3.焦る男、ロドワン - b
2020 / 06 / 25 ( Thu ) (旦那様、私はどうすれば)
呼吸が浅くなり、考えがまとまらなくなる。何か話を繋げなければと、男性を引き留める文言を出そうにも、己の内で言葉をかき集めるのが困難だった。 幸いにも男性は場を一歩も動かないどころか微動だにしていないようだった。冷静なのか、そう見えるだけなのか。こちらをじっと見つめる瞳は依然として何かを探っている。 「連れ去られる動機に心当たりがあるか」 男性は淡々とした声で問うた。改めて顔を見合わせると、髭を生やしていないのが目に入った。最初の印象よりも更に若いのではないかと思う。歳のほどは二十代半ばだろうか。 「動機か。ないと言い切れないのが苦しいところだ。私が捜しているお嬢様は町長の娘だ、そういった線から狙われたかもしれない。そちらはどうか?」 訊き返してみたが、男性はすぐには答えず、腰に提げた短剣を指先で弄っていた。考え込んでいるようでいて、言葉を選んでいるようにも見えた。 「動機がないとは言い切れないが――可能性が低い」 「では貴殿らは巻き込まれたのだと考えるのが妥当か。申し訳ない」 ロドワンは頭を下げた。憤られても仕方ない想いで顔を上げると、信じられないことに、男性は肩を竦めただけだった。 「対策」 「あ、ああ。旦那様と敵対している者を順次当たっていけば、犯人が特定できるかもしれないな」 「要求があれば向こうから接触してくるだろう。闇雲に動くより、お前の言う『旦那』の元で待っていた方が確実だ」 言われてみればそうだった。普通に考えたら連絡を待つのが一番手っ取り早いはずなのに、気が急いて思いつかなかった。 「ただ待っているだけだなんて、そんなことでいいのだろうか……」 「待つだけとは言っていない」 しゃりん。 いやに澄んだ音がしたかと思えば、男性は瞬く間に短剣を抜き、手元でそれを二度回転させてから、またしゅるりと小気味のいい音を立てて鞘に収めた。 無言の圧に何か感じるものがあった。――連れていけと、きっとそう言いたいのだろう。 彼の大切な人もいなくなったというのなら、放ってはおけない。 「私はロドワン・イェルランス。よければ名を教えてくれないか。貴殿も無関係でないから、ぜひ旦那様の屋敷までついてきてほしい」 慣例的に握手を求めようとして、ロドワンはすんでのところで思いとどまった。なんとなく拒否されるような気がしたのだ。 黒い髪と瞳の男性はその場に片膝をついて、買い物籠の形を少し押し潰しながら、その中身ごと背嚢に詰め込んだ。そうした作業から顔を上げることもなく――「ゲズゥ」とだけ答えたのだった。 * 進展があったのは夕方になってからだった。ロドワンはずっと屋敷の自室にこもり、何をして過ごしたのかもよく思い出せない。 護衛としての役割を果たせなかった自分を、屋敷の人間は過剰に責めることをしなかった。 (旦那様はご自身の言葉がシェニーマお嬢様を追い詰めたのだと考えておられる。私を怒りはしても、罰したりしない) だからと言ってそれを喜んだりしない。誰から責められなくても、自責の念は大きくなるばかりだ。 その一方、ゲズゥと名乗った男性は、屋敷の場所を覚えた後にいったん宿に荷物を下ろしに行っていた。彼が更に大きな荷物を背負って戻ってきたと聞き、ロドワンは部屋を辞して迎えに行った。 居間で客人を主人に紹介し終わった頃のことだ。慌ただしい足音が廊下から響き、必死な形相の使用人の女性が現れた。 「失礼します、旦那様! 玄関にこれが投げかけられたとのことで――」 「見せなさい」 主人は使用人から巾着袋を受け取り、中身をテーブルの上にぶちまけた。その中から転がり出た金細工のヘアバレッタに真っ先に視線が行き、ロドワンは息を呑んだ。 主人もまた同じものを目にして顔面蒼白になっている。そっと手を伸ばし、バレッタを手に取って撫でた。 「シェニーマや……お前の十六の誕生日に買ってやったこれを……無理に外されたのか? 髪は千切れなかったか?」 今にも泣きそうに呟いている姿が、痛ましい。見ていられない。 目を逸らしたついでにロドワンはテーブルの上を睨んで、三つ折りにされた紙を見つけた。これも巾着袋から出てきたのだと、主人に手渡した。 「旦那様。なんと書いてありますか」 |
3.焦る男、ロドワン - a
2020 / 06 / 14 ( Sun ) 歩き続けること数時間。まずは対象が行きそうな場所を順に回り、次に知り合いをひとりずつ当たって聞き込んでみたが、午後になっても未だに手がかりのひとつも得られなかった。 胃の底から沸き起こる不安が全身を駆け巡る。決して暑くはないのに、革鎧の下で背中が汗ばんでいた。不快感を拭うこともできずに、男はまた街中に見知った顔を見つけては同じ質問を繰り返した。自分はよほどひどい顔をしているのだろうな――応対した壮年の女性が眉根を寄せるのを見て、そう思った。 「ああ、見たよ」 今回もどうせダメだろうと思って心ここにあらずに聞いていた。だから女性の返答が短く核心をつくものになるとは予想できず、既に答え終わったのだと気付くのに遅れた。 「いま、なんて」 「あんたがさがしてるお嬢さんがそこに座っているのを見たって、そう言ったよ」 「本当だな!?」 「あのねぇ、ロド坊。そんなことで嘘ついてどうするってんだい。そうだよ、シェニーマお嬢さんはそこに座ってお友達と仲良くおしゃべりしてたんだ。しばらく前だったね、一時間、いや二時間前かな」 雑貨屋の女店長は、その時の様子をざっと話した。店といってもカウンターから客の注文を聞いてやり取りするような簡単な設計で、店内に人を招き入れたりしない。 いわく、シェニーマと彼女によく似た髪色の歳の近そうな女性が、歩道脇のベンチに座って談笑していたという。 「友達……いったい誰だ……? 橋のこちら側にお嬢様のご友人なんていただろうか」 歳の近い同性の友人と言えば、思い当たる者はどれも屋敷の近くに住んでいるはずだった。 「まあここからの角度じゃ、ちょこっと目の端にとらえてた程度だからね。お客に物を売ってた間に、ふたりともいなくなってたんだ。それ以上は知らんよ」 「ありがとう、大収穫だ。恩に着る」 男は深く頭を下げ、女性が指さしたベンチを調べようと踵を返した。すぐに背後から「ロド坊や」と呼び止められた。 「店長さん、その呼び方はよしてくれ。ちゃんと、ロドワンと呼んでくれないか」 彼の抗議には構わずに店長はカウンターに身を乗り出した。 「あんたとは長い付き合いだけどね。あの家とはもっと長い。この町のみんなだってそうだ、お嬢さんに危害を加えたいなんて思うはずがないよ。手を出すとしたらよその人間さね」 「どうして事件が起こった前提なんだ。ふたりで仲良くどこかに遊びに行っているかもしれないじゃないか」 ロドワンは笑って返したが、声に力が入っていないのは自分でもわかっていた。 「かもね。だと、いいのだけどね」 「そうに決まっている」 嫌な予感を振り払わんと足を速めた。だが石造りのベンチに歩み寄ると、先客がいた。 人影はしゃがみ込み、道端に落ちている根菜のようなものを拾い上げては編み籠の中に入れていた。黒い髪と褐色肌をした若い男性だ。濃い紺色の外套に大きな背嚢を背負っている。全体の印象からして、明るい色の可愛らしい編み籠だけが、男性の所有物に思えなかった。 男性は首を振り返らずに、視線だけでこちらを向いた。何かを探るような視線だった。そうしてゆっくりと立ち上がる。かなり背が高い。 ロドワンは身構えた。 「なんだ貴様」 出会い頭に喧嘩腰になる必要はないだろうに、男性の風貌には、思わず剣の柄を握りたくなるような異様な雰囲気があった。自分よりも高い身長か、表情の無さだろうか、それとも黒い右目の圧力だろうか。左目の方は長い前髪に隠れていて見えない。 男性はこちらの警戒や誰何をまるきり無視して、口を開いた。 「お前も女を捜しているのか」 雑貨屋の店長との会話を聞いていたらしい。一瞬、警戒がほぐれてしまった。 「も? ということは」 「これは、うちの物だ」――男性は編み籠を揺らした――「買い出しに行っていた。今晩の食事に使うつもりだったんだろう」 「そうか。察するにお嬢様と話していたご友人と言うのは、貴殿の奥方だったのだな。ふたりしていなくなった……ああいや、気を揉むのは早い、仲良くどこかに出かけたという可能性も」 下手に相手の不安を煽りたくないというよりも、単にロドワンは自分にそう言い聞かせたかっただけだったかもしれない。男性は首を横に振った。 「落ち合う予定だった時間を、大分過ぎている」 「それは……」 夕食に使う食材を放り出してどこかに行ったというのが、そもそも不自然な話であろう。 嫌な予感が強くなった。眩暈がするほどに。 |
2.逃げたい娘、シェニーマ - c
2020 / 06 / 07 ( Sun ) 「まあいい。餌として機能するなら、どっちが本物でも大差ない」
男はぬっと、燭台を持っていない方の手を出した。指は長いが傷痕の多い、不格好な手だった。 「身元を示すものを出せ。ウーデルハインツ家が一目見てお前のものだとわかるものがいい。渋るなら、身ぐるみを剥がす」 流れるように脅し文句を口にした男は、表情筋を動かさなかった。いっそ事務的と呼べるやり取り、そこに一切の私情も容赦も感じられない。言うとおりにした方が得策に思えた。 「どうぞ」 ミスリアの方を見やると、彼女は既に懐から装身具を取り出し、男に明け渡していた。男は鎖部分を親指に引っ掛け、手を挙げて十字に似たペンダントを無感動に眺めた。 縦長の棒を、中心よりやや上のところに交差する横棒は直線ではなく、左右がそれぞれ端に向かって渦のような形を描いている。この大陸に住まう大抵の人間は見覚えがある象徴だ。鎖の半ばのところに黒いリボンが結んであった。 「信徒か」 「教会でいただいてから、肌身離さず付けていたものです。私が貴方がたのもとにいること、確かに伝わるでしょう」 男はミスリアの答えに満足したのか、ペンダントを黒衣のポケットに突っ込んだ。 「お前は、どうだ」 次いで矛先を向けられ、シェニーマは急いで考えた。真に貴重なものを渡すのは憚れる。 髪を後ろで留めていたバレッタを外し、男の手の平に落とした。成人した時に父が職人に特注した珍しい金細工のものだ。値は張るものの、身分証明のために着けているアンクレットの価値とは比べるべくもない。 「これなら間違いないわ」 受け取り、男はバレッタに施された花の形に指を這わせた。まるで芸術品を愛でるような目をしているのが、かえって不気味だった。 「よし。ウーデルハインツ家当主を呼び出し、雇い主と対面させる」 男が不自然なほどはっきりと告げた。 (わざわざ予定を教えてくれるの? 親切心……なわけないか) 男の背後に、部下と思しき人影が現れた。予定を教えていた相手は、彼らの方だった。 「お前らはここで大人しく時間を待て」有無を言わせぬ圧力だった。「水くらいは与えてもいいが、それだけだ。小便はその場でしろ。わかっていると思うが、お前らが逃げられる隙などどこにも無い。変な真似をしたら、迷わず足首をへし折る」 男はそう言い捨てて、何故か燭台ごとろうそくを置いて行った。 (だからいちいち脅さなくたって! 迷わずって何よ、誰もあんたが人様の骨を折るのに迷うなんて思わないわよ!) 腹いせに、去り行く背中に舌を出す。 ふう、と横のミスリアが小さく息を漏らした。張りつめた緊張が緩んだのだろう。 「大丈夫?」 「ええ。シェニーマさんこそ、気を落としていませんか」 「へーき。あんな嫌味くさいヤツ、怖くない――怖くなんてないんだから」 強がりだ、声が震えたのは自分でもわかっていた。ゆらめくろうそくの火を見つめ、心を落ち着かせようとゆっくり呼吸した。 そうしていつの間にやら舟をこいだらしい。ろうそくはいくらか短くなっていた。 膝を抱えた姿勢で眠ったのがこたえて、肩や首が凝ってしまい、お尻も硬い地面のせいで痛くなっていた。心の中で悪態をついた。立ち上がり、伸びをして、傍にいるはずのもう一人の栗色の髪の女性の姿を探す。 ミスリアは両手を組み合わせて頭を垂れ、瞳を閉じて祈祷の姿勢をとっていた。裾の長いスカートが汚れるのも顧みず地面に膝をついている姿が、どこかさまになっている。 彼女はこちらの視線に気付くと、顔を上げて微笑んだ。 「祈ってたの?」 「貴女をさがしているひとと、私をさがしているひとが、出会えますようにと」 妙な答えだった。出会ってどうなるのかと訊き返そうかとも思ったが、その前に謝罪した。 「どうして謝るのですか」 「だって、あのペンダントは大事なものだったんでしょ? あたしの事情に巻き込まれたせいで、もう手元に戻ってこないかも」 するとミスリアはきょとんとした。 「大切といえば大切ではありますけれど……何しろ量産品ですし」 「へ?」 これまた妙な答えだった。 ミスリアは握り合わせていた手を開いて見せた。なんと、十字に似た形の銀のペンダントが握られていたのだった。先ほど例の男に差し出したものより一回りも二回りも大きく、左右の棒の渦巻く部分には紫色の石がはめられている。 シェニーマにも知識はあった。 水晶の嵌められたアミュレットは数が少なく、ヴィールヴ=ハイス教団の関係者のみが持っている代物だ。教団の象徴を模しただけのペンダントと違い、神秘的な力を行使するための道具であるはずだ。 「ミスリア、あなたいったい……?」 質問に込めた感情は畏怖であったように思うし、期待か希望のようなものでもあったかもしれない。 それを受けた小柄な女性はポスンと音を立てて腰を下ろし、膝の上に両手を休ませて、にっこり笑った。 「私はただの主婦ですよ」 次話、「3.焦る男、ロドワン」 |
2.逃げたい娘、シェニーマ - b
2020 / 05 / 31 ( Sun ) 「長く一緒にいるのですね」
「なのかな」 「他には?」 「背が高くて姿勢が良いの。顔はまあ、人目を惹くタイプじゃないけど、真剣な横顔がかっこいいというか……。普段おしゃべりとかしない方だけど、パパの言うことは絶対遵守、あたしにはお小言が多い感じ」話しながら、その姿を脳裏に思い浮かべていた。「朝ね、パパに結婚のことをまた言われて、ついちょっと声を荒げちゃったの」 いつまで先方への返事を先延ばしにすればいいんだ、うやむやにするのも大概にしろ、みたいなことを言われて頭に血が上ったのをおぼえている。言い合いになり、シェニーマは廊下に飛び出たのだった。護衛は父の書斎のすぐ外で待機していた。 すれ違いざまに腕を掴まれた時の感触を思い返し、無意識にそこをさすった。 「あいつ、『わがままを言うのはやめなさい』って。喧嘩の理由も知らないくせに、真っ先にパパの肩を持つんだ。ひっどいのよ」 せっかくミスリアが楽しい話で気を紛らわせようとしてくれたのに、いつの間にか愚痴ばかりになってしまった。 「――ですね」 「いま何て?」 前半が吐息混じりだったからか、返事がうまく聞き取れなかった。 「喧嘩別れのままでは、つらいですね。お父君とも、想い人とも」 「そんなこと」 ない、と言い切れなかった。 今生の別れになるのだろうか、あれが。何年も悶々と傍に居た者と、こんなにもあっさりと会えなくなるなど、ありえるのか。 それに父は――母を亡くして長いのに、未だに後妻を娶るつもりはないと言い張る父は、独りになってしまうではないか。想像しただけで胸がぎゅっと締め付けられた気がした。 (逃げなきゃ。こんなんじゃダメだ) 握り合わせた指先が震えている。ただでさえ暗い視界が、涙で歪んだ。 「助けに来てくれた時の様子を妄想してみたら、楽しいのではありませんか」 鬱々とした思考に、やけに明るい声が切り込んできた。こんな時にどこまでものんきな! 「もう十分でしょ! ふざけないでよ」 半ば反射のように怒鳴った。他人に当たるのは間違っているとわかっていても、止められなかった。 「ふざけていません。必要な――いえ、私のためだと思って、もうしばしお付き合いください」 暗がりの中で、再び手を握られる。当たり前のように、温かい。 「……うまいね」 そう呟いても、ミスリアは首を傾げるだけだった。とぼけているようには見えないが、この気の遣い方は計算なのか無意識なのか、やはり判別つかない。 シェニーマはため息を漏らした。もうしばらく付き合うくらいいいだろう。 「助けに来てくれるかなぁ。けっこうひどいこと言ったんだ、朝」 「貴女を護るのが彼の役目であれば、どのような感情が間にあっても、来てくれますよ」 「役目、ね。あいつがあたしのためにしてくれることが全部、役目だからなんだって思うと、相当むなしいものがあるわ」 「むなしいと思うのでしたら、再会できた時に訊ねてみましょう。お役目がなくても大切に想ってくれますか、と」 「簡単に言ってくれるね!」何故だか、笑ってしまった。「でも、融通が利かない感じでね。へたすると正門叩いちゃうんじゃないかな。護衛なんだし、腕は立つ方だと思うんだけど、荒事に慣れてるかっていうと、あやしいわ」 「なるほど」 「ねえ。ミスリアこそ、助けに来てほしい人がいるんじゃない?」 訊き返すと、彼女は虚を突かれたように、一拍の間黙り込んだ。やがて苦笑交じりに答える。 「来てほしいと言えばそうですね。いえ、おそらく私が何かをしてもしなくても来るでしょう」 「うわー! ねえどんなひと!? 根掘り葉掘り聞きたいわ」 「まず、正門を叩くようなひとではないですね」 そう言った声音が驚くほどに優しくて、これは冗談でなく惚れこんでいるな――と、シェニーマが置かれた状況を忘れてはしゃぎそうになったところで、物音がした。 恐ろしく近い。いつの間に接近していたのだと気付くと、体が凍り付いた。 おい、と男の鋭いひと声が闇を切った。路地に現れたあの男のものだとすぐにわかった。 「もう一度確認する。シェニーマ・ウーデルハインツは、どっちだ」 「あたしよ」 「私です」 今度は後れを取らなかった。隣のミスリアとほぼ同時に応答する。 静寂があった。 そして、男の手元に火が灯る。 |
2.逃げたい娘、シェニーマ - a
2020 / 04 / 29 ( Wed ) (やばいやばいやばい!)
意識が戻るなり、シェニーマは跳ね起きた。 腹を殴られたという最後の記憶通り、下腹部に鈍い痛みが残っていた。だがそんなことより、状況確認だ。 暗い。やや離れた場所に人の気配があるが、近くにも誰かいる。 「――……!」 口を開けようとして、塞がれた。 「お静かに。騒がない方が体力を温存できるかと」 耳元で若い女性の声がした。華奢な体のどこにそんな力があるのか、シェニーマを黙らせる小さな手はびくともしない。 無言で頷くと、女性が手を放してくれた。暗くて顔こそ確認できないが、出会ったばかりの人の好い彼女で間違いない。 「ごめん、ごめんね……! あたしのせいでこんなことに」 手を取り、小声で必死に謝った。ミスリアの手は妙に温かく、握っていると逆に安心できた。応じた声もまた、妙に落ち着いていた。 「そんなに落ち込まないでください。私は大丈夫ですよ」 「何言ってるの。大丈夫なわけないじゃない!」 シェニーマは家の関係で、人攫いに遭ったことが人生で初めてではなかった。しかしミスリアはどうか。平穏な場所で日々を真面目に生きてそうな彼女に、理不尽な暴力や唐突な恐怖を味わわせてしまったのが、あまりに申し訳ない。 (あたしに親切にしたばっかりに……あたしが、お腹なんか空かせていたばかりに!) 涙がにじみ出るほど悔しかった。こうなることくらい、予想するべきだったのに。 かばってくれたのは予想外だったが。 誠意と謝意の表れとして、シェニーマは己の身の上についてすべて明かした。自分が町長の娘であること。父が今の役職に就くより以前から商いで大成していて、そのせいで何かと敵を作っていること。 近日父は大きな商談を予定していたから、きっとこれも商売敵の大掛かりな妨害工作のうちだろう。 「よくご存じなんですね」 ミスリアは本気で感心しているようだった。 「最初から話してればよかったね」 屋敷内ではシェニーマに味方する者が多く、父の動向は日ごろから子細に耳に入れているものだが、その点には触れないでおいた。 「聞いてたところで、拉致されるのを防げたとは思えませんし。お気遣いなく。この類の体験でしたら、お恥ずかしながら初めてではありません」 「強がらなくていいのよ」 こちらが気を落とさないように気丈に振舞っているのかと思うと、ますますつらかった。暗がりの中で、ミスリアは小さく笑ったようだった。 「馬車が走っていた時間の長さと着いた時の雑音の少なさからして、市街地を離れたような気がします。それ以上は、移動の際に頭に毛布をかぶせられたのでわかりません」 「どこかの蔵か倉庫? 寒いし、カビっぽい匂いがするから、地下かな」言い終わらないうちに、シェニーマは悪寒に震えた。人里離れていて、なお大声で叫んでも誰にも届かないような場所に軟禁されている――。より一層、声を潜めて呟いた。「逃げる算段を……」 「見張りの方が複数いるようです。難しいでしょう」 「おとなしく助けを待ったって、みつけてもらえないかもしれない!」 唇を噛みしめる。わかっていた。何もしなければ恐ろしい目に遭うかもしれないとわかっていても、何かをしては、もっと危険な目に遭いかねない。 「シェニーマさんを交渉の道具にするつもりでしたら、すぐに命の危険は無いのでは?」 「だとしても生きていればいいだけならいくらでも危害は加えられるよ」 「それも、そうですね」 沈黙が続いた。 静かにしていると、多少離れた場所にある人の気配に意識が向いてしまう。見張りなのだろう、数分経っても動く様子はない。 いやな緊張感だ。己を抱くように腕を組むと、肩から震え始めた。 「無力な自分を嘆くのも仕方ありません。でもいますぐできることはなくても、できることがある瞬間を見極めて、その時に行動できれば、十分だと思いますよ」 「――――」 急に何の話、とは答えられなかった。彼女は読心術でも心得ているのだろうか、的確にシェニーマの心情を言い当てていた。呟く声は不思議と大人びていて、心の奥底に沈み込むようだ。歳は近いはずなのに。 ところが、次には明るい声になっていた。 「少し、楽しい話をしませんか。そうですね、シェニーマさんの想い人は、どんな方なのでしょうか」 「え」 「ぜひ聞かせてください」 「えっと、どんなって……えー……? そうね、一応は使用人なのかな。うちの屋敷の、あたしの護衛であってお目付け役みたいなものなの。もう十年以上前から知ってる」 |
1.相談にのる娘、ミスリア - c
2020 / 04 / 18 ( Sat ) 「らしい、ということは、まだどなたともお会いしてないんですね」
シェニーマはゆっくりと首肯した。 「パパがすすめる結婚相手に嫁げば家のためになるけど、あたしはこの町を出て遠くに行くことになる。そんなの嫌」 「難しいですね」 「……まあ、ね」 外套のボタンを指先でいじりながら、彼女は言葉を滞らせる。 ミスリアは歩道脇にあったベンチに腰をかけ、シェニーマにも隣に座るよう促す。共に腰を落ち着けると、話が継がれた。 「パパは、他に結婚したい相手がいるなら縁談は考え直すって言ってくれたの。婿を跡継ぎに迎えればいいんだし」――いったん言葉を切り、俯く――「でもあたし、好きなひとがいるって言いだせなかった」 「想い合っている方がいると、お父様に相談するのが何よりの第一歩でしょうね」 恋愛結婚が少数派である世の中、家の立場を思えばなかなか言い出せないのも仕方ないだろう。けれど彼女は異を唱えられる段階にありそうだ。だとすると、無理に我慢をすることもない。 シェニーマは急にしどろもどろになった。 「そ、それがね」 「?」 「想い合っているわけじゃないかも、ていうか、向こうは何も知らないどころか、受け入れてくれそうかっていうとむしろダメかも」 遠回しな言葉が続いた。ミスリアは数分ほど静聴していたが、折を見て「要するに」と切り込んだ。 「相思相愛の相手ではない、と?」 「うわー! そうよー! あいつなんも知らないどころか、絶対、全然、みじんもあたしの気持ちに気づいていないわよー!」 「きゃっ!?」 シェニーマが奇声を上げたので、隣にいたミスリアは驚いて足元の買い物籠を蹴ってしまった。籠が倒れされた拍子に、芋が三個、それぞれ違う方向に転がってゆく。立ち上がり、一個ずつ拾ったが、三個目は路地の影の方に消えてしまった。ひとまず拾った二個を籠に戻した。 「ごめんね。こういう話、興味ある?」 「ありますよ。ただ私はあまり……うまく相談に乗ってあげられるほどの人生経験がなくて、申し訳ないです」 「そんな感じするー。あれ、でもミスリアがしてる指輪って、」 不自然に質問が途切れる。シェニーマは黄緑色の双眸を大きく見開き、表情をかたまらせていた。その視線の先を辿り、ミスリアは首を巡らせた。 黒衣の男が佇んでいた。 路地に並ぶ建物の影がかかっていて、顔や身なりはよく見えない。片手に、先ほど転げて逃げたばかりの芋を握っている。 「みつけたぞ」一瞬、彼女の迎えが来たのかと思ったが、次の問いかけがその可能性を完全に打ち消した。「お前が、シェニーマ・ウーデルハインツか。いや、後ろのもうひとりか?」 この男は危険だ。直感がそう訴えかけてくる―― 「私です」 「なっ、待って!?」 男の視線を遮るように、ミスリアは一歩踏み出て答えた。背後で本物のシェニーマが口を出そうとするのを、片手で制する。 「この際どちらでも構わない。おい、まとめて確保しろ」 路地の奥からさらにふたつの人影が出てきた。声を出す間もなく捕らえられ、担がれ、そしてどこかに投げ込まれた。 骨を打ったのか、肩からじわじわと痛みが広がっている。 (干し草の匂い……?) 眩暈がおさまるのを待っている間に、馬のいななきと、振動がした。どうやら荷馬車に放り込まれて、その馬車が動き出したらしい。 辺りを手探り、すぐ近くでシェニーマが横になっているのを知る。囁きかけても返事がない。咄嗟に彼女の顔に耳をよせ、ちゃんと息をしていることを確認した。 座り直して、胸をなでおろす。 他にも人の気配がする。こちらをじっと観察――否、監視か――しているのを感じられる。 (白昼堂々と、人攫い) 町の治安が良いという評価を改めねばなるまい。 (困ったわ) こうなっては、遅れるどころでは済まない。また、呆れられるだろうか。 暗闇の中、ミスリアはそんなことを考えていた。 次回、2.逃げたい娘、シェニーマ |
1.相談にのる娘、ミスリア - b
2020 / 04 / 11 ( Sat ) 「シェニーマさんは、どこかへ向かう予定がないのでしたら、一緒に歩きませんか。話し相手が欲しかったんです」
「予定なんてないけど」 「出会い頭に馴れ馴れしいと思うのでしたら、もちろん断ってかまいませ――」 「ううん。いく」 「え、あ、はい。ではついてきてください」 自分で誘っておきながら、もう少し警戒心を持った方がいいのではとミスリアが心配するほど、あっさりと彼女は首を縦に振った。 改めて相手の顔を見上げる。歳は近いだろうけれど、身長はシェニーマの方が頭半分ほど高い。卵型の輪郭に白く透き通った肌が魅力的で、陽射しにきらめく黄緑色の瞳はペリドット《橄欖石》に似ていて、色こそ珍しくないが、見る者を吸い込むように美しい。 ふたり並んで歩きながら、他愛のない話をする。来月催される祭事や、流行りのかわいい髪留め、或いは最近みつけたおすすめのカフェについて談笑した。ほぼミスリアから振った話ばかりだったが、シェニーマはどれにも食いつきがよく、無邪気な笑顔を絶やさなかった。いろいろなものに興味があるらしい。 あっという間に橋を渡り切ってしまい、そこでミスリアは外套のポケットから小さなリンゴを二個取り出した。 「話し相手になってくださりありがとうございました。お礼にどうぞ」 差し出されたみずみずしい果実を、シェニーマはまず無言で見下ろした。数秒後にはひとつ取って、手の平にころんとのせた。 「意外としっかりしてるんだ」 「それはどういう意味で?」 「ただ食べ物を恵んでくれるんじゃなくて、お礼って形にしたでしょ。そうすればあたしは『借り』ができずに済む」 首を傾げて、ミスリアはしばらく言われたことを反芻した。 「私は本当に話し相手が欲しかっただけですよ」 「自分のおやつを他人に分けてまで?」 「はい」 「無意識なら、もっとすごいと思う」 シェニーマは残る二個目のリンゴをも手に取り、ジャグリングをし始めた。 手先が器用というのか、運動神経がいいのか。宙を舞う赤い軌跡に思わず見惚れてしまう。 「ミスリアは、これから織物を買うんだよね。その荷物持つよ。食べ物はもういらないから、あたしの悩みを聞いてくれる?」 唐突にジャグリングの手を止めて、彼女はリンゴにかぶりついた。シャク、と小気味のいい音がする。 頼みごとをした声音は明るいままだが、視線が泳いでいて目を合わせてくれない。その悩みは、家に帰りたくない理由と繋がっているのだろう。 「ええ。喜んで」 ミスリアが微笑を返したのと同じタイミングでシェニーマが盛大にくしゃみをした。家を飛び出たスタイルだからか、彼女が着ているワンピースは長袖であっても薄そうな生地を使っている。もののついでに外套を買ってあげることにした。 さすがに受け取れないと意地を張る彼女をなだめ、一番安価のものをプレゼントした。 「なんか……ありがとう。後で、ちゃんとお金返すよ」 「私は別に構いませんよ」 「あたしが貸し借りナシにしたいの! まだ悩みも聞いてもらってないのに!」 「そうでしたね。いつでもどうぞ」 店を出ると、遠くで時計塔が短い音の羅列を奏でた。既に待ち合わせの時間だが、この奇妙な成り行きが楽しくて、名残惜しい。遅れてしまうことを心の中で詫びた。 「将来のことをね、決めなきゃなんないの」 「はい」 背筋を正し、相談を聞く姿勢に入った。彼女の歳を考えれば、遅い悩みにすら感じられる―― 「パパがね、結婚相手を選べって。何人か候補がいるらしいの」 「は、はい」 少しミスリアの予想していた話の運びと逸れて、困惑した。 |
1.相談にのる娘、ミスリア - a
2020 / 04 / 06 ( Mon ) 声がした方向に視線をやると、橋を縁取る手すりの下に丸まった人影があった。 そこまでの距離、四フィートほどか。遮るものがないとはいえ、独り言などの呟きがハッキリと聴こえるにはやや離れている。空耳かと疑い、辺りを見回したが、ちょうど周辺にはほかに誰もいなかった。なんとなく空を見上げる。そこにも遮るものはなく、青空と薄い雲が広がっているだけだった。スズメが一羽、忙しなく横切った。 「だー! おなかすいたぁ!」 「きゃっ」 今度は鋭い叫び声がした。驚き、肩をすくめる。 手すりの下の人影が、手足をばたつかせて唸っている。明らかに飢えている様子ではなかった。まだ十分に暴れる元気が残っている段階の空腹と見受けるが、それでも無視するのはしのびないと思い、歩み寄ることにした。 「大丈夫ですか」 その一言を、相手に気付いてもらえるまでに何度か繰り返す。やがて顔を上げたのは、二十歳前後の若い女性だった。 「……あなたは?」 「ただの通りすがりの者です。ミスリアと申します」 名乗ると、女性はハッとし、座り込んだままに背筋を伸ばして頭を下げた。後頭部でひとつに結った髪が揺れる。緩く波を打つ栗色が自分とお揃いだとミスリアは静かに気に留めた。 「ご丁寧にどうも。あたしは、シェニーマっていうの。お見苦しいところを」 「初めまして。いえ、シェニーマさんは、お腹が空いているのですか?」 「そうなのよ!」 がばりと立ち上がった彼女は、足首までの丈の綺麗な桃色のワンピースを着ていた。歳のほどに合った平均的な身長と肉付きだが、要所を飾るアクセサリと刺繍によって華やかな印象を受ける。束ねた髪を飾る花柄のバレッタにも、高そうな繊細な金細工が施してある。 「朝、家を出てから、何も食べてないの」 シェニーマは一句ずつ、重々しく吐き出した。 やはり飢えているわけではないようだった。 「どうしてでしょうか」 ミスリアは周辺に視線を走らせ、言外にどこかで食事していけばいいのではと問うた。 人道橋の下を流れる河は深く広く、運搬に適していた。岸に並ぶ建物の多くは飲食店を営んでおり、河を伝って材料を仕入れている。特にこの時間帯はどこも美味しそうな匂いを発している。 ないから、と彼女はボソリと答えた。 「はい?」 「……お金が、ないから」 「――はい?」 意外な返答に、ミスリアは思わず目をぱちくりさせた。流暢で上品そうな共通語、裾についた新しそうな汚れを除けばなかなかに整った身なり、これでどうして手持ちが無いと言うのだろうか。 「お財布を落としたのですか」 「ちがうの、勢いで家を飛び出したから何も持ってなくて……そもそも、出かける時はいつも別の誰かがお金を管理してたし……あたしはあんまり持ったこともないし……」 目を伏せての言い訳じみた口ぶり。 (どこかいいところのお嬢さんなのかしら) 重ねて質すのはかわいそうな気がして、ミスリアはとりあえず笑顔で話題を変えた。 |
0.であい、橋の上にて
2020 / 04 / 04 ( Sat ) 人道橋を渡っていたら、右手の丘の上から厳かな旋律が転がり落ちてきた。 正午を報せる音の波は遠目にそびえる時計塔が奏でているものだ。となると待ち合わせの時間まであと三十分か、と彼女はひとりごちる。腕に抱いた手作りの買い物かごを見下ろした。今夜分の食材と、珍しい品だというので買ってみた少量の調味料と、羽ペンに使うインクの替え。あと足りないものといえば、これから冬に向かって冷えてくることを予想して、ひざ掛けか肩掛けが欲しいところだ。 橋の向こうに、織物を取り扱っている店があったと思う。なければ毛糸から自作するという手もある。 鼻唄交じりにのんびり歩き続けた。 この町に来てまだひと月経ったばかりだが、しばらく定住してみようと検討するほどに気に入っている。秋の気候は過ごしやすく、朝晩がやや寒くて午後は通り雨がたまにある程度で、困ることはない。商人と物資の出入りは多いながらも治安は悪くないし、すれ違う人々の雰囲気が明るい。聞けば町長は民の声によく耳を傾けるような御仁で、広く支持されているらしい。 今のところ非の打ち所がない。物乞いや孤児の影すらあまり見たことがないくらいで―― 「……おなかすいた」 「え」 タイミングがいいのか悪いのか、ふいにそばから、覇気のない声がした。 0~5の六話編成を予定しています。しばらくお付き合いいただけると嬉しいです。 次話:相談にのる娘、ミスリア |
α.7.
2020 / 03 / 07 ( Sat ) ←前の話
「あの、それは何をしているの?」 ようやく街道を見つけて町もすぐそこというところで、三人は休憩をとることにした。最も体力のないアイヴォリが岩の上で息を整えている横で、アイリスとカジオンは暇だからと妙な遊びを始めたのだった。 それぞれ片手で握り拳を振り合って、揃って掛け声を出しては、手の形を変えている。一斉に開示した手の形次第で勝ち負けが決まるらしい。 「じゃんけんだろ」 「なぁに、あんたの故郷じゃやらないの」 「私はやったことないけれど」 「えぇ、じゃあ誰かとモノを取り合う時の平和解決には、どうしてるのよ」 「しらない……」 アイヴォリの答えが「やらない」ではなく「知らない」になってしまうのは、幼少期の過ごし方に起因する。第一王女という立場にはある程度の甘やかし、ある程度の贅沢、そしてある程度の不自由を伴った。 「んだよアイヴォリ、まるでトモダチいねーみたいな答え方だな」 「いないわ。きょうだいもいないから、何かを取り合う相手がいないの」 朝夕みっしりと詰め込まれた魔法の修行に習い事、食事、両親や親戚との茶会、それ以外の時間は一人で読書という名の勉強をしていた。十六歳だというのに未だ社交界に顔を出すことも許されておらず、友人と呼べる相手を持ったこともなかった。 あまりその事実を意識せずに生きて来たが、二人は、憐れむような顔で黙り込んだ。どうしたのかと問い質しても返事を濁すばかりで、結局この話題は流れた。 転じて、しばらく後に剣呑な場面に行き会った。 夕立で視界が悪いが、荷馬車が襲われているのが遠目に見える。ぬかるんだ地面に車輪を取られ、ずれた軸を御者と護衛が揃って直そうとしている間に盗賊に囲まれたようだった。 そんな一部始終を目撃したことが信じられない。愕然とするも、アイヴォリは雨音にかき消されないように声を張り上げた。 「助けに入った方がいいんじゃ……!」 「ハァ? 戦闘力ねーくせにバカ言い出すなよ」 カジオンが瞬時に却下した。冷たい目が相変わらず威圧的で、アイヴォリは思わず逃げるように隣のアイリスに縋った。 「あなたたちにはある、よね。なんとかしてあげられるよね」 門もすぐそこのところで荷を盗まれるのはあまりに不憫ではないか。そう思って言い出したのに、アイリスまでもが乗り気でないらしく、腕を組んで唸っていた。 「あのねえ、敵の数が多いからこっちもタダじゃ済まなそうよ。見ず知らずの他人を助けたところでお礼《メリット》があるとも限らないのに、骨折り損じゃない?」 「で、でも二人は私を助けてくれた――」言いかけて、ハッとする。アイリスとカジオンが礼金を期待して自分に手を差し伸べてくれた可能性に思い至ったからだ。だが彼らは顔を見合わせて、思ってもみない答えを返した。 「んなもん、オマエがアイリスと同じ顔してるからだろ。他人って感じしねーから見捨てらんねーんだよ」 「突き詰めればそうね。良心を働かせる相手は選ぶものよ」 「つーワケで、行きたきゃひとりで行くんだな」 「そんな……」 良心とはそういうものだっただろうか。アイヴォリは己の倫理観に自信が持てなくなった。人を助けるべき瞬間に立ち会ったことがそもそも初めてな気がするし、自分ひとりで行動できるかと問われれば――尻込みしてしまうのが正直なところだ。 「まあ、待ちなって、カジ。馬車の主がお礼してくれる可能性もあるわけだし」 途端にアイリスが意見を変えた。 「んだよ、オマエそっちに賭けんのか」 「賭けないわよ。そうねえ、あんたとアイヴォリが『じゃんけん』して、それで行動方針決めちゃわない?」 「テキトーだな……いいぜ。その勝負ノッた」 「え、え」 アイヴォリがまともに異を唱える間もなく、強引にルールを教え込まれた。煽られるままにあたふたと右手を繰り――勝った。というのも掛け声を聞いたら頭が真っ白になり、手のひらを開いて提示しただけである。相手のカジオンは握り拳、これで行動方針は「助けに行く」に決定した。 「気乗りしねーけど、負けは負けだな」 言い終わる前にも彼は後ろ手に自身が背負っている奇妙な形の槍を掴んだ。 刹那、アイリスとカジオンが視線を交わす。カジオンが槍先を逸らして、何かを合図した。対するアイリスは頷いて、両の脚に手をやった。下手すると扇情的なしぐさに見えるが、どうやら太ももに括り付けた短剣を取り出しているらしい。構える動きが素早く、風の切れる音がした。 カチャン、と何かのからくりが作動する音もした。アイリスの短剣がそれぞれ左右に枝分かれして、三叉の形状をとった。 見とれる間にも二人は駆け出している。 突然の乱入者に盗賊も馬車の人員も対応が遅れる。カジオンが跳躍した次の瞬間には三人が倒れていた。青年はひとつの流れるような動きで盗賊をなぎ倒し、また別の方向からアイリスが次々と敵方の剣を弾いている。 「何奴!?」 「ただの通りすがりだ! あんたらに加勢するぜ!」 「させるか! 女からやれ!」 短いやり取りを聞いて状況を察した盗賊団が、まずはアイリスに狙いを定める。しかし少女の動きが身軽で、なかなかとらえられない。 敵の苛立ちや焦燥感をうまく誘導し、すんでのところで身を翻しては、怒りの矛先を逸らしている。逸らされたものの一部をカジオンが槍で受けた。ところどころ動きが速くて視認できないが、彼らが連携した流れに慣れているのはなんとなくわかる。 ――いま、どちらが優勢なのだろうか。 離れた場所で身を隠すアイヴォリは手を握り合わせ、唇を噛んだ。 場慣れしていない者にとっては、どのような規模でも、戦場は総じて混乱にしか見えないものだ。泥が、水が、血が、暗いしぶきとなって飛び交うのを、アイヴォリは肝が冷える想いで見守った。 これは自分が言い出したことなのだ。じわじわと実感が湧き上がる。自分の提案がどんな結果を招いたとして、責任逃れはできない。 今後の安全な旅路に彼らが必要な事実は別として、二人には無事でいてほしい。損得を抜きにした純粋な願いだった。 大丈夫なのだろうか。不敵そうに走り出していたが、彼らの実力がどれほどのものなのか、アイヴォリには測り知れない。 焦りが募る。 ――あとどれくらい経てばこの戦いは終わる? すでに誰かがけがをしていないか? わからない。よく見えない。 無意識に目を凝らしていたのだろう。ふいに動きを止めた盗賊の一人が、こちらを振り返った。 目が合った。 冷たい恐怖が手足を駆け巡る。男性の表情は、一瞬のうちに警戒を強めた――ように見えた。 (こないで) 自己防衛意識と、まだ戦っているであろうアイリスとカジオンへの心配が、胸の奥で絡まり合う。状況を打破できる手助けができたならどんなにいいか。アイヴォリが持つ手段は、魔法のみである。けれど魔法は、使いたくない。使いたくないのに。 盗賊の男が走り出した。一直線に向かってくる。 恐慌で頭が真っ白になった。 そして目の前が、真っ赤になった。 |
遠くよりも目の前に
2020 / 02 / 29 ( Sat ) 観光目的の二段バスが、ブシュッと大きな音を立ててゆっくり動き出す。これでもう何度目のことか知れない。香港の道路はいつでもひどく渋滞しているというのに、なぜわざわざバスなのか、少女には不可解だった。 ライリーは鬱陶しげに嘆息する。再び話し出したハキハキとしたガイドの声が耳障りで、読書に専念できない。「本なんて読んでると酔うぞ?」 隣の席からやんわりとたしなめる声がした。 髪と髭を短く剃った東洋系の中年男性がのぞき込んでくる。ワイシャツの襟が少しよれているが、全体的に清潔そうな印象である。そうだった、この男が誘ったから今ここにいるのだった。 「別に平気」 「いやあ、でも、せっかくのツアーがもったいないじゃないか。この町は面白いぞー。初めてなんだからもっとよく見たらどうだ」 「……」 彼女は面倒くさそうに眼をそらす。観光が嫌だとか、街並みに興味がないというわけではない。問題はこの男だ。 両親が別れたのが十年前、まだ五歳となかったライリーは母親についてずっと英国で過ごしてきた。それが今になって突然、父方の祖母が体調を崩したからと、顔を見せに行くよう母から言いつかってきた。ついでに兼ねてからしつこく連絡してきた父親にも会ってきたらどうだ、とのことだ。まったく大人というものは理不尽である。 祖母は人当たりがよくて落ち着くひとだったが、常に見舞いをしているわけにもいかない。かくしてライリーは、これまで手紙と贈り物を通してでしか知らなかった、ほぼ他人な男と二人きりで出かけることになった。 「おっ、交差点渡ったばっかりのあの青年。両手に提げている袋、あれタピオカドリンクが入ってるんじゃないか? 結構な数だな」 特に興味のある話でもないが、父が「ほら、ほら」とうるさいので、仕方なくライリーは前髪をとめていたヘアピンを一本抜いて栞にした。父が指さすほうを横目に眺めやる。眼鏡をかけた細身の青年がポリ袋を持って早足に通り過ぎていくのが、ちょうど見えた。確かに相当な数のドリンクとストローだ。 「友達と飲むんでしょ」 「どうだろうな、袋にレシートが綴じてあった。デリバリーサービスじゃないか」 「ピザを頼むんじゃあるまいし、タピオカのためにわざわざそんなことするひといる?」 「いやー、時代が時代だからね。僕もむかし、新聞配達のバイトがんばったなぁ」 「何それ。全然ちがう話……」 言いつつも、ふと脳裏に浮かぶ映像を意識した。 アジア人の少年が、せっせと自転車をこぎ、ライリーのよく知る英国の住宅街で新聞を配っていく日常を。毎朝のように彼が住人たちに声をかけられ、犬に追われたり、子供たちと笑顔を交わす光景を。あくまでそれは想像でしかなかったが、とても身近に感じられる、温かさを伴った映像だった。 「おとうさん」 「な、なんだい」 急に呼ばれて、父はひるんだようだった。 「その話、わたしもっと聞いてみたい」 「どの話?」 「おとうさんの若いころのお話。バスガイドの町案内よりは、面白そうだから」 手元の本を膝の上からバッグの中へと移す。ライリーは微かに笑ってみせた。 「あ、ああ。いいよ。なんでも教えてあげる」 父は席に座り直して、微笑みを返した。 彼の物語を聞くことが、親を他人と感じなくなるために取る、きっと大きな一歩となろう。 ストーリーダイス https://davebirss.com/storydice-creative-story-ideas/ お題:本 新聞 ヘアピン バス ピザ |
3-3. h & あとがき
2020 / 01 / 11 ( Sat ) 「…………」
長い沈黙の後、そうかもな、と呟く。 「逃げようって、そそのかしたこと後悔してる?」 「んにゃ。後悔っつーのは、ニンゲンがつくった概念だろ」 二度、逃亡を提案した。一度目に受け入れられ、二度目には拒まれたが、それぞれの状況の差異に気付かないほど、ミズチは愚かではなかった。 「ラムが遊んでくれなくなるまで……あいつが所帯持って、歩けなくなるまで長生きするのを、見届けてもよかった。うまれた国で使用人してた方が、何事もなくそうなったかもな。けどもしもの話に意味なんてない。あいつは自分の意思でクニを出て、生きて、死んだ。そんだけだから」 「うん。わたしはその人を直接知らないけど、彼も責任を感じてほしくないと思ってたんじゃないかな。感謝してるって言葉が、きっと本心だよ」 唯美子は「話してくれてありがとう」と囁き、そっとミズチの肩を抱き寄せた。 「きみは長生きしてる割に他者と関わってこなかったって織元さんは言ったけど、そんなことない」 一瞬、耳をかすった彼女の声に、何かを決心したような力がこもっていたのを感じた。どういった決意であるかまでは感じ取れないが。 恒温動物の発する熱に包まれ、ミズチは気が緩んだ。長らく呼び起こしていなかった記憶を辿ってしまうほどに。 「はじめて海に出た夜、あいつすげーはしゃいでたな」 少年は見渡す限りの平面に愕然としたのだった。吹き荒れる海風に委縮して、甲板の手すりの前で立ち上がってはしゃがみ込み、を繰り返して涙の滲む目で叫んだのをおぼえている。 ――しんじられない! ――なにいってんだ。しんじるもなにも、海は海だろ。存在してんだよ、いまここに。 ――そうじゃないって。きみは、うみがぜんぜんこわくないんでしょ!? しんじられない! こんなにひろくてまっくらなのに、なんでへいきなの? ――ただのでっかいみずたまりみたいなもんだろ。 ――うみのなかは、みえないんだよ! いきができないんだよ! どんな妖怪がでるかわからないよ! しまいには少年は海面を見つめているうちに気分が悪くなったと言い出し、再び船内に身を潜めた。もちろん上陸するまでは船酔いもひどかった。なんとも情けない話である。ミズチは呆れながらも、終始そばについていた。 航海中、天気のいい日にはラムはこっそり甲板に出て果てしない空と海の青に感嘆していた。塩水を見ているだけで心が浮き沈みするのが、ミズチにはやはり奇妙に思えてならなかった。 姿形をいくら似せようとも、少年は己とは別の種に属する別の個体だった。相手を真に理解することはできないし、される日も来ないだろう。 けれどそれでいい気がしていた。距離感に、不満はなかった。 ――妖怪がでたらさ、おいらが倒してやるよ。だからそんな怖がるなって。 ――だめだよ。かわいそう。 ――じゃーおとなしく喰われるんか? ――たべられるのもたおしちゃうのもヤだな。だからそうなったら―― 隙間の空いた歯並び、屈託のない笑顔。 忘れていた。 「あー、そーか。あいつ『逃げるのを手伝って』って答えたっけ」 変なところで頑固で、変なところで潔い。そうしてその会話通りの展開もあったなと、遅れて思い出す。 これを滑稽と呼ぶのだろうか。 笑った。何が楽しいのかわからなかったが、やがて唯美子が心配そうに「大丈夫?」と声をかけてくるまで、うずくまって笑い続けた。 * どれくらい深く穴を掘れば、差し込んだ石が真っすぐ立つのか。かけた土をどう叩けば、土台が崩れずに済むのか。知らないことだらけの初めての作業に、ミズチはずいぶんと手間取った。 亡骸が埋葬された山の中。 夕方に始めたのに、もうこんなものでいいだろうと妥協した頃には、すっかり夜が更けていた。しかし雪雲が月明りを反射して、辺りは意外と明るい。 いつか亡骸にしたように、墓石のそばで膝を抱えて座り込んだ。ニンゲンならば墓に向かって言葉を添えるはずだ。返事があろうとなかろうと、そうするはずだった。 (こういうときなんていえばいーんだろーな。おまえの言語に『再見』以外の挨拶あんのか?) あるとすれば、ミズチは教わっていなかった。 別れの挨拶にしては前向きに過ぎる。 (またあおうって。いつ、あえんだよ) そう思っていても、言葉がわからないのでは仕方なしである。 頭をかいて、嘆息した。 「――以後再見」 空を仰ぐと、雪結晶が額に触れてそっと解けた。 ミズチは死後の世界を信じない。死者の霊が風を吹かせただの動物の使いをやっただの、ニンゲンが語るような事例《しるし》に一切期待しない。 なのでその挨拶は願いのようなものだった。 口に出してから理解した。二度と会えなくても、会いたいという想いを形にすることには意味があるのだと。 想いがどこかにある限り、共に過ごした日々が消えることはきっとないだろう。 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします! どんだけ時間かけて三章書いてるんだよって突っ込みは自分でしておきますね_OTL まあリアルに色々立て込んでたのと、創作に向ける集中力が低下していたのが敗因でしょうかね。その割にはこの過去エピソードはきちんと書きたかったので、半端なものを出したくなくてずっと未完のものに手を入れ直していました。それこそ何回も何回も書き直してきました(゚∀゚) これですべてよかったのかは後日また考えます…。 さておき、見た目双子・中身あべこべな二人の明るくアホいエピソードを書きたい気持ちはあります。完全に本編とは関係ないので外伝になりますが。そんなことより四章練ろって? あ、はい。ガンバリマス! |
3-3. g
2019 / 12 / 20 ( Fri ) まったくの無意識だった。自分でも何が楽しいのか、まるでわからない。 わからないが、何かが吹っ切れたような気がした。いつの間にか視界いっぱいに光が満ちていた。生命力が器から零れ落ちて、昇華されていく。 そんな光景をミズチは美しいとも寂しいとも感じなかったが、大気中の温度が微かに上がった点に、不思議な心地がした。命の温かみと、知った顔との別れに触れていることに、胸の内がざわついた。 「好了《わかったよ》。你可以放心《あんしんしていいぜ》」 光の海に沈む青年に近寄り、膝辺りに一度拳をぶつける。ふたつの願いを聞き入れてやるという意思の表れでもあった。 それを受けたラムは口元を僅かに震わせた。もう一度、微笑もうとしたのかもしれない。 「兄弟、你要照顧自己」 青年は言った――兄弟よ、自分を大事にするんだよ、と。 不規則な呼吸音が続き、やがて数分と経たない間にその瞳から光が失われた。 長かったようで、あっけない。この者がゆるやかに死に向かっていくのを見届けはじめてからどれだけの日々が経つだろう。 (大事にするもなにも……) 己の滑らかな指とラムの壊死したそれとを見比べる。ニンゲンの手足は大きく損傷したら再生できないが、ミズチの場合、再生できない損傷というのがむしろ稀有である。 ひとつため息をつくと、吐息が白くうねって霧散した。 いつしか気温は相当に低くなっていた。死の瞬間に感じた儚い熱量は気のせいだったのかと思うほどに、厳冬が猛威を振るっている。 あらゆる生命が息をひそめる時季―― 突如けたたましい音がし、小屋の扉が外れた。 物置の中を強風が吹き荒れる。次々と倒れてくる農具を、ミズチは僅かな動作のみで避けた。爬虫類であった頃ならいざ知らず、いまのミズチが極端な温度に動けなくなることはない。 生物の枠を超越した自分に、何を大事にする必要があるのか。そうとわかっていながら、なぜ彼は最期の挨拶にそれを選んだのか。 「よけーなせわだ、ばーか」 もう声を発することのない抜け殻は、倒れた農具に半ば埋もれてしまっている。いずれ村人が死体に気付くだろう。墓が建てられるかどうかを見届ける必要があるが、その後は、どうしたものか。ミズチにこの国に留まる理由はなくなってしまった。 「おいらの当面の悩みは、すげー暇んなったことくらいだ。どーしてくれんだ」 返答は当然ながら、無い。 思い立って、ミズチは重なった農具をひとつひとつ拾い上げてどけた。露になった骸を眺めやり、その傍らに膝を抱えて寄り添う。 暇になってしまったからには、じっくり考えてみるほかあるまい。 友の、兄弟の、願いを叶えるための手立てを。 * 追憶する。 村人が異邦人の死体を回収して山に埋めるまでの数日、腐敗してゆく青年をただ観察していた。想像した段階ではあんなに嫌悪感があったのに、いざ目の当たりにすると、抱いた感情は名状しがたい穏やかなものだった。 墓と呼べるようなものは建てられなかった。未だ罪人と疑われていながら最終的に彼がニンゲンらしく埋葬された点で厚遇と受け取るべきなのか。たとえ墓石が設けられたとして大多数が字の読み書きができない村人たちは、ラムの名をどう刻めばいいかわからなかっただろう。 かくいう本人もたいした教育を受けられていなかったので、己の家の名以上に書ける文字がなかった。 数年に渡る交流の果てに残ったのは、少年と青年の像と「林《ラム》」の一文字。 だがそれだけあれば忘れないでいられた。時々思い出すには、誰かに語って聞かせるには、こと足りた。 「ナガメはラムさんがすごく好きだったんだね。ううん、今も、大好きなんだね」 その思い出語りを聞かせていた相手が言う。 ご無沙汰すぎてもう(;^ω^) あと1記事って前回言いましたけど、長くなったので分割します! |
(;´Д`)
2019 / 08 / 22 ( Thu ) |
3-3. f
2019 / 07 / 04 ( Thu ) 家族と呼ばれて、胸の内にどのような感情が生じたのか、当のミズチにもわからなかった。 「とじこめられてるあいだ……自害して、楽になろうとはおもわなかったんか」葉を零れ落ちる朝露のような、ささやかな問いを投げかける。 「思ったさ。けどそれじゃあ、蛟龍の話し相手がいなくなるだろう」 「――――」 変な気を回すな、そう笑い飛ばしてやりたいのに、何故だか喉が詰まって何も言えない。感心しているのか――今わの際に、他者に心を割くこの者の気概に。 「おまえ、ニンゲンの中じゃ生命力は平均以下のくせに。精神力は、つよいほうだな」 「そう、かな」 ――味方がひとりでもいればそれだけで充分なものだ。 青年は目元に笑みを浮かべて言葉を継ぎ、時を惜しむように饒舌になる。 「十年以上経つのに、故郷の言葉を忘れずにいられたのは、蛟龍のおかげだ。お前が気まぐれに僕らの言語をおぼえたからだ。感謝してる。感謝しか、ないくらいだ」 「カンシャね」 またか、とは言わないでおいた。ラムの満足そうな声音は、以前に村への情を語った時のそれと似ている。 「何度か……死んで楽になりたいとも思ったさ。これが……さいごの心残り、それともわがまま、か」 一周して再び頼み事の話題に戻ったところで、今度は、ミズチも拒絶を示さなかった。 「僕に、墓、が建てられれば、そこに家名を刻んでほしい。ないなら、作ってほしい」 「なんでわざわざ」 「僕は家族から遠く離れた地で死ぬけれど、霊は、先祖の元に、逝きたい。その道しるべだ」 「あー、『死後の世界』しんじてるんだったな」 「妖怪であるお前は、信じないんだったな。でも魂の存在は肯定していただろう」 「死に際のいきものの生命力の残滓みたいなもんがとぶのは、みえる。それが消える時、いきつく先があるかどうかは、しらん」 「……なら、いまも見え」 「やなこときくんじゃねー」 言葉を被せて、ミズチは蛇として威嚇する時みたく、舌を出して鋭く息を吐いた。思いのほか気が立ったのか、外の強風に勝るほどの音量が出た。 ラムはか細く笑うだけだった。 得も言われぬ苦しさがミズチの喉の奥を襲う。 死にゆく者から生命力が溢れることは、ある。風に舞う雪結晶のように、光源の前に踊り出す埃のように。両目を凝らさねば気が付かないほど微かな何かが散る――まさにこの時、この場でも。 見たくなどないのに。無意識に目を逸らし、そこでしまったと思った。 狭い場所だ。いくら弱っていようと、ラムがそのような動きや気配をとらえないわけがなかった。時として行動は言葉以上にものを言う。 「僕が死んだら――お前への、せめてもの礼に、この身体を明け渡そう。肉は少ないだろうけど……食べて腹の足しにするのも、解剖して仕組みを研究するのも、自由だ」 「いらねー」吐き捨てるように答える。「そんなことしなくても、この数十日間、ずっとカンサツしてたからな。もうじゅうぶんだ」 実際、青年の身体機能がひとつずつ力尽きていくさまを、詳細に感じ取ってきた。次にニンゲンの擬態をする時は、これまでとは比べ物にならないくらい緻密に再現できるだろう。 解剖までしたならば、ますます精度を上げられるに違いない。 それはミズチにとって好都合のはずだった。かつての自分なら喜んで承諾していた。否、今でも、有益な取引だと思う。 であれば相手が悪いのか。他の誰かなら、肉体が腐り果てるまでじっくりと見守ってやったかもしれない。 この青年の白骨死体を想像すると、拒否感のあまり眩暈がした。 (情がうつったか) 認めたくない事実に意識を向ける。 悔しさともどかしさを発散する方法がわからなくて、ミズチは敢えてニンゲンがするように歯ぎしりをした。顎の筋肉が張る感覚がやたら不快だった。 (カゾク……家族だったら、どうする。承けるべきか?) どうすべきかではなくどうしたいかでしか物事を判断してこなかったゆえに、咄嗟に考え方を変えるのは困難だった。 石に一文字刻むだけ。大した労力のかからない頼みだ。どのみち暇だけは持て余している身で、この男が死ねば、これからどうやって暇をつぶせばいいのか改めて探す必要ができてしまう。 「だー、家の名前をほりゃーいーんだな。彫れば」 「ありがとう! もうひとつ、頼みがあるんだ――」 「おまえな」 「――忘れないでくれ。時々でいいから、僕という人間がいたこと、思い出してくれ」 瞬間、ミズチは息を呑んだ。 もとより忘れるつもりなどなかった。だがこの時を境に、長い一生の中で、能動的にニンゲンとの思い出をなぞるようになったのも確かである。 ふいにラムが笑った。何がそんなにおかしいのかと問い質すと、お前こそ笑っているじゃないかと返された。 三ヶ月も更新が開いてしまった…。 あと1記事でようやくこの三章も終わりです!!! |