35.g.
2014 / 08 / 26 ( Tue ) 完全な沈黙の中で澄んだ碧い瞳だけが動いている。その様子を医者は鋭い眼差しで観察した。そして何かに納得したのか、手を伸ばして猿ぐつわを解いた。 「最後に飲ませた薬がいくらか効いたようですな。錯乱していないようだ」彼の言う通り、認識の色が濃いように見えた。拘束されている状況を理解しているのだろう。 「聖女レティカ、ご気分はいかがですか? 私がわかりますか?」 試しに呼びかける。静かに、ゆっくりと。碧眼はすぐに声のした方を探し求め、唐突に瞳孔が焦点を合わせた。次いで掠れた声が発せられる。 「……め…………て」 「はい? 何でしょう」 何と言われたのかもっとよく聴きたくて身を乗り出す。対するレティカの瞳は大きく見開かれた。 映し出された感情に驚く。――拒絶? 「や、めて。貴女の清浄な気は見たくありません……わたくしの前から、消えて下さいませ」 「消え――……」 冷や水を浴びせられた錯覚を覚える。思わず固まった。 (どうして) 拒絶された理由がわからない。清浄な気とは前に言っていた、人の周りの空気に色がついて見えるという話だろうか。でもそれならば尚更わからない。引っ込めようと思ってどうにかできる代物ではないのに。 「あの、私」 「聴こえませんでしたの!? 出て行って!」 ――バンッ! 「きゃっ!」 ミスリアは素早く身を引いた。ベルトを千切りそうな勢いでレティカが身体を浮かせかけたのだ。目玉が飛び出さんばかりの険しい表情にゾッとした。 一瞬後には車椅子がひとりでに下がっていた。困惑して振り返ると、ゲズゥが威圧的な視線で見下ろしてきた。 今日はもう諦めるしかないのだとミスリアは察した。 医者に向けて会釈し、目配せを交わす。それが終わるのを見計らって車椅子がくるりと半回転した。 「また来ます」 部屋から出る際に、振り返らずに言い残した。 聖女レティカは一言も返さなかった。 完全なる静寂の中で彼女がさめざめと泣いている気がした。 _______ 己が歩けるようになるまでならと、ミスリアは何度でもレティカの元に通いつめるつもりでいた。護衛たちは異を唱えなかった。どうせ歩けない間は船に乗らない方がいいだろうと二人とも付き合ってくれている。 最初に訪問してから三日、今度はリーデンを伴い、車椅子を押してもらっている。 (今日はちゃんと聖女レティカと話せるかしら) 前回の結果がまだ記憶に新しいため不安が大きい。流石に「消えて」には深く傷付いた。 (だからと言ってあっさり引き下がってはいけないと思うけど……) ため息交じりに白い息を吐く。街道は相変わらず寒さも忘れられそうなくらい賑わっている。 ふと思い立って見上げると、空は薄い灰色の膜に覆われていた。 「イマリナ=タユスでは冬は雪が降ったりするのでしょうか」 「ん~? この辺りはあんまり降らないよ。せいぜい年始に通算二~五回程度かな。それも積もるような雪じゃなくて午後にはすぐ溶けて水っぽくなる感じの」 |
35.f.
2014 / 08 / 23 ( Sat ) 室内にはひとつだけぼんやりと明るい輪郭があった。四角い窓だ。 医者は窓まで歩み寄り、音を立てないように静かにカーテンを横に引いてどけた。暖かい日差しが眠り姫を淡く照らす。外の天気は曇っているようで、部屋の中の明るさが雲の運びに応じて明るくなったり暗くなったりしている。ミスリアは自ら車椅子の輪に手をかけた。 少し薄暗いが、ベッドまでの道のりに障害物は無いと見たので問題なく進められる。 病室に入った瞬間にとある香りが鼻についた。それもそのはず、診療所中の至る所に備えられている底の浅い皿の中には、乾かされた花びらや樹皮が重なっているのだ。とりわけこの部屋の中は他の臭いを紛らわして隠そうとしているのか、ポプリのツンと醒める香りがやけに強かった。 ベッドのすぐ傍まで車椅子を寄せると、ほどなくして、雲が太陽を妨げるのをやめた。 「――――」 思わず唇から漏れそうになる声を両手で封じた。 見知った人間のあまりの変貌に目を瞠る。 医者や従業員の努力か、話に聞いたような汚れは目につかなかった。 一方で顔や身体はすっかりやつれてしまっている。蒼白な肌は乾き、目の周りには真っ黒な隈ができていた。あるべき艶を失い、白髪の混じってしまった長い髪。元より細腕だったのにますます肉が落ちて骨ばってしまっている二の腕。指や手首、頭や首に巻かれている包帯に至るまで、全てが痛々しい。 それでいて最も異様だったのは―― 「先生、これは一体…………?」 震える人差し指を指して問う。 横たわる聖女レティカは猿ぐつわを噛まされていた。拘束具は他にもあった。ベッドに縫い付けるように何本もの分厚いベルトが、ほっそりとした体躯を横切っている。 「それなら」特に動じない様子で医者は顎鬚を撫でる。「保護して何日か経ってからですかな。目を覚ます度に自害しようとするんで、仕方なく。従業員と私の総勢三人で押さえつけましたさ」 「じ、がい……自害」 何度もその単語を口の中で反復した。曰く、隙あらば舌を噛み切ろうとしたり手首を掻き切ろうとしたり、あまつさえ頭を壁に叩きつけたりしたのだとか。正気の沙汰とは思えない。 レティカが負ってしまった闇の深さを、自分は果たして理解できるつもりでいたのだろうか。どんな言葉をかけるつもりでいたのだろうか。同じ絶望を知らない人間との会話は、かえって不快にさせてしまうかもしれないというのに。 愚かだった。胸の奥に針が刺すかのような後悔が芽生える。 「考え直せと説得はしたんですがね。うわ言ばっかりで会話になりやせんで。精神を落ち着かせる薬も処方してみたんですが、なぁんにも届きそうにない。こりゃあ、早いとこ身内に引き取らせるか……」 「引き取らせるか……?」 ミスリアは先を促すように囁いた。 「望むままにさせてやるしか無いと思いますな」 医者はこうも続けた。此処には生きる気力を欠いた人間をいつまでも置くだけの余裕が無い、と。そもそも生きたいと願う理由が無いのなら、無理に生かす方が残酷だ、とも。 「残酷だと言うのには賛同します。けれどそれでも自殺はダメです」 この世に生を受けた奇跡を自らの手によって絶つ行為――それがいかに道徳を踏み外しているか、を論じるつもりは無い。 ミスリアは項垂れ、膝の上で拳を握った。 「彼女は混乱しているだけで、生きる理由を一時的に見落としている、とそう考えられませんか? 己をしっかり見つめ直せるまでに回復しない内に、自害を選ぶのは早計です。そうならないように周りが手を尽くすべきです」 強く言い切って顔を上げると、医者は何故かニヤニヤと笑っていた。嫌な印象は不思議と受けなかった。 「ならば本人にも言ってみなされ」 ベッドを見下ろすと、ちょうど聖女レティカの睫毛が震えた。 やがて碧い双眸が億劫そうに瞬く。 |
35.e.
2014 / 08 / 22 ( Fri ) (ひどく意気消沈しているようだったとは聞いたけれど……)
このような話を聞かされた後では、廊下を突き当たった先にあるはずの戸が、やたらと遠く感じる。気を紛らわせる為にもミスリアはこれまでの経緯を思い返した。 まず聖女レティカに会うと決めた後、真っ先に訪れたのがイマリナ=タユスが誇る蒼穹の大聖堂だった。 するとそこは常ならぬ状態にあった。本来の穏やかで神々しい雰囲気は失われ、修道女たちは一般の参拝者を門前払いにしていた。 何事かと思って中に入れてもらうと、中庭では司教が一心不乱に魔物狩り師たちの穢れと無念を清めていた。その場に集まっていた僅かな生存者たちと、もう肉体から永遠に乖離してしまっていた魂たちの安寧の為に。 彼らは疲弊しきっていた。後はもう教団へ応援要請を出し、周辺には避難勧告を出して、それ以上どうこうしないつもりだと誰かが告げた。 ミスリアは首振り人形の如く何度も頷くだけだった。自分が惨劇に巻き込まれずに済んだ幸運に心底感謝しながらも、そんな風に安堵してしまう己を恥じた。 そして思う。人を導く「聖女」の在り様を目指すならば、正解は果たして何であろうか。 共に逝きたかった、失われた命の盾となり代わりとなるべきだった、と嘆きながら生存者を慰めるのか。それとも、街中の演壇に立って大々的に復讐を誓えば良いのか? 「聖女」たる清らかな魂の輝きを、未来への希望として町民の心に焼き付けられるならばそれも良いだろう。ミスリア自身はそんな大衆を魅せられる崇高な人間になるつもりは無いし、なれるとも思わない。 (私の優先すべき目的は、聖獣を蘇らせる旅を進めること。その一点に集中している限り、道を見失ったりしない) いつの間にか問題点から逸れてしまったけれど、そういえば聖女レティカこそが人を導く生き方を目指していたはずだ。 (結局、彼女は大聖堂には居なかった……) 修道女たちに問い合わせてみたら、町医者が身元を預かっていると教えられた。どうやら聖女レティカは魔物狩り師たちと一緒に居たはずが、何故かふと居なくなったのだとか。何人かが捜しに行ったものの見つからず、諦めそうになった時点で医者からの連絡があったと言う。 消息が知れても迎えに行くと名乗り出る者は居なかった。皆、大聖堂での祓いごとで手一杯だったし、同時に、レティカが断りなく飛び出て行くくらいに一人になって落ち着きたかったのならそれも仕方ない、と気遣う声があった―― 「先生、お伺いしてもよろしいでしょうか」 ミスリアは先をゆっくり歩く医者を呼び止めた。 「なんなりと」 「大聖堂に連絡してから、お見舞いに来られた方はいましたか?」 「うむ、一度だけ修道女の方が。追い返しましたがねぇ」 医者は歩みを再開し、一同は数秒としない内についに戸の前まで来た。戸の向こう側は、寝息すら漏れないほどに静かだった。 「それは何故ですか?」 「彼女らの瞳を見れば一目瞭然でしたさ。きっと、今の聖女様の姿を前にして怯えるだけで終わるだろうと。それは見舞う方見舞われる方にとっても何の足しになりゃせん。時間の無駄だ」 医者は顎鬚を一撫でして答えた。 「…………そうですか」 「そうさね。そんじゃまあ、小さい聖女様よ、開けますぞ」 ミスリアがしっかりと「はい」と答えるのを聞き届けてから、医者は取っ手に手をかけた。 ――ギッ。 戸は短い音一つだけ立てると、呆気なく開いた。 廊下の闇と部屋の中の闇が、混ざり合って繋がる。 |
35.d.
2014 / 08 / 20 ( Wed ) _______
猛禽類を思わせる濃い顔立ちの医者と、意外な形で再会していた。 成り行きのままにまた世話になっているが――今度は診察されているのはミスリアである。医者は車椅子を一目見て、ミスリアの体調不良を知ると、すかさず診療所の一室に案内したのだった。 「つまるところは、過労から昏睡状態に陥ったと」 医者は黒い顎鬚を一撫でし、自分が書き綴っているメモから顔を上げた。 「はい。おそらくそういうことになると思います」 ミスリアは姿勢を正して頷いた。 「よくあるんですかな? 聖人聖女の患者を診るのは珍しいもので」 「どうでしょう……他の方はわかりませんけど、私は以前にも似たようなことがありました」 「ふむ。まあ異常は無さそうだ。徐々にまた歩行に身体を慣らせばいいでしょうな。最初は数歩ずつ、必ず何かを支えにしながら試してみなされ」 「わかりました。ありがとうございます」 彼のアドバイスに、ミスリアは素直に返事をした。その反応を満足そうに見届けた医者は、書類や器具の片付けをし始める。車椅子の後ろではゲズゥが無言で佇んでいる。 決して居心地の悪くない沈黙が診察室に満ちる。もうしばらく静かに休んでも良かったけれども、ミスリアにはそれを破る必要があった。 「それで、先生」 「む?」 「あの、元々の用件ですけど……」 躊躇いがちに切り出す。 この診療所を訪れた当初の目的は、自らの治療を求めていたからではない。大聖堂で聞き知った情報を辿った結果だ。医者は振り返りざまに点頭した。 「うむ、もう一人の聖女様のことですな。奥の部屋におりますが……」 医者は眉根をぐっと寄せた。益々獲物に迫る猛禽類を彷彿とさせて、ミスリアは生唾を飲み込んだ。 「会いますか? 私ゃ勧めはしませんがね」 「え……どうしてですか……?」 彼女に会う為にわざわざ足を――正確には足を使ったのはゲズゥでミスリアは車椅子を押されていただけだが――運んだというのに。 医者は口元を掌で覆い、その手の中に深いため息をついた。或いは覆っていたのは欠伸だったかもしれない。 「まあよいでしょう。それはまず会ってみた方が話が早い」 そう言って医者は白衣を脱ぎ捨て、襟を立てた深紫色のワイシャツ姿を露にした。ついて来るようにと手で合図する。それに呼応して車椅子が動き出した。背後の青年に「すみません」と声をかけるも、特に応答は無い。 暗い廊下を、三人で進んだ。医者の足取りは緩慢としていた。 「近辺をうろついているのを私めが保護しましてね。こう言っちゃなんですが、路地裏の住人と間違えましたぞ」 「路地裏!? そんな――」 あの気高く清廉な聖女レティカがまさか、と耳を疑う。 「悲惨なもんでしたさ。髪まで汚物に塗れて服は破け。這うようにふらふら歩き。ブツブツと低い声でしきりに何かを呟いていた姿は、そりゃあ気が触れた人間にしか思えなんだ」 医師が白衣を着るようになったのは19世紀以降らしいですね。が、この物語は100%フィクションなので関係ありません。 |
イラスト紹介+帰って来ました
2014 / 08 / 18 ( Mon ) ![]() 時々、建物の間に隠されたゴミの山を通ると、その中をガサゴソと潜る人間の姿を見つけた。 ゴミ山を住処としているのか、別の住処はあってもゴミを漁らなければ生活できないのか、一目見ただけではどちらとも言えない。 他には、路頭で寝そべる人間を見る。誰もが痩せこけていて、生気が無い。彼らには冬を越せる場所がちゃんとあるのだろうか。 やるせない気持ちがこみ上げてきて、ミスリアは足を止めかけた。それに気付いて、物を乞う手が伸びる。それまで寝そべっていただけの男性が、身を乗り出している。 ミスリアは親指を欠いた手を凝視した。自分がこの手に何を与えられるのか、懸命に思索した。 相互様の草野瀬津璃様(絵をクリックするとサイトに飛びます)からミスリア絵をいただきましたのでここで紹介します。路地裏で話してるイメージだというので、27の路地裏を歩いてるシーンから抜粋してくっつけてみました。あれ、話してはいないww どーもどーも、ただいまです(プチ帰省&旅行から はー 疲れたw これで明日からまた仕事とかw とにかく砂丘すごかったですよ。 下の写真、クリックで原寸で見てみて下さい! 先週先々週は全然更新できなかったので今週で一気に巻き戻す予定!です! |
すーいませんでしたー
2014 / 08 / 12 ( Tue ) いやホント更新遅れててすいません。バタバタしてますのよ。
こういうときもあるってことで… てわけで(?)拍手御礼入れ替えました。なんか…うん 相変わらずノリが軽いですw 残暑見舞いとかも書きたかったけど多分無理げー |
35.c.
2014 / 08 / 06 ( Wed ) 「エンリオさんと、レイさんが……死んだ、んですか」オウム返しにする自分の声をミスリアはどこか他人事のように聴いていた。「確かですか?」と訊き返すと、ゲズゥは「さあ」と答えた。
「リーデンが人づてに聞いた。確認したければ聖女に会うんだな」 「はい……」 ミスリアは腕の中の枕に視線を落とした。美味しそうなプラム色の布地に金糸の刺繍。丁寧に作り込まれたこの枕はリーデンがどこかで買ったのだろうか。それともイマリナの手作りなのだろうか。見つめても見つめても答えはわからないし、心にのしかかる重石は動かない。 ――別れはいつだって突然訪れる。 あまりよく知らなかった人が自分の与り知らない所で亡くなったと聞けば、特にそう感じる。 最初のショックが引き潮のように薄れた後、ミスリアは二人に最後に会った日を思い出そうとした。強面の女騎士と最後にあった時のことはまだ鮮明に思い出せる。ミスリアが討伐に参加するつもりだと聞いて、彼女はぶっきらぼうに「ありがたい」と言ったのだった。 (守れない約束になってしまったわ。不可抗力だったとはいえ、情けない) しゅんと気持ちが萎れる。 今度は童顔で小柄な男のことを思い浮かべた。いつしか、馬車から降りる際に手を貸してくれたのを覚えている。 彼は最後までよくわからない人だった。親しみやすそうなのに、コートの下に隠されていたたくさんのナイフを見た時は、思わず寒気がしたものである。 関わった時間は短かったけれど、命を懸けた局面に共に立ったのだ。なのに驚くほどミスリアは二人について何も知らなかった。これまでどんな旅をしてきたのか、趣味嗜好、出自や歳でさえも。 もっとたくさん話をすればよかった、なんて後悔しても仕方ない。いつ別れが来るのか知っていて人と接していられた方が楽かもしれないが――現実には、この人はもうすぐ会えなくなるから今の内にもっと時間を共有しろ、などと誰も教えてはくれない。 彼らはどんな最期を迎えたのか、どんな無念を抱いたのか、何を遺したのか。ミスリアは想いを馳せる。そういえば色々と対照的な二人はよくつまらない言い合いをしていたけれど、あれはああ見えて仲が良かったのかな、出会い頭ではどうだったのかな、など。 激しい悲しみは感じない。喪失に、ただ静かに気持ちが沈んだ。 死地に立つ覚悟を決めていた彼らのことだ、訃報そのものに意外性は無かった。 それでも残念だ。二度と会えない事実が、終着点を見ることなく旅が唐突に終わってしまった彼らの一生が。 (聖女レティカは後任の護衛を雇うのかな……ううん、それより大丈夫かしら) 自分はエンリオたちの死を人づてに聞いたからには悼むが、深い関わりを持っていた人間の場合はそれだけでは済まない。ましてやその場に居た人間ともなれば―― 「やっぱり、聖女レティカに会います」 エンリオとレイの生死の真相も気にかかるが、その上で純粋にレティカが心配だった。 彼女とは同じ立場であり、同じ目に遭う可能性は高い。どうしても他人事とは思えない。護衛を――供を、いつ失ってもおかしくないのはミスリアだって同じだ。 (もし私たちも参加していたら……?) 想像することさえ恐ろしかった。ゲズゥは自分が死んでも気にするなと言ったけれど、「わかりました」と割り切れるものではない。 今やリーデンが加わって護衛が二人になった分、ミスリアは三人分の人生を――命運を背負っていることになる。 死ぬのは怖い。死なせるのも怖い。自分の為に誰かが死んで一人取り残されたらと想像すると、怖いなんて単語だけでは表せない心持ちになる。 気が付けば抱きしめていた枕がはち切れそうになっていた。ため息をつくに合わせて、腕の力を抜いた。 ミスリアの発言に対し、正面に立つゲズゥの面貌に微かな不満のような色が浮かんだ。 「起き掛けに歩き回る気か。まだ立ち上がれないだろう」 「そ……そうですね。でも街中では貴方に運んでもらうのは無理がありますし……」 人目のつかない場所だといくらでも担いでくれて構わないのだが、街の中はどうしても目立って不審がられてしまう。背負われても抱えられても然り。 ゲズゥは無言で首をコキコキと鳴らす。 「車椅子」 と言い捨てて、彼は瞬く間に姿を消した。 |
また絵を描いて遊んでました。
2014 / 08 / 02 ( Sat ) |
35.b.
2014 / 08 / 01 ( Fri ) おそるおそる素足を伸ばした。母指球に伝わった床の冷たさに吃驚して、反射的に足を引いてしまう。 (大丈夫かしら……) 食事を経て幾らか力が入るようになったとはいえ、まだ万全の状態からは遠い。ベッドから起き上がって数分も経たないのに、既に上体を支える背筋に鈍い疲れが出ている。まともに歩けなくなっていても仕方ない。 とりあえず滑り落ちるようにそっと床に両足をついた。ベッドに手をつけたまま、立ち上がる。 意識が無かった間もちゃんと誰かが定期的に裏返してくれたのだろう。リーデンが「微動だにしなかったよ」と形容するほどに寝返りを打たない眠りでも、血行は想像していたよりも良さそうだ。 一歩踏み出せたかと思えば、視界が揺れた。踏み出した方の膝が前触れも無く崩れ――かと思えば視界が暗転した。 鼻腔を満たした革の匂いに噎せかける。両肩を支える手が妙に熱く感じる。 刹那、抱きしめられた感触がフラッシュバックした。 ――ありがとう―― あの時耳元で囁かれた一言が蘇った。 『お前のおかげで、俺は大切なモノを失わずに済んだ』 どうしてかはわからない、体温が急上昇した。 実際にあの出来事が二十日前にあったのだとしても、ミスリアにとっては昨日のような、ついさっきのことのような感覚である。 あれは場の雰囲気に呑まれての行動。特殊な状況下での一度限りのこと。今また行われる可能性は皆無のはず、なのに何故か気持ちは落ち着きを失う。倒れないように支えてくれたのに、お礼を言う余裕も失われていた。 いけない、近過ぎる。離れなければ。直ちに離れなければ、とただ一つの想いが頭を占める。至近距離に立つ青年を突き飛ばし――実際はミスリアの腕力だと少し押しのけたようなものだけれど――反動でベッドにぽすんと腰を落とす。 (嫌だったわけじゃないの) 思い出すと胸の奥に温かい波が生じるような気さえする。しかしダメだ、何がどうダメなのかはわからない、ダメなものはダメだ。そう、心の準備だ。心の準備が足りないのだ。 不審に思われただろうか、今自分はどういう顔をしているのだろうか。ミスリアは茶色の瞳を遠慮がちに上へと彷徨わせた。 常に無表情な男は変わらず無表情なので、気にしたのかどうかは読めない。次第に居たたまれなくなって、適当に喋り出すことにした。 「え、えーと……それにしても、二十日もお待たせしてしまってすみません。退屈でしたでしょう?」 「別に。建物の中で適当に運動してた」 何でも無さそうにゲズゥはサラッと答える。 (独房にずっと幽閉されてた間もこんな風に平然としてたのかな) だとしたら末恐ろしい精神力である。自分なら発狂するに至らなくても、目が溶けるまで泣いたに違いない。看守が去る度に、寂しさと恐怖に震えたり叫んだりしたかもしれない。 想像してみたら、ぶるっと寒気がした。これからもそんな状況は絶対に回避して生きよう。 「リーデンさんはどうしていました?」 気を取り直して訊ねる。 「アレなら、引継ぎだの交渉だのに奔走してた。本気でこれまでの生活を手放すつもりらしい」 「そういえばリーデンさんって何をされてる人なんですか? 商人?」 そう訊くと、ゲズゥは目を細めた。 「忘れた。麻薬や国宝級の宝を売買してたような気はする」 「え……」 麻薬も気になるけれど、国宝なんて凄まじい物をどうやって入手しているのか。色々と方法を想像してみて、結局どうやっても違法なやり方にしか思考が辿り着けなかった。 ここは知らない方が気楽かもしれない、と一人苦笑した。 (あれ? 何かまだ抜けている) ミスリアは笑みを作っていた表情筋をはたと止める。眠っていた二十日の間にまだ何か重要なイベントが控えていたような気がしてならない。 ふと、青銅色の長い髪に白い半透明のヴェールを被った聖女の美しい微笑が脳裏に浮かんだ。 「……そうです! 再討伐の話はどうなりました!?」 どうして今まで忘れていられたのか、不思議である。 「先週辺りに実行された」 その返答を聴いて、ミスリアは落胆と安堵の混じった吐息をついた。たとえ誘いの声がかかっていても、意識不明だったのならどうしようもない。都合が合えば参加するとあの時レイにはそう言ったけれど、怖いものは結局怖いのだ。 そしてミスリアが参加しなかった以上はゲズゥたち兄弟が我関せずの姿勢を貫くのは理解できた。 「それで…………どうなりましたか」 「前回と変わらない結果だったと聞いてる」 瞬きすらない、即答。 残酷な内容を告げる青年の低い声はやはり何の感情も含んでいなかった。ミスリアはベッドシーツを右手でぎゅっと握り締めた。 「で、では聖女レティカに関して何か存じませんか。参加したんですよね」 「聖女は生存した」 その報せにほっとしたのも束の間、別の不安が沸き起こる。不安を紛らわせようと思って、ベッドから枕の一つを取って腕の間に抱き抱えた。 「聖女は、という言い回しに裏があると感じるのは私の考えすぎですか……?」 いつしか喉がカラカラに渇いていた。搾り出した質問は、か細く響く。 「護衛の二人が死んだ」 「……!」 潰さぬ勢いでミスリアは枕を抱きしめた。 |
35.a.
2014 / 07 / 28 ( Mon ) ベッドの中で食事を取るのも、記憶の限りでは初めての経験だった。花瓶に移された花束を横目に眺め、今日は初めての多い日だ、と聖女ミスリア・ノイラートはぽつりと思った。 イマリナが用意してくれた麦と野菜のスープを食べている間も、護衛の青年たちは部屋に残って母語で話し合っていた。何を言っているのかはこちらにはわからないが話題は何となく察しがついた。 湾曲した大剣の手入れをしているゲズゥに、リーデンが革のベストみたいな代物を見せている。 ゲズゥが頷いた後、リーデンがいきなり南の共通語に切り替わった。「僕も防具の類は動きが鈍るから好きじゃないんだけど、こういう革のヤツを中に着てるだけでも違ってくるから。自分のを新調するついでに兄さんの分も買ってくる。あんまり聖女さんの治癒能力に頼らなくて良いようにね」 最後の方はミスリアに笑顔を向けて言った。 「お気遣いありがとうございます。あの……つかぬことをお訊きします、私どのくらい眠っていました?」 ミスリアはベッド脇のゲズゥに答えを求めるような目を向ける。 黒い右目と、白地に金色の斑点が散らばる左目が、静かに視線を返した。一度瞬いてから左右非対称の目がリーデンへと流れた。意図を受け取り、兄の代わりに弟が答える。 「二十日だよ」 「二十日!? 数え間違いではないのですか!」 「ううん、数字に関することで僕に記憶違いはありえない。君は僕を助けた後に倒れて、そのまま二十日の間、微動だにしなかったよ」 「そんな……」 ミスリアは己の四肢に意識を向けた。やけに長い間筋肉を動かしていない気がしていたのが、そういう理由だったとは。 「心配したよー。前にもこういうことあったって兄さんが言うから大人しく待ち続けたんだけど」 「ご迷惑をおかけしました」 二十日も二人を待たせたのかと思うと申し訳ない気持ちで一杯になる。ミスリアはぺこりと頭を下げた。 それにしても、下手すれば二度と目覚めなかったのかもしれない。胃の底に冷たい石が沈み込んだような感覚を覚えた。 「あははー、違うよ聖女さん。そこは『よく尽くしてくれたな下僕ども』とでも言ってどんと構えてればいいんだよ。ま、そういう控え目な姿勢が可愛いんだよねぇ」 絶世の美青年はさも楽しそうに笑う。 「い、いいえ」 ミスリアは懸命に頭を振った。下僕だなんてとんでもない。どちらかと言えば、誇り高き猛獣たちになんとか認めてもらえている気分だ。 「さてそれじゃ、僕はちょっと行って来るね」 「あ、はい。いってらっしゃい」 リーデンは軽快な足取りで戸まで歩み寄り、流れる動作で戸を開閉した。勿論、戸が閉まったと気付いた時にはもう彼の姿は消えていた。 数分後には入れ替わりにワンピースにエプロンを着けたイマリナが入ってきた。いつも通りに長い髪を三つ編みにまとめている。今日のヘアバンドは薄黄緑色だ。よく考えたらそれはリーデンが着ている衣装と同じ色かもしれない。 イマリナはにこにこ顔で「もういいですか」と唇だけで無音に問いかけた。 「はい、ごちそうさまでした。今日もとても美味しかったです」 と答えると、イマリナは一層嬉しそうにはにかむ。彼女はミスリアの膝の上からトレイや食器を手際よく片付けては去った。 ベッドの上がさっぱりしたので、いざ降りてみようと試みる。 |
(*´Д`)
2014 / 07 / 24 ( Thu ) 旅行の予定を立てるのって面倒で仕方ない時もあれど、楽しくて仕方がない時もありますねぃ。
砂浜……砂丘……! ハァハァ… 妄想が 広がるぜ…… 勿論アルジェリアの砂丘みたいな難易度の高すぎる奴ではないので、観光客が多い分だけ神秘は感じないかもしれませんが、郊外育ちの軟弱者の私には今はこのくらいでいいんですよ。不老不死者になれたら世界中を好きなだけ旅したいなぁ。何一つ恐れることなく。あ、過去作品にそういうのありますねー あれ掘り起こそうかなー まあ、恐怖や限界を感じる人間の儚さにも美学はありますけどね。 バギーやジープを借り出して乗り放題もできるそうですよ。必ず一回はどっかに車輪が引っかかるらしいのがちょっと怖いんですがww それもネタになると考えれば平気ですよねきっと。 あ~~~ 8月が楽しみになってきた! ひゃっほい! |
閑話
2014 / 07 / 21 ( Mon ) ん~。
コーヒーうまし。 どうも、頼まれごとで鍵針編みでちっさい巾着みたいなのを大量生産してる甲です(どうでもいい 鍵針ダコみたいなのができた時には吃驚したぜ…。 昨日超久しぶりに知り合いとフランス語話しました。これからちょくちょく練習しとかないと腐ってくだろうなぁ。 他には昨日ハンバーガー食べて久しぶりにビール(IPAとサイダー)飲んだり、フローズンヨーグルト食べたり。胃が若干根をあげている気がするけど気合で乗り切りましょう! 明日また献血する予定です。2か月過ぎるの はやっ 所詮若さと健康とは利用してこそ意味があるもの。私なんぞで良ければどんどん血を使ってってください。若さの方は結構使い切られてきたし(笑 こんなカンジで大した話題も無いですが、次回更新はもうちょっとお待たせしちゃいますね。つーか滝神遅れてる_OTL 仕事も急に色々任されて あばばば。 では今週も燃えて行きます★ おまけ 07/19/2013 えびの描いた伊藤園に私が模様をつけたやつ |
34 あとがき
2014 / 07 / 17 ( Thu ) |
34.g.
2014 / 07 / 17 ( Thu ) 「ゲズゥ!」
修道女たちを押しのけるようにして駆け寄った。勢い余って、彼のお腹辺りに手を付く。 服に付着した、乾いた血の感触にゾッとした。 「ど……どうなったんですか!? その血は! リーデンさんはご無事ですか!?」 矢継ぎ早に質問をぶつけた。 星明かりにほんのり照らされた顔を探るように見上げる。青年の無表情ぶりからは、吉報か凶報かを読み取ることはできない。 黒と白の瞳のコントラストにミスリアは一瞬目を奪われ、その間に肩に手が触れたことに気が付き―― ――抱き寄せられた。足が地から浮き上がるのを感じる。 血の臭いすら意識しなくなるような、ただならぬ抱擁だ。息が浅くなる。 耳元で低い声が短い一言を呟いた。 驚愕に駆られ、表情を確認せんと反射的に試みるも、頭の後ろも強い力で押さえつけられていてびくともしない。 「お前のおかげで、俺は大切なモノを失わずに済んだ」 続く言葉にハッとなる。 ミスリアは顔を埋(うず)めたまま一度目を見開き、すうっと瞼をゆっくり下ろした。唇の間からため息が漏れる。 (それじゃあ、なんとかなったんだ) 包み込む温もりに、張り詰めていた神経が緩まった。目頭が熱くなる。 「…………よかった」 腕を伸ばして精一杯の力で抱き締め返した。 (よかった……) ゲズゥがこうして帰って来てくれただけでも嬉しいのに、二人とも無事で、本当に良かった。 心地良い安心感に身を委ねたこと数十秒。 極限までに疲弊していた精神が途切れ、ミスリアは深い眠りについた。 _______ ミスリア・ノイラートはなんとなく見覚えのある天井の下で目が覚めた。少し硬めだが温かいベッドの上に視線を走らせつつ、起き上がろうとする。天井のシャンデリアは全ての蝋燭に火が灯っており、部屋がとても明るい。 まるで長い間筋肉を使っていなかったみたいに身体の動きは緩慢だった。 「大丈夫? だるそうだね」 声がした方を向くと、大きな花束を抱えた絶世の美青年がベッドの脇に立っていた。輝かしいサラサラの銀髪、凛々しくも繊細な顔立ち。宝石を思わせる緑色の瞳に、上品そうな生地の民族衣装。寝起きにこんな浮世離れた人物が目に入ったことに、ミスリアはあんぐりとした。 傾国の美青年という言葉が新たに脳裏を過ぎる。 「確かに気怠く感じますけど……あの、この季節に何処でそんなに鮮やかに瑞々しい花束を手に入れたんですか? リーデンさん」 「温室持ってる知り合いからちょっとね」 リーデンはそこでパチッとウィンクしてみせた。花束の香りをそっと嗅いでから、それをミスリアに差し出す。 「可愛らしい命の恩人さんにお見舞いだよ」 「あ、ありがとうございます」 困惑気味に受け取る。恥ずかしい話、異性に花束をもらったことなんて十四年生きてて初めてである。頬が紅潮するのを止められない。 「礼を言うべきは僕の方だよ。君が命を懸けてくれたことはわかっているつもり」リーデンは姿勢を正して腰を折り曲げた。「ありがとう、聖女さん」 「やめて下さい、そんなに改まられても困ります! 頭を上げて下さい」 手をぶんぶんと振って懇願したら、リーデンは笑いながら元の体勢に戻った。 「あはは。あのね、休ませるなら大聖堂の中の方が良いって修道女連中がしつこかったけど、それじゃあ僕らはずっとついてられないからね。あそこから無理矢理連れ出しちゃったよ……――兄さんが」 リーデンの目線が向かった先を、ミスリアも一緒になって追った。ベッドの隣の床に横になって眠る人物を認めて、ミスリアは本日二度目に愕然とした。 「な、何でそんな所で寝てるんですか!」 「んー、兄さんの身長じゃあソファは窮屈だからでしょ」 「はあ……」 ――寝心地が悪そうなのに。でも傍に居てくれたことには、こっそり喜んでおいた。 「ところで聖女さん。お願いがあるんだけど」 「何でしょうか」 急ににっこりとしたリーデンに気圧されながらも問い返す。 「君に受けた恩があまりに大きすぎて、どうやったら返せるのか自分なりに考えててさ」 「そんな、お構いなく」 「そーゆーワケには行かないでしょ。で、とりあえずはね」 そこで彼の例のとろける笑顔が出て、ミスリアは条件反射でぼーっと見とれた。 「僕も旅について行ってもいい?」 「え?」 突拍子もない質問に瞬きを返した。 「そこの図体のデカい人なら、もう話は付けてあるよ」 「……図体がデカいのはお前もだろう」 もそり、ゲズゥが床から起き上がっている。全くそれらしい気配はしなかったのでミスリアはびくっと震えた。 「おはようございますっ」 「ああ。やっと起きたな」 「?」 一体どれくらい寝てたのかと訊こうか迷っている内に、リーデンが言い返した。 「ちょっと平均より上ってだけで、僕はまだ普通の範囲内だよ。まあそれは置いといて。良いでしょ? 僕が護衛その二でついてきても」 「戦力として申し分ない。しかも飛び道具使いだ」 ゲズゥはどこへともなく視線を彷徨わせて答える。 「情報網とか伝手とかも役に立てると思うよ。例えばさ、クシェイヌ城に行くんだって? 此処からだと水路が一番早いってこと知ってた?」 「いいえ、知りませんでした」 「船の手配ももうしてある。北行きの商船をいくつか押さえてあるから、こっちの支度が整い次第、日時の合う船に乗れるよ」 リーデンは得意げに笑った。その手際の良さに感心せざるを得ない。 「ね、役に立つでしょ? マリちゃんも良ければ連れてくよ」 一度頷き、少し考えを巡らせる為に、ミスリアは口を噤んだ。 (前から人員を増やしたいと思ってたし……ゲズゥとはいつの間にか打ち解けてるみたいだし……) 断る理由があるだろうか、と考え込んでみた。 目の前の彼はまるで憑き物が落ちたようで、以前みたいな狂気を感じさせない。まだ疑問は残るけれど、損よりも得が多そうだとミスリアは判断した。 「貴方の言葉に誠意を感じました。申し出を受けましょう。こちらとしても一緒に来ていただけると助かります。これからよろしくお願いしますね、リーデンさん」 「うん。よろしくね」 初めて出会った時と同じく、リーデンは象牙色の手を差し伸べた。 生温いその手をしっかりと握り、聖女ミスリア・ノイラートは今しがた加わった旅の供に微笑みかけた。 |
34.f.
2014 / 07 / 15 ( Tue ) 「君の泣き顔なんて初めて見るよ」
と朗らかに言ってみると、ゲズゥは顔を逸らした。左頬を伝う水分の跡がはっきり見て取れる。 「お前の泣き顔なら見飽きてるがな」 「一体いつの話してるんだか。まあ、確かに子供の頃は飽きられるぐらいビービー泣いたけど」 肩や手を支える力が緩んだのを良いことに、リーデンは試しに手足を動かしてみた。異常が感じられないので、今度は膝を折り曲げてみた。拳を握ってみた。屋根裏空間の天井は意外に高くて少し頭だけ屈めば立てるので、立ち上がってみた。 本物の奇跡だ。服や髪の汚れは残っているが、身体の状態は万全と言えよう。リーデンは唖然とした。前にもミスリアやレティカにちょっとしたかすり傷などを治してもらったことはある。聖女の力はああいうレベルの物としか思っていなかったから、今回の件が余計に非常識に思えた。死にかけた人間を、遠い場所から救えるなどと。 「なんか屋敷に入る前に戻ったみたい。こんなぶっ飛んだことできるんじゃ、もっと世間に騒がれるんじゃないの」 「おそらく、誰しもできるわけじゃない」 「へえ。後で本人にもっと詳しく聞こうっと」 しゃがんだ体勢から動かない兄が、じっと観察する眼差しで見上げてくる。乾いた血痕が額から膝までにかかっていることにリーデンは遅れて注意した。 (どんだけ返り血浴びてんの、この人) せっかく貸してやったコートも今やボロ雑巾だ。つつけば多分、怪我が出てくるだろう。 そんな姿を見下ろしていると――痛々しいと思いつつも、嬉しい。 「迎えに来てくれてありがとう。心配かけたね」 「……お前が礼を言うのか。気色悪い」 「ひっどーい。つめたーい。さっき取り乱してくれたのは夢だったのかなー?」 「黙れ、クソ弟」 リーデンはブフッと噴き出した。かなり久しぶりにその呼称で呼ばれた気がする。加えて過去に呼ばれた際の侮蔑ではなく、不機嫌しか込められていないのだから、これは笑うしかない。 逆にこっちは機嫌が良い。 「一回しか言わないからよーく聴いてね、クソ兄」鼻で笑って腕を組んだ。そしてまた破顔した。「めんどくさい弟でゴメン。見捨てないでくれてありがとう。なんだかんだでやっぱり、大好きだよ」 それが今の本心だった。 つまらない意地を張っていた。この広い世界で一人でも自分の為に泣いてくれる人が居る、ならば他に何を望むことがあろうか。しかもよく考えたら、一人だけでなく少なくとも後二人は居る。 「平穏な生活は相変わらず目指してあげられないけど、これからのことは、ちゃんと話し合って一緒に決めよう」 我侭も押し付けないよ、と左右非対称の両目を見据えて言い放った。 数秒の間の無反応の後、無表情だった端正な顔が奇妙に歪む。五角形の太陽でも見たような顔である。リーデンはまた噴き出した。 「あははははは! 泣き顔以上に面白いね! 普通に喜んでもいいんだよ」 「…………………………」 呆れて返す言葉も無いようだった。でも、言葉にされなくても伝わる想いがある。言葉にされたからこそ得られる安心もある。 『死ぬな、リーデン』 (わかってるよ。まだまだ、独りにはできないね) ちょうどその時、ずっと下の方が騒がしくなった。 (ああそっか、屋根裏に至るまでに突っ切った敵を、兄さんは殺さなかったんだ) 聖女ミスリアとそういう誓約の一つでも保っているのだと仮定すれば不思議はない。殺さなくても十分に痛手を負わせただろうけれど。 「それじゃあ、適当に残党を蹴散らして戻ろっか。僕らの可愛い聖女さまの元へ」 二度目の油断はありえない。リーデンは不敵に目を光らせた。 次いで兄へと手を差し伸べた。自然とそんな気分だった。僅かな逡巡も無く、ゲズゥはリーデンの手を取ってゆっくりと立ち上がった。 「……そうだな」 それ以上のやり取りは必要なかった。 兄弟は互いの温もりを放し――それぞれ冷たい凶器を手にして、笑みを交わす。 _______ 水晶の祭壇へ捧ぐ祈りは、大分前に儀式が終了していた。特別に許可を取って、聖女ミスリア・ノイラートは一人きりで祭壇の前に残っている。跪き、瞑目し、祈る。無心に祈りながらも聖気を展開している。どれくらいの間そうしていたのかは知らないし、知ろうとも思わない。長時間集中し過ぎて頭がクラクラするのも気に留めない。 祈りは修道女の甲高い悲鳴によって中断された。 ミスリアは急いで振り返った。祭壇の間の入り口へと視線を飛ばす。 「この神聖なる場所になんて穢れを! 立ち去りなさい!」 喚き散らす修道女の声が閉まった扉越しにも聴こえる。中庭の方からだろうか。 (穢れ!?) ミスリアの心臓が早鐘を打った。考えるよりも早く、足が動く。蝋燭だけに照らされた祭壇の間は薄暗い。既に夜になっているから天窓からは明かりが入らないのである。祭壇に祀られた巨大な水晶が淡い輝きを放っているけれど、ミスリアはそれには背を向けている。長い白装束の裾にうっかり転んでしまわないよう、スカートを両手で持ち上げて身廊を進んだ。 扉を開け放ち、中庭を見回す。夜空とガゼボの下で、修道女たちが長身の青年を取り囲んでいる。 |