十 - e.
2017 / 10 / 18 ( Wed ) 狭い窓を無理に通ったせいで、セリカは身体中の至るところで鈍い痛みを感じていたが、それにかまっている場合ではなかった。自らの全体重を支える、縄代わりに結び継がれた布にしがみつくのに必死だ――たとえそれが両脇下にしっかりと結び付けられているとしても。 薄気味の悪い闇に身を沈めてゆく。地面がまだ遠い、気がする。そろそろと壁伝いに下りながらそう思った。 窓の外から縄を握っているハリャの腕は大丈夫だろうか。こちらの体重を支えているからにはかなりの無理をさせているに違いないのに、してやれることといえば、なるべく静かに急ぐことだけだった。 ――それを垂らして掴まらせて、アダレム公子を引き上げるのね。 ――いいえ、子供の腕力では酷です。公女殿下、中に降りて公子殿下にこの縄を結び付けてください。彼を引き上げた後に、今度は私が壁を上って公女殿下に縄を投げます。 数分前のやり取りだ。扉の錠をこじ開けるより壁にとりついて窓から攻めた方が早いからとハリャが判断し、セリカが実行している。 塔の窓は、狭くとも、細身の女や子供ならかろうじて通れる幅があった。しかし衣越しにも皮膚が擦れ、関節がレンガにぶつかって痛かった。戻りもまたあれを味わうのかと思うとうんざりだ。 しばらくして靴の裏が地面に触れた。態勢を整え、折り曲げた膝を立たせる。 「おそとからきたのですか」 ふいに聴こえた囁き声に、セリカは身を強張らせた。素早く振り返り、声の主を警戒する。 子供が明かりの届く方へと這い出るのが薄っすらと見てとれた。普段と違ってターバンをしていなかったので咄嗟にわからなかった。 「アダレム公子」 望んでいた人物に簡単に会えたことに安堵したかった、が。 妙に胸が騒ぐ。塔の中の空気は重く、人の通常の臭気がお香に隠しきれていないような、何とも言えない臭いがした。 「ええ、そう、塔の外からね。あなたをここから連れ出しに来たわ」 「おそとはこわいところです。ひとのむれがいます」 四つん這いの少年から、不可解な返事があった。意味がわからずにセリカはたじろいだ。 「ぼくは、おそとにでたら、やまい、にかかります。おそとは『あく』にみちています」 「何を言ってるの……」 「あくって、わるいことをするひと、かんがえるひと、だって。おねえさんは、わるいことかんがえますか。おそとのひとに、あったら、ぼくはしんじゃうんですか」 質問の嵐に気圧されて、セリカは何も言えない。薄明かりに揺らめく瞳は清らかそうに見えて、同時に深い影を秘めていた。 (病って何? 体のこと、それとも比喩なの) 答えを誤ったら、彼は一緒に来てはくれないのだろうか。言いようのないプレッシャーを感じながら、なんとか頭を働かせる。 被り物を脱ぎ捨て、腰を低めて、六歳の公子と目線の高さを近付けてみた。 「怖い人じゃないわ。アダレム公子、前にもお会いしました、あたしはセリカといいます。隣の国からやってきた、あなたのお姉さんになる予定の姫です。この命に誓って、あなたに悪いことなんて、しません。考えません」 幼児はむくりと起き上がった。 「おそとはこわいところです?」 あぐらをかき、先ほどの言葉を繰り返すも、今度は疑問符がくっついていた。 「世界は怖いけど、怖いだけじゃないわ。あなたにひどいことをしようって思う人がいるのと同じくらい、あなたを守りたい人がいるはずよ」 ――我ながら、安易な気休めだと思う。けれど子供に届くのはきっと、冷たい現実よりも心のこもったきれいごとの方だ。そう信じたかった。 両の手の平を上向きに差し出し、敵意が無いことを表す。アダレムは、穴が開きそうなほどにセリカの手を見つめた。 幼い彼の中にどのような葛藤があるのかは見当もつかない。つかないが、熱心に説得を続ける。 「外は楽しいこともいっぱいあるわ。かわいい動物も、きれいな花も、あと……」 「おおきなおそらと、そらとぶとりさん、います?」 いつしか少年は前のめりになっていた。 「そう! そうよ、広い空を飛ぶ鳥がいるわ。もふもふのリスさんもいるわ」 「じゃあ、おそといきたいです。つれてってください、おひめのおねえさま」 「もちろん!」 光の戻った目で、アダレムが立ち上がる。セリカはそんな彼に笑いかけながら、これから縄を結びつけることと、外で待っている宰相の味方がひっぱりあげてくれる旨を説明した。小さな公子は何度も頷いた。 よかった、なんとかなりそうだ、そう思って縄に手を付ける―― ふらりと空気が動いた気がした。 覚束ない足取りで、人影が近づいてくる。この大きさは、アダレムの時と違う、大人のそれだ。 (他に誰かがいた……!? しまった、この人は!) ほっそりとした白い腕が伸びる。 「いかせません」 女性の、震える声がした。 |
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