4. g.
2026 / 01 / 23 ( Fri )
「違うよ」
 返答を噛み締めているような神妙そうな間があった。その間、掴まれた指先が弄ばれているので、なんともいえない気分になる。
「そうだとしても、オレは無闇におまえを傷つけたいわけじゃ、ない」
 ぎゅっと手を握られた。
 それに対して、全身がざわついた。

(どうして後になって……私が痛がってたから……?)
 鋭い彼のことだ、こちらが初めてだったのも察して、気を遣っているのかもしれない。
 背後からはもちろん男の表情は見えない。感情を抑えているような静かな物言いに、シェリーもまた静かに伝えた。
「わかってるよ」
 手を握り返した。

 ああいうことがあった後でも、触れることに抵抗を感じなかった。未知の行為への恐れは終始あっても、この人は怖くなかった。
 ――わかっている。言動と行動の奥からにじみ出る思いやりを、しみじみ感じている。あなたが負い目を感じる理由なんて、どこにもない。
 あの、とシェリーは別の話を切り出した。

「お名前、アレクスって言うの」
 繋がれていた手がぴくりとみじろぎした。
「…………郵便物にはラストネームしか載ってないはず」
「タクシーに乗ってた女の人が呼んでたから」
「あんのクソ女」

「今も自分の名前が嫌いなの?」
「嫌いだよ」
「どうして? いい名前だと思うよ」
「ありふれててつまんねえからだよ。アレクス・リクターなんてこの町だけでもあと三人くらいは居そうだろ。もっと独創性のある名前に変えようって思っても、手続きがややこしいし」

「それを言ったらシェリー・ハリスだってあと三人は居そうだよ。人口が多いんだからしょうがないよ」
 そりゃそうだ、と欠伸まじりにリクターが相槌を打った。
(うーん。同姓同名が何人居たって、私が会いたいアレクス・リクターはあなただけなのに)
 恥ずかしいので、そうとは言い出せず、シェリーは手を放した。意味もなくタオルを折り畳んでみたりする。

「明日お休みになったって話も聞こえたけど」
「あー、なんか昼頃に嵐で大雪が来るらしいぞ。念のため会社閉めるってさ」
「え、そうなの」天気予報をチェックする習慣があったはずなのに、ここ数日が普通と違ったせいですっかり忘れていた。「それは困る」

「何でだよ。出かけるつもりだったのか」
「大した予定じゃ……でもスーパーくらい行かないと、食べる物が無いよ。雪で数日閉じこめられる場合は大問題だよ。朝の内に行けないかな」
「なるほど。なら、朝一に行くか」

「うん。そうしよう」
 話がまとまったところで、シェリーは歯を磨いて服を着替えようと、踵を返した。一歩踏み出したところで声がかかった。
「寝なおすなら、おまえがマスターベッドルーム使え」
 リクターは片方の肘をソファの上にのせた姿勢で振り返っていた。

「え? 悪いよ」
「さっき床で居眠りしたんだろ、下手すりゃ腰痛めるぞ。今日はちゃんとしたところで寝ろ」
 暗さにより今は深い青色をした瞳にじっと見上げられ、これまたドキッとした。
 ――ほらやっぱり、気が回る……。
 有無を言わせぬ家主の圧力に、折れるしかなかった。

「えっと……じゃあ、ベッド借りる……よ」
 顔が赤くなった気がして、急ぎ足で立ち去る。おう、と背後から返事があった。
 廊下に入る直前でシェリーは立ち止まって、ひとつ勇気を出した。
 目を合わせない程度にソファの方を見やる。

「お休み、アレクス」
 怒られるのを覚悟で呼んでみたが、ひと言が返ってきただけだった。
「…………お休み」

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