6. a.
2026 / 02 / 12 ( Thu ) 沈黙が永遠のように感じられた。 ワイングラスがサイドテーブルに下ろされるところまでをシェリーは見届けたが、いたたまれなくなって、俯いた。次いでソファクッションを抱きこんで顔を覆う。 (や、やっぱり「今のは忘れて」で、なかったことにしよう) ――男は好きでもない女とセックスはできても、キスはしたがらないのでは? 情報源は思い出せないが、そう言われていた気がする。いくらぽかぽかと酔ってきたとはいえ、付き合ってもいない男性に口づけをねだったのは間違いだった。 『真実の気持ち? 簡単だよ。知りたければ、キスをすればいいよ。火花が散って、相手との化学反応(ケミストリー)を感じたなら、あんたにとって『アリ』寄りってこと。色々考え込むのもいいけど、さっさと唇と唇を触れさせれば、結論が出るでしょ。ダメな奴は何も感じないっていうか、ただ気色悪いだけだよ』 ルームメイトがそう言っていたのを思い出したせいだ。 彼女の話を聞いた当時、まさかそんなわけがないと思っていたし、交際前の相手とのキスにかこつけるのはなかなか至難の業に思えたものだ。それで気が付けば現状に至ってしまったのだから、人生とはよくわからない。 化学反応なんて言われても「そう」だとどうやって確信が持てるのか。熱に浮かされて、最高の恋だなどと勘違いして、痛い目を見る人の話ばかりを、ずっとシェリーは聞いてきた。 「おい」 「ひいっ!?」 クッションがものすごい力で引っ張られている。しばらく抗ったが、破けても申し訳ないので、手の力を抜くしかなかった。 視界が明るくなる。 「言い逃げか、コラ」 「そんなつもりは」 シェリーは床にぽすんと気の抜ける音を立てて転がり落ちたクッションを目で追った。四角いので転がり方が一直線にならない。 その時、外でひと際うるさく、強風が吹いた。背筋を通り、心臓を冷やすような恐ろしい音だった。この建物は大丈夫だろうか、窓が割れる場合を想定して廊下に避難した方がいいのではないかと思考する。 雑念のせいか頬に触れた手に気付くのが遅れた。 ぐいと首の向きを変えられた。右に。やや上向きに。 反射的に目を閉じた。ほつれ毛と思しき何かが睫毛をくすぐったからである。 今までにない密度で、至近距離にいる男の香りを取り込んでしまう。 それから、触れた感触に驚いた。予想よりもずっと滑らかで柔らかいし、熱い。見た目では薄そうな唇をしているのに。比較して、自分の唇の分厚さを思って、シェリーは変な居心地の悪さを感じた。リップケアも怠っていたからカサカサで感触が悪いはずだ。 こんなこと、きっと、彼には何のメリットもない。 (もういい。もう放して) 手を上げて相手を押し退けようとする―― 唇の僅かな隙間を、ちろりと何かが掠めた。と思ったら、強い力で押し入ってきた。唇よりももっと柔らかく、生ぬるく濡れていて、ほんのりピノノワールの味がする何かが。 逃げようにも絡めとられてしまった。 (他人(ひと)の舌ってこんななんだ......) 半ば好奇心、半ば返礼。己の舌を押し出して擦り合わせた。 ――きもちいい 否が応でも息が荒くなる。股間に火が付いた気がして、身じろぎした。 ようやっと放された時、息を整えながらも真っ先に思ったのは「どうしてやめるんだろう」だった。まだシェリーの左頬に添えられたままの親指が、頬骨を撫でた。その手に、自身の左手を重ねる。 青緑色の双眸に浮かんだ感情を読み解けるだけの人生経験が、自分には無い。 「……ベッド、いかね」 囁くように提案されて、小さく首肯した。 |
5. h.
2026 / 02 / 09 ( Mon ) 「全然。似合ってる。手首の傷跡も隠せてちょうどいいんじゃね」
「まったくもって同じこと思ってたけど……サラッと言うなあ」 「気ぃ悪くしたか」 「ううん。ありがとう」 「何の礼だよ」脈絡なく、乱暴に頭を撫でられた。何をするのだと上目遣いで睨んでやる。「あんま思い詰めんな。おまえは頑張って生きてる。それだけで、いいんだよ」 「…………ありがと」 涙を見られたくなくてぐっと顔を背けた。 ここに来てからやたらと謝罪と謝礼ばかり伝えているが、何度もそういう流れになってしまうのだから、仕方がない。 (雛鳥……私は、所詮は雛鳥なの) 弾みで零れた一滴が、ワイングラスの中に音もなく落ちる。 後に適当なテレビを流しながら、乾き終わった洗濯物を仕分けて畳んだ。男性のシャツは基本構造からして女性のそれとは違ったので、効率の良い畳み方を教えてもらうところから始まった。下着はもちろん、互いに触れたり見たりしないのがマナーだ。 その作業が終わっても、外には出れないので、各々の過ごし方で時間を潰していった。リクターは自室に籠もって、たぶん仕事の為に資料を読んだり整理したりしている。 昼間からワインなんて嗜んだものだから、シェリーはソファでひと眠りしてしまった。 午後になって、当初の予定通りに残り物を再加熱して食べた。 外では、強風が、建物を叩くようなひどい音を立てている。窓を覗いても雪が四方八方に飛んでいて空も地面も見えない。 「こえぇな。この音、夜中まで続いたら寝れなそう」 二人でソファに座って午後六時のニュースを聞き流しながら、食事を済ませた。空になった食器をコーヒーテーブルに下ろすなり、リクターが嫌そうに言ったのだった。 「それは冗談のつもりで言っているの?」 なんで――ワイングラスを口につけて、男は訊き返した。黒いセーターがやはりよく似合っている。 つい、高い襟に隠れた喉仏を探してしまう。 酔いが回り始めているのか、シェリーは普段よりも遠慮のない言葉を繋げた。 「だってあなたが怖がっているなんて想像つかなくて」 「おまえはオレを何だと思ってんだよ。恐怖の感情くらいあるわ」 「うーん、ダウト」 同じように食器を下ろして、シェリーはあることを思いついた。 ソファの上をザッと横切って、間にあった距離を無くした。心臓の音を聴いてみようと、胸元に耳を寄せに行ったのである。 鼓膜に伝わる心音は、予想していたよりもずっと速い。 「……あんまくっつくと、また手ェ出すぞ」 脚から肩まで密着したのだと気付いたのはそう呟かれてからだったが、右半身が温かくなってきて、離れがたい。 「謝らないよ。でも、男の人はそういうことばっかり考えてるって、本当なんだ」 嘲笑いじみた吐息が頭の上を掠めた。 「そりゃあ、いい女が目の前をうろちょろしてたらヤりたいに決まってる」 ぼっと首から上が赤くなったのを感じた。 そんな風に見られていたなんて――いや、今更驚くような話でもないか、むしろこの高揚は驚きではなく喜び―― あのね。 ソファの端に素早く戻り、膝を抱えて、シェリーは消え入りそうな声で切り出す。 「お願いがあるの」 「なに、改まって」 リクターはグラスに残り少ない赤ワインをぐるぐる回している。 その一挙一動を、息を潜めて見ていた。薄い唇の隙間に、赤い液体が吸い込まれていくまでの一連の流れを。 グラスが空になると同時にシェリーは囁いた。 「キスして、ください」 5 終わり。 ストーリー上、6は読み飛ばしても支障ないはずです。 |
5. g.
2026 / 02 / 07 ( Sat ) どうしてこんなに心揺さぶられるのだろう。水辺でのレジャーは人並み以下にしか楽しんだことはないし、水路での貿易や軍事の歴史に興味を持ったことも、今までなかった。 扉が開閉する音で、短い白昼夢から醒めた。 タバコの残り香を纏って戻ってきた家主が、おそらくシェリーの泣きそうな顔に気付いたのだろう、視線だけで「大丈夫か」と訊ねてくる。 「このライトハウスの写真、好きだな。アレクスみたい」 目元に滲んだ余計な水分を手の甲で拭き取りながら、感想を述べた。 「は? 灯台に似てるだなんて、初めて言われたぞ。六フィート越えはそんな珍しくなくね」 「身長の話じゃないよ。うん、ごめんね、うまく説明できないや」 「……?」リクターは靴を脱いでソファまで歩み寄ってきた。「なんでライトハウス行ったんだっけな。眠れなくて徘徊してたっけ……こういうのってだいたい時代の流れで取り壊されるのに、ここのは文化財の保護協会が尽力して、なるべく元の状態で維持してるって話だったっけな」 「そうなんだ」 「行ってみたいのか」 彼はライトハウスの名を口にした。ここからは車を一時間走らせれば届く距離にある。シェリーもかつてはこの町が地元だったので名前は知っていたが、州内の灯台の中では比較的地味で、人気の集まらない箇所だ。過去にそこを訪れた記憶はなかった。 「……そのうちね」 胸中に芽生えたこのよくわからない感情は、まだ人に語れるものではなかった。 旨そうな匂いが室内に充満し、そろそろ昼食の時間になったところで、外では雪がしんしんと降り始めた。 「うぅわ、激うま。やるじゃん」 「えぇ、そんなに」 トマトビーフシチューを口にしたリクターが瞬時に絶賛したので、信じられない気持ちでシェリーもひと口、ライスに絡めて食べてみた。 本当に美味だった。肉はとろけるように柔らかく、トマトの酸味と旨味が絶妙で、塩味もちょうどよかった。これまでに幾度となく同じ料理を作ってきたはずなのに、まるで新発見をしたような心地である。 「すごい。このメニューをこんなに美味しくできたことっていまだかつてないよ」 「大げさだな」 「ほんとだもん。きっと、一緒に作ったからだね」 「そんなわけあるか」 「あるよ」 具体的な理由はないし、なくてもいいと思っている。 (美味しく食べてもらいたいって願いを込めたからかも、ね) キッチンカウンターで隣り合いながらの立ち食いスタイルなのに、スーパーで買ったピノノワールも相まって、不思議と特別感があった。 こんなにも食事を楽しめたのはいつぶりだろうか。ワイングラスの中の赤い液体をじっと見つめながら、思考に耽る。 楽しいと感じる度に、後ろめたさもあった。 この時期に、心を躍らせるのは不謹慎ではないか。母がまだ生きていれば、かつて住んでいた町を訪れることも、ましてや昔の知人と再会してこんな風に過ごすことも、無かったはずだ。 スプーンを持つ右手が、微かに震えた。 幸せになりたいだけ、なのに。きっと、ただそれだけなのに。急に、何もかもを過っている気がして、視界が滲んだ。 「――腕輪」 隣からもごもごとした一言を、投げかけられた。シェリーは必死に取り繕い、応じる。 「うん、何て」 「なんかトライバルな腕輪してるな。さっき買ったやつ?」 リクターが指さした先は、確かに先ほどの服飾店で手に入れたばかりの木製の腕輪だった。横幅があって見た目は分厚いながら、着け心地は軽い。鳥や踊る原住民のような絵柄が彫られている。 「こういうちょっとはっちゃけた感じのアクセサリー、実は十代の時に着けてみたかったんだ。おかしいよね」 照れ隠しに右手の腕に触れた。実をいうと少し家事の邪魔になってしまっていたが、左手には腕時計をしているので、こういう着け方に落ち着いたのである。 |
5. g.
2026 / 02 / 07 ( Sat ) どうしてこんなに心揺さぶられるのだろう。水辺でのレジャーは人並み以下にしか楽しんだことはないし、水路での貿易や軍事の歴史に興味を持ったことも、今までなかった。 扉が開閉する音で、短い白昼夢から醒めた。 タバコの残り香を纏って戻ってきた家主が、おそらくシェリーの泣きそうな顔に気付いたのだろう、視線だけで「大丈夫か」と訊ねてくる。 「このライトハウスの写真、好きだな。アレクスみたい」 目元に滲んだ余計な水分を手の甲で拭き取りながら、感想を述べた。 「は? 灯台に似てるだなんて、初めて言われたぞ。六フィート越えはそんな珍しくなくね」 「身長の話じゃないよ。うん、ごめんね、うまく説明できないや」 「……?」リクターは靴を脱いでソファまで歩み寄ってきた。「なんでライトハウス行ったんだっけな。眠れなくて徘徊してたっけ……こういうのってだいたい時代の流れで取り壊されるのに、ここのは文化財の保護協会が尽力して、なるべく元の状態で維持してるって話だったっけな」 「そうなんだ」 「行ってみたいのか」 彼はライトハウスの名を口にした。ここからは車を一時間走らせれば届く距離にある。シェリーもかつてはこの町が地元だったので名前は知っていたが、州内の灯台の中では比較的地味で、人気の集まらない箇所だ。過去にそこを訪れた記憶はなかった。 「……そのうちね」 胸中に芽生えたこのよくわからない感情は、まだ人に語れるものではなかった。 旨そうな匂いが室内に充満し、そろそろ昼食の時間になったところで、外では雪がしんしんと降り始めた。 「うぅわ、激うま。やるじゃん」 「えぇ、そんなに」 トマトビーフシチューを口にしたリクターが瞬時に絶賛したので、信じられない気持ちでシェリーもひと口、ライスに絡めて食べてみた。 本当に美味だった。肉はとろけるように柔らかく、トマトの酸味と旨味が絶妙で、塩味もちょうどよかった。これまでに幾度となく同じ料理を作ってきたはずなのに、まるで新発見をしたような心地である。 「すごい。このメニューをこんなに美味しくできたことっていまだかつてないよ」 「大げさだな」 「ほんとだもん。きっと、一緒に作ったからだね」 「そんなわけあるか」 「あるよ」 具体的な理由はないし、なくてもいいと思っている。 (美味しく食べてもらいたいって願いを込めたからかも、ね) キッチンカウンターで隣り合いながらの立ち食いスタイルなのに、スーパーで買ったピノノワールも相まって、不思議と特別感があった。 こんなにも食事を楽しめたのはいつぶりだろうか。ワイングラスの中の赤い液体をじっと見つめながら、思考に耽る。 楽しいと感じる度に、後ろめたさもあった。 この時期に、心を躍らせるのは不謹慎ではないか。母がまだ生きていれば、かつて住んでいた町を訪れることも、ましてや昔の知人と再会してこんな風に過ごすことも、無かったはずだ。 スプーンを持つ右手が、微かに震えた。 幸せになりたいだけ、なのに。きっと、ただそれだけなのに。急に、何もかもを過っている気がして、視界が滲んだ。 「――腕輪」 隣からもごもごとした一言を、投げかけられた。シェリーは必死に取り繕い、応じる。 「うん、何て」 「なんかトライバルな腕輪してるな。さっき買ったやつ?」 リクターが指さした先は、確かに先ほどの服飾店で手に入れたばかりの木製の腕輪だった。横幅があって見た目は分厚いながら、着け心地は軽い。鳥や踊る原住民のような絵柄が彫られている。 「こういうちょっとはっちゃけた感じのアクセサリー、実は十代の時に着けてみたかったんだ。おかしいよね」 照れ隠しに右手の腕に触れた。実をいうと少し家事の邪魔になってしまっていたが、左手には腕時計をしているので、こういう着け方に落ち着いたのである。 |
5. f.
2026 / 02 / 06 ( Fri ) (好きか嫌いかって言うと、好きじゃない寄りだと思うけど……顔に出てたなんて)
最初の晩から、気を遣わせていたことになる。灰皿もいつの間にかコーヒーテーブルの上から消えていた。 自宅なのに――。謝ろうと口を開いたシェリーを、これも先にリクターが制した。 「気にすんなって、これくらい。煙たいだろ。んじゃちょっと行ってくる」 ――あのね! とシェリーは大声で呼び留めた。 「写真、見ててもいい?」 「……勝手にしろ」 玄関扉がゆっくり軋みながら閉じた。その扉を数秒見つめてから、シェリーはビーフシチューの鍋に蓋をして火を弱め、そろりとリビングの棚に向かった。 苦笑まじりとはいえオーケーが出たので、早速あの段ボール箱を手に取ってソファに腰を下ろす。枚数が多く、上から下まで順に見るのは大変そうだった。 数枚ごとにまとめてめくっていく。 景色や動物の写真が主で、人物がちゃんと映っているものは例の高校(ハイスクール)の頃の彼女を除いて、見当たらなかった。かと思えば、束の半ばくらいで女性がもう一人出てきた。 こちらも過去の恋人だろうか――少し化粧が濃いめでアイシャドウの色が紫、その派手さがショートの黒髪に映えている。出るところが出ていて引っ込むところが引っ込んでいる体形の、肌色からしてヒスパニック系に見えた。顔つきや立ち方からして自信家っぽい。 (前の人とは違うタイプの美人さんだなぁ) あまりじっと眺めても劣等感に沈みそうなので、シェリーはめくり続けた。ポラロイド以外に、普通に現像された写真もある。 それから廃墟の風景がたくさん出てきた。こんなところで撮って大丈夫なのだろうかとハラハラしながらも、物悲しい美しさに見入ってしまう。森林の写真も、靴が片方映ってたり、鳥や鹿を追っていたりと、視点が面白かった。これを撮った時の様子を想像すると、くすっと笑いが漏れた。 時計の音と共に、穏やかな時間が過ぎていく。 そのうちにひとつの考えが頭をもたげた。 (私にとってのあの人は……) アレクス・リクターは特別な、唯一無二の存在なのか。過去に共に過ごした二年とここ数日を足し合わせても、一緒にいたのは人生のほんの僅かな時間でしかない。互いに認識しているのは氷山の上部分、水面下にどんな本質が潜んでいるのか、計り知れない。 シェリーが感じている愛着のような何かがまやかしだとしたら。 たとえば彼が選びうる百人の男性の中の一人だったとしても、同じ気持ちでいられるだろうか。結局自分は他に男を、人間を知らない。好いた人と一線を越えるのは怖いはずなのに、そこまで気負っていないのは、異性への「好き」という感情に至っていないからだとしたら。 母が死に、元々狭かった世界が閉ざされて、別の狭い世界に移ろうとしているだけではないのか。雛鳥が最初に目にした者を親と見定めるのと似た現象だったとしたら。 ――この「好き」は実質、依存ではないのか。友達に向けていたはずの「好き」が孵る先は――? 傷心中の隙に付け入ったようだと彼は言ったけれど、むしろこちらこそ傷心を癒さんと人肌を求めたとも言える。 今後拒まれたら、どうなるのか。 背筋がゾッと冷えた。と同時に、ある写真が目に入った。 灯台だ。 この州は巨大な湖に接しているため、古くからの灯台もいくつか残っていた。現代ではほとんどが使われておらず、取り壊されていなければ観光地化している。 日中ではなく、夜で撮影したらしいのが印象的だ。 写真の表面を指先でなぞった。 全体的に映像が暗いが、陸の輪郭、灯台の白い外壁がちゃんと見てとれる。水面は荒々しく、風の強い夜に訪れたのは想像に難くない。シャッターが落ちた瞬間の空気の温度、波の音と水飛沫の感覚を想像した。 辺りを照らして回転した光の、普遍的な心強さを想って、息が詰まった。 |
5. e.
2026 / 02 / 04 ( Wed ) 「あれ、私より手際が良い」
自炊できると言っていたのは嘘ではなかったようだ。顔を上げず、男は淡々と告げる。 「食うのも作るのも嫌いじゃない。ただ、一人だと量の管理がしづらくて余った分を冷凍するか、同じ料理を何日も食べなきゃなんないだろ。飽きる」 「そういえば、あなたにはたくさん食べるイメージ、ないかも。昔から」 「食う時は食うし食わない時は食わない」 頃合いなので、鍋に牛肉が追加された。じゅわっと熱気が舞う。シェリーは鍋の中身を時々木製スプーンでかきまぜながら、塩コショウを振りかけ、肉の色が変わるまで炒める。更には水と鶏がらスープを加え、更に半分に切ったトマトたちを加えて、煮立たせる。待っている間は調理器具を洗った。 同時に、ライスも炊いた方がいいだろう。カウンター下のキャビネットから中サイズの鍋を取り出し、買ったばかりのお米を目測で二カップほど入れた。サッと水洗いした後は水を加え、コンロをもう一つ点けて、炊く準備をする。 おまえさ、と傍らから声をかけられた。 「自分のこと無趣味って言ったけど、『こうすると楽しい』も趣味のうちだぞ」 「うん?」 香ばしい湯気を顔に浴びながら、シェリーは首を傾げた。 「飯で創意工夫するのが趣味のひとつってことなんじゃねえの。家の中にあるもの組み合わせてパスタできたのもそういうアレ」 言われてみれば―― 「私、食べる量は少ないのに、作るのは確かに楽しい。あるものないものをやりくりするのが、かな」 母との食事は当番制だったが、仕事の都合により、シェリーの方が頻繁に用意していた。褒められることはなくとも、完食してくれた日には、密かに喜んだものだった。 「あなたと喋ってると、私はいかに自分のことを理解していないのか思い知らされるよ」 「人との会話ってそんなもんだろ」 「じゃあそっちも私と話してて新しい発見とか気付きがあるんだ」 「まあそんなとこ」 「たとえば?」 「たとえばは今出てこないけど……要するに、楽しいよ」 「ほんとのほんとに? 話合わせてくれてるだけじゃなくて?」 「本当だって。オレはおまえと居ると、楽しい」 微笑を添えられた。 ――なんだか、照れる。 (何を言わせてしまったんだろう) 前のめりに訊きこんだ自分を恥じて、心の中のざわつきを誤魔化そうと早口になった。 「これで三十分から一時間ほど煮れば、できあがりだよ」 「おー。なら、オレはちょっと席外す」 まるで出かけるみたいに既にコートの袖に腕を通している男に、シェリーは驚いた顔を返した。 「何か用事?」 「んな大それた話じゃねえよ」 リクターはトレンチコートのポケットからラクダの描かれた長方形の箱を取り出し、軽く振ってみせた。それを見て、察する。 「もうじき天気が悪くなるんじゃないの。わざわざ外に出なくても――」 「おまえこの臭い、あんま好きじゃねえんだろ」 遮るように反論された。 「私そんなこと言ってないよ」 「なんつうか、顔に書いてあった」 コートのボタンを留め終わった男は、靴紐を解かずにミリタリーブーツに足を突っ込んでいる。 |
5. d.
2026 / 02 / 02 ( Mon ) それが本屋の外で丸眼鏡をかけた大柄の男性と話し込んでいる様子だった。相手の人は五十代だろうか、髪と髭は白の割合が多いが、タバコを片手に快活そうに笑っている。 (知り合いかな。この町に住んでるんだから誰かと鉢合っても不思議じゃないか) 店を出た後、話の邪魔をしないようにそっと近寄る。 「リクター、お前も一本どうだ」 「両手塞がってるんでやめときます。それに往来で歩きタバコはさすがに……」 「なにっ。そうか、受動喫煙がどうのこうので迷惑がられてしまうな」 男性は懐から携帯灰皿を取り出し、火を消した。 「キャシーが昨日、家の前に着くなり外の排水溝で元気に吐いたらしいぞ。いやあ、タクシーの運転手にご迷惑をかけなくてよかった」 「あんたがアホみたいに飲ませたせいでしょうが」 それに対して相手はガハハと大笑いした。リクターの対応はそっけないが、仲が悪いわけではなさそうだ。 「許せ! 今日が休みになったんだしなあ、誘いたくもなるさ。いつもバラバラに行動してるお前らの、珍しく足並みが揃ったんだ。はしゃいじまったなあ」 「誘われたって二度と行きませんよ」 「そう言うなそう言うな! ......ところで、お前の後ろの可愛いお嬢さんはどなた様だ? 妹はいなかっただろうに、どういう関係だ?」 二人が話している間に近付き過ぎてしまったシェリーが、ついに言及された。リクターは肩から少し振り返り、また正面を向き直ると、やはりそっけなく男性に応じた。 「詮索はマナー違反ですよ」 「はっはっは! これは失礼した。残念だが、紹介してくれるまで待つさ」 大柄の男性はリクターの肩を一度ぽんと叩いてから、屈んでシェリーに耳打ちしてきた。 「難儀な奴だけど、仲良くしてやってくれ」 返事を待たずに男性は手を振り、颯爽と人の流れの中に消えていった。 ――友を、或いは子を、想うような波動を感じた。 再び歩き出してしばらくして、シェリーは口火を切った。 「さっきのは一緒にお仕事してる人?」 「チームリーダー、取材班の責任者ってとこ。数年前、この近くで大規模なデモ活動があっただろ。そん時居合わせたから野次馬精神で俯瞰して写真撮ってたら、その写真売ってくれってあいつに声かけられたのが始まり」 「へえ、そんなことが」 偶然の連鎖で就いたと言っていたのは、こういう意味だったのか。聞くところによると、世論に触れたり社会問題を掘り下げるスタイルの週刊紙らしい。 「でもそれだと、危ない目に遭ったりしない?」 「たまーにな」 やたらと間延びした返事からは、はぐらかそうとする意図を感じた。かといってシェリーには、問い詰めることもできない。 「昨日の女の人も仕事仲間だったんだね」 「そ」 「仲いいんだね……泊めるくらいには」 つい、ぽろりとこぼしてしまった。「詮索はマナー違反」の言葉が脳内に浮かんでいる。今自分はどんな声で言ったのだろうか、どんな顔をしているのか。わからないが、リクターはこちらを振り返らずに歩いているので、たとえ醜い表情だったとしても、見られていない。 長い間があった。 「その話、今必要か?」 「…………ごめん」 必要ではない。 ないけれど、話を強制終了させられて、どうしようもなく胸が苦しかった。 洗濯物を乾燥機に移してから、食事の準備に取り掛かった。昼食までに完成させて、晩御飯に再加熱して食べる心積もりである。 いざ調理を始めると、リクターが肉を角にする作業を申し出てくれた。少し気まずい空気のまま――こちらが一方的にそう感じている気もする――並んで台所に立つ。 シェリーは換気扇をつけ、たまねぎやニンニクを切ったり炒めるなどした。一度、まな板を盗み見た。 |
5. c.
2026 / 01 / 31 ( Sat ) 「両方買って、白は別の日に飲めば解決だな」
リクターが酒売り場にとんぼ返りした。 ――また彼は、未来の話をする。 嬉しさと苦しさに眩暈がした。再び繋がれたこの縁は、本当に続いていいものなのか。期待しても、いいのだろうか。また別々の生活に戻る時が来ても、消えない何かが残るのだと――。 「そんでおまえは何をつくる気なんだ」 ワイン瓶を増やして戻ってきた男が、買い物籠の中のチャックローストを指さした。 「トマトビーフシチューだよ。牛肉三ポンド買ったら半分は後日、ビーフストロガノフにしてもいいかも。牛肉、好きだよね?」 根拠は安直、ビーフジャーキーをかじっていたからである。 「肉も魚もピザも麺類も、作ってくれんなら何でも食う」 「それは作り甲斐ありそう」 楽しくなってきた。こころなしか軽い足取りで、レジに向かっていく。 買い物袋は全部で三つになったので、シェリーが一袋、リクターが二袋持つ運びとなった。 スーパーマーケットを出ると、ここ数日に比べて、気温が妙に高く感じられた。これは天候が崩れる前にたまに見られる現象で、よほどの吹雪が来ることを予感させる。曇天が不穏な空気を漂わせている。 袋が手のひらに食い込んで痛くないのかとか重くないのかと横の男に質問すると、平気、と応答があった。 「考えが及ばなかったな。車出せばよかった」 「アレクス、車持ってるの」 「一応。大体の用事は徒歩かバスでどうにかなるけど、仕事で使うから」 面白味のないボロい中古車だと彼は言い張った。 「そうなんだ」 「おまえは持ってねえの」 「免許はあるんだけどね。場所の良いアパートだから、仕事もプライベートも困らない。車が要る時はレンタカー、それかカーシェアサービス使ってる」 シェリーが住む区域はこの町よりも都市部な、首都の中心にある。建物が密集していて駐車スペースが限られているので、個人や家庭で車を所持・維持する方が大変なまである。 「ふうん。そりゃ車で来てたら最初の晩にどこ停めていいか訊いてきたはずだよな」 ひとりでに納得したように、男はボソリと呟いた。 それから数分歩くと、アパレルショップの前で、ふいにシェリーは足を止めた。店頭のマネキンが目に入ったのである。暗い赤紫色のブラウスが、今着ている借り物のセーターを思い出させたからだ。 生前、母は大人っぽくて派手(彼女曰く『セクシー』)な服を着させてくれなかった。大学生の時に自腹で買ったジーンズはかろうじて許してくれたが、総じて「清楚」と評される衣服しか、シェリーは持っていない。 母がどう思うのか気にする必要はもうないのだ。 大胆なネックラインのシャツもミニスカートもビキニも、本当は興味ある。このマネキンのスカートも、花柄のプリントがとても綺麗だ。 「あー……見てくれば」 リクターは、黒い手袋をはめた手を差し出してきた。手持ちのビニール袋を渡せとの合図だ。 「え、食材をこのままにできないよ。特に生肉」 「数分程度で腐りゃしねえって、真冬に。ほらよこせ」 「わ、私、今服を買うつもりじゃ」 「買わなくても、見るくらいはいいんじゃねえの。通販するにしても今後どういうのが欲しいか、イメージしやすくなる」 そう言われては、シェリーは断れなくなった。 遠慮がちにショップの冷たいドアハンドルを引いて、一人で中に入る。ちりりんと可愛い鈴の音がした。恰幅の良い女性店長が明るく迎え入れてくれる。 「いらっしゃい、今日はどんなものをお探しで?」 「あ、いえ。少し見て回りたいだけで、これといって目的の物は無いです」 「そうですか、構いませんよ! あちらの壁際の商品は全種二割引きで――」 店長の話を聞き流しながら、シェリーは軽く店内を見て回った。素敵な服は多々あれど、なんだか気恥ずかしくなって、どれも手に取れなかった。試着するのも手間だ。 アクセサリーの棚に目を引かれ、腕輪を買うことにした。 会計を済ませ、あの男はどうしているだろうかと姿を求めて、ガラス窓の外を見やる。 |
5. b.
2026 / 01 / 29 ( Thu ) 「すごい溜めるんだね」
重くてシェリーでは持ち上げられないので、察したリクターが適当に衣類の山を崩して軽減してから籠を廊下に運び出してくれた。 「一人暮らしなんて二週間に一度洗濯機まわせば十分」 「……臭ったりしない?」 「まあそれなりには。カビ生えなきゃなんでもいいだろ、最終的に洗いさえすれば」 男は悪びれずに答える。シェリーは苦笑して、壁の棚から洗剤を取った。 確かに、シミでも残らない限りはなんでもいいのかもしれない。市販の洗剤は強力で、大抵の汚れは数日後でも洗い落とせる。部屋の隅が多少の悪臭を放っていても、生活に支障はない。 「そっか、細かいことを気にしすぎないのは、肩の力を抜いて生きるための知恵なんだ」 「勝手に良い話風にまとめてるけど、面倒臭がってるだけだからな」 「わかってるよ。でも、私もたまには見習うことにする」 ドサドサと洗濯機の中に落とされる衣服を眺めながら、シェリーは微笑んだ。手を伸ばして、洗濯物の一枚一枚の間に良い感じの隙間ができるように調整する。こんな些細な日常の作業に癒やされるのもおかしな話だ。 洗剤を入れて、サイクル設定をいじって、後はスタートボタンに人差し指を伸ばして―― ――カシャ。 横から小気味の良い音がしたのと同時に眩い光があった。 驚いた拍子にボタンを押す。古い洗濯機はたちまち、けたたましい音を立てた。 「と、撮ったの、今。え、なんでこのタイミングで」 インスタントカメラのレンズに向かって問い詰める形となってしまった。目線の高さにあったのがそれだったからだ。持ち主の返答を追うように、手から腕へ、腕から肩へ、そしてその先へとシェリーは視線をなぞらせた。 「いい被写体がいたから」 「被写体の許可なしに撮らないで」 「以後、気を付ける」 アレクス・リクターはそう言って少年のように笑ったので、シェリーはそれ以上怒ることはできなかった。 むず痒い。 言葉にならない気持ちを誤魔化すようにして、顔を逸らした。 「ともかく。写真コレクション、ちゃんと見たいな」 「あー、後でな。買い出し優先」 「ん。もちろん支度するよ。でも後で見せてね、約束だからね」 「わーかったって」 今度こそコーヒーを淹れに、リクターが台所に向かっていった。すぐに背を向けられたので、どんな顔をしていたかはわからない。 * いつもながら、角切り肉は値が張る。 かたまりで買って自分で切った方が安上がりだ。 どうせ時間はあるのだから、手間をかけてしまえばいい。 (鶏がらスープの素もあった方がいいよね) たまねぎ、トマト、ニンジンが欲しい。合わせる炭水化物は米でも麦でもいいし、オルゾもいいかもしれない。買い物かごにどんどん食材が並んでいく。 スーパーは平日の朝に関わらず人が多かった。皆、おそらく同じ考えなのだ。 腕にかかっていた重みが、ふいに消えた。 「重いだろ」 これくらい持てるよ、と返そうとして、シェリーはやめた。男の手にあったガラス瓶が目に入ったからだ。白ワインが好きだと先日言ってしまったから、わざわざ探してきてくれたのだろうか。 「リースリング? 牛肉に合うのって赤ワインじゃなかったっけ」 「なに、そういうのこだわる方」 「……変かな」 思わず俯いた。 こだわっているのではない、受け売りだ。食事と酒の相性に詳しかったのは母だった。そんなことを思い出しては寂しくなり、都度落ち込む。 |
5. a.
2026 / 01 / 28 ( Wed ) 他人のベッドで寝起きするなんて絶対に落ち着かないはずだったのに、思いのほか安眠できた。シェリーに自覚はなくても、身体はより良い寝床を求めていたようだ。 ただひとつ気がかりなことがあって、四角い天井を見上げながらモヤモヤと考え事をした。 ――タクシーに一緒に乗っていたあの女性は―― 誰なのか聞けずじまいだ。リクターに『泊めて』と何事もなさそうにねだっていたし、『前は泊めてくれた』とも言った。少なくとも、最初の日にあんなに逡巡して泊めてとお願いした自分よりかは親しそうな間柄である。 (ぞんざいに扱ってたのも親しさの表れだったら……) 思い詰めすぎて泣き出しそうで、情けない。どうしてこんなに気になるんだろう。彼がどこで誰と何をしていようが、口出しできる間柄ではないのに。 上体を起こし、気を紛らせようと、ベッドの上に散らばる衣服を眺めた。脱ぎ捨てられた服、そこから連想して色々なことが脳裏を駆け走った。 木製の扉がコンコンと叩かれる音で、ハッとした。 顔を上げると、入口に寄りかかった長身の男が目に入った。黒いタートルネックのセーターを着て、髪も普段通りに首の後ろで結んでいる。 そういえばシェリーはなんとなく扉を閉めずに寝たのだった。 「おはよう。自分の部屋なのにノックしたの?」 「自分の部屋でも他人が使ってたらそりゃノックするわ」 ごもっともな話である。どうしたの、と訊く。 「コーヒー淹れるとこ。飲むか」 「うん、お願い」 「わかった。……って、なんだよ」 じっと見つめてしまったらしい。男は眉を吊り上げて問うた。 「そのセーター、いいね。かっこいい」 素直にそう感じた。一昨日も確か似たようなものを着ていた。背の高い人の着るニットは様になるものだと、しみじみ思った。 「ああ、似たようなのが色違いであと五枚はある。おまえも着るか」 言いつつ男は部屋に入って、クローゼットを開けている。 「え」 そういう意味で『いいね』と言ったわけではないのだが、思えば着る物が減ってきているので、有難い申し出かもしれない。 暗い赤紫色のセーターを手渡された。伸縮するタイプの編み模様で、案外サイズが違うのもどうにかなりそうだ。 「男の人もこういう色を身に着けるんだね」 感心しながら受け取り、ベッドから下りる。足の裏に触れるカーペットの感触は、少し冷たい。パジャマが厚めの生地で助かった。 「別にオレの好みじゃねえよ。マルチパック買ったら入ってただけ」 ――色違いで何枚も持っているわけだ。 「マルチパックお得だもんね……ちなみに好みの色は?」 「あんま考えたことねえな。緑か黒?」 なるほど、それっぽい。 「あのね。そろそろ洗濯しても、いいかな」 「廊下のトイレの横のスペースに洗濯機と乾燥機があるだろ。遠慮すんな」 「ありがとう」部屋の隅にある洗濯籠に視線を投げた。積み上がった服が籠の外に溢れている。「あなたも洗濯しなきゃならないなら、ついでに……まぜても、いいかな……」 「オレはそんな神経質に見えるか」 「見えない、けど」 「おう。おまえの方こそ気にならないなら、まとめて突っ込んどけば。むしろ助かる」 「わかった」 気にならないわけがなかった。男女の下着を一緒くたにして洗濯をした経験は、父がまだ家に居た頃の遠い記憶の彼方だ。折り畳むのは更にハードルが高い。 けれど世話になっている身でこの程度のことに足踏みしていては、かっこ悪い気がした。 |
4. g.
2026 / 01 / 23 ( Fri ) 「違うよ」
返答を噛み締めているような神妙そうな間があった。その間、掴まれた指先が弄ばれているので、なんともいえない気分になる。 「そうだとしても、オレは無闇におまえを傷つけたいわけじゃ、ない」 ぎゅっと手を握られた。 それに対して、全身がざわついた。 (どうして後になって……私が痛がってたから……?) 鋭い彼のことだ、こちらが初めてだったのも察して、気を遣っているのかもしれない。 背後からはもちろん男の表情は見えない。感情を抑えているような静かな物言いに、シェリーもまた静かに伝えた。 「わかってるよ」 手を握り返した。 ああいうことがあった後でも、触れることに抵抗を感じなかった。未知の行為への恐れは終始あっても、この人は怖くなかった。 ――わかっている。言動と行動の奥からにじみ出る思いやりを、しみじみ感じている。あなたが負い目を感じる理由なんて、どこにもない。 あの、とシェリーは別の話を切り出した。 「お名前、アレクスって言うの」 繋がれていた手がぴくりとみじろぎした。 「…………郵便物にはラストネームしか載ってないはず」 「タクシーに乗ってた女の人が呼んでたから」 「あんのクソ女」 「今も自分の名前が嫌いなの?」 「嫌いだよ」 「どうして? いい名前だと思うよ」 「ありふれててつまんねえからだよ。アレクス・リクターなんてこの町だけでもあと三人くらいは居そうだろ。もっと独創性のある名前に変えようって思っても、手続きがややこしいし」 「それを言ったらシェリー・ハリスだってあと三人は居そうだよ。人口が多いんだからしょうがないよ」 そりゃそうだ、と欠伸まじりにリクターが相槌を打った。 (うーん。同姓同名が何人居たって、私が会いたいアレクス・リクターはあなただけなのに) 恥ずかしいので、そうとは言い出せず、シェリーは手を放した。意味もなくタオルを折り畳んでみたりする。 「明日お休みになったって話も聞こえたけど」 「あー、なんか昼頃に嵐で大雪が来るらしいぞ。念のため会社閉めるってさ」 「え、そうなの」天気予報をチェックする習慣があったはずなのに、ここ数日が普通と違ったせいですっかり忘れていた。「それは困る」 「何でだよ。出かけるつもりだったのか」 「大した予定じゃ……でもスーパーくらい行かないと、食べる物が無いよ。雪で数日閉じこめられる場合は大問題だよ。朝の内に行けないかな」 「なるほど。なら、朝一に行くか」 「うん。そうしよう」 話がまとまったところで、シェリーは歯を磨いて服を着替えようと、踵を返した。一歩踏み出したところで声がかかった。 「寝なおすなら、おまえがマスターベッドルーム使え」 リクターは片方の肘をソファの上にのせた姿勢で振り返っていた。 「え? 悪いよ」 「さっき床で居眠りしたんだろ、下手すりゃ腰痛めるぞ。今日はちゃんとしたところで寝ろ」 暗さにより今は深い青色をした瞳にじっと見上げられ、これまたドキッとした。 ――ほらやっぱり、気が回る……。 有無を言わせぬ家主の圧力に、折れるしかなかった。 「えっと……じゃあ、ベッド借りる……よ」 顔が赤くなった気がして、急ぎ足で立ち去る。おう、と背後から返事があった。 廊下に入る直前でシェリーは立ち止まって、ひとつ勇気を出した。 目を合わせない程度にソファの方を見やる。 「お休み、アレクス」 怒られるのを覚悟で呼んでみたが、ひと言が返ってきただけだった。 「…………お休み」 |
4. f.
2026 / 01 / 22 ( Thu ) 「悪い、起こしたか」
肩にタオルをかけたリクターが、黒いボクサーブリーフのみをまとって現れた。 「それはいいよ……服着て、お願い。冷えるよ」 目を逸らして苦し紛れの文句を言う。本当は冷えるのを心配しているよりも、男のパンツ一丁姿に動揺している。彼が自宅でいつもシャワー上がりにその格好なら、居候のシェリーが苦言を呈することこそ不当かもしれないが。 おう、と文句を言われた方は特に反論せずに自室に引っ込んだ。そしてスウェット姿になって再び現れる。 「具合はもういいの?」 「ちょっとはマシになった。喉とか頭が痛いけど」 まだ濡れている髪を、タオルでガシガシと拭っている。言われてみれば、話し声がいつもより枯れている感じがする。 「あ、そういえばサンドイッチとお薬ありがとう」 「食えたか」 「うん。大丈夫だったよ」 「そりゃよかった」 言いながらも、男は屈んでコーヒーテーブルに未だに置いてあった錠剤の瓶の蓋をポンと開けた。どこでも買える一般的な抗炎症薬で、二日酔いの症状にも効く。リクターは素早く薬を飲み込んで、どこからか出したビーフジャーキーをかじり始めた。 髪は依然として濡れたままで。シェリーはふと提案した。 「髪の毛乾かすの手伝おうか」 「じゃあ頼むわ。ヘアドライヤー、先週ぶっ壊れたばっかで買い換えてないんだよな」 リクターがソファに腰を下ろしたので、背後に回ってシェリーは手を伸ばした。タオル越しに伝わる感触は、濡れているけれど温かい。 数分ほど、静かにそうやって過ごした。ジャーキーが咀嚼される音と冷蔵庫の音、そして時々古びた暖房の音が共にあった。 やがて彼がボソッと言った。 「さっき髪結ってもらったの、助かった」 「どういたしまして」 「狭い場所じゃもらいゲロするかもしれないのによくやるな」 「えー? あの時はそんなこと考えてなかったな」 確かに吐しゃ物を見たり嗅いだりしたらこちらも吐き気を誘発される恐れはあったかもしれない。今になって、そのことに気付く。 「おまえは自分で思ってるより、肝が据わってるよ」 「そうかな」これは褒められたと受け取っていいのだろうか。照れくさいので、シェリーは話題を変えた。「そういえば家賃と水道電気代を払おうと思うのだけど」 「まじめな奴だな。そういうのは一週間過ぎてから気にしろよ」 「い、一週間以上もいていいの」 「気が済むまでっつったろ。オレがいいんだからいいんだよ」 「……ありがとう」 消え入るような声で応じた。 いつまでも甘えていられない――来週には仕事に戻ると上司には伝えた――と思っていた決心が、揺らぐ。元の生活を取り戻さねばならないという義務感と、現実逃避をまだ続けたいという願望が、相反して同時に存在している。 どこかでけじめをつけねばなるまい。判断を、なおも先送りにする。 「だいたい乾いたかな」 右手にタオルを握り、シェリーは手を引こうとする。 左手の指を掴まれた。 急にどうしたの、とは口に出せなかった。 「昨夜は…………悪かったな」 「昨夜?」 いつになく歯切れの悪い言い方である。 「傷心中の、隙に付け入ったみたいになって」 この数日の時間感覚が歪んでいるのですぐには話が見えてこなかった。しかし此処であった出来事で、謝罪されるような要因となると、心当たりはひとつしかなかった。 「あれは合意の上でだから、あなたが謝ることないよ」 「売り言葉に買い言葉じゃなくてか」 |
4. e.
2026 / 01 / 20 ( Tue ) 何でおまえがここに――と男は視線で訴えかけている。 シェリーは恐怖に硬直した。 十年以上前、リクター家の父親が酒に荒れていた時を思い出したからだ。物を投げたり、殴ったり、とにかく怖かった。 家族を反面教師にしていたはずの彼が、同じ真似をするはずがないのに。普段から粗暴な印象がありながら根っこでは常識人なのだと、シェリーは思っている。 「ゴミ出しか」 訊ねられても、本能的に声が出せなかった。委縮して一歩下がるまでした。 「貸せ」 こちらの反応に気付いていないのか、男はズカズカと歩み寄り、ゴミ袋をひったくった。 目元が赤いし、息がだいぶ酒臭い。理性が保たれている状態なのか否か、シェリーには判断がつかなかった。 放っておけない気がして、後ろについていった。 「くっせえな。何か死んでんじゃねえのか。ゴミ捨て場だから当たり前か」 悪態をつきながらリクターはゴミ袋を豪快に投げた。六フィートはある高さのゴミ捨て場なのに、綺麗な放物線を描いて、袋は目的地にしっかり到達した。 感心する間もなく男がふらふらと歩き出したので、シェリーは慌てて後を追った。 玄関を通る瞬間まで互いに無言だった、が―― 「無理。こりゃ、戻しちまった方がいいな。廊下のトイレ使っていいか」 青い顔でそう言われて、シェリーは激しく首肯した。 酒を飲み慣れているがゆえの躊躇のなさか、口元を黒い手袋で押さえつつも、リクターは靴を脱がずに廊下を進んで、やるべきことをやった。 (あ、髪ほどけてる) 困るかもしれない。 シェリーは邪魔しない程度に背後から近付き、肩まで伸びっ放しになっている茶髪をヘアゴムで緩く結び直してあげた。飛沫がつこうものなら不潔だし、臭いが眠りの妨げになるかもしれない。 (お水取って来よ) 他に何をしてあげられるか考えた結果、そうなった。自分は決して酒を飲み慣れている方ではないが、これでも大学に数年通ったので、脱水が人類の敵なのはよくわかっている。 シェリーが台所でコップに水を注いだ間に、リクターはコートと靴を脱いでソファに仰向けに寝転がっていた。身長があるぶん、足先がはみ出ている。 歩み寄り、水を差し出した。 一言なりとも「大丈夫」或いは「お水どうぞ」と声をかけたいのに、できなかった。正確には、まだ声が出ないようである。 幸い、差し出したコップは受け取ってもらえた。男は気怠そうに上体を起こして水を飲み干し、コップを返してきた。常ならぬモゴモゴとした発言だったが、たぶん、礼を言っている。そうしてドサッとソファにまた倒れ込んだ。 シェリーが台所に行ってから、しばらくして、鼾が響いてきた。 あまりの音量にびっくりして振り返った。これも異性と関わらなかった人生の弊害か。そういえば父も鼾がすごい方だったと思い出して、懐かしくなった。旅行先でホテルの部屋が一緒だった時は、父より先に就寝しないと鼾がうるさくて寝付けなかったものだった。 (でもこれ大丈夫なの? 無呼吸症候群とかじゃない?) 額に手の甲をのせ、眉をぐっと寄せるさまは、寝苦しそうだった。 忍び足でソファの傍まで寄り、覗き込んだ。 ワイシャツの上から三個目までのボタンが外れているのは、先ほど自分でやったのだろうか。冷えないよう、シェリーはウール製の毛布をそっと肩までかけてやった。 (さて、私は今夜どうすれば……) 寝室に入るのはどうにも気が引ける。かといってここに残るなら、誰かが寝ている以上、電気は切るべきだ。もはや静かに思考するくらいしかできることがない。 結局は予備の毛布に包まり、ソファに寄り添う形でカーペットに座した。数分ほどして、鼾が落ち着いてきたのか、段々と煩いのではなく心地良い音と感じるようになった。 そのままの体勢でシェリーはうとうとし出した。 冬に床で寝たというのに、不思議と寒くはなかった。 * いつになく穏やかな睡眠を得られた気がする。夢すら見ない、深い、真っ暗な休息。 物音で目が覚めた。 左手の腕時計を手繰った。部屋の中は薄暗いが、時計に使われている蛍光顔料のおかげで十一時四十五分なのが見て取れる。 果たしてそれは午前か午後のどちらなのか。カーテンの外は暗いし、周囲が静かすぎるので、おそらくはまだ夜。首を巡らせると、ソファが無人となっているのを知った。 廊下の床に明かりが伸びている。それをじっと見つめていると、明かりの上に、影が揺れた。 |
4. d.
2026 / 01 / 19 ( Mon ) とにかく手足を動かすとこからだ。 髪の毛を団子にまとめ、冷蔵庫の中を拭いて、玄関先を掃いて、昨日は途中までだった埃拭きを続けて、手当たり次第に掃除してみた。 カウンターに立っておそるおそるサンドイッチの半分をかじったのが、午前十一時。 本棚の一角に目をやった。 リクターは雑誌や新聞紙の他にも、ハードカバーのノンフィクションから、ソフトカバーの小説も多数所持しているらしかった。家族が残したものはほとんど手放したか物置代わりの二番目のベッドルームに押しやっていると、確か彼は言っていたので、私物なのだろう。 とあるオレンジ色の背表紙の本が気になって、取り出してきた。 表紙にはトカゲの絵が描かれている。短いタイトルからは内容が想像できない。裏表紙のあらすじ書きは敢えて確かめず、シェリーはソファに座り込んで、最初のページからめくってみることにした。 元軍人男性が砂漠で死にかけるところから始まった。 文章は読みやすく、展開もスピーディ。ジャンルは近未来SFでいいのだろうか。キャラクターはひとりひとりが作り込まれていて、掛け合いに信憑性があった。主人公は凄惨な過去を乗り越えて、儚げな女性と愉快な仲間たちと絆を育みながら強大な敵に立ち向かっていった。表紙のトカゲは実は二足歩行ができる幻獣だったらしく、仲間の一人だった。 水を飲むなりトイレに行くなりの休憩を除いて、時間を忘れて読み耽った。 (超面白かった) 気に入っていた登場人物の最期が衝撃的だったが、読み終わって更に丸三十分は呆けてしまう程度には物語にのめり込めた。娯楽に我を忘れたのは、実に何年ぶりだろう。 気が付けば陽が傾きかけている。 ようやく、意識が小説の内容以外のことに向かった。 (すごいな彼は) 無趣味な自分と違って、家の中にあるもののほとんどに「個性」を感じる。埃を被っていた小説の一冊にすら、選んだ者の性格が滲み出ているようだ。 つまらない自分がつまらなくなるためのヒントが、ここにあるかもしれない。他人にそれを求める時点で、結局ダメな気がしなくもないが―― カーテンを開けて窓の外を眺めた。 夕焼けの空が暗闇に転じるのが早い。 ここから見下ろせる電灯の先に何があったろうか。かつてシェリーが住んでいたユニットは建物の反対にあったので、駐車場側のこの眺めには慣れない。 数分こうしている内に、大きな白いビニール袋を手にした住人を二、三度見かけた。 ゴミが回収される日は何曜日だったか。集合住宅はいつでも捨て場に家庭ゴミを持って行っていいのだが、業者が回収に来る前日に出すと、すっきりするものだ。逆にこのタイミングに限ってゴミ置き場(ダンプスター)がいっぱいになっていて置く場所がないこともあるが。 さっき、台所のゴミ箱が限界だったのを目にしている。シェリーは袋を取り外して、今から捨てに行くことにした。 寒い上に、暗い。 十分に着込んできたものの、ゴミ袋が思ったより重くて、外階段を降り切ったところでシェリーは立ち止まった。ゴミ捨て場までの道のりはそう長くないが、電灯が点滅していて気味が悪い。 (こっちだったよね) 数歩歩き出し、駐車場を横切り始めて、突然現れたヘッドライトの明るさに怯んだ。すぐそこでタクシーから誰かが出てくるようだ。 「ねえアレクス、待ってー、泊めてよぉ。宅飲み二次会しよーよ」 降りたばかりの乗車客を引き留める白い手が、車内から伸びている。 「あぁ? ふざけんな。平日だっての」 女性の手が乱暴に振り払われた。 「いいじゃなーい。明日休みになったじゃーん。前は泊めてくれたのにぃ、ケチ」 「うるせえぞ酔っ払い。タクシー代払ってやったからさっさと帰れ」 アレクスと呼ばれた長身の男は、大げさな音を立てて扉を閉めた。 ええー、と女性の抗議が窓越しにも伝わったが、タクシーの運転手はすかさず車を出した。 (酔っ払ってるのはどっちもじゃないかな) 世間のレストランとバーでは平日だいたい午後五時から七時の区間を「ハッピーアワー」と称してメニューやお酒を大幅に割引するのが流行らしいと、大学時代から聞き知っていた。 深い緑色のトレンチコートを着た男は道端に唾を吐いてから、振り返った。 目が合ってしまった。 |
4. c.
2026 / 01 / 17 ( Sat ) 無意識に下腹部に手を当てた。 ――むちゃくちゃに痛かった……! 世の中の女性の皆様は本当にこんな苦行に耐えてきたのだろうか。 昨晩の顛末に、後悔はない、けれど。 (やってしまった感はある) ずるずると廊下を進み、顔を洗って歯を磨いて、頭の中を整理した。 今日がもう月曜日ならば、一度は事務所に電話を入れてみるのもいいだろう。シェリーは先延ばしにしている諸々の問題に、ほんのちょっと想いを馳せた。 リビングに戻って電気をつけると、テーブルの上のビニール袋が目に入った。こんなもの、いつからあったのだろう。 袋の隣にちょこんとプラスチックの小瓶が置いてあった。手に取って確認してみると、痛み止めの錠剤だった。中身がやや軽いのとラベルの端がはがれかけている点を踏まえると、これは最近買ったのではなく前から備えてあったものと見て取れる。 袋の中には包み紙に入った生温かいハムサンドイッチがあった。朝早くに買ってきてくれたのだろうか。 (気が回るなあ……私は自分のことでいっぱいいっぱいなのに) 嬉しいのと恥ずかしいのと申し訳ないのとで、頭がぐるぐるする。とりあえずラベルの指定通りに痛み止めを二錠、水で流し込んだ。 だるさが軽くなるまで、じっと座って思案した。 買い出しや洗濯物にそろそろ着手したい。それと先ほどトイレを使った時に気付いたことだが、スカートに血の跡がついていた。 ――いっそ、捨てようか。今までのしがらみをひとつずつ切り離す踏ん切りがつけば、この数日間にも意味が出るというもの。 いずれにせよ、これ以上の家事は家主に相談なしに取り組みたくない。 サンドイッチは冷蔵庫に一旦入れて、昼食に取っておくことにした。残り枚数の少ない服から一式選び、着替えて、伸びをした。 「えっと、お電話借りるよ」 いない相手に断りを入れて、壁の受話器を取った。 職場の番号は暗記済みだ。営業時間中なので、デスクはすぐに取り次いでくれた。シェリーを配下とする弁護士の男性と、案外あっさりと繋がった。 『やあ! 君から連絡してくれて安心したよ。あれから様子はどうだい』 「いえとんだご迷惑を……お待たせしてしまってすみません。今週中はちょっとわかりませんけど、少なくとも来週までには職場復帰できると思います」 来週までここに居座るかどうかはまだわからないが、それはこちらの話である。 『いいんだよ、気にすることないさ。ゆっくり休んでくれ。一人いなくなって回らなくなるような仕事の割り振りはしてないよ。そうそう、ジェニーが受け持っていたケースは概ね引継ぎが――』 ジェニーとは母の愛称だ。ほとんどソロ(アシスタントはいてもメインの法律家は一人)で事務所を経営していたので、亡くなった後はやりかけの案件を他の人が引継ぐ必要があった。クライアントが自ら後任を探すしかない場合も多いらしいが、さすがは母の人脈と人望か、意外と早く片付きそうだと言う。 『まああまり詳しいところは君には関係がないかな。とにかく元気にさえなってくれれば、彼女の後輩として君の世話を任された僕としても、それ以上は望まないよ』 「ありがとうございます」 雇い主への感謝に濁りはなかった。 きっと彼も、そして母の事務所のスタッフも、悔しいのは同じなのだ。どうしてこうなる前に止めてやれなかったのか。どうすれば分かり合えたのか。これは葬式で既に出尽くした話題だ。 永遠に答えが出ることはない。それでも考えずにはいられない――もっと自己主張していれば、何かが変わっていたのか。 目頭が熱くなった。 『ところで隣の市外局番(エリアコード)からかけてるみたいだけど、自宅に居ないのかい』 「あっ、はい。外出先から、電話を借りているんです。深い意味はありません」 シェリーは焦りを隠すように早口になって、かえって不自然な物言いになった。 『そうかい? でもこの前会った時よりはずいぶん元気が戻ったみたいだね。よかったよ」 「重ね重ねありがとうございます。またお役に立てる日までに、英気を養っておきます」 『ははは、堅苦しいね。また一緒にやっていこうね』 「はい」 会話終了の挨拶を交わし、電話を切った。 表情筋が和らぐのを感じた。 ほんの数日前に比べて前向きな気分になれている。自分の両足で立ち上がれそうな、前に進められそうな、そんな気がする。 頑張ろう。もう少しでも、生きてみよう。 |


