44.a.
2015 / 06 / 02 ( Tue ) 手首に繋がる縄が緩くなったと感じた時、ゲズゥ・スディル・クレインカティの中で危機感が弾けた。 縄の先に連なる人物が動きを止めたのだ――沼に潜って以来、ずっと勝手知ったる様子で先導していたというのに。確認せんと回り込む。標(しるべ)は互いを結び合わせる縄だ。何せ、三フィート以上先は何も見えないのである。リーデンが入手した水めがねのおかげで水中でも視力はほぼ保たれているものの、藻や泥などの遮蔽物まではどうにもならない。 とにかくゲズゥは小柄な少女の肩を掴んで引き寄せ、その様相に注目した。 異変があったのは明らかだ。ガラスの向こうの茶色い瞳は近くの物に焦点を合わせていない。これは何かを見ている目ではなく、脳の中で記録などの映像を「視ている」目だ。 ゲズゥは五秒数えようと決め、観察を続けた。 だが四まで数えた時点で己の中の危機感が頂点に達した。思考を中断して沼底を全力で蹴る。 聖女ミスリア・ノイラートは、呼吸をしていなかった。周囲からは気泡が上っていないし、胸や腹部などの呼吸をする為の筋肉が停止しているのが見て取れる。 こうなる可能性は最初から見通していた。これは聖地に面する際のミスリアの恒例の反応とも言えるからだ。場所が水中でなければ放って置いたかもしれない。そもそも聖地によっては、最初の岩壁の教会みたく、ゲズゥのような穢れた人間を近付けさせないわけだが。 幸いこの沼にそんな制限はなく、むしろ毎日管理する者さえ居ない。したがって、ミスリアの潜水に付き合うことができた。 あと少しで水面に届くところで。少女が急に身じろぎしだして―― ――抗った。 変わらずにどこを見ているのかはっきりしない眼差しで、ミスリアは水面とは反対方向に泳ぎ出す。 縄がゲズゥの手首に食い込んだ。切迫感と小さな体躯に似合わぬ異常な力が伝わってくる。 何がしたいのか、ミスリアは水草に覆われた底を両手の指で漁った。確信を持った動きだ。 そう長くは息がもたないだろうに、この必死さは一体――。 水めがねが囲う視界の端で石が淡い輝きを放つのが見えた。 人間の眼球と同じくらいの大きさの石が、少女の白い両手の中に納まる。大切な宝物を優しく包むような手つきだ。 胸騒ぎがした。 あの石を見ていると、落ち着かない気分になる。何故か左眼からは疼痛が沸き起こっている。 反射的に瞬いた。 すると瞼の裏に身分の高そうな男の姿が浮かんだ。長身痩躯で、真っ直ぐな長髪を一つにまとめている。今からさも重要な用事に向かわねばならんとでも言いたげな、上向きな顎。見下ろすような視線。それがいつしか疑心暗鬼と恐怖の色に塗り替えられていく。 そこでようやく記憶から呼び起こせた。長い間、夢の中ですら振り返ることのなかった事件。たとえ振り返りたいと思ったとしても、鮮明に脳裏に残っていたのはこの男の死に顔だけ。そう、邂逅して間もなくこの男を殺したのは、紛れもなく自分だった。 しかし何故にこんな時に思い出す? ――ごぼっ。 夢から覚めたように、ミスリアが苦しそうに身悶えした。ゲズゥも我に返り、今度こそ息継ぎの為に水面に戻った。 |
43.h.
2015 / 05 / 28 ( Thu ) 「暖かくなりましたね。聖地のためとはいえ、随分居座ってしまいました」
「そんな風に言わないでよ、寂しいわ。春になって沼を調べたら、次に行っちゃうんでしょ?」 「知るべきことを知ることができれば、発ちます」 「そっか」 落胆の濃い返答が返る。 そこで、ミスリアは青空を見上げて己の旅路に想いを馳せた。 警戒態勢が解かれた東の城壁の塔を訪れても、めざましい手がかりは得られなかった。聖地としてあの塔に満ちた聖獣の残滓と同調はできても、過去の映像や空を飛んでいるという恐ろしく鮮明なビジョンを視ただけで、次に行くべき場所まではわからなかったのである。頼みの綱は沼地だけだ。 「話変わるけど、今日は小間物屋を見て回ろうと思ってたの。一緒に行かない?」 「小間物――……あ!」 ティナの提案を聞いた途端、買い損ねたショールを思い出してミスリアは無意識に膝を叩いた。その旨を伝えると、ティナは起き上がって「戻ろう! 今すぐ!」と目を輝かせた。 「い、いいですよ。どの道にあったのか正直憶えてませんし」 「そんな、頑張って探しましょうよ。素敵な一点物との、またとない出会いだったかもしれないでしょ」 「でも――」 本当にあれが欲しかったのか、商人に言いくるめられていただけなのかもわからないのに。なんとなくゲズゥの方に目を動かしたら、絶妙なタイミングで彼の背後にパッと誰かが現れた。 「やあ、聖女さん。今日も可愛いね。春の日差しを待つまでもなく、君の傍はぬくぬくと気持ちよさそうだ」 もはやクセなのか、絶世の美青年は優雅に片膝をついてミスリアの手の甲に唇を付けた。 「リーデンさん。こんにちは」 人間は何でも慣れられるものらしい。彼と共に過ごしてきた数か月の内に、この挨拶には大分驚かなくなっていた。とはいえ肌に触れる温もりばかりには、気を抜けばすぐに頬の紅潮を許してしまいそうだけれど。 「よっくもまあそんな歯の浮くよーな台詞を」 傍観していたティナは苦虫を噛み潰したような顔をしている。 「この程度のことで浮くほど僕の歯茎はヤワじゃないよー。って、あれ? ティナちゃん、釈放されたんだ。おかえり~。髪伸ばした方がもっと美人さんだね」 「褒めたって何も出ないわよっ!」 叫び声と一緒にサンダルやら石やらが宙を飛んだ。何も出ないというより、正確には「手が」出るらしい。リーデンはころころ笑いながら兄を盾にして避けている。 とばっちりを食らってゲズゥには色々な小物が当たっていた。 (避ける気ないのかな) と思ったら、青年は緩慢と欠伸をした。眠いからか、または面倒だからか動きたくないようである。 「そうそう、聖女さん」 いつの間にか傍に近寄り、リーデンは覗き込むようにして話しかけてきた。銀色の髪がサラサラと風に揺らされている。 「はい、何でしょう」 この美貌を至近距離で眺めるのにはいつまでも慣れそうにない、などと思いながら訊き返した。 「君に頼まれてたヤツ。結構苦労したけど、もうすぐできあがるよ」 勝ち誇ったように彼は右目だけを瞬かせた。 「えっ、本当ですか。ありがとうございます!」 仕草に見惚れたのは一瞬のことで、次には嬉しさのあまり、破顔しながらお辞儀をした。 「何のこと?」 横合いからきょとんとしたティナが問う。 「水めがね。沼ときたら、裸眼で潜るわけには行かないからね。内陸だから帝都ではあんまり流通してなくて、人づてに特注するしかなかったんだよ」 「ああ、なるほど。これで準備万端、後は暖まるのを待てばいいわけね。ねえミスリアちゃん、待ってる間って暇?」 「おそらくは……聖女としてのお勤めも体力の限界がありますし、毎日用事があるわけではないですね」 「じゃあよかったら一杯遊んでね。子守りは、なるべく頼まないようにするけど。春の行事なら苺の収穫祭とかあるのよ」 「収穫祭! 楽しそうですね、是非行きたいです。子守りは私はあまり上手にできないと思いますけど……できるだけ手伝います」 「その気持ちだけでも十分よ。意外とそっちのデカブツたちは、楽々と子供たちの遊び相手になれるみたいだしね。体力が有り余ってるからかしら」 リーデンらを瞥見し、呆れたように彼女は肩を竦めた。 それに対しミスリアは「さあ……」と最初は苦笑いしたものの、二人が子供に囲まれて遊んでいる図を思い出して段々とおかしくなり、気が付けば声に出して笑っていた。 お喋りを主体とした買い物の時間に続き――それからこの日は、朗らかな笑い声の絶えない午後となった。 43あとがき。 この作品にはまともな貴族が登場しませんが、ミスリアの前に登場してないだけで他の場所にはいるのだと脳内補完しててください(笑 後始末回だったので派手な動きは無いですが、こういうのも必要ってことで。 なんと言っても43の見どころは串を噛み切るげっさんですかね。それと、はい、ティナちゃんは兄弟の遠い遠い親戚みたいなもんです。 なんか色々他にも言いたいことがあった気がしますが、忘れたので仕方なし。次回思い出せたら書きますw いつもご愛読ありがとうございます。 44でお会いしませう! |
43.g.
2015 / 05 / 28 ( Thu ) 小さな個体ともなると、被害者が教会に浄化して欲しいと直々に申請しない限りは放置される。 「わかりにくい人だったけど、大好きだったわ。たった一人の肉親なんて、好きになるしかないじゃない」 「はい。お母さまも、ティナさんが大好きだったと思います」 彼女は一体どこまでわかっているのだろうか。気になりながらも、訊かないことにした。 「その後、五人と居ない葬儀で出会った神父さまは、あたしを教会に泊めてくれた。暖かい食事と新しい服をくれた。ずっとここに暮せばいいよって言ってくれた……その優しさには心底感謝してるわ。感謝していても、受け取ることはできなかった」 それから、逃げ出して何度目かに行き倒れていた時。 偶然ティナは斬られそうになっている少年を見かけて、身体にまた力が入ったと言う。理不尽な世界への憤怒で――。 救い出した少年はどこかおかしかった。妙に落ち着いた雰囲気に、相対するこちらの方が心休まらないような。 ――ねーちゃん、なんでそんなにしにそーなの。 ――あんたを助ける為に無い体力使っちゃったからよ。ありがとうって言ってよ。そっちこそ、なに大人しく殺されそうになってるのよ? ――だっておれ「いらないこ」だから。うまれてきたのがまちがいだってさ。たすけてくれなくてもよかったよ。 ――ひどい言われようね。そんなこと言う大人なんて蹴飛ばせばいいのよ。好きで生まれたんじゃないんだ、つってね。もう遅いんだもの、生まれちゃったからには好きに生きればいいんだわ。あたしだって……こんなんでも、好きに生きたいけど、お腹が空いて、もう、無理かな……。 ――ふーん。じゃあおれがなんかとってきてやるよ。そしたらあんたにとって、「いるこ」になる? ――は? とってくるってどういう――ちょっと待っ……話、聞きなさいよ! 数分としない内に、少年は宣言通りにどこかから食べ物を物色してきた。後になって気付いたことだが、彼は機転の良さや小賢しさに恵まれていたのである。 「デイゼルは図太かったわ。あたしはあの子を助けたんじゃないの、あの子があたしを助けてくれたのよ」 「さすがですね」小さく感想を漏らした。とてもじゃないがミスリアには真似できそうにない。身一つで路頭に立たされたら、どうしようか戸惑っている内に餓死しそうだ。 「あたしや他の子供たちにとって、『いらない子』じゃなかったわ」 ミスリアは深く頷いた。経緯はどうあれ――デイゼルは、そしてティナは、得難い家族に出逢えたのである。 「どうしてるんだろ? まだ教団本部には着いてないかしら。心細くはないかしら。最後に会った時は笑ってたけど……あの子はね、周りが不安がるからって絶対弱みを見せないの。一人の時は泣いてるかも」 「どうでしょう。私だったら、泣きそうです」 「あたしだってそうよ。あいつ、本当は王子としてもうまくやれたんじゃないかしら。まあ、王位継承権の所有者が一人増えなくたって王宮は今でも十分にドロドロしてるんでしょうけど」 「産みの母親の伴侶がああいう性格で、ある意味では良かったのかもしれませんね。彼はデイゼルさんを排除することばかり考えて、王子の後見人としてのし上がろうとは企まなかったんですから」 帝王に妻や人生を滅茶苦茶にされた怨みを抑えて、デイゼリヒ王子を傀儡にして帝位につかせることだってできたはずだ。が、当のデイゼルはそうなればもうどう足掻いても穏やかな日々を過ごせない。まだ隔絶されていた方が幸せと言えよう。 「直情的な人だったのね。きっと」 ふ、と彼女は小さく笑う。 「もうじき春かー。くっらい話はもうこの辺にしましょうか」 ティナは階段からずれて、近くの芝生にごろんと横になった。 |
43.f.
2015 / 05 / 23 ( Sat ) 「同系統って、じゃあティナさんとゲズゥやリーデンさんは、先祖で繋がっているんですか」
「多分ね」 ティナの肯定に、ゲズゥは「道理で」と呟いた。 「母はこの名を誇ったけど、あたしは大嫌い」 そう言って彼女は階段のある場所までゆっくり歩いて、座り込んだ。その後に続くも、今の彼女の傍に座っていいものかミスリアは躊躇した。 「ミスリアちゃん、引かないで聞いてくれる? ずっと誰かに話したかったの」 「勿論構いませんけれど……」 数フィート離れた場所に立つゲズゥを一瞥した。彼は耳が良いので、この距離でも話の内容は漏れるはずだ。 「そいつに聞かれるくらい良いわ。同じ穴のムジナっぽいしね」 「そ、そうですか」 「ミスリアちゃんも、こっち座っていいよ」 彼女は自分の隣をぽんと叩いた。その言葉に甘え、スカートの裾を持ち上げて腰を落ち着ける。 そうしてティナは静かに語り出した――母や、己の生い立ちを。 母親は凄腕の傭兵で、元々はディーナジャーヤ帝国の各地での賊討伐や反乱分子の鎮静などによく駆り出されていたという。彼女は常に戦闘種族であることを大っぴらにし、好戦的な性分であった。戦闘種族は凶暴で危険だから排すべきだ、と帝国で囁かれるようになったのも彼女が原因であろう。 そんな彼女もやがて娘を一人で産んで育てることになる。ティナの父親となる人物とはどこでどのように会ったのか、そしてどうして別れたのか、母がついぞ語ってくれたことは無かった。 傭兵としての生活の中で娘を引きずり回し、それでも二人で何年もなんとかやっていけていた。 ある日、母は戦場で負傷した。片腕と片足を失う大怪我だった。 義足義手では普通に生活はできても以前のようには動けず、兵士として生きることは断念せざるをえなかった。瞬発力が売りであるクレインカティ一族としては、動こうとするだけでも深い屈辱を味わっていたらしい。 遠く新境地へ越して生きる術もあっただろうに、何故か母はそれを選ばず、帝国に残ることを望んだ。ところが顔も噂も知れ渡っており、どんなに頑張ってもまともな職には就けなかった。ゆえに彼女は娼婦となった――。 「義足義手だし、美人だし、イロモノ好きの旦那様方が多いこの国ではお金の入りだけは困らなかったのよね。でも結局それが仇となって、母さんは性病を患って死んだわ」 「そんな…………」 「変にプライドの高い人でね。医者か教会に行けば助けてくれるかもしれないよってあたしは言ったんだけど、絶対動いてはくれなかった。あたしがやっと医者を見つけて連れてきた頃には手遅れだった」 ティナの顔には自嘲に近い薄ら笑いが浮かんでいる。しかしミスリアは考え込んで答えなかった。 慰問に訪れていた聖人や聖女は近くに居なかったのだろうか。 (医者にも行かない人なら、ダメかな。奇跡の力を胡散臭いと言って信じない人はたくさんいるし) 娘の為を思えばなんとしても生きようともがくはずなのに――ティナの母親は人生に諦めてしまっていたのかもしれない。あれだけ苛烈な人生であれば、無理もない。 或いは自分が居ない方が娘の未来が輝くのではないかと、そう考えたのだろうか。 「後になって振り返ると、母さんは過度に血統に依存してたんだなって思うわ。理由はやっぱりわからない。あんまり自分の気持ちとか考えとかを口に出す人じゃなかったから。でもあたしは絶対に隠し通す。幸い、顔が知れていたのは母さんだけだった。アストラスの名も、似た語感に替えて名乗ってる」 ティナは階段に両手を立てて、後ろに伸びをした。 ――彼女が纏っていた無害そうな魔物の群れは、近しい人間の残留思念じゃないかな。 ふいに、カイルの言葉を思い出す。 帝都の中は毎日のように魔物討伐や浄化が行われている。負の感情がある内は完全なる「無」に達することはないにしろ、全体的に瘴気が薄いはずだ。魔物狩り師たちに討伐されきらない魔物も、存在はできても育つことはできない。 |
43.e.
2015 / 05 / 22 ( Fri ) 隣を歩く女性に視線を移し変えた。彼女は桃色のチュニックに麻ズボンと、いつものように動きやすそうな格好をしている。 あの強烈な蹴りを繰り出す脚を、焦げ茶色の革の長靴を、ミスリアはじっと眺めた。布越しに薄っすらと窺える太ももの筋肉の盛り上がり以外に、この脚の真の破壊力をにおわせる特徴は見られない。「初めて会った時も思いましたけど、ティナさんってすごい身体能力ですよね」 感心して言うとティナは「あら」と上機嫌に応じた。 「これでも物心つく前から鍛えてたのよ。母親は傭兵だったから、毎日のように訓練に付き合わされたわ」 「お母様の影響だったんですか」 その母親とは何年も前に死別したのだと思い出し、ミスリアは気まずい想いで表情を曇らせた。当事者のティナは一度寂しそうに笑って、次の瞬間には明るく大声を出していた。 「それは良いとして、ちょっと暴れすぎたかな……明日筋肉痛になったら面倒ね。でもやっと外に出られたんだから、じっとしてるよりはマシだわ」 「あ! そういえばお久しぶりです」 攫われかけた衝撃の方が大きくて失念していた。実際のところ、ティナとは二ヶ月近く会っていない。会いたくても会えない場所に彼女は居た。 「おつとめ終わってたんですね。またお会いできてよかった」 閣僚をつけ狙った事件の後始末の一端として、ティナは短期懲役を言い渡されたのだった。屋敷を何度も襲う内に大怪我をした衛兵も居たため、どうやっても処罰なしでは済まなかったのである。 「出た後も当分は強制労働を義務付けられてるわ。無償で働かせられるのはキツいけど、このくらいで済んだのは幸運だったと思ってる。聖人さんや司教さまのおかげね」 「はい」 ミスリアは深く頷いた。約束通りカイルたちは大臣や役人相手に奮闘してくれたので、ティナにとっての好感度も上がったようだ。それがまるで自分のことのように嬉しい。 特に目的地もなく歩いていたら、気が付けば一同は街道を外れて見晴らしの良い一角に出ていた。帝都ルフナマーリの城下町がよく見渡せる。あれだけの数の人々が忙しなく生活するのを少し立ち止まって眺めているこのひとときに、何故だか特別な気分になれる。 自分たちの居る位置の思いがけない静けさと目線の先の騒々しさとの落差を味わい、浸った。 「『施設』はひどい場所だったわ」 ふとティナが俯き加減に呟いた。伸びてしまった髪を、右手で梳いて左肩に流しまとめる。 ミスリアはハッとなった。無意識からの仕草だったのか意識的に見せてくれたのかはわからないが、チュニックの襟下の小麦色の柔肌に青黒いアザが幾つも浮かんでいた。一体何の痕なのだろうか、訊くのが怖い。 「それでも母さんが死んだばかりの頃とは比べられないくらい気が楽だった。だって、耐え抜く意味があるのだもの。出てきたらまた子供たちと暮らすんだって、あの子たちの成長を見守るんだって強く想っていたら何だって平気だった。待ってる人がいるだけで何もかも違ってくるのね」 かける言葉に窮し、ミスリアは視線ばかりを彷徨わせた。するとゲズゥの闇のように深い黒目がじっとティナを捉えているのが見えた。 「母さんが居なくなって司教さま――あの頃は神父さまか――の元から逃げ出した後、のたれ死ぬのも悔しくてさ。否が応にも生きようとしたわ。でもあたしね、すぐにやる気がなくなっちゃって。食べ物を探すのも盗むのも満足にできなくて。良心が空腹に勝ったのかな。生きる力そのものが足りなかったのかな。よく倒れてたわ」 「……どうして神父さまから逃げたんですか?」 「怖かったの。神父さまは底なしに優しかったけど、あの優しさが怖かったというか――ううん、あの世界が怖かった。普通の人が生きる普通の生活に入っていけると思えなかったのよ。母さんは絶対に他人を信じるなと釘打ってたし、普通の人の世では私たちは生きていけないよって、ずっと言ってた」 「戦闘種族だからか」 いきなりゲズゥが会話に割り込んだ。 「そうね。本名はティナ・アストラス・クレインカティ。あなたたちとは同系統ね」 |
43.d.
2015 / 05 / 20 ( Wed ) 信じなければならなかった。助けを信じ続ける心の強さを持たなければ、自分は一年近くの間何も進歩していないことになる。 (きっと来てくれる。きっと)暗示のように何度も心の中で繰り返した。陰の中から伸びてくる無骨な手を見つめながらも、絶えず繰り返した。 「ちょっと、白昼堂々と何してんのよ。ホンット男ってクズばっかり!」 救いの光は背後から射した。 若い女性の声が響いたと同時に、旋風が巻き起こる。ミスリアを羽交い絞めにしていた腕からは力が抜け、傍まで迫っていた他の二人も突き飛ばされた。おかげで体勢を崩し、地に尻餅ついた。 「ふう。怪我は無い?」 聞き覚えのある優しい声。バッと顔を上げて相手の顔を確かめた途端に、全身に安堵の波が広がった。 「ティナさん! ありがとうございます。本当に、何とお礼を言えばいいか」 「礼には及ばないわ。ゲスい声が聴こえたから寄ってみただけ」 清々しい笑みを浮かべ、彼女は手を差し伸べてきた。有り難く手を取って立ち上がる。 「でもティナさんが来て下さらなかったらどうなっていたことか……」 もう一度想像しそうになって、ミスリアは己を抱き締めた。 「別に大丈夫だったんじゃないかしら」 緊張感の無い様子でティナが首を傾げる。その拍子で、いつの間にか肩まで伸びていたふわふわの金髪が揺れた。 どうしてそんなことが言えるの――疑問に思ったのも束の間、一度は蹴り倒された人攫いらしき男性たちが起き上がる姿が目の端に入った。 「テ、メェ。よくも」 真っ先に起き上がった一人の男が懐からナイフを取り出して、ティナの背中めがけて振り上げている。 「危ない!」 ミスリアの警告の声に彼女は動じない。せいぜい煩そうに振り返る程度だ。 ナイフが空気以外の何かを切ることは無かった。 大きな黒い塊が空から降ってきたからだ。ミスリアの視界の中でそれが人間、更に青年の姿として認識された時点で、既に彼は攻勢に出ていた。曲者の方は何が起きたのかわからずに踏みとどまる。そうしてできた隙に―― ゴゾッ、となんとも言えない音を立てて、青年は曲者の顔面を掴んで近くの壁にめり込ませた。元々緩くなっていたのか、衝撃を受けた箇所を中心に、レンガがポロポロと崩れ落ちる。 「ほらね。大丈夫だったでしょう?」 得意げに話している間にも、ティナは別の者に跳び蹴りを食らわせていた。 「は、はい」 ミスリアは呆然と見守るしかできない。気が付けば役人を呼んで一件落着し、路地裏から普通の街道に戻っていた。 「ありがとうございます」 落ち着けたところで、ゲズゥに軽く頭を下げてお礼を言った。信じていた通りに助けに来てくれた護衛に。 「あつい」 彼は一言だけ答えて上着を脱いだ。 (ゲズゥにとっては全然大したことしたをつもりは無いんだろうけど……私は、また助けられた) 複雑な想いが絡まる中、ミスリアは苦笑した。 「よくここがわかりましたね」 「……向かい側の建物の屋上から人混みを探っていた。お前が立ち止まったのが見えて、追った」 「そうだったんですね……やはり上に居ましたか」 不思議な気分である。上に居るかなと思って立ち止まったために攫われそうになり、なのにそのおかげで助かったわけでもある。と言っても、助けに来てくれたのは彼だけではなかった。 |
43.c.
2015 / 05 / 14 ( Thu ) (女でなければなんだと思ってたんだろう)
いくら捻っても頭の中から答えが出てくることは無い。諦めてゲズゥの後ろについて行った。 建物の間からかかる日差しが心地良い。それどころか少し暑いくらいだった。毛糸のショールを脱いで左腕にかけたら、ちょうど横の露天商から声がかかってきた。 「お嬢さん、ショールならこっちの春仕様はいらないかね」 振り返ると、商人の中年女性がにこにこと自身の売り物が広げられたテーブルや洋服掛けのラックを指した。ラックに掛かるスカーフやショールはミスリアが冬の間にずっと愛用していた物よりも薄い生地を使っていて、模様や色使いが華やかである。 「綺麗ですね」 つい手を伸ばしてじっくり見つめてしまう。柔らかくて薄くて、かぎ針編みによる縁取りが実に丁寧だ。一体何の毛糸で編んでいるのだろうか。少なくとも羊毛ではないのはわかった。さすがは大帝国の首都、目新しい品物がそこら中に溢れている。 「まだ春にはちょいとばかし早いけど、今なら安くするよ~」 「春着に替えるにはまだ早いですね」 「この薄紅と紅色の花模様なんてどうだい。お嬢さんに合うと思うね」 女性はラックから一枚のショールを取ってミスリアの肩にかけた。そして近くの姿見を指差した。「ほら、言った通りさ。よく似合ってる」 「本当ですか?」 清潔で身だしなみがちゃんとしていれば十分。と、服装にあまり固執しないミスリアも段々と口車に乗せられて来たのか、鏡に映る自分にいつもと違う高揚を覚えた。栗色の髪と溶け合うように交わる薄紅。瞬く度に、己の茶色の瞳が花模様の紅色と呼び合っているように感じるのは何故だろう。 「うんうん。少女が女性に花開く年頃には、ちょうどいいじゃないか」 「え、そんな、花開くだなんて……」 頭に血が昇るのを感じた。きっと先程ゲズゥがよくわからないことを言ったから―― (そういえば) 急に彼の存在を意識し出して、ミスリアは周囲を見回した。しかしそれらしい人影は何処にも無い。 「ん? 誰かさがしてるのかい」 「はい、一緒に歩いてた人を」 「おや。お嬢さん連れが居たのかい? あたしが声かけた時は一人しか見なかったよ」 「……――すみません! ありがとうございました!」 後一歩で買いそうになっていた品物を手早く脱いで商人に返し、ミスリアはその場から離れた。背後から呼び止める声がするも、構わずに走る。 (嘘、何処ではぐれたの) 木陰のベンチから移動した時はまだ一緒だったのに。よりによって何故いつも人の多い場所でこうなるのか。 (ううん、人の多い場所だからこそ見失う可能性も上がる訳だけれど) ミスリアは立ち止まった。闇雲に捜しても仕方がない気がしてきたからだ。 なんとなく道なりに進んだは良いが、来た道を戻ったかもしれないし、よく考えたら「上」を捜した方が早いと思った。思い立ったからには首を仰がせた。街道に並ぶ店の屋根上、ベランダ、近くの木の枝などに視線を走らせる。 その間、イマリナ=タユスでの一件を思い出していた。あの時ゲズゥは自分を捜しに来るであろう少年にわざと見つかる為に、高い水道橋を登ったのだった。 「んっ」 突如、後ろから口周りを布か何かで押さえられた。物凄い力で後ろへ引っ張られ、日の当たらない路地裏へと引きずられる。 何が起きているのか頭では薄ぼんやりと理解していたが、実感は遅れてついて来た。人攫い? だとするなら、その目的は? 「ずいぶんと無防備じゃねぇか。なあ」 欲望に満ちた、ぞっとする声音だ。しかも頭にかかる息はやたら熱くて湿っていた。 「ほんとだぜ。都でぼけっとしてたら喰われっぞ? なまじ人が多いから、毎日一人二人消えてもだーれも気付いちゃくれねえ」 陰の中からも二人、汚れ切った風貌の男性が現れた。 「なあ、どうすんだよ」 彼らが北の共通語で何かを熱く論じ出したのが聴こえた。 また前の女みたいに何処かに閉じ込めて長く飼おう。いや、少し可愛がってから高く買ってくれそうな店に売ろう。いっそ、帝都は規則が多過ぎるから他国に奴隷として流そう。 全てのやり取りをまるで遠い世界の出来事のようにミスリアには感じられた。耳の奥で大波が流れるみたいな音がして話し声がうまく聴き取れない。 (ああ、そうか。この音は加速した心拍を反映してるんだ。頭の中を流れる血の音かな) 自分をどうするかの会話を耳に入れながらも、これからどうなるのかを懸命に想像してみた。 今以上に恐ろしい局面に追いやられたことは過去に何度もあった。それでも、この瞬間にも溢れる涙を止められない――。 教訓:歩く時は前を見ましょう。 |
43.b.
2015 / 05 / 07 ( Thu ) 「食べている最中に声をかけるべきではなかったですね、すみません」
「…………どういう意味で訊いている」 訊ね返してゲズゥは串の欠片を路頭に吐き捨てた。吐いた唾に血の朱色が混じっているのが見えて、ミスリアは近くのベンチに座るよう促す。ベンチは長さの半分ほどに木陰がかかっていて、彼は自らそちらの方を選んで座った。 ミスリアの身長だと――こうして座らせでもしないと、稀に見るこの長身の青年の顔には届きにくいのである。 それから傍らに立ち、手をかざして聖気を展開した。 「えっと、そうですね、家族とか仲間への愛情じゃなくて……恋愛、の意味合いでです」 使い慣れない単語に言いよどむ。気恥ずかしさに微かに身じろぎしてしまう。その弾みで、かざしていた右手の小指の爪先がゲズゥの頬をかすった。 何とも言えない刹那の感触。吃驚して手を引くと、後を追うように黒い眼差しが素早く動いた。 黒曜石を思わせる瞳はその表面に晴れ渡った青空を映していて、綺麗だ。つい見入ってしまって動けない。なんとか呪縛を逃れたくて俯いた。 彼が次に喉から声を発した時、ミスリアの目線の先は喉仏から顎を上り、最後に口元へと伝った。 「別段、興味は無い」 口元を見ていた所為だろうか。発せられた低い声が、いつもと違う質感を伴っていたように感じられたのは。 一拍遅れて我に返る。 「あ、そ、そうですか。くだらないことを訊いてしまいましたね。すみません」 必要以上に落ち着きなく答えると、あろうことか青年は言葉の応酬を続けた。 「お前はあるのか。興味」 「え。恋にですか?」 頷きが返る。 (恋愛、かぁ……) 一気にさまざまな思考が脳内を巡った。まだ故郷の島に住んでいた頃に、同年代の友達や姉と、誰が誰の嫁になるのが一番お似合いかを想像して遊んだこと。修道女課程を修めていた日々の中、隠れて夜更かしして恋愛小説を読んでいた同室の子。ミスリアは教団に入った時点でそういった話題への関心は薄かったけれど、いつからか、全く自分とは無関係だと思うようになっていた。 聖人聖女はその役職に就いている限り、異性と関係を持つことはできない。と言ってもそれは永続的な話ではなく、カイルの父親のように役職を返上して伴侶を得ることは可能だ。 それでも少なくとも聖獣を蘇らせる旅が終わるまでは恋とは無縁に生きるだろう、とミスリアは受け入れている。 見聞も経験も足りない分、それがどういうものなのかはほとんどイメージが無い。例えば周りに恋の花が咲いていたとしても、きっと気付けない。 いつか未来で自分が恋をしている様子を色々と想像をしてみるも、うまく浮かばなくて悶々とした。相手はどんな人になるだろうか。相手……? 「なるほど」 突然、ゲズゥが言った。 「な、何に納得したんですか」 物思いを遮られた驚きに肩が跳ねた。 「反応が『女』だな」 続く言葉を聞いても、彼が何に得心がいったのかは不明なままだった。どうやらこちらの表情や挙動の細かい変化を観察していたらしいが、そこから一体何を見出したのか。 「確かに私の性別は『女』ですけど、それは周知の事実で、改めて確認するようなことではないかと……?」 「そういう意味じゃ、ない」 「ではどういう意味なんです?」 首を傾げて問う。 「自分で考えるといい」 心なしか楽しそうに答えて、ゲズゥは立ち上がった。 なんだこれ。書いてて私がドキドキしただと……………………………… 歹ヒのう くそう、喉仏萌え! ミスリア本編に全文検索かけてみたら、なんとこれまでに「恋愛」の単語が登場したのは1回だけであったΣ( ̄□ ̄lll)<22、イトゥ=エンキ視点のところ。「恋」だけなら13回。これからはもっと出る…よ? |
43.a.
2015 / 05 / 05 ( Tue ) ――何が目的だったのか、だと? 愚か者どもめが。私が大臣の座などに執心しているとでも思ったのか。そんなものは目的ではなく、手段に過ぎない。私はただあの男を貶めてやりたかった。 ――誰を? 知れたことを。奴に決まっているだろう! 私の最愛の妻をたぶらかし孕ませておきながら、何食わぬ顔で今日も玉座に座しているあの男だ! 私は……奴の腹心を一人ずつ封じてやる予定だった。 ――失脚に追い込む? 生易しい。恐慌状態に陥れて、折を見てかどわかすつもりだった。弱みの一つ二つ作って再び世に放つのさ。だからあの女を使った。あれは良くできた駒だ。昔から、私が望めばその通りに動ける、実に優秀な女よ。 最初は老害の空いた席に私が滑り込むはずだった。そこから更に一人ずつ手中に収め、最後には帝王に与(くみ)する人間を一人とて残さずに掃く予定……だが貴様らの所為で総てが台無しだ! ――王子? あの薄汚い小僧か。幸い奴は中途半端に帝王にも我が妻にもあまり似なかったが、どうにも腹を痛めて産んだ妻は愛着を持ってしまったようでな。遠目に眺めるだけでいいからとせがむものだから、屋敷に置いてやったのよ。憎きあの男の倅(せがれ)なぞ、私は絶対に目に入れないように生活していたがな。 そんな妻は得体の知れない病で逝ってしまった。聖人連中にも治せなかった、心の病だったと言われている。妻の心が乱れたのはやはりあの男と小僧が原因であろう。最期には我らの嫡男の顔を忘れるまでに病んでしまっていた。ほら、わかるだろう? 私が何もせずにこれまでのように、帝王に仕える貴族のままでいられるはずが無かろう? 妻が他界したからには小僧の方は殺して楽にしてやろうとも思ったが、そうすると魔物になって我が血族を呪うかもしれないと聞く。ならば仕方ない。 ふん。思えばあの時、あの女ともども見逃して何年も生かしてやったのに、恩を仇で返す餓鬼どもだ。 まあいい。好きにしろ。露見した以上、私は抵抗などせんぞ。 なに、家が没落しようとも我が子たちが自力でどうにかする。甘ったれなぞ一人も私は育てておらんからな。 ――貴族の伝統? 知らぬわ! あんな男含めた腐り果てた王族に仕えるのが命運だなどと、私は認めん! ああ、メディアリッサ、生涯ただ一人の愛しき我が妻。安心しておくれ。たとえ火の中水の中牢獄の中、私は君への愛を貫き証明する。 帝王なぞ、永遠に赦さぬ。赦すものか―――――― _______ (愛って、なんなんだろう) 聖女ミスリア・ノイラートは、後になって件の男性の供述を聞かされた。それはあまりに激しかった。考えれば考えるほど、彼の心情がわからない。 腐り果てたと言えるような王族なのかも、わからない。帝王は後宮では飽き足らず人妻にまで手を出すほど女癖が悪くても、君主としての手腕はそれほど悪くないようだった。帝国と三つの属国は均衡を保ち、国民の生活もおおよそ安定している。 (デイゼルさんのことだって。男性は自分の子供じゃないからってそこまで邪険にするの……? 愛する奥様と一緒に大切するって選択肢は無かったのかしら) 嫉妬、その辺りの心境はやはりミスリアにはよくわからなかった。妻を赦して相手を赦さないのはわかるとしても、それを理由で誰かを永遠に憎むというのはいかがなものか。正直な感想、とても疲れそうな話である。限られた生の時間を憎悪にばかり費やすのを、勿体ない、と思う。 それほど激しく燃える怨念の炎を彼はずっと押し隠してきたと言う。 心を病んで亡くなられた奥様はどう思っていたのか。そもそも病の原因は本当に帝王陛下だったのか。今となっては、真相が明るみに出ることは無いだろう。 小さな唸り声を上げながら、ミスリアは隣に立つ青年を見上げた。特に予定も無く、今日は二人で街中を買い物などしてぶらぶらしている。 青年は羊肉の串焼きを片手に持って食べていた。 こちらの視線に気付いて彼が首を巡らせた頃には、串の肉は最後の一つが口内へと消えようとしていた。 「ゲズゥには、愛する人って、いますか」 ふと訊ねる。 ――バキャッ! 「だ、大丈夫ですか!?」 串を噛み切ってしまったらしい。一瞬、無表情が渋い顔に歪んだ。 |
42.j.
2015 / 04 / 29 ( Wed ) 「でもこのもじゃもじゃ髪をもう切れないのは、いやよ」
「どうせ成人したら切ってくれないんじゃん」 デイゼルの巻き毛をわしゃわしゃと乱していたティナの手がぴたりと止まった。そしてそのまま彼女はもの悲しい微笑みをつくった。 「だいじょーぶだって。出発は早いほうがいいっていうけど、そんなすぐおわかれじゃないんだからさ。だからティナ姉、もうわるいことやめて。兄ちゃんたちが助けてくれるよ」 ティナは長いため息をついてから、司教さまに向き直った。 「信じていいのね」 「約束します。私の持つ全てでお力になります」 「わかった。それじゃあ、アイツのことを話すわ」 ティナはこちらに向けて短く目配せした。察するに、この先の会話を十三歳の子供に聞かせたくないという心境だ。 司教さまやミスリアたちが話を聞いているのならそれで十分だろう。カイルサィートはデイゼルの肩に手を触れ、部屋から連れて廊下に出た。 子供たちが揃って昼寝しているからか、廊下はしんと静まり返っている。二人の衣擦れの音や足音だけがやたらと響いた。 俯き加減のデイゼルに、ふと思い立って話しかけてみる。 「君が修道者になるなら、いつかどこかで僕のお父さんと会うかもしれないね」 「ふーん。せーじんの兄ちゃんのおとーさんってどんな人なん」 「さあ?」 「なんだそりゃ」 立ち止まって、鼻をぎゅっと皺くちゃにした顔が見上げてくる。視線を合わせるようにしてカイルサィートは僅かに上体を傾けた。 「顔は似てるんじゃないかな。でも僕の知ってる父さんがまだ残っているのかどうかは、わからない」 「んー、じゃあ兄ちゃんのおぼえてるのはどんなん」 「そうだね。信心深くて、笑顔が温かい人だったよ」――言葉を連ねながらも懐かしさが胸に満ちる――「良き夫で、良き父親で、良い兄だったんだろう。少し優しすぎたかもしれないけど」 心が優しすぎたがために、現実の重圧に耐え切れずに脆く壊れてしまった。思えばそういったところは、父と叔父はよく似ていたのだろう。今更責めたいと思うことは無いが、それでもたまに思い出しては一抹の寂しさと失望を覚えることはある。 それに、殻に篭もってしまった父を未だに救ってもやれない己の無力さにも失望する。 「僕はできれば父さんとは似ない方がいいな。君みたいな逞しい男になるよ」 カイルサィートは視線を廊下の先へと戻して宣言した。 「はあ? もう大人なのに、おれ目指してどーすんだよ。ぎゃくだよ」 「あはは、清々しい正論だ。どうするんだろうね」 「兄ちゃんなに言ってるかわけわかんね。へーんなのー」 デイゼルは急に小走りになって廊下をドタドタと進んだ。仲間たちの様子を見に行くのだろう。一緒に居られる時間がそう多く残らない、仲間たちの。 (ああ……父さん、叔父上。生きるというのは、ままならないものですね) 額に片手の指先を押し当てたのはほんの数秒の間だった。この絡まるような想いは、何であるのか。 少年は気付いているはずだ。大切なものは自分が何もしなくても、どんどん掌から零れていく。 守る為に敢えて手放して、後悔する日が来ないと良いが――。 目を覚まし始めた子供たちの声が微かに聴こえる。そこに、悪戯っぽいデイゼルの笑い声が重なる。 (これから先どれほど大きな目的を追おうとも、守るべき宝が何なのか、それだけは見失わずにいよう) 決意を新たに胸に抱いて、カイルサィートは居間へと踵を返した。 |
42.i.
2015 / 04 / 28 ( Tue ) 「い、いいえ。気を遣わせちゃってあたしの方こそごめんなさい……」
あまり強く出ない司教さまにティナは毒気を抜かれたのか、あっさり引き下がった。 「お元気そうで良かった。本当にずっと、心配していたのですよ。いきなり消えたものですから」 「……黙って出てったのは悪かったと思ってる。それより、今日は違う用事で来たんでしょう」 訊ねながらもティナは司教さまの微笑から顔を逸らした。 「そうでしたね。では本題に入りますと、当孤児院を教会の管理下に置かせて下さい。今日はそれをお願いしに来ました」 さりげない口調で司教さまは言う。窓際で静観していたリーデンが口笛を吹いた。 「なっ――んですって」 ティナは驚愕に顔をしかめた。 「子供たちの身の安全や秘密の厳守、今後の教育も全て我々が約束します。寄贈者の束縛から解放します代わりに、彼の検挙にご協力下さい」 司教さまが暖炉の上の肖像画へと視線を走らせるのを見受けて、ティナは頭を振った。 「無理よ。アイツからの解放なんて望めるわけが無い」 「解決の糸口は、そちらのデイゼルさんが持ちかけて下さいました」 「……え? どういうこと」 ティナの青緑の瞳が隣の少年を向いた。少年は真っ直ぐに視線を合わせる。 「きょーかいに守ってもらえば、みんな今よりもフツーの生活ができるよ」 「他の子たちはそれでどうにかなるかもしれないけど、デイゼル、あなたはっ! あなただけは――」 「しってる」 少年強い語気で遮った。彼は己の出自だけでなく仲間たちについても熟知しているようだった。 ここには帝王家に直接血の繋がりを持った彼の他に、帝国有数の貴族や軍人たちと縁深い子供たちもいる。存在をひた隠しにされているデイゼルと違って、他の子供たちは根気良く調べるだけで血筋が明らかになった。 「だからおれ、シュウドウカイに入るよ。セイジンも目指してみたい。そっちは、ソシツってのが無いとダメみたいだけど」 「聖人はともかく、修道会? って何? 知らない」 「修道会ってのはね、いくつかの厳しい誓いを立てた信徒の集まりのことだよ。会員になると簡単には俗世に出られないし、一般人と関わることもほとんどできなくなる」 ティナが挙げた疑問に対してカイルサィートがそっと説明を呈した。 「でも彼にとっては最善の選択だろう。修道司祭以上か聖人になれば、もう政治的権力者でも容易に手出しができない。たとえ素性や居場所が漏れたとしても、帝王に即位させるのは不可能だし――何の企てにも役立たないのなら、攫ったり暗殺する意味が無いからね」 「…………本当にそれがあんたの望みなの。教会に言いくるめられたとかじゃなくて」 「そーだよ。おれはこれでいいんだ。どっちみち外の世界を好きかってにうろうろできない人生なら、だれかのために使いたい」 「デイゼル、人生は使うものじゃないわ」 「使うもんだよ」 いつの間にか姿勢を正していた少年は、声色から仕草に至るまでに迷いが無かった。 思えば彼は幼少の頃は屋敷に閉じ込められ、現在は孤児院から離れられない狭い世界での生活を強いられている。そんな生活から脱したところで、権力争いに巻き込まれてしまう。 実に過酷な運命であり、だからこそ実に潔い判断だった。この少年はきっと最後まで歪まずに立派な大人になる、そんな予感がした。 「ティナ姉もほかのみんなももう会えないかもしんないけど、おれはこれでいいんだよ」 「修道者になったとしても全く外の世界に出ない、なんてことにはなりませんよ。時折の聖地巡礼や、他の修道院へ赴く場合もあります」 司教さまがそのように付け加えた。 |
42.h.
2015 / 04 / 25 ( Sat ) 「護衛だなんだと誘ったのは僕の方なのに、こんなややこしいことになったの、なんだかごめんね」
「いいえ。関われてむしろ良かったと思ってます。そうでなければ友達が苦しんでいることにも、私は気付けなかったでしょうから」 「確かにそうだったかもね」 それからおやすみの挨拶を交わした後、ミスリアはふわりとスカートをなびかせながら歩み去った。 扉を閉じる瞬間までも彼女は最後まで気付かずに、通り過ぎた。壁にかかる陰と同化しつつある青年に。 (一体いつこの部屋に入ったのだろうね) 黒髪の青年ゲズゥ・スディルは武器を背負っていなければ恐ろしく静かに移動する。 (でもそんなことより、興味深いのは……) カイルサィートは現在の距離を保ったまま話しかけた。 「君は、最初に会った頃よりもずっと、雰囲気が穏やかになったね。何があったのかとても興味がある」 「訊くまでも無いだろう」 あまり間を置かずに返事があった。 「そうかな」 「文通していたのならな」 「ああ、そういうこと。確かに文(ふみ)である程度の顛末は知ったけど、本人の口から聞くのとは違うよ」 「…………」 青年は陰った壁から離れて、蝋燭に照らされている方へと僅かに歩み出た。歩み出てもその瞳や表情や口は、何も語らない。 カイルサィートには彼の態度は特に気にならなかった。懐かしいとも思う。ゲズゥからはこんな深夜には有り難く感じる、落ち着いた空気が漂っている。 「ミスリアと仲良くしてくれてありがとう」 「……保護者」 単語一つからは彼が何の意味を込めているのかはわからない。思わず首を傾げた。 保護者と言えば、確かにミスリアと過ごしていると妹を思い出すこともある。しかしどうあがいても別人は別人である。リィラには二度と会えないし、他人を重ねてミスリアに接するような失礼はしたくない。 気のかけ方が保護者ぶっていたかな、困ったな、とひとりごちてカイルサィートは小さな笑いを漏らした。 「友人だよ」 「…………」 「あの子が楽しそうにしていると、こっちも嬉しいんだ。これからもできれば健やかに笑っていて欲しい。君もそうではないのかな」 問われて、青年は特徴的な両目を細めた。瞳の向こう、脳内の中ではどのような思考が展開されているのかは不明である。 そして彼は何の結論に至ったのかを明かさないまま細めていた目を再びスッと元の大きさに開き、くるりと背を向けて部屋を後にした。 何も答えない、カイルサィートにはそれ自体が答えのように感じられた。 _______ 帝都ルフナマーリに最近就任した司教さまは、一言で表すならば「目立たない」人物だ。 身長は平均より低めで年齢相応に恰幅も少し良いくらいの体型で、清潔に整えられた薄茶の短髪や優しげな瞳、笑顔の周りに刻み込まれた皴にしても、あまり際立った特徴は見出せない。というのも、位の高い男性聖職者にはこのような外見をしている者が大勢いるからである。華奢で長髪の教皇猊下が例外なのだ。 それでもティナという少女にとっては、記憶に残る人物であるらしい。司教さまを孤児院の居間に通してからもずっと、難しそうな顔をして考え込んでいる。 カイルサィートはミスリアと共に二人の邂逅を数歩下がった位置からしっかりと観察していた。 ティナの座る長椅子には、頬杖ついたデイゼルの姿もあった。彼もまた考え込んでいるような顔をしている。 「えっと……何? つまりおっちゃんは、おれとティナ姉がであったちょっと前に、ティナ姉にあってる……でいいんだよな?」 「こらデイゼル、おっちゃんとか言わないのよ。この都の司教さまよ」 「あ、そうだった。しきょーさま」 バツが悪そうに少年は舌をちょろっと出す。司教さまは口や目の周りに皴をつくって笑った。 「ほほ、おっちゃん、で構いませんよ。そうです。まだ私がルフナマーリで司祭をしていた頃、ティナ嬢を教会に招き入れて泊めたことがありました。あれはそう――」 「できればその頃の話はしたくないわ」 足と両腕を組んで、ティナは昔話を拒絶した。 「ええ、すみません、私の配慮が足りませんでしたね。貴女にとっては、お辛い時期でしたのに」 |
42.g.
2015 / 04 / 21 ( Tue ) 聖人カイルサィート・デューセは人気の無い教会の食堂の片隅で、静かにミスリアの話に耳を傾けていた。長方形のテーブルで二人向かい合って座し、カモミール茶を間に置いて会談している。 彼女は夕方にデイゼルという少年と交わした会話の内容を一通り話した。その間、カイルサィートは燭台の炎を見つめていた。話している相手と目を合わせないのは失礼だろうけれど、こうしている方が複雑な情報を整理しやすいのである。 「……なるほどね。何もかもが腑に落ちたよ」 少女の話が途切れてほどなくすると、ぽつりと呟いた。ゆらり、炎が形を崩してはまた強く燃え上がる。 「本当ですか?」 ミスリアが僅かに驚いて訊き返す。 「多分ね。事情は大体見えてきた。『ルードアク』は、現王陛下の家名だ」 「それではデイゼルさんは、ディーナジャーヤ国の帝王家の血縁者ってことですか!?」 「そうなるね」 カイルサィートはしばしお茶を啜るだけの間を置いた。蝋燭の炎に照らされるミスリアの顔は青ざめているようだった。 今度は自分が調べた内容を話す番である。寄贈者たちについて深く調べる内に、気になる人物が浮かび上がったことを。 「居間の暖炉の上にあった肖像画を覚えている?」 「はい。一組の男女が描かれていましたね」 「男性はね、大臣の席に空きができたとしたら、次に選ばれるであろう最有力候補だよ。そしてあの孤児院が建てられる少し前に奥方の方は亡くなられている」 「大臣候補ですか。ではやはり狙いは……」 ミスリアはみなまで言わなかったが、意図は十分に汲み取れた。知れば知るほど、ティナの雇い主が狙っているのはあのお方の失脚ではないかと、状況は示唆しているのだ。 「ところでデイゼリヒ王子は、親について何か言っていたかい」 「会って話したことは無い、と……。どこかの屋敷の一棟に閉じ込められて使用人だけを相手に生活し、たまに遠くから見つめてくる綺麗な女性が居た、とおっしゃっていました。その人はきっと自分を産んだ母親だと、なんとなく感じたと」 カイルサィートは右手の人差し指でトン、トン、とゆっくりとテーブルを叩いた。これもまた情報を吟味しているゆえの所作だ。 「屋敷を出たのはいつ?」 「三、四年前でしょうか。ある時急に追い出されて、直後、殺されそうな目に遭い――その時にティナさんに助けられたそうです。二人で幾月か浮浪してから孤児院に移り住んだと。ティナさんがどういう風にして孤児院を手に入れたのかまではわからないと言っていました。他の子供たちは後ほど預けられ、徐々に増えてます」 「そう…………彼が屋敷を追い出された時期と絵画の夫人が亡くなった時期はおそらく一致する。詳しい関連性はまだ不明とはいえ、推測するなら、デイゼリヒ王子を隠して生かす為に孤児院が建てられたんだろうね。彼含めた子供たちが里親を得ることも、誰かしら妨害しているのかもしれない」 つい漏らしてしまいそうになるため息を、カイルサィートは手の甲を唇に当てることで遮断した。 (殺されそうな目に遭って……ねえ) 誰かが一度はデイゼルを消そうとして、ティナが介入してから思い直したのか、それとも事情が変わったのか。 身分ある者の落胤というのは存在を知られれば悪用されがちである。特に帝王の縁者ともなれば、王位継承権が発生するかもしれない。たとえ正当性に欠けても、謀反のタネにされてもおかしくはない。 大人の都合で社会の片隅に追いやられ、或いは大人の都合で死に逃げることも許されない。子供たちが不憫でならなかった。彼らは好きでそう生まれたわけではないのに。 「とにかく後は、ティナさんの証言があればこの件は解決できそうだ。処罰についても交渉の余地は残っている」 なるべく柔らかく告げてみると、向かいの少女がいくらか気を緩めたように瞼を下ろすのが見えた。つられて自分も頬を緩めた。 「それとミスリア……彼の望みを叶えることは可能だと思う、とだけ言っておくよ。十三歳の身でよく考え抜いてくれたものだよね」 「本当ですか!?」 ミスリアの表情がパッと明るくなった。 「他の子たちにも、今よりもっといい生活を確保してみせる。本来なら子供の未来を支えるのは大人の役目だから」 「はい! ありがとうございます」 椅子から勢いよく立ち上がり、ミスリアは長いテーブルを回り込んで駆け寄ってきた。何故わざわざそんなことを――と疑問に思っている最中に、抱きつかれた。 相変わらず感情がストレートに伝わりやすい少女だ、と和みながらも軽く抱擁を返した。 |
42.f.
2015 / 04 / 18 ( Sat ) 「おれ、本当の名前って、デイゼリヒ・エニセ・ルードアク、って言うんだって」
少年は闇の中に静かな声を響かせた。 「長いのによく覚えられましたね」 「もっと小さかった頃に一回きいておぼえた。わすれていいものじゃないって、あのとき、そんな気がした」 「そうですね。名前はとても大切です」 あの時とはどの時なのか、訊いていいものか迷う。 ひとまず当たり障りのない返事をしながら、記憶の中を探った。ルードアク、とはどこかで聞き知ったような名だが、果たしてどこだっただろうか。どうしてか、やんごとなき身分の家筋と通じていそうだと思った。 デイゼルの次の言葉がその予感を一層強いものにした。 「本当の名前は知られちゃいけないんだ。おとしだね、なんだって。おれたちみんなそうなんだよ。いつもキフくれるえらい奴が言ってたの、前にこっそりきいたんだ」 「おとしだね?」 これはとんでもない爆弾の方の打ち明け話なのだと直感が訴えかけている。 「みっすんはおれと歳一個しかちがわないけどさ、『大人』なんだろ。どういう意味なのかわかるんだろ」 「え……」 もう一度考えを巡らせてみた。 (落としだね――って、まさか落胤のこと) 思い当たったと同時に理解した。どうしても好転する見込みの無い状況とはまさか、孤児たちが孤児であり続けなければならない所以にあるのか。もしかしたら、実の親は彼らの存在を容認していないのに、生かす為の金銭的支援だけを続けているのかもしれない。 寄贈者の中には――落胤の存在が明るみに出れば困るという――他の協力者が混じっているとも考えられる。 「ティナ姉がさ、最近元気ないんだ。きっとおれたちのせいだ。おれたちのために何か悪いことしてるんだって、ほんとは知ってる」 「……知っていた、んですか」 驚きを押し隠して応じた。 「おれだけじゃなくてほかにも一人か二人いる。知ってて、知らないふりしてる」 「いつから気付いてたのですか?」 「わすれた。けっこー前だよ」 膝か腕に顔を埋めたりしたのだろうか、その先の発言はくぐもって聴こえた。「おれたちが生きてるから、ティナ姉はしあわせになれないんだ。これからも、他にやりたいこととか一緒にいたい人が見つかっても、きっとあきらめちゃうんだ」 「そんな悲しいこと言わないで下さい。ティナさんは貴方がたと一緒にいるのが何よりの幸せなんです」 「わかってるよ。でも、ヤなんだよ。一人でぜんぶ背負ってるティナ姉と、一緒にいてもたのしくない。自分のことを一番にできないのは、つらそうだ。見てるこっちだってつらい」 「彼女が貴方がたを優先してしまうのは、そうしたいからです」 母親の無償の愛と同じで、無理に我慢しているわけではないから――と続けたくてもできなかった。会って間も無い人間を知った風に語っていいとは思えないのだ。 かける言葉を失ったミスリアは、自らの踵を意味もなく抱えた。何度か口を開き、やはり閉じてしまう。 その内、なあ、とデイゼルがまた声をかけた。 「せいしょくしゃって、たのしい?」 「え?」突拍子も無い問いかけにミスリアは数秒ほど目をぱちくりさせた。「聖職者が……? 楽しいかどうかと言うとよくわかりません。大変なこともたくさんありますけど、いつでも誰かのお役に立てますし、とてもやりがいのある仕事ですよ」 「ふーん」 心なしか興味を持ったような返事だった。 彼ももうじき成人した歳になる。己の将来の可能性を色々と検討しているのだろうか。それは、選び取るだけの将来が彼に許されているのが前提ではあるが。 「あのさ、たのみがあるんだけど」 少年の真剣な声がぐっと近付いて来た。それに対してミスリアは、同等の真剣さで応えねばならないと思った。 「私にできることなら可能な限り力を貸します」 「ありがと。みっすんは、いいやつだな」 ――そうして秘密が漏れる心配のないこの狭き場所で、デイゼルは一つの望みを言葉にした。 _______ |
42.e.
2015 / 04 / 15 ( Wed ) 「ティナ姉、干し芋買って~!」
「芋! 芋!」 台車を押す芋売りが通り過ぎて間もなく、小さな影が後ろからティナに体当たりした。 彼女はさして驚いた様子を見せずに振り向いた。十歳くらいの男の子と女の子の二人組である。 「あなたたち、また城壁の穴から入って来たの?」 「うん!」 「懲りないわね。いつか人攫いに遭っても知らないわよ」 「うっそだー、どうせティナ姉が助けに来てくれるだろー」 「そうだけど、調子に乗ってんじゃないわッ」 空いた手で子供たちの後頭部をはたこうとするティナ。勿論、子供たちはちょこまかと逃げ回っていてなかなか当たらない。 そんな微笑ましい光景を目に入れたままミスリアは考え事に耽った。 (状況がどうしても好転する見込みが無いってどういう意味だろう……? お金の問題じゃないのかな) 金銭問題でなければ、他に何があるだろうか。たとえば治安が悪くて街の外に住んでる――は何か的外れな気がするし、後は子供たちかティナ自身が抱える事情だろうか。 なんとなくカイルを見上げると、彼は小声でミスリアの名を呼んで手招きした。招かれるままに距離を縮めた。 「僕は孤児院について探ってみる。君は、さりげなく子供たちに聞き込んでみて。きっと引率者の彼女よりは口がゆるいよ」 声が漏れないように彼は耳打ちしてきた。それをミスリアは承諾した。 「わかりました。やってみます」 ――などと首を縦に振ってみたものの、その機会はすぐには訪れなかった。買い物を終えて孤児院に戻っても料理の下ごしらえなどをずっと手伝い、子供たちと話せずにいた。 ようやく夕飯の準備がひと段落したところで、ミスリアは裏庭の様子を見に行くことにした。 まず最初に、松ぼっくりを投げつけられているリーデンの姿が目に入る。ことごとく華麗に避けている。 「ハハハハハ! 全っ然当たらないねー。子供は好きじゃないけど、こういう遊びなら好きだよ」 十代後半の青年は身体の柔軟性や脚力を駆使して松ぼっくりを避ける。子供たちは悔しそうにしながらも感嘆の声を挙げた。 「兄ちゃんスゲー! 人間の動きじゃないぜ!」 「ぶはっ! ていうか変なポーズで避けんなよ! キモいし!」 「片手で逆立ちできんの!? やり方おせーて!」 「お断りだよ。生憎、人に物を教えるだけの忍耐力は無いんだー」 そう言ってリーデンはどうでもよさそうな笑顔を返す。子供たちのやる気に火が点いたのか、宙に舞う松ぼっくりの数が倍増した。 楽しそうでいいな、と感想を抱きつつも流れ弾に当たらないように庭の端をそーっと迂回した。 「みっすん、みっすん」 足元から呼ばわる声があった。 「デイゼルさん? そこで何をされてるんですか」 「秘密基地。みっすんもちょっと来なよ」 巻き毛の少年は木の幹と岩陰の間からひょっこりとニヤニヤ笑いを覗かせている。 一瞬たじろいだものの、これはチャンスだと気付いた。カイルに勧められたまま、何か訊き出せるかもしれない。 早速スカートの裾を両手で持ち上げて姿勢を低くした。デイゼルは歳の割に少し小柄で、ミスリアとほとんど体格が変わらない。彼が通れる隙間なら自分も通れるはずである。 「何処へ行く」 突然、木の葉の間から低い声が降りかかってきた。振り仰いでみると真上に黒い塊が見えた。 (なんとなく定位置に居そうなのは感じてたけど、この木だったのね) 少し声を張り上げ、ミスリアは護衛の青年に返事をした。 「大丈夫ですよ。ここにいますから」 「何かあったら叫べ」 「はい」 何故、呼べ、ではなく叫べ、だったのだろうかとぼんやり考えながらもミスリアは地面を這った。 隙間を通り抜けると、そこはちょうど岩に囲まれた闇の空間だった。外の世界の光はほとんど入って来ない。狭い闇に包まれて、心地良くもあり恐ろしいとも思う。少なくとも夜に一人だったなら虫や蛇が気になってどうしようもない。 ところが今は、少年の楽しそうな笑い声が近くにある。膝同士がぶつかるこの距離では、彼の吐息も体温も近くに感じられて何やらくすぐったい。 (そういえばデイゼルさんだけ、街中に入って来たところを見たことないわ) ふとそんなことを思い出していた。他の子たちは漏れなく遊びに来るのに――彼は街に興味が沸かないのだろうか。 ついでに言えば最年長でリーダー格でありながら、時折こうして何気なく姿を消している気がする。 「実は話があるんだ」 変わらず楽しそうな声が囁く。 「何でしょう」 言った直後に、軽く返事したことに多少の不安を覚えた。秘密基地でする話はやはり秘密なのだろうか。彼がこれからどういう話をするのか全く予想できなかった。怪我した小鳥をティナに内緒で匿っている程度の話か、それとももっととんでもない爆弾を投下されるのだろうか。 |