十 - a.
2017 / 09 / 16 ( Sat ) 遥か頭上の狭い窓枠に鳩が停まった。 指を差した途端に飛び立ってしまったが、その姿が見えなくなって数秒経っても、目はこげ茶と灰色の羽の美しさを忘れられずにいた。「ははうえ、みましたか! ハトさんがとてもきれいでしたよ」 少年は部屋の隅に蹲る母の元へ明るく話しかける。 「……アダレム。窓の下から離れるのです」 応じた声は暗く厳しく、空虚な部屋の中をこだました。触れられたわけでもないのに、アダレムは叩かれたみたいに身を強張らせた。 ごめんなさい、だって、と口ごもる。そんな彼に、彼女は繊手を伸ばして手招きする。幾度となくそうしてきたように、子は母の腕の中に飛び込んだ。 「世界は恐ろしいのです。お前にとってはよくないことばかりなのですよ」 「でもここはなにもないし、ぼくはおてんとさまにあいたい……」 もう何日も外に出ていなくて、退屈だった。窓に停まる鳩くらい、心ゆくまで眺めたい。 それにこの部屋は空気が良くないようだ。 部屋の角からもくもくと立ち上がる白い煙が、しつこく視界を滲ませる。香炉からの慣れない香りに鼻がツンとする。 空気の質と関係があるのかはわからないが、一晩通して眠るのが難しく、何度も目を覚ましてしまう。妙に弱気になってしまうのはそのせいだろうか。 「いけません。お前にはまだわからないだけで、外には混沌しかないのです」 「こんとん……」 いきなり両頬を冷たい手で包まれた。覗き込む女の顔は、恐ろしい。アダレムは生まれて初めて母に近付いて欲しくないと感じた。 「はな、して! ください!」 混乱した。母は、こんなことを言う人ではなかった。なかった、はずだ。 「アダレムよ、可愛い我が子よ。陛下に最も良く似た子。人の群れに触れてはなりません。お前まで陛下のように病に落ちてしまってはいけません。ここにいなさい。ここなら、ハティルが守ってくださいます」 すぐ上の兄の名を出されて、アダレムはぎくりとなった。 ハティル公子に好かれていないのは子供心ながらによくわかる。しかしアダレムの方はなんとかして兄に好かれたいので、近寄るのを諦められない。そのせいで余計に鬱陶しがられているのもわかっている。 鬱陶しそうにしていても、なんだかんだ言って相手にはしてくれた。 そして時折ハティルが向けてくる眼差しは、とても悲しそうだった。それが気になって気になって、やはり近寄るのをやめられない。 ――向けられた感情が「憐憫」であることを、幼児はまだ理解できない。 「ひとのむれって、なに」 「おぞましいものです。穢れてしまいます。ああ、おぞましい」 「……」 うわ言のように繰り返す母の拘束から、アダレムは身をよじって何とか逃れる。四つん這いになって、窓から床に形を成す光を求める。 日差しが暖かい。それでも、涙はすぐには乾かなかった。 人は生まれ育った区域を飛び出て初めて、世界の広さを知ることができる。 では狭かった世界が更に狭まった時、人の心はどう歪むのか。 少年は、言葉もなく悠久の空を見上げ続けた。 _______ 嫌な空気だ、とエランディーク・ユオンは真っ先に感じた。 いつものように自身が煙たがられるのとはわけが違う――宮殿の庭や内なる通路を歩く面々からは、別種の緊張が感じ取れる。 それこそ、裏山に面する門から現れた珍妙な一行を誰も疑問に思わない程度には、意識が他に向いているらしい。 とりあえずエランは近くの会話に耳をそばだてる。 知らぬ間に足を止めてしまったのか、背後の騎士たちから「公子?」と不審がる声がした。何でもない、とエランは無難な笑みを浮かべて再び歩き出す。 (大公がいよいよ「危篤」――) ひそひそ話だったので部分的にしか拾えなかったが、どうやらそういうことらしい。 掌に滲む汗に気付かないふりをする。 いつしか右方に現れていた人影に、軽く会釈した。 「お帰りなさいませ」 そう迎えてくれたのは他でもない、ヌンディーク公国の宰相の座にある男だ。 瘦せ細った長身で背中はやや曲がっているため立ち姿に覇気を感じられないが、齢五十を超えても未だに褪せる兆しを見せない眼力と長く黒い顎鬚が、彼の印象を思慮深い賢者のものとする。 一度深く腰を折り曲げてから、宰相はよく通る声で言った。 お待たせしました。 とりあえず私は二度と宮廷ものを書かないぞと早くも固く誓っていますw |
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