4. f.
2026 / 01 / 22 ( Thu )
「悪い、起こしたか」
 肩にタオルをかけたリクターが、黒いボクサーブリーフのみをまとって現れた。
「それはいいよ……服着て、お願い。冷えるよ」

 目を逸らして苦し紛れの文句を言う。本当は冷えるのを心配しているよりも、男のパンツ一丁姿に動揺している。彼が自宅でいつもシャワー上がりにその格好なら、居候のシェリーが苦言を呈することこそ不当かもしれないが。
 おう、と文句を言われた方は特に反論せずに自室に引っ込んだ。そしてスウェット姿になって再び現れる。

「具合はもういいの?」
「ちょっとはマシになった。喉とか頭が痛いけど」
 まだ濡れている髪を、タオルでガシガシと拭っている。言われてみれば、話し声がいつもより枯れている感じがする。
「あ、そういえばサンドイッチとお薬ありがとう」

「食えたか」
「うん。大丈夫だったよ」
「そりゃよかった」
 言いながらも、男は屈んでコーヒーテーブルに未だに置いてあった錠剤の瓶の蓋をポンと開けた。どこでも買える一般的な抗炎症薬で、二日酔いの症状にも効く。リクターは素早く薬を飲み込んで、どこからか出したビーフジャーキーをかじり始めた。
 髪は依然として濡れたままで。シェリーはふと提案した。

「髪の毛乾かすの手伝おうか」
「じゃあ頼むわ。ヘアドライヤー、先週ぶっ壊れたばっかで買い換えてないんだよな」
 リクターがソファに腰を下ろしたので、背後に回ってシェリーは手を伸ばした。タオル越しに伝わる感触は、濡れているけれど温かい。
 数分ほど、静かにそうやって過ごした。ジャーキーが咀嚼される音と冷蔵庫の音、そして時々古びた暖房の音が共にあった。
 やがて彼がボソッと言った。

「さっき髪結ってもらったの、助かった」
「どういたしまして」
「狭い場所じゃもらいゲロするかもしれないのによくやるな」
「えー? あの時はそんなこと考えてなかったな」
 確かに吐しゃ物を見たり嗅いだりしたらこちらも吐き気を誘発される恐れはあったかもしれない。今になって、そのことに気付く。

「おまえは自分で思ってるより、肝が据わってるよ」
「そうかな」これは褒められたと受け取っていいのだろうか。照れくさいので、シェリーは話題を変えた。「そういえば家賃と水道電気代を払おうと思うのだけど」
「まじめな奴だな。そういうのは一週間過ぎてから気にしろよ」
「い、一週間以上もいていいの」

「気が済むまでっつったろ。オレがいいんだからいいんだよ」
「……ありがとう」
 消え入るような声で応じた。
 いつまでも甘えていられない――来週には仕事に戻ると上司には伝えた――と思っていた決心が、揺らぐ。元の生活を取り戻さねばならないという義務感と、現実逃避をまだ続けたいという願望が、相反して同時に存在している。
 どこかでけじめをつけねばなるまい。判断を、なおも先送りにする。

「だいたい乾いたかな」
 右手にタオルを握り、シェリーは手を引こうとする。
 左手の指を掴まれた。
 急にどうしたの、とは口に出せなかった。
「昨夜は…………悪かったな」

「昨夜?」
 いつになく歯切れの悪い言い方である。
「傷心中の、隙に付け入ったみたいになって」
 この数日の時間感覚が歪んでいるのですぐには話が見えてこなかった。しかし此処であった出来事で、謝罪されるような要因となると、心当たりはひとつしかなかった。

「あれは合意の上でだから、あなたが謝ることないよ」
「売り言葉に買い言葉じゃなくてか」

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