12.b.
2012 / 04 / 26 ( Thu )
彼は何度か蹴る素振りをして鼠を散らせた。
ミスリアは思わず去り行く鼠の後姿を目で追い、ふと、前方の薄っすらとした明かりに気が付いた。上から差し込んでいるらしいところから、出入り口か排水溝があると予想が付く。
案の定、近付いてみたらそこには地上への出入り口があった。階段を十段上った先の小さな門が、外界との隔たりだ。雨の日であったならば、街中の水が流れ落ちてきただろう。
扉を構築する鉄格子の大きな隙間から差し込む陽光を浴びて、そういえば地上では昼間だったことを思い出した。この近辺なら蝋燭の明かりが無くても充分に明るい。
「地価貯蔵庫へ戻らなくても、ここから出られますね。ルセさんは不審がるかもしれませんけど……」
一緒に来たはずの人間が忽然と消えてしまったら、それが普通の反応だろう。
「そうだな」
ゲズゥは何を思ったのか、唐突に燭台をミスリアの手から取り上げて、先を歩き出した。こっちがもたもたし過ぎたからしびれを切らしたのだろうか。
数分歩いたら、また闇に包まれた。こういう時は炎という発明が実に有難い。
ミスリアは少ない明かりを頼って足元にばかり注意を払っていたため、ゲズゥが立ち止まったのを知らずに衝突した。
「きゃっ」
顔面を彼の背中か腰辺りに思いっきりぶつけた。
鼻の頭をこすり、どうしたんですかと問いかけて、言い終わらなかった。
蝋燭の炎に照らされた、下水道の汚水の流れを塞き止めるモノを、目の当たりにしたからである。
小さな山みたく積み重なり、蠢く茶色の集合体。鳴き声からそれが多数の溝鼠だとわかった。吐き気を誘う腐臭に、ミスリアは反射的に袖で鼻と口を覆った。口の中にいつの間にか広がっていた苦味をゴクリと飲み込む。
あの山の下で、何かが今まさに鼠に食べ尽くされんとしているのだろう。人間と同じ大きさの死体が鼠たちの隙間からのぞく。
死体を見下ろすゲズゥの表情に、何ら変化は表れなかった。彼はそれを一瞥した後すぐに目を離し、燭台を前へと掲げて進んだ。
「それよりお前が探してたのは、あっちだろう」
低く冷静な声に促されて、ミスリアは恐る恐るゲズゥに続いた。
下水道はここらで枝分かれするらしい。分け目の前に、椅子に縛り付けられた人影があった。
接近して視認しなくてもわかる。
「カイル!」
夢中で駆け寄った。
何度か呼んでも揺すっても反応が無いので、首の脈を確かめた。脈は弱々しいけれど、間違いなく生きている。それ以上考える前に、ミスリアは聖気を展開した。
(なんてひどい……)
カイルの肌に触れて感じた体温の低さに、ぞっとした。一体どれほどの時間、この状態で居たのだろう。全身に血の乾いたあとが見られる。骨も折られているようだ。
特定の怪我を集中的に完治させるよりも、ミスリアは全体を治すことにした。
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暖かい金色の光が俄かに瞼の裏に広がった。
また夢が始まるかと思ったが、どこか違和感を覚えた。
(天へと続く道に辿り着いたのかな?)
そのようなことをのんびり考えた。天へ、神々へと続く道に辿り着くということは即ち肉体の死を経たことを意味する。
もしも自分が死んだというのなら、この上なく残念なことだが、仕方ない。
(でも多分違う……「あの時」と違う)
この光は天から降りてきていない。もっと間近な距離から届いている。それも大いなる神々の届け物ではなく、もっと身近な存在が発している光。
ああそうか、とその正体に思い至った途端、意識が浮上する感覚に引っ張られた。
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開いた目が霞んでいる上に、辺りがやたら暗い。
間近に人が居るのはわかる。しかしその姿が見えない。
此処は一体どこで、自分は何をしていたのか。頭が痛くて思い出せない。
夢の世界で何かわかったのに、目を開いた所為で向こうに置いてきたような気はする。
(そんな風に感じたのは、何度目だろう)
短い間に何度かあったと思う。それが、少しだけ悔しいような惜しいような。
「大丈夫ですか?」
可憐な少女の声に、カイルサィートは咄嗟に訊き返した。
「リィラ……?」
「!」
少女が息を呑む気配がした。
そこでようやっと、目がはっきりしてきた。驚きに塗られた大きな茶色の瞳を、どうして妹と間違えられただろうか。
「……ミスリア、」
来てくれると思ったよ有難う、と言葉を続けたかったのに、乾いた喉には名を呼ぶだけが精一杯だった。なので、とりあえず顔中の筋肉を駆使して笑ってみようと試みたが、これがまた痛くて断念した。
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