのかはわからない。もごもごとした呻き声が漏れるだけだった。部下らしき男たちは、助けに入るかどうかで迷っている。下手に近付いて巻き添えを喰らうのが恐ろしいのだろう。

 憐れむ気持ちはあった。常であらば、助けてやりたいと思ったかもしれない。
 ゲズゥの言葉を借りるなら、「優先順位の問題」である。
 その彼はというと、稲妻の沸き起こるタイミングをかいくぐって、既に最後の悪漢を無力化していた。ぐったりとした男性を肩に担いで、踵を返している。

「川に沿えば町に戻れるらしいが」
「他に道はあるんですか?」
 ゲズゥは三拍ほど考え込んでから答えた。
「この雨で森の中に戻っても、無駄に迷って体力が削られる」
「そうでしょうね。もたついていても魔物の餌食ですし、川辺を伝うしかなさそうです」

 方針が決まったところで、二人はすぐに行動に出た。ゲズゥに手を引かれ、小石によって明らかになった地面模様の縁に出た。
 次いで目を伏せ、雷光が周囲を照らすのを待つ。なるべく遠くまで見通せた方が、いちいち石で確かめるよりも早く、進路を見定められるはずだった。
 待ち望んでいる時に限って、自然現象はなかなか起きなかった。

 背後から骨が折れる音が聴こえる。断末魔は、ない。
 胃の柔らかいところが搔き乱される気分だった。状況が状況であっても、あの男の死の責任は自分たちにある。そして何より、魔物が獲物を喰らいつくしてしまえば、いつこちらに矛先を向けるのか知れないのだ。
 ――白い光が視界を満たした。

「走れ!」
 号令がなくとも走り出していた。庭を抜ければ沼は途絶える、そう信じて駆ける。雨を吸った服は重く、髪も皮膚に張り付いて気持ち悪い――
 どこかで見落としがあったのか、ふと踏み出した場所に地面が無かった。
 心臓が恐怖一色に塗り替えられんとした瞬間、奥歯を噛みしめた。

(ここで足手まといになってはダメ)
 先を急ぐ背中は、こちらが足を踏み外したことにまだ気が付かない。
 気合だけでそういきなり冷静になれるものではないが、懐から浮かび上がったアミュレットを目にして、ミスリアは何故か上を仰ぐ気になった。
 細いものがいくつか垂れている。

 蔦なのか、柳の枝なのか、はたまた蛇なのか、暗闇ではわからない。手に取るしかなかった。
 女ひとりの腕力でどうにかなるようなはまり具合ではなかったはずだが、不思議と迷いはなかった。時々手が滑っても、必死さが勝った。
 ずるりと沼から片足まで抜け出し、近くの草をまさぐるようにして身を引き上げる。後日、上半身が何日もの間の筋肉痛にさいなまれることになろうと、今の安堵感を忘れたりはしない。

(いけない、稲妻二回分も休んでしまった)
 ますます重い手足を引きずり上げて、立った。小川はこんなに遠かっただろうか? 否、もう目と鼻の先だ。後二十歩。十歩。
 ミスリアの遅れを知って振り返っていたゲズゥの表情が、唐突に険しくなった。

(え)
 嫌な気配に全身が震え――
「ニガサナイ」
 頭上から、濁った声がした。

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