十 - g.
2017 / 10 / 25 ( Wed )
 男からは水の匂いがした。
 それを意識した途端に天気が崩れ、轟音が炸裂した。けたたましい降雨が塔の屋根や壁を叩き、内側にまで響いた。

「会いたかったよ。麗しの姫殿下」
 撫でるような声が、セリカの頭頂部から耳の後ろへと這う。気色悪さから逃れたくて、反射的に顔を背ける。
 濡れて濃くなっているのか。男の衣服と髪に焚き込まれた香に、噎せ返りそうになる。

「いやあ、美しい。かわいそうな弟を守るようにして排除したいハティルと、己の立場から逃げない末の公子か。ここはアダレムの勝ちかもしれないね」男はひとりでに話し出した。「閉じ込めたら自滅してくれないかなと思ってたんだけど、そう簡単には行かないものだね」
 がっかりしているようなその発言を耳にして、セリカは激しい嫌悪を覚えた。熱い息を壁に吐き付ける。

「……さんざんかき回してくれたわね、悪党が」
「へえ、私が何をしたって? エランもアダレムもハティルもウドゥアルも、みんなピンピンしてるじゃないか」
 長兄ベネフォーリ公子の名が含まれなかったところに、この男の腹の底が窺えた気がした――が、今はどうでもいい。

「未遂で終わったからって、みんな結果的に無事だったからって、あんたが悪事を企んだ事実は動かないわよ。肉親を閉じ込めたんでしょ、毒を盛ったんでしょ!?」
 言葉にするとますます腹が立つ。そうだ、この男のせいでエランは死にかけたのだ。

「じゃあ君が裁いてくれるの」
「ふざけるのも大概にしなさい。何が『じゃあ』よ、あんたに選択の自由が許されると――」
「公都にエランの味方が少ないのが、何故かわかるかい」
 全く予期せず、男が新たな話題で切り込んできた。思わずセリカは言葉に詰まった。

「大公に推すのが難しいからだよ」
「母親が異国の人間だから……?」
「それもあるけど。それだけであそこまで肩身の狭い思いはしない」
 今までになく真剣な口ぶりに、我知らずにセリカは聞き入る。次の言葉を黙って待った。

「布の下はもう見たかい。あの傷はね、第三公妃がやったんだ。乱心して我が子を切ったんだよ」
「……!」
 セリカの動揺から、男は何かを察したように喉を鳴らして笑った。嫌らしいほどに顔のすぐ近くから聴こえてきた。
 身じろぎしたが逃れられそうにない。手首を掴む手が、肩を壁に押し付ける力が、強すぎる。

「詳しい経緯は省くとして……そんなことよりもね、狂気は受け継がれるって思われてる。みんなエランを持て余してしまうんだよ。いつか母親と同じように壊れるんじゃないかって、どうしてもその不安がチラつくんだ。そりゃあ隠すしかないね? あの傷痕は、否応なしに当時を――あの事件を思い出させるから」
「アストファン・ザハイル……」
 こらえ切れない怒りが声を掠らせる。四肢をがくがくと震えさせる。

「何かな、姫殿下」
「とことんまで、ムカつく奴ね」
 能天気な返事があった。
「私が? 何故?」

「今の話が全部本当だったとしても、あたしは本人の口から聞きたかった! それをあんたみたいな、人の気持ちを何とも思ってないような奴なんかに!」
 気が付けばセリカは、肘を後ろ回しに突き出していた。骨に当たった手応えはあった。
 男の漏らした呻き声に「いい気味だ」と思う。だがこんなものでは全然足りない。振り返り、唾を吐きつける。

「人の傷を、ヘラヘラ笑って語ってんじゃないわよ! あんたってほんと、クズね!」
 アストファンは頬についた唾液を拭き取ろうともせず、ただ怪しげに口角をつり上げた。
「クズで結構。生憎と私は、気の強い娘が格別に好きだよ。いつまでそんなことを言っていられるか見ものだ」
「つっ――!」

 視界が転じた。
 鎖骨や顎が硬いものに擦れて、じんじんと痺れる。皮膚に当たる感触は壁のそれに比べるといくらか滑らかに思えたが、その分、砂粒のような汚れがあるような――

 ――目を開けなくても、床に押し倒されたのだと理解できた。

「放せ外道!」
 屈辱に視界が滲んだ。

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