5.混乱と混乱 - a
2021 / 04 / 22 ( Thu )
 展開した聖気が、捧げた祈りが実を結んだことを、肌を掠る静電気のような具合にミスリア・ノイラートは感じ取った。
(よかった、うまくいった)
 ミスリアは、聖女でなくなってから久しい。

 己の本質は変わっていなくとも、以来、自身の聖気の器としての性能が著しく落ちてしまっているのは事実だった。奇跡の力と称される業(わざ)の数々はまだ十分に扱えるが、一度行使してから次に何かをできるようになるまでの間隔が徐々に長くなっている。少なくとも今日から最短一週間は聖気を扱うことができないだろう。

 愛しい人と暮らすために支払った代償だ。後悔したことは一度だってない。
 驕らず、只人として精一杯生きるのみである。
 ゲズゥもまたそのことをよくわかっているからこそ、以前のような無茶はしなくなった。どのような理由であっても、負った怪我を自力で治す心積もりで日々に臨んでいる。

(ただの私にできることは……)
 覚束ない足取りで立ち上がる。
 ここに閉じ込められてからしばらくして、手首を拘束され目隠しをされた。本来ならそれだけでこの広い地下を動き回る気力がみなまで削がれてしまうところだが、先ほどのシェニーマの叫び声の響き方と、流れ込んでくる僅かな風が、地上への扉が開いたままであることを物語っていた。

 口の中で小さく彼女へのお礼を呟いた。その勇気に報いて、何としても出口を探さねばならない。
 手を背後に縛られては手探りで道筋を探すことも難しいが、大体の方向がわかっているのだから這ってでも進めばいい。

 何度も転び、何度も立ち上がり、諦めずに歩を進めた。
 地上の喧噪は勢いを増していた。
(不思議ね。魔物の気配が懐かしいわ)
 魂があらぬ姿に変貌した存在。恐ろしかったり、歪だったり、もの哀しかったりするそれを、ミスリアが自らの目的の為に呼び出して利用したような形になってしまった。

 しかも、聖気で彼らを昇華させてやることができないのだ。目と鼻の先にいても、今は救ってやる手立てがない。
 後ろめたさは感じるが、背に腹は代えられない。今夜この場をやり過ごすことができたなら、いくらでも反省しよう。

(あとどれくらいなの)
 視界も身動きも封じられていては、ほんの少しの距離を歩くだけでも変に疲弊する。途中、どこかで方向を誤ったのかと不安が募る。だが杞憂に終わった。
 やっと階段らしきものにぶち当たると、意図せず膝から倒れ込んだ。そこから再び立ち上がるまでにやはり時間がかかったが、なんとか上りつめた。

 空気の匂いが変わった。
 カビ臭さから解放され、草花の薫りと、水っぽい匂いがした。混乱の方へ一歩踏み出そうとして、すかさず転びかける。
 目に見えぬ誰かに抱き留められて、転ばずに済んだ。そして耳に慣れた低い声に迎えられた。

「……さがす手間が省けた」
「お役に立てて何よりです」
「久しぶりだな、お前がさらわれるのを助けるのは」
「そんなにいつもさらわれてたまりますか」
 彼は、元より無駄なことをしない性質だった。口を動かすよりも手を、とあっという間に拘束を解き、目隠しを外してくれた。

「どういう状況ですか?」
 ある意味での「暗闇」に慣れてしまっていた目は、すぐに屋外の景色を受け入れた。
「連中は、突然の光と魔物の出現に反応が遅れた。二、三人は簡単に倒せた」
 ついでに暴れまわる町長の馬もなんとか捕まえて、まだ気を失っていたシェニーマと町長を帰路につかせたと言う。

「さすがですね」
 しかし敵方が体制を立て直したため、町長が来た道はもう通れない。別の退路を探すしかないそうだ。
「……あの男も残って戦っているが」
「あの男とは、どなたのことですか?」
 ゲズゥはすぐには答えなかった。どう説明したものかきっと考えあぐねているのだろう、そう思ってしばらく待とうと思ったが、ふと気になってミスリアは別の問いを口にした。

「外套が随分と濡れているようですね、雨でも降ったんですか」
「いや。これは動き回っている間についた泥――」
 ゆらめきのように近付く人影があった。路地で遭遇した物騒な男なのだと、すぐにわかった。無意識に体が強張る。
 ミスリアを背に庇うように、ゲズゥが進み出る。

「オマケの方に厄介な縁者がいればどうするのかと雇い主は心配していたが、なるほど、厄介だったな」
「…………」
「あの光はなんだ? 何故その直後に魔物が現れた?」
 殺気に満ちた質問に、ゲズゥは剣を構えて応じた。口を開けば、彼は幾つか前の質問に答えていた。

「……家の側面と裏に沼が疎らに広がっている。おそらく、正確な模様を把握しているのは住人だけだ。雇った用心棒連中にはどこが安全か教えてあるのだろう」
「ほう、よく気付いたな。その通り。ただ足を取られるだけでなく、下手なところに入ればすぐに全身を吸い込まれて溺れるぞ」
 男は得意げに笑って、どこからかナイフを数本、取り出した。脅すように切っ先を揃えて向ける。

「さあ、逃げられるものなら逃げてみるがいい」



投げナイフ勢はエンリオ以来な気がします

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