08.f.
2012 / 02 / 18 ( Sat ) 「あの日死んだ人間の内、大半が同じようにこの下に埋められた。俺が、この手で埋めた」
ミスリアを下ろしながら彼は淡々と語った。 どちらかというと感情がこもらないのではなく、抑制して話している印象を受けた。柳を見据えるゲズゥの横顔はかすかに哀愁を帯びていた。 「そんな……」 ミスリアは喉の奥から声を絞り出した。自分に起きたことでもないのに胸が締め付けられるように痛い。濃い瘴気にも当てられて、気分が悪い。 「ほんの子供だったろうに」 カイルが労わるようにそっと言った。柳の前に三人、横一列に並ぶ。 しばしの間があった。 「今から十二年前――七歳か。ほぼ一日かけて掘っては埋めた。ただ、そうするべきだと一旦思い立ったからには」 ひたすら、機械のように作業を続けたのだという。 その光景を想像して、ミスリアは寒気がした。七歳の子供が茫然自失から醒めて、死の蔓延する場所で、せっせと動いている。日が暮れても、手を止めずに親類縁者を埋葬し続けて。血の臭いも死の臭いも気にならないほどに感覚が麻痺して……。 思わず涙がこぼれた。かける言葉なんて見つかるはずも無い。 何があったのか訊けなかった。彼が失ったのは言葉に出して取り戻せるものではないからこそ、余計に。 この樹ならば、総てを見知っているのだろうか。ミスリアは枯れた枝を揺らす巨木を眺めた。何の思念も気配も感じ取れない。この樹は完全に事切れていて、魔物化すらしなかったのかもしれない。 ――いつの間にか風が止んでいる。怖ろしい静寂に、自身の呼吸の音に、無駄に緊張する。なんとなしに傍らのゲズゥの顔を見上げた。 虚ろな表情を浮かべていた彼が、途端に力いっぱい目を凝らした。 (何か見つけたのかしら?) 訊きたいけど、声を出していいか迷う。カイルも神妙な顔で無言なままだ。 試しにミスリアも柳の樹を嘗め回すようにじっくりと注視したが、暗がりで樹のシルエットしか見えない。 ゲズゥが早足で樹の傍へ近づく。 ミスリアは止めようと手を伸ばしかけた。その手を、カイルが手首に触れて止めた。頭を横に振っている。仕方なく、樹の下まで歩み寄って見守るだけにした。 幹の横を回り、ゲズゥは片膝を地面についた。土の中から突き出ている長い何かを右手で掴んだようだ。引っ張っても出てこないので、彼は両手でそれを持ち直した。 ポタッ。 頭上からほんの小さな水音がして、ミスリアは顔を上げた。次の瞬間、視界にたくさんの白い線が満ちた。 後ろから腕を引っ張られ、直撃を免れた。糸に似た白がいくつか空を切り、残ったほとんどの糸がゲズゥの首に巻きつく。 糸を繰る者がゆっくりと樹の上から姿を現した。 今の今まで、まったく気配を感じさせなかったソレは、人間の基準でいえば二十五歳かそこらの美しい娘だった。はっきりとはわからないが脚を木の枝に巻きつけてるのか、逆さに身を伸ばしている。ぬうっと顔を上げて、笑った。 大きな瞳は快楽に彩られていた。その長い白髪ではなく指の爪の下から伸びた糸でゲズゥの首を絞めている。 糸を引いて、魔物は捕った獲物にぐいっと顔を近づけた。爪先でゲズゥの鼻を撫でる。いつも通りの無表情な青年の顔が魔物のひときわ明るくて青白い光に照らされ、よく見える。 娘は赤い唇を艶やかに開き、唾液をわずかに垂らした。その一滴が、ゲズゥの頬に落ちる。 何かが溶けて蒸発したような音が聴こえた。 「――――――っ」 ゲズゥの頬に焼けどにも似た赤い痕があった。流石の彼も苦痛に表情を歪めている。 魔物の口から垂れたのが酸だと察して、ミスリアは思わずカイルの袖を握った。 |
08.e.
2012 / 02 / 17 ( Fri ) 「声が聴こえませんでしたから」
ゲズゥの指摘に、聖女は手を引いて静かに答えた。 「植物をもとにした魔物だったんじゃないかな。まんま命が尽きた切り株とか?」 剣にまとわせていた聖気を消して聖人が相槌を打った。戦闘で疲労した様子はなく、相変わらず笑っている。 「多くの魔物は死んだ人間の魂をもとにしていますが、そうでない場合もあります」 くるりと聖女がゲズゥの方を向き直った。これは、昨夜の話と繋がっている。 「特に瘴気の濃い場所だと動物や植物の命の残滓からも魔物化することはあるね。世間一般では魑魅魍魎(ちみもうりょう)とも呼ばれてる。そうでなければ人間の魂に絡めとられて魔物の一部になるかもしれないけど」 袖の汚れを払いながら、聖人が補足した。 「人間だった魔物でないと、対話はできません」 なるほど、そういうことだったのか。二人の説明に納得した。 その時、動物の鳴き声に似た音を立てながら強い風が吹き抜けた。軋みのような騒音がどこからともなく聴こえる。 一箇所に長く留まっていれば魍魎の類に次々と襲われるのではないかと予感がした。ゲズゥは次の動きの判断を求めて聖人に視線を向けた。 小さく頷き、聖人は聖女に問う。 「ミスリアは忌み地に来たことは?」 「初めてです」 「そう。普通は、瘴気のより濃い方へ進めば核となった魔物へたどり着けるんだけど……ここは全体的に周りが濃すぎてどこが源となると特定は難しいね」 聖人は考え事をするように眉をしかめている。 瘴気はいわばマイナスエネルギーの別名である。自然災害のあった場所から噴出したり、或いは生き物が発する負の感情だったり、それが生じる理由はさまざまだと大陸では言い伝えられている。 ――死者の魂が密集する所なら? 魂の密集する所、即ち死者のかつての肉体の安置場所。 「心当たりがある」 ゲズゥは踵を返した。「ついて来い」までは言わなかったが、すぐに理解したようで、二人の足音が背後に続いた。 「うーん、ここは走った方がいいかな」 聖人の困ったような声は、半ば魍魎のざわめきにかき消された。 視界の端々に蠢く木々。 ゲズゥは素早く振り返り、聖女を左腕だけで抱き上げ、走り出した。聖女は一度小さく悲鳴を上げたが大人しくゲズゥの首につかまった。 聖人が苦笑して同じように走り出す。何かコメントしているとしてもゲズゥには聴こえない。 記憶の中の場所めがけて、一直線に走った。時々襲ってくる魔物たちを剣を用いて追い払う。 視界は段々と暗くなりつつある。それでもゲズゥは迷わず走った。 「どちらへ行かれるんですか?」 「墓場」 聖女が息を呑んだ。間もなくして、ゲズゥは立ち止まった。魔物たちはもうついて来ていない。 柳の樹が、見晴らしのいい場所に一本だけ。 何十年もそこでひっそりと育っていたかのように、高く高くそびえる樹だった。その樹に遠慮するみたいに草が根元を幅広く避けて、生えていない。一層濃い瘴気が漂っているのは気のせいではないだろう。 「昔から、人が死ねばこの下に埋めていた」 子供の頃、隙あらば木登りばかりしていたゲズゥが、唯一登ることを決して許されなかった巨木。中心から外側へと渦を描くように、村人が埋葬され続けた。 村が滅びてから、運命をともにするかのようにみるみる枯れていった美しい柳は、今や殺風景な黒い抜け殻でしかない。 |
08.d.
2012 / 02 / 15 ( Wed ) 聖人が先を歩き、聖女が一歩遅れて続いた。そこから更に遅れてゲズゥが歩く。
何年も換気されていない地下倉庫を彷彿とさせる、淀んだ空気に迎え入れられた。視界は封印の外と同じで曇った宵闇に包まれているが、どこか違和感があった。まるで、目に映るものを疑ってかからなければならないような曖昧な感覚。何故そう思うのかは定かではない。 周囲には褪せた草と、地面に歪に根を這わせる木々がある。水分が足りるのに陽光が行き届かない時の草の色だ。樹の枝は夏だというのにどれも葉も花もつけていない。 所々、村の跡地らしく建物の残骸がちりばめられている。数こそ少なく、ほとんどは元の姿が想像つかないようなただの木材の破片だ。 十二年前に去った故郷に郷愁はあまり抱かなかった。それより遥かに大きな感情があるからだ。 心臓を握りつぶされたような、内臓を引きずり出されたような……或いは生気を残らず吸い取られたような、衝撃。あれを思い出しそうになると思考が瞬時に何もかもを排除してしまうのは、多分生きるために必要な、脳の自動的な対応なのだろうと、大分後になって気付いた。理不尽な世の中と一般の人間に何一つ期待を持たなくなったのもあの時からだ。 その記憶が今、無理にでも呼び覚まされる。 たとえば知っていた人間の亡霊がわかりやすく魔物として現れたら、自分に斬れるだろうか。 パキッ。 急な音に瞬いて、足元を見た。不注意で、地面の小枝を踏んだのである。 聖女が振り返った。一瞬だけ、怯えと申し訳なさの入り混じった表情を見せて―― まるで呼応するように、足元から新しい音がした。めきめきと、何かの根が地面から引っこ抜かれるような低い音。 ゲズゥは考える前に跳んだ。案の定、巨大切り株の根っこが何本か触手のように勢いよく伸びる。絡み取られる前に剣を振るった。斬られて、根が怯む。その隙に距離をとった。 「……死は本当はとても身近なのに、どうして生きてると忘れるんだろうね」 場面にまったくそぐわない落ち着いた声色と話題。 気でも触れたかと思って目をやると、聖人は腰の剣を抜いていた。 「魔物は僕等にそれを思い出させるために存在するかもしれないと、考えることもあるよ」 左手で構えた剣に向けて、右手をかざしている。剣が淡い金色の光に包まれる。 「カイル……? 聖気を展開して剣に付着させているんですか? それをやると消耗が激しいのでは」 「短時間だけなら意外にいけるよ」 聖人はにっこり笑って前へ踏み出た。 聖気に惹かれて、切り株の魔物が標的を変える。 伸びる樹の根を剣でさばく聖人の動きは、悪くない。ゲズゥほど速くないにしろ筋がいい。過去に訓練を受けてそれがちゃんと身についているとわかる。 中肉中背でゲズゥと同じくらいの肩幅にしては、魔物相手によくやっている。力不足で攻撃を防ぎ切れなかったり受け流しきれなくても、剣のまとった聖気が魔物を触れた先から浄化している。なかなか効率のいいやり方だと感心した。 聖女がオロオロしているのも放っておいてゲズゥは腕を組み、一切手を出さずに待機した。 すると数分後に決着がついた。魔物は切り刻まれたり部分的に浄化されて変な形になっている。珍しくその表面には人面が浮かんでいない。 そこで聖女が近づき、手を伸ばして魔物の残りすべてを浄化した。 銀色の粒が消えるのを待ってから、ゲズゥは口を開いた。 「今回は、対話とやらはしなかったな」 |
08.c.
2012 / 02 / 13 ( Mon ) その土地には百人程度の村民が寄り添って暮らしていた。
始祖たる数人が林の隣に家を建て、次第に林が広がっていったので、いつしか村まで木々に囲まれた。村民は木材の精製を生業とし、徐々に数を増やしながらひっそりと暮らし続けた。 多くを望まず、社会から隔絶された状態を受け入れたこの村民こそが、「呪いの眼」の一族。 ――既に過ぎ去った日々のことだ。 今のその土地を前にして、ゲズゥは胃がムカムカするのを止められずにいた。 「やっぱりやめますか……?」 右隣に立つ聖女が覗き込む。心配そうな表情だ。不快感を顔に出したつもりはないが、気配にして発しているのかもしれない。 聖女の右側には聖人と司祭が立っている。互いに話をしていてこっちの様子に気づかない。 聖女の問いに、首を横に振った。ふと口の中に鉄の味がしたと思ったら、どうやら千切れるほど唇を噛んでいたようだ。 気を紛らわせようとしてゲズゥは松明を高く持ち上げた。 数歩先に大きな銀色のゆらめきがある。特定の空間全体が霞んで揺らめいている感じだ。実際に目の前にあるのは宵闇に佇む木々などだろうが、肉眼にそういう風に映らないのは、おそらく「封印」とやらの影響だろう。教会の周りにあった目に見えない「結界」とは性質が異なるものらしい。 「ここを少し右に回れば綻びがあります」 司祭が手持ちの松明で指した。封印を完全に解くことは施した本人でなければ難しいから、綻びを見つけてそこから入り込もうという話だ。 ゲズゥ以外の三人が職に見合った正装をしている。動きやすさの問題より、気を引き締めるためにそうしていると考えられよう。 風の強い夜だった。しかし風の音を除いた辺りの妙な静けさがどうしても気になる。全員は静かに慎重に進んだ。 先頭を歩いていた司祭と聖人がはたと歩を止めた。 「これだね」 白装束を着た聖人が振り返って確認すると、司祭が頷く。 眼前の銀色のゆらめきに、横幅2フィート縦幅1ヤード程度の一つだけ浮いた箇所があった。眼を凝らせばそこだけ霞みも揺らめきもなく、はっきりとした景色の欠片が見える。 宵闇を背に佇む物は、丸い樹ではなく角ばった人工的な何かだった。かつては地面に垂直に建ち、建物の屋根を支えた柱の一つだったのかもしれない。 「では私が亀裂を人一人通れる大きさに広げます。ですが私は中には入らず、ここの出入り口を守ります」 司祭がしっかりした声音でそう告げた。 「お願いします……魔物が漏れたら大変ですものね」 聖女が軽く頭を下げた。レースに縁取られた白いヴェールが揺れる。スペアを持っていたのかそれともどこからか調達したのか、最初に出会った頃に被っていたものと瓜二つだ。 「お任せください。どちらにせよ私が一緒に赴いてもあまり役に立たないでしょう。最低限の護身術しかこなせませんし、聖気も扱えませんから」 司祭の言葉と笑顔の裏に、何か卑屈な感情が潜んでいそうだとゲズゥは思った。しかしそれは今考えるだけ無駄。 「今日は隣町から魔物狩り師も呼んでないしね。ミスリア、準備はいい?」 「私は……」 聖人に訊かれて、聖女が言いよどんだ。まるで話を振るように、こちらを見てきた。 「役割なら果たす」 もしも危険に陥ったら護衛としてちゃんと守ってやる、という意を込めて言った。聖人に関しては特に助けるつもりは無いが、聖女との取引は別だ。 「ありがとうございます」 ふわりと聖女が微笑んだ。 いっそクセなのかと疑うほど、聖女はよく礼を言う。この微笑みとてクセのようなものに違いない。 話がまとまったところで、全員が綻びの前に立った。司祭が銀細工のペンダントを握る。 長い縦棒とそこから伸びる短い方の横部分は一見、十の文字を組んだ文様だった。縦棒の上から三分の一辺りに交差する横部分は中心からそれぞれ左右に伸び、くるりと下向きに渦巻いて点に終結している。左右対称的なそれは、翼を生やした何かを思わせる。 司祭が呪文を低く唱えた。それに応じて綻びが見えない手に引っ張られるように広がり始める。 ようやく大の大人が一人通れそうな大きさになってから、司祭が唱えるのをやめた。 「ではどうかご無事で。皆様に我らの聖獣と神々の加護あらんことを」 応える代わりに聖女と聖人は礼をし、ゲズゥは背中の剣の柄を握り、そうして封印されし「忌み地」の中へと足を踏み込んだ。 |
08.b.
2012 / 02 / 10 ( Fri ) 食後の片付けを終えて、カイルサィートはいつもの散歩に出かけるつもりで軽く身支度をした。七分袖のシャツを選び、多少汚れても気にならない薄茶色のズボンに着替える。ベルトを締め、剣を提げた。
ずっと屋内に篭るのもよくないし、ミスリアとゲズゥも一緒にどうかと誘ったら、二つ返事で快諾された。 _______ 「ここを進めば十五分くらいで隣町につくよ」 「意外と近いですね」 ミスリアが目に手を翳して辺りを見渡した。 隣のカイルが左手で指差す坂を下った先には、確かに十五分歩けばたどり着ける距離に町があった。数多くの建物が湖を囲うようにそびえる。湖面に、藻の緑色が浮かんでいるのがここからでもわかる。時折吹く風が波紋を作り、風がやめば波紋も次第に凪ぎ、そしてまた風が吹く。 一見、のどかな風景に思えた。 けれどよく考えればおかしい。午後のこんな早い時間に、人っ子一人として街中を歩いていない。 「下りて、様子を見たいとか思ってる?」 「え」 思考を読まれた驚きにミスリアがカイルと目を合わせた。普段どおり明るい琥珀色の瞳はそれでも普段より真剣だった。 「やめたほうがいい。関わらないのが身のためだよ」 有無を言わせぬ声色だった。 「でも……」 困っている人たちがいるのに見て見ぬふりをするなんてできない、と言おうとして呑み込んだ。 ミスリアは目をそらした。すると、数歩離れた位置から二人をじっと観察しているゲズゥの姿を見つけた。シャツの色以外はカイルと似た服装で、長剣を背負っている。彼の視線の先を注意深く探してみると、それが自分ではなくカイルに向いているとわかった。 何を見定めているのだろう。 「君が気にすることじゃないよ。あの町や病のことは僕に任せて、ね?」 「――そうですね」 視線を戻して、ミスリアは笑みを返した。確かに、旅人の身で他国の面倒ごとに巻き込まれても仕方ない。部外者がいきなりどうするよりも、町人と交流を持ち続けてきたカイルたちが動いた方が得策といえよう。 ふと何かが引っかかったので、ミスリアは思考を巻き戻した。 (僕らに任せてじゃなくて、僕に任せて、って言ったってことは……神父アーヴォスの立場は一体……? 湖の町の人たちは神父アーヴォスが受け持つ教会で参拝するんじゃないの?) 家族間の関係に口を出す気は無いが、これではカイルが叔父を信用してないとも解釈できる。先ほど言っていた「案件」に関連してそうだ。説明を待つしかないとわかっていても、気がかりだ。 そろそろ引き返そう、とカイルが提案したのでミスリアも歩き出した。ゲズゥはさっさと先を歩いている。 「足元、気をつけてね」 「ありがとうございます」 差し出された手を取った。 石や動物が掘り返した土などによってでこぼことした地面は、慣れないミスリアにはバランスが取りにくい。手を引かれて、そっと歩を進める。 「明日は紫期日……週に一回の典礼の日か。欠席したらまずいな」 半ば独り言のように、カイルが呟いた。ミスリアの手を引いたまま、どこか遠くを見ている。相槌を打つべきか迷う。 「今夜――何年もあった「忌み地」をいきなり僕らだけで収束させられるとは思ってないから。あんまり気張らないで、危険そうならすぐに逃げるからね。まずは様子見から」 振り向きざまの気を遣うような優しい微笑みに、ミスリアは自然と微笑み返して承諾した。次にカイルは前方のゲズゥに訪ねた。 「君もそれでいいね?」 カイルの呼びかけにゲズゥはゆっくり振り返り、うんともすんとも言わずにただじっとこちらを見た。 黒曜石の右目と呪われた左目には、何の感情も映っていなかった。 |
08.a.
2012 / 02 / 07 ( Tue ) ひと月に三十日数えるうち六日を一週間と呼び、つまりひと月に五週間ある。虹の六色に合わせてそれぞれの日を順に赤期日、橙期日、などと呼ぶ。一週間のうちに正式な休日は最後の紫期日だけであり、重要な祭事はその日に当たることが多い。
曇っているけど割と明るい、青期日の正午。 カイルサィート・デューセは左手でコーヒーマッグを口に運びながら、目の前の二人の様子を不思議に思っていた。 (これはきっと、昨晩何かあったんだろうね) ダイニングルームにはぎこちない空気が漂っている。カイルサィートの向かいの席に俯きながら黙々と昼食を平らげる小柄な少女がおり、キッチンの方には同じく黙々とサンドイッチを食べる長身の青年がおり、二人ともまったく目を合わせようとしない。 もとよりそんな雰囲気のゲズゥ・スディルはともかく、ミスリアまで無言なのは珍しい。 「ところでミスリア、旅立つ前にちゃんと成人式を挙げた?」 カイルサィートは当たり障りない話題から攻めた。 呼ばれて茶色ウェーブ髪の少女は顔を上げた。白いきめ細かな肌の顔の中にあるくりくりとした茶色い瞳が、手元の麦スープからカイルサィートへと視線を移す。 「あ……はい。故郷にて済ませてきました」 アルシュント大陸では男性は十五、女性は十四歳で成人式を挙げるのがしきたりである。ミスリアは今年の春頃にその歳を迎えた。 ミスリアの護衛のゲズゥが動きを止めたのを、カイルサィートは目ざとく捉えた。会話に聞き入ってるためか、手がサンドイッチの最後の一口を持ったまま空中にて固定されている。きっと、己が同行している少女の歳を知らなかったのだろう。驚いているのかもしれない。 「ご両親、元気にしてた?」 「はい。お父様もお母様も変わりなかったです」 ミスリアは少しだけ顔をほころばせた。 「そう、それはよかった。しばらく会ってなかったんだよね」 十四歳の少女が世界のために人生を丸投げするなんて普通ならおよそ考えられない話だが、聖女ミスリア・ノイラートの決心の固さを、カイルサィートは良く知っていた。 「はい……」 その後しばらく、二人で他愛無い世間話のようなやり取りを続けた。会わなかった数ヶ月の溝を埋めるように。 昼食もほぼ食べ終わった頃、ふとミスリアが訊いた。 「カイルこそ、昨日はどうでした? 隣町の流行り病はおさまりそうですか?」 「そうだね……」 問われてカイルサィートは笑顔を作った。なんとなく、壁の時計を確認する。 「まだアーヴォス叔父上は参拝の方と会っているし……」 意味ありげに聞こえるような言い方を選んでしまったか。ミスリアは話に置いていかれたかのような顔をしている。 「神父アーヴォスですか?」 「あの男が何かしでかしたのか」 唐突に会話に割って入ってきた低い声に、カイルサィートは驚いて振り返った。いつの間にかゲズゥがダイニングテーブルのすぐ傍に来ている。 「何かしでかしたのかって――君は叔父上をどう思っているのかな」 そんな失礼な言い方しなくても、と困ったように注意するミスリアを片手で制して、カイルは煽ぐように聞き返した。 純粋な、興味からである。この青年になら何が見えたのだろう? 「…………別に。単なる勘。あの男の目には、欲望の色が映っていた」 「欲望の色か。的を射ているね」 ほんのちょっとしか会ってないのによくそこまで読み取れたものだ。感心に何度か頷いてから、カイルサィートは次の言を紡いだ。 「今夜の忌み地行きを思えば、叔父上にはまだ味方としていてもらった方がいいんじゃないかと思う。僕が疑惑を持ち、考察し、調べ上げた案件についてはその後話し合おう」 なるべく深刻な空気にならないようににっこり笑って言ったのだが、逆の効果を得たようだ。 ゲズゥは警戒を込めて両目を細め、ミスリアは疲れたような傷ついたような苦しげな表情を薄っすら浮かべている。 |
07.f.
2012 / 02 / 05 ( Sun ) 軽々しく口にしていい問いでは決して無いと、ミスリアはよくわかっていた。まるで、貴方の人間性を疑っていますと言っているようなものだ。
(それでも知らずに隣で歩き続けるなんて無理) 空虚を、ミスリアは思い出していた。もしもあのひとが今まだ生きていたならと、一時も思い出さずにいられない。もっと、もっと、一緒にいたかったのに。 返事を待つ間、沈黙に満ちた闇の中で行き場の無い不安を持て余し、足の指を意味もなく動かした。左から右へと順に一本ずつ。 数分経って、ゲズゥがため息をついたのを聴いた。 「場合にもよるが……まったく、考えない訳じゃない」 彼の言葉はいつに無く億劫そうだった。答えてくれたこと自体に驚きを覚える。 ゲズゥの様子からミスリアはあることに気づいて、はっとした。 (私ってもしかしてひどいこと訊いたの? 人の一生が終わることの重さを、親族全員失った人が知らないはずないよね?) 罪科を差し引いて考えれば、当然そういうことになる。心の中にどれほどの傷を、孤独を、抱えて生きているのかなんて、他人に量れるものではない。 無思慮過ぎる。どうして今まで思いつかなかったのか不思議なくらいだ。きっと、「天下の大罪人」という肩書きに気を取られすぎたのだろう。深く反省した。 「ごめんなさい。今の質問は無かったことにしてください。私の方が浅はかでした」 思わず身を乗り出しながら、ミスリアは慌てて謝罪した。伝わるかどうかあやしいけど頭も下げる。 すると何か妙な音が聴こえた。喉を鳴らして笑っているような。 ――笑っている? 「……お前は、気の遣いどころが、おかしい」 暗闇より返ってきた声からは、重苦しさが消えていた。多く見積もって、「楽しそう」だった。ミスリアが謝る理由を見通してる風だった。 「俺は生きるために必要なら他者を喰らう。生存本能に倣って」 「それは……共存ではなく弱肉強食が人間の本質であると?」 「……少し違う。言うなれば相克――生き延びるために他者の命を奪えば、残った方が奪った命の分まで生きる義務を引き受けたということだ」 「な、るほど……?」 解りそうで、今ひとつミスリアには解らない考え方だった。 どうして共存ではだめなのか。もっと突き詰めて論じ合わねばならなそうだ。 「まぁ、今までが全部そうだったとは言わない」 静かで無感情な声だった。 もしや別の何かに基づいてる件もあるのだろうかと、ミスリアは気になって続きを待ったが、話はそこで打ち切られた。 「湯、沸かしてある」 突然の話題転換に驚いて、ミスリアは瞬いた。 「――あ」 そういえば魔物の内臓やらに汚れたままだったのだと、今更思い出した。 ゆっくりと腰を起こして、はしごを降りた。支度を整え、寝室から踏み出す瞬間。振り返って、小さく言った。 「……最初の日に言ったとおり、本当に一生かけて償わなければきっとどうにもなりませんよ」 「余計な世話だ」 そっけない返事。 「でも……」 ミスリアが他に何か言える前に、遮られた。 「お前は俺の魂を『救う』ために命を拾ったのか」 「え……? ち、違います! そういうわけでは」 勢いで即座に否定したが、胸がチクリと痛んだのは何故だろう。 「助けを求めてもいない相手に押し売りだな」 「そんな――」 「それは、偽善だ」 氷のように冷たい声に、背筋が凍った。 「もういい。さっさとクソして体洗って寝ろ」 言われたまま、ミスリアはそそくさと寝室をあとにした。 廊下をパタパタと小走りに進む。 (救うため……? 自分ならできるというエゴがあって……?) 今まで考えたことが無かっただけで、実はそうだったらどうしよう、とミスリアは気分がどんどん沈んでいった。 そうしてまた一日が幕を閉じた。 |
07.e.
2012 / 02 / 03 ( Fri ) すすり泣きし出した聖女に興味をなくして、ゲズゥは瞑目した。
眠くないので瞑想を始める。両の膝の上にそれぞれ手のひらをのせた。彼は己の呼吸にのみ意識を集中させるスタイルを好んで用いる。 ――吸って、吐いて、吸って、吐いて、また吸って―― 次に呼吸のひとつひとつに合わせて数字を数える。息を吐く時にだけ、一から十数え、十に達したらまた一に戻る。時計の音が気にならなくなるまで続けた。 何も思い描いていないので、瞼の裏には暗闇だけがあった。ふわりと自然にそこに踊りこんできた場面を、彼は特に拒まなかった。 暖かい風にそよぐ木の葉が、ゆったりと揺れる。枝が、木の実が、手を伸ばせば掴めるほどに近い。眩しい光が葉っぱの天井から漏れる。 地上を見下ろしたら、こちらを見上げて手を振ってくる女性がいた。長い銀色の髪を束ね、腕に生まれたての赤ん坊を抱いている。慎ましやかな笑顔と、清楚な身なり。 女性の太ももに五歳前後くらいの幼児が引っ付いている。女性と同じ銀色の髪が柔らかそうだ。 そこで、別の女性も視界に入ってきた。肩より少し長い、まっすぐな漆黒の髪。動きやすそうな短い袖のシャツと短い裾のスカート。 彼女は、木の上から降りてくるようにと怒鳴っている。 そこで一気に視界に緑が流れ、飛び降りたのだとわかった。立ち上がったかのように視界がずれる。ため息をついた黒髪女性の端正な顔の、右目の泣き黒子が印象的だった。 ――カチッ! 唐突に秒針の音が入ってきて、夢のような映像がはじけた。消えてしまう優しいひと時の欠片に手を伸ばしても、止められない。 思わず目を開けた。 そこでゲズゥははじめて、自分が実際に手を伸ばしていたことを知った。 「どうしたんですか?」 鈴が鳴ったかのような淑やかな声。聖女はさっきまで居た場所からまったく動いておらず、姿勢も蹲ったままだったが、頭を上げていた。 「何でもない」 伸ばした手を引っ込め、ゲズゥは組んでいた足を崩した。 「そう、ですか」 聖女は毛布を頭から被るようにして顔だけ出した。 「あの……さっきの、ひと。魔物の彼が……貴方に頭部を切り落とされた時」 途切れ途切れに、ボソボソと聖女は喋る。この話題がどこへ向かうのか見えなくて、ひとまず黙って続きを待つことにした。 「彼の記憶が視えました。といっても彼だけではなく、あの魔物を形成していた全部の魂の記憶の断片ですが……」 やはりどこへ向かうのかわからない話だ。ゲズゥはベッドに横になった。 しかし聖女にそんなにたくさんの記憶が視えていたというのなら、上の空になってた原因にも数えられよう。これは想像に過ぎないが、他者の記憶を視ていたら多分、聖女なら感情も引きずられて心がかき乱されたことだろう。 「彼の恋人は、彼の目の前で亡くなりました。他の魔物に、丸ごと食べられて」 どこまでも沈んだ声で聖女が語る。視たままの光景を思い出しているのだろうか。 「そのショックに耐えられなくなって、忘れてたんですね……自分も魔物に成り果てて」 凄まじい話ではあるが、今のご時世では別段珍しいということもない。それだけ壊れた世の中だということなのだろうが。 「それは、哀れだな」 あまり真心のこもらない声で相槌を打った。 すると何故か聖女は落ち着かない様子で毛布の中をもぞもぞした。 「あ、あの……」 何か言いたげだがものすごく言い出しづらそうである。面倒くさい方向の話ではないかと予感がして、ゲズゥは「何だ?」と訊かなかった。 数秒後、聖女が息を吸い込むのが聴こえた。 「……ゲズゥは過去に人を殺した時、その人の気持ちや苦しみとか、家族の苦しみや遺族がどうなるのかとか、考えたりしなかったんですか? 人一人の一生が終わるという事態の大きさを顧みなかったんですか?」 カチ、カチ、カチ……。 ゲズゥは質問の内容を噛み締めるように沈黙に身をゆだねた。 「それとも他人だから、気になりませんか……?」 少女の儚い声を聴き取って、ああこれは面倒くさい方向の話だな、と思った。 |
07.d.
2012 / 02 / 01 ( Wed ) 寝室は一部屋だけであり、その中に二段ベッドが三台並んでいる。
聖女はかろうじて魔物の浄化を終えて結界を再現したもののすっかり上の空で、教会の中に戻ってくるなり一番奥の壁際の上段ベッドにのぼり、毛布にくるまって閉じこもったのである。 それから数時間後。やっと、聖女のかすかな寝息が聴こえてきた。ずっと何かに怯えるように震えていたのが収まったらしい。 何に怯えていたのかというとそれはもしかして自分かもしれないな、と廊下の壁に寄りかかって座るゲズゥは考える。 どうしてそんなところで気配を消して聖女が寝付くのを待っていたのか、自分でもよくわからなかった。聖女が睡眠不足になっては明日の「忌み地」行きに支障が出たりしないかと、確かに心配だったが。心配したところでどうしようもない。まさか、子守唄を提供するわけにもいかない。 何故だか、胸の奥にモヤモヤした感覚があった。思い当たる節はひとつ、さっきの魔物退治だ。 ゲズゥにしてみれば、別に間違った行動も言動もしていない。むしろ聖女の甘ったれた主張の方が支離滅裂で、随分と無駄の多い生き方を選んでいるように思える。 しかし効率が悪くてもそれはその者だけの生き方だ。 生きた年数がたったの十九でも、ゲズゥにはよくわかっていた事があった。何が重要で何がそうでないかの線引きは人によってどうしても異なるという、事実だ。 各々の価値観があると熟知していてなお、聖女のそれだけは看過できなかった。癪に障るといっても過言ではない。 おそらくは身近にいて共に旅をしているからだろう、ということに今はしておこう。 考えるのをやめてゲズゥは風呂場へ向かった。せっかくなので諸々の汚れを洗い落としたい。午後ずっと寝ていたからか、まだ眠くない。 身体を流したあと、タイルの敷かれた床の上で何となく腕立て伏せをした。百ほどやって飽きた頃、腹筋を鍛える事にした。それに飽きたら服を着なおし、逆立ちをしてみる。 逆さになった状態で風呂場を見渡した。蝋燭一本しか灯してないので当然、暗い。バスタブ近くにぜんまい仕掛けの時計を見つけ、時間を見ようと頑張ったが、逆さでは難しくて脳が混乱した。 頭に血が上りつつある。身につけているシャツも少しずつ重力に屈して、顔にかかる。 そんな時、少女の短く鋭い叫び声を聴いた。ゲズゥは逆立ちから半回転して人間の本来あるべき両脚立ちに戻った。 予想では多分、悪夢に目が覚めたといったところか。 面倒だと思いながらも、結局寝室へ行ってみた。 廊下から寝室の入り口に立った途端―― 「こないで」 泣き出しそうな声だった。ゲズゥは部屋に入ると、聖女からもっとも離れた反対側の壁際の下段ベッドの上で胡坐をかいた。割と夜目のきく彼には、明かりのない部屋でも窓一つあるだけで大分見える。 膝を抱えて蹲(うずくま)っている少女が一体どんな悪夢に魘(うな)されたか、想像できない。 想像できないので、とりあえず訊ねた。 「何の夢だ?」 「………………あまりうまく説明できる気がしません……」 答える義務など何処にもないのに、聖女がか細く呟いた。悪夢だったのは間違いないらしい。 「そうか」 ゲズゥの発する言葉のひとつひとつに、聖女はぴくりと身体を震わせている。やはり、怯えている。だが女子供に怖がられるのはよくあることなので、どう思うことも無い。軽く腕を組んで、ゲズゥは不動でいた。 寝室に沈黙が降りた。 ――カチ、カチ、カチ……。 一秒おきに繰り返される音が近い。部屋のどこかに時計があると考えられる。しばらくは秒針の音と、聖女の吐息だけに耳を澄ました。 ほとんど無意識からその疑問を口にした。 「何で、俺だった?」 暗闇の中で、聖女の驚きを気配として感じ取った。質問の意味はちゃんと伝わっているだろう。 「……言いたくありません……」 聖女は膝に顔を埋(うず)めた。 自分に聞く権利ぐらいあると思うが、まあ、言いたくないのなら仕方ない。 |
07.c.
2012 / 01 / 31 ( Tue ) いわばあれは、魂同士をつなぐ役割を持った歌だった。これまで断片的に読み込めた「想い」が、映像という形でよりはっきりと伝わるようになり、また、こっちの言葉ももっとスムーズに相手に通じるようになる。
「もう苦しまなくて大丈夫です。私たちにできることなら、力になります」 そうは言ってみたものの、彼の「彼女」はおそらく他の魔物に喰われて探しようがないだろう、とミスリアは考えた。 一体の魔物は複数の魂の残留思念が絡まりあうことによって構成されている。ひとつの魂が他よりも未練が強いなら、それが主軸となって全体の思考や行動を支配する。 骨ごと魔物に喰われた人間の魂は、そのまま絡めとられて魔物の一部となる場合が多い。そうなったら、なかなか探し出せるものではない。誰かに浄化されて昇天していた場合も、探し出す術がない。 つまり目の前の獺の主軸の魂を、恋人と再会させられないまま納得させ、浄化に持ち込まなければならない。 「私はミスリア・ノイラートと申します。よかったらお名前を教えてください」 できるだけ優しく微笑みかける。 すっかり大人しくなった魔物は声を出そうと口を開いた。 「わ、たし……の、な……は……」 次の瞬間、魔物がのけぞった。胸から剣の先がにょっきり生えている。何が起きているのか飲み込めず、ミスリアは目をしばたかせた。 ビチャッ。 気がつけば、視界が赤と黒と紫に彩られていた。変な音と変な臭いと一緒に、生暖かいものがミスリアに降りかかる。 さまざまな映像が流れるようにして次々と脳内を過ぎり、息をすることさえ忘れた。 「何を呆けている」 ゲズゥの声でようやく目が覚めた。顔や手についたソレが何であるのか、何が起こったのか、理解する。 喉から出(い)でた甲高い悲鳴を、まるで他人事のようにミスリアは聴いていた。素早く横を向いて地面に片膝つき、道を外れた芝生へ胃の中身を吐き出した。 痙攣がおさまってから振り返った。口元を袖で拭う。 ゲズゥは、解せない現象を見るような表情をしている。 それもそのはず、今までにだって何度もグロテスクな場面に出くわし、その都度ミスリアは慣れからこれといった反応を示したことはなかった。だが今までは程よく距離を取り、今回ほどダイレクトに臓腑をかぶらなかった。問題はそれだけでは無い。 魔物が唸り、憤然として立ち上がろうとした。 ミスリアが何か言うより早く、ゲズゥが動いた。長剣で、獺の脚を六本とも胴体から切り離した。あまりに鮮やかで感想ひとつ出ない。 「…………」 声が出せない。口をぱくぱくさせながら、何とかミスリアは立ち上がった。 明らかな苛立ちを表して、ゲズゥが剣を持ち直した。はやくやれ、とでも言いたげに親指で背後の魔物を指す。 「……ど、うして……」 あまりに小声で、ゲズゥには届かない。 なお上体を起こして噛み付こうとする魔物の頭を、切り落とさんと剣を構えている。 「――やめてください! 話の途中でしたのに、なんてひどいことをするんですかっ」 声を振り絞って叫んだ。 「はぁ!?」 そういう声も出るんだ、と一瞬だけ思ったのは置いておくとして。 「あと少しで、分かり合えるかもしれないんです」 ミスリアは抗議した。 「馬鹿言え。どうせ無に帰すくせに、分かり合ってどうする。相手は死人だろう」 「でも、同じ浄化するにしても、相手が納得してくれた方がいいです。可能なら全員と対話する方が」 「訳のわからんことを」 ゲズゥは剣を振り上げた。 止めたいのに、体が強張って動けない。 「そうやって出会った魔物にいちいち親身になって同情するのか? 所詮他人なんてのは、意味の無い存在だ」 「そんなことありません!」 「聖女なだけに、分け隔てなく慈悲深くて、結構なことだな」 皮肉って話す彼の横顔には、くらい笑みが浮かんでいた。それは敢えて形容するなら、嘲笑だった。 「お前がいくら粉骨砕身、人類のために一生を捧げたところで、人類はお前のために何一つしない」 そう言い捨てて、ゲズゥは剣を振り落とした。 魔物の頭部が胴体から離れた瞬間、ミスリアはそれを形成する魂たちの記憶の断片を、一気に浴びるように視せられた。 耐えかねて、その場にくずおれた。 |
07.b.
2012 / 01 / 29 ( Sun ) 自殺行為だな、と思った。丸腰で魔物に近づいて無事で済むわけなかろうに。
だが聖女の真剣な目を見て、考え直した。 「好きにしろ。ただし、斬るべきと俺が判断したら躊躇なくそうする」 「……わかりました」 聖女は一瞬、抗議したそうだったが、言葉を呑み込んで頷いた。それもそのはず、今グダグダ喋っていていいほど敵の気が長くない。 再度飛び掛ってくる魔物。ゲズゥは咄嗟に少女を片腕で抱えて避けた。 血の涙を流し続ける魔物の瞳に、理性の欠片も映し出されてない。どうやって会話するつもりなのか見ものだ。 おろしてください、と聖女が頼んだので言われたとおりにした。しばらくは待つしかないと悟って、ゲズゥが剣を低く構えなおした。 魔物はまた喉を振動させて声を発している。 聖女が小声で何か歌い始めた。聖気とやらを出して、一歩ずつゆっくり歩み寄る。 歌に魅入られたように、魔物が動きを止めた。 「大切な人を、うしなったんですね」 聖女は歌うのをやめて語りかけた。 「よかったら何があったのか話してくれませんか?」 子供をあやすみたいな優しい声に、魔物は安らいだように瞼を下ろした。獺が何か返事をしたなら、それはゲズゥには唸りにしか聴こえない。 「そうだったんですか、恋人との旅の途中で詐欺に遭ったんですね」 聖女は、獺に向けて手を伸ばした。顎のひげにそっと触れる。 「慌ててその人を追ったら、忌み地の近くで迷ってしまったと」 聖女の一方的な受け答えから情報を拾うと、つまりこうだ。その男は襲い掛かってきた魔物から命からがら逃げたはいいが、いつの間にか恋人とはぐれていたという。探しに戻ったが、いくら探しても探しても彼女の衣服以外見つからず、気がつけば男は今の姿に成り果てていたそうだ。 本人は自分が何時頃「死んだ」のか、自覚していないらしい。 そこまで聞いて、「呪いの眼」ゆかりの者ではないとはっきりわかった。 ならばゲズゥにしてみればそれは最早ただの魔物、退治すべき対象でしかない。 ちょうど魔物が聖女に気を取られて静止している。今なら巧いこと倒せるかもしれない。たとえば足を六本残らず切り落とすか、頭部を胴体から切り離すか。 あまりに敵が大きいので、確実な方法を取りたい。 ゲズゥはさっと辺りを見回した。 教会の正面玄関からは綺麗に管理された土手道が伸びている。聖女と魔物はその道の上にいる。土手道の両側には並木が均等な間隔を取って植えられている。半年前に建った辺境の小さな教会の割には変に凝っているな、と違和感を覚えた。 今はそんなことより、高い足場になりそうな物を探す。並木はどれも細くて若すぎる。足場になるような太い枝が見当たらない。ならば、並木の間に揺れる申し訳程度のともし火はどうか。 ゲズゥと多分そう変わらない高さの街灯は、間隔が長く数が少ない。しかし運良く、そう離れてない距離に一本立っている。 「――大丈夫です。私たちにできることなら、力になります」 なおも対話を続ける聖女を尻目に、ゲズゥは音を立てずに移動した。 魔物の背後に回り込み、数歩離れた位置の街灯まで近寄った。街灯のてっぺんは三角錐みたいな形で、とがっている。踏むとしても一瞬しか立っていられないだろう。 十分だ。 ゲズゥは街灯の上目がけて高く跳び、右足だけで着地した。サンダルを通して、足の裏が街灯の尖がり具合を知ることになった。刺されはしないがやはり痛い。 構わず、そこを足場にして更に高く跳躍した。 獺の背に、剣を突き立てた。 金切り声をあげ魔物がのけぞり、後脚だけで立つ。振り落とされないよう足腰に力を入れながら、ゲズゥは長剣を抜いた。 もう一度高く跳ぶと、振り落とす力と重力を合わせて、魔物の横腹を切り裂いた。 裂け目から、血液と臓物に似た赤黒い塊がいくつも溢れ出す。見れば、臓物の一つ一つに人面が浮かんでいる。相も変わらず気色悪い存在だ。 獺が地に崩れるのを見届け、ゲズゥは聖女の方を一瞥した。少女が異臭放つ汚物にまみれる姿には、多少罪悪感を覚える。 「何を呆けている」 向こうが再構築する前にさっさと浄化に取り掛かれ、という意を込めて声かけた。 聖女は目を大きく見開いて、両手についた汚れと、深手を負った魔物とを見比べてわなわな震えている。一体何事だというのだろう。 大丈夫か、と訊こうとして一歩近づいたら、逆に一歩退かれた。 「い、」 聖女の向けてきた眼差しは恐怖と絶望に満ちている。 「いやぁあああああああああああああああっ!!!」 空気を裂くような少女の絶叫が響き渡った。 |
07.a.
2012 / 01 / 27 ( Fri ) 星明かりの下で、六本足の巨大な獺(かわうそ)と対面していた。ソレは、魔物特有の青白いゆらめきを発しながら、教会の正面玄関に向かって姿勢を低くしている。
小屋ぐらいの大きさだ。これが跳びまわっていたのなら、確かに地震と勘違いするほどの揺れが生じるだろう。末恐ろしい魔物が闊歩する世の中になってしまったものだ。シャスヴォルといいこのミョレンといい、近所の魔物狩り師どもは一体何をしている。 獺の姿をした魔物は、シャ―――――ッ、と大きく口を開いて威勢よく声を出した。前足で宙を引っかいたが、教会の結界に邪魔されてそれ以上進む事ができない。 しかしそれはゲズゥたちとて同じことだった。目に見えない壁に阻まれて、外に踏み出す事が不可能だ。 傍らに立つ聖女を見下ろすと、服の下からペンダントを取り出している。司祭が首にかけていたのとよく似た銀製の物だが、司祭のより大きい気がするし他にもどこか相違点がありそうだ。はっきりとは思い浮かべられない。 「用意はいいですか? 陣を消さずに結界を強引に解除します」 何を言ったのかイマイチ理解できないが、ゲズゥは一言ああ、と答えて長剣を鞘から抜いた。 ――もしもの話。 あの魔物が村の跡地の封印から出てきた個体なら、素となった人間が、ゲズゥの知る者である可能性が出る。といっても十二年前のあの日から帰ってきてないので、たとえそうだとしても思い出せるかどうか謎だ。 聖女はペンダントを片手で握ると、残る手で何か文様を宙に描いた。そうしてゲズゥの知らない言葉を唱え始めた。 南の共通語ではない。北の共通語でもない。他のどの国の言葉とも異なる響きを持っている。或いは、ヴィールヴ=ハイス教団内で使用される呪文用の言語やもしれない。 聖女が唱え終わった瞬間、空気が震えるような気配があった。 もう壁は消えたのだと、なんとなく感じ取れる。 獺が黄色い四つの眼を光らせた。 「下がってろ!」 あの巨体なら三回跳べば充分距離が縮まる。 聖女はすかさず従って玄関まで後退した。 巨体にしては信じられない速さで、魔物が飛び掛ってくる。どうせ聖女の方へ向かうだろうと読んで、ゲズゥはタイミングを見計らった。 ズン、と魔物の一度目の着地。二度目の跳躍。 二度目の着地―― ゲズゥは横へ跳び、獺の後ろに回り込んで長い尾に切りかかった。斬った部分は綺麗に本体から離れ、転がり落ちた。剣を研いだ成果が早速見れて少し楽しい。 獺はこの世のものとは思えない鳴き声を上げた。頬を、血色の涙が伝っている。 おーん、おーん、と動物のように鳴きながら、ソレは振り返った。 笑ったり唸ったり慟哭したり、忙しい声帯だと思った。これが全部人間的な感情に基づいているというのか。わけがわからない。 標的をすっかり変えて、魔物はゲズゥに飛び掛る。前足に絡まれないように、飛びのいた。一度でもあの爪か牙に当たれば大打撃を受けるだろう。 魔物が再び地を蹴ったが、今度はゲズゥは前へ走った。 奴の高い跳躍を逆に利用して、下に潜り込むように進み、剣を上へ構えた。切っ先は獺の腹部分を引っ掛けて、しばらくして抜けた。浅い。手ごたえでわかる。少量の魔物の血液が顔にかかった。 「オ、ノ、レ……」 またしても地震を起こしながら着地した魔物の口から、白煙とともに妙な声が漏れた。 「ノ……カ、……ェ……」 喉が大きく振動しているのが闇の中でも見て取れる。 「何だこれは」 背後にいるはずの聖女に向けて、訊いた。 「……かろうじて言葉を形づくるぐらいの知能が残っているみたいですね。貴方にも聴こえるほどに」 真剣な声が返ってきた。 「何を言ってるのかわかるか」 それは相手が「誰」であるのか判断する上で、重要になる。もし、知る人物であるなら――自分は果たして、どう対応するだろう。 ゲズゥは剣を構えて、獺の動きを警戒した。 「えーと……『おのれ、彼女を返せ』? 一体どういうことでしょう……」 さぁ、と答えたいところだが、止めた。 聖女の声が近くなっているからである。振り返ったら、すぐそこにいた。下がってろと言ったのにどういうことだ。 「あの、彼と少し話をしてきてもいいですか?」 暗い中、聖女の潤った茶色の双眸はねだるようにゲズゥを見上げてきた。 |
06.g.
2012 / 01 / 25 ( Wed ) 前触れなく地が揺れた。
ミスリアは飛び跳ねて、危うく食器を取り落としそうになった。 「じ、地震……?」 身を固くしてしばらく待った。しかし一度きりの揺れだったのか、あたりは静まっている。 安堵し、洗い終わったばかりの皿を向き直る。 頭上のキャビネットに手を伸ばした途端、また大きく揺れた。右手から皿が滑る。 (やだ、割れちゃう……! 自分の家じゃないのに!) 少しでも衝撃を和らぐために身を挺すべきだと頭ではわかってても、体は自己防衛本能に正直で、勝手に飛び退いた。 皿は割れなかった。突如現れた別の手によって支えられ、あるべき場所にしまわれる。 「あ、ありがとうございます。さすが速いですね……」 ゲズゥは淡々とキャビネットに食器を戻した。思えば長身の彼こそ、踏み台のお世話になる必要のあるミスリアよか、遥かにその作業に向いている。 食器が全部キャビネットに納まり、ゲズゥがそれを閉めた。 (食事の時に食卓を囲うのは嫌がるのに、片付けは手伝うんだ) 協調性があるのかないのか、相変わらず、何を考えているのかまったく読めない男である。 (美味しいとも不味いとも言わなかったけど、残さず食べてくれたわ) 今はそれだけでよしとしよう。そういうことを思いながらゲズゥの背中を見ていたら、彼が口を開いた。 「地震の揺れより、魔物じゃないのか」 「え……」 それはつまり、地を揺らすほど重いまたは大きい魔物がすぐ近くに来ているということ。 ミスリアは、出かける際に神父アーヴォスが残した注意を思い出す。 ――戸締りをしっかりして、教会の結界から絶対出ないようにしてください。「忌み地」の封印が古くなり、修復しきれない速さで綻びが生じています。この近辺の魔物は数こそ少ないんですが凶暴で、強大です。いいですかノイラート嬢、くれぐれも外へ出て行かれぬよう――。 そこでまた地が揺れた。 静かな夜に、身の毛がよだつような笑い声が響く。 気がつけばミスリアは、ガラス張りの戸に指を触れ、声の主を探るように闇を見つめていた。夢中で探したけども、どう目を凝らしても月明かりに庭しか見えない。もしやここのアングルが悪い? 「お前にはアレが、どう聴こえる?」 ゲズゥの低い声で我にかえった。いつの間にか隣に来ている。黒曜石に似た右目と呪いの左目が、じっとミスリアの答えを待っている。 芯まで見透かすような眼差しに落ち着かないけど、平静を装った。 「どう聴こえると言われましても……そうですね、説明しにくいんですが……」 笑い声が止んだ――と思えば今度は慟哭が響く。 「私たち人間は言語を持ち、自由に思考をする生き物です。けど魔物は『言葉』を扱う能力が崩壊してる場合が多いので、感情を形にできず放出してるとでも言いましょうか。私にはああいった奇声が、想いとして直接脳に届いてるような、心を打っているような、何ともいえない揺さぶりを覚えます」 言いながらも、胸が締め付けられて苦しい。 「『言葉』……?」 「多くの魔物は、死んだ人間の魂を素(もと)としてます。彼らはかつては表現できた感情を持て余しているのです」 それは教団に属する人間にしか語り継がれない真実だ。一般論では魔物は瘴気のある場所に自然発生する現象となっている。案の定、ゲズゥは瞠目した。 魔物の慟哭は獲物を威嚇するような唸り声に替わった。音量から判断すると、まさに教会の結界のすぐ外に待ち構えているのだろう。 「ご存知ですか? 魔物は決して他の動物を襲うことなく、人間のみを狙うんです」 恐怖よりも深い悲しみに打たれて涙が零れた。 「彼らの餓えは、肉体の空腹からくるものではありません」 地が再び揺れ出し、ミスリアはバランスを崩した。ゲズゥの腕に支えられ、なんとか転ぶことだけは免れる。咄嗟にその腕にしがみついた。 頻繁になった揺れだけで想像すると、大きな子供が地団太を踏んでいるみたいだ。結界に阻まれて、業を煮やしているのだろう。 ミスリアはゲズゥの顔を見上げた。するとさっきと同じ眼差しが、じっと彼女の次の動きを待っているように、見つめ返してくる。 時々、彼がこうして自分を観察していることは知っている。何をするわけでもなく、静かに見るだけ。 最初は狩人のような、野性の捕食動物のような視線だと思って冷や汗かいたものだが、慣れてくるとそれはどちらかといえば子供が蟻の行列を観察する眼差しと同じだと思った。悪意ではなく興味や好奇心に基づいている。 一呼吸してから、ミスリアは発話した。 「お願いがあります」 ゲズゥはミスリアから腕を離すと、内容を聞く前に頷いた。 「行くか」 どこに置いてあったのか知れないが既に長剣を手に持っている。心なしか声が楽しそうだ。理由が何であれ、一緒に外へ行く気になってるのは有難い。 ミスリアは胸元を押さえ、服の下のアミュレットを確認した。 |
06.f.
2012 / 01 / 24 ( Tue ) 開いた目に最初に飛び込んできたのは、絵画だった。
描いた者は青、赤、黄色の三つの原色に白を混ぜたりして色合いを調整したようで、他の色は使われてない。ディテールが一切描かれておらず、全体を見通せばぼやーっと何かがそこにあるような曖昧なものだ。印象派芸術と呼ばれるジャンルに該当するのだろうか。闇市で見たぐらいの認識だから自信は無い。 もしかして、描いた人物は飛翔する「聖獣」を表現したかったとか? 聖堂の天井に描かれる絵画といえば、まさか魔物を飾ってるとは考えにくい。少なくともゲズゥには、黄色い光に包まれた巨体が茜の空を飛んでいるように見える。その巨体の腹を見上げてるような気分だ。散らばっている青系の点が何なのかまでは彼には想像つかない。 翼を広げて輝くソレを見上げても、神々しいだの尊いだの思わなかった。芸術を解さない、感性に乏しい――と言われればそれまでだが。 ゲズゥは起き上がった。窓から射し込む陽の傾きからして夕方近い時刻らしい。 後ろを手で支えながら、首をならした。木製のベンチにしてはまずまずの寝心地だった。やはり木の枝の上が一番だ。 剣を研ぐに適してそうな石を庭から拝借して物置部屋に動かしたのを思い出し、立ち上がる。 廊下で聖女と鉢合わせした。聖女は小さく笑みを浮かべてから、書斎のある事務所みたいな部屋に入った。ゲズゥは特に何も考えずにその入り口に立って、聖女を観察した。窓からの陽射しが躍って幼い顔に影を作っている。 「結構いろんな本が並んでますね……何か読みますか?」 仮に観察されてることを気にしてるとしても、表に出していない。 「いい。俺は字が読めない」 ゲズゥの言葉に、聖女は本をめくる手を止めた。目を丸くしている。 字の読み書きができる人間が少数派であるアルシュント大陸では、珍しくないことだ。文字が、専門職に就く人間以外に開放されて二百年経ってない。大陸中に学校を普及させようという社会運動があるようだが、その夢が実現される日までまだまだ遠い。 中には庶民以下に読み書きの能力を断固として許さない国とてある。シャスヴォルはここ数年でその制度が廃止の方向に進んでいるが、元々そうだった。 ゲズゥは必要最低限に南の共通語とほか数ヶ国語が読めるが、それはあくまで実生活に直結するような単語ばかりで、文章となると別だ。 そうだったんですか、と聖女が困ったような表情を浮かべる。 しかしゲズゥは特に気にしてない。そんなことより剣のことを思い出し、物置部屋へ移動した。 小さな窓が一つしかない部屋だ。蝋燭を灯し、砥石と長剣と水を含ませた布を準備してから胡坐をかいた。 シャッ、シャッ、と丁寧に刃を研ぎ始める。 一分ほど経った頃、どういうわけか開いた扉にノックがあった。 「私もそっちに行っていいですか?」 躊躇いがちに訊く聖女は手に革張りの分厚い本を持っている。 「何で」 短く聞き返した。物置部屋は狭く暗く椅子も無く、読書には向かないだろうに。 「……り…………から……」 聖女は消え入るような声で何かしら呟いたようだが、聴き取れなかった。俯きながら、もじもじと挙動不審だ。 「は?」 「ひとりは、つまらないから」 茶色の瞳が濡れているように見えるのは、光の加減の所為なのか、それとも――? 「……好きにしろ」 女子供という無駄話の多い種の中で、この聖女はまともな方だった。物分かりが速くて余計な詮索もしない。そこにいられても邪魔にならないだろう。 「ありがとうございます」 聖女は踏み台に腰掛けて、本を開いた。 それ以上互いに関ることなく時が過ぎた。 ページの捲られる音が、こっちのシャッ、シャッ、という音の間を時折挟む。 単調な作業に心が安らぐようだ。 最初は緊張気味だったらしい聖女も、次第に本にのめり込んだのか外界を意識から除外している。同様に、ゲズゥも丹念に剣を研ぐことに集中した。 布で拭って刃の研ぎ具合を確かめた何度目かの時に、顔を上げた。小窓から夕焼けの端が見える。いつの間にかそんな時間になっていた。 「晩御飯にしましょう。私、つくります」 聖女が分厚い本を閉じる。 「何か食べられないものとかありますか?」 「…………味の濃いもの」 大真面目に答えたつもりだ。対する聖女は少し笑い、がんばります、と言ってキッチンへ向かった。 |
06.e.
2012 / 01 / 23 ( Mon ) 物置部屋の壁際のチェストに保管されてるだけあって、どの武器も大分前に手入れされて久しいようだった。種類こそ多く揃っているが、錆びれて使い物にならなそうなのばかりだ。教会が建ってまだ半年だというのだから、最初からこの状態で持ってこられたと考えるのが妥当か。
それにしても鎖鎌からメイスやモーニングスターなど、教会にしては物騒な武器まである。まともな状態に戻せれば魔物相手に十分健闘できるだろう。 魔物は他のどんな生き物とも違って、決まった急所が無いのが特徴だ。個体差あれど四肢を裂かれても動き続けることは可能だし、時間を置かずに元通りに再構築されることだってある。ゆえに徹底的に無力化する必要がある。 人間の敵は比較的脆く、両の手だけでも退けられる。魔物との戦闘を思慮に入れて武器を選ぶ方が賢明だ。しばらく、チェストの中を漁るのに没頭した。 リーチの長い武器が好ましい。投げるタイプの槍を手にとったが、やめた。チェストの底の長剣が目に入ったからだ。柄を掴み、引き上げた。鉄と鉄がこすれあう音がする。 ゲズゥの両腕を広げた幅と同じくらいの長さの剣は、決して鋭利な刃を持っていないが、研げば使えそうだ。裏を返したり、刀身に触れたりした。 ふと近づく足音に、ゲズゥは振り返った。 「あの、カイルの叔父様がお茶を出すそうです」 聖女は今朝と同じ水色の質素なワンピースのまま、髪を首元の右側に結んでまとめている。出会ってから今まで見た中で一番、目が穏やかだった。 「わかった」 通常ならばめんどくさいと感じて無視を決め込むところだが、叔父という男が引っかかるので、行くことにした。 ダイニングルームに、ハーブの香りのようなものが漂っている。ティーポットとカップは白地に多少の模様が入ったような一式だ。 テーブルに向かっているのは叔父ひとり。聖女がその隣の椅子に腰掛けた。面倒と思いながらも、ゲズゥがその隣の椅子に座った。偶然にも叔父と向かう形になる。 「改めて初めまして、私はアーヴォス・デューセと申します。聖人カイルサィート・デューセの父方の叔父で、この教会を受け持つ司祭です。ようこそいらっしゃいました」 司祭と名乗った男は一礼し、二人にハーブティーとクッキーを勧めた。事情を甥に聞いたのか、追及するような発言はない。その甥は祈祷の後に急用に出たらしく、結局茶の席にいない。 「ありがとうございます。私は聖女のミスリア・ノイラート、彼は私の旅の護衛です。昨日からお世話になってます」 差し出されたティーカップを受け取りながら、聖女は小さく礼を返した。 「ゲズゥ・スディル、『天下の大罪人』であって『呪いの眼』の一族の最後の生き残りですね。これはまたすごい用心棒を得られましたね」 その笑い声にゲズゥはかすかな濁りを感じた。 「確かにすごい人です」 聖女は微笑みを返している。 「今夜はお二人だけで大丈夫ですか?」 司祭は急に話題を変えた。チラリとゲズゥを一瞥した後、再び聖女と目を合わせる。 「それはどういった意味で?」 「実は今、隣の町で魔物が頻繁に出現していましてね。昨晩はその対応に出かけて戻らなかったんです。するとそこで病が流行っているともわかって、今晩カイルを連れて行こうと思っています」 やり取りを、ゲズゥはバタークッキーを食べながら静観した。 「私も手伝いましょうか?」 「いいえ、お気持ちだけで充分ですよ。ゆっくりお休みください」 「……ではお言葉に甘えてそうさせていただきます」 ゲズゥの意見を仰がず答え、聖女は横目でこっちを見た。別に仰がれても是とも非とも助言するつもりは無いのでどうでもいい。 一度頷いてから薄い黄色の茶を味わい、思わぬ甘さにぎょっとした。 |