22.c.
2013 / 05 / 01 ( Wed )
 女は素早くこちらに歩み寄って右腕を伸ばした。
 ほっそりとした指が頬に触れる。突然の温かさに、肌が震えた。
 文句を言う間も無く、イトゥ=エンキはただ表情を強張らせた。

「ヨンフェ=ジーディ? 何を……」
 連れの男が動揺を隠せない様子で問うたが、女はそれには答えなかった。

「これは私の夢か幻に違いないわ」
 そう呟いた女の声音も、頬を撫でる指先も、愛しい者に向ける類のものだった。もしや知り合いだったのかと考え、イトゥ=エンキは女の顔をじっくり見直した。

 最初にヘーゼルに混じった青だと思っていた瞳が、よく見ればその逆だった。青い色の瞳の中に、瞳孔の周りだけ濃いヘーゼルの輪があった。
 キレイに反り返るふさふさの睫毛は髪よりも暗い色で茶に近い。顔は面長でありながら輪郭は柔らかく丸めで、全体的に温和そうな印象を受ける。

「イトゥ=エンキ……生きてたの……?」
 女の痛切な呼びかけは、氷水を浴びるよりも強烈に脳に届いた。
 ――何でその名を知っている――。問い詰めるつもりが、声が出なかった。

 遅れて脳が情報を処理し出したのである。
 この女の名前は、ヨンフェ=ジーディ、と言った。

 信じがたいが、確認する方法ならある。
 彼女の長い髪を手ですくい、その下に現れた形の良い耳の後ろに目をやった。

 細やかな黒い模様があった。耳の後ろに始まり、うねうねと蔦のように下に伸び、うなじ辺りで小さく丸まった形。ちょっと朝顔に似てるね、と初めて会った時に言った覚えがある。

(そんなはず無い)
 身を引いて、イトゥ=エンキは心の中で現状を否定した。
 やっと山と樹海を超えて町に着いて。手がかりを求めに教会を訪ねて、もう何年も経っているから詳しくはわからないと煙に巻かれて。そこから更に町中の人が集まる場所を回って、終いには人の家にまで聞き込みに行って。

 それぐらいの苦労をしてもなお、足取りを掴めないだろうと予想していたのに。

「……っ、ごめんなさい……」
 泣きながら謝るとその人の顔は、記憶の中の面影と重なった。
 イトゥ=エンキが息を止めたのと同時に、視界が暗転した。周囲の場景が闇に呑まれて消えた。

 ――ごめんなさい、ごめんなさい。あなたは生きて。お願い……!

 声が辺りに響いた。その時自分は、床を注視していた。
 足元に浮かんでいた光の窓が閉ざされていくのを認め、心臓が早鐘を打つ。
 がこっ、と音がするのと同時に、戸が閉められた。

 一切の闇。屋根裏部屋の中の生温く淀んだ空気。
 足音が、人の気配が遠ざかる。怖い。独りは怖い――。
 声を漏らさないよう、袖ごと手首を噛んだ。強く、強く噛み締めて泣いた。叶わない願いと知っていながら。

 ――嫌だ、嫌だよヨン姉。行かないで……置いていかないで……ヨン姉! 戻ってきて――

 肩を掴まれた感覚で、イトゥ=エンキは我に返った。ヨンフェ=ジーディが必死の形相で何かを言っているが、よく聴き取れない。

(ああ、何だ。記憶の再現だったんか)
 思い出すまいとあれから何年もかけて封じた記憶が鮮烈に再生されたのは、彼女の涙が引き金だったのだろうか。
 何にせよ今起きていることではないのだとわかって、小さく安堵のため息をついた。

「お前が求めていたのは、ソレじゃないのか」
 いつの間にか隣に来ていたゲズゥが訊ねた。
「……確かにそうだけど。オレはなー、ヨン姉の墓と対面する覚悟は前々から決めてたけど、こうもイキナリ生身の本人に会う心の準備はできてなかったんだよ」
 生身、の言葉を強調しながらイトゥ=エンキは額に掌を当てた。

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