23.b.
2013 / 06 / 01 ( Sat ) (昨夜から姿を見ないと思ったら……樹の上で寝たのね……) 祭壇の前で泣き崩れる所を見られた所為で気まずいかも、と心のどこかで心配していたけれど、おそらくゲズゥは気に留めていない。だったら、一方的に気にしても仕方のない問題だった。 「それで一言『かわる』と言って斧を取られました。おかげで休憩できましたよ」 (いつもと同じ無表情なのに。どうしてかな、ちょっと楽しそう) 「さて。そろそろまた僕がやりますよ。あと少しですね」 (あ、コップ一つしか持って来てないわ) ゲズゥはコップではなく水差しを片手に取った。それを頭よりも高い位置に持ち上げ、上向きに首を傾け、開いた口にとくとくと水を注ぎ込んだ。注ぎ口に触れることなく。 「き、器用な飲み方ですね」 「町に?」 「鍛冶屋ですか」 「行きます。ラノグさんも、是非、ご案内お願いします」 数十分後には割り終えた薪を纏めて教会の中に持ち込み、三人は町に出る為に正面玄関に向かった。 「どこ行くの?」 「やあ、ヨンフェ。少し早いけど、鍛冶屋の方に行くよ。聖女様方も行きたいそうだし」 「ねえ。イトゥ=エンキを見なかった? あの子、昨日はどこ泊まったのかしら……晩餐にも来なかったわ」 昨晩、イトゥ=エンキが「町に消える」や「晩御飯を適当にどこかで食べる」と言っていたことは伝えるべきだろうかと迷う。本人は、あまり追われたく無さそうだった。 「朝は一瞬だけ聖堂に居たって司祭様の証言があるのだけれど。逃げられている気がするのはどうしてかしら」 「聖女様、お願いです。昨日は訊けなかったけど、教えて欲しいことがあります。イトゥ=エンキとはどうやって出会ったんですか? どうして一緒に旅をしてたんですか? あの子は今までどこで何をして――」 |
23.a.
2013 / 05 / 21 ( Tue ) 時計塔の鐘が鳴り終わるまで、ミスリア・ノイラートは灰銀色の屋根の塔を見上げて待った。 十回鳴った後で音が止まる。 その余韻がまだ耳朶に残っている内に、ミスリアは目を瞑って一呼吸した。 日差しが心地良い。どこからか風に乗って伝わってくる焼き立てのパンの匂いが香ばしい。足元で、鳩が食べ物を求めてレンガの道を突く音がする。 通りを行き交う人々の声に、雑踏に、活気が溢れていた。こうしていればその活気を分けてもらえる気がした。 (よし。私も一日頑張ろう) 両手で頬を軽く叩いて、ミスリアは目を開いた。 「おはようございます、聖女様」 開いた目に入ってきたのは黒い服と銀のアミュレット。真正面に、いつの間にか誰かが立っていた。聖女の制服を着ていないのにそう呼ばれたからには、知り合いなのだろう。 ミスリアは目線を上げて、茶色の巻き毛と垂れた耳たぶが特徴の、昨日出会ったばかりの中年男性を認めた。 「おはようございます、神父さま」 「まだ寝ているものかと思っていました。疲れていらっしゃるでしょう」 神父は元々細い目を更に細めて、のほほんと笑った。 「いいえ、そんな訳には」 ミスリアは頭を振った。 この町の朝は早く、既に一日が始まってから数時間経っている。旅の疲れがあったものの、周りより起きるのが遅かったことに対してミスリアは何故か申し訳ない気持ちになっていた。 「そういえば神父さま、聖地へご案内していただけませんか?」 思い出したようにそう訊ねると神父の笑顔が揺れた。 「聖女ミスリア、それはいけません。週の始めの赤期日と言えば聖職に携わる者にとっての正式な休日。今日は、のんびりと何もしなくて良いのですよ」 「で、でも……。ではせめて何かお手伝いします」 何もしなくていいと言われると余計に戸惑う。 教会に住んでいる人間は休日を利用して家事やら買い物やらに忙しいのに、自分だけ何もしないのは気分が落ち着かなかった。 「それも、いけません。貴女様は大切なお客様です。お手を煩わせるなど」 口元をむっと引き結んで、神父は取り合わなかった。 「私が望んでいても……ですか」 「困った言い方をしますね。では、そうですね。庭の方で薪割りをしていらっしゃるラノグさんに飲物を持って行って下さいませんか」 「勿論構いません」 ミスリアは笑顔で請け負った。 そうして、水差しとコップとスコーンの乗ったトレイを持って裏庭に向かうことになった。 庭は広く、ずっと先まで見渡せばやがて庭から野原に変わり、そして緑が途絶える。あそこが聖地たる崖なのだろう。いずれゆっくりと見て回る必要があった。 右へ進み、斧が木を打つ小気味良い音を辿って、ミスリアは探し人を見つけ出した。 しかし彼は木の株に腰を下ろしていた。ミスリアに気付いて顔を上げ、明るく手を振って来る。 「聖女様! おはようございます。いいお天気ですね」 「おはようございますラノグさん。休憩中なら調度良かったです、お水とお菓子をどうぞ」 ミスリアは薪割りを続行するもう一人の人物の姿に驚きながらも、まずは挨拶した。 差し出されたトレイをラノグが受け取ると、ミスリアは水差しからコップへと透明の水を注いだ。 「有り難いです。いただきます」 ラノグは夢中になってスコーンの山を一個ずつ崩し始めた。その間も、すぐ隣で薪が割られる音は続いた。 しばらくしてミスリアは薪割りに没頭する長身の青年を振り返った。 脱いだシャツを腰に巻いて、青年は傷跡だらけの褐色肌の上半身を日に晒していた。どれくらい作業をしていたのだろうか、黒髪から汗の粒が滴っている。 苦笑しながら、ミスリアはラノグに小声で問うた。 「……ところで、どのように誘って彼の協力を得たのですか?」 「僕から誘ったワケでは無いですよ。ここで薪を割ってたら降ってきたんです。えーと、ちょうどあの辺りの樹の上から」 ラノグは近くの大樹を指差して答えた。 |
22.g.
2013 / 05 / 17 ( Fri ) ミスリアの顔に安堵の色が広がるのを目の端で捉えた。 一方、優男教皇は胡散臭い笑みを浮かべている。 「そうですか、失礼しました。なにぶん少数民族に関する情報が少なすぎますから。聖女ミスリアは息災そうですし、私は護衛である貴方に感謝こそすれ責め立てる理由はありませんね」 そう言ってやっと手の力をいくらか抜いた。 奴はまだ何か訊きたそうな目をしていたが、ゲズゥはその隙に手を引いた。これ以上の会話をする気は無いとの意思表示で顔を逸らす。 一瞬、黒い兄弟から鋭く睨まれた気がした。 「では、そろそろ私は皆に挨拶をして回ります。また後ほどお会いしましょう」 意思が通じたのか、教皇は裾を翻してすたすたと聖堂を後にした。兄弟がその後ろに続く。奴は結局何の為に聖堂に寄ったのか、これではまるで雑談をしに来ただけである。 残った三人の間に数秒ほどの沈黙が訪れた。 「じゃあオレは町にでも消えるかな」 と言ってエンも出入口に向かい出した。 「イトゥ=エンキさん? 晩御飯はいいのですか?」 「パス。適当にどっかで食ってくるから」 「そうですか……」ミスリアは残念そうに俯き、次いで何か思いついたように顔を上げた。「余り分があったら夜食として出しっぱなしにされると思います。後で、誰も居なくなった時にでもどうぞ」 「おー、気が向いたら寄っとく」 振り返りざまに一度笑ってから、エンは音を立てずに去った。 おそらく姉を避けたい理由が口で言った以上にいくつもあるのだろう。事情は詳しく知らないが、複雑な心境であることは間違いない。ミスリアもそれを察し、寂しそうな表情を浮かべるも引き留めようとしなかった。 しばらくして、脱いだ手ぬぐいを両手の間に折ったり広げたりして、少女は何か言いたそうに視線を彷徨わせた。 「大丈夫ですか」 ミスリアがゲズゥを見上げて訊ねる。 「何が」 思い当たる節が無くて思わず訊き返した。 「……その眼の話をするのは、好きではないのでしょう?」 伏し目がちに、静かな口調でミスリアは言った。 「群れのボスより、俺を気遣うのか」 気が付けばそう答えていた。 「ボスって、教皇猊下の事ですか? それは……立場も大事ですけど。身近……な人間を思いやりたいですから。ゲズゥを私の旅に付き合わせて、嫌な想いをさせたかった訳ではありませんし……」 遠慮がちに答える少女を見下ろし、ゲズゥは得体の知れない優越感を覚えていた。 頂点に立つ上司よりも優先してもらえたから? 「身近」と言ってもらえたから? ――わからない。実に、得体の知れない―― 「気にするな。ああいう誤認には慣れている」 「……本当に?」 上目づかいで茶色の瞳が見上げてくる。 「一族も別に正そうとしなかった。『呪いの眼』と自称していたのは、ソレを持って生まれた人間が呪われているからだ。最初から、他人を呪う力など無い」 だったら「呪われた眼」と呼ぶべきだったかもしれない。先祖の考えた事はわからない。 「なら……理不尽な差別に怒らないのですか……」 「無意味だ。何を主張した所で、見た目が気味悪いのは変わらない」 「私は綺麗だと思います」 「お前は少数派だ」 そこで、会話がぱたりと止んだ。 ミスリアはどこか居心地悪そうに辺りをきょろきょろと見回し――ある壁の前で唐突に表情が翳った。 何を見たのだろうかとゲズゥは視線を追う。演壇から見て左隣の壁だ。台の上で蝋燭が列になってびっしりと並べ置かれている。蝋燭は全部に火が点いていない。 急に我を忘れたように、滑るように歩いてミスリアはその台を目指した。ゲズゥは動かずに、目だけで後ろ姿を追った。 蝋燭の一本一本に、銀細工のリングみたいな蝋燭立てが付いていた。何か彫られているのだろうか、ミスリアは指先でそれらを夢中で確認している。 やがて目当ての一本を見つけ、白い指はある一本の蝋燭の前で止まった。ミスリアは片手で口元を覆い、空いた手をマッチ箱へ伸ばした。震える手で蝋燭に火を灯す。 ことん、と音を立ててマッチ箱が戻された。 少女はしばらく揺れる炎を見つめていた。 次には両手を絡み合わせ、祈る姿勢で何かを呟いていた。それもしばらくして崩れる。ミスリアは力なく床にへたり込んだ。頼りなく細い肩が激しく震えている。 すすり泣きが、聴こえた。 |
22.f.
2013 / 05 / 15 ( Wed ) 顔を上げ、ミスリアは差し伸べられた手を小さな両手で口元に引き寄せ――教皇の右手の中指に嵌められているごつい指輪に口付けを落とした。 ゲズゥは片眉を吊り上げた。男が女の手にキスするのはそれなりによく見る挨拶だが、女が男にそうする場面は初めて見たかもしれない。 「よくぞ無事にここまで辿り着けましたね。安心しました。貴女は世に出た聖人聖女たちの中でも最年少ですし、何かと気がかりで」 教皇は子供か教え子にするように少女の頭を優しく撫でた。ミスリアはくすぐったそうに身じろぎする。 「ありがとうございます、猊下。苦難あれど、何とか旅を進めています」 ミスリアの返答に教皇は満足げに微笑むと、今度はゲズゥへと眼差しを移した。振り向く際に、低い位置で一つにくくられた髪が揺れた。 「左目がうまいこと黒い前髪に隠れていますけれど、貴方がゲズゥ・スディル氏ですね。お初にお目にかかります、私はヴィールヴ=ハイス教団を代表する者の一人。位は教皇。聖女ミスリアがお世話になっております」 優雅に一礼してから教皇は右手を伸ばした。数フィート離れているというのに、まさか握手しに来いとでも言いたいのだろうか。ゲズゥは微動だにしなかった。 「ちなみに指輪にキス、は信徒の挨拶。信徒じゃないなら握手でいいんだよ」 エンが楽しげに耳打ちしてきた。 「教皇っつーと最高責任者だな。そいつの握手を拒むのって、スッゲー失礼だと思うぞー? 従者の黒い兄弟に刺されるかも」 そういうエンも失礼な口を利いていたはずだが、特に問題ないのか、教皇や兄弟からの反応は無い。 「俺に礼節を重んじろと」 「ココの飯食うつもりなら重んじた方がいーんじゃねーの。ミスリア嬢ちゃんの生活費とか教団からもらってんだろーし。お前も世話になってんじゃん?」 声を小声から普通の音量に戻し、エンは肩をすくめた。 「貴方の釈放を許可したのも私ですけれどね?」教皇がにっこり笑う。「おかげさまで対犯罪組織の怒りを買ってしまいましたよ。とはいえ元々あの組織もシャスヴォル国もいちいち過激です。死は本当の意味では贖罪になりえませんのに」 「…………」 どうやらこの男は死刑に対して反対のスタンスを通しているらしい。だからこそ「天下の大罪人」の釈放に繋がったのだろうが、それでも礼を言う気になどならない。 ゲズゥは沈黙の内にいくつかの事項を考慮し、主にエンの意見を取り入れて噛み締めた。 この優男教皇と友好関係を築いた方が今後動きやすそうだろうという結論に至り、重い足取りで教皇の前まで歩いた。顔を見ずに、奴の骨ばった細い手に己の手を重ねた。想像通りの弱い握手が返ってきた。 「時に、スディル氏」 何故かシーダーの香りが鼻をかすめた気がしたのと同時に、教皇の握手に見た目からは想像できない強い力が加えられた。反射的に抵抗しかけ、思い直して力を抜いた。相手の骨を折る結果を招きかねない。 「経過はどうです。貴方にとってどのような行路であるのかは存じませんけれど、我々の大事な人財に、まさか呪いをかけたりはしていませんね?」 脈絡の無い問いかけにゲズゥは教皇の白い顔面へと目線を上げ、瞬いた。 ――旅の途中でミスリアに呪いをかけたりしていないか――? 普段のゲズゥならば馬鹿馬鹿しいと一蹴するか無視するような、くだらない質問である。 そんな心配をするぐらいなら最初から釈放を許可しなければいいだろうに。そもそも「呪いの眼」という呼び名から派生する誤解と迷信を信じているなら、当人に面と向かって訊けないはずだ。冗談に過ぎないのか、教皇の意図が掴めなかった。 ところが優男の鮮やかな青い双眸や掌を圧迫する握力が、何故か言い逃れを許さない雰囲気を湛えている。意図が何であれ半端な答えに納得するとは思えない。いっそ今からでも無視してやろうか、と奴の顔から視線を外した。 不安と気遣いに表情を曇らせる少女の姿が目に入り、ゲズゥはしばらくミスリアの茶色の瞳を見つめて更に思考を巡らせた。 気遣いの心が何を意味するのかはわからない。ただ、他でもないこれからも一緒に旅を続けなければならない聖女に、こっそりと化け物と疑われるのは面倒ではある。 「…………思い過ごしだ。左眼に他人を呪う力は無い」 やがてゲズゥは、これまでぼかし続けてきた問題について、今は真実を答えるべきだと判断した。 |
22.e.
2013 / 05 / 11 ( Sat ) 「お二人とも凛々しいお顔立ちですね」 突然、感心混じりに男が述べ――そう思いませんか、と後ろについてきた二人の長身痩躯の男を振り返った。黒ずくめの男二人は最後列のベンチの後ろに直立して控えている。双子か兄弟だろうか、よく似ていた。兄弟は意見を挙げずにただ頷いた。 「それはどーも」 煙を吐きつつエンが不敵な笑みを浮かべる。 前を向き直り、へにゃり、と華奢男は頬を緩めた。どこか気の抜けた笑い顔が、益々男臭さを遠ざける。ただでさえ眉毛が細く、肌がキレイすぎる。この男の顔にはニキビや日焼けの痕もシミも見当たらない。そのためか年齢が推測不能だ。 腰上に巻かれたスカーフのような絹をなびかせ、男は歩み寄ってきた。教団の象徴を象った巨大なペンダントをかけている。人間の掌より全長が長く、嵌められている紫水晶も雀の卵と同等の大きさである。 「……神様ってのは人類を試したり裁いたりするもんだろ?」 男が立ち止まるのを待って、エンが言った。ゲズゥは無意識にその「凛々しい」横顔に目をやった。 当然のように掠り傷や僅かな髭の剃り残しがある。一層、頬に赤みすら無い華奢男の方が病気に思えた。 「さてどうでしょう。神の在り様が――命を生むもの、世界を創造するもの、裁くもの、救うもの、と多く説かれています。神々は多くの事象を司る、人間の理解の範疇を超えた大いなる存在です」 男の話し方は音楽的で、それでいて確信が込められていた。すべて、と発音した瞬間など、大袈裟に手を広げていた。 「摂理をお決めになるのが神様? それとも、理そのものが神様であらせられるのか? その答えは、誰にもわかりません」 間近だと、男が斜視であることが見て取れた。真正面を見ているのに、左目だけがわずかにずれていた。 「オレにも訳わかんねーよ。このロン毛優男(ヤサオ)は何言ってんだ?」 エンは軽く笑った。後半の質問はゲズゥに向けられたが、まさかこちらにもわかる訳が無く、頭を振った。 「基準なんて判然としなくても良いのです。命ある限り償い続ければ、いつかは聖獣の恩恵にあずかります。それが摂理なのですから、罪を犯した者にも神々へと続く道が照らされる日は訪れます」 そう言って微笑んだ男の存在感に、ゲズゥは何か妙な引っかかりを覚えた。 奴が現れた瞬間をエン共々に感じ取れなかった点から元々生命力が希薄だったのかと思ったが、少し違う。聖気を使う時のミスリアみたいな、この世とかけ離れた儚さに似ている。 「そして聖獣が我らを救う存在であると、それだけは確かです。私(わたくし)はそれを説いて、人々を導くのが役目ですから」 「確かって言うからには、何か証拠があるんか?」 「難しい事をお訊ねになりますね。証拠や確信の有無について話すには、二日や三日ではこと足りませんよ」 「はは、今してる話だって十分難しいじゃねーか」 「それもそうですね!」 二人が笑い合う横で、ゲズゥは欠伸をした。存外、エンも本気でこの雲の上の会話を楽しんでいるように見える。こっちはとっくに振り落されて飽きているというのに。 その時、扉が開いて手ぬぐいを被ったエプロン姿のミスリアが入ってきた。 「ゲズゥ、イトゥ=エンキさん、やっぱりここに居ましたね。お腹空いてますか? 食事の準備が整いましたよ」 呼びかける途中で、佇立した二人の黒服の男に気付き、ミスリアは振っていた手を下ろした。 瓜二つの男を見比べて更に通路の先の華奢男へと視線を流した。男は肩を振り返ってミスリアと目を合わせた。 「……おや。もしや聖女ノイラート――いえ、聖女ミスリアですね?」 男は嬉しそうに目を細めた。何故呼び方を言い直したのかは不明である。 「教皇猊下! もういらしていたのですか」 慌てて手ぬぐいを引っ掴んでは脱ぎ捨て、ミスリアはその場で跪いた。 「予定より早く着いてしまいましたので先に聖堂に寄ってみたのですよ」 教皇と呼ばれた男は通路を歩き出した。一歩進む度に白い服の裾が床に引きずり、しゅる、しゅる、と小さな音を立てた。 教皇は膝をついた少女の元へゆっくりと近寄り、右手の甲を差し伸べた。 |
22.d.
2013 / 05 / 07 ( Tue ) 動揺に反応して紋様が広がっていくのがわかる。向かい合っているヨンフェ=ジーディも同じで、彼女の場合は顔の右半分と首周りに黒い模様が広がっている。元々彼女の紋様はイトゥ=エンキのそれと比べて感情の起伏に影響されにくく、それ以上は広まらなかった。 やがて連れの男がそっと近付き、ヨンフェ=ジーディを引き剥がしてくれた。「落ち着いて」と優しく声をかけながら。 「積もる話もあるだろうから、教会に着いてからまたゆっくり続きを話そう」 男の提案に、彼女は目元を拭いながら頷いた。イトゥ=エンキは心の中で男に感謝する。野次馬の注目がそろそろウザかった。 「では行きましょうか。僕のことはラノグと呼んで下さい」 こちらに向かって男が手を伸ばし、握手を求めた。 握りたくは無かったが、拒絶する訳にも行かなかった。ここはミスリアに代表してもらおうと考え、イトゥ=エンキはくるっと身を翻して少女の右手を取った。仲介人の真似事で、横に立って二人を握手させる。 ミスリアは驚いた表情を見せたが、すぐに微笑みで対応した。 「ミスリア・ノイラートと申します。よろしくお願いします」 心底嬉しそうな笑顔だった。何がそんなに嬉しいのか謎だ。 こちらを一瞥したミスリアの茶色の大きな瞳には、「よかったですね」或いは「おめでとうございます」と書いてあった。ああ、それが嬉しいのか。 (良かったけど。素直に喜べねーし) と、イトゥ=エンキは作り笑いの下で苦々しく思った。 _______ ゲズゥ・スディルは色の付いた窓を眺める内に既視感を覚えていた。少し後退って、縦長の窓をもう一度眺めると、それが一つの絵画のようになっているのだとわかった。 ここが教会の聖堂という場所なら、絵は聖獣を描いているのだろう。 ――そうか。林の中の教会も、聖獣の絵を飾っていた。 あの時も静寂の中で宗教画を眺めていたのだった。 印象派めいたあの天井の絵と違って、この窓の絵はもう少しはっきりとしていた。 翼の生えたサンショウウオが野原に降り立っているように見える。ゲズゥは首を傾げ、聖獣はこういう姿なのか、と不思議に思った。 ふいに入り口の扉が開き、長身の男がするりと入り込んできた。風呂に入って着替えたためか先刻よりも身なりはきちんとしている。黒髪を頭の後ろに結び、服は教会の人間が用意した無地の物で、小麦色の肌に合っている。腰に巻かれた太い鎖さえ無ければ、そこらの町人の群れの中に溶け込めるかもしれない。 「ステンドグラスか」 エンはゲズゥが見ていた着色ガラスへと視線を向けた。聖獣の絵を一瞥してから、興味をなくし、どこからか小型の煙管を取り出した。 「教会って禁煙だっけか? ……まあどっちでもいいや」 などと自問自答してから火を着けた。ふう、と灰色の煙を吐く。 「晩餐とか冗談じゃねーよ。堅苦しーんだよ。ガキの頃ならともかく……オレは頭の商談にだって参加したくなかった系だ」 他に誰も居ない聖堂の中で、エンはぶつぶつと文句を垂れ始めた。ポケットに片手を突っ込み、煙管をゲズゥにも差し出した。 「意外だな。お前は社交性が高いと思っていたが」 差し出された煙管を受け取り、ゲズゥも吸っては煙を吐いた。 夕刻に近い今、教会の人間は特別な客とやらを迎える準備に奔走している。それが誰であるのかまでは聞いていないし、興味も無いが。既に巻き込まれたミスリアを放って、ゲズゥは掃除も済んでちょうど無人となっていた聖堂に逃げた。 エンは姉によって巻き込まれたのかと思っていたら、こいつも上手いこと逃げたらしい。 「まあ、普通はな。でもヨン姉が居ると、どういう顔すればいいのかわかんないんだよ。起き上がれない度に麦粥を匙で食べさせてくれた人相手に、今更カッコつけられっか。年中同じ顔のお前には関係ない悩みかもだけど」 「……ああ」 ゲズゥは煙管を返した。この男が、済ました顔を演じていられないほど精神的な余裕を奪われるなど。それだけ、家族は特別だということだろう。 一つため息ついて、エンは広い聖堂の奥の方へ歩き出した。ステンドグラスの窓の前に演壇が置かれ、窓を挟む垂れ幕には、例の十字に似た象徴がそれぞれ描かれている。 「聖獣信仰の教えって何だっけか。善事に励めば天に昇れる、聖獣が蘇れば世界が美しくなる、って親が言ってたよーな」 ゲズゥはゆっくり首肯した。 「……多分、ミスリアも似たようなことを言っていた。それと、罪人などが死ねば魔物になると」 これだけは公にされていない情報だとも言っていた気がする。 「うげー、めんどくさそう」 嫌そうな顔をしてはいるものの、エンの反応に深刻さは無かった。 「生きている内に全部償えば救われるらしいが」 これも受け売りであった。 「曖昧だなぁ。人殺した罪とかは、生き返らせられないんだからどうやったら償い切れるか基準がわからないじゃん。誰かが上から見てて、たくさん良い事したんだからこのくらいでちょうどいい、って決めるのか?」 「――決定を下すのが『誰か』であると、そう考えられますか?」 背後からした澄んだ声に、二人は振り返った。 小柄な人間が通路の真ん中にちょこんと佇んでいた。長い黄金色の髪と、空よりも鮮やかな青い瞳が目立った。肌色は血管が透けそうなほど白い。喉仏からして男であるようだが、声が高めだ。幾重にも重なる刺繍の施された白装束が包む身体は、男にしては異様に華奢だった。 |
22.c.
2013 / 05 / 01 ( Wed ) 女は素早くこちらに歩み寄って右腕を伸ばした。 ほっそりとした指が頬に触れる。突然の温かさに、肌が震えた。 文句を言う間も無く、イトゥ=エンキはただ表情を強張らせた。 「ヨンフェ=ジーディ? 何を……」 連れの男が動揺を隠せない様子で問うたが、女はそれには答えなかった。 「これは私の夢か幻に違いないわ」 そう呟いた女の声音も、頬を撫でる指先も、愛しい者に向ける類のものだった。もしや知り合いだったのかと考え、イトゥ=エンキは女の顔をじっくり見直した。 最初にヘーゼルに混じった青だと思っていた瞳が、よく見ればその逆だった。青い色の瞳の中に、瞳孔の周りだけ濃いヘーゼルの輪があった。 キレイに反り返るふさふさの睫毛は髪よりも暗い色で茶に近い。顔は面長でありながら輪郭は柔らかく丸めで、全体的に温和そうな印象を受ける。 「イトゥ=エンキ……生きてたの……?」 女の痛切な呼びかけは、氷水を浴びるよりも強烈に脳に届いた。 ――何でその名を知っている――。問い詰めるつもりが、声が出なかった。 遅れて脳が情報を処理し出したのである。 この女の名前は、ヨンフェ=ジーディ、と言った。 信じがたいが、確認する方法ならある。 彼女の長い髪を手ですくい、その下に現れた形の良い耳の後ろに目をやった。 細やかな黒い模様があった。耳の後ろに始まり、うねうねと蔦のように下に伸び、うなじ辺りで小さく丸まった形。ちょっと朝顔に似てるね、と初めて会った時に言った覚えがある。 (そんなはず無い) 身を引いて、イトゥ=エンキは心の中で現状を否定した。 やっと山と樹海を超えて町に着いて。手がかりを求めに教会を訪ねて、もう何年も経っているから詳しくはわからないと煙に巻かれて。そこから更に町中の人が集まる場所を回って、終いには人の家にまで聞き込みに行って。 それぐらいの苦労をしてもなお、足取りを掴めないだろうと予想していたのに。 「……っ、ごめんなさい……」 泣きながら謝るとその人の顔は、記憶の中の面影と重なった。 イトゥ=エンキが息を止めたのと同時に、視界が暗転した。周囲の場景が闇に呑まれて消えた。 ――ごめんなさい、ごめんなさい。あなたは生きて。お願い……! 声が辺りに響いた。その時自分は、床を注視していた。 足元に浮かんでいた光の窓が閉ざされていくのを認め、心臓が早鐘を打つ。 がこっ、と音がするのと同時に、戸が閉められた。 一切の闇。屋根裏部屋の中の生温く淀んだ空気。 足音が、人の気配が遠ざかる。怖い。独りは怖い――。 声を漏らさないよう、袖ごと手首を噛んだ。強く、強く噛み締めて泣いた。叶わない願いと知っていながら。 ――嫌だ、嫌だよヨン姉。行かないで……置いていかないで……ヨン姉! 戻ってきて―― 肩を掴まれた感覚で、イトゥ=エンキは我に返った。ヨンフェ=ジーディが必死の形相で何かを言っているが、よく聴き取れない。 (ああ、何だ。記憶の再現だったんか) 思い出すまいとあれから何年もかけて封じた記憶が鮮烈に再生されたのは、彼女の涙が引き金だったのだろうか。 何にせよ今起きていることではないのだとわかって、小さく安堵のため息をついた。 「お前が求めていたのは、ソレじゃないのか」 いつの間にか隣に来ていたゲズゥが訊ねた。 「……確かにそうだけど。オレはなー、ヨン姉の墓と対面する覚悟は前々から決めてたけど、こうもイキナリ生身の本人に会う心の準備はできてなかったんだよ」 生身、の言葉を強調しながらイトゥ=エンキは額に掌を当てた。 |
22.b.
2013 / 04 / 24 ( Wed ) 町の人間に恩を売るのもいいかもな、などと考えながら走る。 人混みを抜ける少年たちの逃げ足はなかなか速かったが、何かと追っ手を気にかけて振り返っているのが敗因だ。一番遅れている少年ひったくり犯が前を向き直った隙を狙って、イトゥ=エンキは鎖を放った。 「うぎゃっ」 情けない声が少年から漏れた。鎖はしっかりと右足首に巻きついて、少年を転ばせた。 「弱いくせに無理すんなよー」 挑発とも受け取れそうなその言葉は、イトゥ=エンキにしてみれば本気の忠告だった。やり遂げる力量が無いくせに無茶をすれば、死に至るだけである。 少年は言い返さずに唸った。「こんなはずじゃ……」みたいなことをひとりごちていたかもしれない。 「まあ、オレの知ったこっちゃねーけどなぁ」 のた打ち回って恨み言を連ねる少年は食に困っている風には見えなかったし、大切な誰かの為に盗みを決心した、といった必死さも無かった。やはり遊び心だったのだろう。 (同情の余地なしってことで) イトゥ=エンキは屈み込んで買い物籠を取り上げ、元の持ち主の姿を探した。ついでに、転がり出た籠の中身を拾い上げて戻す。 ふと前を見上げればゲズゥが地面を蹴っていた。 彼は残る二人のひったくり犯が直線状に並ぶのを狙って、跳び蹴りを決めた。 後方の少年が背中を蹴られて吹っ飛び、前のもう一人に激突した。その瞬間、最初に吹っ飛んだ方がぴたっと止まってぶつけられた二人目が今度は宙を飛んだ。 「運動量保存の法則じゃん」 キャロム・ビリヤード――キューと呼ばれる棒で一個の球を打ち、二個目や三個目の別の球に当てる卓上遊戯――に用いる物理法則と同じだ。ぶつかり合う対象の質量が同等でないと発動しない。つまり、二人の少年たちの体重は同じくらいになる。 イトゥ=エンキは思わず膝を叩いて拍手を送った。といっても、ゲズゥ本人はこのような生きていく上で不要な情報など知らないだろう。 「お疲れ様です。ありがとうございました」 「……疲れていないが」 ミスリアが歩み寄り丁寧に頭を下げると、無機質な声でゲズゥが応じた。 イトゥ=エンキは可笑しさについ噴き出した。 「単なる労わりの挨拶だろ、言葉通りに受け取るなって」 「……」 ゲズゥは踵を返して荷物の方へ戻って行った。去る背中を見守りつつ、イトゥ=エンキはミスリアと顔を見合わせ、肩をすくめる。 「あの、本当にありがとうございました!」 被害者たちも各々礼を言いに来た。金で礼をしたいと提案する者も居たが、ミスリアが頑なにそれを拒んだ。 その間、周囲に集まっていた町人らが自ら少年ひったくり犯の身柄を確保し、役所へ連行している。 三組目の被害者の番になった途端、イトゥ=エンキは「あ」と声を漏らした。自分より背の低い男を見下ろして確認する。 「さっきの結婚しないカップルの」 「はい?」 歩み寄ってきた男が不思議そうな顔をした。 「すれ違いに会話が聴こえたんで」 にっ、とイトゥ=エンキは悪戯っぽく笑った。 「……それはお恥ずかしいところを」察して、誠実そうな男が頭をかいた。「結婚ではなくお付き合いを申し込んでいたのですよ」 それを聞いて、なるほど、とイトゥ=エンキは点頭した。 (しっかし恋愛もいいけど荷物はもっとしっかり持とうぜ) 他人のことなのでどうでもいいが。ある意味、間抜けな人間が居てくれないと盗んで生きなければならない側も苦労する――そう考えかけて、内心苦笑した。ユリャンの連中だったら心配するまでも無いだろう。 「何はともあれ、本当に助かりました。僕たちにできることなら何でもお礼しますよ」 ――この男、軽々しく「何でも」を口にするとは世間知らずな――。答えずにイトゥ=エンキは隣のミスリアを見下ろした。 「では、岸壁の上の教会に行きたいのですが、方向はあちらでよろしいでしょうか?」 前方にそびえ立つ時計塔を指差して、少女が訊ねる。 「はい。それなら、我々は教会の縁者でちょうど向かっていた所です。お客様を迎え入れる予定ですので、晩餐の準備もしています。ぜひご一緒に」 「ありがとうございます」 深々とミスリアが頭を下げた。 「君もそれで構わないね」 男は、それまで空気のように静かに突っ立っていた相方の女に声をかけた。男の一歩後ろに居た女はずっと何か考え込んでいたのか、今までの会話に入って来なかった。 「ええ」 短く返事をし、女は男の隣に並んだ。長く真っ直ぐな蜂蜜色の髪が、ふわふわと風になびく。 「さっきからやけに静かだけど、大丈夫かい」 女の肩に手をかけ、心配そうに男が声をかける。ひったくり騒ぎで怖い思いをしたと懸念しているらしい。 「……そうね、大丈夫」 ヘーゼルに青が混じった色の視線が、痛いくらいにイトゥ=エンキに突き刺さった。何をそんなに凝視してるのかと思えば、左頬に視線が集中している。 「その模様は生まれつきですか?」 囁くような問いだった。 「コレ? そーですケド」 「……嘘でしょう」 イトゥ=エンキが軽い調子で答えると、女は信じられないものを見る目になった。 「や、本当だって。何の言いがかりだ」 初対面の人間がどうしてそんなことを聞いてくるのか不思議でならなかったが、女の次の行動の方が遥かに驚愕を誘うものだった。 |
22.a.
2013 / 04 / 17 ( Wed ) 「何としても僕は! 一生をかけて必ず君を幸せにする。お願いだ、もう一度考え直してくれないか」 「……ごめんなさい……あなたに落ち度があるわけじゃないわ。むしろ私は、あなたが私なんかに時間を費やしてくれてることが心苦しいの」 「何を言っているんだ、君は素敵な女性だよ。時間がどうとか、悲しいコト言わないでくれ」 「あなたを想ってる女性は他にもたくさん居るから、私よりもその子たちのどれかを選んで幸せにしてあげて……」 雑踏の中、イトゥ=エンキは込み入った会話を交わす一組の男女とすれ違った。周りにまったく気を配らずに大声で話す二人を少し振り返って一瞥する。 男の方は中背だが肩が広くがっしりとした体格で、清潔そうなシンプルな色合いのシャツを着ている。女は男の前を歩いているため、蜂蜜色の長い髪以外の後ろ姿は、男の身体に隠れていて見えない。 (こーんな大勢の人間が行き来する場所で、面白い話してんなぁ) イトゥ=エンキは手に持った焼き菓子をぱくっと食んで、もう一度二人を流し見た。男は決して美丈夫と言えるような顔つきではないが、眉の形などから誠実そうな印象を受ける。 (不満があるわけじゃあないのかー。あの断る理由はマジっぽかったし) 男のプロポーズを女が丁重に断り、男が納得していない、というシナリオだろうか。 世の中の女どもがどういう男と結婚したいのかはわからないが、イトゥ=エンキには男は良さそうな物件に見えた。家庭を大事にしつつ、しっかりとした職に就いて真面目に働きそうな、そんなイメージである。 この場合、間違いなく女の方に理由があるのだろう。しかも話しぶりからして、何か問題を抱えていそうだ。 (なんだろーな。身体的欠陥? 泥臭い人間関係? 過去の罪?) 大して意味の無い物思いにふわふわと思考をさまよわせながら、イトゥ=エンキは青空を仰いだ。綿菓子よりも柔らかくて美味しそうな雲がのんびり飛んでいる。 (焼き菓子も甘くてオイシイけど、これじゃあ綿菓子欲しくなるな) 露天商から買った菓子を残らず口に放り込んだ。 実はイトゥ=エンキは子供の頃から大の甘党だったが、残念ながら山賊団の仲間に味の好みの合う仲間は居なかった。 (某オヤジは辛い物としょっぱい物が大好きだったし) その影響か山脈にはなかなか甘い物は出回らなかった。もう他の人間に合わせる必要は無い、と思うと心躍る。 次は何を買ってみようかと大通りに並ぶ露店を見回し、そこでイトゥ=エンキはとある二十歳前後の青年に視線を留めた。長身で黒髪と褐色肌、汚れた身なりに大荷物、などとかなり目立つ容貌だ。道行く人間の誰もが一度は振り返っているというのに、本人は面白いくらいに周りを見向きしない。 そんな上の空な青年の傍では栗色ウェーブ髪の小さな女の子が露天商の商品を見比べていた。肥え気味の若い女が熱心に己の商品の素晴らしさを説いているのを、少女は相槌を打ちながら聞いている。 「蝶の翅(はね)で作った絵模様ですか。色鮮やかで、とても綺麗ですね」 などと少女は微笑むが、口元が引きつっていた。多分、蝶が生きてる時に翅を抜かれたのか死んだ後に抜かれたのか訊きたいけど知りたくない、という心境だと思う。 そうでしょうそうでしょう、どれも珍しい一点物ですよ、と露天商人は熱心に勧める。 逃げるタイミングを計りかねている少女の首根っこを、青年が無言で掴んでは引き上げた。名残惜しそうに肥え気味の女が声をかけるも、青年は全く構わなかった。 (こっちはこっちで、なし崩し的に付き合いそーだな) ミスリアを引き連れたゲズゥが無表情にこちらに向かって来るので、イトゥ=エンキはへらへらと笑っておいた。 二人が互いにそれらしく意識し合う段階に至っていないのは見ていてわかる。だが長い二人旅である以上は、機会はこれからいくらでもあろうというもの。しかもゲズゥの方は一旦目標を定めたら速やかに逃げ場を絶って相手を包囲しながら絆しそうなタイプだ。あくまでイメージに過ぎないが。 (大人しそうに見えて、絶対、攻めまくる側の人間だよな) と、やはり大して意味の無い物思いに耽った。 長年追い求めていた答えがすぐ近くにあるかもしれないのだ。期待が膨らみ過ぎないよう、時間を稼ぎつつ気を紛らわせようとしている。 お遊びもこのくらいにしてそろそろ教会寄ってこうか、と提案しようと思ってイトゥ=エンキは口を開きかけた。 「きゃああ! ひったくりー!」 甲高い悲鳴。 誰かが走り去る時にできる疾風を頬に感じ、イトゥ=エンキはたった今通り過ぎた複数の人影を目で追った。 「おお。集団でひったくりとかあんま見ねーなー。しかもアレ、三人ともガキじゃねーの? 完全に遊び心じゃん」 「何呑気なこと言ってるんですか、捕まえて下さいっ」 と、目の前に立った少女ミスリアが懇願する。 「何で?」 あんなん、盗られる方が間抜けだろ、とは言わなかった。 「何でって……とにかくお願いします!」 今度はゲズゥに向けて懇願している。 「荷物見てろ」 ゲズゥの対応には躊躇が無かった。大荷物を脱ぎ捨て、脱兎もびっくりな速さで走り出している。どう考えてもひったくられた人間を助けたい一心からではない。ミスリアに対する従順さからなのか、それはわからない。 (コイツ、絶対なーんも考えてないな。言われたから素直に動いてみた、ってなノリだ) それとも目の前を通り過ぎた小鳥をつい追いかける猫と同じ心理か。 仕方なく、イトゥ=エンキも後に続いた。 |
21.i.
2013 / 04 / 17 ( Wed ) それからゲズゥは何度か地面を蹴って勢いを緩和し、無事に着地した。 辺りが再び静まり返っている。他に敵が居る気配はしない。 振り返れば、エンが暴れ続けるトカゲの胴体を鎖で何重にも縛っていた。 「とりあえずこれで終わったんか? 思ったより呆気ないな」 「終わったと、思いますけど……」 エンの問いかけに、ミスリアは歯切れの悪い返答をした。首の落ちた方向へと、こわごわと歩いている。その背中を追ってゲズゥも歩き出した。 ミスリアはトカゲの首に近づき、4フィートの距離のところでゆっくりしゃがんだ。膝の上に手を揃え、真剣な眼差しで首の動きを凝視している。止まるのを待っているのだろうが、生き物と違って、いつ力尽きるか見当が付けられない。 「止めを刺す」 ゲズゥは大剣を構え直し、「手伝え」とミスリアに目配せした。 察して、ミスリアはそっと右手を剣の先に添えた。銀色の光の帯が剣を包み込む。 しばらくして少女の白い手が離れると、ゲズゥは一歩前へ踏み出た。 いつしかトカゲの首も大人しくなっていた。爬虫類の両目がこちらをひたと見据えている。聖気が近くにあることに、関係があるのかもしれない。どちらにせよ好都合である。 ゲズゥは魔物の脳天に剣を突き刺した。剣先を覆う聖気がじわじわと魔物を粒子に変え、浄化してゆく。その間にミスリアが胴体をも浄化していた。 全てが終わってもミスリアの顔が晴れず、むしろ眉間に皴が寄っているのを、ゲズゥは目の端で捉えた。 何か不自然な点があっただろうかと一部始終を思い返し――魔物らの表面に人面が浮かばなかった事に気付いた。そこでミスリアが立ち上がって静かに話し出した。 「……どうやら人間をもとにしたのではなく、動物をもとにした魍魎だったようです。大昔はそれこそ普通のトビトカゲで……瘴気に当てられて生態が変質し、死体喰らいや共食いをする内に魔物になったのでしょう。ずっと分離と喰らい合いの悪循環を」 魔物の生じる原理について聞いた事があるゲズゥはなんとなく納得し、事情を断片的にしか理解していないエンは考え込むように顔を歪めた。そして現状に関する重要な情報だけに焦点を当てた。 「分離って何だ? じゃあ同じようなのが何匹も居たのは大元からの分身だったってか」 「大元が居たかどうか、そこまではわかりません。分離した後はそれぞれの個体が独立して行動するのだと思いますけど……困りましたね、これでは樹海の中はもしかしたら……」 「似たようなのがまだうじゃうじゃ居るんだろーな」 エンが淡々とその先を告げた。 刹那、誰もが互いの顔を見合わせるだけで次の言葉を発さなかった。 「…………いちいち退治していては日が暮れる」 ゲズゥは己の考えを提示した。 「だよなぁ。そうなったら状況が悪化する一方だし。突っ切るか」 同意しつつもエンは戦闘中に手放した荷物をせっせと片付けだした。それに倣ってミスリアもゲズゥも支度を整える。 またしても慌しく移動せねばならない現状に、ゲズゥは何も思わなかった。どうせこの大陸をうろつく限り、安寧の日々は遠い。 ――そもそも安寧がどんなものであるのか、あまり思い出せない。 村を失って以来、長く平和な日常が続いたためしが無かったからだ。 「なあ、オレ替わってやろうか?」 ふいにエンは手で何かを背負う仕草を真似た。ミスリアの正面に立ちながらも、こちらを見て話している。 「たまには休みたいだろ。あーいや、嬢ちゃんが重いとかそういう話じゃなくてだな」 ミスリアを背負って走る役割を替わろうか、という話らしい。休みたいとは特に思わないが、替わってくれるならそれも良いだろう。 「え、ええ、それはあの、できれば遠慮……させて頂きたく……」 ゲズゥが口を開く前に、当人が何やら恥ずかしそうに頭を振った。 「えー? 遠慮すんなよ、まだ全快じゃないんだろ。それとも……」エンは顎に手を当て、ニヤニヤと口の左端を吊り上げた。「コイツが良くてオレが駄目な訳ね、ほほー。なーんかフラれた気分だな」 「そんな……本当はどっちも嫌……じゃなくて、えーと、ゲズゥの場合は仕方ないと割り切ったのですが、イトゥ=エンキさんにそんな迷惑かけるには心の準備が……」 「ふむふむ」 挙動不審なミスリアに対し、エンは喉を鳴らして笑いを噛み殺している。 結局、普段と変わらずゲズゥがミスリアを抱えて走ることになり、それからは三人は言葉を交わさずに黙々と進んだ。 「道」を探し出しては先へ急ぐ――その繰り返しだった。 魔物に遭遇しても大抵は戦闘に展開させずになんとか逃げ切った。 静寂の中、平常より速まっている己の呼吸音がよく聴こえる。エンも息が上がって、たまに立ち止まっては顔に浮かんだ汗を服で拭っている。 二、三度休憩を挟んではいるが、もう一時間近く走り回っている気がする。出口に近づけている感覚が全く無かった。 「あと少しのはずです」 少女の吐息が、ゲズゥの黒髪に降りかかった。 ゲズゥは返事の代わりにただ頷いた。ミスリアが指差す次の方向へ、走り出す。 「……イトゥ=エンキさん」 ふとミスリアが呟いた。 「ん?」 「貴方が探しているのってどんな人ですか?」 「あー……」 考えをまとめようとエンが唸る。 「姉だよ。長い蜂蜜色の髪で、はにかんだ笑顔が可愛い感じの」ふう、と一度空に向けてため息をついてから、エンは話を続けた。「岸壁の上の教会のコトを、自分にとって一番安らぐ聖域だって言ってた。だから別れた後、あそこなら何か手がかりがあるかもってオレは考えたんだ」 「お姉さまは、教会に行った事が?」 「行った事あるっつーか――」 答える途中で、エンは口をつぐんだ。正面を向き直り、何かに耳を澄ませている風だった。 ゲズゥも耳を澄ませてみた。 微かに、長く伸びた音が聴こえる。よく聴き慣れた規則的な響き。最初は一つしか聴こえなかった音が、意識してしまえば重奏になった。 蝉だ。 生き物の気配が希薄だった樹海の中に、新たな空気が吹き込まれる錯覚がした。淀んだ瘴気に混じって生命と緑の香りが鼻腔に届く。 無意識にゲズゥはペースを上げて走った。すぐ後ろにエンがついている。 境界が近い。闇が解けてゆく―― ぶわっと暖気が身体を包んだ。樹海の中の空気とは違う、正常な夏の風そのものだ。 晴れ渡った空に目を眇める。時刻はいつの間にか正午近くになっていた。 坂下に広がる町は白と黒と灰色の建物が多く、その上空にはカモメが飛んでいた。町は全体的に明るい雰囲気を発し、しかもかなり発展しているように見える。建築物のどれもが手の込んだ芸術品並に凝った外観をしている。 市場や行商は賑わい、人々の表情は遠くから見ても楽しそうである。野菜売り場で、子連れの母が猛然と値切っている以外には。 まるでゲズゥらを待ち受けていたかのように、ちょうどその時に時計塔が鳴り出した。重厚な音が蝉の声すらかき消す。 視界の一番奥、つまり此処から最も遠い位置の建物からだった。 「今の四つの音の短い旋律は……四十五分って事ですね。あれが教会でしょうか」 ミスリアの問いに答えずに、ゲズゥは目を凝らした。確かに時計塔は単独に建っているのではなく何かの建物にくっついている。 「時計塔が町の中心でなく端にあるのは教会に付いているからかもしれません」 さあ、とゲズゥは少女を腕の中から下ろした。 「でもそれより、無事に着きましたね」 「……ああ」 嬉しそうに話すミスリアに、ゲズゥは頷いた。 これでまだ「最初の巡礼地」だというのだから、これからも当分旅が続くのかと想像して、ゲズゥはなんともいえない心持になった。ミスリアの旅が終わった暁には自分がどうなるのかなど、まだ考えなくていいはず――。 「イトゥ=エンキさん?」 ミスリアの声で気付き、ゲズゥもエンの方を振り返った。 左頬に複雑な模様がある男からは返事が無かった。奴は呆然と町を見下ろすばかりである。 「大丈夫ですか?」 「……あー、うん」 再度の呼びかけに、エンは瞬きをして応え、一度深呼吸をしてから次の言葉を搾り出した。 「話には聞いてたけどちゃんと見てみるとスゲーなあ。や、そんなことより、やっとだ。やっと、ヨン姉の好きな教会に行って、手がかりを探せる。十五年は長かったぜ」 黒い模様が徐々に触手を伸ばしてエンの笑顔を侵食した。抑えきれない程の喜びがあるのか、それとも単にもう感情を抑えるのを止めようと決めたのか。 もしかしたらその現象を初めて目にするかもしれないミスリアは、目を丸くして彼を見つめていた。 「よかったな」 一言、ゲズゥはそう言った。本心からだった。 「おうよ。行こうぜ」 そうして三人、坂を下りた。 |
21.h.
2013 / 04 / 04 ( Thu ) 「……――大体こんな感じで行く。あんま時間取られねーようにさっさと片付けようぜ」 イトゥ=エンキが再度の説明を終えて、ゲズゥとミスリアはそれぞれ賛同の意を示した。 二人から少しだけ離れて、ミスリアは仁王立ちに構えた。 頭上に居るナニカは飛び回るのを止めているが、仕切りなしに木の葉を揺らしている。樹の幹を上下に移動しているのかもしれない。 「では、始めます」 要領は、普段の聖気の扱いとそう変わらなかった。アミュレットに触れ、聖獣と神々へ通じる力を感じ、それを掌を通して形にしていく。ただ一つ違うのは、そう、その「形」である。 いつものイメージ――靄のよう膨らませたり、帯を重ねて何かを包んだり――と違って、針の形を作って天へ伸ばす。船にとっての灯台がそうであるように、魔物らの目指すべき目標となる。 淡い黄金色の光が右手の掌から垂直に伸びた。 そうして訪れたしじまに、全身が凍りつくようだった。無意識に、ミスリアは数え始める。 一、二、三、四、…………十秒。二十秒。三十秒。 静寂が絶えない。額に浮かんだ脂汗が湿気によるものなのか緊張によるものなのか、わからなかった。 ミスリアは四十秒まで数え、そして――。 木の葉が擦れ合う音がした直後、視界がゲズゥの背中によって遮られた。彼は前方から飛び掛ってきた影を大剣で真っ二つに切り裂き、紫色の血飛沫を弾けさせた。 ミスリアは安堵のため息をつきかけて、しかし違和感が胸の中に広がった。 (こんなに小さいはずがない) 切り裂かれた魔物は人間の子供とそう変わらない大きさだった。遥か頭上を跳んでいた個体はもっと、少なくとも成人男性よりは大きいように見えた。遠くから見てその大きさのモノが、近くで見てもっと小柄になるなんてあり得ない。 じゃら、と鎖が動く音がした。左の方で、イトゥ=エンキがまた別の小柄なトビトカゲを捕らえていた。彼は鎖を引き――捕らわれたトカゲを、滑空していた別の個体にぶつけて二体とも倒した。 (これで三匹だけど、まだ一番大きいのが現れてないわ) 倒れたトカゲたちを浄化しつつ、ミスリアは警戒を解かなかった。ゲズゥもイトゥ=エンキも、武器を構えて待っている。 (必ず来る) 気力が削られるので針の形をした聖気はもう閉じているけれど、浄化に使っている分だけでも十分引き寄せられる。ミスリアは銀色の素粒子に包まれながら、静かに待った。 「右!」 突如、鋭く叫んだのはイトゥ=エンキだ。 言われた方向へ頭を巡らせた。 真っ直ぐに、ミスリアめがけて巨大なトビトカゲが滑空している。間近で見ると、声も出なくなる大きさだ。 跳んで間に入ったゲズゥが、舌打ちするのが聴こえた。 _______ 不公平、の言葉が浮かんだ。 牙に四肢の鉤爪に長い尾に、長くて素早い舌。どれをも一斉に繰り出せる奴に比べて、ゲズゥは一度に一つの攻撃しかできない。それは自身がなるべく一つの行動に集中したい性分に起因している訳だが――剣と盾を持ち合わせたり二刀流や複数同時投擲ができる人間になりたいと考えた事は無い――それにしても、面倒臭い。 特にあの舌は、触れたらまずい。根拠は無いが予感はする。 横か背後に回ろうにも、タイミングが図りづらい。その間ミスリアを無防備にするのも得策と言えなかった。 ゲズゥは視界の端で何やら動いているエンの姿を確認し、そちらの動きに期待することに決めた。 青白く光る化け物との距離は、どんどん縮まっていった。 開かれた顎の中から、棘に覆われた赤い舌が現れた。 長い舌が伸びてきたが、ゲズゥはその軌道を見極めて避けた。すかさず剣を払ったが、奴の尾が防御に入り、腹を斬るには至らなかった。代わりに、尾の先端1フィートほどを切り落とした。 次の反撃のチャンスを狙う為、鉤爪からの攻撃を喰らう覚悟を決めて、ゲズゥは逃げずにその場に踏み止まった。 が、横から鼠色が入り込み、トビトカゲの肩口に巻きついた。エンの鎖だ。 ――これは使える。 次に起きるはずの展開を待って、ゲズゥは剣を構えなおした。腰を落とし、跳ぶ準備をする。 魔物は怒りと痛みの金切り声を上げた。首を後ろに反らせ、太い喉を晒しながら。 その隙にゲズゥは跳び上がり、回転の勢いを利用して、剣を振るった。 トカゲの首が飛んだ。 濃い緑色の光沢を放つソレは近くの樹にぶつかっては紫色の跡を残し、落ちた。 |
21.g.
2013 / 03 / 27 ( Wed ) 唾を飲み込み、腹部に広がる不快感を抑えつけた。 柔らかい苔の下に感じた硬さを、石か木の根かと当然のように思っていた。まさか、骸骨があろうとは。 「まあ、そういうことだか……」 返事半ばに、イトゥ=エンキが急に黙り込む。 ――びゅぅうん。 風を切る大きな音と共に、物影が彼の面を過ぎったのである。 数秒後に、何かが樹にぶつかる音がした。 思わずミスリアは頭上を見回した。音を立てたであろう存在が見当たらない。 更に数秒の間、誰も微動だにしなかった。 無意識に堪えていた吐息を放した瞬間、また物影が過ぎり、今度は確信できた。 巨大な何かが樹と樹の間を跳び伝っている。それも、急いでいるのではなく―― もう一度、影がゆっくりと上空を通り過ぎた。滑空、しているのだ。原理はムササビの動き方に似ていた。 状況を思えば魔物であることが最も可能性が高い。その場合、囚われた魂を救ってやりたいけど、自分一人の力で成し遂げられるとは思えない。 ミスリアは残る二人に視線を移し、彼らの発言を待った。 「トビトカゲ」 上方を見上げたまま、ゲズゥが一言告げた。 「って、南東の暑いとこに住む、樹から樹へ跳びながら蟻を食べるトカゲのことか? 膜のついた肋骨を広げたり畳んだりできて……でもこーんな大きさだよな」 イトゥ=エンキは広げた右手を左手で指した。指の長い彼がそうしていると、親指の先から小指まで6~8インチはある。 「ああ。俺が見たことある一番大きいのもせいぜいこんなだった」 人間の赤ん坊程の長さを、ゲズゥは両手を使って表現した。 小型爬虫類にしてはそれなりの長さだが、それでも今飛び回っている物影の大きさには遠く及ばない。 「突然変異か、魔物か。生来のトビトカゲなら、雌が卵を産む時以外は樹の上から降りて来ない、ってどっかの本で読んだぜ。命を預けるには些か頼りない情報かな」 ガサッ、という音と共に、また影が動いた。遥か上空を滑空していて、今のところは降りて来る気配が無い。 「走って逃げてみますか……? 下手すると樹海の中で迷いそうですが」 「背を向けるのは避けたい。でも逆にアレがすぐに降りて来なかったら、オレらはこっから動けないぜ。アレが襲ってくれないと、降下してくれないと、こっちにも反撃のチャンスが無い」 あんな高さまで行ける飛び道具も無いからな、とイトゥ=エンキは付け加えた。ミスリアは一瞬だけ顔を伏せ、次いである方法に思い至った。 「では、聖気でおびき寄せられないかどうか試してみましょうか」 ミスリアの提案に、イトゥ=エンキは「なんだそれ」と首を傾げ、ゲズゥが片眉を吊り上げた。 「……二つ、訊く。それが本当に可能なのか。それと、敵が一匹だけで間違いないのか」 「可能です。数に関しては、そこまではわかりません。でも魔物で間違いないなら、近くに居る全ての個体が引き寄せられるはずです」 ゲズゥの問いに、ミスリアは順を追って答えた。彼が姿を見せていない敵にまで気を回すのは、山羊と羊の魔物を相手にした時の失敗を思い出しているからだろうか。 (遠くからも来るかもしれないけど……加減すれば、きっと大丈夫) ――と、その点だけは言わずにいた。 「やってみようぜ。詳しい説明は省いてくれていい。化け物相手に深く考えるこっちゃねーよな、倒すのが先だ」 イトゥ=エンキはそう言って荷物を下ろしている。 その言葉に、ミスリアははっとした。心のどこかで、相手と「対話してみたい」という願望があったのだと知る。 ミスリアは目を瞑った。割り切れ、と何度も自分に言い聞かせる。対話はできなくても、浄化してあげれば十分のはずだ。対話して死者の事情を知りたいのは、覚えてあげたいと思うのは、ほとんど生きている側の自己満足である。 (それでもそうしてあげることで誰かが救われることだってある、けど) 結果として三人分の命を危険に晒す選択になりうる。既に一生を終えている他人と、現在傍に居る生きた人間とを、天秤にかけたら――。 急に手首を掴まれ、ミスリアは飛び上がった。 ゲズゥが、いつもの無表情でこちらを見下ろしている。 「あれ、嬢ちゃん聞いてなかったんか? じゃーもっかい」 「すみません」 今度はちゃんと、手筈を説明するイトゥ=エンキの声に耳を傾けた。 |
21.f.
2013 / 03 / 26 ( Tue ) 「純度の高い水晶に共鳴するよう、何かの秘術がかかっていると聞きました。原理は私にもよくわかりませんけど……」 秘術とは名の通り、枢機卿以上の人間にのみ伝えられている特種な術だ。何故秘密である必要があるのか、ただの一聖女であるミスリアのあずかり知るところではない。 樹に歩み寄り、ミスリアはその幹にそっと触れた。聖気に触れて育った樹だからだろうか、周りの木々に比べて育ちが良い。形や大きさが、他のしな垂れた松とは比べ物にならない。心なしか、指先に微かな熱が伝わったような錯覚がした。植物に、体温など無いはずなのに。 「まあ、光を辿っていけばいいワケか。わかりやすくていいな。オレの親も二月(ふたつき)に一度は町に行ってたんだ、きっと案内人も同じようにやってたんだろーな」 「イトゥ=エンキさんのご両親は二月に一度町に行っていたんですか?」 驚いて、ミスリアは振り返った。それはつまり、幼少の頃に彼はそう遠くない場所に住んでいたことを意味する。 「納品とか作品の売り買いとか、買い出しとか、色々と用事があってな。オレの父親はフリーの製本工で、母親はそこそこ売れてる画家だった」 ニヤニヤ笑いながら、イトゥ=エンキが答える。 「製本工……ではイトゥ=エンキさんは字の読み書きが?」 「できるぜ。むしろ運動ができなかっただけに、本は結構読んでた」 その返答に、ミスリアは目を丸くした。 (似合わない……と思ったら、失礼よね) ミスリアの知る本が好きな人間の筆頭は、想像力豊かで物語を引用しながら会話する人や、知識をばら撒きながら歩く人だ。 直刀を振り回したり人を片手で殴り飛ばすような男性が実は隙間時間に活字を目で追っているなど、自分が知らないだけで、よくあることなのだろうか? 「嬢ちゃん、考えが顔に出てるぜー。別に本が好きだったんじゃねーよ? 他にできること無かったから仕方なく読んでたんだ。どっちかっつーと嫌いだ、もうあんまり触りたくもないな」 「なるほど……」 そういう事情ならば、と納得に頷く。 「イトゥ=エンキさん、何だか前より饒舌になってませんか」 「機嫌いいからな」 その理由は、聞かずとも察しがついた。彼ににっこりと笑顔を向けられて、こちらもつい微笑みを返す。薄闇の中、イトゥ=エンキの顔の右半分にもあの黒い模様が見えた気がしたけれど、断言はできない。 水晶を埋め込まれた樹から手を放し、ミスリアは次の樹を探しにかかった。無口無表情のままのゲズゥと、未だ楽しそうなイトゥ=エンキが静かに後ろについてくる。 苔に覆われた柔らかい地面をそっと踏みしめて進んだ。一歩踏み進むと、くしゃ、っという小さな音が大きく響き渡る。時々、こつん、って音だった。会話を止めたせいか、周囲の静寂さが際立った。 背筋が冷えるくらいに樹海の中は生き物の気配が希薄だった。松の木からも、生気をあまり感じない。 次の樹は、30フィート以上も先にあった。 水晶の埋め込まれた樹を見つける度に、周りの闇が濃くなっていく気がした。時折、眩暈や耳鳴りも感じたけれど、立ち止まっていられない。 (樹海に入ってから何分経ったかしら。確か、一時間程度で抜けられるはず……) 出口の無い迷路をうろついているかのように、まったく進んでいる気持ちになれない。 ミスリアはただ黙然と水晶の光を探した。それらのおおよその数は聞いている。しかし、全ての水晶が今も残っているとは限らないし、後戻りしていないという確証が持てない。 何せ太陽が隠れている為、方角がわからない。方位磁石も、樹海の中では正しく機能しない。 (光を見失ったらどうすればいいの) ミスリアは不安を覚える度に振り返り、背後の二人の姿を認めては安心した。 (だめ、私が導かないと) これは彼らにはできないことだ。聖気の加護なくして、この中で立ち続けることすらきっと不可能である。それほどまでに樹海には謎の重圧があった。 己を奮い立たせ、アミュレットを握り締め、ミスリアは奥深くへと樹海を進む。 が、数分後、立ち止まって空を見上げた。 この地が引きずる災いはずっとずっと過去の出来事なのだろう。瘴気の濃さという一点ではゲズゥの村よりも薄い。とはいえ、この地の空気も相当に淀んでいる。浄化し切れない程の範囲と、教団が判断したのかもしれない。それとも、何か別の理由が――? そんな物思いに眉根を寄せていたら、イトゥ=エンキが耳打ちしてきた。 「……死体捨て場だったんだよ」 「え……」 「この辺り、大昔は埋葬の習慣が無くてな」 イトゥ=エンキの言葉に、ゲズゥが目を細めるのが見えた。この静寂の中では耳打ちでも聞き取れたらしい。 「苔の下がたまに盛り上がってたのは、そういうことか。足音が違ってたのも」 ゲズゥが静かに指摘した。 「足音って」 あの、こつん、という音の正体に気付いて、ミスリアは青ざめた。無意識に口元を押さえる。 |
21.e.
2013 / 03 / 22 ( Fri ) 支えを失った次の瞬間、膝が折れ曲がり、体が前に倒れ掛かる。どうにかしようという気力が無いからか、ミスリアは転ぶ心の準備をした。 ところが、素早く脇下に差し込まれた手によって体が引き上げられ、宙に浮いた。 「ありがとうございます」 毎度のように助けてくれたゲズゥに礼を言いつつ、ミスリアはまだぶらついている自分の両足に目を留め、状況を客観的に見てみた。 (子供を抱き上げる動作と同じ……何で?) 彼にとっては癖みたいなものだろうか、それとも。 「小さいお子さんの扱いに慣れていたりしませんか?」 ミスリアが訊ねるとゲズゥは驚いた顔になり、次には表情を翳らせ、予想外の反応を返した。 それを、近くでイトゥ=エンキが面白そうに観察している。 「……昔の話だ」 ゲズゥはそれ以上告げずにミスリアを下ろした。ミスリアは小さく、はい、とだけ答えた。「昔」が彼が故郷に居た頃ぐらい昔の話なら、気分を悪くして当然だ。 思い出させて、申し訳ないことをした。 それから何度か試して、ミスリアは自分の足で立つ事ができた。 そして三人は、樹海をどう進もうか話し合った。 「ただ歩き回ってもしょうがないってのはわかってるよな? 嬢ちゃんなら何か抜け道知ってるかなって期待してんだけど」 イトゥ=エンキにそう言われ、ミスリアは頷いて松の木が入り乱れる樹海の一歩手前まで歩いた。地図に添えられていた記述を思い出しながら、語る。 「かつて大陸の数多の信仰を聖獣信仰に統一した人物、ラニヴィア・ハイス=マギン……彼女は、ヴィールヴ=ハイス教団を興した直後に巡礼の旅に出ました。聖獣の息吹がかかったと伝えられている数々の地を巡り、『聖地』と定めて守り続ける為に。岸壁の上の聖地にも、ラニヴィア様はかつて訪れていたのです」 ミスリアは肌身離さず身に付けているアミュレットを取り出し、親指と人差し指の間に握った。銀細工のペンダントは今まで服の下で胸元に触れていたため、温かい。 「この樹海は百年前でもいわくつきで、容易に通れなかったそうです。何度挑んでも迷ってしまうため、彼女は道を示す物を残していきました。濃い瘴気の中でも見失わない道しるべを」 教え通りに、ミスリアは呪文を唱える。 アミュレットに取り付けられている二つの紫水晶から淡い光が伸び、それはまるで何かを探るように空を彷徨った。 「光を追います」 三人は樹海の中へ踏み入れた。瞬間、重い空気に撫でられるような感覚があった。まとわりついてくる空気は熱いのに何故か寒気がした。 更に外が明るかったのに対し、樹海の中は薄暗い。絡まり合った木々が光を遮っているからか、それとも瘴気のせいかは知れない。 そんな中、弱々しい光を追い続けると、やがて大きな樹の前に立った。 「何だ? 樹の根元が光ってる」 イトゥ=エンキが指差した。その先に、親指の爪ほどの大きさの光の粒がある。 「ラニヴィア様が埋め込んだ水晶です」 ミスリアが近付くと、アミュレットも樹の根元の水晶も一層強い輝きを放った。 |
21.d.
2013 / 03 / 13 ( Wed ) 聞き間違いだろうな、と考えてミスリアは首を傾げた。 何せ、山の中で出会った日から今までを顧みても、彼は健康そうだった。足の速さや体力や腕っぷしの強さまで、むしろ並の人間より優れて見えた。 「そこ、クサヘビ」 「おお? ホントだ」 ゲズゥの短い忠告を受けて、イトゥ=エンキは斜め後ろへ跳んだ。この身のこなしでは、なかなか幼少の頃に病弱だったと想像が付かない。 「嬢ちゃん、その顔は信じてねーな? 医者に何度も診断されたかんな。内臓が弱くてさ、成長期を乗り越えられたら健康な大人になれる可能性は充分あるって言われてたけど、それまでは一人じゃ生活できなかった」 と、彼は陽気に続ける。 「そんな……」 「でもまぁ、楽しそうに世話してくれる家族がずっと居たし。不幸自慢はココじゃないぜ」 「ふ、不幸自慢?」 一瞬調子を落としかけたミスリアの声音が、今度は語尾に向けて跳ね上がった。 「そ。そいつに負けないくらい悲惨な人生送ってきたから」 イトゥ=エンキはわざとらしくウィンクを送った。 それまで無口無表情を保っていたゲズゥが、応じるように横を振り向いた。二人は、数秒ほど無言で目を合わせる。 「……なるほど。笑い話にして、そうやって乗り越えていくのか、お前は」 ゲズゥの声には感心に似た響きが混じっていた。 「さー?」 意味深な笑みを残して、イトゥ=エンキは更に速度を上げて先を走った。 ミスリアたちは、それからは言葉を交わさなかった。 _______ (禍々しい……) 巨大な松の木が乱れ入る光景に呆気に取られていたミスリアは、やがてその感想にたどり着いた。 流石は曰くつきの樹海と形容されるだけあって、これまで通ってきた森とは何かが本質的に違う。そう思うのは五感で感じ取れる情報を通してではなく、霊的な直感からだ。心なしか寒気もする。 (本来、松ってもっと離れて生えているものじゃなかったかしら) 目の前の木々は、互いに寄り添い合うように幹が傾いでいる物や、枝同士が絡まっている箇所が多い。 「イトゥ=エンキさん、よくこの中に入ろうと思えましたね……」 苦笑交じりにそう言った。 「オレもそう思うぜ。山上から見えるけど、ここだけ瘴気に侵されてるみたいに色が濃いんだ。長い間眺めてるとなんか背筋がぞわっとする」 彼は肩をすくめて見せた。 「……山脈を越えた先の町に、聖地とやらがあると言っていたな。この向こうか」 ミスリアを下ろしながら、ゲズゥが訊ねた。彼の両目は樹海の先を見通そうとしているかのように細められていた。 「はい、よく覚えていますね。『岩壁の上の教会』の絵画では岩壁と川と教会だけが描かれているのがほとんどで、崖の上には教会しかないようにイメージされる方も多いそうですが、実際はすぐ近くに町があるはずです」 自分の足で立つのが数日ぶりだからか、ミスリアは足元がふらついた。咄嗟にゲズゥの腕を掴んで支えにし、嫌がられるだろうかとすぐに不安を覚えた。しかしゲズゥを見上げても、彼は見守るだけで手を貸そうとも振りほどこうともしない。 (なら、別にいいのかな) 少しずつバランス感覚を取り戻してから、ミスリアはゆっくり手を離した。 |