十 - h.
2017 / 10 / 30 ( Mon )
絶賛ヘイトがたまる系展開です。
読んで胃に影響があるかもしれないのでご注意ください。



「うん、放さないよ。どのみち君の王子様は、取り込んでいてここには来れない。塔を兵で囲ませてあるし、大声を出しても無駄だ」
「えっ」
 聞き捨てならない情報がサラリと落とされたことで、セリカはしばし己の置かれている状況を忘れた。

(囲まれてる……)
 となれば、先に外に逃れたはずの二人はどうなっているのか。
 更に失意を広げるような言葉が、アストファンから投げつけられた。
「決死の救出劇もここまでだね、お疲れさま」
 ――読み負けたのか。

 もっとうまいやり方があったのではないか。イルッシオに借りていた兵士をこちらに回すべきだったか。否、それではエランの守りが手薄になっていた。どう組み替えても、或いはこの男は戦力の少ない方を突いたのではないか――。
 いずれにせようまく頭が回らない。腰にのしかかる圧力が思考を妨害する。

「あんたは……なん、なの……! こんな、何がしたいのよッ」
「そうだねえ。君は、勘違いしてないかい。別に私は崇高な目的なんて持ってないよ。どうせ何も思い通りにならない一生なら、少しでも面白い方へ進みたいじゃない? 野望は大きく、お祭りはより派手に。私は人がもがき苦しむのを眺めるのが好きなんだ。それだけだよ」

 男のあまりにも平然とした返答に、絶句した。
 ものの見事に歪んでいる。歴史の中では「地位や権力・財力を与えてはならなかった悪人」が現れるのも稀ではないが、まさか身近なところで出会うとは、セリカは予想だにしていなかった。戦慄した。恐怖が直に伝わるのは癪だが、不可抗力だ。

(こいつ、誰も咎めてないだけで裏ではやばいことしてるんじゃ)
 公子たちのスタート地点は似ていたはずだった。思えば、似たような台詞を第五公子が口にしたのを聞いたことがある気もする。
 解釈を広げれば、窮屈は公子に限ったことではない。大陸に生きる大抵の人間は、何かしらしがらみや枷を持って生まれてしまう。そこからどう生きるかが、人の真価を定めるのではないか。この国に来てからセリカは、次第にそう思うようになっていた。

「想像してみなよ。たとえエランの尽力で何もかもが丸く収まったとしても、代償として、君という得難いパートナーを失うんだ。ゾクゾクするね」
 香の匂いが近付いた。
 衣服が掴まれる。焦り、喚き散らした。
「最っ低! 社会のゴミ! はた迷惑が服を着てるだけの、ケダモノ以下!」

「聞こえないな。もっともっと叫んでおくれよ」
 鉄の摩擦音がした。セリカを組み伏せたまま、クズ男は器用に刃物を鞘から抜いたらしい。
 冷たい予感が全身を駆け抜けた。下手に暴れようものなら、切られる。
「知ってたかい。こういう時って黙って抵抗しない方が加害者の男も興ざめして、早いトコ終わらせてくれるらしいよ。まあ私はそんな生ぬるいことはしないから、期待しないように」

「――――」
 助けて、と。声にならない悲鳴が、喉でつっかえた。
 エランが来れるか来れないかの問題ではないのだ。すぐに泣きごとを言ってしまったら、何の為の別行動か。
(呼んじゃだめだ。任されたのに、ひとりで成せないようじゃ、パートナーを名乗る資格が無い)
 血が滲むほどに強く唇を噛んだ。
 今は耐える以外に、何ができようか。ここで汚れてしまっても婚約は破棄されるだろうが、セリカはそのことに思考を向けるのが怖かった。

 脳裏にちらつく衝動。普段は潜在意識の奥底に眠っている原始的な凶暴性が、呼び覚まされる。
 何もできない。絶妙な具合に押さえつけられていた。抗えない悔しさに、頭の奥が赤く染まる。ゼテミアンの母語で幾度となく「死ね」との呪詛を呟いた。
 帯が、スカートが、切り裂かれるのを感じた。衣擦れなんて聴きたくないのに、耳を塞ぐ術がない。

 何もできない間は、何をすればいいか。
 妄想した。
 隙を見つけた瞬間、それとも解放された瞬間。どう報復してやろうか。どこを、引きちぎってやろうか。暗い妄想だけが心の拠り所だ。
 悲しくなんてない。居場所が無くなっても、エランの隣にいる未来が手に入らなくても。この男だけは、ズタズタにしてやる――!

「ひっ」
 肌が冷たい空気に晒された。そこに髪のようなひんやりと柔らかい感触が接したかと思えば、次は、もっと熱を帯びたものだった。手の平。そして指。
 気持ち悪い。家族以外の異性にここまでの接近を許したことが無いのだ。肌に触れられたことも、無い――
 違う、それは違った。ひとりだけいた。だが、こんな吐き気を催すような接触では決してなく。

 この場面でエランを思い出すのがひどく申し訳なくて、虚しくて、無理やりに思慕を憎悪で上塗りしようとした。涙を堪えつつ、両目は血走っている。
 臀部に熱が掠った。
 ――死にたい。

(死ぬなら、絶対こいつを道連れにする)
 ひときわ物騒な思いに支配された。
 されたまま、数秒が過ぎた。
 どさり、と大きな物音がして、セリカは重みから解放された。

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十 - g.
2017 / 10 / 25 ( Wed )
 男からは水の匂いがした。
 それを意識した途端に天気が崩れ、轟音が炸裂した。けたたましい降雨が塔の屋根や壁を叩き、内側にまで響いた。

「会いたかったよ。麗しの姫殿下」
 撫でるような声が、セリカの頭頂部から耳の後ろへと這う。気色悪さから逃れたくて、反射的に顔を背ける。
 濡れて濃くなっているのか。男の衣服と髪に焚き込まれた香に、噎せ返りそうになる。

「いやあ、美しい。かわいそうな弟を守るようにして排除したいハティルと、己の立場から逃げない末の公子か。ここはアダレムの勝ちかもしれないね」男はひとりでに話し出した。「閉じ込めたら自滅してくれないかなと思ってたんだけど、そう簡単には行かないものだね」
 がっかりしているようなその発言を耳にして、セリカは激しい嫌悪を覚えた。熱い息を壁に吐き付ける。

「……さんざんかき回してくれたわね、悪党が」
「へえ、私が何をしたって? エランもアダレムもハティルもウドゥアルも、みんなピンピンしてるじゃないか」
 長兄ベネフォーリ公子の名が含まれなかったところに、この男の腹の底が窺えた気がした――が、今はどうでもいい。

「未遂で終わったからって、みんな結果的に無事だったからって、あんたが悪事を企んだ事実は動かないわよ。肉親を閉じ込めたんでしょ、毒を盛ったんでしょ!?」
 言葉にするとますます腹が立つ。そうだ、この男のせいでエランは死にかけたのだ。

「じゃあ君が裁いてくれるの」
「ふざけるのも大概にしなさい。何が『じゃあ』よ、あんたに選択の自由が許されると――」
「公都にエランの味方が少ないのが、何故かわかるかい」
 全く予期せず、男が新たな話題で切り込んできた。思わずセリカは言葉に詰まった。

「大公に推すのが難しいからだよ」
「母親が異国の人間だから……?」
「それもあるけど。それだけであそこまで肩身の狭い思いはしない」
 今までになく真剣な口ぶりに、我知らずにセリカは聞き入る。次の言葉を黙って待った。

「布の下はもう見たかい。あの傷はね、第三公妃がやったんだ。乱心して我が子を切ったんだよ」
「……!」
 セリカの動揺から、男は何かを察したように喉を鳴らして笑った。嫌らしいほどに顔のすぐ近くから聴こえてきた。
 身じろぎしたが逃れられそうにない。手首を掴む手が、肩を壁に押し付ける力が、強すぎる。

「詳しい経緯は省くとして……そんなことよりもね、狂気は受け継がれるって思われてる。みんなエランを持て余してしまうんだよ。いつか母親と同じように壊れるんじゃないかって、どうしてもその不安がチラつくんだ。そりゃあ隠すしかないね? あの傷痕は、否応なしに当時を――あの事件を思い出させるから」
「アストファン・ザハイル……」
 こらえ切れない怒りが声を掠らせる。四肢をがくがくと震えさせる。

「何かな、姫殿下」
「とことんまで、ムカつく奴ね」
 能天気な返事があった。
「私が? 何故?」

「今の話が全部本当だったとしても、あたしは本人の口から聞きたかった! それをあんたみたいな、人の気持ちを何とも思ってないような奴なんかに!」
 気が付けばセリカは、肘を後ろ回しに突き出していた。骨に当たった手応えはあった。
 男の漏らした呻き声に「いい気味だ」と思う。だがこんなものでは全然足りない。振り返り、唾を吐きつける。

「人の傷を、ヘラヘラ笑って語ってんじゃないわよ! あんたってほんと、クズね!」
 アストファンは頬についた唾液を拭き取ろうともせず、ただ怪しげに口角をつり上げた。
「クズで結構。生憎と私は、気の強い娘が格別に好きだよ。いつまでそんなことを言っていられるか見ものだ」
「つっ――!」

 視界が転じた。
 鎖骨や顎が硬いものに擦れて、じんじんと痺れる。皮膚に当たる感触は壁のそれに比べるといくらか滑らかに思えたが、その分、砂粒のような汚れがあるような――

 ――目を開けなくても、床に押し倒されたのだと理解できた。

「放せ外道!」
 屈辱に視界が滲んだ。

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十 - f.
2017 / 10 / 21 ( Sat )
「な!?」
 掴みかかってきた彼女をセリカはすんでのところでかわした。鈍い音を立てて壁に取りついた後、女は凄まじい形相で振り返り、再び飛びかかってきた。

「曲者が、アダレムからはなれなさい! いかせません、連れて行かせませんよ!」
「待って、話を!」
 抗弁を試みたが、相手は暴れ叫んでばかりでみなまで言わせてくれない。仕方なく、のしかかる体重を払おうとする。そこでふと気が付いた。

(なんて細い手足……それにすごく軽いわ)
 めいっぱい振り払おうものなら簡単に大怪我をさせてしまう。こんなに弱っていながら、連れ去られんとしている我が子を救いたい一心で、力を振り絞っているのだろう。
 痛々しい。

「この子は奪わせません」
「奪うつもりはないわ、外に連れ出すだけよ! こんなところに長くいていいはずないじゃない! あなたも一緒に――」
「甘言です! そんなことを言って、皆わたくしたちを使い捨てにしたいだけです。もう騙されません、ここ以外に安全な場所なんてありません!」

「違う、あたしは」
 共に連れ出すなり説得するなり――どうにか助けてやりたいという気持ちが迷いとなる。セリカはつい抵抗を止めて、されるがままに任せた。髪が抜かれ、皮膚を引っかかれても、歯を食いしばって耐えた。
 きっと他の何かと天秤にかけられるようなものではないのだ。親の、子を庇護したい想いというものは、セリカの理解が及ばないほどに強固だ。

「ははうえ! ははうえ、やめてください」
 その絶叫を境に、セリカを揺する手が止まった。
 女性は、己の脚に抱き着いた幼児を、緩慢に見下ろした。
「大丈夫ですよアダレム、ここは母に任せて、お前は大人しくしていなさい」
 宥めるような声色に、アダレム公子は謝罪しながら頭を振った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ははうえ。ぼくは、でます」
「何を! 聞き分けのないことを、お前は……!」
「ごめんなさい。おそとはあぶないから、ははうえはここにいてください。でもぼくは、でる。ここをでます。だって、なにもない。おそとにはせかいがある。みんな……あにうえがいる」
 六歳児の表情は信じられないくらいに穏やかで大人びている。紛れもない、覚悟と慈愛がそこにあった。
 いつの間に、そんな風に考えていたのか。

「あにうえは、おそとにいます。ぼくも、いっしょじゃないと、だめです」
「そんな」張りつめていた糸が切れたように、彼女はセリカから手を放し、よろめいた。「周りの期待に応えすぎたハティルに続いて、お前までもが急ぎ足で大人になるのですね……」

「じかく。もてって、はてぃるあにうえが、いってました」
 アダレムが母の脚から離れる。幼いながらもその顔は誇らしげだった。対する母は、力尽きたようにその場で膝から崩れる。
(すごいな……)
 セリカは蚊帳の外から感嘆した。

 子供は何も考えていないように見えても、ちゃんと周りのあらゆるものを見聞きして吸収しているのだと、聞いたことがある。彼はもしかしたら大人が思う以上に色々と事情を理解しているのかもしれない。
 何と言っても、一番近しい肉親があのハティル公子なのだ。今はまだ鳥やリスを追いかけたい年頃だとしても、この第七公子はいつか兄たちに追いつくのだろうか。

「信じてください。あたしやエランディーク公子は、あなたがたの敵ではありません」
 セリカが妃にかけた言葉は、おそらく届かなかっただろう。近付いて確かめると、彼女は気を失っていた。
 今度こそアダレムの脇下に縄を結び付けた。それから三回引っ張って「引き上げろ」の合図を窓の外のハリャに送る。

「ははうえ、またあとで。ぜったいむかえにきます」
 そう言って、小さな公子は光の方へと上って行った。見ると、セリカよりかはよほど楽そうに窓を通り抜けている。
(なんかぷるぷるしてた。まあ、高いわよね)
 怖いのを我慢しているのだろうけれど、後のことはハリャに任せるしかない。アダレムはもう大丈夫だ。
 ひと息ついて壁に額を当てた。

 鉄が擦れ合い、重く軋めく音に、セリカは硬直した。
 扉が開いたのだ。それ即ち、扉を外から「開けられる」人物の訪れを、意味する。
 ぞっとした。身体の向きを変えようと固まった筋肉を意地で動かすが――

 ――衝撃と共に何者かによって壁に押さえ付けられ、それは叶わなかった。
 打った箇所が痛みに痺れる。セリカは首だけでも振り返らせて、突然の来訪者を見上げた。

「……腹黒ロン毛野郎……!」
 暗がりに光る微笑が恐ろしく美しい。最も会いたくなかった男の姿を認め、毒を吐くしかなかった。
「あはは。何だい、その呼び方。それで行くのかい」





おかしい、アルシュント大陸には強いショタが多いらしいな(デイゼリヒ王子参照)(でもロリたちだっていい線いってるはず)

非常にわかりにくいとは思いますが、アダレムの言う「いっしょ」には以前彼がエランを苦手と言った理由の根本があるような、混じっているような、曖昧なアレがあります。明言してないだけで、アダレムはアストファンもウドゥアルも割と苦手です。

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21:43:48 | 小説 | コメント(0) | page top↑
十 - e.
2017 / 10 / 18 ( Wed )
 狭い窓を無理に通ったせいで、セリカは身体中の至るところで鈍い痛みを感じていたが、それにかまっている場合ではなかった。自らの全体重を支える、縄代わりに結び継がれた布にしがみつくのに必死だ――たとえそれが両脇下にしっかりと結び付けられているとしても。
 薄気味の悪い闇に身を沈めてゆく。
 地面がまだ遠い、気がする。そろそろと壁伝いに下りながらそう思った。
 窓の外から縄を握っているハリャの腕は大丈夫だろうか。こちらの体重を支えているからにはかなりの無理をさせているに違いないのに、してやれることといえば、なるべく静かに急ぐことだけだった。

 ――それを垂らして掴まらせて、アダレム公子を引き上げるのね。
 ――いいえ、子供の腕力では酷です。公女殿下、中に降りて公子殿下にこの縄を結び付けてください。彼を引き上げた後に、今度は私が壁を上って公女殿下に縄を投げます。

 数分前のやり取りだ。扉の錠をこじ開けるより壁にとりついて窓から攻めた方が早いからとハリャが判断し、セリカが実行している。
 塔の窓は、狭くとも、細身の女や子供ならかろうじて通れる幅があった。しかし衣越しにも皮膚が擦れ、関節がレンガにぶつかって痛かった。戻りもまたあれを味わうのかと思うとうんざりだ。
 しばらくして靴の裏が地面に触れた。態勢を整え、折り曲げた膝を立たせる。

「おそとからきたのですか」
 ふいに聴こえた囁き声に、セリカは身を強張らせた。素早く振り返り、声の主を警戒する。
 子供が明かりの届く方へと這い出るのが薄っすらと見てとれた。普段と違ってターバンをしていなかったので咄嗟にわからなかった。
「アダレム公子」
 望んでいた人物に簡単に会えたことに安堵したかった、が。
 妙に胸が騒ぐ。塔の中の空気は重く、人の通常の臭気がお香に隠しきれていないような、何とも言えない臭いがした。

「ええ、そう、塔の外からね。あなたをここから連れ出しに来たわ」
「おそとはこわいところです。ひとのむれがいます」
 四つん這いの少年から、不可解な返事があった。意味がわからずにセリカはたじろいだ。
「ぼくは、おそとにでたら、やまい、にかかります。おそとは『あく』にみちています」

「何を言ってるの……」
「あくって、わるいことをするひと、かんがえるひと、だって。おねえさんは、わるいことかんがえますか。おそとのひとに、あったら、ぼくはしんじゃうんですか」
 質問の嵐に気圧されて、セリカは何も言えない。薄明かりに揺らめく瞳は清らかそうに見えて、同時に深い影を秘めていた。

(病って何? 体のこと、それとも比喩なの)
 答えを誤ったら、彼は一緒に来てはくれないのだろうか。言いようのないプレッシャーを感じながら、なんとか頭を働かせる。
 被り物を脱ぎ捨て、腰を低めて、六歳の公子と目線の高さを近付けてみた。

「怖い人じゃないわ。アダレム公子、前にもお会いしました、あたしはセリカといいます。隣の国からやってきた、あなたのお姉さんになる予定の姫です。この命に誓って、あなたに悪いことなんて、しません。考えません」
 幼児はむくりと起き上がった。
「おそとはこわいところです?」
 あぐらをかき、先ほどの言葉を繰り返すも、今度は疑問符がくっついていた。

「世界は怖いけど、怖いだけじゃないわ。あなたにひどいことをしようって思う人がいるのと同じくらい、あなたを守りたい人がいるはずよ」
 ――我ながら、安易な気休めだと思う。けれど子供に届くのはきっと、冷たい現実よりも心のこもったきれいごとの方だ。そう信じたかった。

 両の手の平を上向きに差し出し、敵意が無いことを表す。アダレムは、穴が開きそうなほどにセリカの手を見つめた。
 幼い彼の中にどのような葛藤があるのかは見当もつかない。つかないが、熱心に説得を続ける。

「外は楽しいこともいっぱいあるわ。かわいい動物も、きれいな花も、あと……」
「おおきなおそらと、そらとぶとりさん、います?」
 いつしか少年は前のめりになっていた。
「そう! そうよ、広い空を飛ぶ鳥がいるわ。もふもふのリスさんもいるわ」
「じゃあ、おそといきたいです。つれてってください、おひめのおねえさま」
「もちろん!」
 光の戻った目で、アダレムが立ち上がる。セリカはそんな彼に笑いかけながら、これから縄を結びつけることと、外で待っている宰相の味方がひっぱりあげてくれる旨を説明した。小さな公子は何度も頷いた。

 よかった、なんとかなりそうだ、そう思って縄に手を付ける――
 ふらりと空気が動いた気がした。
 覚束ない足取りで、人影が近づいてくる。この大きさは、アダレムの時と違う、大人のそれだ。

(他に誰かがいた……!? しまった、この人は!)
 ほっそりとした白い腕が伸びる。
「いかせません」
 女性の、震える声がした。

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23:32:52 | 小説 | コメント(0) | page top↑
十 - d.
2017 / 09 / 26 ( Tue )
「私も人と分かり合う努力から逃げ続けていた一人だ。偉そうに説教する権利は無いが……」
 いつしか俯いていたハティルの肩を、今度こそ掴んだ。目が合うのを待ってから、続きを綴る。
「お前は一度でも、アダレムにどうしたいか訊いたことがあるか」

「無意味ですよ」
「対立を失くしたいなら、結託すればいい」
「無理です」
 目を逸らされ、肩の手も払われた。エランは頭の中で何かが弾ける音を聞いた。

「頭ごなしに否定するな! 私たちは翻弄されるだけの傀儡じゃない、意思の通う人間だ。操らんとする糸を断ち切ることだってできる!」
「……エラン兄上が大声を出せる人だったとは、驚きました」
 それまで鬱々としていたハティルの応答が、ふと感心したような色味を帯びた。
「私自身が一番驚いている。ここ数日で色々あったからな」

「他人(ひと)の為にこんなに必死になれるんですね」
「お前の気持ちがわかるとは言い難いが、アダレムの今の状況は他人事と思えない。私もかつては……そうだな、ちょうどお前が産まれた頃のことだ。一時期、軟禁されていた」
 語られた内容に興味を惹かれたのか、ハティルは瞳の焦点をこちらに戻しかける。すんでのところで思い直し、背を向けた。

「全て遅すぎます。結託どころか、アダレムが僕と関わりたいはずがない。それにもう、父上は」
「待て。話はまだ終わっていない」
 そう言って手を伸ばした時――
 隣の建物が急に騒がしくなった。直感的にエランは、事の重大さを汲み取った。
 最も恐れていた凶報が、雨音をかいくぐって耳朶に届く。

 自らに訪れた感情の揺れは、目の前の少年の表情の移ろいとほぼ合致した。
 驚嘆。そろそろ起こりうるだろうと予想していた事態の訪れを、それでも信じたくないという心の拒否。来(きた)る動乱への恐れ。焦燥、再び驚愕。とにかく途方に暮れる。
 次にハティルがこちらを見上げた頃には、ひどく複雑な顔をしていた。

「身罷られた……? ああ、悪いのは父上だ。僕らをさんざん振り回し、果てには勝手に死んでいった、父上が悪いんです」
 どうすればいいですか、と唇の動きだけで訴えられる。面貌には六歳年上の兄に助けを求める弟の弱さと、決裂を前にして加害者に転じかけている男の凶暴さが同居していた。
 お前は真面目だな、とエランは苦笑した。

「考えたくない。僕はもう、何も、考えたくないです」
「わかった。なら、こうしよう」
 耳障りなほどにゆっくりと、エランは愛用のペシュカブズを鞘から解放した。
「正式に決闘を宣言して、証人を呼んでもいい。代理を立ててもいいぞ」
 体格的に不利なハティルへの、配慮のつもりで言った。次いで、勝者敗者に課せられる条件を提示した。

 ハティルは押し黙って聞いている。
 話が終わると、釣り気味の目を一度細めてから、腰に手をやった。
 鞘に組み込まれたまろやかな赤いオニキス、柄を彩る透き通った青いトパーズ、刀身に施された複雑な紋様。宝刀としての美しさのみで比べるならば、ハティルの賜ったそれの方が上等だ。大公ではなく母方の祖父からの贈り物だったという。

 同じ型のナイフでありながらも子供の手で振るえるような小ぶりで、使い込んでいる痕跡も無い。
 第六公子はまだ成人していない。ゆえに帯剣していても道具そのものは実用性よりも見た目重視で、本人の戦闘経験も浅い。

 だがハティルは自ら凶器を構えた。全ての不利もリスクも承知の上で、挑戦を受けるとの意思表明だ。
 立ち会う者が居ないのなら、どちらかがうっかり手を滑らせて相手を殺してしまっても仕方ない。決闘だと思っているのは個人だけで、両方が生き残って話がかみ合わなかったならただの殺し合いになるが――

 稲妻が天に閃く。
 後を追うように轟音が落ちる寸前、刹那の眩さの下で――エランは弟が悪意に微笑むのを確かに視認した。
 どちらからともなく、動いた。

_______

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十 - c.
2017 / 09 / 23 ( Sat )
「謝りませんよ」
 微笑。十二歳といえど、誰よりも宮中の悪意の波に揉まれてきた公子だ。容易に腹の内を探らせてはくれない。
「お前とアスト兄上のせいで多大な迷惑を被ったわけだが、それとお前を憎むのとは、違うと思っている」
「さすが寛大ですね」
 抑揚のない声が返る。エランは思わず頭をかいた。

 ――腹を立てているのは確かだが、怒りの矛先は、己が内に向けられているのだ。
 それをどうやって伝えるか、そもそも伝えるべきなのか、考えあぐねている。今は自分のことよりハティルだ。

「継承権がそんなに欲しいか」
「欲しくなんてありませんよ、そんなもの」
 少年は低い声で吐き捨てた。何やら聞き覚えのある台詞で、まるで自分と話しているような錯覚に陥る。
 ここに引っ掛かりを覚えたエランは、雨水を吸いつつあるターバンの布を耳にかけた。視界を開くためではなく――右目が使いものにならないのだからそんなことはできない――なんとなく相手に素顔を見せるべきだと感じたのである。

「欲しくないが、手にする必要があるんだな」
「…………」
「沈黙は肯定と同義。だが大公の座を望まないなら、こうまでする動機がわからない。 脚光をさらったアダレムへの腹いせか? アスト兄上と手を組んだなら最終目的は国土の拡大、或いは帝国への報復か」
 末子の名を聞いた時だけ、ハティルが僅かに身じろぎした。

「どうやらアダレムに絡んでいるのは間違いないようだな。お前は、先見の明と視野の広さを持っていると思ったが、こんなことをしでかすとは」
「知った風な口をきかないでください。年に何度と帰らないあなたに、何がわかりますか」
「わからないからこうして探っている」
「――今更何を!」
 突然ハティルが声を荒げた。見上げる双眸は鋭い。一瞬、気圧されたほどだ。

「周りに積極的に関わろうとしなかった非は確かに認める。だから改めて聞かせてくれ。ハティル、お前は何をそんなに追い詰められている?」
 問いの答えが出るまでに、しばしの間があった。薔薇の花びらを打つ雨の音がやけに大きく響いた。
 雨に濡れながら少年の唇が何度も開閉する。

「わかりますか。周囲の期待を一身に浴びて育つ幼き日を。後に生まれた赤子に夢を奪われる虚しさを。けれど何より、自分が当たり前のように受け入れ望んでいたものが――どこにも存在しないのだと知るのが、どれほど苦しいかわかりますか!」
「わかるか」突き放すような見下すような言い草に苛立ち、エランはつい嘲った。「お前は、不幸自慢がしたいだけか?」

 暗に「甘ったれるな」と言ってやった。
 不運のエピソードで競うのは筋違いだが、エランにもそれなりに引き出しがある。察しの良いハティルもそのことに思い至り、乾いた笑いを漏らした。
「……失礼、あなた相手にこんな話は不毛ですね。それに、公子は誰しも一度は『末子』だった……」
 違うんです、と彼は頭を振った。

「選択肢があるから人は迷い、争う」
「それには私も同意見だが。選択肢は自由そのものだ」
 雨音が大きくなっている。互いの言葉を伝え合うには、声を張り上げる必要があった。
「自由は大事です。でも僕はそれよりも、対立の無い世界であればいいと思ってます」
「お前の言う世界はこの国のみを指すのか。わかっているだろうが、アスト兄上を引き込んだからには――」

「大義名分が立つぶんだけいいじゃないですか! 内紛に裂かれるのだけはあってはならない。愚かで醜い、兄弟喧嘩が勃発するよりは! 帝国に挑んだ方がまだ美談になる!」
「美談……!? そんなものは世迷言だ!」
 話がかみ合わなくなった手応えを感じ、エランは拳を握る。
「僕ら兄弟はその危うさに見てみぬふりをしているだけです。いつでも殺し合うつもりで笑い合っている。そうでしょう、エラン兄上。ベネ兄上たちだって」
「…………」
 否定しようにも、できなかった。ハティルは尚もまくし立てる。

「母が同じなのに、同じ側に居るはずなのに、アダレムから遠く離れてしまった。僕は……期待されていると、思っていた。けれど褒める語句を並べながらも、有象無象が求めていた傀儡こそがアダレムだった。御しやすい、駒なんです。そうとわかった時、自分が信じて浸っていた『期待』が、巧妙な嘘だったと理解しました」
「奴らにしてみればお前の聡明さは邪魔だろうな。だがアダレムを幽閉したお前は、その有象無象とどう違う?」
 ちがいませんね、とハティルは額を押さえて笑った。泣いているようにも見えた。雨のせいで判然としない。

「あの無邪気な瞳を向けられる度に――僕はただ一人の弟を、汚(けが)れ潰れる前に救ってやりたいと想い、同時に首を絞めてやりたいと思いましたよ。人の気も知れずに、なんて能天気なんだろうって」
 ――痛々しい告白だった。
 細い両肩を掴んで目を覚ませと揺さぶってやりたかった。かろうじて、堪える。

「あの子は大公になってはいけない。けれど、僕らが表立って対立したら、諍いが長引いてどんな結果を生むか知れない。父上が悪いんですよ。ハッキリしないから」
「ハティル、私はお前が共謀者に何故アスト兄上を選んだのか、わかった気がする。明晰がゆえに慎重になりすぎるお前と違って、思い切りがいいからだ。しがらみをものともしない自由さがあるからだ」

「……どういう意味です」
「お前のそれは合理的な結論に聞こえるが、違う。逃げているだけだ。一丸となってうまくやっていけなくてもいい。共存する努力すらせず、最悪の結末に怯えていていいのか!」
「意外と理想主義なんですね! うまくやっていこうだなんて」
「理想を追い求めるあまり、極論に走っているのはお前の方だ!」
「そう、かもしれません」




頭が痛くなるような会話ばっかりでスミマセン((
作者はヌンディーク兄弟みんな気に入ってます。

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十 - b.
2017 / 09 / 21 ( Thu )
「所領の方はもうよろしいので?」
「問題ない」
 エランは短く答えた。
「そうですか、それは安心いたしました。殿下の身を案じてセリカラーサ公女までもが都を飛び出したと聞いた時は心臓が潰れるかと思いましたよ。無事に合流できたのですね?」

 これらは、エランらがムゥダ=ヴァハナを逃れた後に広まった虚構だ。徹底的に根回しをされていたのか、今こうして戻っても、去った前日の空気とまるで変わらない。自分だけが蚊帳の外に放り出されたのかと疑うような、異様さがある。
 裏を返せばここにつけ入る隙がある。あくまで向こうが不正をしていない体(てい)でのし上がりたいのであれば――こちらが動くほどに計画は綻ぶ。

「ああ、この通りだ。しかし公女殿下は長旅でお疲れのようだ、すぐに部屋で休ませる」
 エランは自らの背後を示した。武装した兵士が七人と、全身を布で覆ったすらりとした物腰の女性が佇んでいる。
 当然ながらこの女性はセリカ本人ではない。イルッシオ公子から借りた兵士の一人がちょうどいい体格だったので身代わりに立てたのである。全ての事情を聞き知っている宰相は、自然な所作と流暢な言で話を合わせてくれた。
 そこかしこで聞き耳を立てているであろう連中の為の演出だ。

「……時に殿下」背の高い宰相は身を屈めて声を潜めた。「頼まれていた調べ事ですが、結果から言って『可能です』。前例があります上、法典の中には反する記述がありません」
「そうか。何から何まで恩に着る」
「なんの、目的が一致する限り、我々は協力を惜しみません。ご武運を」
 歪な笑みを浮かべたかと思えば、宰相は優雅に礼をしてその場を辞した。

 エランも身代わりの「姫」を寝室まで送り、大公の住まう区画へ向かった。
 移動しながら、なるべくゼテミアンの兵士を周りに印象付ける。彼らを実際に戦わせることになるかは不明だが、こうして連れているだけでも抑止力になるだろう。
 父がいるはずの建物の前まで来て、ついに足止めをされた。

「何人たりとも面会できません。医師さまからのお達しです!」
 頑なな拒絶と厳重な警備は予想していたことだ。エランは涼しい顔で「そうか」と頷いた。眼球のみを動かして、周囲を観察する。
(過剰なまでの緊張感。これは、どっちだ? 父上の死を隠蔽しているがゆえか、それとも本当に危篤なのか)
 結局そのところは探り切ることができなかった。勘で当ててみるならば、後者ではないかと思う。

 すぐに勘よりも当てになる情報源が現れたので、思考を一度切り替えることにした。深刻な顔をして外付けの階段を下りる者をさりげなく瞥見する。取り巻きを伴って出てきたのは、エランが現在最も会いたい人物――第六公子その人であった。
 地上に降りると、少年は心底驚いた表情でこちらに歩み寄った。

「エラン兄上、お帰りなさい。思ったより早かったですね」
「そうだな。案外早く片付いた」
 白々しい笑顔と挨拶が交わされる。場がざわついたようだが、エランは目の前のハティルのみに集中しているため、取り巻き連中が何を言っているのかは全く耳に入れていない。

 ――穏便に交渉したい。
 しかし相反する想いも持ち合わせていたのか、自覚していた以上に腹を立てていたのか、口からは穏便ではなく高圧的な物言いが飛び出ていた。

「よし。ツラ貸せ、ハティル」
「それはどういう……?」
 聞き覚えの無い誘い文句だったのだろう、意味がわからずに少年は瞬いた。
「ついて来い。話をしよう。そうだな、隣の屋上薔薇園なんてどうだ」
「わかりました」
 聡い弟はひと思案した後、従順そうに頷いて見せた。

 そうして階段を上り、件(くだん)の薔薇園に踏み入る。
 双方の暗黙の了解で付き人は連れていない。静かな場所で薔薇の香りに包まれながら、エランは切り出す言葉に窮していた。
 雨粒が肌を打つのを感じる。あまり長く話ができないかもしれないな、とぼんやり思った。

「僕が憎いですか」
 やがてハティルの方から口火を切った。感情を抑えているような声色だった。
 エランは特大のため息をついてから、弟を見据える。
「……その質問には答えづらい」

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06:57:55 | 小説 | コメント(0) | page top↑
十 - a.
2017 / 09 / 16 ( Sat )
 遥か頭上の狭い窓枠に鳩が停まった。
 指を差した途端に飛び立ってしまったが、その姿が見えなくなって数秒経っても、目はこげ茶と灰色の羽の美しさを忘れられずにいた。

「ははうえ、みましたか! ハトさんがとてもきれいでしたよ」
 少年は部屋の隅に蹲る母の元へ明るく話しかける。
「……アダレム。窓の下から離れるのです」
 応じた声は暗く厳しく、空虚な部屋の中をこだました。触れられたわけでもないのに、アダレムは叩かれたみたいに身を強張らせた。

 ごめんなさい、だって、と口ごもる。そんな彼に、彼女は繊手を伸ばして手招きする。幾度となくそうしてきたように、子は母の腕の中に飛び込んだ。

「世界は恐ろしいのです。お前にとってはよくないことばかりなのですよ」
「でもここはなにもないし、ぼくはおてんとさまにあいたい……」
 もう何日も外に出ていなくて、退屈だった。窓に停まる鳩くらい、心ゆくまで眺めたい。

 それにこの部屋は空気が良くないようだ。
 部屋の角からもくもくと立ち上がる白い煙が、しつこく視界を滲ませる。香炉からの慣れない香りに鼻がツンとする。
 空気の質と関係があるのかはわからないが、一晩通して眠るのが難しく、何度も目を覚ましてしまう。妙に弱気になってしまうのはそのせいだろうか。

「いけません。お前にはまだわからないだけで、外には混沌しかないのです」
「こんとん……」
 いきなり両頬を冷たい手で包まれた。覗き込む女の顔は、恐ろしい。アダレムは生まれて初めて母に近付いて欲しくないと感じた。

「はな、して! ください!」
 混乱した。母は、こんなことを言う人ではなかった。なかった、はずだ。
「アダレムよ、可愛い我が子よ。陛下に最も良く似た子。人の群れに触れてはなりません。お前まで陛下のように病に落ちてしまってはいけません。ここにいなさい。ここなら、ハティルが守ってくださいます」
 すぐ上の兄の名を出されて、アダレムはぎくりとなった。

 ハティル公子に好かれていないのは子供心ながらによくわかる。しかしアダレムの方はなんとかして兄に好かれたいので、近寄るのを諦められない。そのせいで余計に鬱陶しがられているのもわかっている。

 鬱陶しそうにしていても、なんだかんだ言って相手にはしてくれた。
 そして時折ハティルが向けてくる眼差しは、とても悲しそうだった。それが気になって気になって、やはり近寄るのをやめられない。
 ――向けられた感情が「憐憫」であることを、幼児はまだ理解できない。

「ひとのむれって、なに」
「おぞましいものです。穢れてしまいます。ああ、おぞましい」
「……」
 うわ言のように繰り返す母の拘束から、アダレムは身をよじって何とか逃れる。四つん這いになって、窓から床に形を成す光を求める。
 日差しが暖かい。それでも、涙はすぐには乾かなかった。

 人は生まれ育った区域を飛び出て初めて、世界の広さを知ることができる。
 では狭かった世界が更に狭まった時、人の心はどう歪むのか。
 少年は、言葉もなく悠久の空を見上げ続けた。

_______

 嫌な空気だ、とエランディーク・ユオンは真っ先に感じた。
 いつものように自身が煙たがられるのとはわけが違う――宮殿の庭や内なる通路を歩く面々からは、別種の緊張が感じ取れる。
 それこそ、裏山に面する門から現れた珍妙な一行を誰も疑問に思わない程度には、意識が他に向いているらしい。

 とりあえずエランは近くの会話に耳をそばだてる。
 知らぬ間に足を止めてしまったのか、背後の騎士たちから「公子?」と不審がる声がした。何でもない、とエランは無難な笑みを浮かべて再び歩き出す。

(大公がいよいよ「危篤」――)
 ひそひそ話だったので部分的にしか拾えなかったが、どうやらそういうことらしい。
 掌に滲む汗に気付かないふりをする。
 いつしか右方に現れていた人影に、軽く会釈した。

「お帰りなさいませ」
 そう迎えてくれたのは他でもない、ヌンディーク公国の宰相の座にある男だ。
 瘦せ細った長身で背中はやや曲がっているため立ち姿に覇気を感じられないが、齢五十を超えても未だに褪せる兆しを見せない眼力と長く黒い顎鬚が、彼の印象を思慮深い賢者のものとする。
 一度深く腰を折り曲げてから、宰相はよく通る声で言った。





お待たせしました。
とりあえず私は二度と宮廷ものを書かないぞと早くも固く誓っていますw

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06:18:37 | 小説 | コメント(0) | page top↑
九 - g.
2017 / 09 / 10 ( Sun )
 強く押し付けられたのは刹那のことで、唇は間もなく離れた。
「必ず、帰る。私は果たせない約束はしない」
「うん」
 それきり、幸せはするりと腕の中から抜けていった。もう少し、と望んでも、冷たい風が吹き抜けるだけだ。
 去り行く者はやがて馬上の人となり、兵と共に一列に防壁の門に向かって降りていく。

(あは。これか、恋愛感情)
 この局面で自覚してしまうとは、何と悲しく切ないことだろう。セリカは掌で額を押さえた。
(世の中の皆さんは、どうやってこれを抱えて生きていけるの)
 女の一生は忍耐――母が昔そう言っていたのは、こういう意味だったのだろうか。よくわからない。
 袖で目元を擦ると、セリカは顎を引き上げた。今は感傷に浸るべき時ではない。

「あの塔で間違いないのね」
 未だ陰に潜む女性に向かって問いかける。女性は音も立てずにセリカの傍に来ると、頭を下げて答えた。
「はい。表向き、アダレム公子はご気分の優れない母君に付き添って部屋から出ていないという話になっておりますが、我が同胞が調べましたところ、塔にて幽閉されていると判明いたしました」

 密使の彼女が革手袋に覆われた指を指す。塔は防壁の角に位置しており、門からもそう遠くないように見える。
「わかった、行きましょう。段取りはあなたに任せるわ」
 御意にございます、と密使は小声になり、潜入する為の作戦を綴った。


 ――兄弟を嫌うのに深い理由は要らない。
 自分よりもよくできた姉妹を少なからず妬みながら育ってきたセリカには、その言葉の意味が身に染みてよくわかっていた。しかし嫌う感情だけでは、相手を死に至らしめるまでに行動するには至らない。
 その二つの事項は容易に結びつかないはずである。いわば、憎しみの進展が必要なのだと思われる。

 ではハティル公子の、弟を害したいという感情のふり幅はどこにあるのか。少なくともアダレムが生きている限り、それが希望になる。
 しかもアダレムはまだ柔軟な年頃だ、命まで奪わずとも如何様にも誘導・洗脳できうる。ハティルは、ただ一人の弟を飼い殺しにするつもりかもしれない。

(本人を誘導できても、背後にいるはずの母親や親族はどうだろ。アダレムとハティルは母親が同じだから、いざとなったら母親はどっちに味方するかしら)
 人望がどうと言うには二人の公子はまだ幼い。逆に、傀儡化できそうな公子を担ぎ上げるのが妥当と考えられる。
(まあいいわ。誰が立ちはだかっても、あたしはやるべきことをやるだけよ)
 セリカは密使の方を向き直った。互いに、一分の隙も無い黒衣に身を包んでいる。

「殿下が門を通る隙を狙って、潜入します。私に続いてくださいませ」
 彼女の手にある道具はゼテミアンでは見たことのない類の物だ。武具、なのだろうか。腕にはめる何かのからくりのようで、先端に大きな三つ又のフックが付いている。
 その道具と長い縄を持って彼女はすたすたと急勾配の方へ歩いた。大木に縄の端を縛り付け、残りを空いた腕で抱える。これらで防壁に至るまでの「橋」を架けるのだそうな。
 後はエランが門番と話し込む頃合いを見計らうだけだ。その間に密使の横に立って、セリカは口を開いた。

「ところで、呼び名が無いとやりづらいわ」
「では私のことは、ハリャ、と。あとこちらをお持ちください」
 無機質に言ってハリャは腕の仕掛けを解放した。フックが空を切り、遥か遠くの壁の縁に引っかかる。
 かしゃん、とからくりが大きな音を立てた。かと思えば、ハリャは地を蹴っていた。

 振り子の要領で彼女は山と防壁の間を見事に超えて見せた。
 だが油断はできない。
 セリカは視力が良い方だ。運悪く屋上通路を通りがかった兵士が気付いて駆け寄り、ぶら下がる彼女を蹴り落とそうとしているのが見える。

 弓に矢を番えつつ、自分に射抜ける最長距離を思い浮かべる。正直ちゃんと届くのか、ちゃんと狙えるのか、ここからでは怪しい。
 弓弦の張力を全身で感じる。手が微かに震えている――当然だ、人を狙うのだから。
 束の間、瞑目した。

 再びハリャの危機を視界に入れ時には、セリカは賭けに出る為の覚悟を決めていた。
 狙い、放つ。矢が僅かな風切り音を背負って飛ぶ。
 余韻に震えながら息を止めていた。警備兵が仰け反り、倒れるのを見届けるまで。

 次に、人を殺したかもしれないという事実に怯え、狼狽した。
 そんなセリカの葛藤などお構いなしにハリャは壁をサッサと登りきる。手頃な突起を見つけて縄を縛り付けると、こちらに向かって手招きしてきた。

 戦々恐々と例の縄を見下ろした。
 太くて頑丈そうだった。セリカ一人の体重くらい、支えるに足るかもしれない。
 そして先ほど「お持ちください」と渡されたのは曲がった小さな鉄塊。両腕に嵌めて使うものだと、ハリャに教えられた。
 心の中で神々と聖獣に短い祈りを捧げ、大きく息を吸い込む。

(こんなこと! 絶対! 二度としないからね!)
 風が衣服を激しくはためかせる。手足がひどく重い。
 落ちる。落ちる、そのことを意識したくなくて目を閉じたら余計に気分が悪くなり、空を仰ぐことにした。疎らに煌き始めている星々の輝きが慰めだった。

 ――味わった恐怖は度を越えすぎていて、状況を楽しむ余裕も無くて、後に思い出したり語ったりしたくないようなものだった。

 転がり込むようにして着地した。打った後ろ首をさすりながら、セリカはなんとか起き上がった。
 ハリャがひとりで数人倒したのだろう、そこには既に戦闘の痕跡があった。セリカが射た者含め、皆ぼそぼそと呻いている。誰も殺していなかったことに、こっそりと胸を撫で下ろした。

「こちらです!」
 彼女が先導する方へ続く。二人でしばらく通路を進み、塔へ入り、階段を駆け上がった。カビの臭いがどんどん濃くなる。
(生きていてよ。無事でいて、お願い!)
 果たして、最悪の結末を撥ね退けられるかは知れないが。

 アダレムはエランが怖いと言った。だから彼を迎えに行く役目は、セリカが請け負うことになった。
 息も切れ切れに、セリカは思い浮かべる――リスを追いかけていた天真爛漫な幼子のことを。
 ただ一心に、あの元気な在り様が保たれていることを願った。





Ziplineを嗜む系プリンセスw 鉄塊は手首っていうか腕を支える良心的な仕掛けなので脱臼しません(ファンタジー)でもしょせん次の日は全身筋肉痛。

ついに恋愛らしい恋愛に踏み出しました二人ですが、そこですかさず水を差すのが作者です。

九話は一応ここで終わりのつもりです。いきなり気が変わって構成いじりたくならない限りw
十話からは多分視点がくるくるします。乗り物酔いにご注意ください。

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12:55:14 | 小説 | コメント(0) | page top↑
九 - f.
2017 / 09 / 06 ( Wed )
 腹の決まった者に向けて「行かないで」とも「連れてって」とも、ねだってはいけない。
 足を引っ張りたいわけではないのだ。それでは、共に歩む伴侶たりえないだろう。
 人々が遠ざかる。送ってくれるという密使の女性は離れた位置の木陰にいつの間にか身を潜めていて、セリカはその場に取り残されたように立ち尽くした。

 言葉にできない、悶々とした想いを持て余している。急に頭を覆う布が暑苦しく感じられた。乱暴に脱いで、手癖で髪を解いて結い直す。
 己の長い髪すら煩わしく思えてくる。それゆえか、ひとり戻ってきた青年が不満そうな顔をしているのを見て、セリカは彼が何を考えているのかすぐにはわからなかった。

「そんな風に引っ張ったら傷む」
「構わないわよ、傷んだら切ればいいし」
「そう言ってやるな」
 なんとエランはどこからともなく大きめの櫛を取り出した。そんなもん持ち歩いてるの、と訊ねている間に背後に立たれた。

「髪、触っても」
「いいわ」
 こちらが答えるが早く、軽やかな音が頭蓋に響いた。木製の櫛だ。くせだらけのセリカの髪を優しく梳く感触は心地良く、絡まった箇所を解く手付きは手慣れている。
 ――あのリューキネ公女と比べたら毛が太く扱いづらいだろうに。

「持ち歩いているというより、道中で買った」
 今頃になって質問の答えが落ちてきた。
「髪短いのに櫛なんて使うんだ」
「使わない」
「え」
 間があった。一方、セリカは首筋をくすぐる感覚に身震いしないように必死だった。

「お前の為に買った」
「そうなんですか……ありがとう……?」
 またモヤモヤとした感情が胸の奥で渦巻く。嬉しいのに喜べない、その原因は知れているのに。
 伝えなきゃと思えば思うほど、息が苦しくなる。

「って、ちょっと。編んでませんか」
 気が付かない内に、梳く感覚が何か違うものになっていた。
「ついでだ」さすがに彼は手慣れている。三つ編み一本を作り上げると今度はそれをくるりと巻いてまとめ上げ、仕上げに櫛を挿して固定した。「これなら動きやすいだろう」
 満足そうに笑んでいるエランに、セリカは苦笑交じりに礼を言った。それから深呼吸する。

「じゃ、気を付けて。また後で、ね」
 後でどこで合流するかは、実は定まっていない。
 次があるのかわからないという誰かとの別れに、こうも後ろ髪を引かれる想いをしたのは初めてだ。望めば腕が届くようなこの距離に、空気感に、浸るようにしてセリカは青灰色の瞳を見つめた。

「ああ。お前の方こそ気を付けてくれ」
 絡まった眼差しは、ほどなくして切れた。
 裾がたなびく。足音がする。数歩と歩き出した背中に、セリカは衝動的に呼びかけた。
 振り返った顔には、これといった感情が映し出されていなかった。

「あ、あのね! あたし、嬉しかったよ」
 つっかえそうになる言葉を頑張って押し出した。
 宵闇の中、無表情に僅かな驚きが射しこむのが見える。
「あんたがあたしの運命で――うれしい」
 その想いを口にした時、胸の中でたとえようのない温かさが広がった。次いで微笑んだのも、きっと衝動だった。

 ――伝わって欲しいのはこれだ。
 巻き込んだと、彼は思わずにいられないのだろう。巻き込まれて、嫌な感情が全くなかったとセリカには断言できない。
 けれどもそれを凌駕する何かがある。困難に一緒に立ち向かうことに、充足感のようなものが伴うのだ。他の誰でもない、この人の戦いに。果てまで付き合いたいと、今なら言い切れる。

 瞬間、より深い驚きが青年の面差しを埋め尽くした。
 かと思ったら、セリカの視界の中で布が動き、影が近付いた。
 両肩を圧迫する力にハッとなる。抱き締められたのだと気付いて、呆気に取られたこと、数秒。

「あまりそういうことを言うな。離れがたくなる」
 耳元で囁いた声は掠れていて熱っぽい。つられて熱に浮かされそうだ。
「……反省します」
 寂しいのは自分だけじゃなかった、エランも何かを我慢していたのだ、と思い知った途端に肩の力が抜けた。セリカに同等の腕力は無いが、負けじと強く抱き締め返す。自然と瞼が下りた。
 これ以上にないくらいに相手を近くに感じられる――

 ――これ以上は、ないのか?
 脳裏に奇妙な疑問が沸き起こったのと「もっと触れても」の問いが耳朶に届いたのは、ほぼ同時だった。
 セリカは自身がどう答えたのかを知らない。喋る為の器官が動いて何かを答えたらしいのは、わかる。

 唇を閉じる寸前、そこに柔らかく温もりが重なるのを感じた。




ほぼ二年ぶりって具合に拍手お礼を更新しました。
何故こんなに間が空いたのかはもはや謎です。

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23:59:38 | 小説 | コメント(0) | page top↑
九 - e.
2017 / 09 / 04 ( Mon )
 何を、と問おうとして、途中で考え直す。なんとなく心当たりがあった。
「怖いの?」
「……ひとりの人間が全てを捨ててまで寄り添う甲斐が、自分にあるとは思えない」
「それを決めるのは、あたしだからね」
 エランから「結論」を言い渡された朝の記憶がまだ新しい。それは結論であり、申し込みだった。

 ――ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクス姫。私がこれから歩もうとしている先に、希望があるのか破滅が待つのかは知れない。私の持ち札はあまりに少ない。与えてやれるものは何も無いし、幸せにしてみせるとも約束できない。
 ――それでも共に歩んではくれないだろうか。泥の中を這うような人生でも、お前が居てくれるなら、耐えられそうだ。

「手かして」
 ありったけの威圧を込めて右の手の平を差し出した。エランは躊躇いがちに応じた。
 重なる手の温かさに、ほっとした――時にそれはどんな不安や恐怖をも忘れさせ、時にごく平凡な風景をも輝かせる。セリカは被り物の下で頬を緩めた。
「なんにもないって、そればっかり……正直すぎよ。ま、好きだけどね。そうやってかっこつけないとこも」
 指を絡めて、握る。捕まえた青年の指はまず強張った。次第に解れて、握り返してくる。

「あたしの気持ちは変わらないわ。後悔なんて、しない」
「…………」
「あ、今笑ったでしょ。見えなくて残念だわ」
 目尻の雰囲気が柔らかくなったのは確かである。
「こんな顔で良ければ後でいくらでも見せてやる。飽きるまでな」
 答えた声はいかにも可笑しそうだ。これから一生付き合うのに、飽きたら困るなあ――とセリカがポツリと漏らせば、エランは声に出して笑った。

________

 ムゥダ=ヴァハナに連なる裏山にて夜を迎える。
 セリカは手頃な樹木に片手をついて支えとし、これより向かう先を眺め下ろした。曇り空のため、日が暮れ切っていなくても辺りがやたら暗く感じられる。

 都を守る強固そうな防壁は、思いのほか高くなさそうだ。角の物見やぐらにのみ明かりが灯っていて、壁際の通路は基本的に暗い。巡回する衛兵の装備や数を遠目に確認した。

「片手で数えられる程度しか居ないわよ」
 振り返らずに、背後から現れた気配に向けて話しかける。
「ああ。ほとんど矢狭間(アローループ)が設置されていない。こちら側から攻め入られる可能性が極めて低いと認識されているからだ」(アローループまたはスリット=外敵に矢を射る為の隙間)

 セリカの隣に並んで、青年はそう付け加えた。
 全て想定した通りだ。都の裏手の山は険しく、遠回りとなったが、その代わり虚を突くことが叶う。エランはこの山を抜けた経験が何度もあるらしく、最も効率良く進む道を熟知していたのである。
 第五公子は変装をやめて、以前の様相に戻っている。ターバンから垂らした布で顔の右半分を覆い、動きやすそうな服装に着替えていた。

 ――別れて行動する刻限が迫っている。
 そのことを思うと、セリカは落ち着かない。気を紛らわせたくて肩にかけた弓を指先で撫でたりした。
「人を射たことはあるか」
 ふいにエランが問いかけた。
「ない、と思う」
「そうか。これからもそうであれば、いいな」
「うん……」
 労わるような優しい声にたまらなくなり、目頭に涙が滲んだ。

 怖い。けれどそれ以上に、離れるのが嫌だった。別れたらそれが最後になるのではないか――。
 ほどなくして暗い視界の端に一層黒いものが浮かび上がった。「彼女」はいつぞやのようにエランの前に跪いて、報告をする。大公、ハティル公子、それにアダレム公子についてわかったことを。
「アストファン公子に動きが見られませんが、監視に気付いて敢えてそうしているようにも解釈できます」
「……わかった。監視の目をかいくぐられるかもしれないのは気がかりだが、仕方ない」
 エランは頷いて、踵を返す。イルッシオに借りた兵の方へ足を運び、支度をするように呼びかけた。

「お供いたしましょうか」
 密使の申し出をエランは即座に断った。
「いや、必要ない。ハティルが父上の『見舞い』に行っているというなら、私がそこに向かうのも便宜上は問題ない。それよりお前は、セリカ公女を送ってくれ」
「承知しました」
 黒づくめの女性がこちらに向いて頭を下げる。

 セリカの胸の内に焦燥感が沸いた。ここ数日ですっかり見慣れてしまっていた横顔が、もはやこちらを見向きしない。
 深い青の耳飾が揺れるのを目で追った。「待って」の一言が、喉でつっかえる。

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九 - d.
2017 / 09 / 01 ( Fri )
 先にイルッシオが両手で長剣を振るう。
 セリカは本能的に後退った。
 あれは刃物としては鈍い分類で、敵に叩き付けるようにして切るのが主流だ。軽装備のエランにまともに当たったら、骨折はまず免れない。

「やめてよ!? ああもう、お兄さんのバカ! 脳筋!」
 停止を呼びかける悲鳴、むなしく。セリカの目前で火花が散った。
(熱っ……!)
 頬に、刹那的な熱が弾ける。それとひどく耳障りな音が響いている。
 鉄と鉄が擦れる音だ。
 左手に持ったナイフを長剣の側面に滑らせながら、エランがイルッシオの懐に飛び込む。

(左手?)
 セリカが疑問に思った一瞬の内に、黒い衣がしなった。それは鞭のように甲冑の騎士の両腕に巻き付き、動きを封じる。剣先が地に突き刺さった。
 すぐに布を手放して、エランは左足でイルッシオの腕を踏み台にし、右膝で顎下を蹴り上げた。衝撃音と共に、土埃が舞う。
(何今の!? すごっ! 超かっこいい!)
 不謹慎ながらセリカは興奮した。弟の実力を知っている姉としては、イルッシオがこんなに早く倒されるのを見るのは新鮮である。

「あの体勢から飛び蹴りって、やりますね。隻眼も身長も体格も不利だとわかってて他で補うとか、潔くていいっすね」
 と、イルッシオがのんびりと称賛する。立ち上がろうとする彼に、エランは手を貸した。
「まぐれです。膂力も体力もあなたに敵わないと踏んで、早々に奇策に出させていただきました。十回勝負すれば、九回はそちらが勝つでしょう」
「ご謙遜を、義兄(あに)上。今の一回が全てだったんすよ」
 二人は何食わぬ顔で向かい合う。始まりと同じくらい唐突に、終わってしまった。

「あんたって右利きな気がしてたんだけど」
 ふと思い出して、セリカは先ほどの疑問をエランに指摘した。
「生来そうだ。片目になってから不便で、左もある程度使えるようにした」
「へえ。努力家ね――……じゃなくて、もう決着でいいわけ?」
 どうも二人ともこういったことの勝敗にこだわらない性分らしい。セリカの問いに、イルッシオは肩を竦めた。次に、エランが口を開く。

「ひとつ訊ねても」
「何すかね、義兄上」
「あなたの一行には武装した兵が何人いるのでしょうか」
「重装備の騎兵が八人、練度は上の下ってとこですかね。何故?」
「貸していただけないだろうかと」
 イルッシオはゆっくりと瞬きだけを返した。セリカも、何言ってるの、と視線でエランに訴えかける。

「ルシャンフはともかく、私は公都に兵を置いていない。宰相の手助けにどれほど期待できるかわからない現状、選択肢は多く持った方が賢明だ」
 と、エランはこちらを見て答えた。
「浅慮じゃないっすか。他国の人間だからと言って、貴殿のお家騒動に手を染めていないって言い切れないでしょう。俺が敵と手を結んでたらどうするんです」

「はて、姉の無事を確かめる為だけに馬を急がせた公子が、そんなことをしますか。あなた方にとっての『きょうだい』は、私の知るそれとは性質が違うように感じます」
「そうでしょーね」イルッシオは首を左右に巡らせて、バキボキと鳴らした。「でも他国の兵を引き連れて都に入るのは外聞悪そうですよ」
「落ちるほどの評判を持ってません」
 今度はエランが肩を竦める。イルッシオは値踏みするように目を細めた。

「アウグロン兄上はかわいい妹姫が妙な輩に誑かされたと心配で気が気じゃないみたいですが、俺は人を見る目はあるつもりっす。姉上は、誑かされるようなお人じゃない。貴殿を随分と信頼しているようだ」
 そう言って彼は右の籠手(ガントレット)を脱ぎ、指笛を吹いた。二分ほど経つと、複数の馬蹄の音が響いた。

「てことで、いいですよ。貸します」
「待ってイルッシオ、あんた自身は護衛どうするのよ」
「大丈夫ですよ。他に練度・上の上の精鋭が二人居ますんで」
 彼は親指で背後を差した。なるほど、指笛の呼びかけに応じた騎兵の数は先ほど聞いた「八人」ではなく、十人だ。

 そうだった、この男はこういうしたたかさを持ち合わせているのだった。最初からこの人数を連れて来たのにも、意図があったかもしれない。
 話はあっという間にまとまり、別れの挨拶に移った。

「ご安心ください、姉上。父上たちは何も知らないままです。うまくごまかしますから」
「お兄さんによろしくね」
「はい。身の回りが落ち着いたら、ぜひ二人で挨拶に来てくださいよ。バルバも兄上も待ってます」

「必ず行きます。ありがとうございました」
 と、エランが深く礼をした。
 去りゆく三騎と一羽を見送った後に、セリカは大きく息を吐いた。すると隣の青年から気遣わしげな視線を受けた。

「目まぐるしくてちょっとついていけない。行き当たりばったりだわ……」
「臨機応変と言ってくれ」
「そうね。エランってリーダーとしては混乱の時代をうまく乗り切りそうだけど、平穏には向かないかもね」
「大公やってみたら? なんて言ったら、怒るぞ」

「言わない言わない」
 否定に手を振る。エランは黒い布を頭から被り直し、目だけをこちらに向けた。青灰色の瞳に、深刻そうな光が宿っている。

「気が変わったか」
「え?」
 訊き返すと、いつになく弱気な声で彼は「後悔しているか」と囁いた。




長髪美形=悪 に続き、 弟=曲者 という謎公式まで…。ち、違うもん、イルッシオはリーデンとは違うもん(;'∀')

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23:08:48 | 小説 | コメント(0) | page top↑
九 - c.
2017 / 08 / 29 ( Tue )
 他に何て言ってやればいいのかわからない。気を揉んでいる間に、エランが口火を切った。
「顔の傷痕がどうやってできたか、聞きたいか」
 不意打ちだ。セリカはどもって答える。
「き、そりゃ教えてくれるなら、もちろん知りたい……けど、あ、後の方がいいんじゃないかしら。移動が先決よね?」
 言い終わってから、急かしているように聞こえただろうかと気がかりになった。

「それもそうだな」
 ところがエランはあっさり同意した。ほっと胸を撫で下ろして、セリカも支度にかかる。
 もっと休んでいたいと駄々をこねる馬を宥め、まさに騎乗しようと鐙(あぶみ)に足をかけた瞬間。また、鳥の鳴き声が響いた。

 無視して出発できれば良かったのだが、エランの首は既に声のした方を向いていた。渋々とセリカも同じ方向に注目する。
 隼に猛追するのは、コンパクトな外観の白馬と、甲冑姿の騎手。その男は真っすぐにこちらを目指して駆ける。

 馬蹄が土を散らすさまをぼんやりと見つめ、どうしたものかと一考する。ここまで迫られてはもう選択肢が限られている。
 ある程度の距離を開けたまま、男が馬を降りた。その時を待っていたかのように、隼が彼の腕に華麗に降り立つ。

「ご婦人方。お訊ねしたいことがあるんですが」
 男は会釈し、毅然とした態度で問いかけて来た。無意識にセリカはエランの背中側の裾を掴んだ。
(エランが答えたらご婦人じゃないってばれる)
 敵意が無いとの表れだろう、男は鉄兜を脱いで見せた。

 そこに、しばらく目にしていない類の顔立ちが現れた。四角い輪郭と太めの首、白い肌と色素の薄い唇。全体的に彫りの深い印象で、眉骨がやや吊り上がって見える。短く整えられた濃い茶色の髪は、巻き毛よりもくせ毛という表現が似合う。
 ヘーゼルに彩られた目は直線を繋いだみたいな角ばった形で、そう、ちょうどセリカ自身のそれと雰囲気が似ている。

「イルッシオ」
 しまった、と口元に手をやった時には遅かった。名を呼ばれた青年は複雑そうに目を眇める。
「面白い格好ですね、姉上」
「うっ、うるさいわね。これにはランディヴァ湖よりも深い理由があるの。それより何であんたがいるのよ、オクタヴィオが飛んでたからお兄さんが来たかと思ったじゃない」

 身内だとわかった途端に互いに口調が崩れた。
 ちなみにセリカに指をさされたオクタヴィオは、くりっと鳥類特有の動きで首を傾げてから、我関せずといった具合に嘴で羽を整えている。

「まさか。アウグロン兄上はご多忙の身っすよ、だから代わりに俺が迎えに来たんじゃねーですか」
「あんたひとりで?」
「他は離れた場所で待たせてるっす。ぞろぞろ大人数を連れて現れたら、姉上は話も聞かずに逃げ出すでしょ」
「さすが我が弟、よくわかってるじゃないの」

「姉上は我が強いですから、大抵の使者には聞き耳持たずに追い返してしまうからと、わざわざこの俺が出向いたわけです。愛されてるっすねー。兄上も人使いが荒いですよ。これじゃあいつまで経っても、遊んで暮らす夢が実現できない」
「またそんなこと言って……お兄さんにパシられるの楽しいくせに」
「楽しくなんてねーです、よっと」
 イルッシオはふうとため息をついて、腕から隼を飛び立たせた。彼の視線が残る黒づくめの人物に流れる。

「『迎えに来た』……?」
 呟きながら、その者は被り物を脱いだ。明らかになった面貌は、考え込んでいるように深刻だ。
「あ、エラン、帰るわけじゃないから」
 反射的にセリカは弁明を試みる。

「『エラン』? では、貴殿が姉上の」
 イルッシオがその名に鋭く反応を示した。あろうことか、腰の鉄剣をスラリと鞘から抜いて構えたのである。
「ちょっとイルッシオ!? どういうつもり!」
「バルバティアが帰国しまして」
 剣先がエランの顎下に触れた。セリカは、ひゅっと心臓が縮まる想いがした。
 当のエランは瞬きひとつせずに冷ややかに応じる。

「侍女殿は、何と?」
「バルバの話はどうも要領が得られなくて……それは置いといて。要するに、我が国の大公世子は頭より筋肉でものを考える傾向にありましてですね。姉上が体を張ってでも傍に居たかった御仁を――そうするに値する人間かどうか、見極めて来いと俺に命じたわけです」
「…………わかりやすくて何より」
 気が付けばエランまで、あの曲がったナイフを抜き放っていた。

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07:14:11 | 小説 | コメント(0) | page top↑
九 - b.
2017 / 08 / 25 ( Fri )
「第六公子の動向を見張れ」
「第六公子殿下を、ですか?」
 エランの言い渡した指示に対し、思わず、といった具合に彼女は復唱した。もしかしたら、その名が挙がったこと自体に驚いているのかもしれない。

「そうだ。特別な行動に出る必要はない。我々が到着したら、それまでに観察した一切を教えてくれればいい」
 承りました、とその者は深く一礼する。
「ではこれにて失礼いたします」
「ああご苦労だったな」
 黒づくめの女性が立ち上がると、思い出したように「ところで密使の者」とエランが呼びかけた。何でございましょう、と彼女が応じる。

「どうやって変装を見破った?」
「……見破ったというのは正確ではありません。私は一度聴いた声は忘れませんので」
 つまり人が多く通りそうな場所に目星をつけて、通行人の中にそれらしい体格の人物を見つけて、当たり障りなく声をかけたという。
 地道な作業だ。それを何でもなさそうにこなすとは、大したものである。

「なるほど、合点がいった」
「はい。ご帰還を心待ちにしております。どうか良き旅路を」
 密使は颯爽とその場から立ち去った。
 エランは無言で再び馬を走らせる。風景とも呼べない色の羅列が、うねりながら過ぎ去る。

(期待してた遠乗りじゃないなー)
 密かに苦笑いした。滅多と経験しない馬の二人乗りだが、そこに心躍るような要素は何もなかった。
 道行く人々をいちいち敵と疑いながら進める旅だ。目の前の青年にしがみつくのは甘い感情からではなく、そうしないと振り落されるから――否、不安に飲み込まれるからである。
 やがて開けた場所に出た。

 先の丘の上に廃屋が見える。そこで休憩を取ることになった。
 エランが草むらでひと眠りしている間に、セリカは食料を探して回った。
 まずは小屋の中を探す。残念ながらそこは人の気配がとうに失われた、文字通りの廃屋だった。キノコが少しばかり生えているが、セリカにはそれが食べられるものかどうか判断が付かない。

 外に出ると柱に繋いだ馬と目が合った。艶やかな毛並と長距離走に耐えうる屈強な身体を誇る、上等な馬だ。扱いやすい気質で、あっという間に新しい乗り手に馴染んだ。
(そうだわ。毛づくろいをしてあげよう)
 セリカは荷物の中からブラシを取り出し、おもむろに馬に近付いた。察したのか、嬉しそうに鼻息を漏らしている。
 時たま優しく声をかけてやりながら、丁寧にブラシをかけた。それが終わると、馬は穏やかな息遣いに戻って草を食んだ。

 タバンヌスに貰った賃金はこの馬と、兵を幾人か雇うことに費やされた。
 兵が請け負った仕事はベネフォーリ公子への伝令だ。エランの推察では、第一公子がこの時期に州へ呼び戻されたのは、偶然ではなくおそらくアストファンの手回しだと言う。
 彼を都から遠ざけて、なおかつ秘密裏に始末する為に。
 実直なベネフォーリは何も疑わないだろう。
 伝令を伝えるついでに、傭兵たちが少しでも彼の戦力の足しとなれれば幸いだ。

(間に合うかしら)
 他に、果たされていない条件がまだ幾つも残っている。
 草の上に寝そべるエランを見やった。
(あれくらい騒いでも起きないか……疲れてるのかもね)
 疲れているのは自分も同じだ。思い出したように立つのがだるくなり、セリカは小屋の影に腰を下ろした。

 瞼が下りかける。
 遠くからは、鳥の鳴き声がする。鷹か――
 ――違う!
 カッと目を見開いた。鷹の甲高く伸びやかな鳴き声に比べると、か細い印象を受ける鳴き方である。

「やばっ! 今度こそお兄さんの隼!?」
 油断した、と遅れて気付く。人気が無いのをいいことに、被り物を脱いでいたのだ。暑苦しいのだから仕方ない。
 そして隼は視力が良いが、嗅覚はそれほどでもない。身を隠していれば見つかることもなかったはずだ。
 慌てて身を起こした間に、鳥影は消えていた。もしかして「止まり木」の方に戻ったのではないか。

(急かしたくないけど)
 エランを起こして、そろそろ移動しようと提案したい。
 草むらまで歩み寄って、ふと止まる。彼の方は被り物を脱がなかったので表情こそ見えないが、呻き声が聞こえた気がした。それに何度か寝返りを打っている。
(うなされてる?)
 睡眠の妨害をする口実ができた――という邪な思考を頭の片隅に追いやり、セリカは手を伸ばした。
 そっと、肩を揺すってやる。

「エラン。起きて。どしたの、嫌な夢でも見たの」
 息を呑む気配があった。次いで、長いため息が吐かれる。
「……そうだな。これまでの人生にあった嫌なことがまとめて夢に凝縮された感じだ」
「わ、うわあ。オツカレサマです」

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12:30:40 | 小説 | コメント(0) | page top↑
九 - a.
2017 / 08 / 22 ( Tue )
 一に、大公の身を確保すること。
 二に、第七公子アダレムの身を確保すること。
 三に、第一公子ベネフォーリが州に戻っている間、奸計により命を落とすのを防ぐこと。
 四に、第二公子アストファンの持つ武力をいなし、本人の動きを封じること。
 五に、第四公子ハティルを説得すること。

 それらの条件の過半を満たせれば、ある程度の安定は得られるはずだ。しかし果たせなかった場合、或いはそれでも流れが止まらなかった場合。
 最後の手段で、私が大公に即位するしかないだろう。

 そう言った青年の顔は――右頬の傷跡が威嚇に身を捻っているように見えるほど、苦かった。

________

 定まった速度で進んでいた乗り物が急激に止まった。それゆえセリカは揺り起こされた。

(なになに)
 重い瞼を開けると、覆面の人物が眼前で跪いていた。
(あれ、あたし一瞬ウトウトしてた?)
 馬上で眠ってしまったとは我ながら恐ろしい。が、腕はしっかりと騎手の腰を捉えたままなので、とりあえずよしとする。

 前方に乗っているその騎手が、地上で跪く人物を見下ろして何かを言っている。
 大陸の共通語ではなくヌンディーク公国の言語だ。セリカは苦労して内容を聞き取った。

「宰相殿の密使か。信じさせてもらうぞ」
「偽りなき真意です。我が主から、殿下を探し出してお力になるように仰せつかりました。探し出すのに、少々手間取ってしまいましたが」
 宰相の密使だという覆面の人物は中性的な声の持ち主だ。全身をくまなく黒い布で覆っているが(目の部分だけ細く網が張ってある。当然、声はくぐもっている)、胸周りの膨らみから女性と思われる。

「理由を、お前は宰相殿から聞いているのか」
「はい。主は我が国が貿易から繁栄するのが、最たる道だと考えておいでです。四国の間で突出したくとも、兵力・軍事力では帝国や隣国のゼテミアンに敵わないでしょうと」
「事実だな。ヤシュレに攻め入ろうにも、すぐに他二国をも同時に敵に回してしまう。綱渡りだ」
 それでも渡り切れるだけの策を、ハティルなら考え付くかもしれないが――と、エランは使者に聴こえないような小声で呟いた。

「私が公都に戻ると、どうやって気付いた」
「殿下の従者という者から話を……それで公子方の中で最も意が合うのは、きっと第五公子殿下であると主は判断されました」
 その返答に、セリカはエランと一緒になって息を呑んだ。そうか生きていたのか、という安堵と、転んでもただで起き上がらないどころか暗躍までするとは大した男だ、という感嘆が沸く。

 曰く、陰に動き回っていたタバンヌスを、宰相の私兵が捕らえた――結果的には保護した――らしい。彼はしばらく口を割らなかったが、事前に宰相の立ち位置を理解していたためか、最終的に賭けに出たという。

「彼の者より伝言を預かっております」
「わかった。聞こう」
「では――『陛下は身辺に人が増えすぎて現状どうなっているか生死不明』、『並びにアダレム公子の生死と行方も不明』とのことでございます」
 瞬間、エランの身が強張るのを衣服越しに感じた。

「我が主も手持ちの駒を動かしておりますが、殿下が戻られるまでに何がどこまで進展するか、保証いたしかねるそうです」
「了解した。力になってくれると言うが、お前は何ができる」
「陰より殿下の護衛を務めさせていただく心積もりでした。が、あなたさまは既に巧みに身を隠しておられるようで……。ご随意に」

 密使の言う通り、今日まで追っ手に見つかることなく馬を進めていられるのは、入念な変装のおかげだった。幸いなことにヌンディーク公国は被り物を自由に着用していられる文化だ。
 ――目しか出さないほどに布を着込んでも、誰も呼び止めなければ振り返りもしない。

 それは一般的に女性にのみ見られるスタイルだ。
 エランの背格好なら、喋りさえしなければ十分に誤魔化せる。セリカのこの地域では珍しい赤髪も、こうして隠されたのである。
(覆面黒づくめの人間が三人も一同に会するのは、なんだかシュールだけど)
 背に腹は代えられない、というわけである。

「なら、ムゥダ=ヴァハナにとんぼ返りしてもらっても構わないか」
「問題ありません」
 彼女は指示の続きを求めるように、頭を下げたまま黙り込んだ。

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