24.g.
2013 / 07 / 30 ( Tue ) こぽぽ、と小気味のいい音を立てて琥珀色の液体がカップを満たす。ミスリアにとっては珍しい陶磁器のティーセットだ。鮮やかな青い模様に塗られたポットから目が離れない。おそらくはディーナジャーヤ国産のものだ。
「どうぞ」 教皇猊下はポットを優雅な仕草でテーブルに下ろし、お茶を勧めた。 礼を言ってからミスリアは取っ手の無いカップをそっと手に取った。 お茶なら私が淹れるのに、と抗議したものの猊下はやんわり断ったのだった。ティーセットや茶葉を集めるのが好きで、自ら淹れて人に味わわせるのが楽しみだから、と。 (ってことはこのセットも私物として持参したのかしら……) 移動中にそれらを運んだのは護衛の人たちかもしれない。或いは、この町に来て買ったという可能性もある。そういう世間話も訊きたいと思う反面、ミスリアは今日呼ばれた用事が何であるのか知りたくて、先に猊下が話を切り出すのを待っている。 二人は街中のカフェテラスの三階にて、曇り空の下で軽食を採っていた。サンドイッチやサラダなどの簡単な料理を運んできて以来、店員は話の邪魔をしないように配慮してるのか姿を消している。 テラスの端でゲズゥは手摺に身を預けるように佇み、猊下の護衛二人はどこか目に見えない場所に控えている。町人の話し声や馬蹄の音は聞こえても、それは空間を形作る一部に思えた。 会議室で話した時は神父さまも居たのに、今度は教団で最も位の高いお方とこうして向き合って二人だけで会話しているのだと突然に自覚して、ミスリアは胃が緊張に強張るのを感じた。 和らげなければ。まずはカップを口元に運んだ。 「……おいしいです」 一口飲んで、ミスリアは驚きに目を見開いた。 微かに甘い香りは馴染みの無いハーブか花のもの、それがミントとよく合っていて互いの味の深みを引き出している。 「それは良かった。恥ずかしながら自作のブレンドでしてね。リコリスの根を使いました」 静かに椅子に腰を掛け、猊下もお茶を一口飲んではカップを下ろした。 「さて、私はこの後発つ予定です。聖女ミスリア、貴女も近いうちに出発されるでしょう?」 「はい。午後は鍛冶屋に寄って、夜は支度を整えて、明日の朝には発ちます」 「クシェイヌ城への道のりは確かめましたか」 猊下の問いにミスリアは首を縦に振った。 「そうですか。楽しみですね、貴女のこれからの旅路が」 「恐れ入ります」 二人はまたお茶をそっと啜った。 次に彼の碧眼と目が合った時には、猊下は何かを懐から出していた。ロウの印が既に開かれた書状である。 「手紙、ですか?」 「ええ。もう長いこと会っていない、隠居して久しい者からです――」 教皇猊下が懐かしそうに口にした名は、何年も前に体力の衰えを理由に役職を引退した、元・枢機卿猊下のものだった。しかし何故その話をミスリアにしているのか、理由は全く見えない。 「聖人カイルサィート・デューセは貴女と同期でしたね。それに少しの間、旅を共にしていたとか」 「確かにその通りです」 いきなり挙がったカイルの名に、ミスリアは戸惑いを隠せずにいた。 「どうやら彼は、貴女がたと別れた後にこの者を訪ねたそうです」 「そうだったんですか」 初耳である。あれからは連絡取れるような状況ではなかったので仕方の無いことだけれど。 「魔物対策を改めて欲しいという、実に興味深い手紙です。正直のところ教団にそれだけの余裕があるかは断言できませんけれど……」 猊下の話によるとどうやらその元・枢機卿の方は魔物対策についてカイルと似たような主張をし続けていたとか。しかし聖獣の復活を第一の優先すべき事項と考える猊下は、今は大幅な改革などしていられないと何度も答えたらしい。 もう一度その案を振ってきたのは、カイルと話し合って何か新しい発見があったからだろうか。訊いていいのか、ミスリアにはわからなかった。 「余談ではありますが、この大陸に魔物狩り師を養成する機関が存在しないのは、何故だと思います?」 「魔物狩り師の? それは……試みた国くらい居そうなものですが……何故かなんて」 少し考えを巡らせてみても、答えは思いつかなかった。 「誰もそんなコストをかけたくないからですよ。育てたところですぐに命を落とす人材などに、持続可能性はありません。わざわざそんな計画に投資するような物好きな国は居ないのでしょう」 「それは、そうですね」 ミスリアは頷いた。魔物を積極的に探し出して狩るのが仕事であるだけに、彼らの魔物との遭遇率は一般人の比ではないし、それゆえに死亡率がとび抜けて高い。いかに訓練を受けていても、確率の問題である。特に単独で活動する者は危険だ。 「かといって全大陸の結界の強化や聖人聖女の派遣も教団には負担が重く……まだ、魔物に対抗する策は完全とは程遠いですね。しかしその完全を追い求める人間が居ることはとても喜ばしいと思います」 「では猊下は聖人デューセらの提案を受け入れると……?」 「いいえ、現段階ではできません。改案の実現性がより確固たるものとして提示されれば、また話は違ってくるでしょう。けれども私は彼らと色々とこれから話し合いを重ね、進むべき道を一緒に探していこうと思います」 穏やかに微笑む猊下を、ミスリアはただ感心の瞳で見つめることしかできなかった。猊下だけではない。カイルやその元枢機卿の方も――誰かが聖獣を復活させた後の世界をどう収束させるのか、そこまで先を見据えている。 「して聖女ミスリア、貴女はこの点について、どう思われます?」 猊下は手紙をテーブルに置き、ある一行に細く白い指をのせた。 ざっと目を走らせて要点を拾うと、それはかつてカイルが話してくれた「魔物に怯えずに済む世界」に至る為の第三の条件と同じ内容だった。 「……魔物が生じる原理を、一般知識として広めるべきか、ですか」 誰にも会話が聴こえないはずなのに、思わず声をひそめた。 「ええ」 青い双眸は、探るように静かである。 「わかりません。聖人デューセがはっきりと答えを出せない難題に、私の考えが及ぶとは思えません。ただ、現状を変えようとすれば起こりうるであろう、混乱のいくつかは想像できます」 「そうですね。私にも混乱が視えます。ですがそれを乗り越えることが叶えば得られるものもあるでしょう。気長に、考え続けるとします。貴女も道中、何かわかったらお伝え下さいね」 勿論です、とミスリアは深く点頭した。 ふふ、と猊下は笑い、その後はサンドイッチの具が美味しい、とか、秋の訪れまであと何週間だろうか、とか他愛もない話を静かに交わした。 お茶も飲み終わった頃に猊下はミスリアに立ち上がって頭を下げるように言った。 しゅ、と袖の布が擦れる音がした後シーダーの香りが鼻腔をつく。次の瞬間、微かな温もりが額に触れた。 「どうかあなたがたに聖獣と神々の加護がありますよう。これからも長らく健やかに過ごせますように」 古き言語での短い祈祷の後、温もりの波が額を通して心臓へ、腕や足へ、指先まで通った。 「ありがたき幸せにございます」 ミスリアは何度か瞬いて顔を上げた。一瞬何かの秘術をかけられたのかと思ったけれど、普通の聖気だった。 そして猊下の中指の指輪に口づけを落とし、別れの挨拶を交わした。 それからしばらく後、ミスリアとゲズゥは鍛冶屋への道のりを歩み出す。なんとなく、道端の黒い石ころを数えながらミスリアは歩いた。 「明日には皆さんとお別れですか。寂しくなりますね。イトゥ=エンキさんなんて、ユリャン山脈から行動を共にしてきたのに」 戦力としても心強かったけれど、何より彼のひょうきんさはどこか話しているこちらの気持ちを軽くさせる効果があった。ここでお別れかと思うと――別にゲズゥ一人との旅が心細いのではなくて、純粋に寂しい。 「気にするな。あの男ならあっさり別れるだろう」 ゲズゥは断言する口調で返事をした。 「え、そ、そうですか?」 しんみりしてくれると期待したわけではなかったが、寂しいのがこっちだけだと思うと切ないものがある。 それも次の朝、結局はゲズゥの言った通りになった。 ナキロスの神父やヨンフェ=ジーディ、ラノグらとの別れが済んだ後。 イトゥ=エンキがミスリアにかけた言葉は「おう、じゃーな嬢ちゃん。色々ありがとな。あんま無理しないで、ちゃんと飯食って寝てすくすく育てよ~」だけだった。 |
|