置き場のない掌編
2022 / 04 / 07 ( Thu ) 4/6/2022
その男は長いあいだ記憶喪失状態にあったらしい。かつての人格が消え失せていたほどの欠落、ようやくすべてを取り戻したのがまだ先々月のことだったという。 かなり特殊な身の上のようだが、仕事さえこなしてくれるならばどうということはない。 「思い出は人生の潤いだ。何も無いと不安だったろう。記憶が戻ってよかったな」 魔物狩り師連合から割り当てられた討伐依頼で一緒に組まされ、なんとなしに雑談をしていた時、ふと私はそう言っていた。「過去の無い人間はなかなかに信用を勝ち取るのが大変だろうな」 「そりゃあそうだ。それに、確かに誰とも思い出を共有できないってのも、相当な孤独感だった」 「想像を絶する」 「人格も記憶も無い俺とあんたが、たとえば今こうして話していたなら、そういう状況だからこそ得られるものもあったのかもな――って、あいつなら言ったかもしれない」 訊けば、あいつとはかつて共に旅をした聖女を指しているらしい。それは独特な世界観を持っていたのだと彼は言う。 「けどあいつならこう思っただろうかって想像して少し楽しい気分になれるのも、俺がカタリアを思い出せたからだしな。やっぱ、記憶が戻ってよかったと思うぜ……そこに、どうしようもなく苦しい記憶があったとしても」 「……心中察する」 「気を遣わなくていいぜ」 わかった、と私が返事をした途端、集合の合図が伝達されてきた。 「行くか。エザレイと言ったな。今回はよろしく頼む」 「あんま信用しすぎない程度に任せろ」 完全に思い付きSS。久しぶりに書いたら想像よりすんなり書けた……ヨカッタ… |
5.混乱と混乱 - e
2021 / 10 / 01 ( Fri ) 「刺さった……? 手当しないとですね」
気にするな、と彼は手を振った。強がりではなく、今すぐどうにかなるほどの怪我ではないということだろう。 「いい機転だったな。動けない的は楽だ」 そういえばゲズゥの投擲の腕は決して良い方ではなかったと思い出す。 「お役に立ててうれしいです。後味は――悪いですけど」 「良かった方が少ないだろう」 それもそうか、と納得する。 「でも困りましたね。これからどうしましょう」 さすがに帰路を急ぐための体力がもう残っていない。かといって一晩中雨風に晒されるわけにもいかず、何より怪我人を長く放ってはおけない。 (二人を先に帰すというのは……) そうしてひとり残って、まだくすぶっているかもしれない追っ手と魔物から身を守りぬく算段も、ミスリアには無かった。 全身に大きく震えが走った。外套は着たままなのに、雨が内まで沁み込んできて、寒い。 口を開きかけたゲズゥがふいに何かを聞きつけたように首を巡らせた。彼に倣い、しばらくじっと耳をすませてみると、まさかと思って耳を疑った。一定のリズムを持った、それでいて聞き覚えのある――馬蹄が地面を打つ音だった。 川辺伝いに近付いてくる小型の馬車の輪郭が浮かぶ。車を引いている馬は一頭のみ、御者は片手にオイルランプを掲げ、狭い進路をなんとか進められている。 幻覚でも見ているのだろうかと今度は目を疑っている間に、馬車は激しく泥を飛ばして停車した。 「ミスリアちゃん! 無事!?」 「シェニーマさん?」 唖然とした。彼女がフードを目深に被っていたため、声を掛けられるまでは何者かわからなかったのである。 言いたいことが次々と浮かんでは消えた。保護者の制止を振り切ってまた抜け出してきたのか、それとも説き伏せたのか。一度帰ったはずの彼女がここまで戻って来れるだけの時間が経過していることにも、そもそも単身で戻って来ようと考えたことにだって、驚いている。 「うん! はやく乗って」 「は、はい」 続く言葉が見つからない。促されるままに、停まった馬車に乗り込んだ。途中、馬が不愉快そうに鼻を鳴らしたのが聴こえた。夜中に駆り出されて機嫌が悪いのかもしれない。 「狭くてごめんね」 「大丈夫ですよ」 向かい合った座席が二つ。横幅からして、それぞれに載せられるのはひとりと多少の荷物が限界のようだった。 ゲズゥは担いでいた男性を片方の席に座らせ、壁にもたれるように姿勢を調整した。その様子を戸の外から見守っていたシェニーマが眉間にぐっと皺を寄せたのが、暗がりの中でも見てとれた。 残る席に、ゲズゥが流れる動作で座り込む。 ベルトを外し、装備していた武器やらを横にどけたのを見届けると、ミスリアは迷いなく彼の膝の上に腰を下ろした。シェニーマから奇異の視線が送られたのも一瞬で、特に言及せずに彼女は御者席に戻った。 それからどれほどの時間が経ったのか。雨もいつしか止んでいた。 始終、揺れがひどかったが、疲労によるふわっとした眠気が寄せては返していた。我が身を包み込む腕に安心したのも大きい。 「ごめんね」 だからか、謝る声が夢の中から響いたように感じられて、返答するまでに数秒の遅れを要した。 「どうして謝るんですか?」 「こんな面倒ごとに巻き込んだ上に、あたしずっと足でまといだったし……肝心な時に何の役にも立てなかったわ」 落ち込んでいる相手に対して失礼と思いつつも、ミスリアはたまらず噴き出してしまった。 「な、なんで笑うの」 「すみません。シェニーマさんがご自身をどう評価しているかはともかく、私たちのために夜の獣道を馬車で飛ばしてきた貴女は、とても勇敢だと思いますよ」 最近のお嬢さんは馬車を御する技術も身に着けているのですね、とは言わないでおいた。 「勇敢……そうかな」 「そうですよ」 彼女が「えへへ」と照れ笑いをするのが聴こえたのを最後に、ミスリアの意識は深い眠りの中へと沈んでいった。 |
なにやら半年くらい
2021 / 09 / 25 ( Sat ) |
5.混乱と混乱 - d
2021 / 07 / 31 ( Sat ) 間髪入れずに、ビュッと何かが飛んできた。ミスリアに襲い掛からんとしていた異形は絶叫し、苦しみ悶えて身を捻った。見上げれば、どろどろとした黒い影にゲズゥが投げた短剣が刺さっている。 「おのれオノレよくもよくもよくも」奇妙に聞き覚えのある声だった。だというのに、先ほどまで差し迫っていたあの男とはまったく別の存在だ。 (同化されたの) いくら専門知識を蓄えても、少しわかった気になっても、魔物とは底の知れない超常現象なのである。喰らった人間の特性を魔物が我が身に表した例は、思い返せば過去にもあったように思う。 「クッテヤル、くってやる……くるしめ! おまえのせいか!」 融合してから主導権が定まらず、意思がせめぎ合っているようだった。なぜそう感じたかは言葉にできないが、確かにそんな印象を受けた。 呑気に分析している余裕は当然ながら、ない。這って逃げた。今はそうするだけで精一杯だった。魔物の内なる争いがいつまでも続けばいいと願いながら。 背後の気配は動かないが、消えもしない。本質が泥であるなら、沼と水ばかりのこの地形を自在に動き回ることもできるかもしれない。男の二の舞はごめんだった。満身創痍でゲズゥの元に辿り着く。 「無事か」 差し出された無骨な手をとると、安堵に泣き崩れそうになる。けれど今はそうしていられない。負傷者を抱えている彼を、なんとか支援したかった。 「リボンを」 持っていませんか。問いたいのに、息が切れてみなまで言えなかった。 言葉が少なくとも察してくれるのが伴侶というものか。ゲズゥは無言で、元はペンダントの鎖に結んであった黒いリボンをポケットから取り出した。 ピンと伸ばせば両腕の長さほどある。 今度は逆に、おどろおどろしい影に向かって駆けた。 (生き物だったら急所があったり、首を絞められたりするのに) 魔物に、一貫したわかりやすい弱点はない。とっかかりは、探すしか――ない。 「ギョオオオオ」 耳をつんざく絶叫。泥っぽい影は伸縮し、蠢き、ついには破裂しそうに見えた。 途端、伸びてきた。 人の腕の形をしていたかもしれない。ミスリアは腕とも触手ともとれぬものに太ももを掴まれ、引きずられた。喉から悲鳴が漏れた。 (落ち着いて、これは、狙いどおり) 形の曖昧なものの中に、人間らしい何かがあった。引きずられながらも、手首っぽい部分をまさぐり、リボンを巻き付ける。 魔物は目に見えて怯んだ。 それもそのはず、教団から賜ったアミュレットのような聖なる道具ほどの聖性はなくとも、このリボンには普段からミスリア自身の強い祈りが込められている。加えて、教団を象徴する銀細工のペンダントに巻き付いていたのだから、聖なる因子はそれなりに付着している。 触れた先から魔物を浄化することはできずとも、動きを御する用途にはうってつけだ。 (あとは……どこか、手頃な……!) 空いた片手で近くの植物をわしづかみにした。細い木の幹だ。触手の力が緩んだのをいいことに、その隙にリボンの先を結び付けた。濡れた指が震えずに結び目を作れたのは、神々のくださった奇跡に思えた。 ――こうすれば、追ってこれなくなるだろうか。 それとも泥のような魔物なら分離できるだろうか。答えを知るのが恐ろしい。ただ今は、放してほしかった。 願いに沿うように、何かが飛んできた。またしても魔物は苦しみ悶えて身を捩り――まるでその場に縫い付けられて踊り狂っているよう――ふいにぱかりと切り裂かれた。 得体のしれない塊がぼとぼとと地に落ちて、雨に穿たれて形を崩していく。 「貴方が持ち歩く短剣は、一本だけかと思っていました」 「ああ。そいつのナイフを返した。さっき捌ききれずに刺さった」 大剣にこびりついた泥らしき物体を革手袋の甲部分で擦り落としながら、ゲズゥは何気なく答えた。 |
5.混乱と混乱 - c
2021 / 06 / 30 ( Wed ) 背筋を伝う冷たさは、雨に濡れたからというだけではなかった。 けれど怯えて身を竦ませるには、この場は乱れすぎていた。恐怖すべき対象を、見極めなければならない。地面の下を這う気配に、元・聖女ミスリアは少し前から気が付いていた。化生のものがまだ近くにいる。それが最も興味をひかれる相手にも、彼女は察しがついていた。 頭上高くから轟音が鳴り響く。 相方がこちらを素早く振り返った。短く目配せしてから、彼は大剣を持ち直し――そして目を閉じた。 再び閃光が空を駆ける。ミスリアは手をかざしてやり過ごした。 眩さと暗闇に順に責められて、残像がちらつき、人々の視覚は一時的に惑わされる。そうとわかっているのはあの男も同じで、やはり目を閉じていた。身近に迫った音に反応して、再び目を開けた。人質を助けに来るはずのゲズゥを迎えうつつもりで身構えている。 けれど男に覆い被さるように襲ったのは、湾曲した剣ではなく、黒い液体を滴らせる大きな影だった。 「!?」 男が苦しげに喘いだ。なんとかして影を振り払おうと、でたらめに手足を動かしている。 影であるのに、微かな燐光を帯びている。泥沼の奥から浮かび上がる気泡を思わせるような、耳障りの悪い音を時折吐きながら、異形のモノは男に巻き付いた。あっという間のできごとだった。 「天が人を見放しただなんて、そんな白黒がはっきりとした話ではありません。神々の試練も慈悲も、出どころは同じです。不幸と嘆くか、好機を見出すか、受け取る者次第では?」 「……!」 男が抗弁しようとしているのかはわからない。もごもごとした呻き声が漏れるだけだった。部下らしき男たちは、助けに入るかどうかで迷っている。下手に近付いて巻き添えを喰らうのが恐ろしいのだろう。 憐れむ気持ちはあった。常であらば、助けてやりたいと思ったかもしれない。 ゲズゥの言葉を借りるなら、「優先順位の問題」である。 その彼はというと、稲妻の沸き起こるタイミングをかいくぐって、既に最後の悪漢を無力化していた。ぐったりとした男性を肩に担いで、踵を返している。 「川に沿えば町に戻れるらしいが」 「他に道はあるんですか?」 ゲズゥは三拍ほど考え込んでから答えた。 「この雨で森の中に戻っても、無駄に迷って体力が削られる」 「そうでしょうね。もたついていても魔物の餌食ですし、川辺を伝うしかなさそうです」 方針が決まったところで、二人はすぐに行動に出た。ゲズゥに手を引かれ、小石によって明らかになった地面模様の縁に出た。 次いで目を伏せ、雷光が周囲を照らすのを待つ。なるべく遠くまで見通せた方が、いちいち石で確かめるよりも早く、進路を見定められるはずだった。 待ち望んでいる時に限って、自然現象はなかなか起きなかった。 背後から骨が折れる音が聴こえる。断末魔は、ない。 胃の柔らかいところが搔き乱される気分だった。状況が状況であっても、あの男の死の責任は自分たちにある。そして何より、魔物が獲物を喰らいつくしてしまえば、いつこちらに矛先を向けるのか知れないのだ。 ――白い光が視界を満たした。 「走れ!」 号令がなくとも走り出していた。庭を抜ければ沼は途絶える、そう信じて駆ける。雨を吸った服は重く、髪も皮膚に張り付いて気持ち悪い―― どこかで見落としがあったのか、ふと踏み出した場所に地面が無かった。 心臓が恐怖一色に塗り替えられんとした瞬間、奥歯を噛みしめた。 (ここで足手まといになってはダメ) 先を急ぐ背中は、こちらが足を踏み外したことにまだ気が付かない。 気合だけでそういきなり冷静になれるものではないが、懐から浮かび上がったアミュレットを目にして、ミスリアは何故か上を仰ぐ気になった。 細いものがいくつか垂れている。 蔦なのか、柳の枝なのか、はたまた蛇なのか、暗闇ではわからない。手に取るしかなかった。 女ひとりの腕力でどうにかなるようなはまり具合ではなかったはずだが、不思議と迷いはなかった。時々手が滑っても、必死さが勝った。 ずるりと沼から片足まで抜け出し、近くの草をまさぐるようにして身を引き上げる。後日、上半身が何日もの間の筋肉痛にさいなまれることになろうと、今の安堵感を忘れたりはしない。 (いけない、稲妻二回分も休んでしまった) ますます重い手足を引きずり上げて、立った。小川はこんなに遠かっただろうか? 否、もう目と鼻の先だ。後二十歩。十歩。 ミスリアの遅れを知って振り返っていたゲズゥの表情が、唐突に険しくなった。 (え) 嫌な気配に全身が震え―― 「ニガサナイ」 頭上から、濁った声がした。 |
5.混乱と混乱 - b
2021 / 05 / 19 ( Wed ) 次々と空を切るナイフをゲズゥは弾いてみせた。鉄と鉄がぶつかる短い音が何度も響く。音ばかりで、凶器の影を認めることは、数度に一度くらいしかできない。 (水場なら星明かりを反射するはずなのに)伸び放題の水草や木々などの遮蔽物が多すぎるのか、沼の位置を知る術がない。闇の濃さは緩和されずに、辺りを、心すらをもじわじわと呑み込まんとする。 「さしずめ向こうの男は、貴様が囚われのその女を探し出すまでの時間を稼ごうとしていたのだろうが」 攻める手をまったく休めずに、敵が口を開いた。飛び道具は無数に持っているのか、尽きる予感がない。 「涙ぐましい話ではないか」 男の言葉には嘲笑が含まれていた。 「時間を稼いでいるのが私たちの方だとは考えないんですか。たとえば、町長さんが兵を連れて戻って来るまでの」 「一理あるな。報復も視野に入れるべきか。ならば、さっさとお前たちを始末してここを引き上げればいいだけの、話!」 ミスリアを狙ったらしいナイフを、ギリギリのところで大剣が防いだ。ガキン、と鋭い音と共に火花が散る。 (音……そうだわ、相手だって松明を持ってないんだから、私の声のした方を狙ったはず) 一方でゲズゥはしばらく声を発していないが、もともと的としては大きい。敵が適当に投擲していても当たりかねない、それだけで牽制になる。加えて、周囲が濡れているせいでどうやっても足音を立ててしまっている。だいたいの位置が知れてしまっても仕方ない―― 足音と水音からひらめくものがあった。ミスリアは足元を手探り、小石をいくつか拾い上げては投げた。 別段、誰かを狙っての行為ではない。むしろ人には当たらないように、低く、けれどもできるだけ遠く、石を一個ずつ飛ばしてみせた。 ミスリアの動きを怪訝に思った男が「小賢しい」と呟いた。無視した。なるべく計画的に、一度投げた場所を再びなぞらないように、左から右、手前から奥へと、小石を投げ続けた。この行動の意図を正しく理解する者はひとりだけでいい。 そうしていると、願った通りに彼は初めて「前」へ進み出た。 ゲズゥ・スディルは耳が良く、また、空間認識力と記憶力も良い方だ。小石の立てる音の具合から既に脳内に地面の図を構築できていることだろう。どこを踏めば水が浅く、どこならば深いのか。把握できたならば、これで防戦一方であった状況から脱せる。 彼は大胆に距離を詰めては横薙ぎに剣を振るった。実際の歩の進め方はかなり紆余曲折していたが、そこに迷いはなかった。 大きな鉄の塊が空気を裂く勢いを前に、ほとんどの人間は反射的に退くか避けるかするだろう。しかし男は懐から棒のようなものを取り出して、その一撃を仰け反りながらも半ばで受けた。 余った衝撃が発散し、男の髪を切り払う。 背を後ろに曲げた姿勢のまま、棒を放し、またナイフを繰り出した。 ゲズゥは避けなかった。男の持っていた棒を弾き飛ばした姿勢からさらに一回転して、斜め下へ剣を奔らせた。その際にさばききれなかったナイフは外套を裂いたが、肉に刺さるまでには至らなかったようだ。 今度は男は舌打ちしながら横へ跳んだ。近接戦闘への備えはしていなかったらしい。数度跳んでゲズゥの間合いから逃れ、嘆息した。 「まさかそんな方法で沼を攻略するとはな。だがさすがに逃げ道の確保にまでは至るまい、地道すぎるし、そもそも我々が妨害する」 男は大げさに両手を挙げた。まるで見計らったかのように、背後から二人の人影が歩み出た。一方は、何か大きなものを雑に引きずっている。 ぐったりとした様子のそれは成人男性に見えた。彼が何者なのかは、ゲズゥが動きを止めたことから、察しがついた。 「貴様らとこいつの間柄は知らんが、捨て置けないだろう? 回収にきてはどうだ」 やはり雑に、悪漢たちが男性を見せびらかすように引き上げた。 (なんて卑怯な連中なの) たとえばゲズゥが残る敵を全員倒せたなら、逃げ道云々は問題ではなくなっていた。朝を待って、日さえ昇れば、罠があろうと何だろうと安全な帰り道を選ぶのがぐっと簡単になる。魔物との乱闘で敵の数は減っているのだから、現実的な解決法と言えよう。 (けれどその人を盾にされたら、反撃しづらい) 自分は本当にもう祈ることしかできないのかと、ミスリアは歯噛みする。 これ以上悪くなりそうにない状況で、更に辺りに分厚い水滴が降り始めた。 「天まで貴様らを見放したようだな。大雨では、川辺を伝って町に戻る難易度も格段に高くなる」 こちらのあらゆる退路を見透かしていたのか、男は嫌味っぽく笑った。 「貴方は! ……楽しんでるんですか? お金を払われたからではなく、ただ人を追い詰めるという行為を」 たまらず、叫んだ。 瞬間、男の微笑が雷光に照らされる。 「むろん」 |
5.混乱と混乱 - a
2021 / 04 / 22 ( Thu ) 展開した聖気が、捧げた祈りが実を結んだことを、肌を掠る静電気のような具合にミスリア・ノイラートは感じ取った。 (よかった、うまくいった)ミスリアは、聖女でなくなってから久しい。 己の本質は変わっていなくとも、以来、自身の聖気の器としての性能が著しく落ちてしまっているのは事実だった。奇跡の力と称される業(わざ)の数々はまだ十分に扱えるが、一度行使してから次に何かをできるようになるまでの間隔が徐々に長くなっている。少なくとも今日から最短一週間は聖気を扱うことができないだろう。 愛しい人と暮らすために支払った代償だ。後悔したことは一度だってない。 驕らず、只人として精一杯生きるのみである。 ゲズゥもまたそのことをよくわかっているからこそ、以前のような無茶はしなくなった。どのような理由であっても、負った怪我を自力で治す心積もりで日々に臨んでいる。 (ただの私にできることは……) 覚束ない足取りで立ち上がる。 ここに閉じ込められてからしばらくして、手首を拘束され目隠しをされた。本来ならそれだけでこの広い地下を動き回る気力がみなまで削がれてしまうところだが、先ほどのシェニーマの叫び声の響き方と、流れ込んでくる僅かな風が、地上への扉が開いたままであることを物語っていた。 口の中で小さく彼女へのお礼を呟いた。その勇気に報いて、何としても出口を探さねばならない。 手を背後に縛られては手探りで道筋を探すことも難しいが、大体の方向がわかっているのだから這ってでも進めばいい。 何度も転び、何度も立ち上がり、諦めずに歩を進めた。 地上の喧噪は勢いを増していた。 (不思議ね。魔物の気配が懐かしいわ) 魂があらぬ姿に変貌した存在。恐ろしかったり、歪だったり、もの哀しかったりするそれを、ミスリアが自らの目的の為に呼び出して利用したような形になってしまった。 しかも、聖気で彼らを昇華させてやることができないのだ。目と鼻の先にいても、今は救ってやる手立てがない。 後ろめたさは感じるが、背に腹は代えられない。今夜この場をやり過ごすことができたなら、いくらでも反省しよう。 (あとどれくらいなの) 視界も身動きも封じられていては、ほんの少しの距離を歩くだけでも変に疲弊する。途中、どこかで方向を誤ったのかと不安が募る。だが杞憂に終わった。 やっと階段らしきものにぶち当たると、意図せず膝から倒れ込んだ。そこから再び立ち上がるまでにやはり時間がかかったが、なんとか上りつめた。 空気の匂いが変わった。 カビ臭さから解放され、草花の薫りと、水っぽい匂いがした。混乱の方へ一歩踏み出そうとして、すかさず転びかける。 目に見えぬ誰かに抱き留められて、転ばずに済んだ。そして耳に慣れた低い声に迎えられた。 「……さがす手間が省けた」 「お役に立てて何よりです」 「久しぶりだな、お前がさらわれるのを助けるのは」 「そんなにいつもさらわれてたまりますか」 彼は、元より無駄なことをしない性質だった。口を動かすよりも手を、とあっという間に拘束を解き、目隠しを外してくれた。 「どういう状況ですか?」 ある意味での「暗闇」に慣れてしまっていた目は、すぐに屋外の景色を受け入れた。 「連中は、突然の光と魔物の出現に反応が遅れた。二、三人は簡単に倒せた」 ついでに暴れまわる町長の馬もなんとか捕まえて、まだ気を失っていたシェニーマと町長を帰路につかせたと言う。 「さすがですね」 しかし敵方が体制を立て直したため、町長が来た道はもう通れない。別の退路を探すしかないそうだ。 「……あの男も残って戦っているが」 「あの男とは、どなたのことですか?」 ゲズゥはすぐには答えなかった。どう説明したものかきっと考えあぐねているのだろう、そう思ってしばらく待とうと思ったが、ふと気になってミスリアは別の問いを口にした。 「外套が随分と濡れているようですね、雨でも降ったんですか」 「いや。これは動き回っている間についた泥――」 ゆらめきのように近付く人影があった。路地で遭遇した物騒な男なのだと、すぐにわかった。無意識に体が強張る。 ミスリアを背に庇うように、ゲズゥが進み出る。 「オマケの方に厄介な縁者がいればどうするのかと雇い主は心配していたが、なるほど、厄介だったな」 「…………」 「あの光はなんだ? 何故その直後に魔物が現れた?」 殺気に満ちた質問に、ゲズゥは剣を構えて応じた。口を開けば、彼は幾つか前の質問に答えていた。 「……家の側面と裏に沼が疎らに広がっている。おそらく、正確な模様を把握しているのは住人だけだ。雇った用心棒連中にはどこが安全か教えてあるのだろう」 「ほう、よく気付いたな。その通り。ただ足を取られるだけでなく、下手なところに入ればすぐに全身を吸い込まれて溺れるぞ」 男は得意げに笑って、どこからかナイフを数本、取り出した。脅すように切っ先を揃えて向ける。 「さあ、逃げられるものなら逃げてみるがいい」 投げナイフ勢はエンリオ以来な気がします |
4.取り戻す男、ゲズゥ - e
2021 / 04 / 09 ( Fri ) 見張りの男がひとり、階段を下って消えていった。ほどなくして、微かな足音が戻ってくる。 しかしその足音の主を確認できるより前に、別の方向からけたたましい音がした。家の中から誰かが出てきたのである。「何をもたついてる。あんまり遅いから、おれ自ら出迎えにやってきたぞ」 「戻れ。話をややこしくするな」 現れた雇い主を掌で押し戻しながら、例の男が厳しく諫めた。だが既にその顔を見咎めた町長が、無遠慮に指を指す。 「きみは! そうか。今回のことはきみの家が絡んでいたのだな」 「ふん。父上がぼやいていたぞ。お前たちの家がいつもいいとこでうちの商売の邪魔をするって。だから今度はおれが邪魔をするんだ。来月の祭の準備、食糧調達から要人の接待まで、全部お前に任されてるらしいな。自分には荷が重いとか言って辞退しろ。そんでうちがその穴を埋めて大活躍、そっちは地位と信頼を失えばいい」 「短絡的な……父君が知ったら、失望するんじゃないかね」 「バレなきゃいいんだ。お前さえ黙ってれば」 「商売を妨害するにももっといろいろとしたたかにやれるものだ。だいたい私が辞退したところで、きみたち以外の別の者が代わりに選ばれるとは考えないのかい? そんなだからいつまで経ってもきみは跡目に選ばれない」 「う……うるさい! 知った風な口をききやがって」 指さされた男は怯んだように間を置いてから、喚き返した。成人済みの男にしては言動にどこか幼さが感じられる。一方、町長は相手の目的を知った余裕からか、いくらか冷静さを取り戻して対峙していた。 会話を聴き取りながらも、ゲズゥの視線は今なお地下への扉を捉えていた。開(ひら)けたままの、闇への穴。地上でのいざこざを聞きつけたのだろうか、階段を上がる足音は警戒気味に遅くなっている。 そうして押し出された人影は小さく、女のものに間違いはなかった、が。 ――まだ識別するには至らない。 それはロドワンにしても同じらしい。先ほど盗み聞きした会話の内容をゲズゥが共有しなかった理由は、それを知っては咄嗟の判断を鈍らせるのではないかと危惧したからだ。律義そうなこの男が、大事な「お嬢様」に加えてミスリアの安否にまで気を回す必要はない。 「シェニーマや、無事だったか!」 町長が人影を娘と信じて呼ばわる。 女は、手首が背後に拘束されているためか、全体的に軸がふらついて見える。しかしそれを別にしても、輪郭の揺らぎ方、足取りが、ゲズゥにとっては見覚えのないものだった。そして次の一声が決定的だった。 「逃げて! ミスリアちゃ――」 拘束はしても口までは塞いでいないようだ。女の叫びは、後ろの男に横腹を殴られたことによって遮られた。 ロドワンが跳んだのはその直後だった。地に一直線に向かっていく背中を、ゲズゥは無言で眺めた。制止の声を投げかけたところで無駄に終わっただろう。 「お嬢様を放せ、外道」 剣が鞘を擦れる音と共に、鉄の鈍い光が瞬いた。 「何だお前、どこから……木の上から現れたのか!?」 誰何(すいか)した男を、ロドワンはおもいのほか手慣れた様子で斬り伏せた。更に飛びかかってきたもうひとりを蹴り飛ばし、項垂れている女を抱き起こすまでに、僅か数秒間。 だが二人が顔を上げた時には用心棒らに囲まれてしまっていた。町長もいつの間にか、例の男に捕まっている。 しかも、木の上からロドワンが跳び降りたのがはっきりと見られた。まだ仲間が潜んでいないか、検めるためにこちらに向かう人影もある。 そうなってもゲズゥは動かない。 どちらの娘が「本物」か割れた以上、まだ地下にいるはずのミスリアが今後生かされる可能性は低いだろう。だからと言って考えなしに飛び出したところで、全員分の帰り道が確保できそうにない。 剣に結び付けたペンダントを見下ろす。これは普段ミスリアが持っているものだが、たまに典礼に出席する彼女に付き添う時だけ、この手に渡る。形だけでも皆さんに合わせて祈祷してください、そう頼まれるからだ。 ゲズゥに神々や聖獣を敬う心は無いが、こういった道具の有用性は理解している。 ――逃げろと懇願した叫び声が聴こえたのなら、アイツが次にすることは―― まるで心の声に呼応するように。ぱちり、黄金の光が弾けた。 闇の中に生まれた火花にも似た現象に、驚くわけもなかった。むしろこれを待っていた。離れていても届くのが、ミスリア・ノイラートの祈りというものだ。 ゲズゥは目の前に片手をかざし、教団の象徴を銀の鎖から引きちぎっては放り投げた。 閃光。 突然に視界を奪われた地上の人間たちの困惑する声を、しばし聞いていた。 それに交じって――獣の遠吠えのようなうすら寒い鳴き声がどこからか響くと、今度こそゲズゥは大剣を手に取り、大地に降り立った。 次回、5.混乱と混乱 くっそお久しぶりです。なんでか年末から今まで、更新できる文量に至ることができず、なんと去年の誕生日あたりに始めたこの番外編がずるずる今年の誕生日を過ぎても完結してない事態に陥りました( かろうじて感覚が戻ってきた気がするので、これから終わりに向けて頑張って進めたいと思います。 ミズチもいい加減に再開したい…… もう誰もこのブログのことはおぼえていないでしょうけど、今年もよろしくお願いします!(おい |
なんだか最近ご無沙汰でアレですが
2020 / 11 / 14 ( Sat ) |
4.取り戻す男、ゲズゥ - d
2020 / 10 / 18 ( Sun ) ――町長の出方は、敵がどれほど悪趣味な手を使うかにもよるだろう。 通常、「言うとおりにすれば愛娘を返す」とでも迫られると考えるが、せっかく人質がふたりもいるのだから、両方とも使おうとするかもしれない。たとえば下劣な手で「言う通りにすれば片方を返すが、残る方は殺す」と条件が付くとする。得られる結果は同じだが、後味の悪さが長く尾を引いて町長の後の人生を狂わせかねない。 その場合、町長はミスリアを町民と思って助けようとするのか、或いは娘のためならば多少の犠牲も致し方ないと見捨てるのか。 どのような展開になっても、動けるようにしなければなるまい。 ゲズゥは町長の人柄や評判を一応耳にしているが、だからと言って当てにはしていない。他人の出方に身内の命運を賭けられるほど、安易な人生を歩んでいないのである。 物思いに耽っていると、ふと「星が明るいな」とロドワンが呟いた。 つられて夜空を見上げる。言われてみれば空気が澄んで、星々は輝きを増してきたように感じられる。今夜は月がか細い代わりに星がよく冴えるが、かといって地上に降りてしまえば木の葉などの遮蔽物もあって、視界は良好と言えない。 罠、視界、地上、水源――頭の中でいくつかのキーワードが回っていた。二、三度と瞬いて、塀が無いことをゲズゥは改めて不審がった。 また秋の夜風がひゅるりと吹いた。裾の長い外套に身を包んでいなければ、手足が動けなくなる程度には寒い。 「堀」 「は?」 端的に過ぎて、ロドワンに話が通じなかったらしい。 「水の貯められた堀か、落とし穴の類に用心しろ」 「わかった」 馬蹄の音が近づいてくる。次いで、気を引き締めた。 本当に言われたとおり単身やってきた町長が、見張りの者に向かって声を張り上げた。 「来てやったぞ! さあシェニーマを返せ!」 「急(せ)くな。ここじゃ寒いだろ、中で茶でも飲んでいけ。雇い主がお前を待っている」 「人を誘拐するような輩と茶なんて飲めるか。早く娘に会わせてもらおう!」 「あ? 調子に乗るなよ。誰が主導権握ってると思ってんだ」 見張りの者三人のうちふたりが、まだ馬上にいる町長を取り囲んだ。輪郭から判断するに、ふたりとも剣と盾で武装している。離れている三人目は弓矢を備えているようだった。 緊張感が、ここまで伝わってくる。 主人の危機に今にも飛び出しそうなロドワンに「迂闊に出るな」と小声で念押ししておく。 しかしこれはまずい。屋内に入られたら、突入する隙を見極めるのが格段に難しくなる―― こちらの苦悩を知ってか知らずか、好都合にも町長の方が簡単に折れなかった。娘の無事を確認できないならば今にも踵を返すと主張している。不毛と思われたやり取りが数分続き、やがて敵方の代表たるあの男が出てきた。状況を聞くと、部下に向かって命令した。 「いいだろう。娘を連れてこい」 事前に話を通したのか、秘密の合図でもあったのか、「どちらの」娘を連れてくればいいか明言されていない。 ――ここが分かれ目。 重く軋む、地下へ扉の音を聞きながら、ゲズゥは奥歯を噛みしめた。 |
4.取り戻す男、ゲズゥ - c
2020 / 10 / 03 ( Sat ) 「また『待つ』か……。私は貴殿の口車にのせられて、旦那様に無断でこんな――らしくもない真似を……」
歯切れの悪い呟きの後、どうかしている、とロドワンは疲れたように言った。 「その認識に間違いはない」 「責任転嫁しているように聞こえたなら謝罪する。そうではなくて、私が、常になく動揺しているのだろう」 「……だろうな」 ゲズゥは短く肯定した。奴にとって、攫われた女がそれだけ気にかかる相手だということは、最初から察していた。だからこそ手をこまねいていないで自らの足で動けと煽ったのだ。 そこから続く話がなく、しばらく周囲の観察に専念する。 確かに森の中の家は明るく照らされているが、庭が広く、隅々にまで灯りが行き渡っていない。塀も建てられていない。女たちを助け出してからの退路を確保するに当たって、これらの事実は好都合と言える。或いは、庭に踏み入った途端に灯りが一斉につく罠が仕掛けられているかもしれないが。 どこからか虫がしきりに鳴いていた。 見張りの三人を除いて、すっかり人の気配が引いている。 この場にあるもの、ないもの、そしてあって欲しいものを考えた。虫の鳴き声の合間に聞こえるこれは――流れる水の音か。 目を凝らしてみると、伸び放題の野草の影に、裏庭を横切る小川を見つけ出せた。音の深みから水量を想像する。 「あれの流れ着く先がわかるか」 「この方角なら、町中を流れる河と合流するはず」 なぜそんなことを訊くのかと余計な返しはせずに、ロドワンが思案して答える。 「使えそうだな」 ――来た道を素直に戻れるのは、きっと一組だけだ。 敷かれた警戒網をかいくぐるだけでも困難なのに、帰りは人数が倍になる。しかも半数は非戦闘員、皆で無事に脱出するには工夫が必要となろう。加えて、来た時に用いた馬は二頭。ふたり乗りでは速度が落ちるため、ひとり乗りを保つのが望ましい。 臨機応変に当たるしかあるまい。隙を見て二手に分かれるべきだと、端的に説明した。ロドワンは了承の意を示し、隙があっても見極められるだろうか、との不安を口にした。 「無ければつくる。ひとつ目は町長の到着……」 剣の柄に巻いたペンダントを見やる。 もうひとつ混乱が欲しいところで、それには魔物を頼るつもりだと続ける。 「魔物を? やはり貴殿は魔物狩り師なのか」 「違う。縁があるだけだ」 その返答に嘘はなく、ゲズゥは主に日雇いの仕事で生計を立てていた。時々、教団や魔物狩り師連合との伝手から仕事をもらったりもして、その時だけ稼ぎがやや増えたが、無駄なく質素に生活していれば特に困ったりはしなかった。 この世界で言う魔物とは神出鬼没で不規則、夜間のみ実体を持っていて霊的で不可思議、そして明確に人間を襲う習性がある。一般の認識では超常現象や災厄のように捉えられているが、個体差は大きくとも、その実態がある程度に法則めいていることをゲズゥは知っている。 先ほど屋敷で話題に上った通り、数年前に聖獣が大陸を浄化してから魔物の残数と発生率も限りなく減っている。 そんな中でも条件次第で「ここに現れるかも」と予測のつけようはある。たとえば魔物が本能的に近付きたいと願う、聖なるモノ。条件のひとつに当てはまるのが攫われたミスリア・ノイラートの存在だが、彼女だけでは足りえなかった前提条件が、ここにはもうひとつ揃っていそうだった。 ――他者に、もっと言えば死者に。払拭されていない怨みを、現在進行形で抱かれる対象―― あの雇われたという荒くれ者どもがいかにも適任だが、とりわけ雇い主と話していた男の空気には、遠くからも片鱗が感じ取れる「何か」があった。 たとえ聖獣が瘴気を一掃した後の世の中であっても。これだけ一か所にきな臭い連中が集まっていれば、残留思念として浮遊していただけの死者の残滓も魔物という実体を得るかもしれない。そこに全部の期待を向けずとも、意識の先端に置くくらいはいいだろう。 あと整理すべきは、町長の行動予測か。 |
4.取り戻す男、ゲズゥ - b
2020 / 09 / 26 ( Sat ) さてどうやって奪い返すか、脳内で様々なパターンを思い描く。 その一方で、地上ではふたつの人影が言い争っているようだった。ゲズゥは神経を耳に集中させた。話し声の抑揚に耳が慣れた頃には、よりはっきりと盗み聞きできるようになっていた。争うよりも、どちらかが一方的に相手をなじっているらしい。「――い、お前――……に大丈夫、だろうな! 何でふたりも女をさらってきたんだ、どっちかは偽物の、関係ない娘なんだろ! 面倒を増やしやがって」 体格が一回り小さいほうが苦情を喚き散らしている。いずれも男のようだった。 「どっちかが本物であれば、町長には通じる。ハズレだった方は口封じに始末すれば問題ない」 瞬間、全身が総毛立った。 させない。始末されてたまるものか。喉の奥から目の裏まで、火がついたように熱くなる。 今すぐに飛び出したい衝動を、ゲズゥは拳を握って堪えた。冷静さを手放したら一貫の終わりだ。怒りが収まるまで、浅くなっていた呼吸を意識的に引き延ばした。 「そういう話をしてるんじゃない! どこの誰とも知れない女だ、そいつの縁(ゆかり)に厄介な人間がいたらどうするんだ」 「どうもしない。関係ないならそれだけに、こんな人気のない森奥まで嗅ぎつけて来ない。足が付かないように消せば済む」 「ちゃんとやれよ? 何のために高い金を払ってまであんたらを雇ったんだか」 「心配しなくとも報酬分の働きは」 する、とおそらく続くはずだった言葉を切って、男が鋭く首を巡らせた。 双眸の煌きが、こちらを探るように動いた気がした。実際は遠くて、よく見えない。 「なんだ突然」 状況を読まずになおも喚く雇い主を、男が「シッ」と黙らせた。 ゲズゥは息を静めて動かなかった。その間の会話は息を潜められて行われたものだったが、聴覚の優れているゲズゥには、かろうじて聴き取れる音量だった。 「視線を感じた」 「どこから」 「それがわかれば苦労しない」 「みつけられないってことは野生の動物じゃないのか。この家の周りは明るくしてるから、ひとが隠れる場所なんてほとんどないぞ」 「ほとんどないだけで、まったくないとも言えない」 「そうかよ。警備も侵入者対応もお前らの仕事だからな、隙があるならどうにかしろ。おれは中に戻る。寒い」 雇った男の意見をいかにも軽視している様子で、小柄の方の男がその場をあとにした。身にまとった外套をバサバサとうるさく翻しながら歩いているとおり、他人の目など意に介してもいないようだった。 残った方の男は他の警備の者――部下か仲間だろうか――を数人呼び寄せて何かの指示を出した。それを受けた連中は散開し、明らかに周囲を警戒した。指示を出した男も数分はその場に残っていたが、やがて手元の灯りを消し、影の中へと消えていった。 ざあっと、冷たい風が吹き抜ける。 ようやくそこで、ゲズゥは斜め後ろの樹の幹に背を預けていたロドワンを振り返った。地上の人影に悟られないように細心の注意を払って動いていたのが、今になってようやく追いついたようだった。 「あれは、まさか」知っている人間でも見つけたのか、ロドワンは口元に拳を当てて考え込んでいる。ゲズゥは無言で続きを待った。「顔が見えなかったから確信が持てないが、声が似ていた……ああいう風に怒鳴り散らすのは初めて聞いたが」 「つまりお前には誘拐の動機の見当がつくんだな」 「大体は予想できる。しかし彼らはなんて言ってもめていたんだ? 私には内容までは聞こえなかった」 「気にするな。俺にも聞こえなかった」 「そうか……ではこれからどうする?」 問いかけに対してゲズゥは、待つ、と答えた。 |
4.取り戻す男、ゲズゥ - a
2020 / 09 / 19 ( Sat ) 星明りの下に、まだ新しそうな轍をみつけた。 ゲズゥ・スディルはその場に片膝をつき、窪んだ土の感触を指先で検める。深さからしてそれなりに大きな馬車が残したものと思われた。その旨を背後の者に伝えると、ロドワンという男は少なからず声を弾ませた。「では馬車が行き着いた先にお嬢様たちがいるかもしれないと」 馬車の通った痕跡を見つけ出すまでに要した時間は、そう多くなかった。この森の中は木々もまばらで人が好きに動き回れそうだったが、馬や馬車が通れるほどの幅となると、選べる道筋は限られていた。逆に言えば、馬車を通すために人為的に道が開けられているとも考えられる。 だが森の奥に潜む相手もそのことを理解しているはずだった。行き先までほとんど一本道ともなれば罠が待ち構えている可能性は高いと、ゲズゥは指摘した。 「我々が罠にかけられるというなら、旦那様だって危ないのではないか。目的によってはそうとも限らない、か? ともかく、罠を警戒しつつ人質の居所を探さなければならないということだな」 「……不利な話だ」 ゲズゥは借りた馬の背に再び跨った。ロドワンはまだ何か言いたげだったが、同じように己が連れた馬の鞍上に戻った。 旦那とやら――もとい、町長には何も断らずに先に家を出ている。つまり「交渉」の刻限までに人質を助け出す多少の猶予があるわけだが、囚われている場所の見当がつかない以上、既に滞っている。 いっそのこと。 「火をつけるか」 ゲズゥが何気ない思いつきを口にしたら、ロドワンが驚愕を押し殺したような咳を漏らした。 「焼き討ち!? 探し人が巻き込まれるかも知れないだろう」 「その程度で死ぬようなら、どうせ救えない」 「火事は『その程度』ではないと思うが」 「混乱をつくれば、罠を突破するまでもなく敵をあぶり出せる」 「だとしてもリスクが高すぎるのではないか」 「…………」 会話は途切れ、結局、放火の案は不採用になった。もとよりゲズゥとて本気で検討していたわけではない。 そうして夜が更けた。森の奥深くへ進むうちに、人家のものと思しき煙の匂いが漂ってきた。暖炉か、食事の残り火かもしれない。これ以上騎乗したまま近付いては感付かれるだろうとおそれ、二人は下馬した。 馬を樹に繋ぎとめると、ゲズゥは空を仰いだ。視線をやるのは星の眩い天空ではなく、高くそびえる樹々の方だ。ざっと見て枝と枝が絡み合う輪郭を把握し終えると、登り始めた。 しばらくして、ロドワンが後に続く。口に出さずとも意を察したようで、こちらとしては楽である。 「どうだ、何か見えるか」 そう言って、ゲズゥよりひとつ下の枝に止まった。荒事と縁が無さそうな風貌をしているものの運動能力は十分備わっているらしく、ここまでまったく息を乱さずについて来ている。身のこなしからも俊敏さが感じられる。戦力として当てにできそうで、何よりだった。 問いに対してゲズゥは斜め左の方を指差す。 斜線上のずっと先に建物があった。森小屋と呼ぶには規模が大きく、おそらく誰かの隠れ家とでも言ったところだろう。隣に厩舎があり、屋外に幾人かの人影があった。 ここからだと建物の裏の様子がうかがえない。 「もっと近づく」 言い終わるより早く、ゲズゥは別の枝へと跳び移っていた。 「貴殿はあまり音を立てずに移動できるのだな……私には樹と樹の間を移動するのは難しそうだ」 後ろから感心の声が挙がる。 「遅れて構わない。だが静かに進め」 「わかっている」 数分間たどった後、空中の枝の道が途切れた。幸い、ここからは裏庭がよく見えた。何せちょうど灯りを持った人間が動いたのである。その者が立ち止まった場所のすぐ近くで、地面の扉が開いた。成人男性の体格をした人間が、ゆっくりと地上に上がってくる。 ――地下とはよくよく縁がある。 かつて聖女と大陸を旅した日々を思い返して、ゲズゥは苦笑した。 きっとあの扉の向こうにミスリアが居るはずだという予感に、根拠も理屈も何もなかった。 |
3.焦る男、ロドワン - d
2020 / 07 / 20 ( Mon ) 『ほっといて! 保護者面しないでよ、家族でもないくせに!』
再生された瞬間だけ周りの音が遠ざかった気がした。ずっと朝から息苦しい思いをしているが、吐き付けられたこの一言を思い返す時こそが、何より息苦しい。 迷いがそのまま口をついて出ていた。 「助けに行って、いいのだろうか。私はきっと嫌われている。顔も見たくないと思われていたら」 何故お前が来たのかと、帰れとでも言われたら、その後立ち直れる自信がない。何食わぬ顔で屋敷で生活し続けられるほど、ロドワンは器用な方ではなかった。 「どうでもいい」 まったく感情ののらない声で、今日出会ったばかりのゲズゥが一蹴した。彼にしてみればどうでもいい話かもしれないが、もう少し言い方というものがあるのではないか。何か言い返さんと顔を上げると、見返す瞳は、意外に真剣そうだった。 「それは互いが生きていてこその悩みだ。優先順位を間違えるな」 「生きていてこそ……?」 反芻した。最悪の事態を、二度と会えなかった場合を想像する。 今この時も敵の手中に収まっている彼女が、どんな拍子で命を落とすことになるのか。相手の気が変わるなどして、交渉どころではなくなったら。 確かに、お嬢様が息災であること以上に重要な問題はない。嫌われているか好かれているかなんて、実に些事である。ロドワンは己の浅慮を深く恥じ入った。 「旦那様がお嬢様を無事に連れて戻るのをただ待っていても、望む結果になるとは限らないのだな。だから、先に赴くべきと」 ゲズゥは答える代わりに顔を僅かにしかめた。言葉に出していない考えが他にもあるのだとロドワンは察したが、訊かないことにした。 「失礼した。貴殿の言う通りだ。何よりも彼女たちの身の安全が最優先だ、どうして行動せずにいられようか」 身支度をするのでついてくるように伝えると、自室に戻って装備を整えた。その間、ゲズゥは自身が持ってきた大剣の他に、短剣の状態を確かめたり、長靴の紐の締め加減を調整していた。 大剣の表面は光を鈍く反射する程度に磨かれていて、研がれたばかりに見えた。かといって新品ではなく手入れが行き届いているのであろう、柄や刃の染みからは使い込まれている印象を受ける。それを恐ろしいと受け取るべきか頼もしいと受け取るべきか、ロドワンは今更ながらに目の前の男性の素性を思った。先ほど主に職業を問われて彼は「薪売り」と答えていたが、どうも腑に落ちないものがある。 (道中、背後から斬られるなんてことはあるまいな……私には嘘をついているとも思えないが、こんな時お嬢様がいたら……) ――あんたはひとを疑わなすぎよ、何回痛い目みれば気がすむの。 そう言ってあの麗しい顔が呆れに歪んだのがいつのことだったか。つい最近だったようで、懐かしいと感じるほどに昔だったようでもある。 しかし疑えと言われても、どうやればいいのかわからない。ひとまずもっと目を凝らして相手の動向に注意していようと結論した。 ゲズゥは先ほどテーブルから拾い上げたペンダントを、左手首に結び付けていた。 「そんなところにアクセサリをぶら下げては邪魔にならないか」 口に出してしまったと気付いたのは言葉も半ば言い終わっていた時だった。 いかにも面倒そうな顔で、客人が否定した。 「これは道標――いや、道標は魔物の方か」 「魔物がどうやって? 言っている意味がわからない」 「…………」 訊ね返しても返事はなかった。 もしかすると彼は魔物狩り師なのでは、とロドワンはふいに思った。理由はわからないがそう名乗り出るのを憚っているとすれば、辻褄が合う気がする。 「私は夜の森についても魔物についても知識が足りない。不得手なことばかりで、きっと頼り切りになってしまうが、よろしく頼む。我々の共通の目的のために、手を取り合おう」 今度こそ握手を求めて手を差し出す。 ゲズゥがその手を凝視して、握手を返してくれるまでの間に、たっぷりと五秒はあった。 「ああ。少なくとも途中までは、道連れだ」 真意を問い質すのが怖くなるようなことばかり言う――とは口に出さずに、協力感謝する、とロドワンは応じた。 |
3.焦る男、ロドワン - c
2020 / 07 / 05 ( Sun ) 主人は手紙を読み終わるなり握りつぶした。衝動だったのだろう。疲れたように嘆息し、丸めた紙を軽くロドワンの方に投げてきた。 受け取った黄ばんだ紙の端々を伸ばし、インクが描く文字を指先で辿った。娘を返してほしくばウーデルハインツ家当主が単身で指定の場所へ来るように、と意味する文章があった。時刻の指定はなく「星が最も明るい頃」とだけ書かれている。ロドワンは客人にも伝わるように、手紙の内容を声に出して読み上げた。「旦那様に供もなしに馬を駆れと言うことですか。危険です!」 「仕方あるまいよ、ロドワン。言われた通りにしなければ、人質の身がどうなるか知れないんだ」 「しかし、どんな交換条件を出されるか。無事に済むでしょうか」 「私が行くしかないんだ」 「旦那様……」 拳を握り、唇を引き結んでいる主人は、自棄になっているとしか思えない。娘の安否を想うばかり、判断力が損なわれているのではないか。ロドワンは心配したが、そうとは口に出せなかったし、自分も冷静でないのはわかっていた。 ふと、細やかな金属が擦れ合う音がした。 ロドワンは音のした方を振り向いた。どうやら黒髪の客人がテーブルにあったものを拾い上げた音らしい。それも巾着袋から転がり出たのだとすれば、手紙の下に隠れていたのだろう。 銀細工のペンダントと、その細い鎖部分には黒いリボンが結ばれている。シェニーマの趣味とは思えない味気ない色合いに、すぐにロドワンはそれが誰の持ち物であるかを察した。客人はスッと目を細めては無言でペンダントを懐に押し込んだ。 「呼び出された場所は町の結界の外か」 低く、夜の静寂に響くような声だった。部屋に漂う動揺が、切り裂かれた気がした。 主人は口髭と顎髭を手で撫でながら答えた。 「ゲズゥさんと言ったね、そうだ。町の外の森で、街道からも遠い。誰かの私邸が建っているという話は聞かないけれど、何せ森が深いから、行ってみなければわからない。ああ、そういえばロドワン、頼まれていたリストを作っておいたよ。あの机に置いてある」 「本当ですか! この短時間に、ありがとうございます」 暖炉の隣の小さな机を目指してロドワンは立ち上がった。先ほど帰宅した際に、主人に容疑者をリストアップするように頼んでいたのだった。それによると当家の敵と思しき相手は四人だった。どれもロドワンの知る名前ばかりだが、森の中に土地を持っていると聞く者はいなかった。 主人はバレッタを握り締め、嘆息した。それから出かける時間までひとりで支度したいと言って、客人に挨拶をして、その場を後にした。 「お茶のおかわりをどうぞ」 入れ替わりに入ってきた女性使用人が熱々のティーポットからそれぞれのカップに新たに茶を注いでくれた。最後に、主人の飲みかけのものを下げると同時に部屋を辞した。 ゲズゥとふたり部屋に残されたロドワンは、己のカップから立ち上がる湯気をしばらく見つめていた。 呼ばれたのはウーデルハインツ家当主のみ――お嬢様を迎えに行く大役は、自分が務めるものではない。 (何を当たり前のことを。私は旦那様が迎え入れた、ただの孤児ではないか) 割り振られた役割だけをこなしていればいい。それすらもできなかったのだから、せめてシェニーマを助け出したいと願うのは、おこがましいだろうか。案じることくらいは許されるのではないか。 放っておけばどんどん暗い方へ思考が向かいそうだった。まだ熱すぎる茶を無理に一口飲みこんでから、両手を膝の上で組み合わせた。 「さっきはなんだって結界のことを聞いたんだ?」 気を紛らわせようと思って客人に話しかける。ゲズゥは黒革の手袋をつけている最中だった。 「魔物」 「つまり、魔物を警戒すべきか知りたかったと? だが数年前に大聖女が聖獣を召喚して以来、一晩中外を出歩いていても遭遇することは稀なのではないか。結界の内外はあまり問題ではないはず」 彼は応答しなかった。席を立ち、持ち込んできた大きな荷物から巻き布を解いていた。露になった湾曲した大剣に、ロドワンは目を瞠った。平均的な成人男性の身長ほどの尺がある。なぜそんなものを、と訊けるより早く、ゲズゥが振り返った。 「例の場所、わかるか」 「貴殿は助けに行くつもりなのか……? 旦那様でなければ交渉がこじれるのでは」 「みつからなければいいだけの話だ」 「そうかもしれないが……」 「来るのか、来ないのか」 決断を迫られて、ロドワンの脳裏に今朝聴いた声がよみがえった。 ゲズゥの剣は、たぶん本編さいごらへんでリーデンが回収してました。 |