11.h.
2012 / 04 / 17 ( Tue )
「ええ、確かに聖人デューセは数日前にいらしていますね」
虫眼鏡を用いて、貯蔵庫の管理人が記録を調べている。顔の皺や頭髪の薄さから思うに、初老ぐらいの、小さい男だ。
「彼が何をしに来ていたのか覚えてませんかね?」
その管理人の机に肩肘ついて、役人が訊いた。机越しに相対する二人の男の体型の違いが面白い。
「えーと……特定の食材の仕入れについて聞きたがっていましたよ。最後に入荷したのが何時だとか、どの業者からだったからかとか。目録を確認していたと思います」
「何の食材です?」
「さて、記憶に残っていませんな……」
「そこを何とか思い出して下さいよ」
役人と管理人のやり取りは尚も続いている。ふとゲズゥは傍らのミスリアを見下ろした。返ってきた茶色の眼差しが不安に翳っている。ゲズゥはなんとなく肩をすくめた。
ここはいわゆる倉庫、食物を保管する施設の中だった。この中の何処かの床に地下貯蔵庫へと続くたった一つの入り口があるはず。
右目だけを動かして、ゲズゥは周囲を見渡した。日持ちしやすい食品や粉末が棚に天井まで積み上げられている。さりげなく一歩下がって、隣の通路を確かめる。踏み台がある以外に注意に値する点は無い。更に下がって、次の通路を見やった。
一番奥の棚に梯子がかけてある。もっと手前へと視線を移した。
するとそこの床には開けっ放しの四角い戸があった。使われたばかりで閉め忘れられたのだろう。
倉庫の外には五人もの番人が警備をしていたというのに、皮肉にも、倉庫の中は管理人以外ほぼ無人状態だった。或いは普段はもっと従業員がいるのかもしれないが、そんなことより今日は誰も居ないというのが重要である。
管理人はまだ役人と話し込んでいる。こちらの動きにまで気を配っていない。
ゲズゥは元の位置に戻り、ミスリアに耳打ちした。
「戸が開いてる。行くなら今だ」
驚いたのか、ミスリアは一度肩を震わせた。迷っているような表情をしている。
「悠長に構えていていいのか」
「……いいえ。行きましょう」
すぐさま二人で戸へ向かった。地下へ続く古い階段を踏んだ時の音が気がかりだったが、気付かれた様子は無い。
長い下り階段の先にあるのは地に空いた穴。地上の新月の夜よりも、どこまでも濃い闇だった。
ついに階段が途切れ、土を踏みしめることになった。湿った臭いが絡みつく。ここまで来れば闇の中へ進むだけである。
「暗いですね」
背中辺りの裾が引っ張られるのを感じた。怖がる少女の声だ。
「そういうものだ」
躊躇なくゲズゥは一歩踏み出した。
倉庫から漏れる光を頼りに壁を求めて歩き、ポケットから火打石を取り出す。壁の燭台に火を灯した途端、視界が明るくなり、ミスリアが張っていた気を緩める気配を感じた。目を慣らすために数秒じっとしていたら、ガサガサと紙が取り出される音が背後から聴こえた。
「カイルの見取り図では左、奥の隅っこ辺りが丸で囲まれてます。何かあるのでしょう」
従って、件の位置を調べることになった。
が、いざ近づいて見ると、その隅の棚にはきれいさっぱり何もない。
ゲズゥはしゃがみ、指先を地面にそっと触れた。土の冷たさをなぞる。
「窪みがある。箱か器か何か置かれていたんじゃないのか」
「ここにもともとあった物がなくなっているってことですか?」
ミスリアは顎に手を当てている。
「では持ち去った人間が……?」
ブツブツと何かを声に出して考えているようだが、気に留めないで置く。
立ち上がった瞬間、ゲズゥの鼻がよく知った臭いを捉えた。
つい、顔をしかめる。
「どうしました?」
表情の変化に目ざとく気付いたミスリアが訊ねる。
「……血の臭い」
その返答に、ミスリアが息を呑んだ。
実際は血に混じって他にも汚臭がするが、そこまでは口に出さないことにした。
臭気を辿ったら、反対側の入り口から右奥の隅に行き着いた。棚にはみっちりと品物が詰め込まれている。地面の血のあとが目に入った。数滴といった具合だ。
ゲズゥは棚を両手で掴み、丸ごと前へ引き出して、横へどかせた。
「通路……」
ついてきたミスリアが呟いた。
棚の後ろから現れたのは狭い筒状の通路である。自分の場合は多少かがんでいないと歩きにくいほどに天井も低い。
「おそらく下水道へ繋がっている」
下水道といえば死体を隠す格好の場所だ、とは言わないでおく。
どうする? と目だけで問うた。
ミスリアは唇を噛み締めて俯き、しばらく黙り込んでいた。
その間にゲズゥは頭に巻いていた包帯を解き、左目を解放した。片目だけだとどうしても距離感が掴みにくい。
「進みます」
やがて、重々しい返事があった。
「わかった」
最善の選択だ。聖人がまだ生きている可能性がある以上、本気で救うつもりならば、立ち止まるのはただ愚かだった。
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