八 - h.
2017 / 08 / 17 ( Thu )
「回り出した歯車を止められるかはわからない。やれるだけのことをやってみる」
「うん」
「幾つかの条件を四、五ほど満たせれば、流れは止まるはずだ」
 エランは一拍挟んで、再び口を開いた。

「どれかは、お前に手伝ってもらうことになるだろう。頼めるか」
「……やってやろうじゃないのよ」
 何をやらされるのかまだわからないのも要因だが、セリカは相変わらず「任せて」と言い切れない。
(自信も何もあったもんじゃないけど……)
 不安を抱えたまま走り抜けることはできる。そういう意思表示として、拳を握って見せた。
 その拳に一度視線を落としてからエランは、微かに笑って顔を上げた。

「お前は、いい女だな」
 ――急に何を言うのかと思えば。真っすぐな目で褒められては、こそばゆい。
 セリカはチラチラと目線を合わせたり外したりしながら答える。
「ありがと。あんたも、いい男だと思うわよ」
「そうか。なら、似合いだ」

「…………そうね」
 極めつけに青年は、爽やかな笑顔を浮かべているではないか。気恥ずかしさから逃れたくて思わず同意を言葉にしたが、それはそれで恥ずかしい。
 髪を指で梳きながら、話題を変えるとっかかりを探した。目に入ったのは、丈の長すぎるチュニックだった。

「それ、邪魔そうね」
「タバンヌスが数年前に着ていたものでも大分布が余るな」
「結んであげようか」
 ちょうどセリカの手元に髪紐があった。自身の髪はまだ乾かしていたいので、結わないつもりだ。
 その紐は人の腰を一周できるくらいに長い。じゃあ頼む、と言ってエランは緩慢に両腕を持ち上げた。

 彼の背中側に立って、紐を緩く巻いた。それを境目に、腹や腰周りから裾を引き上げて折り返す。
 小刻みな振動が指先に伝わった。そうか脇腹も弱点か、とセリカはほくそ笑む。

「さっきの話だが」
 息を整えたらしいエランが、沈黙を破った。
「え?」
「足手まといだとか、個人では価値が無いとか」
「あ……まあ、うん」

「とんだ思い違いだな。お前は誰にも物怖じしなくて、勇敢だ。聡明で情に厚い。更に挙げるなら……いつもいい匂いがするし、柔らかいし、抱いて眠ったら気持ち良さそう――」
「なっ! に、を真顔で抜かすのか、この男は! ていうか最後のは別にあたしじゃなくても、他にも当てはまる人がいるでしょ!?」

 勢いに任せて紐をぐっと締めた。ぐえっ、と呻き声が上がった。
 ――柔らかいってナニ!?
 人の感触を、いつの間にか確かめていたというのか。負ぶってもらった時など、心当たりが無いわけでもないが。

「ひとつずつの性質は、他の誰かからも見つけられるだろう。だが全部揃っていて、尚且つここまで私を気にかけてくれる娘は、なかなかいない」
 そう言われてしまうと否定できない。セリカは結び目を作る手をつい止めてしまう。
 それに、と続けてエランが振り返る。青い耳飾りの涼やかな硬さが鼻先をかすった。

「大好きと言ってくれるのも……私の為に大の男を締め落としてくれる女も、大陸中を探してもきっとセリカだけだ」
「し、締め落とすって、あの時!? 意識あったの」
「途切れ途切れにだ。何の記憶かは、後から思い出した」
 あの必死な命のやり取りを目撃されていたのかと思うと複雑な気持ちになるが、今のセリカには、それ以上に気になる事項があった。

「顔、近いんですけど」
 怯むまいと気を張りながらも、訴える声は僅かに震えた。
「近付けているからな」
 率直すぎる答えだった。反論したいのにこれではしようがない。
 青年の輪郭が月明りを遮っているため、視界が暗い。それでも、表情の動きを感じ取れるくらいには、近い。

「お前が自分で自分の魅力を見出せなくても、私にははっきり見えている。だから安心しろ」
 素直に「はい」と応じられないのは、照れ臭さゆえか。単に動けないだけなのか。
 その笑みは、見る者を魅了する類のものだった。そういう意図の下に、あるものだ。
 見事に術中にはまっている気がして悔しいが、同時に酔わされているような心地良さがある。頭の奥が甘く痺れる。

「紐、結び終わったか?」
 色気の欠片も無い台詞も、こう至近距離で発せられては吐息がかかってしまう。湿った熱が皮膚を撫でる。唇、を。
 どうにかセリカは平常心を取り戻して指を動かす。
 手を放すと、エランは数歩離れてからタガが外れたように笑い出した。それは脇腹のくすぐったさを堪えていた反動か、こちらの反応を面白がってのことか――後者のような気がしてならない。

「やっぱり紐返して。あんたも締め落とされたいみたいね」
 ずい、と掌を差し出す。
「怒るな。約束は守っただろう」
「約束って、『許可なく触るな』ってやつ? そんなもん、吐息が触れたからアウトよ!」

「そう言うなって」
 また笑い出している。なんとなく腹立たしい。二、三発叩いてやろうと思って追いかけたら、向こうもなんとなく逃げ出す。
 こうして追いかけっこをしながら帰路を辿った。

(いい年した男女がこんな時間に何をやってるんだか)
 呆れ半分、楽しさ半分。
(さも当然のように遊び相手になってくれてるなぁ)
 ふと、遠乗りの約束を思い返す。共に過ごせるはずの未来を――

 ――考えさせてくれ、と彼は答えた。
 明日になって、たとえどのような結論が言い渡されたとしても。
 出会う以前にはもう戻れないのだと、セリカは静かに悟っていた。



八話は終わりだよ(・∀・)!
どう、爆発しそう!? セクハラ発言! いろんな意味で作者のメンタルは限界だよ☆彡

今回エラン視点長引かせちゃっていいのか感はあるけど、まあそういう自問自答は後回しにします。
笑い転げる系男子が新鮮です。拓真久也はともかく、ゲズゥは大笑いとかしないタイプでしたから…。

では九話でお会いしましょう!

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12:22:30 | 小説 | コメント(0) | page top↑
八 - g.
2017 / 08 / 14 ( Mon )
「末子相続と言っても線引きは必要だ。ハティルが誕生してから六年、大公世子として即位式が行われ、世に披露されるはずだった前日に……予定よりも二週間早く、アダレムが産まれた」
 視界の端に動きがあった。畳んで重ねられていた服――借り物のチュニック以外は使い回しだ――が減っていく。

「迷うべきではなかった。あのままハティルを世子にするべきだった。だが父上は新たな『末子』の成長をしばらく見守りたいと言い出した」
 しばしの間があった。衣擦れの音が、間を埋める。
「こう言っては聞こえが悪いが、父上は自分に似た子供を贔屓する傾向にある。アスト兄上よりはベネ兄上、ハティルよりはアダレムだ。年を重ねるほどに、アダレムが後継者に選ばれるであろうことが明らかになった」

「末子相続の伝統にも則っているしね」
「それもある。ただ、比較対象がいけなかった――三歳で字の読み書きを身に付けたハティルに比べると、アダレムは未だ遊び盛りの普通の子供だ。現時点でどっちが大公により相応しいのか向いているのか、論じても無駄だとは思うが」

「……公宮内で対立が生じるだけの材料があったってわけ」
「誰がどの公子を担ぎ上げたいかに、利己的な理由も混じっているだろう」
 なんてことのない、よくある話だった。あらましを聞いただけでもセリカは嫌気がさしていたが、まだ肝心な部分が語られていないことに気付く。
 これらの問題がエランとどう関係しているのか、である。

「正式に世子が立てられれば大抵の人間は反意を表せなくなるが、知っての通りの状況だ。そこで、大公世子が空席のまま大公が逝去した場合……成人している公子の内、最も継承順位が高い者が即位することになる」
 一通り衣服を着終わったらしいエランが、正面に回ってきた。
 セリカは無表情な青年をぼんやりと見上げて考え込む。
 成人している公子は上からベネフォーリ、アストファン、ウドゥアル、そして。

『ヌンディーク公国第五公子、エランディーク・ユオンです。公位継承権は、三位となります』
 あの夜の自己紹介でエランはそう言っていた。つまり――
「…………あんたじゃないの」

「そうだ。アダレム、ハティルに続いて、私は継承順位が高い。忌々しいことにな」
 彼は心底嫌そうに顔を歪めてみせた。
「で、でも、あんたを消しても繰り上がりでウドゥアル公子が即位するだけじゃないの?」

「そうでもない。死が確認されていない『失踪』であれば、大公は空席のまま、その間に政が回るように複数人で代理が立てられる。期限は三年だ」
「三年経ったら死亡宣告されて、結局ウドゥアル公子が即位するんじゃ」
 頭を捻っているセリカの前でエランがしゃがんだ。じっと見つめる青灰色の瞳に、心臓が勝手に高く鳴る。

「ハティルは、十二歳だ」
「……!」
 合点がいった。この大陸では一般的に女児は十四歳、男児は十五歳からが成人である。
 三年後にハティルが「成人している公子」の筆頭となれば、事情は大きく変わってしまう。

「何もせずに機を待ちながら、ほとんど諦めていたはずだった。それが幸か不幸か条件が揃ってしまった。こうなっては、病床の父が息絶えるのを待つまでもない」
「暗殺を仕掛けるかもしれないってこと……!? えーと、待って、ハティル公子を利用したいのは第二公子? の、一派……?」
 セリカは無意識に腰を上げ、その場をうろうろした。

「どうだか。ハティルは謀(たばか)られるような奴じゃない。首謀者側だろう」
「でもあの朝あんたの居場所を訊いた時、本当に何も知らないみたいだったわ」
「私を牢に投げ込んだのは間違いなくアスト兄上だ。共謀していても、いつ行動に移すかを細かく打ち合わせてなかったと考えられる」
 セリカはふいに立ち止まった。

「……標的にされてるっていうのに、冷静ね」
「公家の世界はそういう奴らばかりだとわかっていた。別に、嘆くほどでもない」
 それが現実だとしても、セリカは彼の代わりに一抹の寂しさを覚えた。改めて今代(こんだい)のゼテミアン大公家がいかに平和であったのかを思わせられる。

「きょうだいを嫌うのに深い理由なんていらない。自分の方が優秀なのに選ばれないことに納得できないのも、自然な流れだ。ただ……」
 エランは初めてそこで言葉を濁らせた。
「あいつが本心からこの国を愛し、国の未来を想っているのも知っている。誤る前に止めてやりたい。血族殺しの罪を犯した君主は、いずれ歪んでしまう――というのは私の見解に過ぎないが」

「言いたいことは、わかるわ」
「それにアスト兄上が関わっている以上、流れる血はきっと私と父上に留まらない。刹那的というべきか、後先を考えないで欲望や衝動だけで妙な方向に踏み出す人だ。だからこそ扱いやすいとハティルも考えたかもしれないが」
「一年は都に帰ってないのに、よくそこまで気付けるわね」

「きな臭さに敏感なのは保身の為だ。根が実直・善良なベネ兄上と違って、私は誰も信用しない。人は皆まずは敵だと思うことにしてる」
「それが賢明かもね」
 けれど誰も信用しないと明言している割には、こうして出会って数日の人間に頭の中身を語ってくれている。心の距離が縮んだ証のようで、セリカはこっそり嬉しくなった。



前に使っていた「公太子」表記を「大公世子」に改めました。

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23:59:27 | 小説 | コメント(0) | page top↑
八 - f.
2017 / 08 / 11 ( Fri )
「恋愛感情というものへの不勉強さなら、私も同じだ。だが二度と会えなくなって平気かと問われると……つまらなくなりそうな、予感はする」
 それがありのままの心だった。
 惰性で公子人生を送って来たエランディーク・ユオンにとって、初めて見かけた時からこの女性は――「彩り」だ。地下牢の闇すら照らせるような、光。

 表情豊かで、素直で。初めて知る力強い美しさである。
 縁談が無くなったら手放せるのかと、改めて一考する。例えば、別の男と笑い合っている姿を想像する。
 ――嫌な図だ。
 だからと言って我侭で彼女を己の傍に縛り付けて、結果的に怪我をさせたり死なせたりしたら、永遠に自分を許せないだろう。そのような結末への恐れの方が、圧倒的に強い。
 覚悟を改めるまでの時間が必要だ。

「少し、考えさせてくれ。せめて明日まで」
「……ん。いいわ」
 セリカは要求にあっさり頷いた。すると髪のひと房が、肩からはらりと流れ落ちた。
 瞬間、常よりも布の開けた胸元に眼差しが吸い寄せられたのは不可抗力と言えよう。すべらかそうな肌の白さから、赤い髪が行き着く溝から、目が離せなかった。
 目が離せないのなら身体ごと向きを変えるしかない。エランは必要以上に素早く立ち上がり、踵を返した。

「あんたも浴びてくでしょ? さっきヤチマさんに着替え貸してもらってたわよね」
 引き留められた。ので、首を巡らせて答える。
「チュニックだけだ。お前とハリマヌの体格は近いが、私とタバンヌスでは差がありすぎる」
 ヤチマが保管していたのか、あの家には十代前半の頃のあの男の衣類がほんの数着あった。それでも現在のエランには大きいくらいである。

 苦笑交じりにセリカは自身の着替えを終えて上着を羽織った。髪を乾かしながら、脱ぎ捨ててあった服を回収している。
「荷物見ててあげるから入ってくれば」
 そう呟いて逸らされた頬は仄かに赤い。何故か、は考えない方が良いだろう。

 冷水に全身を浸からせる――それは複数の理由でいかにもありがたい案だった。
 エランはペシュカブズを鞘に収め、危険そうならこれを投げて来るようにと言ってセリカに手渡した。既に抜き身だった点に気付き、不穏な気配でもしたのかと彼女が訊ねる。その問いを、エランは「訊くな」と強引に振り払った。
 それからゆっくりと岸へ歩を進める。水辺の縁に立つと、何ら疑問を抱かず脱衣し始めた。

「ちょっとォ!? 脱ぐなら脱ぐって一言断ってよ! あっち向いてるから!」
 必死な抗弁に、我に返る。この時点ではもう上半身が惜しげなく夜風に晒されている。
「あ、ああ。悪い」
 考え事をしていて気が付かなかった。制止の声をかけるにしても、もっと早くなければ無意味だろうに、と思っても口には出さない。

「……傷痕、結構あちこちにもあるのね」
「胴のは大体どれも『度胸試し』の痕だ」
「度胸試しぃ? 男ってそういうの好きよね」
「体を張って得られる信用もあるということだ。いつか機会があれば――」
 言いかけて、止めた。セリカをルシャンフ領に連れて帰る未来があるのか判然としないのに、いつか機会があれば部族民に諸々の逸話を聞くといい、なんて言えるわけがなかった。

 実はとんでもない岐路に来ているのではないか。そう考えるとゾッとした。
 無心になる。エランは口を噤んで水浴びに専念した。

(水がこんなに冷たくてセリカは大丈夫だったろうか)
 川底の石は藻のぬめりに覆われていて、柔らかい。この域は流れが緩やかだ。座り込めば胸まで浸かることができた。
 冷たさに心臓が慣れた頃に、サッと頭まで潜った。寒くて仕方がないが、刺激で頭が冴える。汚れが洗い流されていく手応えに、人としての尊厳を取り戻せたような感覚がする。

 長い息を吐いた。
 ねえ、と背後から声がかかる。
「訊いてもいい? エランは何で、何の、標的にされてるの」
「…………」
 核心を突く疑問に、俄かに答えることができない。

 ――これも分岐だ。
 知識と認識は、よほどの手段を使わない限り、簡単に無かったことにはできない。
 教えていいのだろうか。話して自分が楽になりたいだけではないのか。重荷を分かち合って、後悔を生むだけではないのか。

 振り返り、一見ほっそりとした後ろ姿を眺める。
 実際は弓を引けるからにはそれなりに力強いのだろう。身体的な観点だけではなく、箱入り公女の内には、誰にも踏み消せないような炎を感じた。
 覚悟の有無を問うのはもはや失礼か。
 何も背負わぬつもりであったなら、そもそもセリカは今頃まだ宮殿で愛想を振りまいていたことだろう。

 その様子を脳裏に思い描くと、自然と唇が笑みの形を作っていた。
 どうせくだらぬ一生を作り笑いを浮かべて過ごさねばならないのなら。
 隣に、この娘が居てくれればいい――

_______

 手元の武具は鞘から柄、果ては刀身までにも細かい装飾が施されていて、冷徹な美しさを讃えていた。返事を待つ間、セリカはそれを隅々まで鑑賞して暇を潰した。
(なかなか答えてくれないのは、やっぱりまずいことを訊いたからかしら)
 掌が冷や汗で湿った。今夜は緊張しっぱなしである。
 数秒後、大きな水音で、青年が岸に上がったのを知る。気配が近付いて来た。

「現大公――父上は為政者としての腕は悪くないが、優柔不断なところが昔からあった」
 そうして彼は淡々と語り出した。




傷痕の絶対数でいえばゲズゥの方が三倍は多いですが(結構薄れているのも)、エランはところどころ派手なのがある感じです。属領の民との逸話は多分本編中に語られないので、気長~に番外編か続編をお待ちくださいw

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23:52:59 | 小説 | コメント(0) | page top↑
八 - e.
2017 / 08 / 08 ( Tue )
(薔薇の香り……香油なんて持ってたか?)
 石鹸を持っていたようにも見えなかったが、懐に収めていたのかもしれない。
 背後から、カタカタと硬いものがぶつかり合う音――おそらく寒さに歯を鳴らしているのだろう――が聴こえた。声をかけていいのか逡巡した。衣擦れがするので、まだ着替え終わっていないのだろう。
 待つしかなかった。セリカの育ちを思えば、不慣れな衣装をひとりで身に付けるのに時間がかかっていても仕方がない。

「六日」
 しばらくして、静寂が破られた。
「六日?」
 微動だにせずに訊き返す。
「あんたと出会ってから六日経ったわ。三日目に公都から逃げ出して、移動に丸二日かかって」

「もっと長いように感じていたが、短いな」
「明日から、どうするの」
 心なしかその問いには、責め立てるような響きが含まれている。ここ数日の不機嫌の原因はこの辺りにあるのかもしれないとエランはふと思った。
 先のことにまつわる不安をどうすれば払拭してやれるのか。嘘偽りなく話す以外に、思い付かない。

「遅れて悪かった。安心してくれ、お前は必ず無事に送り返す。傭兵を雇って」
「あんたは、どうするのよ」
 何故かセリカが苛立たしげに言葉を被せて来た。
「必要なものが幾つかある。手配でき次第、ムゥダ=ヴァハナに戻るつも」
「戻るの!?」
 再び、被せられた。

「放っておけない。亡命は最初から選択肢に無かった」
「危険でしょ。また誰かが消そうとするんじゃないの」
「逃れえぬ死に向かっていても、たとえ無駄な足掻きだとしても、行くしかない」
 エランは知らず握り拳を作っていた。命をかける覚悟は、既に決めている――

「どうしてそう考えが捨て身なの! もっと自分を大事にしてよ! 国の為なら自分ひとりの命なんて安い対価だとか思ってる? どんだけ生きる意欲が無いの!?」
 突然浴びせられた怒号に、首筋が強張った。現状を忘れて振り返る。
 着替えも半ばの薄着姿だが、幸い、首から下がちゃんと隠れていた。

「また誰も知らない場所で独り、血を吐くことになってもいいの!?」
「――――」
 絶句した。濡らしたままの長い髪を振り乱しながら、セリカは泣いていた。
「そりゃあたしじゃ何の役に立てないかもだけど、一緒に行っても足手まといだろうけど! だったら、行かないでよ! 馬鹿! 無謀!」

「……私は怒られているのか、心配されているのか……?」
「心配だから怒ってるのよ!」
 セリカはその場にしゃがみ込んで、組んだ腕に顔をうずめる。
 弾みで水滴が顔にかかった。頬を打った冷たさに、目が覚める想いだった。
(国の為なら自分ひとりの命は安い対価、そう感じていたのは否定できないな)
 くぐもった罵声が更に畳みかける。

「エランのばか! だいきらい!」
「だっ――大嫌い、か……」
 驚愕して、オウム返しになった。
 言葉が突き刺さるとはこういう現象だったのか。存在を否定するほどの暴言をアストファン辺りによく吐かれた人生だったが、あれはどうでもいい相手の吐くどうでもいい戯言として容易に受け流せたものだ。

 どうでもよくない人間からの苦言の、なんと痛いことか。悪くない感情を抱かれていると自惚れていた己を恥じた。
 吐き気がしてきた。謝ろうとして口を開くが、声が出ない。
 沈黙がやたらと重い。
 やがて、小さく「ごめん」と呟く声があった。

「……うそ。ほんとは、大好きだもん」
 継がれた言葉に、またもやエランは驚愕して絶句するしかなかった。
「こういうのが――世に言う、恋愛感情なのかはわかんないけど……あんたが楽しそうにしてると、見てるこっちもなんか和むのよ。変に理屈っぽいとことか、だるそうな話し方とか、子供に怖がられるのにリスには懐かれるとことか……面白い。もっと見ていたい。近くに、居たい。独りで死んじゃうのかと想像すると、どうしようもなく、つらい……」
 嗚咽交じりに明かされる想いが、静かに染み入る。

「でも『連れてって』なんて言えるわけない。縁談がなければ出会わないような、か細い縁よ。国同士の事情を取っ払ったら……個人としてのあたしには、リスクを負ってでも一緒に居るほどの価値が――」
 セリカはしゃくり上げながら顔を上げた。目が、合った。
「ねえ。エランはこのまま帰って、二度と会えなくなっても、平気? あたしは……平気じゃない、気がする」

 ――処理能力が追い付かない。
 嫌いなのか好きなのか、どっちだ。今しがた聞いた新情報の数々に対する感想が思考回路をぐるぐる回る。その中に罪悪感があった。誰かにこれほど辛い想いをさせていながら気付かずにいた自分を、殴りたい。

「エラン?」
 髪と同じ赤紫色の長い睫毛に縁取られた瞼が、瞬く。涙の滴が月明りに煌いて綺麗だ。
「あ。もしかして、この前みたいに思考停止した?」
 次いで、表情が打って変わって輝き出す。泣き止んで欲しいと切に願っていたから僥倖だ。しかしこの至近距離で好奇心に満ちた瞳を向けられるのは居心地が悪い。座ったままで後退った。

「お前は相変わらず、忙しないな」
 やっと喋られたかと思えば。我ながら、間抜けな第一声だ。咳払いをして、やり直す。

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八 - d.
2017 / 08 / 06 ( Sun )
 川での行水。寒いだろうけれどもプライバシーは守られる。セリカも納得したようで、頷いている。
「町の結界がありますから魔物の心配はないでしょうけど……治安は気がかりですね。夜にお一人で行かせられません」
「ヤチマさん疲れてるでしょ、休んでていいのよ。防犯にはエランを連れて行くから大丈夫」
「お前、それは、何を」
 ――血縁関係の無い男女が連れ立って水浴びへ向かう?

 なんて非常識な提案をするのかと唖然とした。ゼテミアンではそういうものなのだろうか。否、かの国にそんな風習は無いはずだ。
 ――我が領の部族民並の奔放さじゃないか。

「ちょっと離れたところで見張ってくれればいいんだけど」
 こちらの狼狽をよそに、彼女はのんきそうだ。
 離れた位置からの見張り――文面だけなら当初に連想したほどの破廉恥さは無い。部屋の隅で「エランさまを番犬代わりに!?」とヤチマが顔面を蒼白にしているが、それはともかくして。
 他に良案が浮かばないのも確かだ。
「わかった。行こう」
 前髪をかき上げて投げやりに承諾した。


 目的地に至るまでに徒歩二十分、三歩の距離を保ったまま共に一言も発さなかった。
 夜の川辺には野良犬と浮浪児の気配が疎らにあった。それらは、ヤチマに教えられた穴場に着いた頃にはすっかりいなくなっていた。
 先日よりも満ちた月の涼しげな光が、川面に映って揺れる。

「じゃあ入るけど。ちゃんと見張っててよ。……覗いたりしないわよね」
 暗がりでヘーゼル色が濃くなっている双眸が、不審げにこちらを見る。目線の高さが近いからか、こうして見つめ合うと心の奥まで覗き合えるような気分になった。
 あくまでそれは錯覚に過ぎない。婚約者であるはずの女の心中は、依然としてまるで見えないのだった。

「信用が無いな。良識や自制心くらい、ある」
「せ、制しなきゃならないようなナニカがあるんですか」
 今度は不安げに瞳孔が伸縮した。
「いいから早く行け」
 セリカが抱えている手巾と着替えの束をひったくって、背を向けた。ここに来て無防備な面を見せられたら、要らぬ感情が巻き起こるだけだ。

 数秒後、微かな足音がした。それは遠ざかり、止まって、果てには衣擦れの音に入れ替わる。
 それなりに離れているというのに耳は正直だ。どんな小さな音も漏らさずに拾おうとしている。
 とりあえず座った。
 他者の気配に用心しているつもりで、感覚を研ぎ澄ます。

 濡れた土と草の匂い、冷えた風。蛙と虫の鳴き声。月明りに薄っすら浮かぶ草花の輪郭。周りに注意しようと頑張れば頑張るほど、頭の中は別のイメージに蝕まれた。
 ぴちゃり、と控えめな水音が耳朶に届く――
 ――払えない。

 あの柔らかい足が冷たい水の下に潜ったのか。旅をしていた間ずっと編んで結い上げられていた長い髪は、解かれたのだろうか。
 髪と言えば、滑らかな項(うなじ)や肩を思い浮かべた。女性らしく華奢だが頼りないほどでもない、名状しがたい曲線美を。触れてみたいと思ったのは一度や二度ではない。

 なんと言っても、普段は隠れている肌部分を想像してしまうのである。
 水音は未だに不定期に聴こえてきた。日常的な音なはずが、これほどに劣情を煽るものだったとは――
 さすがに息が詰まり、眩暈がする。
 懐から鉄笛を取り出しかけて、考え直した。雑念だらけで奏でてみても気が紛れるどころかひどい騒音を作ってしまう。

 時間が過ぎるのが異常に遅い。
 早く戻ってきてくれと願うも、戻って来られたらそれはそれで厄介だ。何せ手巾はこちらの手にある。つまり彼女は、一糸纏わぬ姿で歩み寄ってくるのである。
(こんな精神状態で、曲者が現れたとしても果たしてまともに対応できるのか)
 ――落ち着かねば。
 愛用のペシュカブズをおもむろに鞘から抜いて、掌でも切ろうかと真面目に検討した。

 検討している間に大きな水音がした。思わず息を潜める。
 足音が徐々に近付いた。そしてすぐ後ろで止まった。肩越しに白い腕が伸びて、手巾と衣服の束をさらっていく。

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13:36:12 | 小説 | コメント(0) | page top↑
八 - c.
2017 / 08 / 04 ( Fri )
「頭を下げるべきは私の方だ。急に押しかけて悪かった」
「いいえ、嬉しゅうございます。よもやまたお会いできるとは……ええ、ご立派になられて。目元なんて、ますますお嬢さまに似ておいでです」
 顔を上げたヤチマは、鼻をすすって泣いていた。
 母に似てきたと言われるのはどこか複雑だが、微笑みを返しておいた。まだ壮年と呼べる女性の手を取り、立ち上がるのを手伝う。

「仕事はどうだ、楽しんでいるか」
「はい、おかげさまで! 皆、底なしの胃袋の持ち主ばかりで作り甲斐があります」
 綻んだ表情が全てを物語っていた。明日にでも寄ってみていいか、とエランが問えば、もちろんです、と彼女は嬉しそうに答える。

「今はひとりで住んでるのか」
「はい。娘は……ハリマヌは先年結婚しまして、別の町に」
「結婚? めでたいな、聞いていれば祝いの品を贈ったのに」
「まあ、初耳ですか。息子には手紙で報せましたけれど」
「タバンヌスはきっと伝え忘れたんだな」
 引きつった笑顔で応じたが、心の中では別のことを思っていた。

 ――あの野郎、気を遣わせまいと黙っていたのか。
 贈り物くらい贈らせてくれればいいのに、身分を気にして遠慮したのか、全く頭の固い乳兄弟である。
(私にとってもハリマヌは家族なんだがな……)
 過ぎたことを考えても仕方ない。次に会ったら蹴りのひとつでも入れて、それで水に流してやろう。

「ところでエランさま、息子はいずこに? そちらの麗しいご婦人は異国の方ですか……?」
 ヤチマが戸惑いを隠せない様子で両手を握り合わせて視線を彷徨わせた。
 注目されていると気付き、姫君は優雅に一礼した。
「セリカ、という。彼女に関してはできれば何も訊かないでもらえると助かる。他の話は座ってからでもいいか」

「ええ、ええ! 気が利かなくて申し訳ございません、すぐにお茶とお食事の用意をいたします!」
「何か手伝えること――」
 言い終われる前に遮られた。
「お客さまですのにお手を煩わせるなどとんでもない! 狭いところですが、どうぞ先におかけになってください」

 とりあえず彼女の促すままに、絨毯の上に直接腰を下ろした。小さな食卓は二人で囲んだら既にいっぱいいっぱいだ。向かいのセリカは姿勢を整えて大人しくしているが、目だけは興味津々に周囲を取り込んでいる。
 それからヤチマは怒涛の如く動き回った。茶器に続いて、食べ物がどんどん並べられてゆく。ありあわせの漬物、職場から持ち帰った余り物、新しく焼いたパン、そして限界までに何かを詰められた三角形の揚げ物。

 最後のそれは、わざわざエランの目前に置かれた。子供の頃からの変わらぬ好物だ、ヤチマもしっかりと憶えていたようだ。
 食前の祈りと感謝の挨拶を述べると、真っ先にひとつを手に取った。

「懐かしいな。お前のサンボサは絶品だった」
「まあ、ありがとうございます」
「……さむぼさ、ってこれ」
 未知の物を警戒するように、セリカが目を細めている。
「そうだ。カリカリに揚げられた皮を噛み切った瞬間に旨みが爆発する。中身は肉か野菜か、とにかく香草や香辛料が具材と完全に調和して美味い」

 ちなみにエランが最初に手に取った一個は、中身が野菜のみで構成されていた。素材の旨味に便りがちな肉のサンボサに比べると調味料のクセが強めで、実は野菜の方が好みだったりする。
 だが包みを使った料理は総じて内側がとんでもなく熱い。急ぎすぎたために舌に軽くやけどを負ってしまったが、後悔は一切無い。
 むしろ、この痛みを伴って尚更に美味しく感じるのだ。

「まあ、まあ。エランさまったらそんなにお褒めにならなくてもまだたくさんありますからね」
「……っ」
 ほどなくしてセリカも身悶えるのを我慢しているような様子になった。同じくやけどをしたのだろう。
「おめでとう。誰しもが通るべき洗礼だ」
 姫君は涙目で睨んできたが、言い返すことができない。一時のことだとしても、妙に楽しい気分になった。

 そうして空腹をほどよく満たした頃。
 エランはぽつぽつと事情を語り始める。セリカとの関係は、協力者とだけ言ってぼかした。
 タバンヌスが時間を稼ぐ為に宮殿に残ってくれた話に至ると、口は勝手に重くなった。何度もため息を挟んで、話した。

「大丈夫です! 簡単にくたばるような息子じゃありません。わたしはそんな、ヤワな子に育てませんでしたから」
「……そうだな。私もそう思う」
 子の無事を信じる母親の強がりは痛々しく――尊いと感じた。

_______

「お風呂、でございますか。残念ながらこの家には風呂場も庭もありません。お湯を浴びたいのでしたら近くに大衆浴場があります」
 食後のコーヒーを堪能していたら、ふいにセリカがヤチマに「身体を洗いたいので風呂を借りたい」と声をかけたのである。

「庭……? 大衆、浴場……?」
 提示された単語の意味合いが理解できないのか、セリカは不思議そうに首を傾げている。宮殿育ちの公女はきっと、庭先で桶から湯水を浴びたことも無ければ、見知らぬ人間と並んで裸になったことも無いはずだ。

「すまない、ヤチマ。できれば他の方法で頼む」
「大衆浴場でなければそうですねえ。少し歩きますけど、川を上れば行水が出来るとっておきの場所がございます。静かですよ」



タバさんの妹・ハリマヌちゃんは気弱そうな外見だがその昔「おおきくなったらエランさまのおよめさんになる!」と豪語した図太きドリーマー。身分的に無理だと聞いてからは「じゃあ、あいじんにしてください」と詰め寄り、たいそうエランを困らせたが、まじめなお兄ちゃんの三日がかりの説得によって考え直した。というどうでもいい逸話がある。

サンボサ は サモサ の別地域での呼び名みたいなもの。mの音が短いのでどっちかと言えば「む」ならずに「ん」表記にしました。

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07:21:40 | 小説 | コメント(0) | page top↑
八 - b.
2017 / 08 / 02 ( Wed )
 その単語を引き金に、改めて様々な思い出が蘇った。
 一拍置いてエランは息を吐く。歩きながら話す、と言って足を踏み出した。

「もう八年も前になるか。母が事故で亡くなって、私はヤチマを解放した。その後の生活に困らないようにと、安全な行き先を探し、十分な金を持たせた」
 彼女は以前からエランの母親の生家の奴隷だった。同じく奴隷だった夫と死別してからは、母専属の奴隷になったという。

 母がヤシュレ公国からヌンディーク公国に嫁ぐ時が来ても、子供二人を連れて一緒についてきた。
 そこまでの縁だったとしても――奴隷階級の人間にとっての義理には、居心地の良い場所が前提だ。

「いくら主人に恩義を感じていても、個人の夢を諦めずにいたりもする。ヤチマがそうだったのは知っていた。何も持たない私に仕えさせるよりは、手放すべきと判断した」
 勿論、抵抗された。
 お嬢さまの忘れ形見を置いてどこかへ行くなんてわたしには無理です――と泣き付かれたりもした。しかしエランは頑なに押し切った。
「……タバンヌスだけが残ったのはどうして?」
「本人が願い出たからだ」

 脳裏に八年前の映像が過ぎった。
 当時まだ成人して間もなかったタバンヌスは、今のような屈強な外見からはほど遠く、武術が少し得意な、精悍な顔付きの少年だった。体力があって要領も良く、どんな仕事にも就けただろう。
 エランは何度も諭した。町に働きに出て可愛い嫁を見つけて、幸せを掴みに行け、と。母と妹と離れていいはずがない、とも。

 ――ではエランさまは、この先おひとりで、御身の幸せを掴めるのですか。

 必要以上に表情筋を動かさないあの男が、あの時どれほど悲しそうな顔をしたのかは、今でも思い出せる。
 返せる言葉が無かった。
 実母を喪ったばかりの十歳のエランには、幸せというものがわからなかった。きっと遠いどこかの山を越えれば見つかるような、そんな漠然とした浮世離れた他人事のように思っていたのだ。
 ついには根負けして、奴隷から従者に昇格させることで妥協した。

 ――いいかタバンヌス。お前は解放されて人の所有物じゃなくなった。これは契約だ。私はお前を傍に置いて、命令はするが、真の意味で何かを強要したりはしない。従うかどうかはいつだって自分で決めろ。
 ――御意にございます。
 ――もうひとつある。いつか私の命と己のそれを天秤にかけなければならない状況になったら、その時にどうするかもお前の自由だ――


「待って、どういう意味なの。従者なら当然、主人を優先したいわけで……でも自分可愛さに逃げてもいいってこと」
 気難しげな表情でセリカが問いかける。
「それもあるが、私はあいつが身を挺して主人を助ける性分であるのを知っていて、もしも私が『助けるな』と命令した場合も無視していいと言ったんだ。怒りはするが、恨みはしない」
 つまり何を選ぼうとも、本人の意思を尊重する契約だ。

「ややこしい約束をしたものね。今のあんたの顔見てると、十分恨んでるみたいだけど」
 セリカの指摘でハッとなり、エランは自らの表情の強張りを唐突に自覚した。
「……そうか」
 気まずくなって目を逸らす。いつの間にか長く伸び始めた街中の影を眺め、気を紛らわせた。

「そうよ」――答えた彼女の声は柔らかい――「また無事に会えるように、祈ってるわ」
「ありがとう」
 本当は祈る以上の行動に出る心積もりだったが、ここで語るのは憚られた。
 それからは静寂を供にして、進んだ。やがてこじんまりとした住宅街に出る。
 目当ての家を見つけて扉を叩くも反応は無い。干し煉瓦を並べて建てられた玄関の階段に、二人して腰を下ろして待つことにした。と言っても、間隔はやはり微妙に離れている。

「もうしばらくしたら仕事から帰ってくるだろう」
「仕事って、どんなの」
 小石を爪先で蹴りつつ、セリカがボソッと訊ねる。
「賄いだ。確か駐屯地――いや、傭兵団だったか」
 その時、土手道の向こうに誰かが現れた。単色のワンピースと頭巾、ひとまとめにした焦げ茶色の髪、といった質素で清潔そうな恰好をした女だ。セリカよりも背が低くて肉付きが良いのも特徴である。

 彼女が近付いて来るのを待ってから立ち上がり、エランは軽く礼をした。被っていたフードも下ろす。
 女はこちらを見上げてあんぐりと顎を落とした。
 記憶の中の乳母よりも痩せていて小皺が増えている気もするが、深い茶色の瞳と目が合うと、昔ながらの安心感を覚えた。

「久しぶりだな、ヤチマ。ハリマヌは元気か」
「なっ!? なにゆえあなたさまがこのような! と、とにかくお入りくださいまし!」
 彼女は悲鳴交じりにまくし立てた。しどろもどろに扉を開けると、こちらに道を開けた。
 全員、なだれ込むようにして中に入る。最後尾のヤチマが閂をかけた。
 それから迷わず、床に額をつけるほどに平身低頭した。

「お久しぶりでございます。ご息災そうで何よりです……!」
「お前もな。頭を上げてくれ」
 震える肩に、そっと手をやる。

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10:20:12 | 小説 | コメント(0) | page top↑
八 - a.
2017 / 07 / 29 ( Sat )
 政権争いと無縁な人生であれば良かった――この期に及んで、ヌンディーク公国第五公子はそんな風に考える。
 領民が健在で、治める土地が概ね平和であればそれで事足りた。俗世のしがらみから離れて、悠久の空の下、無限の大地をいつまでも駆けていたかった。
 生き甲斐とは、そういった何気ない欲求の連なりであってもいいのではないかと思う。

 そして周りに期待されないというのは空しいと同時に、気楽だった。母が他界してからの数年、誰にも咎められずに都の諍いから抜け出すこともできた。
 ――まさかこんな形で追われるとは。
 奴らが仕掛けたのがほんの一週間早かったなら。エランディークはもしかすると、もっと従順でいたかもしれない。

 今は尊き聖女に進呈した誓いがある。国の行く末を左右できる立場にありながらその権力と義務から目を逸らしたら、きっと彼女が望む「人助けの心」から遠ざかるだろう。
 抗わねばならない。エランの決意はいつしか、確固たるものとなっていた。
 問題はセリカラーサ公女の身の安全をどうやって確保するか、である。
 国が傾ぐような事態となれば、縁談は破談となる。公女は所在を失い、祖国へ帰されるはずだった。

(セリカは私に与する方を選んだ。こうなっては最悪、暗殺者に狙われる)
 どうやってゼテミアン公国まで無事に帰せるのかを考えあぐねていた。時間はあまりない――
 出し抜けに、服の裾を掴まれた。
 エランはついクセで左肩から振り向いた。

 通常、自分と接し慣れていない人間であれば、必ずしも左側に控えていてくれるとは限らない。視界に入っていなくとも声は届く。相手にとってはその程度の認識、だったりする。
(そういえばセリカは割といつも左側に居るな)
 静かな気遣いに、静かに心打たれる。

 そんな彼女の横顔は心なしか青ざめている。衣服を掴まれたと言っても、本人はこちらに目を向けていない。
 下町を歩いたことがないからこの人込みと空気感に気圧されているのか、真っ先にそう考えたが、どうやら違うらしい。オレンジヘーゼル色の双眸は空を見上げていた。

 遥か上空に鳥影がある。それは、あっという間に過ぎ去った。
 猛禽類を見かけるのは、別段珍しいことではない。にも関わらず、何故かセリカは異様に怯えている。そんな姿を眺めていると思い知らされる――自分は彼女について何も知らないのだと。

「あの鳥がどうかしたのか」
「……や、あれってお兄さんのハヤブサ……?」
「隼? 私にはよく見えなかったが、『お兄さんの』というのは」
「な、なんでもないわ。行きましょう」
 セリカはぎこちなく笑って誤魔化した。先を急ごうと、エランの長すぎる袖を引っ張って促している。

 ――家族を思い出したのだろうか。恋しがっているのだろうか。
 この時になってようやく、エランはセリカの意思を聞いていないことに気付いた。道が分かれるのが当然の成り行きだからと、訊かなかった。

(いや、そうじゃない)
 帰りたいか、と一言訊けば済むことだ。
(もしも訊いてみたとして……全く別れを惜しまれなかったら)
 情けない話だが、少なからず傷付く自信があった。
 そんな雑念を振り払わんと、小さく嘆息する。

「行きましょうって、お前、行き先がわかるのか」
 エランはフードをより目深に引き下ろした。目立ちすぎるのを避ける為に、町に入ってすぐにフード付きの外套を二着入手したのだ。
「わかんない。どっち?」
 例によってセリカの返事はそっけない。一方で、その瞳は右へ左へと忙しなく飛び回りながら輝いていた。市場が、大通りが、山羊を引く人が、物珍しいのだろう。

「あの路地を通ったら右だ」
 彼女は言われたままに方向を修正した。そしてここに来て突然思い当たったように、質問を口にした。
「で、どこに行くの」
「タバンヌスの母の家だ。名を、ヤチマという」
 そう答えると、ふいにセリカが立ち止まった。次に口を開くまで、かなりの間があった。

「…………置き去りにしたの、申し訳ないと思ってるわ」
 躊躇いがちに振り返ったその表情は曇っている。主語が無くとも言わんとしていることは伝わった。
「気にするな。それがその時選べる最善で、本人の希望だった」
「でも……」
「お前が気負うことじゃない。契約だからな」
 少しでも元気付けようと思って、笑いかける。するとセリカはぎゅっと眉間を絞った。

「それ、あいつも言ってたわ。何なの、契約って?」

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02:41:59 | 小説 | コメント(0) | page top↑
七 - h.
2017 / 07 / 24 ( Mon )
 野営地に戻った頃には姫君の機嫌もすっかり直っていた。
 不機嫌が一過性ならば、原因を突き止める必要がないというのがエランディークの意見だ。要するに下手に蒸し返したくないのである。
 森で声をかけた際にセリカが垣間見せた攻撃性は何だったのか。言動が随所で尖っているのは元からだが、知り合って数日、これまでにも彼女が度々表してきた「拒絶」とは一線を画したものだった。

 ――突き放すようで、不貞腐れているようだった。
 そこまで感じ取っていながら、エランには理由がさっぱりわからない。
 命を助けてくれた上に、また会えて嬉しいとも言ってくれた。悪くない感情を抱かれている印象だ。後は「乙女の機微」とやらが、これ以上わかり合うことを阻んでいるのだろうか。

(訊いても、明かしてくれないだろうな)
 言葉にされていない想いをあれこれ勘繰るのは無意味だと判じ、エランは思考を中断した。
 背中からセリカを下ろしてから、聖女とその護衛だという男に向けて順に会釈する。
 黒髪の男は無機質な眼差しでこちらを見上げた。服装も総じて色が暗い――そう観察したところでエランは開口した。

「着替えをいただけないでしょうか。上だけで十分です」
 血に汚れてしまった自身のチュニックを示す。男は考えるように数度瞬き、やがて荷物を引き寄せる。中から灰色の衣服を掴み出し、こちらに向けて投げて来た。
「ありがとうございます」
 替えの服を手に、エランは木陰に向かう。汚れた方のチュニックを勢いよく脱ぎ捨てて――何故かいつの間にかはだけていたため脱ぐのは容易だった――男にもらった方のそれを着る。身長差から予想はできていたが、裾と袖の丈が余っている。

「お茶どうぞ」
 聖女が、セリカに座るようにと笑顔で促している。
 エランも輪に加わり、皆で焚き火を囲う形になった。四人が一堂に会するのも初めてだからと、改めて自己紹介を始めた。
「私は教団に属する聖女、ミスリア・ノイラートと申します。彼は護衛を務めてくださっているスディル氏です」

「二人だけで巡礼ですか?」
 エランはつい口を挟んで訊ねた。
「いいえ。私たちは帝都ルフナマーリからカルロンギィ渓谷へと向かっていまして……他の仲間が道中にヤシュレ公国に所用あるそうなので、彼らと再び合流するまではのんびり二人で進んでいます」
 エランは脳内に大陸の地図を思い浮かべて、納得した。現在地は聖女ミスリアが挙げた二つの地点の中途にある。そして少々の寄り道になるものの、ヤシュレ公国も行路上に位置している。

「ご存知の通り、私はエランと言います。こちらは……」
 隣に目配せする。「セリカです」「よろしくお願いしますセリカさん」と、女性同士で微笑みが交わされた。
「詳しい事情は話せませんが、我々は逃亡中の身です」
 エランは我知らず声を潜める。
「そうなんですね。私たちを巻き込みたくないから詳しくは話せないのですね」
「察しが良くて助かります。それから、昨夜は本当にありがとうございました」
 改まってセリカが深い礼をした。彼女に倣い、エランも頭を下げる。

「どういたしまして。貴方がたはこれからどうするんですか?」
 聖女の問いかけで隣のセリカが不安そうな顔をしたかもしれない。その辺りを見極めてから喋るべきだという発想を、エランは持たなかった。
「身を寄せられそうな町を知っています。セリカとはそこで別れて……今後の身の振り方を検討します」
 自分が思い描いている段取りを包み隠さず語る。聖女は頷きながら相槌を打った。

 隣から、息を呑んだような音がした。
 失言をしたのかと思ってエランは己の言動を振り返ったが、引っかかる箇所は無かった。
 隣を瞥見する。
 セリカが刺すような視線で見つめ返してきた。どうした、と無音で唇を動かしてみたが答えは得られず、公女の表情が余計に険しくなっただけだった。

(言葉にしなければ伝わらない。或いは言うべきか否か迷っているのか)
 物申したいような顔をして、何故口を噤んでいるのか。一向にわからない。
「では、そろそろ朝食にしましょう」
 聖女ミスリアはそれ以上の込み入った質問をせずに、食事の準備に取り掛かった。炒った木の実と、小型げっ歯類の丸焼きが全員に行き渡る。
「ねえこの小動物、鼠に見えるんだけど」
 不快感を隠さずにセリカが呟いた。

「鼠だ」
 スディルという男が無表情に肯定する。
「えっ。鼠って、た、食べられるの? 食用に向かない気が」
「旅をしていて、そういつも『当たり』に遭遇できない。肉が獲れるだけ運が良い、大体は鼠でなければリスかアライグマだ」
 男は容赦ない現実について淡々と述べた。言い終わるなり、手持ちの丸焼きに無遠慮に前歯を沈めている。

「リスね……アダレム公子が聞いたら泣くかな……」
 セリカは尚も気の進まない顔で丸焼きを見つめている。
 公宮育ちなのだ、食べる物は概ね上等で、狩る獲物の選別にも美学があると教え込まれているのだろう。気持ちはわからなくもない。エランもルシャンフ領に行かなければ、似たような拒否感を持ったかもしれない。

「アダレムは、泣きそうだな」
 セリカはそれには反応しなかった。手元を凝視し、覚悟を決めたように鼠に齧りついている。
 やむを得ない。そっけない姫君に話しかけるのはひとまず諦めて、こちらも食事に専念した。
「移動をするなら魔物が現れない昼間が適していますよね。すぐに発ちますか?」
 聖女の問いに、エランは首肯した。

「そうですね。追っ手が居ても居なくても、猶予があまり無いでしょう。こうして出逢えたからには、もっとご一緒できれば良かったのですが」
「ありがとうございます、私も同じ気持ちです。でも貴方には重要な差し迫った用事があるようですし、そちらを優先した方がいいです」
 人の好(よ)さそうな小さな聖女が破顔する。相手を、奥深くまで温めてくれるような笑顔だ。つられて笑い返した。

 それから世情に関する話をしたり、旅に関する助言を受けたりした。
 結局、朝食を終えて旅支度を済ませるまで、セリカは一度たりとも目を合わせてくれなかった。

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08:26:58 | 小説 | コメント(0) | page top↑
七 - g.
2017 / 07 / 20 ( Thu )
「拒否できると思っているのか」
 青年は眉間に皺を寄せて高圧的に言う。右手の指からサンダルがこれ見よがしに揺れている。
「じ、自分で歩けるわよ」
「却下。細かい傷が増える」

 もはや言い返せないと判断し、セリカは肩を落とした。差し出された背中に渋々ながら掴まる。
 体格が近いゆえに重心を安定させるのはきっと難しいと見越して、これまた渋々とエランの首に腕を回す。脚もしっかりと腰に巻き付けて、こうして、来た道を引き返すこととなった。

(無心になれ……無心に……)
 接触している各部位のことは気にしてはいけない。太ももに触れている腕など、そんなものは存在しない。
 会話が途切れているので、気を紛らわせる為にセリカは脳内で祖国の国歌を再現した。曲を半分ほど進めたところで、割り込む音があった。
 咳だった。悪寒が、背骨を駆け抜ける。

「大丈夫?」
 完治したと思い込んでいたが、後遺症があるのだろうか。腰にかけている圧力は、実は身体に障るのだろうか。
「喉が渇いただけだ」
「……そっか」
 明らかに安堵して、強張らせていた手足から力が抜けた。自分がこんなに神経質になっているとは知らなかった。

 咳の音で、昨日のあらゆる出来事を思い出してしまったのだ。どんな風に恐怖し、苦しみ、思い悩んだのかを。同時に、今の状況を改めて見つめ直せた。
 この男を変に意識し出したせいで気持ちが逸れたが、本来抱いていた感情が呼び起こされる。

「さっきのあんたと聖女さまとの会話、少し聞こえてたの」
「聞こえてたのか」
 これといった感情が付随していない返事だった。意に介さずにセリカは続けた。
「聖女さまの真似じゃないけど、あたしもね。あんたが元気になって、こうしてまた話ができて……すごく満足してる。恩返しとか犠牲を払っただとか、気にしなくていいからね」

 ――伝えた。伝わった、だろうか。
 求めていた見返りは単純だ。会いたかった、ただそれだけだ。
 そのことを思えば、こうして触れている温もりも髪の匂いも、心地良いものに感じられた。自然と目を瞑る。しばしそうしていたが、沈黙がいつまで経っても破られないことを不審に思い、目を開けた。

「ちょっと聞いてたの、エラン。さっきから静かじゃない」
 勇気を出して胸の内を吐露したのに、無反応とはあんまりではないか。首を伸ばし、表情を窺おうとする。
「……聞いてる」
「ならいいのよ。相槌が欲しかっただけ」
 唇を噛んでいるのが見えた。この仕草には覚えがある――

「嬉しくて、思考が止まった」
 ――不意打ちだった。
 よく見れば耳も赤くなっているようだ。
「え、えー。そういうこと言う? あたしまで照れるんですけど」
 セリカは上体を仰け反らせる。多分だけれども自分もつられて体温が高くなっている気がして、気付かれるのを避けたくなった。この状況では、他に距離の取りようが無い。

「元はと言えば誰のせいだ」
「何も変なこと言ってないわよ、『元気なあなたに会えて幸せだ』とかそんなんでしょ」
 あれ、とセリカは口を開けたまま視線をさまよわせた。簡略化して言い換えると、まるで想いを募らせた恋人同士の逢瀬の挨拶だ。
 会えなかった期間は短かったのに、大層な言い様である。かなり恥ずかしい。

(でも、生死を彷徨ってたのを見守るのはキツかったわ)
 青くなっていた唇や溢れ出した鮮血を思い出すと、照れて暴れる気も失せた。
「……本気でそう思ったのよ」
 ふと、エランが笑った気配があった。
「ありがとう。私も元気なセリカに会えて、幸せだ」

_______

 ――ええ全く、殿方には呆れますわ。乙女の機微を読み取る努力をもっとしていただきたいですわね。
 ――簡単に見せないから機微と呼ぶんじゃないのか。
 ――いいえ兄さま! 隠したいから隠しているものは別でして、気付いていただきたいから隠す感情というのがありますのよ。

 ――ややこしい。お前にもそんなものがあるのか、リュー。
 ――ありますとも。この気持ちを知って欲しい、けれど自分から言うのが悔しい、だから言えない! なんて想いが。
 ――なんだそれは……。言わなければ伝わらないだろう。
 ――ええまあ、わたくしと兄さまほどの仲なら、思った傍から何でも話しますけれど。

 ――なら何も問題がない。
 ――そう思いますでしょう? でもいつかお妃さまを娶る時が来ましたら、こうはうまく行きませんわよ。わたくしはエラン兄さまを心配しているのです。ちゃんとお妃さまを、見ていて差し上げなさいな――

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23:45:31 | 小説 | コメント(0) | page top↑
七 - f.
2017 / 07 / 17 ( Mon )
 微妙な静寂が降りる。セリカは虫から話題を逸らす術を探した。
「ね、触れてみてもいい……?」
 気が付けば大胆な質問を口にしていた。何故そんなことを望んだのか、後になって考えてみても、衝動だったとしか言い表せない。
「どうぞ……? 面白くも何ともないぞ」
 意外そうな返答があった。

「縫った痕っぽいわね」
 まずはじっくり眺めてみる。瞼まで縫い付けられているため、右目は開かないようになっている。
「刃物でざっくり斬られたそうだ。昔のことだ」
「うわあ、痛そう」
 顔を歪めて言うと、実はよく憶えてない、と彼は肩を竦めた。どこか他人事のように語るのもそこに起因しているのだろう。幼い頃の記憶とはそんなものだ。

「あ、ごめん。憐れまれるのが嫌なんだっけ」
 セリカは宙に浮かせた手を止める。
「遠巻きに憐れまれるのは鬱陶しいが、この近距離なら別にいい」
「あんたって、つつけば変な理屈ばっか出るわね」
「何とでも言え。……――痛かったかは憶えてないが、声が出なくなるまで泣き喚いたのは憶えている」

「じゃあ今は?」
 訊きながらもセリカは左手を伸ばした。中指と薬指の先で、肌の盛り上がっている部分を遠慮がちになぞってみる。
「痛くは、ない」
「それはよかった」

 なんとなく継続して指先で触れる。
 傷痕を形成する組織はデリケートなはずだ。これだけ大きい傷ながら、痛くないのには安心した――
 ふいにエランが身じろぎした。まるで撫でる指先から逃れたがっているみたいに。

(あれ。この反応)
 存外に面白いではないか。セリカの中に、おかしな欲求がふつふつと沸き上がる。
「もしかしてくすぐったいのを我慢してた感じ」
「…………」
 無言で身を引いたのが肯定の証。逃げられると追いたくなるのが人の性か、両手を伸ばした。耳の下から包み込むようにして捕らえる。

「やめろ」
 手首を掴まれた。引き剥がそうとしているらしい。セリカは全力で抵抗した。
「いいじゃない、さっきの仕返しよ。足触られるのすっごくくすぐったかったんだからね!」
「それは手当てだっただろうが! 同列にするな!」
「問答無用!」
 腕力が何故か拮抗している状態で、左手の親指を動かす。今度は指の腹で、じっくりと撫でてやる。

「ん……や、め……」
 顔を背けながらエランはまた身じろぎした。その振動が掌を伝わり、肘まで上り詰めた。
 ――唐突に、意識する。

 香(こう)と汗と埃の匂い。爪先に触れる、黒茶色の巻き毛の感触。両手の中にある温もり、頬の柔らかさや顎骨の形、昨日から生え出したのであろう顎髭のざらつき、手の甲に当たっている耳飾の冷たさと硬さ。
 目の前の「男」の存在感を。

 それらへの認識は土砂降りのように降り注ぎ、未知の意欲を突き動かす。
 しかもたった今の一瞬で見え隠れした表情を、敢えて世間の言葉で形容するなら「色っぽい」でいいのだろうか。これが適当な表現かは、よくわからない。誰かにそんな主観を強く抱いたことが無いのだから。
 とにかく背筋がゾッとした。手を放し、次いで委縮した。

「はいあたしが全面的に悪かったですごめんなさい」
 石の上で背中を丸めて頭を下げる。
「急にどうした」
 訝しげな声が聞こえた。
「総評――い、いい顔だと思うわ。断じて醜くなんてないです」
 一方で、こちらはうわずってしまった。

「それはどうも……? いや本当にどうした。無理するな」
 直視できない。どうしたんでしょうね何を口走ってるんでしょうね、とは声に出さずに「さあ戻ろうきっと聖女さまたちが心配してる!」と早口で応じる。
「……裸足でか」
 石から降り立とうとするセリカの眼前に、一対のサンダルがぶらんと見せ付けられる。受け取ろうとして手を伸ばす。
 が、サッと取り上げられた。

「返してくれませんか」
「包帯巻いてる足では履きづらいだろう。背負って行ってやる」
「それはイヤ! ヤメテ!」
 負ぶさるともなると接触する面積が広すぎる。ありがたいけれども、今この時に限っては迷惑としか感じられない提案であった。


なんだこのラブコメ波動は。作者がどんな顔をしてこの場面を書いたのかは想像しないでいただきたいw


@ナルハシさん

そーなの、私の作品が好きな人なら私の好きな作品もきっとお口に合うはず論でした( ´艸`) 予言の聖女なら軽く読めるしちょうどいい長さ。
本当は違うところから先にクロスオーバー案があったのですが、ついミスゲズをドラマティック登場させてしまいました。反省はしてません!

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23:32:08 | 小説 | コメント(0) | page top↑
七 - e.
2017 / 07 / 15 ( Sat )
「ねえ、すごくいい話をしてるのに悪いんだけど」――ひと呼吸を挟んでから続ける――「気になってしょうがないのよ。顔……隠さなくていいの」
 黙っていようと思っていたのについに言ってしまった。微かな後悔に、目を逸らす。
 視界の端で青い宝石が揺れるのが見えた。

「牢を駆け回れるような勇敢な姫が、こんなものを怖がるのか」
 その声は、落胆しているようにも聞こえた。慌てて否定する。
「平気! 全っ然余裕ですね!」
 再び目が合った時、そこには悪戯っぽい笑みがあった。
 ――はめられた。

「誘導するみたいな言い方しなくても……叫んだりしないわ。勇敢って何よ、嫌味?」
「まさか」
 洗う作業を終えたらしいエランが、残った布を引き裂いて包帯を作る。まだむず痒さが続くことにセリカは内心で呻いた。これ以上、我慢せよというのか。

(やだもう。反射で蹴っちゃいそう)
 公子をうっかり足蹴にしては大問題だ。いや、相手が公子でなくても結構な問題である。
 こうして悶々としている内に片足の処置が終わって結び目がこしらえられた。残る足に移ったところで、エランはこちらを見ずに口を開いた。

「毒にやられてた間のことは、断片ながら後になって徐々に思い出せた」
「……うん」
 まるで溺れていたようだったと、彼は語った。諦めて流されればその度にまた息継ぎができてしまい、遠ざかっていた五感が恨めしい激しさで戻った――痛い、苦しい、いっそ死んでしまえたらいい、そこまでして生きる価値なんて無い――かわるがわるそう感じたと。

「価値が無いって、そんな」
「ああいう状態では心の澱が浮かび上がるものだ。きっと自分がいなくなっても誰も悲しまない、あがくまでもない、と」
「やめてよ。あんたがどんな闇を抱えてるかなんて知らないけど、冗談でもそういうこと言わないで!」
 身を乗り出して怒鳴った。

「そんな感じだ」
「なっ、何が」
 妙な反応をされて、セリカは怯んだ。
「激励する声を聴いた。腕を引っ張る手の温かさを感じた。不確かなものしかない世界の中に、お前の気配を捉えられた。いわばその熱量が、私を生かしたのだろう」

 打ち明けられた想いの深さに戸惑った。何やら胸の奥がこそばゆい気がする。
 彼の挙げたものに、心当たりは当然ながらある。それでも、この瞬間にどんな言葉が見合うのか、セリカにはわからなかった。褒めてもらいたかったのは認めるが、いくらなんでもこの言い方は大げさではないか――。
 ふたつ目の結び目が完成した。足が解放された機に、早速石の上で座り直す。
 エランは俯きがちに、依然としてしゃがんでいる。

「話戻すけど、もう隠さないの」
 青年の額の右側から頬まで、眉骨や右目を巻き込んだ縦長の傷痕を、控えめに指さして訊ねる。
「ルシャンフに帰っている間などは特に隠してないが……この際、率直な感想を聞こう。――醜いか」
 男でもそういうことを気にするんだとセリカは意外に思い、しかし反省する。周りの目が気になるのに老若男女の違いなんてないはずだ。

「率直って、本当の本当に言っちゃっていいの」
「頼む。取り繕われるよりは、その方がわだかまりなく付き合っていける」
 当人がそこまでの覚悟なら仕方がない、じゃあ、とセリカは切り出した。

「強いて言うなら、でっかいムカデが這ってるみたいよ」
 直後、顔を上げたエランの口元が引きつっていた。
 ――傷付いたのか。どんなに前置きがあっても傷付いてしまうものなのか!
「だって率直な感想が欲しいっつったのそっちでしょ!?」
「その通りだ。なるほど、そうか……虫。セリカは、虫は平気か」
 まだ表情筋が引きつっている。

「気持ち悪いし触るのも嫌よ。でも怖いというよりは敬意を払うべき強靭な生命体だと思っているわ、特にムカデ級ともなるとね、うん」
 論点がずれた気がしなくもないが、問われたので答えた。

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06:27:00 | 小説 | コメント(0) | page top↑
七 - d.
2017 / 07 / 11 ( Tue )
 にわかに芽生えた感情を、セリカは隅に押しやった。話を続ける二人を邪魔しないように、静かに寝床から抜け出る。
 唯一、枝に刺した小動物を焼いているらしいあの不気味な男だけが、気付いてこちらを一瞥した。けれど何も言わなかった。
 それからセリカは、特に当ても用も無く森の中をねり歩いた。

(何よ。そりゃあ聖女さまに出会わなかったらやばかったけど……あたしだってすっごく頑張ったのに。あの子ばっかり)
 ぱしゃん! と勢いよく水を踏んだ音で、我に返る。
 この感情と思考。これではまるで、妬み嫉みだ。

(ち、ちがっ、別にあたしは、あいつに褒めて欲しくて助け出したんじゃないのよ)
 自己嫌悪が込み上がる。知らない人の為に躊躇いなく飛び出したあの聖女に比べると、今の自分はあまりにも情けないのではないか。
 そうは言っても、堪えられないものは仕方がない。
(なんで…………)
 優しい眼差しの先にいるのが、「顔の傷跡」に関して気楽に話せる相手が自分ではないのが、どうしてこんなにも悔しいのだろう。

 セリカはその場でしゃがんで、先ほど踏んだ水を見つめた。
 湧き水みたいだった。まばらに水たまりができていて、飲めそうなほどに済んでいる。
 それにしても、頭上から聞こえる鳥の鳴き声が明るい。のどかな風景の中にあって、自身のささくれ立った心は滑稽に思えた。
 ――みじめだ。

「なんか、疲れた」
 家に帰りたかった。できれば兄弟を捕まえて稽古に付きあわせて、休憩にはバルバが淹れてくれるお茶を飲んで、夜は母の小言を聞き流しながらキタラーを弾いて月を眺めたい。一生、結婚できないままでも気にすまい。
(もういいじゃない、人のことなんて。あたしには荷が重いわ)
 膝の上に揃えた両手の甲に顔を埋めた。故郷の自室のベッドの匂いを思い出そうとするも、うまく思い浮かべられない。

 枝の折れる音がした。パッと音のした方へ顔を上げる。
 数歩離れたところに、黒染めの革の長靴があった。初めて目にした時に比べて、それは随分と汚れてしまっていた。

「……こんなところで何をしている?」
 呆れた顔で、エランディーク・ユオンが訊ねた。
「別に。物思いに耽ってたの。悪い?」
 思わず顔を逸らした。見るほどの何かがあるわけでもないのに、水たまりをじっと見つめる。

「悪いということはないが、あまり一人で遠くに――……泉か、ちょうどいい」
「ちょうどいいってどういう」
「セリカ。そこの石に座ってくれ」
「は?」
 刺々しい声で答えてしまった。
「いいから座れ」
「ちょっとあんた、元気になった途端に何でそんな偉そうなのよ!」
 睨み付けるつもりで振り仰いで、しかしそこで呆気に取られた。思いもよらなかった光景に、言葉が出ない。

「へ、あの、エラン、ねえ」
 彼は右手でターバンを解きながら、左手でセリカの腕を引いた。されるがままに、近くの石に腰をかける。
「足、触ってもいいか」
「足……? あ、はい……」
 呆然と答える。エランが目の前でしゃがんでいる間も、セリカの目は解かれる被り物に釘付けになっていた。しゅるしゅると、頭上の布が減り、手の中の布が増えていく。

「なに、やってんの」
 かろうじて呟いた。青年はすぐには答えず、左手を伸ばした。
 足首に触れた急な感触に、セリカは無意識に息を止めた。
 紐が解かれ、終いにはサンダルを脱がされた。まずは右足、それから左足。その感覚は温かくてくすぐったくて――そして痛かった。

「だいぶ擦れているな。マメもできてる。聖女さまに治してもらえばいいだろうに」
「うっ、気付かなかったのよ。あちこち痛くて麻痺しちゃったというか」
「だからって放置するなよ」
「ほっといてよ! あんたには関係ないでしょ」
 足を取り返そうとして、失敗した。それより早く掴まれたのである。
 掌の熱に、掴む力の強さに、驚く。

「放っておけるか。関係なら、ある」
 エランはターバンから布を破いて、端を湧き水に濡らした。それでセリカの足を拭うようにして洗っている。冷たくて痛いが、嫌な感じはしない。
(なにこれ)
 心臓がおかしくなりそうだ。なんとなくドレスの裾を握り締めた。目線をどこへやればいいのかわからないので、ラピスマトリクスの耳飾を鑑賞する。それも思いのほか汚れているのがもったいない。

「お前がどれほどの犠牲を払ったのか、真に理解できるとは思っていない。感謝している、それだけはわかって欲しい」
 目が合った。青灰色の瞳は真剣そのものだ。
 息が詰まった。これもまた嫌な感じではなく、むしろ感極まったのかもしれない。

「出会って三日と経たないお前は、命を賭して私をあそこから連れ出してくれた。出会って数秒としない聖女さまは、見返りを求めずに私の命を救ってくださった。一の善意は千の悪意をも上回る輝きを放つものなのだと、実感している。こんな想いは初めてだ。常に謀略を巡らせる人間ばかりの世の中だと思っていた」
「……そう」
 耐えかねて、息を吐く。

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10:34:36 | 小説 | コメント(0) | page top↑
七 - c.
2017 / 07 / 09 ( Sun )
 しゃーり、しゃーり、と硬いものが鉄に擦れる音にいちいち鳥肌が立った。いつになったら終わるんだ――焚き火の傍で腰を丸めていたセリカは、チラリと黒髪の男を盗み見た。
 森の中のいい感じの広場で野営地を組んでしばらく経った頃、あの長身の男が刃物を研ぎ出したのである。あれだけ大きな剣だ、表面の汚れを落とすだけでも手間なのに、男はなんともなさそうに手順を次々と踏んでいった。

 やっと音が止んだかと思えば、今度は男はエランの所持する武器を手に取った。剣とも呼べそうな、長いナイフとも呼べそうな刃物を鞘から抜いた途端、男は不服そうに眉を吊り上げる。
(そういえばエランって武器の取り扱いが雑だったような)
 もしかしたら手入れも怠っていたのかもしれない。現に男は、錆を落としたり石で研いだりして、自分の剣にかけた以上の時間を費やしてそれを整備した。
 ありがたい気遣いである。しかし頭ではわかっていても、セリカがその音にぞわりとするのは不可抗力だった。

「あの。先に横になってもいいかしら」
 静かに問いかけた。男は振り返らずに頷く。
 セリカはたまらずに安堵した。正直、二人きりでいるのが気まずかったのである。
 他の二人は今夜はもう起きそうにないから、この変な空気から逃れるためには自分が寝るしかない。水筒の水を一口飲み込んでからタバンヌスに借りた外套を敷き、荷物入れの袋を枕代わりにして、寝転がった。

「隣、失礼しますよー」
 不慣れな環境でせめて少しでも慣れ親しんだものの傍に居たいと思うのは自然だろう。枕元に愛用の弓、腕の長さほど離れた距離にはエランディーク公子。
(顔色良くなってる……安らかそうな寝顔……)
 視界が点滅する。瞼がひとりでに下りて来たらしい。
 色々と気を揉んで眠れないのではないかと心配していたのだが、肉体の疲労の方が勝ったようだ。泥沼に沈むような深くてねっとりとした眠りに落ちるまでに、大した時間はかからなかった。


 話し声によって、実のない夢から覚めた。
 始めはただ身じろぎした。尾を引く倦怠感と陽の光の暖かさが相まって、セリカは起き上がるどころか目を開けることすらしたくない。

「――――お礼は要りませんよ。その時その場に居合わせて、できることがあったから、したまでです。私は本心から、貴方の元気な姿が見れただけで満足です」
 うら若い女子の可愛らしい声が聞こえる。誰の声だろうか、聞き覚えがある気がする。
「そう思っていただけるのは幸いですが……」
「あっ! でも、お顔の傷痕は古いのでしょうか、聖気では治せませんでしたね」

「ああ、はい。幼少の頃の古傷です。お気に病まないでください」
 気になる単語に、セリカの重い瞼が持ち上がる。
 ――顔のきずあと? 幼少の頃の古傷――
 今度こそ目が開いた。地に横たわっているため視線の位置は低い。ぐるりと目を動かして、少女の立ち姿を見つけた。栗色の髪を首元で一束に括りつけ、いかにも動きやすそうな麻ズボンを履いている。

 少女と向かい合って立つ青年を認め、セリカは胸が狭まるのを感じた。
 たったの一日だったはずなのに。その間ずっと話ができなかったのを思い返すと、何故だか目頭が熱くなる。

「聖女さまに助けていただき、私は死の淵から戻って来れました。感謝してもしきれません。口頭でいくら伝えても足りません。私にできることがあれば、どうぞなんなりと」
「うーん、そうですね」小さな聖女が考え込んだ。「私は貴方がたがどんな身の上なのか知りませんし、他人様の人生に願いを押し付けるのは違う気がするんです……だからこれは私のわがままだと思って聞き流してくださっても構いません」

「はい」
「……せっかく助かった命です。いつか貴方にも人を助けられる機会が訪れた際は、活かして――やっぱり、こんなお願いは尊大すぎますよね、すみません」
 慌てて聖女は頭を下げる。エランはしばらく無言だったが、やがて地に片膝をついて彼女を見上げた。

「いいえ。この身に生ある限り、世のため人のために尽くすことを誓います。それが聖女さまへの恩返しとなるならば」
 彼は彼女の小さな手を取って、指の関節に唇を寄せた。
「ありがとうございます。十分すぎる恩返しですよ」
 ――彼らのあずかり知らぬところで、セリカは目を見開く。

「ふふ、エランさんってなんだか騎士さまみたいですね。もしくは王子さまでしょうか?」
「そう感じていただけて光栄です」
 と、生まれついての公子は優しい笑顔で答えた。

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08:54:21 | 小説 | コメント(0) | page top↑
七 - b.
2017 / 07 / 06 ( Thu )
 魔物が一刀両断される。切り口から飛び出す体液が、なんとも美しい弧を描いた。
 痛快な光景であった。剣圧から生じた風ですら気持ち良いくらいだ。自分を脅かしていたモノがこうしてあっさりと無に帰すさまを眺めるのは、気分が良かった。

(って、いけない。見とれてる場合じゃない)
 己にもたれかかる重みを思い出して、セリカはハッとなった。そっと草の上に寝かせてから、呼びかける。
「エラン!」
 ふと人の気配が近付いた。警戒して思わず身じろぎした。

「安心してください。私は聖女です」
 例の少女が膝を付き、銀色の鎖に繋がったペンダントを取り出して見せた。ペンダントの部分は銀細工に紫色の水晶が左右に一つずつついている、左右対称的な形だった。十字にも似た紋様は、この大陸で生活する人間ならばほとんどが見知っている象徴だ。

「教団の聖女が……どうしてこんなところに……?」
「お話はまた後にしましょう」
 浮かべている微笑みと裏腹に、聖女の声音は厳しかった。何かの呪文を小声で唱えてから彼女は慣れた様子で手をかざした。「どこが悪いのか、わかりますか?」
「胸――肺を多分、さっきやられて……それからお腹にも内出血、かな」
 指で示しながら教える。先ほどはだけさせた服がそのままになっているため、患部が露わになっている。

「わかりました。胸とお腹ですね」
 少女の手の中に握られたペンダントが、金色の光を発している。光は淡く伸びて帯のような形になり、エランを包み込む。
 セリカは目を凝らして一部始終を見つめていた。その上で、目を疑った。
 胸の皮膚を抉った傷や腹部の痣が、忽ち治っていったのである。服に付いた血痕は変わらないが、ほんの数秒前まではそこにあったはずの痛々しい生傷がすっかり消えてしまった。唇も元の色に戻っているし、顎にまで流れていたはずの血の痕も無い。

 幻覚かと思ってセリカは何度も目を擦った。手を伸ばして、触れてみたりもした。
 ――この弾力、感触。何の仕掛けもない、まごうことなきただの肌だった。
 仰天した。セリカとて聖人や聖女が摩訶不思議な力を施すのを見たことや経験したことはあったはずだが、せいぜい擦り傷や頭痛を治したという程度の話だ。
「すごっ! 『聖気』ってこんなことができるの!?」
 感嘆して聖女の方を振り向く。一方で彼女はとても息苦しそうに答えた。

「これで、彼はもう、大丈夫でしょう。後は頼みましたよ、ゲズゥ……」
 どうしたのと訊ける間もなく、ふらりと小さな聖女は前のめりに倒れかける。横合いから伸びた腕がその肩を支えた。魔物はもう倒し尽くしたのか、長身の男がいつの間にかすぐ傍にいた。
 一拍置いて、彼はこちらに首を巡らせた。不気味なほどに無表情な男は、やはり不気味な、真っ白な左目と真っ黒な右目をしている。
「…………女」
 低い声だった。威圧感に竦み上がりそうになる。セリカはぐっと顎を引いて、視線を返した。

「何よ」
 この男には命を助けてもらった――更に言えば彼の連れにエランを助けてもらった――のだから、なるべく好意的に応じたい。そう思っていても、一体何を要求されるのか、恐ろしい想像をせずにはいられない。
「体力に自信は」
「体力? なくはないけど、何で」
 男は大きな布の袋を投げてきた。二本のストラップが付いていて、おそらくこれは背負って運べるデザインなのだろう。

「街道沿いは夜盗が出る。野宿できる場所を探す」
 そう言って彼はエランを左肩に担ぎ、少女を右脇に抱えた。ちなみに先ほど振り回していたあの大剣は、背中側の鞘に収まっている。
「えっと、あなたは手いっぱいだからあたしに荷物を運べってことね」
 男は答えずに走り出した。

(言葉が足りない奴……)
 呆れて、セリカはため息をついた。置いて行かれても困るから、急いで荷物を背負って走り出す。
 森の中を駆けるも早くもはぐれそうになり、男の背中に向けて叫ぶ。
「足の長さを考えて速度調整してよ!」
 そもそもあの男、人間を二人も抱えていながらどうやってこうも巧く森の中を走っていられるのか。狭いし、地面は石や枝ばかりで踏みづらいし――天性のセンスなのか、そうなのか。

「こっちは旅装じゃないし、サンダルなんですけど!」
 そこで、ちょっとだけ速度を落としてくれた気がした。
 なんだかんだ文句を垂らしながらも、セリカは必死に男の後ろについて行った。
 ――きっとそうした先に、安全な場所があると信じて。

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