25.c.
2013 / 08 / 05 ( Mon )
「あららぁ、気が付いたの、新入りちゃん」
「んん――!」
 人間の言葉を発せない状態にあるミスリアは身をよじり、声の主を探した。

「うん? 幼いのねーえ。顔はまあまあだけど、小さいし、ウペティギ様に気に入られるかもねぇ」
 ひどく訛った共通語だった。
「ええー。困るわよぉ~、やっとアタシを見てくれるようになったのにぃ」
「自惚れてんの? 見てるも何もアンタ顔がそんなケバいから嫌でも目が行くだけデショ」
「あー言ったなー、アンタこそ人のこと言えないわよぅ」

 むせ返るような香水の匂いにミスリアは咳き込んだ。
 再び目を開けると、十代後半か二十代前半くらいの女性が三人、屈みこんでミスリアを頭から爪先まで眺めまわしている。白粉(おしろい)またはパウダーが濃くて、元の顔が美人なのか何とも判断し難い。

(ヴィーナさんを男性を振り回すタイプとするなら、目の前の三人は媚びるタイプかしら)
 そういった違いを解する日が自分に来るとは今まで想像したことが無かったが、これほどあからさまに差を見せつけられてしまえば嫌でも納得する。感心するあまりに置かれた状況への恐怖を数瞬の間忘れていられた。

 派手な色の化粧は無駄に多い装飾品と調和が取れていないし、服と言えば袖が長いくせに肩や背中の露出は高く、布が変な形をなぞったりしてお世辞にもセンスが良いとは言えなかった。なのに扉の両脇を挟む武装した格好の兵士たちは、隙を見ては彼女らの露わになった肌や輝かしい首飾りに強調された胸元にばかり視線を這わせている。

「見張りさぁ~ん、新しい子起きたわよぉ」
 三人の内、一番肉付きの良い茶髪の女性が兵士たちに話しかける。手招きすると同時に、袖のピンク色のフリルがヒラヒラと揺れる。

「縄を解いて身支度させろ」
 兵の一人が歪んだ陰鬱な笑みを口元に張り付かせて言った。
「はぁ~い」
 対する女性たちはゆとりのある表情をしている。

 縄を解かれる間、ミスリアは「身支度」が何を意味するのか考えた。それにこの女性たちは何の為に一所に集められているのだろう。「ウペティギ様」、「気に入られる」は何か重要なキーワードだろうか。

 考えても答えはわからないまま、自由の身になった。見張りの兵士が居るせいで、声に出して女性たちに問い質していいか迷う。
 そこで察したのかどうかはわからないが、縄を解いてくれた黒い巻き毛の女性が顔を近付けてきた。

「いーい? 逃げようとか助けを待とうとか考えてもムダだかんね。絶対ムリ。ウペティギ様に気に入られるように頑張る方が生き延びられるんだからぁ」
 だから諦めなさい、と彼女は強く言った。

(助け、なんて、待ったところで、来るかどうかも……)
 小さく耳鳴りがしたと思ったら、一気に心の中に海が広がった。絶望という名の海に溺れていく手応えを、ミスリアは静かに感じた。

 友人も家族も教団の仲間も旅の途中で出会ったちょっとした知り合いでさえも、何が起きても今は助けてくれたりしない。現実的に考えて、有り得ない。ミスリアがどうしているのか、その消息を積極的に追っていないのだから。たとえ追っていたとしても情報が入るまで最低でも数日の遅れがあり、助けを期待するには心もとない。

 もしこの世で自分をここから連れ出してくれるかもしれない人物が居るとしたら、それはたった一人である。そのたった一人が来てくれるかどうか――自信は無い。

 涙が滲まないように天井をさっと見上げた。
 一瞬だけ――水を汲んでくる、と呟いて振り返ったゲズゥの、あの黒曜石にも似た黒い右目と所々金色に光る左目が記憶に浮かんで――心がざわついた。
 あれが今生の別れになるかもしれない。

「……ご親切に、忠告ありがとうございます」
 努めて笑顔を作り、ミスリアがそう返すと、黒髪の女性は大袈裟に手を広げて驚いた。
「やだあ、シンセツなワケ無いじゃなぁい。アンタなんかに負けない自信があるから言うのよ」
 そうですか、とわざわざ返事をする気力が沸かなかった。

「なあによ、ねえ何でそんなに言葉がキレイなのよ」
 問われてミスリアはただ苦笑した。巧い嘘がつけるはずが無いので、詮索は避けるのが得策である。
「それより、ウペティギ様って誰?」
 話題を変えようとミスリアは明るく訊ねた。発音はどうしようもないけれど、とりあえず丁寧な口調を使うのはやめた。なるべく浮かない方が良い気がするからだ。

(一分一秒でも長く生き延びるしかないわ)
 或いはそうしている間にもっと何か助かる方法が見えてくるかもしれない。

「ここの城主さま。焦らなくても夜宴で会えるわよー。ねね、それよりアンタどの服にする? この赤と銀色のヤツなんてちょうどいいんじゃなぁい?」
 城主、について思考を巡らせたかったのに、ミスリアは黒髪の女性が差し出した衣装を受け取って顎を落とした。

「絶対似合うと思うのよぉ。ね? いいでしょ?」
「ほ、他に何かないの」
 手の中の布をどう広げても、下着姿といい勝負の露出具合がうかがえる。いや、ミスリアの色気に乏しいもっさりとした下着相手ならどう考えてもこの衣装の完全勝利だ。

「他って言ってもねーえ、アンタのサイズじゃあこれとか……あとこれとか?」
 更に差し出された服もどれもあまり多くの生地を使わずに作られていた。
 絶句するほか無かった。つい引きつった笑みを浮かべてしまう。



一応三人の容姿ていうか髪を適当に別々にしましたが、性格は似たり寄ったりで区別する必要はありません。三人目は金髪縦ロールです。ついに出せた、縦ロール!!

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11:23:56 | 小説 | コメント(0) | page top↑
25.b.
2013 / 08 / 03 ( Sat )
 男の話によると、城の位置はディーナジャーヤ帝国の属国の一つである、ゼテミアン公国内にあるという。そう遠くない距離だが、問題は現在地と目的地の間に国境があることだ。
 元々ゼテミアンの領土を通ってクシェイヌ城へ向かうつもりだった。ただし、ミスリアと一緒であることを前提としていた。

 身分証明書の類はミスリアが持っていたし、そもそも証明書など持たなくても聖女の力を少し見せ付けてやれば、大抵の国はあっさり受け入れるらしい。ところがゲズゥ個人はどの国の戸籍も持たない、元指名手配犯だ。運が良ければ追い払われるだけに留まり、悪ければ捕縛される。

 ふと疑問が浮かび上がり、また質問を吐いた。

「連れ去った目的は何だ?」
「……」
 男はガチガチ歯を鳴らしながらも答えない。その両目は挑戦的に睨み返してくる。
 いちいち非協力的な態度に若干イラつき、ゲズゥは男の腹を思いっきり蹴った。言葉にならない呻き声が返る。

「目的」
 声を低くして催促した。
「そっ……んなの決まってるでしょう!? ウペティギ様は、女が好きなんですよ! 若ければ若いほど良いっ。私らはだから、手当り次第に、連れ帰って、愛玩奴隷に……」

 その返答にゲズゥは僅かばかり安堵した。ミスリアが聖女だとわかっていてさらったのではないのか。こんな単純な理由なら、身代金の要求に応じるなり複雑な交渉をする必要は無い。
 同時に、別の焦燥も沸き起こる。愛玩奴隷は主の興味や寵愛を浴びている間は安全でも、飽きられた後が危険だ。捨てられた玩具は社会に返されるのか、どこかに維持されるのか、それともあっさり殺されるのか。

 この際ゲズゥが案じてやれるのはせいぜいミスリアの生死だけで、助け出すまでの間に経験するかもしれない諸々の辱めや絶望に関してまでは気を配れない。気にしたところでどうしてやることもできないわけだが。

 とにかく次の取るべき行動について思索した。
 密入国――それは大陸中の他の国境ならいざ知らず、大国ディーナジャーヤの属国ともなると、容易には果たせない。警備体制は万全だと考えて然るべきである。

 いかに足が速くて戦闘に長けていても、単独では使える方法に限りがある。ゲズゥは姿が見えなくなる術など持たない。変装しようにも体型が目立って難しいし、荷物に隠れようにもそんなに都合良く荷台を引く人間は現れない。

 しかし全く方法が無いわけではない。かつてオルトと二人だけで似たような状況を打破したことがあった。あの時はオルトの立案で闇に、もとい混乱に乗じて警戒網を突き破ったのだ。

 このやり方で行くなら下調べや準備が必要となる。
 まだ他に必要な情報があっただろうかと男を見下ろすと、奴はひとりでに喋り出した。

「はっ、たとえ城に辿り着けても無駄ですよ。罠にかかって無残に殺されますから」
「……罠?」
「ゼテミアンの鉄に貫かれて苦しめ! ウペティギ様に歯向かう奴なんて皆死ねばいい! あははははははは」

 笑い声が耳障りになり、ゲズゥは手早く男を殴って気絶させた。
 ――それにしても無差別な人攫いを平然とやってのける貴族が野放しにされているとなると、国の政治体制や公平さなどにも期待できないだろう――。

 ゲズゥは襲撃者どもを一人ずつ確実に気絶させてから、奴らの衣類からベルトの類を引き抜いて三人とも樹に縛り付けた。それから自分の持ち物を確かめ、更にミスリアの居た辺りまで戻って、落ちている荷物が無いか念入りに探した。

 一分経っても何もみつからず、立ち上がってその場を去ろうとしたその時。苔に覆われた石の傍で何かが光ったのを目の端で捉え、近付いてしゃがみ込んだ。
 手を伸ばして草をかき分けると、そこに落ちていたのはミスリアがいつも大事そうに持っていた銀細工のペンダントだった。

_______

 近頃頻繁に見るクシェイヌ城の夢から覚めた。
 まどろむ間も無くミスリア・ノイラートはすぐに違和感を覚えた。そこは、随分と明るい場所だった。

 部屋に三十人以上の若い女性が押し込められているように見える。大体の女性は沈んだ表情或いは無表情だったが、大きな化粧台と鏡の前では何人かの女性が黄色い声を出してはしゃいでいる。女性たちのほとんどは華やかな衣装や露出度の高い衣装などと、明らかに着飾っている風である。

(ううん、それより……動けない!? どうして?)
 ミスリアは可能な限り全身を注視したが、両手両足を後ろに縛らているようでうまく動けなかった。猿ぐつわも噛まされ、見たところ部屋の隅に転ばされている感じだ。全身がどことなく鈍く痛む。打撲でもしたのだろうか。

 首を捻って壁を向くと、隅の最も暗い場所に互いに寄り添い合うように膝を抱える少女が二人居た。ミスリアと同い年か更に年下のようだ。痛々しいぐらいに怯えた目をしている。

(ここはどこ? 一体、何が起こったというの――)
 もう一度自分の身体に視線を走らせた。服が所々千切れている。それにほとんど下着姿である。
(うそ! あの時!?)
 羞恥心が体中を駆け巡ったのとほぼ同時に、ミスリアは自分が着替えている最中に襲われたことを思い出した。

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21:14:22 | 小説 | コメント(0) | page top↑
25.a.
2013 / 08 / 02 ( Fri )
――油断した、と悟った時にはもう遅かった。
 顔面めがけて斬り付けてくる剣をしゃがんで避け、左手を地面について側転の動作に入った。蹴りあげた足首を敵のうなじに絡ませ、回転に巻き込んで水面に叩きつける。

「すばしっこいな、このっ……」
 背後から襲い掛かる二人目の敵に足払いをかけ、更に三人目を肘で殴り飛ばして、ようやくゲズゥ・スディルは現状確認をする為に一息つけた。

 水が岩を打つ音が周囲に反響している。正面には高さ10ヤード以上の滝があって、その水が流れつく小川の中にゲズゥは直立していた。かなり冷たい水が脛の周りを通り抜けているが、その冷たさは淡水であるからだけではなく秋の訪れが近いからだろう。
 両岸は隙間なく緑に覆われ、朝日が漏れる箇所もまばら、襲撃者が身を隠すにはもってこいの場所だ。

 それでも雑魚が三人ぐらい来たって、数十秒で倒せたが。
 一度深呼吸して、滝水の音の壁より外へ意識をやった。音が邪魔で感じ取りにくいが、どこにも人の気配がしない。紛れも無くもう遅かった。
 ゲズゥが油断したのはこの雑魚ども相手にではない、ミスリアの方への注意を怠ったことにある。

 鋭く舌打ちした。
 着替えたいと言ったミスリアから離れたのは数分程度。普段なら背を向けて待ったものの、ちょうど水筒が空になっていたからその間にゲズゥは滝の水で水筒を補充しようと考えたのだ。
 それが彼女の傍で何か異変があったと気付いて戻ろうとした途端、奇襲されてこのざまだ。

 ――この状況は何だ。さらわれたとでも言うのか。

 その瞬間、確かにゲズゥは眩暈を覚えた。少なからず動揺している。
 旅する聖女の護衛という肩書に甘んじている以上、護るべき対象が失われた場合、どうすればいいのかわからなかった。

 真っ先に思い浮かんだ選択肢は二つある。
 解放されたと喜び、このまま行方をくらまして好きに生きるか。
 護るべき少女を取り戻す為に奔走するか。

 思わず右手でこめかみを抑えた。
 するとこちらの思考とは無関係に、青緑に輝くトンボがぶぶーんと羽音を立てて視界に入った。まるでゲズゥを睨むように正面に止まって忙しなく羽ばたいている。何故だか、決断を迫られている気がした。

 例えば前者を選んだとする。三度目の投獄以前の生活に戻ることになるだろう。
 ……生活? 
 果たして自分には戻るほどの日々があっただろうか。もはや遠い昔のように感じられた。

 やはり後者しかないかと考え――こんな時だが、少し前の会話が脳裏に蘇った。

 ――オレとお前は確かに境遇が似ているし、だからこそそれなりに気が合った。だけど覚えとけよ、お前を救える人間が居るとしたらそれは外側からでないとダメだ。
 ――そういうお前はこれからどうする気だ。
 ――くすぶる恨みはまだ残ってるけどな、ケジメつけるよりこの町でぼへーっと過ごしてた方が多分オレには合ってるんじゃないかな。
 ――ぼへー……。働き過ぎて過労死するなよ。
 ――しないって。その前にヨン姉に叩き殺されるだろーし。ま、とにかく、嬢ちゃんをちゃんと大事にしてやれよ。役目なんだろ?

 エンが言っていた「外側」の意味はわかりそうでわからなかった。
 ただ、ここで何もしなかったら自分の今後の一生、一切の選択肢がなくなりそうな気がした。そして、行方をくらますのは急がなくてもできるが、ミスリアを救いたければ一時も立ち止まっていられないだろう。

 気が付けば襲撃者の一人の胸ぐらを掴んでいた。ざばっと音を立てて男を水中から引き上げる。冷たい水飛沫がそこら中に跳ねた。

「どこへ向かった」
 主語を抜いて、抑揚の無い声でゲズゥは問い詰めた。奴の両手がゲズゥの手首にかかるが、全く問題にならない程度の腕力である。次に蹴ったり暴れたりして抵抗を試みているようだが、体勢が不利なせいかこれまた弱い。
「私は何も話しませんっ」
 賊のような身なりに似合わず丁寧な発音の南の共通語だった。

 「そうか」とだけ呟いてゲズゥは片手で素早く短剣を抜き、日頃からよく研いでいる刃を男の顎の下に当てた。

「ひいっ。ちょ、殺しちゃったらわからないんじゃないですか!」
「お前が死んでも後二人いる」
 刃をぐいっと押し当て、近くで呻いている他二人の襲撃者を目頭で示した。殺しは駄目だとミスリアにさんざん念を押されているが、どうせ今この場に居ないのだから多少は妥協してもいいとゲズゥは考える。

「わ、わかりましたよ! 言いますから! 殺さないでください!」
 男は青ざめて叫んだ。ゲズゥはただ男を射抜くように睨んだ。
「……ウペティギ様の城です」
 冗談みたいな名前だと思いつつ、誰だ、と訊き返すと男は小ばかにするように鼻で笑った。
「大公家と縁ある血筋の貴族さまですよ、知らないんですか?」

「城はどこだ」
 無視して問うた。貴族の血筋などどうでもいい、そんなものを聞いても名前と一緒にすかさず忘れそうである。
「誰がそこまで喋ると思っ――いたた、痛い、血が出てる! やめて! 言います!」
 押し当てた刃を僅かに引いたのが効いた。

 涙浮かべる男の返答を聞いて、これは面倒なことになった、とゲズゥは顔には出さずにげんなりした。

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00:31:37 | 小説 | コメント(0) | page top↑
24.g.
2013 / 07 / 30 ( Tue )
こぽぽ、と小気味のいい音を立てて琥珀色の液体がカップを満たす。ミスリアにとっては珍しい陶磁器のティーセットだ。鮮やかな青い模様に塗られたポットから目が離れない。おそらくはディーナジャーヤ国産のものだ。

「どうぞ」
 教皇猊下はポットを優雅な仕草でテーブルに下ろし、お茶を勧めた。
 礼を言ってからミスリアは取っ手の無いカップをそっと手に取った。

 お茶なら私が淹れるのに、と抗議したものの猊下はやんわり断ったのだった。ティーセットや茶葉を集めるのが好きで、自ら淹れて人に味わわせるのが楽しみだから、と。

(ってことはこのセットも私物として持参したのかしら……)
 移動中にそれらを運んだのは護衛の人たちかもしれない。或いは、この町に来て買ったという可能性もある。そういう世間話も訊きたいと思う反面、ミスリアは今日呼ばれた用事が何であるのか知りたくて、先に猊下が話を切り出すのを待っている。

 二人は街中のカフェテラスの三階にて、曇り空の下で軽食を採っていた。サンドイッチやサラダなどの簡単な料理を運んできて以来、店員は話の邪魔をしないように配慮してるのか姿を消している。
 テラスの端でゲズゥは手摺に身を預けるように佇み、猊下の護衛二人はどこか目に見えない場所に控えている。町人の話し声や馬蹄の音は聞こえても、それは空間を形作る一部に思えた。

 会議室で話した時は神父さまも居たのに、今度は教団で最も位の高いお方とこうして向き合って二人だけで会話しているのだと突然に自覚して、ミスリアは胃が緊張に強張るのを感じた。
 和らげなければ。まずはカップを口元に運んだ。

「……おいしいです」
 一口飲んで、ミスリアは驚きに目を見開いた。
 微かに甘い香りは馴染みの無いハーブか花のもの、それがミントとよく合っていて互いの味の深みを引き出している。

「それは良かった。恥ずかしながら自作のブレンドでしてね。リコリスの根を使いました」
 静かに椅子に腰を掛け、猊下もお茶を一口飲んではカップを下ろした。
「さて、私はこの後発つ予定です。聖女ミスリア、貴女も近いうちに出発されるでしょう?」
「はい。午後は鍛冶屋に寄って、夜は支度を整えて、明日の朝には発ちます」

「クシェイヌ城への道のりは確かめましたか」
 猊下の問いにミスリアは首を縦に振った。
「そうですか。楽しみですね、貴女のこれからの旅路が」
「恐れ入ります」

 二人はまたお茶をそっと啜った。
 次に彼の碧眼と目が合った時には、猊下は何かを懐から出していた。ロウの印が既に開かれた書状である。

「手紙、ですか?」
「ええ。もう長いこと会っていない、隠居して久しい者からです――」
 教皇猊下が懐かしそうに口にした名は、何年も前に体力の衰えを理由に役職を引退した、元・枢機卿猊下のものだった。しかし何故その話をミスリアにしているのか、理由は全く見えない。

「聖人カイルサィート・デューセは貴女と同期でしたね。それに少しの間、旅を共にしていたとか」
「確かにその通りです」
 いきなり挙がったカイルの名に、ミスリアは戸惑いを隠せずにいた。

「どうやら彼は、貴女がたと別れた後にこの者を訪ねたそうです」
「そうだったんですか」
 初耳である。あれからは連絡取れるような状況ではなかったので仕方の無いことだけれど。

「魔物対策を改めて欲しいという、実に興味深い手紙です。正直のところ教団にそれだけの余裕があるかは断言できませんけれど……」
 猊下の話によるとどうやらその元・枢機卿の方は魔物対策についてカイルと似たような主張をし続けていたとか。しかし聖獣の復活を第一の優先すべき事項と考える猊下は、今は大幅な改革などしていられないと何度も答えたらしい。

 もう一度その案を振ってきたのは、カイルと話し合って何か新しい発見があったからだろうか。訊いていいのか、ミスリアにはわからなかった。

「余談ではありますが、この大陸に魔物狩り師を養成する機関が存在しないのは、何故だと思います?」
「魔物狩り師の? それは……試みた国くらい居そうなものですが……何故かなんて」
 少し考えを巡らせてみても、答えは思いつかなかった。

「誰もそんなコストをかけたくないからですよ。育てたところですぐに命を落とす人材などに、持続可能性はありません。わざわざそんな計画に投資するような物好きな国は居ないのでしょう」
「それは、そうですね」
 ミスリアは頷いた。魔物を積極的に探し出して狩るのが仕事であるだけに、彼らの魔物との遭遇率は一般人の比ではないし、それゆえに死亡率がとび抜けて高い。いかに訓練を受けていても、確率の問題である。特に単独で活動する者は危険だ。

「かといって全大陸の結界の強化や聖人聖女の派遣も教団には負担が重く……まだ、魔物に対抗する策は完全とは程遠いですね。しかしその完全を追い求める人間が居ることはとても喜ばしいと思います」
「では猊下は聖人デューセらの提案を受け入れると……?」

「いいえ、現段階ではできません。改案の実現性がより確固たるものとして提示されれば、また話は違ってくるでしょう。けれども私は彼らと色々とこれから話し合いを重ね、進むべき道を一緒に探していこうと思います」

 穏やかに微笑む猊下を、ミスリアはただ感心の瞳で見つめることしかできなかった。猊下だけではない。カイルやその元枢機卿の方も――誰かが聖獣を復活させた後の世界をどう収束させるのか、そこまで先を見据えている。

「して聖女ミスリア、貴女はこの点について、どう思われます?」
 猊下は手紙をテーブルに置き、ある一行に細く白い指をのせた。
 ざっと目を走らせて要点を拾うと、それはかつてカイルが話してくれた「魔物に怯えずに済む世界」に至る為の第三の条件と同じ内容だった。

「……魔物が生じる原理を、一般知識として広めるべきか、ですか」
 誰にも会話が聴こえないはずなのに、思わず声をひそめた。
「ええ」
 青い双眸は、探るように静かである。

「わかりません。聖人デューセがはっきりと答えを出せない難題に、私の考えが及ぶとは思えません。ただ、現状を変えようとすれば起こりうるであろう、混乱のいくつかは想像できます」
「そうですね。私にも混乱が視えます。ですがそれを乗り越えることが叶えば得られるものもあるでしょう。気長に、考え続けるとします。貴女も道中、何かわかったらお伝え下さいね」

 勿論です、とミスリアは深く点頭した。
 ふふ、と猊下は笑い、その後はサンドイッチの具が美味しい、とか、秋の訪れまであと何週間だろうか、とか他愛もない話を静かに交わした。

 お茶も飲み終わった頃に猊下はミスリアに立ち上がって頭を下げるように言った。
 しゅ、と袖の布が擦れる音がした後シーダーの香りが鼻腔をつく。次の瞬間、微かな温もりが額に触れた。

「どうかあなたがたに聖獣と神々の加護がありますよう。これからも長らく健やかに過ごせますように」
 古き言語での短い祈祷の後、温もりの波が額を通して心臓へ、腕や足へ、指先まで通った。
「ありがたき幸せにございます」

 ミスリアは何度か瞬いて顔を上げた。一瞬何かの秘術をかけられたのかと思ったけれど、普通の聖気だった。
 そして猊下の中指の指輪に口づけを落とし、別れの挨拶を交わした。

 それからしばらく後、ミスリアとゲズゥは鍛冶屋への道のりを歩み出す。なんとなく、道端の黒い石ころを数えながらミスリアは歩いた。

「明日には皆さんとお別れですか。寂しくなりますね。イトゥ=エンキさんなんて、ユリャン山脈から行動を共にしてきたのに」
 戦力としても心強かったけれど、何より彼のひょうきんさはどこか話しているこちらの気持ちを軽くさせる効果があった。ここでお別れかと思うと――別にゲズゥ一人との旅が心細いのではなくて、純粋に寂しい。

「気にするな。あの男ならあっさり別れるだろう」
 ゲズゥは断言する口調で返事をした。
「え、そ、そうですか?」
 しんみりしてくれると期待したわけではなかったが、寂しいのがこっちだけだと思うと切ないものがある。

 それも次の朝、結局はゲズゥの言った通りになった。
 ナキロスの神父やヨンフェ=ジーディ、ラノグらとの別れが済んだ後。

 イトゥ=エンキがミスリアにかけた言葉は「おう、じゃーな嬢ちゃん。色々ありがとな。あんま無理しないで、ちゃんと飯食って寝てすくすく育てよ~」だけだった。

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11:01:08 | 小説 | コメント(0) | page top↑
24.f.
2013 / 07 / 29 ( Mon )
24e に多少の加筆修正をしましたが、わざわざ読み返すほどではないです。



 エンが更に「あがってけよー」と呼びかける。
 するとラノグと呼ばれた男は微妙な顔で梯子を見つめた。

「イトゥ=エンキさん。屋根の上に……ですか?」
「だいじょーぶだって。こんな立派な屋根、大の男三人ぐらい支えられる」
「落ちたりしないんですか」

「この傾斜じゃ平気平気」
「はあ……」
 まだ訝しげな表情を浮かべるも、ラノグは最終的に梯子を上がり、この突発的な集まりに参加した。

 町の全景が、雲間から漏れる暮日の輝きを帯び始める。
 三人はしばらくこれといって会話を交わさず、無言でシェリーを飲み回した。地上では人々があちこちで店を畳む準備をしている。
 やがてエンが上半身を捻って隣に座す男を向いた。

「ラノグさんよ、あの十字架の意味わかる?」
 訊きながら時計塔の上を指差している。
「あれは厳密には十字ではありませんよ。意味は確か……縦棒の上の部分が神々へと続く道で、下部分が大地またはアルシュント大陸を指し、それと交差する左右のゆるやかな渦巻きは翼を意味します。つまり――翼を持った聖獣が、我々地に生きる者を天へ昇れるように導く、と」

「へえー」
「教団に興味があるんですか?」
 意外そうにラノグが訊ねる。

「さあ。罪を償えば聖獣が救ってくれるとかそういう話を教皇さんがしてたのは面白かったけどな」
 エンは空を向き直り、組んだ腕を枕にして再び寝転がった。
「……貴方には何か償わなければならない罪が?」
 ラノグはひっそりと声を静めた。まるで訊くのが憚れるように。

「まあ割とヤバいのの一つや二つな。償えるかわからんけど、気にはなる」
 しかしエンは両目を閉じ、普段通りの声色で答えた。
「そうですか……」

 ラノグの表情には同情が浮かんでいた。それでいて共感しているようにも見える。一方、『天下の大罪人』とも呼ばれるゲズゥは依然として他人事と割り切って会話を静観している。

「実は僕も償っているんです」
 数十秒後、一大告白をするように、ラノグは顔を上げた。
「そいつぁ驚きだな。どんな? そういえば行き倒れてたんだっけ。どっかから逃げてたとか?」
 エンは右目だけを開いて訊いた。発した言葉の調子は軽かったが、どこか優しい響きを含んでいる。

「傭兵砦からですよ。僕の父も祖父も曽祖父も、鍛冶師でした。人を害する為の武器や兵器を作って生計を立てていたんです。僕もまた、それを生涯の役割として受け入れていました」
 一度、ふうと息をついてから語り続ける。
「自分が何をしていたのか何の疑問も抱かずに生きていたら、ある時戦火が僕らの砦までに忍び寄ってきて。最初は、自分の作った物が役に立っていることにただ喜びを覚えていたんですが」

 顔が暗くなりつつあるラノグを気遣ってか、エンが口を出した。

「別に最後まで言わなくても大体予想はつくぜ」
「……いいえ。言わせて下さい。師匠にしか話したことが無かったんです」
「相手が数日前に会ったばっかのオレらでいーのかよ」
 紫色の瞳がほとんど空になった酒瓶を一瞥した。奴の舌がよく回るのが酒のせいかと疑っているのだろう。

「構いません。いつか、町の皆にも明かしたいのでその練習みたいなものです」
「ならいいけど。で、何があったんだ?」
 エンが促すと、ラノグは深いため息をひとつついた。

 ――激化する戦い、それ自体は傭兵砦にとって大して珍しいことでも無かった。砦の仲間は投石器を放ち、迫りくる敵を一掃した。
 だが戦闘も片が付いた頃、そこらに倒れていた敵兵がまだ十五歳程度の子供ばかりだったのだと気付いた――。

「何故それまで実感が無かったのでしょうね。僕は人がより効率良く人を殺せるような道具ばかり生産していたのに……。仲間だけじゃない。殺された人たちは、どこの誰であるのかこちらが知らなくても、皆、誰かにとっては大事な人だったはず。そんなことをして、お金を貰っていた僕は……」

「傭兵だったってんなら、戦を仕掛ける判断をしたワケじゃないんだろ。そればっかりはアンタの落ち度じゃねーよ。人が戦わなければいいだけだからな。どっかの性根の腐った奴が子供を兵士に使ったのだって」
「それでも、人を殺す道具を作ることが怖くなって、逃げ出しました」

「うーん、じゃあある意味悪いコトしたな」
 エンはちらりとゲズゥの方を見た。
 人を害する武器を、直して欲しいなどと言って鍛冶屋を訪ねたのが、嫌な過去を思い出させたかもしれないということだろうか。

「今は違います。確かに身を守る武器を作ってもいますが、大体の仕事は鍋や包丁や鍬など、人が『生きる』為に必要としている物の製作です。僕は、師匠と一緒にそれができるのがとても嬉しいんです」
 その笑顔が総てを語っていた。

「そーか。いい話だな。毎日の積み重ねは大事だ」
 そしてエンもまた笑顔で町を見下ろしていた。
「ありがとうございます」
 照れ臭そうにラノグが頬をかく。

 それまでゲズゥは変わらず傍観を貫いたが、心の中では何かよくわからない感情が蠢いていた。
 ――生き方、償い、更生。積み重ねる日常。自分も変わりたいと願うのか? それとももう、変わり始めているのか。

 刹那、今も聖堂の中で信徒に愛想を振りまく少女の姿が思い浮かぶ。
 行き場の無い感情の渦を抱えたまま、ゲズゥはすぐ近くで響き始めた時計塔の音色に身を委ねた。

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24.e.
2013 / 07 / 26 ( Fri )
ズボンを軽くはたいてからスッと背を伸ばした。直立してしまえば身長差はより際立ったものになり、女はあんぐりと口を開けたままゲズゥを見上げた。
 何か頼みたいことがあるのなら早く言え、とゲズゥは視線で威圧する。女はみるみる青ざめていったが、両手を握り合わせ、ごくりと喉を鳴らしては発話した。

「そ、その、男性の方が今誰も居なくて。窓の外側を拭きたいのですが、二階の窓は私たちだけでは届きにくいのです。貴方は十分に背も高いですし、もしお時間があればお願いします……」
 言い終わると女は恥ずかしそうに視線を地に落とした。
 ゲズゥは首を鳴らしつつ考慮した。窓拭きぐらいなら、メリットさえあれば手を貸してやらないこともない。

「……勿論、ただでとは言いません! お礼に焼きたてのケーキやクッキーをいくらでも」
 こちらが何か条件を言い出すより先に女が提案した。
「肉がいい」
 と、答えた。ゲズゥは味の濃い食べ物が苦手である。とりわけ、女が作る焼き菓子は甘すぎると決まっている。腹にたまりもしないくせに胸やけばかりする。

「わかりました。市場もまだ開いてますし、お好きな肉を買ってきます」
「じゃあ、鳩」
 この町で奴らが飛び回ってるのを見てる内に食べたくなってきた、というのは短絡かもしれないが、事実だった。

「はい! ありがとうございます!」
 女は快諾した。
 かくして、ゲズゥは長い梯子に上り、教会の窓を酢と古紙で磨くことになった。

 わざわざこちらの望む物を買って礼をするほどである。それに見合う労働をさせられるだろうと頭の片隅では予想していたが、まさしくその通りだった。変な形の窓や体勢的に届きにくい位置にある小さい窓、終いにはあの聖堂に面している大きな染めガラスの窓が、ゲズゥに苦戦を強いた。

 そして気が付けば夢中になっていた。ゲズゥは自分を結構大雑把だと評しているが、なかなかどうして、この類の作業だけは何故か本気で取り組まなければ気が済まない。
 剣の手入れも一度たりとも手を抜いたことは無い。毎度、刃が眩い煌めきを放つまで徹底的に磨いてしまう。

 もう陽も傾きかけているのに、ゲズゥは構わずに目の前の細かい汚れとばかり戦った。ガラスに顔を寄せ、酢の入った瓶を左手に、丸めた古紙を右手に握って。背後ではカラスがのんびり鳴いている。

「なあ、そんなに睨んだらせっかく磨いた窓に穴が開くんじゃねーの」
 聴き慣れたハスキーボイスが頭にかかった。
 チラリと視線を上へやると、にやにや笑うエンがいつの間にか屋根に立っていた。無造作な黒髪が微風に撫でられ揺れている。

「うーわ。酢くさっ」
「……お前もやるか」
「やらねーよ。それよりもうすぐ終わるん?」

 エンは時計塔の天辺を飾る教団の象徴に肘を乗せ、狭い面積の屋根の上でバランスを取っているらしい。片腕だけを十字架から離し、肩にかけたずだ袋から小さいボトルを取り出した。仄めかすようにボトルを振っている。

「コイツで最後だ」
「じゃあ待ってるから終わったら付き合え。この町で作ってるシェリー酒だってさ」
 そう答えてエンは時計塔から広い屋根の上へ移ってごろんと横になった。

 シェリーといえば果物の甘味が難点だが、強い酒で、しかも安くは無い。興味は惹かれる。
 すっかり興味の対象が窓から酒へと移ったことで、後は適当に拭いて終わらせた。

「こんなもんどこで手に入れたって訊きたそうだな」
 屋根に上ると、エンは上体を起こして言った。
「それより使える金があったのか」
 その隣に、ゲズゥはどかっと胡坐をかいた。

「んー? 日払いの工事の仕事とかで稼いだ」
「…………仕事?」
「後は町の端の麦畑が人手不足って言うから、行ってみたぜ。単調な作業ばっかだけどそれがまた面白いな。子供の頃は身体が弱かったから望んでもそういうの手伝えなかったし」
 心底楽しそうな笑顔を浮かべ、エンがボトルを差し出してきた。言われてみれば、前より少し肌が日に焼けている気がする。屋外で仕事していたからだろう。

 ゲズゥはボトルを受け取り、一口シェリーを喉に流し込んだ。次いでボトルの中を覗き込んだ。ドライタイプで、色は濃く、予想していたほど甘くない。嬉しい誤算である。

「実は夜も食物庫の門番の仕事引き受けてんだ。身元とか関係なく雇ってくれるのが助かるよ」
 エンは屈託のない笑顔を満面に広げている。
 働きづめな生活をこれほど喜べる人間を、ゲズゥは他に知らない。

 この男は余程賊の生き方が性に合っていなかったように思う。ぶっ倒れるまで働き、物を生産して恍惚になる種の人間の話しぶりである。というよりも、これまで働く機会が無かったからこその反応か。洞窟の中では時折退屈そうな目をしていた理由が、今ならわかる気がした。

「にしたって、いい町だよなー。安全だし」
「確かに、そうだな」
 後半に対してゲズゥは賛同した。町の良し悪しなどわからないが、治安が良いのは間違いない。強力な結界で魔物は中に入れないし、人々からは犯罪の気配が薄い。それはもう稀に感じる薄さだ。妙な町である。

「あ、あれって確か」エンは唐突に道を歩く人を凝視し出した。「おーい、鍛冶屋の弟子の兄ちゃん。ラノグ、だっけかー?」
 呼ばれた人物は頭を振り仰ぎ、意外そうな顔をしてから、笑って手を振り返した。

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13:33:55 | 小説 | コメント(0) | page top↑
24.d.
2013 / 07 / 17 ( Wed )
「そうですね……。聖地が総てこのような危険を伴う場所でないと願っています」
 ミスリアは苦笑を返した。
 崖から落下していれば大怪我は免れず、もしかしたら河に落ちて溺れていたかもしれない。今更遅れてやってきた寒気に、身体が震えた。

 何より、あの誰かに強制的に意識を占有されていたような感覚。自ら歌って魂を繋げた場合とは違う、実体の無い重圧。
 それは同時に聖気の清らかさと暖かさを伴っていた。近い経験を探すなら、聖女としての修行の最終段階が似ているけれど――。

 ――違う。あの時にも感じた圧倒的な存在感、それを今回はもっと身近に感じた。しかし決して喜ばしいと思えるような近さではなかった。

「……こわい……」
 気が付けば呟いていた。
 目を伏せて椅子の上で身を丸めた。何故だかわからない、ただ、先に進むのが怖い。
 覚悟は決めていたはずなのに。わけもわからず揺らぐ心を、無視できなかった。

「私は弱いですね」
「知ってる」
 か細い独り言に、変わらず落ち着いた声が相槌を打った。ミスリアが何に対して恐れを抱いているのか、彼は見通しているのだろうか。

「……軽蔑しますか?」
 組んだ腕の中に顔を埋めた。
「別に。それほど迷惑はしてない」
 無感動な声だった。気遣いなどではなく、本当に、ありのままの事実を話しているのだろう。それほどって言うからには、多少はしているはず。

「怖いならやめるか」
「いいえ! 私の気持ちは関係ありません、必ず目的を果たします」
 ミスリアは素早く頭を上げて振り返り、対するゲズゥは、左右非対称の両目を一度瞬かせた。

「お前の目的は蝋燭の壁と関係があるのか」
「!」
 彼が指す物に瞬時に思い当たって、怯んだ。
 揺らめく炎の列が脳裏をよぎる。
 よく考えたら隠す理由は無いはずである。数瞬の間、ミスリアは言葉を探した。

「そう、ですね。あの蝋燭立ての列は、旅の途中で消息を絶った聖人聖女を弔うものです」
 ゲズゥはただ目を細めた。
 一度深呼吸してから、ミスリアは続けた。

「彼らの為に私は旅に出ました」
 静かな会議室に、自分の強張った声がやたら響いたように感じられた。

_______

 聖堂に並んだ蝋燭の列の、蝋燭立てに彫られている文字は、消えた人間の名前を表している。
 隙を見て司祭に訊いたらそう説明を受けた。

 ゲズゥ・スディルは木の枝に膝からぶら下がり、腹筋を鍛えつつ考え事をした。
 真夏に相応しく気温の高い午後だったが、木陰に守られているためいくらか涼しい。湿気が多く、運動による汗が乾かずに滴った。全身がべたついて気持ち悪いが、南東生まれのゲズゥにとっては慣れればすぐに忘れられる程度の問題だった。

 腹筋に力を込めて上半身を折り曲げる。その間の筋肉の引き締まりが、苦しい。同時に、踏ん張る一瞬には頭の中が驚くほど空っぽになった。体を折り下げては繰り返す。
 数十の繰り返しを経てから、力を抜いて再びぶら下がった。着る者と一緒になって逆さになっているシャツを使い、顔の汗を拭う。

『私はっ……! 世界を救いたくて旅に出たんじゃありません!』
 以前聞いた叫びが、ここぞとばかりに記憶に浮かび出た。

 ――世界の為でないのなら、何の為に。

 消息を絶った聖人聖女、「彼ら」と言ってもミスリアが泣き崩れたのはたった一つの蝋燭立てに目が留まった時だ。ならばその人間が特別であると断じていいのだろう。
 件の蝋燭の位置は覚えていた。それについても司祭に訊いたら、そこに彫られた名が「聖女カタリア・ノイラート」であると判明した。

 そうと聞いて、多少の仮定を立てることができた。

「もし……」
 苗字は当然のこと、カタリアとミスリアでは名も似ているし、親類と考えて間違いないだろう。
「もし、そこの方。えーと……」
 まさか消息を絶った人間を探そうと――

「あの! お願いがございます!」
 さっきから呼び声が自分に向けられているのだと、ゲズゥはようやく気付いた。何度か瞬き、逆さの映像を分析する。
 全身を質素な衣で包んだ若い女が視界の中心に居た。作業用の被り物なのか、頭にはバンダナを巻いている。

「あの、お邪魔してすみません。手伝っていただけませんでしょうか」
 言いにくそうに女はもじもじした。
「…………」
 ゲズゥはとりあえず両腕を伸ばした。逆立ちになるよう樹の上から降り、次いで足を落としてしゃがむ形に着地した。

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02:20:47 | 小説 | コメント(0) | page top↑
24.c.
2013 / 07 / 12 ( Fri )

 ディーナジャーヤと言えばアルシュント大陸で最も広大な領土を誇る、大帝国である。過去数度にわたる大規模な戦によって土地を勝ち取り、更に三つの属国を従えている。
 当然、それだけ広いのだから聖地の幾つかもディーナジャーヤ帝国内にある。

「でもあの城はもっと――」
 資料に目を通しただけで詳しく覚えているわけではない。ただ古城なのは確かでも、もっと手入れの行き届いた建物だった気がする。第一印象が涼やかとすら言えるような。

「貴女がご存じなくても無理のないこと。数百年前、聖獣が飛び立つ直前まではクシェイヌ城は忌み地でした。人間同士の激しい闘争の歴史を背負った場所でしてね、聖獣によって浄化された後に聖地に変わったのですよ」

「では私が視たのが忌み地だった頃の姿ですか?」
「と、私は考えます」
 教皇猊下は会議室のテーブルにそっと両の腕を乗せ、手を組み合わせた。

「同調、できたのですね。よかった。おめでとうございます、聖女ミスリア。貴女はもう得るべきものを得たのです。次に何をすべきかおわかりでしょう」
 満足げな表情を向けられて、ミスリアは頷きを返した。

(まだ不安も謎も残っているけど……)
 とにかく今は、あの場所に行かなければならないという抗し難い想いがある。
 おかげで他のことを長く考えていられない。次の聖地に辿り着くまでずっとこれが続くのだろうか、とミスリアは一抹の不安を覚えた。

「大丈夫ですよ。次の聖地に行けば、もっと色々なことがわかるでしょう。聖人聖女たちの道のりが重ならない理由も含めて」
 ミスリアの不安を汲み取ったのか、猊下はとても優しく笑いかけてくれた。
「最初に訪れた巡礼地でそれだけ明瞭なイメージを感じ取れた貴女なら、何も問題はありません」

「はい、猊下」
 励ましに、ミスリアはしっかりと返事をした。
 余計な考えを巡らせるよりただ進めばいい。自身にそう言い聞かせて不安を封じる。

「あの、ところで今は夕方ですよね。私はどれくらいの時間、意識を失っていたんですか?」
 おずおずとミスリアは訊ねた。
「それは私よりもスディル氏がご存知でしょう。私たちは朝から時々様子を見に来ただけですが、彼はずっと野原に残りましたからね」

 隣の神父と顔を見合わせた後、猊下がその柔らかい微笑みをミスリアの背後に立つゲズゥへ移す。
 数秒後に返答があった。

「三十分くらい崖っぷちで突っ立ってた」
「そんなに……。それからは?」
 続きを語るように促した。
 ゲズゥは思い出すように視線を天井へ走らせ、次に眉根を寄せた。

「よろめいて、膝をついて……しばらくして倒れた。二時間経ったら起き上がって、草の中をのたうち回って、這いずって、また意識を失った。それからは起きるまで動かなかった」
「そ、そうですか」
「全く覚えてないのか」

 いいえ、とミスリアは頭を振った。
 絶句するしかなかった。崖に立った以降の記憶が無い。そんなに動き回ったなど――確かに純白の聖女の衣装にあちこち緑色の跡があったのはおかしいと思っていたけれど、思い出せないものは思い出せない。

「スディル氏、あれほど手を出してはいけないと申しましたのを、ちゃんと守って下さったんですね」
 猊下が嬉しそうにゲズゥに笑みを向けた。
「……」
 それに対してゲズゥは反応を示さない。

(きっと猊下に言われたから動かなかったんじゃなくて、自分なりの理由があったのね)
 ミスリアはそのように想像した。
 穢れた魂の人間が聖地に踏み入ってはいけない、なんてルールは彼にとっては大した抑制にならないだろう。それよりも踏み入れば自分までどうなるのか予測ができないのだから、迂闊に動けなかったのではないか。

「さて、私はそろそろ失礼します。聖女ミスリア、貴女はまだこの町に滞在されますよね?」
 ナキロスの教会に勤める司祭が席を立ち上がった。
「はい神父さま、少なくともあと数日は」
 鍛冶屋からゲズゥの修理された剣などを受け取らねばならないのだから、この町には用事が残っている。

「ではまた後ほどお話しましょう。別件について、貴女の意見をお聞きしたい」
 そう言って教皇猊下も席を立つ。
「私でよければお話をうかがいます」
 立ち上がり、ミスリアは敬礼した。

「ええ。今晩はゆっくりお休みなさい」
「ありがとうございます」
 ミスリアが深く頭を下げる。どんな挨拶でも猊下が話すと音楽的に聴こえる、となんとなく思った。

 そうして二人は会議室を辞した。彼らは他に仕事が残っているのだろうか。今夜は晩御飯の席で顔を合わせることが無いだろうと予感がした。
 戸が閉まり、ミスリアは小さくため息をついた。半日過ぎた実感が無かった。自分では何もしていないと思っているのに、身体がまるで長時間運動をしたみたいにとんでもなくだるい。

(最近こういう流れが多いわ。これって、体力つけるべき?)
 どこか的外れなことを思いながらも、ミスリアは伸びをした。
 振り返ればゲズゥはいつも通りに腕を組んで、静かな目をしていた。凪いだ湖面と似た落ち着きを感じさせる。

 ふと目が合うと、意外なことに、彼の唇が動いた。

「お前は、よく崖から落ちなかったな」
 低い声がそう指摘した。

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23:20:20 | 小説 | コメント(0) | page top↑
24.b.
2013 / 07 / 07 ( Sun )

 朝、とある問いの答えを求めて聖地へ赴いた。
 聖地は最初に夢で視た通りの穏やかな場所だった。真っ白な綿雲に空は覆われ、草花は微風に吹かれて揺れる。野花の周りを蝶や蜂が元気に飛び回っている。

 四百年以上前――かつて聖獣が大陸を浄化する為に飛翔し、途中でこの岸壁を選んで休憩をしたと伝えられているのが、この地である。
 まさに偉大なる聖獣が降り立ち、丸一日の休眠を取ったらしいとされる崖に、ミスリアは向かっていた。

 空気は澄み渡り、聖気の暖かさとは異なる、何かの透明な存在感が周囲に満ちていた。
 ミスリアは五感を研ぎ澄ませて探した。一歩踏み出すごとに、僅かな変化でも感じ取れるように努めた。けれども未だに問いの答えに近づけそうにない。

 昨夜、ミスリアにその問いを課したのは教皇猊下だった――

「聖女ミスリア、我々が何故聖地を巡るのか、わかりますか?」
「聖獣様の安眠の地へ辿り着けるよう、繋ぎ合わせるべき情報を得る為ですよね、猊下」
「ええ。その認識に間違いはありません。教団でもそのように教えているのでしょう。ですが、言い方に多少の語弊があるかもしれませんね」

「語弊ですか?」
「情報がどのような形をしているものと考えますか? 地図の中の隠し文字、秘術によって作り上げられた迷路のような道……そういったカラクリや仕掛けによって偽の情報の中に真実の断片が隠され、ばら撒かれていると学びましたか?」

「はい。教団ではそのように……」
「確かにそれらもまた、実在するものです。ですが、その実、聖人・聖女であればそんな方法に頼る必要はありませんし、わざわざ聖地を訪れる理由にはなりません。『聖地を巡れ』以外の指示は受けていないでしょう?」

 言われてみれば、そうだった。
 聖地のどこに次に向かうべき場所の手がかりがあるのか、まったく聞いていない。教会の人が知っているのか、書物を調べればいいのか、詳しい指示は受けていない。

 そもそも旅に出る聖人・聖女が皆誰しも他の誰かと道のりが重ならないと言われているのが妙である。
 真実の情報を探す使命が共通し、それを見つける方法――対象に祈りを捧げ、水晶で照らす――までもが同じなら、少なくとも何人かは似た軌跡を辿るはずだ。

 ミスリアはこれまでに教えられた以上の真実に思いを馳せたことは無かった。
 ただ漠然と、偶然の働きで誰も同じ行路を辿ることが無いのだと思っていたし、よくわからない点は実際に聖地を巡礼してみれば明らかになるだろうと想像していた。
 なら聖地で得る情報とは本当は何か、と訊ね返すと、猊下はやはりこう答えた。

「まずは行ってみることです。こればかりは、誰かに伝え聞いただけでは理解が及ばないでしょうから」
 ――したがって、ミスリアは一人で崖上の草原に立つことになった。

 背後、かなり離れた位置にゲズゥがどこかの樹に寄り添って様子を見ている。
 彼はナキロスの神父と教皇猊下に絶対に聖地に踏み入れないよう言い聞かせられていた。理由は、魂の穢れた者が聖地に与えるであろう影響を怖れてのこと。聖女であるミスリアとて、入念に身を清めた。

 そして何が起きてもミスリアが自力で戻ってくるまで決して手を出してはいけない、と猊下はきつく言った。

(何も起こらないまま岩壁の先端まで来てしまったわ)
 足元に注意を払いつつ、ミスリアは崖下の川を見下ろした。なんて澄んだ水だろうと思う。

 瞬間、全身に何か強烈なエネルギーが流れ、髪の一本一本までもが浮上した――ように感じられた。次いで心の内にとてつもない重圧を感じた。
 今までの人生経験の中で、この重圧に一番近かったのは魔物と魂を繋いだ時だ。最近だと、ゲズゥの故郷で彼の母だった魔物の記憶を覗いたのがいい例である。

(でも……もう一つの、感覚は――聖気……!?)
 普段、自分が展開している聖気や他者から受けたことのある聖気とは比べ物にならないほどの強い力と流れである。

 ふいに映像が脳内に浮かんだ。

(谷? 城……塔? 山、と泉……)
 同時にいくつものぼやけた映像が重なったため自信は無い。どの場所も、これといった特徴を読み取れなかったので認識できなかった。
 そうしてその後に、廃城のイメージを視たのだった――。

 ミスリアがひととおり話し終えると、一同は教会の一室に移動していた。小さな会議室である。

「私が視たのは黒ずんだ崩れた廃城でした。堀があって、死体の積み重なった……。でもそんな場所は、現在保護されている二十九の聖地にありませんよね」
 一連の出来事を思い出しながら、次の聖地の手がかりをビジョンとして視ることが情報を得る方法では、とこっそり仮定を立てていた。だが、あのイメージの性質を思えば、これは見当外れだったのではないかとミスリアには思えてきた。

「ありますよ」
「え?」
 あまりにあっさりと否定されたので、思わず頓狂な声が出た。
「貴女が視たのは、今とは時を同じくしない聖地の姿です。ディーナジャーヤ国のクシェイヌ城ですね」
 教皇猊下はへにゃりと笑った。

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15:44:05 | 小説 | コメント(0) | page top↑
24.a.
2013 / 07 / 05 ( Fri )

 赤黒い空を背景に、見覚えの無い古城を見上げていた。むしろ、廃城か荒城と呼んだ方が似合うような歪な形である。
 人の気配はない。烏の鳴き声を除けば完全な静謐が辺りに流れていた。

 城の端にある瓦礫の山にて数羽の烏が戯れ、城の壁は蔦に覆われている。どこからか腐臭が漂っている気がした。烏たちが突付いているのは或いは何かの骸であるのかもしれない。

 瘴気が周囲に充満しているのは明らかだ。ならば、此処は忌み地だろうか。
 低い丘の上で、堀に囲まれた黒ずんだ城。これまでに見てきた絵画や記録を思い返しても、これに該当するものは無かった。

 ――それにしても、おかしい。
 自分はいつの間にこんな、まるで記憶に無いような地を訪れたのか。これより以前に何をしていたのか、どうやっても思い出せなかった。

「もしかして夢?」
 その言葉が舌を転がり落ちた途端、何かが足首を強く圧迫した。
「ひっ」
 ひどく冷たい感触に全身が鳥肌立った。

 鋭く足元を睨むと、そこには頭部の右半分がごっそり欠けた人間らしきモノが這っていた。
 恐怖とおぞましさで声が出なかった。魔物、だろうか。生死をさ迷う人間、だろうか。
 思わず、自由な方の足でソレを蹴った。足首にかかった力が弱まると、そこから逃げ出した。

 しかしあろうことか自分は古城に向かって走り出していた。間違った判断だと頭の中ではわかっているのに、どうしてか体が方向転換できない。
 かろうじて堀の前で停止した。

 すぐに吐き気を催した。
 堀の中は、腐敗した人の屍骸でぎゅうぎゅう詰めになっていた。

(夢なら今すぐ覚めて――!)
 心の中の叫びに応えてのことなのか、世界がフッと消えて別のものに入れ替わった。同時に意識から何かが抜け落ちたような、切り離されたような、妙な手応えを感じた。

 掌に触れる感触はひんやりとしていて柔らかい。視界の半分は緑色に輝いている。この匂い、草だ。
 目に映る空はやはり赤いけれど、つい今まで見上げていた重苦しい色ではなく、茜と薄紫が入り混じった優しげな模様である。これは夕暮れ時の色。

 どうやら夢の中と違って現実では自分は横たわっているらしい。
 ゆっくり身を起こすと、目に見える世界を野原が満たした。

「聖女ミスリア。気が付きましたか」
 離れた場所から、柔らかい声が響いてきた。気遣い、慈しむ声音である。
「あの……此処はどこで、私は……」
 だれ、と問いそうになって、やめた。

(ミスリア……そう、だわ。私はミスリア・ノイラート。教団に属する聖女)
 自分が身にまとっているのは聖女の着る純白の衣装で間違いなかった。
 そこまではわかる。が、そこからが曖昧にしか思い出せない。

 呼びかけてきた声の主は両手を組み合わせた丁寧な立ち振る舞いで、微笑んだ。
 真っ直ぐな黄金色の長髪が風にそよいでいる。男性だとは思うけれど、小柄で華奢な体型だった。ぼんやりとしか姿が確認できないほどに、その人は離れた位置に佇んでいる。

「では、私が誰だかわかりますか?」
 彼はミスリアの問いかけには答えずに別の質問を返した。
「……私にとって身近な方でしょうか」
 失礼な物言いと思いながらも、ミスリアはそのようにしか返せなかった。見知った人間であることは薄っすらと感じられる。

「いいえ。あまりよく知らないかもしれません。困りましたね」
 金髪の男性は隣に立つ別の男性を振り仰いだ。裾の長い黒装束は、司祭の位を持つ者が着る正装に見えた。こちらの司祭の人は金髪の男性以上に、ミスリアには知らない人に思えた。

(ところでどうして彼らはあんなに離れているのかしら)
 助け起こして欲しいとまでは思わなくても、この距離の取り方は不自然に思えた。

 二人の更に後ろに、もう一人男性が立っていた。
 遠目にも長身とわかる、黒髪の青年だ。両腕を組んで静止している。

「ゲズゥ!」
 より自分にとって身近な人間の姿を認めて、ミスリアの脳は冴え渡った。
 思い出した。

(私は巡礼の旅をしている。そして、最初の聖地である岸壁の上の教会を訪れた)
 でも、それならどうしてあんな不吉なイメージを見たのだろう?
 聖地とはいったい何であったのか――

 前触れもなく息が苦しくなった。襟元を片手で押さえ込む。
 ひとつの想いが、目的が、全身を占め付けていく。他のことを考えようとすれば頭が激痛を訴えた。
 ――行かなければ! あの地へ! 直ちに! 行くのだ!

「聖女ミスリア」
 力強い、澄んだ声に、ミスリアはハッとした。
「落ち着いて。まずはこちらにおいでなさい。一緒に順を追って、思い出して行きましょう。あなたが経験した一切を」

「げい……か……」
 尚も混乱する心を落ち着けて、何とか立ち上がった。ゲズゥが、身動き取らずにじっとこちらの動向を見守っている。
 はい、と声を絞り出して、ようやくミスリアは三人に向かって一歩踏み出した。

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11:50:51 | 小説 | コメント(0) | page top↑
23.g.
2013 / 06 / 29 ( Sat )
賊であった以上、人を恐喝した事も、拷問にかけた事も、殺した事もあるはずだ。生きる為だったとしても、世間が認める道徳に反しているのは事実である。何より、穢れた手で家族に触れていいものか迷う気持ちは、ゲズゥには自分の事のようによくわかった。自分がソレをするのはどうでもよくても、大事な人に伝染させたくはない。

「知った時にどう反応するのか、それが怖いんだよ。臆病者で情けないだろ?」
 紫色の双眸が映し出す哀しみは深い。
 その問いに、少女はぶんぶんと頭を振って否定した。

「そんなことありません。過程がどうであれ、貴方は危険を冒して行動に移しました。大切な人と再会できた今では、それを『遅すぎる』と批判できる人はいないはずです。彼女にすべてを打ち明けるのが正しいのかどうかまでは私にはわかりませんけど……」
 語尾に向けて声が沈んでいく。

「でも、イトゥ=エンキさんがお姉さんの心の動きを恐れるのは人として当然のことだと思います。情けなくなんてありません」
「はは、ありがと。気休めでも嬉しい」
 エンがミスリアの頭を優しく撫でると、ミスリアは益々複雑そうな顔をした。エンはミスリアから手を放した後はまた片手をポケットに突っ込んだ。

「……それはそうと、いい加減、謝りに行くかな」
 時計塔の方角を見上げてエンは呟いた。
「多分、夕飯時にでもまた会うだろ。じゃーなー」
 既に踵を返し手を振るエンに対してゲズゥは「ああ」と答え、ミスリアは「頑張って下さい!」と答える。

 人混みに溶けて消える後ろ姿を見送った後、ゲズゥとミスリアは町の散策を再開した。
 目に映る景色や道を記憶の内に刻みながら、二人は歩を進める。

「お昼、どうします?」
 先を歩いていたミスリアが、振り返って訊ねた。言われてみれば、いつの間にか胃袋が空洞と化していた。
「食えれば何でもいい」

「ではあちらに見えるカフェで――」
 道の向かい側を通る小さな集団を目に入れて、ミスリアは露骨に後退った。そして恐怖に鋭く息を呑んだ。

「え? な、何か問題が?」
 向かい側を歩く男がこちらに気付いて、困惑している。だが少女の目が釘付けになっていたのは人間の方ではなかった。

 三頭の山羊だ。
 黒い毛皮のそれらは縄でできた首輪によって繋がれ、まるで飼い主の男に散歩をさせられているようにも見えた。実際は、男は山羊たちを売る為に移動させているのだろう。

「何でもない」
 顔面蒼白で硬直したミスリアに代わってゲズゥが口を開いた。強引にミスリアの腕を引いて歩かせる。面倒臭い状況に発展しないようにさっさとその場を去った。
 カフェまでの間、ミスリアは唇を噛み締めたまま何も言わない。何か苦々しい思い出に囚われている――山羊から連想できる、何か。

 ユリャン山脈付近の集落。
 瞬時に脳裏に浮かんだのは、無残に殺された赤い髪の少女。そう、その晩に襲ってきた異形どもは、身体の一部が山羊と羊の姿に似ていたのだ。

 確かにあれは楽な退治ではなかったし、犠牲者も出た。
 だが過ぎた事だ。トラウマという形で精神に影響を残していてはいずれ先に進めなくなるのも必至。普通に生活しているならいざ知らず、ミスリアは大きな目的を抱いて旅をしている聖女だ。

 こんな調子で本当に聖獣まで辿り着けるのか。
 ゲズゥがそれを思い悩むのおかしいが、多少の疑念が沸いた。

_______

 ドタバタと走り回る七、八人の子供の渦中に、探し人は立っていた。ここは教会の二階にある、いわゆる「子供部屋」である。床には木馬や人形などのおもちゃが散りばめられている。

「こら! 土足で部屋上がっちゃだめだっていつも言ってるでしょ! 言うこと聞かないと今日はご飯抜きにするわよ!」
 腕に三歳くらいの子を抱くその女性は周囲の子供たちに怒気を放った。
「うっそだあ」
 子供たちは聞く耳持たない。

「いいわ。人間は三日くらい食べなくても、平気だものね。悪い子たちには緑期日まで何も食べさせるなって、皆に言っておくから」
「ええー。ヨン姉ひどいっ」
「わかったら靴脱いで! それと、食事の前はちゃんと手を洗うのよ」
 はーい、と誰もが合唱する中、一人だけ部屋を飛び出す少年が居た。

「やなこった!」
「あ、待ちなさい――」
 そこで更に説教を畳み掛けたかっただろうに、腕の中の子供が泣きだしたため、ヨンフェ=ジーディはあやす方に意識を集中した。

(ふむ。手を貸すか)
 さっきから廊下で静観していただけのイトゥ=エンキは、逃げ行く少年の足を引っ掛けた。少年は、どてん、と大きな音を立てて転んだ。我ながら単純な手段だ。

「なにすんだよっ」
 転ばされた少年はイトゥ=エンキの足に殴りかかる。
「まーまー。ご飯三日も抜かれんのはマジでやばい。悪い事言わんから従っとけって、な」
 イトゥ=エンキは少年を楽々と腕に抱えて、子供部屋に返す。抱えている間も何かと殴られたり蹴られたりしたが、気にならなかった。

 下ろされた少年はふてくされながらも、他の子たちに合わせて靴を脱ぐ。皆はその後は部屋の片隅の水瓶に向かっていく。
 ヨンフェ=ジーディのブルー・ヘーゼル色の瞳が、静かにイトゥ=エンキを見つめていた。彼女の肩に寄りかかる幼児は、眠そうな顔で親指をくわえている。

「…………えーと、ただいま」
 なんとまあ、気まずい。ひとまず何か言おうと思って、無難な言葉を選んだ。今笑っていいものか自信が無いので、自分でもよくわからない顔になっている気がする。

「お帰りなさい」姉は眉根を寄せたが、応じてくれた。「言いたいことはたくさんあるけど。……お昼もう食べた?」
「や、まだ」
「作り置きで良ければ、温めるわ」
「ん。じゃーもらう」
 ありがと、と小さく追加しておくと、ヨンフェ=ジーディは何も言わずに微笑んだ。

 締め付けられる想いがした。
 痛いのは喉なのか胸なのか、とにかく息が詰まった。微笑みを返そうにも顔の筋肉が言うことを聞かない。
 一体それをどれ程の間、切望したことか。

 彼女の笑顔を最後に見たのが何十年も前だった感覚がある。泣き顔ばかりが浮かんで、笑った顔を忘れてしまうのが怖くて、洞窟の闇の中で幾度と無く思い出した。おかげで思い出は薄れても、消えはしなかった。

 もう二度と見られないと思っていた。
 それを言うなら、二度と声を聞くことも、手を握ることも、叱られることもできないと思っていた。
 今更、生きて再会できたのだという実感が全身を駆け抜けた。同時に、紋様がじわじわと広がっているのがわかる。

 ――会いたかったよ、ヨン姉。

 そう伝えるのは、後の機会に取って置こう。これからゆっくりと、色々な話をしていけばいい。今はまだ話せないことも、いつかは――。
 顎を引いて、くくっと喉を鳴らして笑う。

「どうしたの」
 心配そうな声がかかる。
「あー、いや」
 顔を上げた時にはもう、イトゥ=エンキはいつもの人を食ったような笑みを浮かべていた。紋様の広がりも引いている。

「アイツら、下まで連れてくんだよな。手伝うぜ」
「え? うんそうだけど……いいの?」
 首を傾げたヨンフェ=ジーディは、どこか嬉しそうだった。

「もたもたすんなよ、ガキどもー」
 ユリャンでもたまに子供の相手をすることはあった。イトゥ=エンキは嬉々として群れに混じった。
「おにいちゃんだれ?」
「さあ、ちゃんと二十まで数えて手を洗ったら教えてやるよ。ほら、せっけん」
「あーい」
 少女が石鹸の欠片をイトゥ=エンキから受け取る。

(ま、今はこれでいっか)
 まだ考慮しなければならない問題は多くあったが、これからどうすればいいのかの決断は先延ばしにしても大丈夫だろう。急ぐ必要は無かった。
 どうせもう、他に行きたい場所も会いたい人も居ないのだから。

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04:43:45 | 小説 | コメント(0) | page top↑
23.f.
2013 / 06 / 26 ( Wed )
「めざといな、お前」気まずい空気をかもし出すことなく、エンはけらけらと笑った。「別にコレは理由の内じゃねーけど。見られたくないのは違いないな」
 奴が手首を翻し、傷痕は視界から消えた。
「そうか」
 とだけ、ゲズゥは返した。

 花壇から目線を移したミスリアが、大きな目を瞬かせている。
 暫時の沈黙が流れた。
 往来の人々はゲズゥらに関心を示すことなく、忙しなく通り過ぎている。水瓶を頭に乗せた女がすれ違いざまに一瞬だけこちらをチラリと見たが、それだけだった。

 ミスリアがゆっくりと立ち上がる。茶色の瞳はエンをしっかりと捉えていた。ところが、次いで発せられた言葉は心もとない。

「あ、あの、私にできることがあれば言ってください。古い傷を治すのは難しいんですけど、精一杯頑張りますから……」
 オロオロとかける言葉に困るその様を、ゲズゥは今までに幾度も見てきた。

 相手を気遣いたい気持ちを持て余し、どう言ってあげるのが一番いいのかわかりかねているのだ。それを「できることがあれば」の言葉に包む事で、何より相手を尊重したいという意思を示している。「お前にできることは無い」と相手がそう断じれば、大人しく従うだろう。
 押し付けがましくない分、そういった想いが純粋に届くこともある。

 エンは最初、驚いたようだった。次には、朗らかに笑った。

「……嬢ちゃんはホントお人よしだなぁ。そんなんじゃ早死にしそうでこえーよ。誰も彼も助けようとして、疲れないか?」
 ゲズゥも何度か抱いてきた疑問である。今となっては、この娘の根本を成す性質だと受け入れて諦めている。

「私……私たちは、何度も貴方に助けられていますから。信頼に値する人物だと思ってます」
「カワイイこと言うじゃん」
「はい?」

 次の瞬間、エンは大股でミスリアに近付いた。長身の男は少女を両手でひょいっと抱き上げ、子供に高い高いをするように空に放った。

「きゃあ! イトゥ=エンキさん!? 何するんですか、やめ、やめてください!?」
「ははははは」
 エンは笑うだけで取り合わない。

 きゃあきゃあ喚く少女を、道行く人々は好奇の目で見る。あらまあ仲良いのねー、と口元に手を当ててくすくす笑う女も居た。
 あまり長引くと不審者だと勘違いされないだろうか。ゲズゥはふとそんなことを考えた。

 少なくともミスリアに害が及ぶ予感は全くしないので、手を出さないでいる。
 が、助けを求める目がこちらを向いた。タイミングを同じくして、エンはくるりと身体を巡らせた。

「ほれ、パス」
 宙に飛ばされ、ミスリアが小さな悲鳴を上げる。
 ゲズゥは飛んできた華奢な身体を素早く受け止め、地に下ろしてやった。
 若干目を回しているのか、ミスリアはぼんやりとしていた。

「ごめんなさいっ」
 我に返ると、すぐにゲズゥの腕から逃れた。何を謝ったのかは謎である。
「オレ妹欲しかったなー。来たのは姉だったけど」
 エンは両腕を組んで、悪びれずに言う。

「……来た、ですか? やはり血は繋がっていないのですね」
「わかったか。っていうか全然似てないだろ? ヨン姉は父さんがこの町まで遠出に行ったある時、連れて帰ってきた孤児だよ」
「そうだったんですか」
「そ。たまたま同族だからか感情移入しちゃって、教会から引き取ったってさ」

 それを聞いて、ゲズゥは色々と納得した。生き別れた後の姉の消息を、元々彼女と縁の深い教会なら何かわかるだろうと考えたのはそういうことか――。
 そして、十五年前にあの女やエンが味わったであろう絶望をなんとなく想像して、冷風が吹いたような錯覚を一瞬覚えた。

「イトゥ=エンキさんは、どうしてお姉さんを避けるんですか? 会いたかったのでしょう……?」
 少女の澄んだ声が静かに問うた。どこか、陰を内包した声だった。
「そりゃあ……ヨン姉は十五年前までのオレしか知らないんだよ」
 ミスリアの様子に気付いたとしても、エンもやはり静かに答えた。

「……? 必然的にそうなりますね」
「つまり。これまでに何処でどうやって、何をして生きてきたのか、知らないワケだ」

 即時にゲズゥは理解した。
 隣のミスリアも、エンとの最初の出会いやユリャン山脈を思い出したのだろう。今にも泣き出しそうな顔をしていた。

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00:10:05 | 小説 | コメント(0) | page top↑
23.e.
2013 / 06 / 21 ( Fri )
 いくら何でも気前が良すぎる。そう思ったが、口には出さなかった。こちらにとって都合が良いのだから敢えて不平を言うのもおかしい。

「そんな――」ミスリアは何かを言いかけて顔を伏せた。
 逡巡してから、再び顔を上げる。
「教団との協力関係への感謝……そして代わりに、巡礼を必ず成功させて欲しいとの期待を込めてのことでしょうか」

「……町の偉いさんの考えはわからんよ。わしらが聖女様の成功を願ってるのは間違いないがね。とにかく気にせんでくれい」
 職人は分厚い手で帽子を被りなおした。屈託の無い笑顔が印象的である。

「わかりました。ご厚意、有り難く頂戴します」
 ミスリアが返したのは、民の期待を一身に背負った聖女に相応しい、使命感と誇りに溢れた微笑みだった。
 鍛冶屋の師弟は反射的に手を合わせて頭を下げる。傍らではエンが物珍しげな顔つきをしていた。

「あ、でもそっちの兄ちゃんは何かして欲しいなら払わないといかんぞ。すまんな」
 職人が祈祷の姿勢から顔を上げる。
「当然だな」名指されたエンはまったく気を悪くした素振りを見せずに笑った。「で、それなんだけどー」

 エンは腰の鉄鎖を外し、先端についている細い三又(みつまた)のフックを掌に乗せた。フックは鋭いものではないらしく、鎖を何かに巻き付ける時の滑り止めに見えた。
 歯の二本が歪に折れ曲がっている。

「む。ぼきっといっちゃってるのう」
「いっそ直さずに取り替えてみては? 確か武器屋に似たものの完成品が置いてあるはずです」
「それが良いな」
 職人は己の弟子の提案に首肯した。

「大剣は預けてもらえんかね。ちょうど今、手が空いててな。ちょっと向こうで時間潰してくれればその間に修理するぞ」
「できれば鞘も頼もうと思っていた」
 ゲズゥは大剣を両手に乗せ、差し出す形で応じる。

「あぁ、なるほど。だったら合わせて数日かかるな。とりあえず代わりになる得物を武器屋から借りるといいぞい」
 職人が剣を受け取った。
 ゲズゥはミスリアを見下ろした――この町で何日を過ごす気でいたのか知らないが、一応同意を得る必要はあるだろう。少女は小さく頷きを返した。

「どうか私からもお願いします」
「うむ。この形だと剣を『引き抜く』タイプの鞘じゃダメだな……二つの面を合わせて留め金付けるのがいいじゃろう。それで後ろ手に外せれば……」
 ブツブツと職人はひとりごちる。やがて、弟子の方も案を挙げていく。

「形はお前らに任せる」
 二人の会話を遮るようにしてゲズゥは言った。彼は鞘の質にはこだわっていなかった。
 それに、こういったものは玄人の考えに従うのが一番だ。この二人ならおそらく大丈夫だろう。工房の壁や床など至る所に積まれているさまざまな鉄器の試作品を見るに、腕は確かなようだった。
「おう、任せとけい」

「では後で教会でお会いしましょう」
「はい。案内ありがとうございました、ラノグさん」
 簡単な別れの挨拶を交わしてからゲズゥたち三人は工房を後にした。
 来た道を辿ると、坂を上ってすぐそこに武器屋があった。

 品揃えはそこそこ良かった。ゲズゥは隠し持てるタイプのナイフと予備の短剣を新調し、ついでに曲刀を借りた。際立った特徴の無い、一般的な曲刀である。
 ミスリアにも何かしら持たせた方がいいのか迷ったが、使いこなせないのならかえって危険だと考えて、止めた。

 エンは鉄鎖に付ける新しいフック、直刀、そして黒革の手袋を買っていた。指の第二関節までの長さの、指先が空いた手袋である。

「ふー、いい買い物したな」 
「私も何か買ってみたかったです」
「や、別にいーんじゃねーの、嬢ちゃんはそのまんまで」
「そう思いますか?」

 昼も近い頃、三人はぶらぶらと町をふらついていた。ふいに小さな花壇の前でミスリアがしゃがみこんで、鮮やかな色の蝶を見つめる。
 ゲズゥはその姿を背後からぼうっと観察していた。一眠りしたくなるようないい天気である。
 
 その時、何か気になるものが目の端を過ぎった。首を振り向くと、横でエンが手袋を付けたり外したりと調整をしている。
 奴の手首の内側、黒い革が途切れるすぐ下。そこにミミズが這うような皮膚の盛り上がりがあった。

 ――あれは……いつも手をポケットに入れているからあまり気付かないが、そういえばごくたまにチラリと目に入ることがあった――。
 他人の事情に関与しない主義のゲズゥは、これまでは無視し続けていたのに、何故かその時声を出さずにいられなかった。

「……エン」
「んあ?」
「お前がやたらと姉を避けるのは、その傷痕を見られたくないからか」
 治った痕を見る限り、それはためらい傷と呼ぶにはあまりに深かった。死ぬつもりだったというより、まさに死にかけたのかもしれない。

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13:20:30 | 小説 | コメント(0) | page top↑
23.d.
2013 / 06 / 13 ( Thu )
 どうして人混みに揉まれていたのか、向かう場所があったのかそれともふらふらと目的地も無く暇を潰していたのか。訊ける前に彼の方が先に問いを振った。

「どっか行くん?」
「鍛冶工房と武器屋」
 これにはゲズゥが答えた。
「マジでー、いいなソレ。オレも行く」
「あの! その前にちょっと」
 ミスリアは思わず声を上げた。この流れのままに進む前に、伝えるべきことがある。

「ヨンフェ=ジーディが探していましたよ。血相を変えていたと言ってもいいでしょう」
 その先を、戻ってきたラノグが告げた。心なしか責めるような声音だった。
「へえ。そりゃ悪いことしたな、後で謝っとくよ」
 対するイトゥ=エンキは含みのある笑みを作った。紫色の双眸を明らかな拒絶の光が過ぎる。まるで「身内の問題に他人が口出しするな」とでも言いたげだ。

「……なら、いいのですが」
 ラノグは食い下がらず、むしろ気圧されたように僅かにたじろいだ。
「で、武器屋に行くんだって? オレも連れてってくれよ」
 打って変わって、イトゥ=エンキの雰囲気が明るくなった。束の間張り詰めてた空気が和らぐ。
「…………そうですね。この道です。ついてきてください」
 まだ何か言いたげな、複雑そうな表情を浮かべつつも、ラノグは一同を先導した。

_______

 南端に並ぶ店の背後。緑茂る坂を下りた先に、一軒だけ建物がポツリと建っていた。
 街から少し離れているのはおそらくはあの煙突から上るおびただしい煙が人の迷惑にならない為だろう、とゲズゥ・スディルは考える。
 灰銀色の屋根とベージュ色に塗られたレンガは薄汚れ、街中の建物より全体的に華やかさで劣る外観だが、二階建てで広そうではある。

 ハンマーが何かを叩く音が外にまで響いている。
 これでは扉にノックをしたところで聞こえやしない、ということで全員はそのまま入口から入った。鍵はかかっていなかった。
 工房の中心にて鉄を鍛える初老の男がいる。

「師匠、おはようございます! 昼前に起きてらっしゃるなんて珍しいですね!」
「おう、ラノグか。よく来たな。死んだ女房に怒鳴り散らされる夢見て、目が早く覚めただけじゃい」
 ハンマーを下ろす手を止め、鍛冶職人は前歯の抜けた笑みを返した。その背後で、加熱炉の炎が激しく燃えている。おかげで屋内の温度はなかなかに高かった。

「んで? 客か、さっさと紹介せんか、バカ弟子」
「バカは余計です。えーと、こちらが巡礼の聖女様と護衛の方。こちらは……」弟子の男はエンに顔を向けて、口ごもった。「お二人と一緒に来た方で、まあヨンフェ=ジーディの弟さん? だそうですけど……?」
「ほお」

「よろしくお願いします。ミスリア・ノイラートと申します。それから、私の旅の護衛のスディル氏です」
 スカートを広げる礼と共にミスリアは自己紹介をした。隣でゲズゥは特に何もしなかった。
「どーも。オレはイトゥ=エンキってんだけど、ヨロシク」
 エンは片手をポケットに突っ込んだまま、空いた片手を振った。

「ほお、ほほお。聖女様、しかも可愛いお嬢さんは大歓迎だ。よろしくよろしく。にしてもそっちの兄ちゃんは顔にすごい刺青じゃな」
 長いあごひげを撫でながら、値踏みする目で鍛冶職人は来訪者を一人一人見回した。
「コレは生まれつきですよー」

「生まれつき? ソイツは傑作じゃ」
 何がどう傑作なのかよくわからないが、エンと職人が笑い出したので弟子もミスリアもなんとなく合わせて笑っている。

「さぁて。今日は何か特定の用向きでもあるんかいの。そのバカデカい剣なんてどうじゃ。鞘が無いのかね」
 職人は腕を組んでゲズゥを見上げた。正確に言えばゲズゥの背中の大剣を凝視している。
 ゲズゥは剣を下ろし、巻いてある包帯を手早く解いた。

 刃が露わになった途端に職人とその弟子が真剣な面持ちになって近付いてくる。

「こりゃあ見たことの無い型の剣じゃな。しかも鉄も珍しい……」
 指を刃の上に滑らせたりしている。
「こことか、所々に綻びが見えますね。修理しますか?」
 弟子の方が顔を上げて訊ねる。

「ああ。いくらかかる」
 金の管理をしているのはミスリアであるにも関わらず、ゲズゥは真っ先にそれを訊いた。
「まさか、受け取れませんよ。巡礼中の聖人・聖女様方からはお金を取らないのがナキロスでの原則です」
 弟子は意外な返事をした。

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13:31:52 | 小説 | コメント(0) | page top↑
23.c.
2013 / 06 / 08 ( Sat )
 弟と言っても二十六歳の成人男性のことだ。普通なら、一晩姿を見なかったくらいでここまで気にかける必要は無いはずである。しかしこの姉弟は十五年も離れて生きていて、突然再会したばかりだ。決して普通とは言えないだろう。

「大体、身体が弱いのに一人で街中をふらついていいはずが無いんです」
「あ、そのことでしたら、もうすっかり健康になったそうですよ」
 彼女のただならぬ気の揉み方に別の理由が垣間見えた気がして、ミスリアは思わず言った。

「強がりではなくて?」
 ヨンフェ=ジーディが訝しげに眉根を寄せる。
「はい。実際、旅の道中も涼しい顔で長い時間ずっと走っていましたし」
「そう、ですか」
 彼女は考え込むように口元を指先で押さえた。きれいな形に切り揃えられた爪が目に付く。

(改めてよく見ると、イトゥ=エンキさんにどこもかしこも似てない)
 髪や瞳や肌の色だけでなく輪郭や顔のパーツですら似ている箇所が無い。唯一共通しているのは、紋様の一族である点だけだ。ここまでだと、いっそ血が繋がってないのかな、などとも考える。
 ふいに背後で扉が開く音がした。皆の注目がそちらに集まる。

「……もしも街中で奴に会ったら、お前が探していたと伝えておく」
 振り返らずにゲズゥが無機質に言った。その言葉をきっかけに、ラノグも動き出した。
「じゃあそういうことだからヨンフェ、また後で」
「わかったわ……。気を付けて」

 頷いたヨンフェ=ジーディに、ミスリアは会釈した。
 教会を出て通りに出るとラノグが申し訳なさそうに笑った。

「すみません、聖女様。ヨンフェは元から心配性なんですけど、今回はなんていうか……特別なんでしょうね」
「気にしていません。それだけ彼女は思いやりが深いのですね」
「そう、そうなんです」
 彼はとても嬉しそうに破顔する。なんとなくこっちも嬉しくなってきて、笑みをこぼす。

 ミスリアとラノグは並んで道を歩いた。大剣を背負ったゲズゥが無言で数歩後ろをついてきている。
 レンガに舗装された道の手入れが行き届いていて歩きやすいことに、なんとなくミスリアは気が付いた。

「何を隠そう僕は行き倒れていたところを彼女に救われまして」
「行き倒れたのですか?」
「はい、その時は一人旅をしていて、この町に辿り着いて間も無く体力が尽きたんです」
「大変ですね」

「そうですね。でも皆さまの優しさに救われた、という大切な想い出なので……」
 ラノグは急に手を広げて町並みを指した。
「この町、ナキロスは美しいでしょう?」
 彼の動きに吃驚した鳩がパタパタと飛び交う。

 美しいか、と訊ねられてミスリアは周囲に視線を巡らせた。
 辺りの建物の輪郭が青い空にくっきりと浮かんでいる。黒または灰色の屋根が白とパステルカラーの外装の建物たちによく似合っていたし、植物の緑に彩られたベランダや丸く可愛い窓の形まで、すべて丁寧に設計されたのだと素人目にもわかる。

 外観だけではない。設備がしっかりしているのだろう、汚水の漏れや汚臭も無い。町の清潔は生活水準の高さと結び付きが深いものだ。
 この町は西に断崖、東に樹海と地理的に孤立していながらも栄えている。それはヴィールヴ=ハイス教団が多方面で支援しているからであって、一方で国家からはある程度の自治権を認められているらしい。

「確かに素敵だと思います」
 ミスリアは強く肯定した。
 その時、近くの建物の屋根を夢中で清掃していた中年女性が顔を上げて手を振った。ラノグが快く手を振り返す。二人は声を張り上げて世間話をし出した。

(きっと美しいのは見た目だけじゃなくて)
 余所者を受け入れる心の広さ。ミスリアが教団から聞いていた話でも、ナキロスは何かと移住者が多いらしかった。ほとんどの者は何か或いは誰かから命からがら逃げてくるのだという――。

 ふとゲズゥに視線をやってみると、彼は先の方の人混みを見ていた。どうかしたのかとミスリアが首を傾げる。ゲズゥは前方の一つの人影を指差した。
 差された人物が早足に距離を詰めてきている。

「よ。何してんだ、嬢ちゃん」
「イトゥ=エンキさん! 何処から現れたんですか」
 今ではすっかり見慣れた笑顔を認めて、ミスリアは驚きに声を上げた。

「んーと、あそこの人混みに揉まれてたんだけど、ゲズゥが見えたから来てみた感じ」
 いつものハスキーボイスで、イトゥ=エンキは質問の答えになってない答えを返した。

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