12.e.
2012 / 05 / 05 ( Sat )
 思考が回りきらなくて呆然と門を見上げていた。ゲズゥの姿はもうそこから離れて視野の外に行っている。ただ、戦闘になったことは音だけでも十分に伝わって来る。座り込んでいる場合ではない。
 
「すみません、大丈夫ですか?」
 立ち上がって、ミスリアは下敷きにしてしまった友人に声をかける。
「平気。君軽いしね」
 カイルは何とも無さそうに笑って身を起こし、階上へと顔を向けた。
 
「やり方は乱暴だったけど、助かったよ。僕らは丸腰だし。何気にあの人、強いんだよね」
「それって……」
 険しくなったカイルの視線の先を、ミスリアも意識した。
「行こう」
 
_______
 
 黒い鎧に身を包んだ騎士風の女の攻撃の一つ一つを、ゲズゥは大剣で残らず受け流した。幸いか他には人の気配が無い。
 以前遭遇した時は一方的に刺されて終わったので外見の特徴などまったく印象に残らなかったが、今回は明るい昼間の路地にて相対している。
 女にしてはやや骨格がごつい騎士は身軽な足取りで動き回り、長い金髪をまとめた三つ編みをなびかせている。
 
「くくっ、また会ったな、『天下の大罪人』。あの者らではお前の相手にならなかったか?」
 口元を斜めに吊り上げて女は低く笑った。濁った声だった。
 多分下水道に降りてきた連中のことだろう。ゲズゥは何も答えなかった。
 
 女は突いたり刺したりするのに特化した形の、細長い剣を巧みに操っている。それを薙ぎ払うタイプの大剣で相手にするのは些か効率が悪い。かといってナイフで相手をするのも難しい。
 不意に女が立ち止まった。次にどう出るのか予感がした。
 
 砂利が踏みしめられる音。
 跳んで間合いを詰めてきた女を、ゲズゥは避けることを選んだ。すれ違う瞬間、健康的ともいえる小麦色の顔が近かった。
 一重まぶたで、目じりに向けて細くなるヘーゼル色の瞳には、純粋な快楽が彩られていた。
 
 このような戦いを心から愉しむタイプの連中には今までに何度か会ってきている。今回もこれといった感想を抱かなかった。
 以前、自分がこの女に刺されて倒されたことに対しても、ゲズゥは何の屈辱も逆恨みも感じなかった。過去の敗因は知れている。ならば今の危機を握りつぶすのが最も重要である。戦いながら少しずつ移動し、路地から通りに出た。
 この女は力こそゲズゥに敵わないが、速さは同等かそれ以上である。加えて、騎士らしく動きが洗練されているのが厄介だ。
 
「ちょうど面白くなってきたというのに、邪魔をするなよ?」
 攻撃を続けながら、女は喉を鳴らして笑っている。
「それは貴女が邪魔をせざるをえないような行動を取るから仕方ないでしょう」
 背後から返事を返したのは、地下から上がってきた聖人だった。口調の柔らかさとは裏腹に、普段よりか声音が怒りを帯びている。
 
「あの商社の雇い主は貴女ですね、セェレテ卿」
 質問ではなく断言だった。内容も要点だけの短いものだが、通じた。
「だったらどうした? 貴様らに関係ないだろう。それともラサヴァの町に感情移入でもしたのか、聖人デューセよ」
 女は空いた手のひらを大げさに翻した。言いがかりだ、などととぼける気は無いらしい。
 
「人として非道過ぎる行いです! 関係が無くても見過ごせません」
 聖人の背から、ミスリアが更に非難した。
 しかし人道を説いてもおそらくこの女には無意味だとゲズゥにはわかっていた。こういう輩には心に決まった何かがあって、それの為なら後は総てどうでもいいのである。身に覚えのある話だからこそよく解る。
 
「さすが聖女様は可愛いことを言ってくれる。そうさ、今この場でお前ら三人をまとめて揉み消しても寝覚めが良いぐらいに、私は非道だ」
 女は高笑いをして、指を鳴らす。柱や樽の陰などに隠れていた気配が姿を現した。ゴロツキという形容が最適な連中で、数は十人。聖人に加勢させてもまだ面倒そうな数だった。ミスリアが唾を飲み込むのを聴いた。
 
「私はこの町で遊んでいた。実験、とでも言えばいいのか? うまく行けば成果を殿下へ献上しようと思っている」
 女騎士は剣を構えなおした。殿下とやらが、この女の心に決まった何かなのだろう。
 
 ゲズゥは腰に提げていた短剣を鞘ごと掴んで、背後の聖人へ投げた。何も無いよりはいいだろう。そうして彼もまた剣を構えなおす。体はそのままに、目だけを動かして、状況を細かく把握した。この女を切り伏せた後は、どういう順番でゴロツキとやり合うか検討しなければならない。
 
 まだ誰も動き出さないこの場面で、さてどうしたものかと考えていたら。
 前方から、蹄の音が響いた。
 こげ茶色の巨躯が人を乗せて駆け寄る。
 
 その馬は高く跳躍した。女騎士の頭上をも超えるほどに。
 そうして今にも剣と剣をぶつけ合うはずだったゲズゥと女騎士の間に着地し、文字通り割って入ってきた。馬の長い尾がバサッと音を立てて揺れる。
 
 かろうじて、紺色のマントに包まれているのが男だというのがわかるくらいで、鞍上の人物の顔はここからよく見えない。長い前髪も原因の内である。
 女騎士が素早く跪いた。ということは、これが例の殿下か。ゴロツキらは戸惑いながら、何人かがやはり跪いている。
 
「シューリマ……お前は相変わらず、妙な事ばかりしているそうだな」
 声は普通の青年のものだが、爽やかさや潔さよりも企みを含んでいた。あまり王子らしいとは言い難い。いや、何が王子らしいのかなど基準がゲズゥに解るわけでもない。
「殿下! 私は――」
 頭を深く下げたまま女は何か弁明をしようと口を開き、けれども男が遮った。
 
「その話は後でいい」
 男は馬の向きをこちらへと変えた。馬の熱い吐息を感じる。
「久しいな、ゲズゥ。一、二年ぶりか? お前はあまり変わっていないようだが」
 未だ顔の見えない男の口元が釣り上がった。

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12.d.
2012 / 05 / 02 ( Wed )
 自分でも驚くほどに心中は凪いでいた。恐怖や焦りが無いのは、しがみつかなければならないものを多く持っていないからだろうか。
 それでもやりたいこと、やらねばならないことならあった。目的を果たすまでは死ねない。
 
「僕はね、本当は正義感が特別強いわけじゃないんだ。目の前で許しがたい行為が繰り広げられていようと、保身のために見て見ぬふりぐらいできるよ。辛いけど、できる」
「突拍子もなくどうしたんですか?」
 ミスリアは縄を解こうとせっせと働く手を止めたかと思えば、また動かした。
 
「それでも助けたいと想う心がある内は、体の方が勝手に動いてしまうのかもしれないね。ごめん。独り言だと思って流して」
 カイルサィートは小さく笑ってごまかした。
 ちょうど手首を縛っていた縄が解けたので、自由になった腕をゆっくり動かしてみる。
 
「私にはよくわかりませんけど、カイルは優しいです」
 それが彼女なりの励ましなのだろう。
「ありがとう」
 ミスリアが差し伸べた手を、カイルサィートは迷わず取った。しばらく使われなかった筋肉を徐々に慣らし、腰を浮かせた。が、そのまま椅子に座り込んだ。三度目の挑戦でやっとうまく立ち上がれた、と思ったら、何かが足に触れた感覚があった。
 
「きゃっ」
 いつの間にか溝鼠が二人の足首辺りに噛り付こうとしている。血の臭いに惹かれたのだろう。そういえば朦朧とした意識の合間にも、噛まれていた記憶がある。今はすっかりミスリアの聖気によってほぼ治っているが。
 
 いきなりナイフが飛んで来た。即座に鼠たちは煩く逃げ惑う。
 いつの間にか戻ってきていたゲズゥが、地面に刺さったナイフを拾った。「当たらないな」みたいなことを呟いている。いなくなってから一分も経っていない。水色のシャツにところどころついている赤い跡が彼自身のではなく返り血であるのは、訊かなくても察しがつく。
 
「溝鼠は焼いても不味い。調味して煮るしかない」
 ナイフを懐に収めながら、ゲズゥはそんなことを口にした。
「食べたことあるんだね」
 つい苦笑を返した。
「溝のは雑食だから不味いんだろう。屋根裏に住んでる鼠の方がましだ」
 
「覚えておくよ。でも食には気を付けないと病気になるよ? まぁ、『菌』とか『病原体』ってのは割と最近に発表された概念だから知らないかもしれないけど、食中毒なら聞いたことあるでしょ?」
 腐った食べ物は勿論、「汚い」食べ物を胃に収めてはならないのは常識だ。溝鼠といえば汚い動物の筆頭ともいえよう。
 カイルサィートの言葉に対して、ゲズゥは首を鳴らした後、軽く頷きを返した。それらのやり取りをやはり苦笑しながらミスリアが隣から見守っていたが、ふと表情が硬くなった。
 
「それでカイル、これですが……」
 ミスリアが取り出した紙束に関しては、見なくても内容を熟知している。カイルサィートはそれを受け取ると、移動しながら話を続けようと提案した。
 
_______
 
 三人は一列になって、来た道を逆に辿っている。闇の濃さは先刻と少しも変わらない。けれども一度経験した道となると、最初に通った時のような得体の知れないものに対する不安を抱かないのだから不思議である。もともとは闇そのものではなく未知への恐怖だったのかもかもしれない。
 
「この人たちは」
 ゲズゥに倒された敵を踏み越え、燭台を持ったカイルが開口した。
「とある商社の関係者でね。詳細を省くけど、彼らが提供していた食材に病原体が紛れ込んでいたんだ。地価貯蔵庫から少し取ってきて、確認した」
 
 それは色々なソースや漬物に使われる材料で、容易には足のつかない手口だった。ここら辺の調査は、「疫学」といった、近年のうちに世に現れた学問を用いたのだという。相変わらずカイルは博識だ、とミスリアはこっそり感心した。
 
「ルセさんはカイルになら犯人や動機の心当たりがあると言っていました。本当ですか?」
「そうだね。まぁ、普通に理に沿って考えただけなんだけど」
「なら利を得た人間か」
 しんがりを歩くゲズゥの低い声が、ミスリアの背後からした。何気に話を聞いていたらしい。
 
「でも疫病なんて、儲かる要素があるとすれば薬を売る人間や医者の方……ですよね?」
 その通り、と言ってカイルが後ろを一度だけ振り返った。
「この商社の人たちは雇われただけ。誰に、が一番の問題だけど、首謀者は別にいる。薬売りがどうなのかまでは知らないけど……」
 
 自覚があるのか無いのか、カイルはどんどん歩くペースを速めている。ミスリアも必死に足を速めた。予想としては、後ろのゲズゥは息が上がることなく余裕で付いてきているはずだ。少なくとも、荒い息遣いなどが聴こえない。
 
「ミスリアは『ヒーローシンドローム』って知ってる?」
 地上へ通じる出入り口から漏れる薄明かりが見えてきた頃、カイルが足を止めた。
「いいえ」
 息を整えてから返事をした。
 
「……簡単に言うと、英雄になりたい願望のあまりに自ら事件を起こすことかな。予め解決法も知っているとか、助けに入るタイミングを見計らったりしてあたかもヒーローであるかのように演じるんだよ」
 つまりは、注目を快感に思う心理、または名誉欲。
 
「そんな理由のために四人死んだんですか……」
「人間が欲に突き動かされるのは当たり前だ」
 ミスリアがため息をつくと、ゲズゥがサラッと断言した。有無を言わせない口調だったからか、何も言い返せなかった。
 
「あれ?」
 出入り口への階段の二段目を片足で踏んで、何故かカイルが中途半端に止まっている。
「どうしたんですか? ここから出るんですよね?」
「う~ん、いや、困ったな。実はここの出入り口は普段鍵がかかってるんだけど」
 
「そうなんですか?」
 だとすると鍵を持っていない限りは使えない。貯蔵庫まで戻らなければならないと思って、ミスリアは肩を落とした。
「……それが、開けっ放しなんだよね」
「え?」
 
 ミスリアは顔を上げた。
 確かに、門が開いている。先ほど通りかかった時は閉まっていたように見えた。
 
「さっきの彼らが閉め忘れたのでは?」
「うーん?」
 何か引っかかっているらしく、カイルは尚も眉根を寄せていたが、結局踏み出した。ミスリアも続く。
 
 カイルが門をくぐるまさにその数瞬前。
 ミスリアは少しだけ後ろを振り返った。上らず、階下でゲズゥが何かの気配を探るように静止している。
 突如彼は飛び上がり、それぞれの手にミスリアとカイルを掴んで投げ飛ばした。
 
(ちょ、何!? 危な――)
 階下で重なる形に着地した。カイルが下敷きになっているのでそれほど痛くは無かったけれど。
 
 階上から、金属と金属のぶつかり合う音がする。

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12.c.
2012 / 04 / 27 ( Fri )
「よかった――」
 ミスリアの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。安堵のあまりにか顔をくしゃくしゃに歪め、次いで抱きついてきた。
 
 カイルサィートは己に覆い被さる温もりにどうしてか驚いていた。そういえば抱き締められるというのはこういうものだったな、と再発見した気分だ。軽く抱き合うことは普段から挨拶代わりによくやっているが、抱き締められる圧力とは比べ物にならない。
 素直に心地良い。
 
「心配、かけたね」
 なんとか囁いた。当然、抱き締め返してやりたいところである。しかし両手が椅子の後ろにて縛られているので不可能だ。
 
 身体の治療に専念するあまりにその辺りに気を配る余裕が残らなかったのだろう。ミスリアらしい。
 彼女の後ろに突っ立っているゲズゥが、拘束を解いたらどうた、みたいなことを指摘したそうに目を動かした――ように見えた。といっても目を動かしただけでは背を向けている本人に伝わらない。
 ゲズゥは口を開きかけて、急に目を見開いた。カイルサィートにもすぐにその原因がわかった。
 
 物音がしたのである。複数の、靴の音と話し声と、衣擦れともいえるような音などが近づきつつある。
 ミスリアも音のする方を振り返った。
 
「こんな場所に来る人といえば、清掃員や整備員でなければ、まともな人間……なわけないですよね?」
 震える声でミスリアは呟いた。
「まともでなければただの物好きだ、気にするな。三十秒もあれば終わる」
 ゲズゥはそう言って、燭台をミスリアの足元近くに置き、来た道を逆戻りし始めた。
 
「終わる……?」
 ミスリアは尚も不安そうな顔をしている。
 それでもずっと、聖気は発動されたままだ。おかげで痛みもだるさも大分楽になってきている。
 何度か深呼吸を繰り返してから、カイルサィートは幾分か回復した喉から発話した。
 
「味方でないのは間違いないし、彼に任せればいいよ。狭いから大剣は使えないだろうけど」
「あ、はい、カイルがそう言うなら」
 でも殺しちゃだめですよ! の言葉だけ、ミスリアはゲズゥの背中へ投げかけた。
 
「それで、具合はどうですか?」
 ぱっと明るい笑顔になって、ミスリアが訊ねた。
「随分よくなったよ、ありがとう。もういいんじゃない? 聖気を閉じて」
 同じくらいに明るい笑顔を浮かべて、カイルサィートは応じた。力とは常に温存するものである故、閉じた方がいいと進言した。
 
 意図を汲み取り、ミスリアは忽ち言われた通りにした。
 金色の淡い光がフッと消える瞬間、ミスリアの細く白い左の前腕に包帯が巻かれているという、不自然なものを目で捉えた。
 
「腕、怪我してるの?」
「これですか」
 どういうわけかミスリアが一瞬ぴくりと怯んだ風に見えた。たとえるなら、悪いことをして隠していたのを、親に見つかって問い詰められる寸前の子供を彷彿とさせる。
 
「……えーと、魔物に噛まれ、ました……」
 歯切れの悪い返事を返しながら、視線をさ迷わせている。彼女が嘘をつけない性分であることは重々承知しているから、ありのままの意味で受け取った。魔物にやられたのは事実だろう。
「ああ、もしかして『忌み地』に行ったのかな」
 
「すみません! 浄化はできたんですが……その、勝手な真似をして……神父様やカイルのお仕事でしたのに独断で……」
 俯き、消え入るように言う少女に、カイルサィートはなるべく優しく声をかけた。
 
「謝らないで。浄化できたならそれに越したことは無いから。訊いて欲しくないなら別に訊かないよ?」
 危険の方へと突っ走った点は確かに叱るべきかもしれないが、自分にできなかったことを成し遂げたのだから、むしろ賞賛に値する結果だ。元よりミスリアは、カイルサィートよりも遥かに優れた実力を有している。
 
「縄ほどいてくれたら、治してあげる」
「このくらい平気です! 後でお願いしますね」
 そう言ってミスリアは椅子の後ろに回り込んだ。

 奥の闇の方から、叫び声が上がる。
 
(ドンパチが始まったか……さて、ゲズゥ・スディルは素手でもメチャクチャに強いんだろうなぁ)

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13:11:15 | 小説 | コメント(0) | page top↑
12.b.
2012 / 04 / 26 ( Thu )
 彼は何度か蹴る素振りをして鼠を散らせた。
 ミスリアは思わず去り行く鼠の後姿を目で追い、ふと、前方の薄っすらとした明かりに気が付いた。上から差し込んでいるらしいところから、出入り口か排水溝があると予想が付く。
 
 案の定、近付いてみたらそこには地上への出入り口があった。階段を十段上った先の小さな門が、外界との隔たりだ。雨の日であったならば、街中の水が流れ落ちてきただろう。
 扉を構築する鉄格子の大きな隙間から差し込む陽光を浴びて、そういえば地上では昼間だったことを思い出した。この近辺なら蝋燭の明かりが無くても充分に明るい。
 
「地価貯蔵庫へ戻らなくても、ここから出られますね。ルセさんは不審がるかもしれませんけど……」
 一緒に来たはずの人間が忽然と消えてしまったら、それが普通の反応だろう。
「そうだな」
 
 ゲズゥは何を思ったのか、唐突に燭台をミスリアの手から取り上げて、先を歩き出した。こっちがもたもたし過ぎたからしびれを切らしたのだろうか。
 数分歩いたら、また闇に包まれた。こういう時は炎という発明が実に有難い。
 
 ミスリアは少ない明かりを頼って足元にばかり注意を払っていたため、ゲズゥが立ち止まったのを知らずに衝突した。
 
「きゃっ」
 顔面を彼の背中か腰辺りに思いっきりぶつけた。
 鼻の頭をこすり、どうしたんですかと問いかけて、言い終わらなかった。
 蝋燭の炎に照らされた、下水道の汚水の流れを塞き止めるモノを、目の当たりにしたからである。
 
 小さな山みたく積み重なり、蠢く茶色の集合体。鳴き声からそれが多数の溝鼠だとわかった。吐き気を誘う腐臭に、ミスリアは反射的に袖で鼻と口を覆った。口の中にいつの間にか広がっていた苦味をゴクリと飲み込む。
 あの山の下で、何かが今まさに鼠に食べ尽くされんとしているのだろう。人間と同じ大きさの死体が鼠たちの隙間からのぞく。
 
 死体を見下ろすゲズゥの表情に、何ら変化は表れなかった。彼はそれを一瞥した後すぐに目を離し、燭台を前へと掲げて進んだ。
 
「それよりお前が探してたのは、あっちだろう」
 低く冷静な声に促されて、ミスリアは恐る恐るゲズゥに続いた。
 下水道はここらで枝分かれするらしい。分け目の前に、椅子に縛り付けられた人影があった。
 接近して視認しなくてもわかる。
 
「カイル!」
 夢中で駆け寄った。
 何度か呼んでも揺すっても反応が無いので、首の脈を確かめた。脈は弱々しいけれど、間違いなく生きている。それ以上考える前に、ミスリアは聖気を展開した。
 
(なんてひどい……)
 カイルの肌に触れて感じた体温の低さに、ぞっとした。一体どれほどの時間、この状態で居たのだろう。全身に血の乾いたあとが見られる。骨も折られているようだ。
 特定の怪我を集中的に完治させるよりも、ミスリアは全体を治すことにした。
 
_______
 
 暖かい金色の光が俄かに瞼の裏に広がった。
 また夢が始まるかと思ったが、どこか違和感を覚えた。
 
(天へと続く道に辿り着いたのかな?)
 そのようなことをのんびり考えた。天へ、神々へと続く道に辿り着くということは即ち肉体の死を経たことを意味する。
 もしも自分が死んだというのなら、この上なく残念なことだが、仕方ない。
 
(でも多分違う……「あの時」と違う)
 この光は天から降りてきていない。もっと間近な距離から届いている。それも大いなる神々の届け物ではなく、もっと身近な存在が発している光。
 ああそうか、とその正体に思い至った途端、意識が浮上する感覚に引っ張られた。
 
_______
 
 開いた目が霞んでいる上に、辺りがやたら暗い。
 間近に人が居るのはわかる。しかしその姿が見えない。
 此処は一体どこで、自分は何をしていたのか。頭が痛くて思い出せない。
 夢の世界で何かわかったのに、目を開いた所為で向こうに置いてきたような気はする。
 
(そんな風に感じたのは、何度目だろう)
 短い間に何度かあったと思う。それが、少しだけ悔しいような惜しいような。
 
「大丈夫ですか?」
 可憐な少女の声に、カイルサィートは咄嗟に訊き返した。
「リィラ……?」
「!」
 少女が息を呑む気配がした。
 
 そこでようやっと、目がはっきりしてきた。驚きに塗られた大きな茶色の瞳を、どうして妹と間違えられただろうか。
 
「……ミスリア、」
 来てくれると思ったよ有難う、と言葉を続けたかったのに、乾いた喉には名を呼ぶだけが精一杯だった。なので、とりあえず顔中の筋肉を駆使して笑ってみようと試みたが、これがまた痛くて断念した。

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12.a.
2012 / 04 / 23 ( Mon )
 独りで眠る夜を怖がった頃もあった。
 それまではいつも誰かと一緒だったし、よほど曇っている夜でなければ窓から明かりが入り込んでいた。
 屋内の純粋な闇には、屋外のそれとは違った恐ろしさがあった。
 
 ドアの隙間から毒蛇が入り込むわけが無いのに、結界に守られた地域に魔物が現れるはずも無いのに、目を閉じれば寝てるうちに襲われて二度と目覚めないのだと、どうしてか思い込んでいた。
 
 闇を凝視するうちに、怪物の輪郭が目に映る夜もあった。もちろんそれは錯覚だったが、子供の瞳には錯覚の方が真実に見えた。怪物は自分にしか見えないモノで、大人を呼んでも気のせいだよとあしらわれると思った。そんな時は悲鳴をあげないように、シーツを噛み締めて気が済むまで強く目を瞑った。
 
 ミスリア・ノイラートは九歳くらいの歳で親元を離れ、ヴィールヴ=ハイス教団系統の修道院に移り住んだのである。当時のルームメイトは彼女なりの都合があり、ミスリアより一月遅れて宿舎に入ったゆえ、それまでミスリアは独りで夜に耐え続けた。
 
(他の子たちだって怖かったはずよね)
 独りで眠る夜は誰にだって寂しくて恐ろしいもののはず。そうに違いない、と小さく頷く。
 
 実質的な危険でいうなら、今の暗闇の方が過去のそれを遥かに上回る。
 
 ミスリアは隣のゲズゥ・スディルを仰ぎ見た。背が高くて細身の筋肉質な青年は、燭台を壁から持ち上げてミスリアに差し出している。その表情には、恐怖が欠片も表れていない。
 幼少時になら、彼も闇を恐ろしいと思ったりしたのだろうか。七歳で身寄りを一切失ったというゲズゥは、どうやって眠りについていたのだろう。いつか聞いてみたい。
 
 考えを顔に出したのかもしれない。こちらが呆然と見つめていたら、怪訝そうにゲズゥは目を細めた。ミスリアは目を一度逸らしてから、燭台を受け取った。
 
「明かりを持つ方が先を歩くんですよね?」
 確認のために訊く。
「嫌か」
 
「いいえ」
 先を歩く不安を感じる一方で、ゲズゥに背中側を守ってもらえる方が安心できる。明かりに触れているというのも、いくらか心休まった。頭を横に振って、ミスリアは通路の方へと踏み出した。
 
 最初に歩いている内は、何も無かった。まるで地中から土を抉り取ってそのままトンネルにしたかのようであった。空気は冷たく湿っている。虫が過ぎる音を除いて、鼠の鳴き声一つしない静けさがあった。
 ふいにゲズゥがしゃがんだことに気づき、ミスリアも立ち止まって肩から頭を巡らせた。
 彼は地面についている僅かな血の跡を確認していた。
 
「……この量からだと、重い傷とは思えないな」
「そう、ですか」
 ミスリアはそっと息を吐いた。怪我をしているのが誰であっても、とりあえずは朗報である。友人カイルサィート・デューセであるなら、尚更だった。
 
 二人は再び歩き出し、通常より二倍速いペースで歩を進めている内に水音が耳に入り、そしてトンネルと交差する通路へと出た。こちらは最初のトンネルより広く、大人が五人程度横に並んでいられるほどの横幅がある。
 石造りの壁と地面、通路の真ん中を流れる濁水。これが下水道の一部と考えて、間違い無さそうだ。臭いを嗅がずに済むように、鼻から息をするのをやめて口からだけ呼吸した。
 
「ここからはどう進めばいいんでしょう?」
 当面の選択は右か左に曲がるかである。どちらも同じような闇しか見えない。ミスリアは燭台の蝋の残り分を確かめ、もってあと一時間と推測した。
 
「下流」
 ゲズゥが一言呟いた。
 大抵の下水道は川などと合流するように造られている。川を通じて、汚水が海へと流れ出る仕様だ。下水道を下流へ進めば進むほど川に出る地点へ近付く。
 
「では右ですね」
 どうして下流がいいのか、ミスリアはいちいち問い質さなかった。自分に優れた考えが無いからこそ訊ねたのである。
 そうして進んでいたら、鼠に遭遇した。何匹かが足元を忙しなく走り回っている。ミスリアは長いブーツを履いているので大して気にならないが、ゲズゥはサンダルだ。噛まれる可能性はある。
 
 盗み見るように振り返ったが、ゲズゥは至って平静だった。

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11.h.
2012 / 04 / 17 ( Tue )
「ええ、確かに聖人デューセは数日前にいらしていますね」
 虫眼鏡を用いて、貯蔵庫の管理人が記録を調べている。顔の皺や頭髪の薄さから思うに、初老ぐらいの、小さい男だ。
「彼が何をしに来ていたのか覚えてませんかね?」
 その管理人の机に肩肘ついて、役人が訊いた。机越しに相対する二人の男の体型の違いが面白い。
 
「えーと……特定の食材の仕入れについて聞きたがっていましたよ。最後に入荷したのが何時だとか、どの業者からだったからかとか。目録を確認していたと思います」
「何の食材です?」
「さて、記憶に残っていませんな……」
「そこを何とか思い出して下さいよ」
 
 役人と管理人のやり取りは尚も続いている。ふとゲズゥは傍らのミスリアを見下ろした。返ってきた茶色の眼差しが不安に翳っている。ゲズゥはなんとなく肩をすくめた。
 ここはいわゆる倉庫、食物を保管する施設の中だった。この中の何処かの床に地下貯蔵庫へと続くたった一つの入り口があるはず。
 
 右目だけを動かして、ゲズゥは周囲を見渡した。日持ちしやすい食品や粉末が棚に天井まで積み上げられている。さりげなく一歩下がって、隣の通路を確かめる。踏み台がある以外に注意に値する点は無い。更に下がって、次の通路を見やった。
 一番奥の棚に梯子がかけてある。もっと手前へと視線を移した。
 するとそこの床には開けっ放しの四角い戸があった。使われたばかりで閉め忘れられたのだろう。
 
 倉庫の外には五人もの番人が警備をしていたというのに、皮肉にも、倉庫の中は管理人以外ほぼ無人状態だった。或いは普段はもっと従業員がいるのかもしれないが、そんなことより今日は誰も居ないというのが重要である。
 管理人はまだ役人と話し込んでいる。こちらの動きにまで気を配っていない。
 ゲズゥは元の位置に戻り、ミスリアに耳打ちした。
 
「戸が開いてる。行くなら今だ」
 驚いたのか、ミスリアは一度肩を震わせた。迷っているような表情をしている。
「悠長に構えていていいのか」
「……いいえ。行きましょう」
 
 すぐさま二人で戸へ向かった。地下へ続く古い階段を踏んだ時の音が気がかりだったが、気付かれた様子は無い。
 長い下り階段の先にあるのは地に空いた穴。地上の新月の夜よりも、どこまでも濃い闇だった。
 ついに階段が途切れ、土を踏みしめることになった。湿った臭いが絡みつく。ここまで来れば闇の中へ進むだけである。
 
「暗いですね」
 背中辺りの裾が引っ張られるのを感じた。怖がる少女の声だ。
「そういうものだ」
 躊躇なくゲズゥは一歩踏み出した。
 
 倉庫から漏れる光を頼りに壁を求めて歩き、ポケットから火打石を取り出す。壁の燭台に火を灯した途端、視界が明るくなり、ミスリアが張っていた気を緩める気配を感じた。目を慣らすために数秒じっとしていたら、ガサガサと紙が取り出される音が背後から聴こえた。
 
「カイルの見取り図では左、奥の隅っこ辺りが丸で囲まれてます。何かあるのでしょう」
 従って、件の位置を調べることになった。
 が、いざ近づいて見ると、その隅の棚にはきれいさっぱり何もない。
 ゲズゥはしゃがみ、指先を地面にそっと触れた。土の冷たさをなぞる。
 
「窪みがある。箱か器か何か置かれていたんじゃないのか」
「ここにもともとあった物がなくなっているってことですか?」
 ミスリアは顎に手を当てている。
「では持ち去った人間が……?」
 ブツブツと何かを声に出して考えているようだが、気に留めないで置く。
 
 立ち上がった瞬間、ゲズゥの鼻がよく知った臭いを捉えた。
 つい、顔をしかめる。
 
「どうしました?」
 表情の変化に目ざとく気付いたミスリアが訊ねる。
「……血の臭い」
 その返答に、ミスリアが息を呑んだ。
 実際は血に混じって他にも汚臭がするが、そこまでは口に出さないことにした。
 
 臭気を辿ったら、反対側の入り口から右奥の隅に行き着いた。棚にはみっちりと品物が詰め込まれている。地面の血のあとが目に入った。数滴といった具合だ。
 ゲズゥは棚を両手で掴み、丸ごと前へ引き出して、横へどかせた。
 
「通路……」
 ついてきたミスリアが呟いた。
 棚の後ろから現れたのは狭い筒状の通路である。自分の場合は多少かがんでいないと歩きにくいほどに天井も低い。
 
「おそらく下水道へ繋がっている」
 下水道といえば死体を隠す格好の場所だ、とは言わないでおく。
 
 どうする? と目だけで問うた。
 ミスリアは唇を噛み締めて俯き、しばらく黙り込んでいた。
 その間にゲズゥは頭に巻いていた包帯を解き、左目を解放した。片目だけだとどうしても距離感が掴みにくい。
 
「進みます」
 やがて、重々しい返事があった。
「わかった」
 
 最善の選択だ。聖人がまだ生きている可能性がある以上、本気で救うつもりならば、立ち止まるのはただ愚かだった。

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14:47:47 | 小説 | コメント(0) | page top↑
11.g.
2012 / 04 / 16 ( Mon )
 そうだとしても、この場合は酒代は自分が払わなければならないのだ。ミスリアは苦笑いを浮かべた。
 そんなミスリアの心の内を感じ取ったように、ルセナンがまた歯を見せて笑った。
 
「聖人カイルさんに免じて、代ならいいぜ」
 彼は琥珀色の液体に満ちたショットグラスをバーカウンターの上に置いた。濃厚なアルコールの臭いが立ち上る。グラスを、ゲズゥが横から手を伸ばして取った。
 
「でも……」
「でもは無しだ。あの人には随分世話になってるしな」
 温かい印象のハスキーボイスがミスリアの言葉を切る。
 カイルにはお世話になっていてもミスリア個人に対してはまだ初対面だから、厚意に値しない気もした。その旨を伝えようと思ったが、口を挟む機会を逃す。
 
「なんていうかな。神父さんが最初連れてきた時は爽やかな兄ちゃんだなぐらいの印象だったが。やれ魔物だ疫病だなんて騒ぎが出てきてさ」
 自分の飲み物をグラスに注ぎながら、ルセナンは口をも動かした。
「役所での対策会議が終わった途端にオレに『腑に落ちない時の顔をしていますね』って声かけてきたんだ。部屋の逆側からよく見てるな、って思ったぜ」
 
「どうしてそんな顔をしていたんですか?」
 ミスリアが訊くと、ルセナンは腕を組んで唸った。
「一口には説明しにくいんだが……」
「なら後に回せ」
 
 小気味いい音を立てて、ショットグラスが再び木製のバーカウンターの上に置かれた。今度は中身がカラだ。
 ゲズゥの無遠慮な発言に対してルセナンは驚きを見せた。一方、ミスリアはそこではっとなった。ルセナンのペースに気を取られていた。
 
「ルセさん。そのカイルなんですが、今どこでどうしているのか存じませんか」
「教会にいるんじゃないのか?」
「いいえ、二日前から姿が見えません」
 ミスリアが事情を端的に話すと、ルセナンは考え込むような顔になった。
 
「そいつは怪しいな……。残念ながらオレにも心当たりは無い。最後に会ったのが先週、聖人さんが病人を癒しに来てた時だからな」
「そうですか……」
「地下貯蔵庫だったら案内できるぜ。今から行くか? 歩きながらお互い情報交換を続けよう」
 
「ではお願いします」
 ミスリアは深々と頭を下げた。カイルがわざわざ見取り図の複製を作るくらい重要な場所だ。何かわかる可能性はある。
 
 ルセナンは革製のベストを羽織り、奥にいるらしい妻に出かけると声をかけ、そうして一行は三人になって店を発った。
 
_______
 
 町の衛生面の管理はオレの仕事の管轄内だからな、と道行きながら役人が言った。どうやら疫病騒ぎは収束へ向かっているらしい。
 役人が聖女ミスリアと会話しているのを、ゲズゥは三歩ほど後ろから観察していた。単に会話に参加するのが面倒だからである。しかし内容は聞いておきたい。
 
「神父アーヴォスさんが上と掛け合うなり聖人さんに治癒を頼んだりしてさ、何だかんだで死人は最初の四人だけだった。罹った人間の数は現時点で二十八人に上っているが」
「発生源は突き止められたのですか?」
 
「いや、まだだ。適切な処方薬が手に入ったため今はそれを病人に届けることが優先されている。けどおかげさまで民は大分安心できた。もうしばらくは、皆必要以上に出歩かないだろうがな」
 教会は別として、と役人が小さく付け加えた。
 どうやらラサヴァの町民は、ことこの件に関しては神父に相当感謝していることもあるからだという。
 
「治療薬があると頼もしいですね」
「それよ」
 役人は人差し指を大げさに振った。
「オレは数年この職に就いてるが、疫病でこんなに早く解決策にたどり着くなんて稀なんだよ。まずは症状をまとめて伝染を食い止め、できれば発生源と病原体の正体を把握して、正しい処方をする。これらはなるべく同時進行だ。たとえ運良く他の段階が早く進んでも、処方薬を必要な分だけ揃えるのは結構大変なんだ」
 
「なるほど、そういうものなんですか」
「ああ。だからあの会議で、既に国府と連絡をつけて薬を充分に取り寄せているって話になった時、腑に落ちなかったんだよ。なのに次の日には本当に騎士団が荷馬車を引いて来るんだもんな」
「荷馬車を引いた騎士に、シューリマ・セェレテ卿はいましたか?」
 途端に声を小さくして、ミスリアが質問した。対する役人は意外そうな表情を浮かべる。
 
「いたぜ。よく知ってるな」
「なんとなく、です……」
「そうか……? まあとにかく、オレは聖人さんと話してる内に、この騒ぎが仕組まれたって結論に至ったわけだ」
 役人も小声になった。ゲズゥは距離を三歩から二歩に縮めて聞き耳を立てている。
 
「犯人やら動機まではオレにはまったく見当付かないが、どうやら聖人さんは心当たりがあったようだな。独自に追うつもりで地下貯蔵庫を調べてたんだと思う。オレは処方薬の方に手を回してたんだがひと段落ついて、あとは病院だけで手が足りるって言い渡されたから休みをもらった。いや、上司に無理やり休めって半ば強制的にな」
「お疲れ様です」
 
「本音を言えば、オレも一緒になって色々嗅ぎ回ってるってバレたから、現場から遠ざけられたんじゃないかとも思う。誰の計らいだか」
 小声で漏らして、役人は苦笑した。
 
 話を聞く限りではかなりありうる話だというのが、ゲズゥの感想だった。
 

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14:42:03 | 小説 | コメント(0) | page top↑
11.f.
2012 / 04 / 14 ( Sat )
「ありがとうございます」
 ミスリアはメモを受け取って役所をあとにした。
 
 外で待っていたゲズゥに簡潔に流れを話し、二人はまた歩き出す。
 三つ角を曲がったすぐそこに湖に面した小さな料理屋があった。
 
「ごめんください」
 店に入ると、眩しさにまず目を細めた。オープンテラスが、高く昇りつつある陽を迎え入れている。まだ少し早いが、昼食の時間に近いといえば近い。
 
 屋内に四角いテーブルが四つ、テラスに三つ、カウンターにスツール六席といった規模の店だった。椅子が全部テーブルの上に置かれている。
 
「悪いな、今日は閉業だ。こっちは掃除とか在庫チェックのために来ただけでな」
 カウンターの後ろから男性が姿を現した。
 
 焦げ茶色の髪を首の後ろで一まとめに結び、口や顎の周りに髭を生やしているため傍目ではもっと年上に見えるが、顔立ちからだと三十路半ばに見える。力仕事に適していそうな体つきで、長い袖を捲り上げている。
 
「いいえ、私たちはお客様ではなく――」
 ミスリアはカウンターに近付いた。
「ん?」
 何かに気付いたように、男性が眉根を寄せた。ドンと音を立てて右腕をカウンターに乗せ、身を乗り出して、ミスリアの顔をじっくり覗き込む。
 
「あ、あの……?」
 気圧されて、ミスリアは仰け反った。男性の灰色の瞳が近い。
 
「……栗色のウェーブ髪で清楚な身なりの少女。かわいいが際立った美少女というほどでもなく、どこにでもいる村娘のような平凡な風貌でありながら内から滲み出る品の良さ、大きな茶色の瞳と白いもっちり肌が特徴。そしておそらく背の高い黒髪の男を連れている……てことはあんたが、聖女ミスリア・ノイラートだな?」
 
「……はい、ミスリア・ノイラートは私です」
 反応に困り、ひとまず笑うことにした。
「おー、やっぱり! 聖人さんに聞いたとおりだな。オレはルセナン、ルセでいい。よろしく、ミスリア嬢ちゃん」
 
 ルセナンは、にかっ、と歯が見えるような人の好い笑顔を見せた。次いで手を差し出し、握手を求めた。ミスリアは素直に握手を返した。分厚い手だったが指は長く、文官でも武官でもやっていけそうだなと思った。
 
「お会いできて嬉しいです、ルセさん」
 正直な気持ちだった。名前からしてまさしく探していた人物である。
「その台詞はそのまま返すぜ。まぁ、座りなよ。そっちの兄ちゃんも、何か飲むかい? 最近は流行病のせいで食べ物が信用できなくてな、仕方なくしばらく閉業してるんだが。酒は水より安心できるだろ?」
 
 そういうものだろうか、と不思議に思いながらも、ミスリアはスツールに腰を下ろした。飲み物に関しては断った。
 
「ウィスキー、ショット」
 それだけ言って、ゲズゥがカウンターに歩み寄ってきた。座らず、近くの柱に背をあずけている。おうよー、と軽く返事をしてルセナンが要望に応じる。
 
(昼間から飲むの……!?)
 ミスリアは激しく疑問に思い、しかし異議を唱えていいものか迷った。目だけで訊ねる。ゲズゥは包帯に隠されていない右目を合わせてきたが、何事でもないかのように視線を外した。
 
(何だか雰囲気的に酒豪っぽいもの、大丈夫……よね……)
 
 きっと飲んでも飲まれないタイプの人間なのだろうと、無理やり納得しておいた。行動や判断力や体調に変化さえ現れなければ、大丈夫。更に言えば、ルセナンがグラスにウィスキーを豪快に注いでいるので、ミョレンの法では昼間からの飲酒は禁止されていないのだろう。
 成人式を経たためミスリアも法では飲めるが、聖女としての戒律では儀式目的以外の酒の類は飲めない決まりである。

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06:04:14 | 小説 | コメント(0) | page top↑
11.e.
2012 / 04 / 12 ( Thu )
 とある可能性が脳裏を過ぎった。ミスリアは最初の時系列に戻り、じっくり目を通した。名前と住所の連なりは、病状が確認された日付順に並べられている。三日前の時点で罹った人数は十五人であり、その中で死に至ったのは最初の四人だけである。
 
 更に紙をめくれば、罹った個人の数日間の行動を記した――入った店や行った場所、食べた物や関わった人物など――細かい調査書がどっさりとある。調書の中には多くの情報が解りやすく含まれていた。本当に、誰かに見つけてもらう為に書かれたかのように。
 これらによれば、病が食を通して伝染していることは既に判明しているらしい。あとは発生源を突き止めるだけだったのだろう。ここまでは解る。
 
 一番最後の紙には見取り図のようなものが描かれていた。図のタイトルからして、それがラサヴァの町の地下貯蔵庫であることがわかる。
 紙の隅っこに、黒い色を見つけた。裏側のインクが透けた跡のようだった。紙を裏返すと、小さく一文が書かれていた。ミスリアはその言葉を読み上げた。
 
「――『これは人為的に広められた病である』――」
 
 冷たいものが背筋を撫でたような感覚がした。
 カイルが導き出したこの結論が本当だとしたら、四人以上の人間が死に、十五人以上の人間が病気に苦しんだのが誰かの手によるものだったということになる。
 そして真実をカイルが調べまわっていると、黒幕なる人物にばれたのなら……?
 
「急いだ方がいい」
 背後からゲズゥが淡々と意見を述べた。
「はい。すぐに向かいましょう」
 或いはゲズゥにとってはラサヴァの行く末も、カイルの命さえも、どうでもいいことなのかもしれない。けれども今協力してくれる気になっているのなら、それを最大限に生かすべきだと思う。
 
「まずはカイルの調査に手を貸した人物と会ってみます。その後は地下貯蔵庫へ」
 ミスリアの提案に、ゲズゥは頷いた。
 
_______
 
 町並みをじっくり観察したい欲求を抑制しながら、ミスリアは足早に町の役所へ向かった。その後ろを、少し離れてゲズゥが歩く。彼の容姿や背負っている大剣が目立つのはどうしようもないとして、呪いの眼は包帯で隠している。ミスリアも聖女の衣装ではなく地味なワンピースを着て、髪は右寄りに緩く束ねている。
 
 といっても昼間でありながら誰も外を出歩いていないのでさほど気にすることも無かった。
 
「とりあえずはカイルを探すことを優先しますね。疫病に関してはそうした方が進展しやすいでしょう」
 小声でゲズゥにそう伝えた。
 
 道の交差する地点には必ず看板があるので、すんなり役所へたどり着くことが出来、幸い他の人間と鉢会わずに済んだ。
 赤茶色に塗られた三階建ての建物の中に役所はあった。
 受付にて、ミスリアはとある役人に会いたいと告げた。それはカイルの調書から見つけた名だ。
 
「彼は今日は休みですが」
 受付の机に向かう中年男性が好奇の色を目にちらつかせて応じた。
「ではよろしかったら連絡先か何か教えていただけませんか?」
 にっこり笑って、ミスリアは男性にそう頼んだ。
 
(あまりしつこいと不自然かしら……でも他の役人さんが味方とも限らないし)
 
「そうですね、この時間なら副業の方にいるかと」
 受付の男性は眼鏡をかけると、メモに街中の料理店の名を書き記した。

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14:25:42 | 小説 | コメント(0) | page top↑
11.d.
2012 / 04 / 06 ( Fri )
 さっそく教会の中へ戻っても、手がかりを探すべき場所がすぐには思い当たらなかった。
 もともと居住空間が少なく、私物が置かれるようなスペースは寝室のみにある。探っても、これといって変わりはなかった。
 
 そもそも、何を探せばいいのかすらイメージが掴めない。書置き? 何かの地図? 手がかりがあるという仮定からして外れているかもしれない。
 廊下をうろつきながらミスリアは思考を巡らせた。
 
 どんな些細なことでもいい。違和感を感じたような場面が、何か無かったか。わかっているのは、ラサヴァで病が流行りだしたこと以外に、魔物が頻出していること。それ以上の詳細は聞かされていない。
 
(……それよりも、カイル自身の言葉に何か変なところは無かったかしら)
 彼は出かけた朝、普通に朝食を摂って身なりを整えてから教会を後にした。急いでいた様子もなく、普段通りに落ち着いている風だった。
 その前の日は、典礼があった紫期日。一日のほとんどの間ずっと会っていて、色んな話をした。たとえばゲズゥの罪過や、最初の巡礼地について。
 
(あれ?)
 唐突に足を止めて、書斎の方を意識した。
「本のことで何か言っていたような……」
 ひとりごちて、ミスリアが書斎に入る。
 すぐに、古い本特有の匂いが鼻についた。
 
 カーテンに覆われた窓から暖かい日差しが漏れている。本棚にびっしりと詰められた人類が蓄積した知識の一端を、ミスリアは一歩下がって両目に収めた。
 窓の下に位置する机の、右隣の本棚の一番下の段に、「現代思想」を見つけた。カイルが強く勧めたシリーズである。
 
 確かに、最終巻らしい本があった。ほかの巻と比べて一回り分厚い。ミスリアはしゃがんで、それを手に取った。適当にパラパラとページを捲る。これには新しい本特有の匂いがある。
 ふとまた本棚を見やったら、隣の巻に書かれた「4」が目に入った。
 妙である。ミスリアは手に持っている本を裏返し、背の「6」の数字を認めた。ならば、隣の本は五巻であるべきだ。なのに何度見ても本棚には一から四巻までしかない。
 
『教会の書斎に全六巻揃ってるから暇を見つけて目を通してみるといいよ』
 
 彼はそう言った。ならば足りない一冊に何か意味がありそうだ。
 ミスリアは部屋の入り口を見上げた。例によって静かに出現していたゲズゥに、驚かないふりをした。
 
「五巻を探すのを手伝ってください。これと同じフォレストグリーン色のカバーです」
 立ち上がり、本を指しながら頼んだ。字が読めないというゲズゥでも、数字ぐらいはわかるだろう。彼は無言で応じた。
 
(目線の高い人ってこういう時すごく助かるわ……)
 彼が本棚の上まで見回っている様を眺めて、しみじみとそんなことを思った。
 十分余り、二人は書斎の中をくまなく探した。書斎に本が無いとなると、他にどこにあるというのか。
 
(読みかけて手元に置いたとか?)
 寝室と台所と聖堂はさっき余すところなく見てきたばかりで、どこにも「現代思想」の五巻の姿は無かった。
 
「あ!」
 思い出して、ミスリアは大きく声を上げた。その音に、ゲズゥが怪訝そうに振り返る。
「そういえばカイルは、寝る前に読書をする習慣があったんですよ。消灯時間になると読みかけの本をナイトテーブルの引き出しに入れていたんです。大体そこは祈祷書を収める場所なんですが」
 
 ミスリアたちがこの教会で寝泊りし始めてからは、そんな場面を見ていないのでもうしていないかもしれない。教団に居た頃は、早く就寝したがった同室の他の修道士たちに迷惑がられていたと、本人から聞いたことがある。
 
 寝室には、三台の二段ベッドにそれぞれ挟まれて二台のナイトテーブルがあった。ミスリアは引き出しの中から目当ての本を取り出した。
 紙束がはみ出ている。 
 
 四つ折に折られていた紙束を開くと、一番上にあった紙に見覚えがあるような気がした。
 これは、典礼の朝にカイルが隠したものと似ている。一行の長さや空白が箇条書きのように空いているのが一緒だ。ざっと目を通すと、時系列みたいな、何かの記録のようだった。
 
「何だ?」
 ミスリアの肩越しに見ていたゲズゥが、短く訊ねた。
「……よくわかりません」
 
 次の一枚を見ると、表だった。日付、場所、人の名前、などの項目がある。「食べた物」と「症状」という項目に目が行った。

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07:14:56 | 小説 | コメント(0) | page top↑
11.c.
2012 / 04 / 04 ( Wed )
(あの人……!)
 見覚えがある上に、カイルが「気をつけたほうがいい」と警告したばかりである。
 
「しかし今はラサヴァの件が先です。彼らに構っている余裕はありません」
 神父アーヴォスが低く言うと、女騎士シューリマ・セェレテは高笑いをした。何故か耳障りな音だった。
「貴様に言われるまでもない。もう夜だ、行くぞ」
 それに対する神父アーヴォスの返事は、木の葉のさざめきによってかき消された。
 
 二人は大股で歩み去っていった。その後姿が見えなくなった頃にようやく、口元が解放された。
 背中に当たる硬い胸板も大変気になるけど、今離れようなどと暴れたら確実に落下する。すぐ後ろの彼と違って、ミスリアにこの高さから落ちて無傷で着地するほどの運動能力は備わっていない。
 
(ラサヴァって確か、湖を囲った町の名前……)
 疫病が流行り出したと懸念されている町。それの改善のために神父アーヴォスたちが向かっているのだろうか?
 どうしても、しっくり来ない。たった今交わされた会話からは、もっと邪(よこしま)な気を感じたからである。
 
 ため息をついた次の瞬間、視界がまた流れた。悲鳴を上げる暇もない。
 ゲズゥはミスリアを抱えて難なく地に足を着けた。
 
「やめておけ」
 彼はミスリアを地に下ろした。
「何をですか?」 
 息を整えてから、ミスリアは訊き返した。
 
「心身が限界の時に思考は働かない。今やるべきは、食って寝ることだけだ」
 ゲズゥはズボンについた葉っぱなどを払い、踵を返した。
「……その通りですね」
 はっきりとそう言われれば、合意せざるを得ない。
 
 心身の疲れを言うならむしろゲズゥの方が今日はヒドイ目に遭っている。当然、顔に出さないだけで、内心がどう乱れているのかは他人にはわからない。
 それでも相変わらず理詰めの言葉には、どこまでも合理的な性格が表れている。こんな人間が居ることにいっそ感心する。自分も、しっかりしなければ。
 
「お夕飯は何か食べたいものありますか?」
 二人は教会に入る。
「リス」
「そ、そんな食材無かったと思います」
「狩ってくる」
 
「また今度そうしてください。今日は別の何かにしましょう……」
 ミスリアは逃亡していた道中をも思い返し、食物のほとんどを自ら育てるのが主流である昨今で、もしかしたら彼は狩りに慣れた側の人間なのかもしれないと思った。
 
_______
 
 二日過ぎても、カイルが帰って来なかった。
 神父アーヴォスは別として、買出しに行っただけのはずのカイルがこうも音沙汰ないのは異常である。
 気を紛らわせようとして、ミスリアは朝早くに庭の花に水を撒いていた。
 
(胸騒ぎがする。ラサヴァで一体、何が起きているというの?)
 関与しないほうがいいとわかっていながらも、友人の身が危険にさらされているなら、放ってはおけない。お世話になりっぱなしで、恩の一つも返せていない。
 
 カラン。
 鉄ジョウロがレンガの上に落ちた。知らず震えていた手から、滑ったらしい。
 拾おうとしてかがんだら、背後に佇むゲズゥの姿を見つけた。この頃よく身に着けている水色のシャツと灰色のズボンという質素な格好で、壁に寄りかかっている。櫛もまだ通されていないであろう黒髪には、寝癖らしきあともある。
 
 ミスリアはジョウロを手にして立ち上がった。ゲズゥの視線を感じたので、目を合わせた。
 
「どうすればいいんでしょうか? 隣町に行くべきですか? 忘れて先へ進むべきですか?」
 答えを求めてではなく、気持ちを整理するために彼女は問いを口にした。
 ゲズゥは二度、瞬いた。黒い右目と、白地に金色の斑点のついた左目が、じっと見つめ返してくる。
 
「――お前が決めろ。それに従う」
 返ってきたのは問いの解答ではなく、気持ちの整理を更に促す言葉だった。
 俯き、唇を強く引き結んで、ミスリアは再び顔を上げた。
 
「カイルを探しに行きます」
 それが答えだった。ゲズゥは腕を組み、頷いた。
 
「策は」
「え? あ、ありませんけど……」
「あの聖人なら、先回りして手がかりを残すくらいしたんじゃないか」
「先回り……自分の身に危険が及ぶと予測して、ですか?」
 彼ならありえそうな話ではある。

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00:49:11 | 小説 | コメント(0) | page top↑
11.b.
2012 / 04 / 01 ( Sun )
「結局その剣は、どうしてあんなところにあったんでしょう?」
 林を通り抜けての教会への帰り道、ミスリア・ノイラートは先を歩く背の高い青年に問いかけた。来た時と同じようにして、彼は父親の形見だという曲がった形の大剣を背負っている。
 
「……元々一度は隠してあったんだろう」
 ゲズゥは振り返ることなく淡々と答えた。
 歩きながら、彼は自分の知っていることと推測を話し出した。ミスリアと並んで合わせるまではしなくとも、置いていかないように歩を緩めてくれる。
 
 要約すると――まず、襲撃してきた人間は、村全体が呪われていると思い込んだのか、焼いて無くそうとした。価値のありそうな物も燃やし、残りは押収してどこかに処分した。
 あの剣が残っていたということは、誰かが持っていかれないように隠したということになる。後に死人が魔物として蘇り、何を思ったのかそれを隠し場所から持ち出して柳の下に埋めたのだろう。
 
 襲撃してきたのが誰なのかまでは、知っている風でありながらゲズゥは話さなかった。いつかは話してくださいとお願いしたら、気が向いたら、と返事があった。
 
「お母様は、どんなお方だったんですか?」
 ふと訊ねてみた。
「……」
 立ち止まり、思い出すように、ゲズゥは遠くを見つめる。
 
「……人や行事を仕切るのが得意で、協調性の無い俺はいつも怒られていた」
「しっかりした方でしたのね」
 回想に見た彼女のイメージと一致している。
 
「一族に生まれたことを誇りに思え、負い目を感じるな、と。決して他人に軽んじられるな、とも教えられた」
 再び前を向いて、ゲズゥは付け加えた。
 
 ――屈してはだめ。降ってはだめ。貴方の主は、貴方だけなのだから。自分の生きる道は自分で決めなさい。
 
 母親との少ない思い出の中、そんな言葉をかけてもらったことがあったらしい。
 
(カッコいいお母様だわ……)
 自分の母が穏やかな気質であるためか、新鮮に思えた。
 
「あの、『呪いの眼』の呪いって本当は何なんですか?」
 ついでに、前々から気になっていた疑問を試しにきいてみることにした。
 それから一分ほどの間があり、草を踏みしめる音だけが妙に大きく聴こえた。
 
「………………言いたくない」
 無機質な声だった。
 はい、とだけ呟いて、それきり、ミスリアは何も言わなかった。
 
_______
 
 教会へと続く土手道が見えてきた頃、空が暗くなっていた。ここまで来れば後は教会の結界の中に入るだけなので、魔物に遭遇する心配は無い。
 
 一階建ての建物には白に統一された外装と、紺色の屋根。尖塔の天辺に、教団の象徴である形が象られている。
 教会の玄関の前に人影が二つあった。片方を認識して、ミスリアは手を振ろうとした。
 
「神父さ――むぐっ!?」
 いきなり口を覆われ、腰をさらわれた。
 視界がめまぐるしく移り変わり、気がつけば二つの人影を見下ろせるような場所に移動している。ギリギリ、彼らの会話を拾えそうな距離だった。目線と同じ高さに屋根がある。
 
(教会の後ろ横……樹の上?)
 背中に押し当たる熱、腰に回った腕と、口を覆う手を照らし合わせれば、どう考えてもゲズゥの仕業である。どうやってミスリアを抱えて樹の上に跳び登れたのかまでは、考えても仕方ないだろう。
 
「よく見ろ」
 彼は耳打ちでそう言った。
 変に意識しないように、この状況のことを何とか頭の奥に追いやり、ミスリアは言われた通りにした。気持ちを落ち着けて目を凝らし、耳を澄ませた。
 
「――か、聴こえたような……」
 濁った声は、どちらかといえば多分女性のものだった。角度が悪くてここからでは見えにくい。
「動物か何かでしょう」
 こちらは神父アーヴォス。首だけを後ろに捻って、辺りを見回している。
 
「ならいいが。よもや『天下の大罪人』が潜んでいるなんてことはあるまいな」
「さて……彼らは午後からどこかへ出かけたようですが。忌み地の封印に異変を感じましたので、そちらに行っているのでしょう」
 
「くくっ、潜んでいても構わんぞ。捕らえて、殿下の前に投げ出してやるだけだ。私はあんなゴミクズなど怖くない」
「それもいいですね、セェレテ卿」
 神父アーヴォスが一歩下がり、身体の向きを変えたので、こちらからは話し相手の姿が見えるようになった。
 
 黒い鎧を身に纏い、金髪を三つ編みにまとめた若い女だった。

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11.a.
2012 / 03 / 29 ( Thu )
 ナイトテーブルの時計を見上げたら意外に遅い時刻であることを知った。読みかけの本にしおりを挟み、分厚いその本をベッドスタンドの引き出しの中へとしまう。蝋燭の火を吹き消し、少年が毛布の中へ潜り込んだ、ちょうどその時。
 
 寝室の戸がノックされた。
 どうぞ、と返事を返す前に、戸がキィっと音を立てて開けられた。この家の中でそんな真似をする人物は限られている。
 
「お兄ちゃん、起きてる?」
 戸の後ろから十歳の少女が姿を現した。
「今寝るとこだったよ。どうしたの、リィラ」
 部屋の窓は大きな縦長の長方形であり、満月の夜だからか部屋の中は明るい。月光に照らされ、自分にどことなく似た妹の顔がよく見える。琥珀色の双眸が潤んでいた。
 
「あのね、そっち行ってもいい?」
 大きな枕と兎のぬいぐるみを両腕に抱き、リィラはしおらしい様子で訊ねる。何を言わんとしているのか、兄にはすぐにわかった。
「いいけど、もしかしてまた一緒に寝ようって言うの」
 呆れつつも、彼は優しい声で請け負った。
 
「だって」
 妹は頭を何度か横に振った。おかっぱ頭に切り揃えられた蜂蜜色の髪が、サラサラと揺れる。
「パパとママもいなくて、怖いの」
 
 まだ誰かに甘えていなければならない年頃の少女は、不安そうに抗議した。それに対して、少年は手を差し伸べた。おいで、と小さく声をかける。
 妹は小走りで駆け寄ってきた。桃色の子供用ナイトガウンがふわふわ翻る。
 
「大丈夫だよ。僕がいるし、父上も母上もお仕事が忙しいから、あんまり帰って来れないけど。僕らのこといつも心配してくれているよ」
 毛布の中に潜り込んだ妹をそっと抱き寄せ、安心させるように彼は言った。
 
「ほんと?」
「ほんと。リィラの一番怖いモノと戦う、大事なお仕事だからね」
「うん。そうだね。ありがと、お兄ちゃん」
 リィラは、自分と兄との間に挟まれていた兎のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
 
(まったく甘えん坊だな……もうすぐ僕は教団に入るってのに、こんなんで大丈夫かな……)
 そうなれば母は今よりももっと家に居てくれる予定なので、まぁ大丈夫だろう、と少年は自分で自分に言い聞かせた。
 
「ねぇお兄ちゃん、いつか魔物のいない世界になるかなぁ」
「……魔物の居ない世界ね……今はわからないけど、きっといつかはね」
 それを手に入れるのがどれほど大変なことなのか、まだ修道士になってもいない少年には把握できない。根拠の無い話だとしても、リィラのためなら気休めを言っても構わなかった。
 
 その後、妹はものの数秒で眠りについた。
 
_______
 
 あれから幾月も過ぎた頃。
 ヴィールヴ=ハイス教団付属の修道院の一角の回廊にて、同期の修道士見習いたちと談笑していた時に、少年はその報を聞いた。それは、嫌味なくらいに晴れ渡った日のことだった。
 
「大変だ! とにかく大変なんだよ!」
 別の同期生が、青ざめながらバタバタとけたたましく近づいてくる。他の誰でもなく少年の前で足を止め、膝に手をついて息を整えている。
 何事かと思って少年は言葉を待った。が、同期の口が語ったのは少年の想像を絶する恐ろしい訃報だった。
 
「君のお母さんと妹さんが、先日魔物に――」
 
 殺された。
 
 あまりに残酷な単語の組み合わせを耳にして、当時の少年は全身を固まらせ長い間身動き一つ取らなかったと、大分後になってから誰かから伝え聞くことになる。
 
_______
 
 ――ぴちょん。
 まるきりの暗闇の中で目を覚ました。懐かしい夢を見たのが、斬新に残っている。
 
 ――ぴちょん。ぴちょん。
 何処かから水音がする。同時に、夢の余韻が消えうせる。頭や感覚が段々はっきりしてきた。
 さるぐつわを口に押し込まれ、両手両足首を拘束され、青年は椅子に座した姿勢のまま縛りつけられている。いつからこうなのかはわからないが、とにかく全身が軋みをあげているので決して短い間ではないだろう。他にも何かされているとしても、暗くて見えないのでわからない。
 
 此処が何処であるかはまだ判然としない。
 青年はそういった現実的な思考よりも、夢の中で視た記憶を思い起こすことを選んだ。もう一度夢の世界に降り立とうと試しに目を閉じたが、急な痛みによって意識が冴えた。どうやら、至る所を殴られたり蹴られたりしていたようである。
 
(リィラ……君の望んだ魔物の居ない世界は……まだ……)
 痛みに耐えながら、彼は記憶の中の亡き妹に呼びかけた。

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14:06:21 | 小説 | コメント(0) | page top↑
10.j.
2012 / 03 / 27 ( Tue )
 核の魔物につられてか、他の魍魎も一斉に浄化した。銀色の粒が周囲に満ち、黒い柳の樹がそれらに照らされる。摩訶不思議だった。
 全身から力が抜けて、ミスリアは濡れた地面にへたり込んだ。長いため息をつく。
 少し離れた場所で、ゲズゥは直立不動で、空を見上げている。
 
 ミスリアも空を見上げた。すると灰色の雲がぐにゃりと歪み、渦巻いた――ように見えた。渦は一点に集結し、その一点がミスリアの足元にポトッと落ちる。拾い上げた。
 それは、手のひらにちょうど収まる大きさの透き通った石だった。心地良い重さと冷たさが手のひらから伝わる。ミスリアにとっては覚えのある物だ。
 
「この青水晶を使って封印していたのですね……。核の魔物がいなくなれば、自動的に解けるような仕掛けにして」
 ミスリアが呟くと、ゲズゥは振り返った。決して急がない足取りで、彼は近づいてくる。
「こんな高等な術を扱える人間は、教団の中でも限られています」
 ゲズゥは何も言わずにただ水晶に視線を注いだ。やがて飽きたように視線を外し、褪せた野原に仰向けになって寝転がった。
 
「つかれた」
 彼は短く吐き出した。きっとその一言に、多くの感想が凝縮されている。色々なことに対しての「疲れた」であろう。
「はい。お疲れ様です」
 ミスリアは水晶を懐へと大切にしまった。それが終わるとゲズゥの方へ這って近寄る。
 
 怪我をしていない方の自分の右手をかざして、ミスリアは聖気を展開した。全部の傷を治すほどの気力は残っていないが、治さないと絶対に悪化しそうな箇所をせめて集中的に治癒したい。
 ゲズゥは空を眺めるだけで大人しくしている。治癒が終わるまでの数分の間、二人は言葉を交わさなかった。
 
(この人は……)
 彼のふくらはぎの傷を治しながら、ミスリアは物思いに耽る。
(恐ろしい罪をたくさん重ねてきたけど……でも私には一つだけ、わかったことがある)
 チラッと、一瞬だけ彼の顔を盗み見た。涙の乾いた跡が薄っすらある。
 
(ゲズゥ・スディルこと「天下の大罪人」には、人の心が、紛れもなく有るわ)
 たとえその心が他人に向けられない種のものだとしても、少なくとも家族に対して、親愛の情を抱いている。それを発見できただけでも、どうしてか、ミスリアは安心できた。
 
 治癒を終えて、聖気を閉じた。その時を待っていたかのように、ゲズゥが起き上がる。ミスリアの真正面で胡坐をかいた。
 彼はミスリアの左腕をじっと見ている。先ほど噛まれたので、牙の痕から血が出ていた。皮膚も酸に焼かれて赤い。
 痛みは麻痺してきたので気にならないけれど、失血で頭がくらくらする。
 
「お前は治さないのか」
「それが、実は自分で自分を治せないんです。後でカイルに頼みます」
 腕を裏返したりして傷口をよく見てみたら、予想以上にグロテスクで、顔をしかめる。変な臭いもする。応急処置ぐらいするべきだと思った。
 
 指の腹に、ふいに温もりが触れた。吃驚して、反応が遅れる。
 ゲズゥはミスリアの手を握り、引き寄せては、前腕辺りを凝視した。勿論、その間も無表情でいる。
 
「放っておけば化膿する」
「は、はい、わかっています」
 ミスリアがそう返事をすると、ゲズゥはポケットから包帯を取り出した。剣に巻いていた包帯だ。手際よく、彼はミスリアの腕の手当てをし始めた。
 
「お上手ですね」
「慣れているだけだ」
 自分の傷の手当てで慣れているのだろうか。そういえば最初に会った時、傷跡だらけだったのを覚えている。
 
 包帯の感触が、なんだかくすぐったい。ミスリアはなんとなく気恥ずかしくなり、空の方へ視線を投げた。
 雲間からのぞく六色の弧に、思わず感嘆した。
 
「綺麗な虹です」
 ゲズゥにも見てもらいたくて、そう口にした。彼は顔を上げた。
 
 雨上がりの空から雲が次第に身を引き、それによって出来た隙間から見事な虹が伸びる。太陽が地平に潜りそうで潜らない、そんな時刻だからか、空は若干赤みがかっている。空はいつ見ても美しく、飽きないものなのだと改めて得心した。
 衝動的に、ミスリアは語りだした。
 
「……朝、最初に外に出た時に、冷えた空気を一息吸い込むでしょう? その瞬間、肺を通して体中に、たとえようのない感覚が広がるんです」
 ゲズゥは左右非対称の目を静かにミスリアに向けた。こう近距離で見つめられると何故だか緊張する。ミスリアは早口にならないように注意した。
 
「命を吹き込まれたような……とても言いようのない大切な何かを与えられたような……」
 巧い言葉が思いつかなくて、口ごもった。
「どうしてでしょう」
 独り言のように話し続ける。ゲズゥはというと包帯を巻き終わって、端と端を結んでいる。
 
「何だか、生きてて良かったって思うんです。この世界を経験できて、良かったって。自分を取り巻く何もかもに、ただただ感謝したくなるんです――」
 風が音を立てて吹き抜けたので、最後の方は多分かき消された。後に残った沈黙に、はっとなって、ミスリアは頬を赤らめた。
 おかしなことを言ってしまったと後悔する。咄嗟に俯いた。
 
「だからこそ、生きているっていうのは、それだけで手放しがたいんだろう」
 低い声で彼は意外な言葉を返してきた。あたかもミスリアの言い分に共感を持ったようである。
 どんな生き物だって、生きていれば死にたくないと願うのは当然だと、そう言っている風に聞こえた。
 
 ミスリアは相槌を打とうとして、結局黙り込んだ。
 食事をし、己が生き延びる選択をする限り、別の何かが犠牲になっているということで、それでも皆生きたいと切望するのは間違っていないのだ。ならば相克の末に残るものが、正しいのか。よくわからない。
 
 摂理は単純なものではなく、また別の機会に熟考したい問題だった。
 
 ふとミスリアは、手当てが終わったのに手がまだ掴まれたままだと気付いた。
 ゲズゥの無骨な手は温かくて力強くて、包まれている自分の指先からふわふわとした落ち着かなさが全身を伝う。
 
(そろそろ放して下さいって言ったら変かな……どうなの……?)
 
「なるほど、生身だな」
「はい??」
 何を言われたのかわからなくて、ミスリアは返答に困った。
_______
 
 人間かどうか疑うこともあれど、少女はたった今、普通の一般人と同じに怪我をして血を流したのである。
 ゲズゥは触れた手からその事実を確かめ、また、聖女の質量や熱をも確かめていた。自分が強く握るだけで、小さな白い手の中の骨は残らず潰れるだろう。少女の見た目通りの脆さを感じ取れる。
 
 それにしても、まったくどうでもいいことだが、滑らかな肌だと思った。自分のが厚くて硬くてザラついているから、余計にそう感じる。
 
「――――好きか嫌いかと問われれば、どちらかというと俺はお前が嫌いだが」
 ゲズゥはそのように発話した。
「うっ……それは、なんか、今まですみません……?」
 切り出し方からして決別を言い渡されると思ったのか、聖女は暗い声と表情で応じた。目を伏せ、長い栗色の睫毛を瞬かせる。
 
 別にこちらとしてはそんな予定は無かった。
 あまり深く考えずに、聖女の手を握り締めた。聖女は茶色の瞳を一層大きく見開いた。
 
「聖女、………………ミスリア。お前が母の魂を解放した恩を、今後忘れたりしない」
 その名を呼ぶのが初めてだったからか、音の羅列は舌に馴染まず、妙な感じがした。
 
 聖女ミスリアはまずきょとんとした。
 ゲズゥの言葉の意味を飲み込むまでの間が過ぎると、今度は会釈した。弾みで栗色のポニーテールが揺れる。
 
「どういたしまして」
 ミスリアはふわっと柔らかく微笑んだ。
 強く、手を握り返しながら。

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09:00:49 | 小説 | コメント(0) | page top↑
10.i.
2012 / 03 / 26 ( Mon )
 蜘蛛の魔物は腕一本を使って聖女の白くて小さい手を引き剥がそうとするが、よほど強く抱きついているのか、聖女の手はびくともしない。
 
「――彼こそ、貴女がずっと探していた人です! 帰ってきたんですよ! もう待たなくていいんです……!」
 聖女が泣き叫んだ。無駄なあがきに思えたが、あろうことか、魔物はまるで聞き入るように直立した。おかげで組み伏せられていたゲズゥは少しだけ息がしやすくなる。
 
「昨日は、懐かしいにおいがするって、そう言ったじゃないですか。思い出して下さい」
 ゆっくりと、そしてはっきりと聖女は言葉を紡いだ。魔物は首を回転させて、視線の先を聖女の顔に定めた。
「彼の左目を見て、仲間と呼んだのでしょう?」
 
 聖女にそう言われて、魔物は再び首の向きを変えた。首を不自然に伸ばし、ゲズゥに顔を近づける。気味悪く変形していた魔物の顔が元の美しく若い娘の顔に戻っている。
 魔物はこちらをまじまじと見つめてはにおいを嗅いだ。考え込むように眉根を寄せている。
 
「思い出しましたか?」
 魔物は返事をしたがっているかのように血に塗れた唇を動かした。
 が、声を出すことは無かった。
 
 唐突に、魔物が聖女の手首を引き寄せた。気を緩めてしまったのか、今度はあっさりと聖女の手が魔物の腰付近から離れた。
 少女の柔らかそうな肉付きの前腕に、異形のモノの牙が食い込む。
 
 聖女が悲鳴を上げた一瞬のうちに、ゲズゥは上体を起こしてすっと立ち上がり、腕を魔物の首に絡めた。片手を後頭部に当て、片手をうなじに当てる。第三者からすれば、愛しい者を抱き寄せる動作に見えたことだろう。手に触れた肌には何の熱も通っていなかった。
 
「……許せ」
 ゲズゥの静かな声に、魔物はぴくっと痙攣した。
「もっと早く戻っていれば気づいてやれた」
 魔物が顎の力を抜いて、聖女の手を解放する。
 
「弱かったから、二度と手に入らないものを求めたら、自分が壊れると思ったから、長い間逃げていた」
 奥に封じ込んでいた本心を吐露するのは、非常に疲れる。一言漏らす度に、ゲズゥは息を吸い込んだ。
 母の黒い両目が潤んだので、通じていることを知った。
 
「あの時一緒に居なくて、自分だけ運良く逃れて……罪悪感もある」
 ごめん、と小声で謝罪した。
 緑色の涙を流す母の瞳はいつしか正気を取り戻していた。

「待っててくれて――ありがとう」
 指でその涙を拭ってあげた時に初めて、自分の頬をも伝う温かさに気付いた。
 涙を流すなどあまりに久しくて、どういう感覚だったか忘れていた。
 
「もう十分だ。もう、楽になって、眠ればいい」
「ア……」
 魔物は何か言おうとして、急に呻いた。苦しげな表情になる。
「いけません! お母様の自我がまた埋もれます!」
 聖女が再度魔物の腹にきつく抱きついた。
 
 ゲズゥは一度目を閉じた。
 所詮は魔物は死人でしかないのに、何故話し合おうなどと聖女が考えるのか、今ならわかる気がした。
 せめて無に帰す前に何かしてやれたのだと、心だけでも救ってあげられたのだと、生きる側が感じたいからだ。そうしなければ、残された方がいたたまれない。
 
 死した者は地に還るべきであり、魔物という存在は異形でしかない。
 頭では、その事実を冷静に理解していた。後は、別れを受け入れるだけだった。
 目を開け、ゲズゥは魔物の首に両手を添え、力を込めた。
 
「――――やれ!」
 聖女に向けてたった一言を叫んだ。
 魔物が苦しそうにもがくが、ゲズゥは更に強くその首を絞めた。
 ゲズゥを見上げて聖女は頷き、聖気を展開した。
 
 音はしなかった。むしろ、静寂が広がったような感覚があった。周囲に漂っていた瘴気まで清まったようだった。
 魔物の青白いゆらめきと聖女の発する金色の光が交じり合う。
 
 象牙色の腕や脚、次に白髪が、順に銀色の粒子と化した。肌の表面中に浮かんでいた人面が安らかそうな表情に変わると、ひとつずつが鎮まり、消える。
 気付けば魔物は微笑みを浮かべていた。
 ゲズゥを真っ直ぐ見つめる黒曜石に似た瞳は、穏やかだった。
 
 ――大きく、なったのね――
 
 
 驚いて、手を放した。
 彼女は口を動かしていなかった。声は直接頭の中に響いているようだ。背後の聖女にも一度微笑みかけてから、ゲズゥを見上げた。
 
 ――逢えて嬉しいわ。生きててくれてありがとう。あんたはちゃんと長生きしなさいね――
 
 
 至福の喜びを見つけたみたいな顔をして、母は天へと消えていった。

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