19.c.
2013 / 01 / 07 ( Mon ) ふいに温かい柔らかさに包まれた。 どうやら後ろから抱きつかれたらしい。 「じゃあね」 数秒後には甘い残り香だけを残して、温もりは離れていた。 「ああ」 これが今生の別れになるかもしれないが、特に悲しいとも寂しいとも思わなかった。 ゲズゥは父親の形見である湾曲した大剣を左脇に抱えなおして歩き出した。革の鞘を部分的に嵌めている。その内に父が使っていたような、全体を覆う鞘を用意した方がいいだろう。 通路を抜けた途端、目を背けた。そうしなければならないほどに外は明るんでいる。予想通りに空は晴れていた。 円状の観覧席は、人でひしめき合っている。山の上によくもこれだけ大きな建物を建てられたものだ、とも思うが、それよりもこれだけの人が一体どこから現れたのが謎だった。おそらくは山賊団の団員以外の知り合いも数時間の間に呼ばれたのだろう。 ――どいつもこいつも暇なのか? そう考えかけて、闘技場の中心にこちらに手招きするエンの姿を認めた。 「よっ。こっちこっち」 エンは麻ズボンと白いシャツの上に、上等そうな青みがかった黒のベストを着ていた。飄々と笑いつつ普段より僅かに気が引き締まったような姿勢を見せ、黒髪を頭の後ろでくくっている。腰回りに太い鎖がかかっているのは先刻と同じである。 「揃ったことだし、始めようぜ」 彼がそう言った途端、雄叫びのようなものが闘技場に響き渡った。 その音の波に打たれた観衆は直ちに静まり返り、至近距離でそれを聴いたゲズゥは無意識に半歩さがった。更に至近距離で聴いたであろうエンは、目を細めるだけで笑みを崩さない。 エンの背後に仁王立ちで構えていた大男が、閉じた口の端を吊り上げた。 「楽しみに待っていたぞ、ゲズゥ・スディル」 がはは、と大笑いしながら頭領は前へ出た。 改めて見上げると随分と独特な顔立ちだ。大きな鼻と耳と口に、主張の強い眉骨。世間がこういう顔をどう評するかはよくわからないが、肉食獣を連想させる、野性的で強そうな雰囲気を醸し出しているのは確かだった。 「そんじゃあルール説明しますよー」 都合よく訪れた静寂に乗じて、エンが両手を広げて喋り出した。 「時間は無制限、使用可能な武器は開始時に身に付けてたモノのみ。勿論、身に付けているモノなら靴でも服でもアクセサリーでも何でも使ってよし。ここまではいつもと同じな」 一拍置いて、彼はまた大きく息を吸って話を続けた。段々と口調が砕けてきている。 「ただし、勝敗の決まり方。いつもだと敗北の条件は勝者または観衆に任せてるわけで、気絶でも口での『参った』でも相手を殺してもいいけど、今日は事情が絡んでっからオレが審判だ。よって、気絶して二十六秒以内に起き上がらなかった方を負けとする!」 「二十六? どうせなら三十でいいだろ?」 観覧席の誰かが不思議そうに問う。 「何でそんな半端な数字かってーとオレの歳の数だからだ。そんだけ」 エンがあっけらかんと返事をすると、会場中に笑いが広がった。 「両者から何か質問は?」 「ねぇよ。さっさとやり合わせろ、イトゥ=エンキ」 「無い」 満足そうに顎を引いてから、エンは後ろへ数歩下がった。壁まで下がったところで、左右へそれぞれ人差し指を指した。 「先ずは、十ヤード以上離れてもらう」 ゲズゥは言われた通りにした。頭領もズシズシと砂利を踏みしめながら離れていく。 「さてココに木の実がある。皆おなじみの緑色の酸っぱい奴」 エンは指の間に、拳よりも小さい緑の球体を持っていた。 「オレがこれを上へ投げる。木の実が地面に落ちたら、開始だ」 わかりやすい合図だ。音が小さいのが難点だが、会場には当然のように静寂が落ちたので問題ない。 ゲズゥは大剣を包む革の鞘の留め金を外し、鞘のパーツを遠くへ投げた。 どんな武器も身に付くとはよく言ったもので、それは裏を返せば一つの武器を集中的に極めていないとも言う。旅の途中で手に入ったこの大剣は使い慣れただけで極めてなどいない。 ゲズゥは素手での肉弾戦が最も得意だったが、今日の相手に、素手では分が悪すぎた。 勝算があるとすれば、あの巨漢から戦斧を離すしかない。 「用意はいいかー」 エンは肘を曲げた腕を下ろしては上へ上げた。 鮮やかな緑色の木の実が宙に放たれる。 ゲズゥは己の敵手へと視線を降り戻した。 頭領の放つ殺気に当てられないように、心を鎮める。これが森の中で遭遇した野獣なら、選択肢はたった二つ――完全に静止してやり過ごすか、一目散に逃げるか。決して戦おうなどとは考えない。 しかしここは森の中ではなく、相手も野獣ではなく人間だ。 ――ボトッ。 待っていた音が、右横からハッキリと聴こえた。 |
19.b.
2013 / 01 / 02 ( Wed )
「それより、頭のコレな」
エンは手の中の戦斧を指差した。
何か有力な情報を得られる予感がして、ゲズゥは顔を上げた。紫色の瞳と目が合った。
「コレは昔使ってた奴。最近のとはちょっと違うぜ。今は腰に提げてる短い斧と、背負ってる長い斧があって……長い戦斧の方は、どっちかっつーと鈍器に近い。昔は鋭利なのを使ってて短い方は投げる専門だから今もそうだけど。長いのはあんまり斬れない方が相手をもっとよくいたぶれるからってさ」
そう言ったエンの顔にはハッキリとした嫌悪の感情が浮かんでいた。
「だから攻撃喰らったら骨が砕けて、内出血が無ければ、苦しみは長引く。しかも斧の部分は、昔のコレよりずっと重い」
逆に言えば打ち所が悪ければ間違いなく死に向かうということだ。内出血は厄介すぎる。砕かれた骨が急所に刺さっても厄介。
「……頭領の戦闘種族としての特性は、腕力に長けているように見えた」
「そんなんあるのか? まあ力は間違いないけど、頭はああ見えて脚力も人並み以上だぜ。でも大技ん時は右脇ががら空きだ。本人も熟知してる弱点だから簡単には突けないけどな」
手本のつもりか、エンは戦斧を大きく振った。
長い間あの頭領を注意深く見ていたからだろう。昨夜数分だけ戦ったゲズゥにもわかるぐらいに、型の再現率が高い。が、再現しているのは型だけで、速度や威力は比べ物にならない。
――身の丈に合った武器を選べ。誰かを真似ては無意味だ。
また、懐かしい声がした。
本来エンがひいきにしている武器が斧ではないから、なんとなしに振るっても頭領に敵わないのは当然だ。
よく見れば、最初丸腰だと思ったが、実はベルトか装飾品のように巻いている鎖が本来の奴の愛用する武器なのかもしれない。
「ちなみにお前の特性は?」
エンはまた斧を一度大きく振って、起き上がろうとしている魔物を斬った。
「俺の先祖の系統は優れた筋力と、主に瞬発力が特徴だ」
自分でも驚くほど、躊躇無く答えた。今まで誰と話していても決して舌に乗せなかった情報だ。この男に対して、妙な仲間意識でも芽生えているのだろうか?
危機感は無かった。ただの勘だが、この男は自称していた通りに信用に値する人間に思えた。
「ゼロから全力、静から動に移るのが速いってとこか。加えて、細マッチョ体格にしてはバカ重い剣を振り回せる力……天性の才能ってスゲーな」
「…………」
否定しなかった。この身体能力が祖先から受け継いだ数少ない重要な財産であるのは確かだ。
これだけを土台に、強くならなければ生きていけなかった。どうせならもっと別の何かを残してくれれば良かったのに、と考えても仕方が無いことだった。
ゲズゥは今度は自分から質問した。
「お前が常に感情を押し殺しているのは、『紋様の一族』のもう一つの特性が原因か」
紫色の双眸が一瞬、大きく見開かれる。
「それも知ってたのか。その通りだよ。まあその内見せてやるから、楽しみにしとけ」
淀みない答えが返ってきた。
「じきに夜が明ける。行こうぜ」
エンの提案に、ゲズゥは素直に頷いた。
これから死闘が待ち受けているというのに、心の内にさざなみ一つ立たなかった。ただ、自分だけでなくミスリアの命までかかっている点だけが気がかりであった。
_______
「後悔、してない?」
柔らかい微笑をたたえた絶世の美女が、いきなりわけのわからない質問を投げかけてきた。
ゲズゥは振り返る姿勢のまま、無言で続きを待った。
ここは闘技場の中心へ続く通路。あと二歩進めば屋外に出る。今まさに夜明けを迎えようとしている外では、鳥たちがしきりに鳴きあっていた。
アズリは今日は髪を頭の後ろに複雑に結い上げている。泡沫を思わせる淡い色のビーズや羽などが編み込まれ、色合いは首飾りや耳飾と揃えられている。当然、地面に引きずるほど長いガウンを彩る宝石とも合う。
腹の足しになどなりやしないのに、女はよくも外見にここまで手を込められるものだ。――いや、この女の場合はそれを武器に男に取り入るのだから、ある意味腹の足しになっているとも言えるか。
初めて出会った頃のアズリは今より遥かに化粧っ気がなく、飾らない服装に肩に届かない長さのストレートヘアといった、地味な外見をしていた。それでもその存在感や造形の美しさは、初めて見る者を絶句させるほどだった。
後に知ったことだが、それは当時の男の好みに合わせていたのだと言う。
我の強い彼女が性格や生活習慣まで調整することは無くても、なるべく外見を男の好みに合わせるのがポリシーだと言うのだから、今の派手な格好も頭領に合わせているのだろう。
「あの時私を望まなければ、アナタがあそこを追い出されることも無かったわ」
ようやくアズリが話を続けた。組んだ両腕の中で、輝かしい腕輪が幾つも重ねらた細い手首の内側を見つめている。そこに施された青い花の刺青は、かつて共に属していた集団の象徴だ。
「さあな」
ゲズゥはそう答えた直後に、ある日を回想した。
――アナタとは一緒に行けないの。悪く思わないでね。
――結局こうなるのか。
――わかっていたことでしょう? アナタの為にこのポジションを捨てることはできないわ。まぁ、殺されなかっただけよかったじゃない? 寛大な処置を有難く思って、一人で頑張って生きることね――
無邪気な、まったく悪びれない笑顔。
自分が何かくだらない衝動に憑かれていたに過ぎないと、真に発覚したのはその時かもしれなかった。しかしもともと他人に執着しない性格ゆえに、醒めた後はあっさり忘れるのも簡単だった。
現在のアズリが口元に手を当てて、困った顔で首を傾げた。滅多に見ない表情だ。
「私は楽しかったからいいけれど。せっかく仲間に迎えた十五歳の少年を独り苛酷な世に戻したの、これでも後悔したのよ?」
と、口では言っているが、本心がどうか知れない。ゲズゥはこの際相手にしないことに決めた。
「気にするな。見ての通り、生き延びている」
振り返っていた肩を戻して一歩前へ踏み出した。
|
19.a.
2012 / 12 / 31 ( Mon )
両の手のひらの上に乗った重みを確かめるように、棒状のそれを僅かに上へ投げては受け止めた。見た目以上に、ずっしりと重い。握り締め直し、構えた。
木製の柄の先に斧を取り付けただけの簡素な戦斧だ。柄の部分は長いが、己の全身の身長にはまるで及ばない。とりあえずは軽く、何度か振り回してみた。普段あまり使わない筋肉が軋みを上げる。
――武器とは――
過去に受け取った言葉が頭の中に浮かんだ。勿論一句漏らさずに聞き取ったものではなく、記憶に残った解釈ではあるが。
――使いこなせなければ、かえって害になり得る。先ずは慣れろ。体の延長、果ては体の一部のように認識するんだ。
微かな懐かしさがこみ上げる。あの男から学んだことは多い。
「へぇ、様になってるじゃん」
現実に、掠れているとも言えるような声がした途端、ゲズゥ・スディルは戦斧を振り回す手を休めた。奴はまたしても余程警戒していなければ気付けないほど、巧みに気配を消していた。
「まさかソレ使う気か? 頭に対抗して」
「……原理を確かめている」
「あー、そっちか。真面目っつーか勤勉でカッコいいな。どんな武器も身に付くのって才能だぜ。戦闘種族だからか?」
声の主――ボサボサの黒髪に左頬の複雑な模様が印象的な男が、口元に薄い笑みを乗せて拍手した。布を巻かれた大きな板のような荷物を背負っている。
ゲズゥは男から顔を背け、戦斧へと注意を戻した。
夜明け前の山上は、薄明るくて少し肌寒い。
本来なら山賊の朝は遅いのだろう――他に誰かが起きている気配は無い。
この食堂スペースから見える空は灰色だったが、これから晴れそうな気がする。決闘を行う闘技場に天井は無いのだから都合がいい。
「これ、返すぜ」
模様の男は背の大荷物を降ろした。見渡す限りの山々に現れた幾つかの影を見据えている。
ゲズゥも風に乗った嫌な臭いと、聴き慣れた鳥の鳴き声に混じった不自然な鳴き声にすぐに気付いたが、対応に急がなかった。
「どうせ陽に当たれば霧散すんだから、わざわざ構ってやんなくてもいいかな」
のんびりとした提言があった。
「準備運動代わり」
男から大荷物を受け取ったゲズゥは、逆に戦斧を渡した。見たところ、模様の男は丸腰だ。男は戦斧を受け取ると、思案するようにその柄をトントンと肩に当てた。
「やっぱ真面目だな。じゃーオレも付き合うとするか」
二人はそれぞれの武器を構えた。ゲズゥは模様の男と自然に背中を合わせた。
見渡す限りの山と空に、冗談みたいな外観の化け物が複数邪魔をしている。豚と蛇と魚をごちゃ混ぜにして羽根を生やしたようなものだ。
先に、模様の男が動いた。素手で戦っていた時よりもややスピードの劣る動きで、襲い来る魔物を払う。
ゲズゥも一拍後に続いた。布を巻かれたままで大剣を振るうも、それ自体は大した妨げにならなかった。ほとんどが単独に真っ直ぐ向かってくるだけの雑魚に過ぎない。ゲズゥはあくまで準備運動と称すにふさわしい軽やかな動きで、呼吸に合わせて剣を薙ぎ払った。
そうして数分としない内に、二人で敵を残らず討ち取った。軽く走った時と同じように息が上がり、全身の筋肉に心地よく血が巡る。
「模様の男」
霧散するまでに再生しないように蠢く化け物を一匹踏みつけながら、背後に呼びかけた。すると目の端に奴が大袈裟に肩を落としたのが映った。
「その呼び方はねーよ。イトゥ=エンキが覚えにくいってんなら、特別にエンって呼んでもいいぜ」
呆れた声が返ってきた。
少しの間考えてから、ならばとゲズゥは再び口火を切った。
「エン――」
「やだよ」
「…………」
「引き受けらんねーな。悪いがオレは自分のことで精一杯なんだ、岸壁の教会まで一緒に行けてもそっから先は嬢ちゃんの面倒は見れねーよ。あの子を守るのはお前の役目だろ」
まだ何一つ言っていないのに、模様の男――エンは、こちらの考えを総て見通していた。
しかし岸壁の教会とやらまで辿り着けさえすれば、後は教会の援助でミスリアは旅を続けられるはずだ、とふと思った。
「守るのが役目、か」
「ん? 違ったんか?」
「――――いや」
違わない、とまでは言わなかった。
確かにミスリアには母の魂を解放してもらった恩があるが、それ以外に自分があの少女の盾になろうとする根底には自己の願いがあるのではないか、と最近疑問に思う。
故郷もアレも満足に守れなかった自分が、運良く得た第二の人生で誰かを守ろうとしているなど滑稽だ。
ゲズゥはそれ以上は何も言い出さずに剣の布を解き始めた。奴も言及しない。
|
18.j.
2012 / 12 / 19 ( Wed ) イトゥ=エンキはゲズゥの方に視線を投げた。
彼は既に壁から離れ、振り上げられた凶器の延長線上を外れている。 「折れた」 ゲズゥは、イトゥ=エンキに向けて心なしか申し訳無さそうに呟いた。折れた直刀を見せるようにして差し出している。 「あー、気にすんな。別に値打ちもんじゃねーし。お前のでっかい剣は保管スペースに置きっぱなしだからな、そいつで我慢させてこっちこそ悪いな」 「……いや。助かった」 彼は軽く目礼を返した。 (あら、素直) どうやら直刀はイトゥ=エンキが貸したらしい。 ――どういう思惑があって? 他の皆も同じ疑問を抱いているだろう。あの人といえば、嫌そうに顔を歪めている。 「ちっ」 興をそがれたのか、あの人は力を抜いた。それに応じてイトゥ=エンキが鎖を緩め、戦斧は下ろされた。 これまで傍観を決め込んでいたヴィーナは立ち上がり、騒ぎの中心へ歩を進めた。まずはあの人の腕にそっと触れて笑いかけ、彼の表情が和らいだ後、ヴィーナは残る二人の方を向いた。 「あなた達いつの間に仲良くなったの?」 「仲良くはなってませんて。すれ違いざまに渡しただけですよ」 食えない笑顔で、イトゥ=エンキが否定した。 「それより、提案があります」 「おう、儂もおめぇが何考えてんのか聞きてぇなぁ」 あの人のやんわりとした威嚇にも、イトゥ=エンキはまったく動じなかった。 「はい。ただの試合じゃあつまらないから、条件付けませんか? もしソイツが頭に勝てば、二人を無傷で送り出すってことで。聞けば、西へ進みたいんだそうです。ついでにそこの坊(ボン)の命もオマケにつけるってどうですか」 彼は床に転がる貴族の五男坊を指差した。元はといえばゲズゥはその男を助けようとしていたはずである。 「いいんじゃない、賭けるモノがあった方が断然面白いわ」 ヴィーナはすかさず賛成した。 戦闘種族同士が本格的に決着をつけるというのなら、それだけで退屈しないだろう。ただ、ゲズゥは淡々とした性格のまま、戦闘に於いてもどんなに劣勢になっても一貫して冷静である。ヴィーナとしては彼がもっと必死になっている姿も見てみたい。 「ほう、では負けたら三人とも人生をわしに預けるってことでいいんだなぁ?」 「ん。そこんとこどうよ? ミスリア嬢ちゃん」 イトゥ=エンキの一声で、全員の注目が後方の小さな女の子に集まった。ヴィーナが着せた衣装のままだ。何度見てもよく似合っていて可愛い。 急に話を振られたミスリアは三度、瞬いた。まるで三人分の命を背負う覚悟を、一人ずつ決めたように。 彼女はゲズゥを一瞥し、そして茶色の眼差しをあの人に注いだ。 (断れる訳が無いわよね、他に取引に使える材料が乏しいから) 彼女にとっては苦渋の選択かもしれないが、選択肢が一つしかないのだから、どうしようもない。可哀相だと思うよりもプレッシャーに潰れて泣き出す様を見てみたい気もするが、そうはならなかった。 巨漢を見上げたまま、少女のピンク色の唇が花びらのように静かに開いた。 「条件を受けましょう。約束します。お互い決して破りませんよう、この場に居る皆様と、イトゥ=エンキさん、貴方が証人です」 「任せろ」 左頬に鮮やかな紋様を持つ男がニヤリと笑った。 「決まりだ。明日、夜が明けたら開始だ」 あの人もいつの間にか楽しそうにしている。観衆も大盛り上がりだ。ヴィーナとて自然に顔が綻んだが――ゲズゥだけが顔をしかめたのが、視界の端に映った。 _______ 冷たく湿った部屋の中でそこだけが暖かそうに見えたのは、あの淡い金色の光の所為に違いない。少女の小さな背中を眺めつつそんなことを思った。 ゲズゥはミスリアと背中合わせに床に腰を下ろした。宴は再開され、そのため今は此処には誰も居ない。 「きゃ! あ、ゲズゥですか……」 一度吃驚して震え上がったのが背中越しに伝わる。 ミスリアは先刻拷問を受けていた男を自分の手で介抱していた。水と少量の食べ物を与えたらすぐに眠ったので、今のうちにバレない程度に聖気を当てているらしい。 「……すみません。貴方ばかり、危険な目に」 展開されていた聖気が消えたのと同時に、ぽつりと謝罪の言葉が響いた。 「どうせ、成り行きに任せようものなら不定期に拘留されただろう。むしろ願っても無い話だ」 ゲズゥは肩から振り返った。 何を思うわけでもなく、少女の柔らかい栗色の髪を一房、指ですくった。――暖かい。するりと、ぬくもりが指の間から逃げる。 驚きに彩られたミスリアの瞳が見上げてきた。 「――万が一俺が死んだら、模様の男と結託して逃げろ」 言うかどうか迷っていた言葉を、やはり言うことにした。 負けたら終わりなのだから自分は負けはしないだろう、と思う。しかし、それはありのままの現実を無視した精神論でしかない。 「そんな悲しいこと言わないでください」 「悲しいも何も、現実に有り得る。対策は必要だ」 ミスリアが俯いた。 物分りがいいのだから、こちらの意図は充分に伝わり、何が正しいのかもわかるのだろう。 「貴方が死んで、私だけ生き残るのは、ダメです」 「…………」 わかったとしても、受け入れないらしい。それはミスリアが後を追って無駄死にしたいという意味ではないだろうが、真っ先にその考えにたどり着いた。 「そんな命の懸け方は……ダメです」 ミスリアの声は震えていた。 「せめて私も戦えたなら、良かったんですけど……」 「詮無いことを言うな。役割分担と思えばいい」 ミスリアは、そもそも用心棒のような役割をあてがう為にゲズゥを探り出したはずだ。 「……はい。ですから何としても一緒に、生き延びます。お願い、します」 ゲズゥは前を向き直った。心のどこかで、この反応を予想していたのかもしれない。それに対して、はっきり何とは言い切れないようなもやもやとした感情が沸き起こる。 「ひとつだけ訊きたい。お前は例えば他の誰とも知れない人間が処刑されるとしても、止めたのか? 自分にとっての利用価値など抜きにして」 「それは――偶然、見ず知らずの人間が処刑される場面に通りかかる場合……ですか?」 「ああ」 「……そんな状況にならないとわかりませんが、何もせずに見過ごしたりは……しないと思います」 澄んだ声が、静かに告げた。 即ち、何も見返りを求めていなかったとしても、ミスリアは無償の慈悲で助けてくれたかもしれない、と。そう思うと何故か嫌な気はしない。 「お前みたいな人間がもっと多く居たら、或いは……」 「?」 ――或いは、生き苦しくない世界であったかもしれない。 喉まで出掛かっていた言葉を飲み込み、ゲズゥは立ち上がった。 「もう寝る」 話を打ち切り、踵を返した。 「……はい。お休みなさい」 ミスリアは、別れを仄めかす言葉を口にしなかった。 |
18.i.
2012 / 12 / 12 ( Wed ) 防ぐ為の道具も武器も持っていなかったはずなのに? そう思った次の瞬間、ゲズゥが地面に垂直に構えた直刀が目に入った。 巧く防げたのは良いけれど、あまりもの衝撃で両腕が痺れたのだろう。彼は次に降りかかってきた一撃を満足に受け切れず、たたらを踏んだ。 既にあの人は新たに攻めに入っていた。 槍のように長い戦斧が力強く振り回される。 二人が打ち合う度に金属がぶつかり合う音が大きく響いた。 ゲズゥは振り下ろされる斧の攻撃を避けたり受け止めたりが精一杯といったところの、防戦一方を強いられている。しかも一撃一撃の重みを受け止めた直後は、次に体勢を立て直すまでのラグがある。段々と余裕が無くなって行ってるのは見ていてわかる。 (スピードはゲズゥの方が上なんだから、流れさえ掴めればひっくり返せるかもしれないでしょうに。最初の腕の痺れで遅れを取ったわね) それでも彼は脂汗一つ浮かべていないのだから、大した精神力である。負ければ自分の死に繋がる状況で。 一方、ミスリアといえば笑みを崩していない。こちらも存外、肝が据わっているのかもしれない。 ふいにあの人の顔が険しく歪んだ。斧の長い柄を握る大きな両手が小刻みに震えている。 「戦闘種族かあっ!」 突拍子も無い怒号に、観衆は何が起きたのかわからずに静まり返っている。 「戦闘種族」の性質を知らなければ、何を訴えているのか思い当たらないだろう。たまたまヴィーナは、前に聞いたことがあった。 あの人曰く、戦闘種族の血を受け継ぐ人間は、互いに共鳴する。といってもそれは目に見える現象ではなく、単に組み合えば、お互いがお互いに対し「もしかしてコイツも?」ってピンと来る程度のものらしい。 「儂の一番嫌いな人種だ!」 余興の邪魔をされた時と比べ物にならないほど怒り狂っている。鬼気迫るとはまさにこのこと。 更に激しい攻防が続いた。 「生まれ付き人より頑丈で優れて――」 ――ギィン! ゲズゥの手に持つ直刀が、半分になった。 「……お前も戦闘種族だろう」 静かに、ゲズゥが指摘した。その声は微かに息が上がっている。 「そうだ。だが薄い。より濃い血筋の奴らにゃあどう足掻いたってかなわねぇ」 「…………」 「てめぇが濃い目なのはやり合ってりゃすぐわかんだよ!」 斧がまた振り下ろされる。 ヴィーナはそのやり取りをのんびり静観しつつ、考えを巡らせていた。 ゲズゥが戦闘種族だったのは知らなかった。が、そうだと言われても驚けないような、並外れた身体能力の持ち主ではある。 驚く点は、戦闘種族がまだ居ること、それ自体だ。歴史の流れと共に数が減り、しかも同胞同士で群がって生活しないため、血は薄れる一方であるはずだ。知名度はイトゥ=エンキの「紋様の一族」よりも更に低い。 (まあ、重要なのはそこじゃなくて、あの人……) 彼は時折、戦闘種族に対するわだかまりを吐き出していた。その根底にあるのは劣等感だ。それに打ち勝とうとして長年弛まぬ努力を積み重ねてきたのを、一年前知り合ったばかりのヴィーナでもよく知っていた。本人は隠しているつもりで、頭のゆるい団員の多くは気付いていないが。 (ほんと、男ってかわいいわ) 弛まぬ努力と生まれ持った素質が合わさって、今の彼が出来上がった訳だ。 はっきり言って、いかにゲズゥが「天下の大罪人」でも戦闘種族でも、たったの十九歳では到底敵わない。体格だけじゃなくて武器や技の練度の問題である。あの人の前では青二才でしかない。 とはいえ、ゲズゥも鍛錬バカだから、そこら辺の青二才よりはできる。 もう少し育っていれば、ヴィーナも彼に本気で興味を示したかもしれない――。 その時、斧を避け続けていたゲズゥがついに追い詰められた。背中が壁に当たったのである。 ――終わったわね。 そう思ったが、鎖が振り上げられた戦斧の柄に巻きついた。今まさに斧を振り下ろさんとしていたあの人を背後から制した男は、飄々と笑った。 「ちょっと待ちませんかー、頭」 拷問の対象や他の人間を巧く避難させ、自分が介入する隙を伺っていた彼。 「おめぇは引っ込んでろ。イトゥ=エンキ」 「んー」 曖昧に唸るだけでイトゥ=エンキは鎖を握ったまま、応じない。 力で振り払うことは簡単だろうけど、あの人はそれをしない。我が子のように可愛がってきた男を万が一にも傷付けられないのである。本人もまたそれをわかっていて、無茶ができるのだろう。 |
18.h.
2012 / 12 / 10 ( Mon ) 最後に会った四年前と比べてゲズゥ・スディルが強くなっているのは想像が付く。そして近い未来にあの人と衝突するのも目に見えている。
くすりと笑いが漏れた。何事かと隣の巨漢がこちらを見遣るも、ヴィーナはただ微笑んで誤魔化した。 (細マッチョと正統派マッチョの対決、ね。見ものだわ) ヴィーナにこれといった筋肉愛好の趣向は無いが、男は強いに越したことは無い。権力者に寄り添うことが、彼女の何よりの楽しみだった。 雄というのは競い合っていないと落ち着かない生き物。ならば雌は、頂点に立つ者を選ぶことに意義がある――。 (さて、あの子は何をするつもりなのかしら?) わくわくと心が躍る。ヴィーナは赤ワインを飲み干した。 もう一人、揺れ動く人影を目の端に捉えた。ゲズゥほどではないにしろ背が高くて程よい筋肉体質。山賊団の中で実力も器も並み以上でありながら、なるべく目立ちたがらない稀有な男。 (イトゥ=エンキ……あの人と何かただならぬ因縁がありそうだけど、上手に隠しているものね) 親子のような関係だと他の団員は言っていたが、果たしてそんな単純な話で済むのか、ヴィーナは密かに疑問を抱き続けている。 (きっともっと泥臭くて血生臭いんでしょう) ここで彼が何をするつもりなのか、それもまた興味深い。 その時、鞭を持つ手がまたもや振り上げられた。それに釣られて観衆が歓声を上げる。 ヒュン、と空が切られる音。 しかしそれに続いたのは鞭が人の肌を打つ小気味いい音ではなく、何かを弾き飛ばしたような、奇妙な音だった。時を同じくして、拷問を受ける男の前に誰かが立ち塞がっている。 弾かれたのはおそらくゲズゥが手にしていた煙管。 的を外して空振った鞭が力なく垂れている。それを持っている男は頭が弱いのだろう、状況が飲み込めていなくて口を開けて呆けている。 虚ろな目の貴族の五男坊は、数瞬遅れて事態を飲み込めた。何もかもに諦めていたように項垂れていただけの彼が、身をよじり出した。両手両足を縛られているのでミミズが這うようだ。 「た、すけてくださ、い」 「……何だ! 邪魔すんな!」 我に返り激昂する執行役の男を、ゲズゥは無言で蹴倒した。 「たすけ、たすけてくれるんですか」 被害者はこの上なく見苦しくゲズゥの膝裏に頬を擦り付けて縋り付いている。ワインが不味くなりそうな気がして、ヴィーナはグラスを置いた。 「…………」 答えないことが、彼の答え。 早速面白くなってきた。ヴィーナは長い髪を首の後ろに払い、周りの反応を待った。 こんな大勢の見てる前で大胆に「余興」に邪魔立てするからにはあの人も黙っちゃいないだろう。 「ほ、う。いい度胸だ」 案の定だ。巨体が、怒気を漂わせながら仁王立ちになる。 「客だからって付け上がるのは許せねぇな。てめぇらの命なんざ儂の手のひらの上だ」 磨かれた戦斧がギラリと光った。 「だが一応理由は聞いてやろう」 「……が、そう望んだから」 問われて彼は淡々と答えた。主語が抜けていてもこの場合は関係なかった。 (その感情に形など無くても、特別なのは確かなのね) 右手に頬杖付いて、ヴィーナは離れた位置に居るはずの少女の姿を探した。怯えて隠れているのかと思ったが、その予想は外れていた。 派手なひらひらドレスに身を纏ったまま、彼女は真っ直ぐ姿勢を正して、笑っていた。優しく、優雅に、余裕を含んだ笑みが、実に興味を惹くものであった。 他にも振り返っては驚き、唖然とする人間が多く居る。 (聖女様はただの役職名だけではないということね) つまりはカリスマ性のようなものを発揮できるのかもしれない。 現に、他の団員はまだ彼女の正体に気付いていないだけに当惑気味だ。魅了されていると言ってもいい。 「ほほう、従順でカワイイな」 ゲズゥはそれに対して声に出して何も言わなかったが、彼を知るヴィーナにはその心の声が聴こえた気がした。 ――そう見えるなら、そうなんだろう。 ゲズゥ・スディルにとって他人の評価など何の意味も持たない物。他人の顔色を窺いながら生きるのが愚かだと思っているから――。 斧が回転しながら宙を舞った。 中距離からの投擲だとゲズゥなら避けるのは容易い。ただし人の密集しているこの広場では、彼が避ければ他の人に当たるのは必然だ。 (どうするかしら) 長い一瞬が過ぎ去った。 そして彼が素早く動いたかと思えば、次いで大きな衝撃音が響いた。 |
18.g.
2012 / 12 / 08 ( Sat ) 相槌を打たずにミスリアが俯いた。長くなりつつある栗色の前髪が目元を隠したため、その表情は窺えない。
ゲズゥは身体の向きをゆっくりと変えた。数ヤード離れた場所に模様の男が立っている。 ポケットに片手を突っ込み、誰とも絡まずに一人で「余興」を見つめるその横顔には、笑みの欠片も無かった。 今の様子然り、ミスリアへの接し方然り、模様の男が仲間の価値観を共有していないのは明らかだ。それ故に、山賊団の中で浮いているように見える。 おそらくこの男は根はまともな感性の持ち主なんだろう。少なくとも、自分よりマシなのは間違いない。 「……です……」 ミスリアが何かを呟いたのが聴こえた。ゲズゥは動かずに、耳だけ澄ました。 「いやです」 二度目ははっきりと聴こえた。 「何が」 「また誰かが目の前で死ぬのは嫌です。見殺しになんて出来ません」 「だからって邪魔する気か」 呆れて、ゲズゥはミスリアをまじまじと見た。これだけの人間を敵に回すなど面倒以外の何物でもないというのに、それを示唆しているように聴こえる。 「私は自分が総ての人間を総ての苦しみから救ってあげられると思うほど、夢見がちじゃありません。これでも現実を見ています」 顔を上げた少女の両目は確かに正気の光を保っている。 「なら、大人しくしていろ」 煙を吐いてからゲズゥはそう言った。 「でも、目の前で苦しんでいる人を放っておけないのとは別問題です!」 「具体的にどうするつもりだ」 と、訊ねたら、ミスリアはそこで押し黙った。 自分に出来ることを真剣に考え連ねる為の沈黙だろう。 長い目で見るなら、世の中の美しいモノも醜いモノも経験し正面から直視してこそ人は成長するのではないか、と思うことがある。ゆえにこの場に干渉する気も失せる。 だが、目の前でまた人が惨たらしく死ねば、今此処で少女の心が折れる可能性は高い。 そうなってはまずい、気がする。 願おうと願うまいとこの少女は自分の今後の運命に深く関わっている。先に進めなくなったら、その時自分はどうなる? 数分ほど思案してから、ゲズゥは心を決めた。 「わかった」 「はい?」 「あの男を助ける。それでいいんだろう」 茶色の瞳に困惑が浮かんだ。耳を疑っているのだろう。 しかし冗談ではないと理解すると、ミスリアは瞠目した。やがて、頷いた。 「ありがとうございます」 いつに無く力強い目線が返ってきて、何故だか今度はこっちが困惑しかける。 相変わらずよく礼を言う女だ、と思いながら、ゲズゥは動き出した。 _______ くつろぎながらも周囲に抜かりなく注意を払っていたヴィーナは、長身の青年の動きにすぐに気が付いた。 彼は普段呆けていて何を考えているのかわからないくせに、一旦思い立てば間髪入れずに行動に移す節がある。 思慮深いとは思うけれど、度々直感に忠実に動くのだから、やっぱり浅慮とも取れる。 (存在感だけなら「静」に近いのに、行動力があって、立ち止まらない。フシギな子……見ていて飽きが来ないわ) ヴィーナはワイングラスをくるくる回して、赤い液体の放つ香りを楽しんだ。 |
18.f.
2012 / 12 / 05 ( Wed ) 血と吐瀉物(としゃぶつ)にまみれた膝立ちの男が、項垂れながら呻いていた。元は丁寧に仕立てられたのであろう衣服が無様に汚れて破けている。
一番近くに立つ人影が腕を振り上げて下ろすと、男は鞭打たれる痛みに悲鳴を上げた。 それに応じて男を取り巻く観衆が嘲笑う。 ――これは拷問ではなく見世物だ。 壁に背中を預け、ゲズゥは天井に向けて煙管の煙を吐いた。つまらない。 一通り宴が進んだ後に頭領は「余興」と称して最近拉致してきた若い男を広場の中心に引っ張り出したのである。どこぞの貴族の五男坊らしく、身なりはそのまま育ちの良さを反映して小奇麗だった。それも最初のうちだけだったが。 水責めにかけられ、鞭に打たれ、爪を剥がされて。男はそれでも思い通りの情報を吐いていない。 だが山賊団の方に焦りはまったく無い。家への責任感と自覚が比較的薄い五男が折れるのは時間の問題であり、しかも、既に次女から引き出すべき情報を残らず搾り取っているらしい。これは言わば答え合わせだ。幾つかの別荘を含んだ広大な敷地を、効率良く襲う為の準備。 ちょっと強姦しかけたら家宝の在り処を全部教えてくれたそうよ、とアズリは微笑んで話していた。それはゲズゥにとっては何も感じない話だが、隣で聞いていたミスリアの表情が揺れたのは知っている。 今もドレスを縁取るフリルを握り締めて茶色の瞳に涙を溜めている。 どうして当事者でも何でもないミスリアが苦しがるのか、ゲズゥには考えが及ばない。 例えば、自分に置き換えて感情移入をしているとか? ならばと思ってゲズゥも拷問されている男の立場に自分を置き換えてみた。 特に何も感じない。 そもそも以前似たような目に遭わされたことは何度かあった。肉体というのは器用なもので、「死にたいくらい痛かった」という認識が脳に残っているだけで、身体は明確な感覚をもう忘れている。脳が嫌な思い出を消去するのと同じくらい、生き続ける為には必要な処置かもしれない。 きっとこの少女は、目の前で苦しんでいる男の痛みとリアルタイムに同調しているのではないか。そう仮定してみたら納得できそうだった。 相手が誰であっても、心を拡張して取り込むのが何故か、それだけは謎である。 「な、んで……こんな酷い真似を……」 澄んだ声が漏らした疑問は、すぐ隣に立つゲズゥにしか聴こえなかった。独り言かと思ったが、その声には回答を求める痛切な響きがあった。 「奴らにしてみればただの娯楽だ」 なので、身も蓋も無い事実を答えた。 「理解できません」 涙が白い頬を伝った。 「そうだろうな」 ゲズゥはまた煙を吐いた。 生きる上で、奪う・奪われるの関係性は当たり前のように在る。いくらミスリアでもそれはわかっているだろう。 その上で、彼女にはまだ見えていない、業の深さ。 ――必要な時に必要なだけ奪って生きるのと、組織立って略奪を生業としているのとでは違う。 酒と快楽に溺れ、声を上げて笑っている観衆が抱える歪みを見れば明らかである。朝から晩まで健気に働く心を持たずに、他者から奪って楽をしようとしている。奴らはそれを当然と思い、他者を積極的に蹴落として嘲笑っている。 ゲズゥは顔をしかめた。 果たして他者を喰らうことに「何も感じない」自分と、「快楽を感じる」奴らに、如何ほどの差があるだろうか。 いや、自分は割り切っているだけで何かを感じてはいるのか? 突き詰めれば、どうでもいいことだった。 滅びた一族に代わって生き延び、従兄との約束を果たす。そればかりを想ってどんな生き地獄でも這い続けた。そしてアレが何処かで元気にしていれば、それだけで充分だった。 ――充分だった、はずだ。 「あの人は、どうなるんですか」 ミスリアが小さく問うた。 「……最終的には殺されるだろうな」 答え合わせが済めばそこまでだ。帰して泳がせる必要も無ければ、身代金を要求するまでの人物でも無い。 ならば後に不安要素にならないように消しておくべきである。 |
18.e.
2012 / 12 / 01 ( Sat ) 「真ん中の二人がこっちに手振ってるぜ。呼んでるっぽいな、行けば?」
「い、いえ、遠慮します。私は輪の外側でいいです」 激しく被りを振った。ただでさえ人の多さに酔ってしまいそうなのに、中心になんて行ける訳が無い。社交性を特徴としないゲズゥもまた、同じ気持ちであると信じている。 その時、中年ぐらいの女性がイトゥ=エンキの肩を叩いた。 女性は身をかがめた彼に何かを伝えた。 「わり、ちょっと外すわ。すぐ戻ると思うけど」 話を聞いていた時の彼の表情の変化を見るに、それほど深刻な話でもないようだった。 「どうぞお気になさらず。案内ありがとうございました」 「おー、後でまた話そうぜ」 イトゥ=エンキは中年女性について行ってその場を去った。 ミスリアはふとゲズゥを振り返ってみた。彼は通常通りに何の感情も表していない。 黒曜石を思わせる色の右目がじっとこちらを見下ろした。 「あの親父」 前触れなくゲズゥが呟いた。すぐに視線を別の方へ投げかけた。 彼の目線の先を追うと、そこは輪の中心だった。となると頭領の話をしているのだろう。 「もしかしたら、――――かもしれないな」 「え? 何ですか?」 肝心な言葉だけが騒音に掻き消されて聴き取れなかった。繰り返すように頼んでも、ゲズゥはあさっての方向を見ていて答えない。 何て言ったんだろう、と考えを巡らせていたら、誰かにいきなり横からガッシリと肩を抱かれた。ここでのこういう展開にはもう慣れたけど、身体は勝手に吃驚して震えた。 「お嬢ちゃん! しけたツラしてないで飲め! 飲んで食え!」 銅製のゴブレットが視界に飛び込んできた。静かに考え事を続けられる環境でないのは明らかだった。 「お気持ちは有難いのですが、私はお酒は飲めません」 などと断りの言葉を色々並べてみたものの、まったく聞き入れてもらえない。 「ほらほら」 「ですから、私はお酒は……」 「はい飲んだ!」 唇に強引にゴブレットを押し付けられた。こうなっては仕方ない。解放されたいが為に、ミスリアは琥珀色の液体に口をつけた。この状況なら教団の規制に背いてもやむなしである。 立ち上る強烈な臭いに頑張って耐えながら、少量の酒を喉に流し込む。 そしてすぐに噎せ返った。 (うっ、な、何これ! 不味い!) というより喉がヒリヒリする。儀式や祭日の際の濃度の薄いワインしか飲んだことが無かったから、こんな衝撃に対して心の準備はしていなかった。 「あーあ。そんな飲み方じゃあダメだ。なあ?」 男は傍に居る仲間たちに話を振った。すると男たちは一斉に手拍子を叩き出した。 「一気飲みしかないぜ! 一気!」 誰かがそう叫ぶと、皆が一斉に「イッキ! イッキ!」と何かの呪文のように唱え始めた。 (無理! 誰が何と言おうと無理なものは無理っ) しかし包囲されていては成す術も無い。涙目になりながら、ミスリアは手が滑った振りをしてゴブレットを落とそうか、と思案した。 救いの手は唐突に伸びてきた。 見覚えのある手がミスリアの右手からサッとゴブレットを奪い取った。呆然と視線を巡らせれば、既にゲズゥが酒を飲み干した後だった。 周りは豪快な飲みっぷりに歓声を上げる。 当のゲズゥは総てどうでもよさそうに、銅製のゴブレットを壁に投げつけた。大きな音の後、すぐに歓声が止んだ。広場中の注目が長身の青年に集まる。 その間、輪の中心の二人は面白そうに眺めるだけで関与しない。 「不味い酒より、飯」 短く言い捨てた後にゲズゥはミスリアの腕を掴んでその場を離れた。 酔っ払いたちはもう飽きたのか、追ってこない。広場の喧騒が元に戻るのに数秒とかからなかった。 ミスリアは前を歩く青年の背中を見上げて口を開いた。 「あ、ありがとうございました」 あそこから救い出してくれたことに関してのお礼を言った。ゲズゥは歩を緩めないので、聴こえたのかどうかは定かではない。 食べ物が並べられているテーブルの前でようやく彼は足を止めた。 (ご飯を食べたいというのは本気だったのね) かくいうミスリアも空腹だったと、今更ながらに思い出した。 ボウルを取ろうと手を伸ばす。 「…………お前、よくわかっていないだろう。模様の男の話し方だと伝わりにくかっただろうがな」 ミスリアは頭上からかかってきた声の方を向いた。 「わかっていないって、何をです?」 空虚な両目に見つめられて、ドキッとしながらも訊き返した。 「業の深さ」 低い声が、ずしりと重く言い放った。 「今にわかる」 ゲズゥが何を指して言っているのか皆目見当が付かなくて、ミスリアはただ彼を見上げて瞬いた。 **この場面で登場しているお酒はCognacみたいなものと想像してください。 ただし質が悪いので不味い(・∀・) |
18.d.
2012 / 11 / 29 ( Thu )
(十五年…………あ、もしかして) |
18.c.
2012 / 11 / 27 ( Tue ) 誰もが黙然と見守る中。ふわりと、甘い香りが舞った。
ヴィーナが頭領の正面に回ったのだ。不敵に腕を組み、半透明の長い袖を風になびかせながら、自分の倍ある体格の男をしっかり見上げている。 「不公平も何も、表社会の人間が付ける通り名なんて無意味に等しいわ。それより、こんな狭いところでやり合うより後でちゃんと決闘すればいいんじゃない?」 ねっとり絡みつくような甘い声を発する彼女の表情を敢えて形容するなら――妖しげ、だった。 「そうだな――」 怒るのかと思いきや、頭領は同意を示した。 「ええ。それにアナタの為に宴の準備がしてあるのよ」 「おお! お前は相変わらず気が利くな」 ちょうど腹も減っていたことだし、と彼は続けた。 頭領はまたしても笑い出し、そうしてあっさりと、緊迫した場面が今度こそ終わった。 (簡単に主導権を握った彼女が、本当は一番の大物なのかも) ミスリアには到底真似できない。あのまま一人で相対してたなら怖気付いて逃げ出していたかもしれない。 未だに平常運転に戻らない心臓をそっと撫でる。 「よし、皆飲んで食うぞ! 客も一緒だ! イトゥ=エンキ、案内してやれ」 「はーい」 闘技場のギャラリーは頭領とヴィーナの後に次々と席を立ち始めていた。お祭り騒ぎが好きなのだろう、わかりやすい興味の移り変わりだ。 背後のイトゥ=エンキはミスリアの肩を離すと、今度はゲズゥの腕を指で突付いた。 「皆単純っつーかさ、頭の方にばっか気を取られてたから忘れてるみたいだけどさ。お前、スッゲー跳躍力な。あと、嬢ちゃんに対してけっこー過保護?」 「そんなことありませんよ」 過保護という表現に対し、苦笑い交じりにミスリアが抗議した。 「あるだろ。まー、なんも考えないで飛び出したって印象も強いか」 ゲズゥは無言で首を鳴らしている。会話に入って来る素振りは特に見せていない。 「嬢ちゃん生きてる? 頭はあんなカンジに空気読まないっつーか好き勝手やる人種だから。姐さんとはお似合いなもんだよ」 「は、あ。熊を素手で倒せそうな方だと思いました……」 失礼とは思いながらもうっかり口を滑らせてしまった。 「年に何度か一人で狩りに行ってるらしいぜ。流石に素手は無いけど」 「本当に!?」 熊など並大抵の人間が一人で倒せるような猛獣では決して無いはずだ。しかも彼らは知能の低い魔物と違って賢い。 「ほんと。その内どっかで無茶して死ぬんじゃないかなー、とオレは踏んでる」 「え……」 けろっと言ったように聴こえたのに、何気なく瞥見したイトゥ=エンキの端整な横顔は、ふざけていなかった。 それが何を意味するのか、知り合って間もないミスリアには推し量れない。どうしてか、今の言葉に含まれていたのが心配ではなくもっと複雑な感情のように思える。 人々の波に倣ってミスリアたちも歩き出した。ミスリアとイトゥ=エンキが並び、その二歩ほど後ろをゲズゥが歩く。彼は何か思案に暮れているのか、眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。 バルコニーを降り、闘技場を去って、一同は洞窟の迷宮へと潜り込んだ。急な暗がりと壁の灯りに目が慣れるまで、ミスリアは何度か目を瞬かせた。 「……イトゥ=エンキさん」 ぽつりと、ミスリアは前へ視線をやったまま呼びかけた。こんな立ち入ったことを訊いていいのか迷うけれど、思い切ることにした。 「ん?」 「貴方は、お頭さんのことをどう思っているんですか」 小声で言いながら、目を合わせた。紫色の瞳が少し驚いたように見開かれた。 「どうって言ってもな、大岩みたいなおっさん? 初対面はオレもビビッて腰抜けたよー」 求めていたのと方向性の違う答えが返ってきて、ミスリアは呆気に取られた。しかも悪びれずに普通の大きさの声を使っている。 「それは……何だか想像が付きません」 「ところが事実なんだよ」 穏やかに笑う彼を見上げて、ミスリアは不思議に思った。 この人の取り乱している姿が想像できない。 「いつ頃のお話ですか?」 ミスリアが訊ねると、イトゥ=エンキは顎に手を当てた。 「そりゃー、十五年前だな」 最近聞いたような、馴染みのある数字だった。 |
18.b.
2012 / 11 / 21 ( Wed ) 大男の喉から発せられた声が、大気を震わせた。
知らない言語だった。 きっと誰何(すいか)している、答えなきゃ、と思うのに声が出ない。 静謐な宵闇の重圧に耐えかねて、ミスリアはお腹回りに巻き付いているゲズゥの腕をそっと握り――ふわっと身体が浮いたと思えば、ゲズゥと立ち位置が入れ代わっていた。 男は眉を吊り上げ、腰に提げた戦斧に手を触れた。 「私が迎えたお客さんよ」 涼やかな声で南の共通語を話したのはすぐ近くでくつろいでいる絶世の美女である。 「ほ、う。そういうことか」 顎の髭を撫でつつ、男は言語を切り替えた。 「道理でな。こんな人形みたいな娘などウチには居ないと思った」 男がそう言ったの同時に威圧感がいくらか和らいだ。 「可愛いでしょう」 「ああ。儂に幼女趣味は無いが、その線の輩に高く売れそうな上玉だな」 ヴィーナに歩み寄り、男は慣れた手付きで彼女を抱き寄せた。同じ慣れた様子でヴィーナが男の首に絡み付く。前にも見たような濃厚な抱擁だった。 (じゃあこの人が「頭」なのね) 頭髪を短く剃っているが、髭と眉毛は薄茶色またはダーティ・ブロンドと言えるような色が主で、所々白が混じっている。 山賊団の頭領は、見る者を圧倒する外見をしていた。 ただでさえ長身のゲズゥより更に頭一つ分身長が高く、熊の一匹や二匹くらい素手で倒せそうな雰囲気である。盛り上がった上腕の筋肉なんてミスリアの腰より分厚いかもしれない。 「お前ら、面白いことしてるな!」 声を張り上げ、彼は身体を揺らしながら笑った。それに続いて闘技場の空気が変わり、皆が一斉に騒ぎ出した。状況からして、きっと頭への挨拶の言葉を並べている。 「頭、お疲れー」 いつの間にバルコニーに上がっていたイトゥ=エンキが、片手をポケットに突っ込んだまま手を振る。 「おう、イトゥ=エンキ。もっとこっちに来て顔をよく見せろ」 「いつ見ても同じ顔ですよ」 「そう冷たいコトを言うな」 片腕でヴィーナの細い肩を抱き、空いた手で手招きしている。呼ばれたイトゥ=エンキは数歩歩み寄ったと思えば、それ以上距離を縮めずにミスリアたちの横で立ち止まった。 「そいつぁ何だ? 呪いの眼の一族なんてまだ居たんだな」 頭領が未だに臨戦態勢を解かないゲズゥに対して顎をしゃくった。 「居たんです。『天下の大罪人』って覚えてます?」 のんびり答えたのはイトゥ=エンキ。周りの他の人間も会話に割って入りたそうなのに、遠慮しているのか黙ったままだ。 「青臭いガキのくせに生意気な通り名が定着したヤツだな! 思い出したぞ。強いか?」 「そーですねー、残念ながらオレじゃあソイツの本気を引き出す事は無理でしたよ」 イトゥ=エンキは目を細めて笑った。 (どっちも手加減してた様には見えなかったけど) 踏み込みが甘かった、などとミスリアにはわからないようなレベルのやり取りがあったのだろうか。それとも彼が嘘をついているのだろうか。 意図が読めなくて、ミスリアは首を傾げた。 「どれ」 巨体が動いた。同時に、ミスリアは横へ突き飛ばされた。 「きゃあ」 「――おっと」 イトゥ=エンキに肩を受け止められ、ミスリアは思わず目を瞑った。次いでバルコニーが揺れた。 「大した瞬発力じゃねぇか」 次に目を開いた時、戦斧が地に突き刺さっているのが見えた。地面には小さくひびが入っている。頭領は不気味な笑みを浮かべながら、斧を抜いた。 「……」 ゲズゥは、攻撃を仕掛けてきた頭領の斜め後ろに移動していた。 「いやね、男は。すぐ力比べしたがるんだから」 ころころ笑うのはヴィーナだけだった。他の人間は頭領が発する殺気に当てられて、青ざめている。 頭領は腰に提げていた斧以外にも、背中に長い戦斧をもう一挺備えている。 「まったく、生意気な話だぁな。犯した罪の重さも数も儂らの方が上だ。てめぇばっか有名んなって、不公平よなぁ」 声や仕草は確かに笑っているのに、頭領の目は全然笑っていない。 |
18.a.
2012 / 11 / 15 ( Thu ) 背後から迫り来る脅威に反応して、首周りの肌が粟立った。
すかさず身を屈め、ゲズゥ・スディルはその拳の威力を味わわずに済んだ。 地面に右手を付けてそのまま蹴りを組み込んだ宙返りを展開した。 対する男は両腕を交差させて堅くガードした。 口元が少し釣り上がった以外に反応を見せない、冷静な対処だった。どんな表情を浮かべていても、男の左頬の複雑な紋様が冴えるので不思議である。 ――模様の男。やはり最初に見積もった通り、かなりやる方だ。 ゲズゥは久方ぶりに沸き起こる高揚感に自分でも驚いていた。 日没頃、山頂に建てられた闘技場の中心で、誰の邪魔も無く一対一の戦闘を繰り広げている。 人気が無い訳ではない。 円の形をなぞる客席にはまばらに人が座している。急遽始まった試合の割には見物人が多い方だろう。人が一番固まっている箇所では賭け事が盛り上っているに違いない。 一番高くて見やすいバルコニー席には、足を組んでワインを飲みながら観戦するアズリの横で、ミスリアが所在無さげにちょこんと座っていた。 アズリに派手な服を着せられたためか、ミスリアに絡んでくる輩は増えたようである。 だからと言ってそれらに害は無さそうなので今は気にしない。 模様の男が拳の連打を繰り出した。それをどれも際どい所でかわしながら、ゲズゥは反撃を仕掛ける瞬間を伺う。 発端は、向こうからの一言だった。 ――頭が帰るまで暇だし、ちょっと組み合わないか。 良い機会だと思った。 純粋な興味の他に、ゲズゥは山賊団の中で一目置かれているらしいこの男の実力を測ろうと考えた。 模様の男の強さは、軸の安定から来ている。足腰の鍛錬は勿論のこと、幾度となく拳を打ち出して得る強さだ。体格はゲズゥと多少似ているが、腕力と技術では奴の方が僅かに上回っている。 直刀を含んだ武器類を扱える上に、素手でのこの実力。この分なら頭領にも期待できる。アズリの男の好みを思えば、どうせ頭領はとてつもなく強いのだろう。 期待する一方で懸念もある。敵が強ければ強いほど、山脈から無事に逃げられる確率が減るからだ。 相手が立ち止まった刹那。 それが奴からの誘いであると知りながら、ゲズゥは素早くローキックを放った。模様の男はまた巧く防御し、逆に間合いを詰めた。 掌底を叩き込まれる一瞬前に、ゲズゥは男のみずおちを肘で打った。 「ぐっ……!」 男は呻きを漏らした。が、倒れるどころか、びくともしない。 体を回転させて、ゲズゥは男の背中に回った。 体重はおそらくこちらに分がある。投げ技ならば決まる可能性が大きい―― 模様の男の次の行動は意外だった。こちらの手を弾き、距離を取ったのである。 防御がしっかりしていて攻撃に溺れない、慎重なスタイルだと思った。 不意打ちや先手を狙うのが多い賊にしては、このやり方は珍しい。不意打ちは裏を返せば失敗した時のリスクが大きいものだと、熟知した者のやり方だ。 性急さが無くて落ち着いた性質は少しだけオルトを思い出させた。ただしこの男のそれは生来のものというより、意思で昂ぶりを制御している印象を受ける。 「……あ」 不意に、向かい合った相手から気の抜けた声が発せられた。 模様の男の視線が上へずれた。何かを見つけて瞠目し、緊張を解いている。 ゲズゥが次の瞬間に走り出したのは何の根拠も無い、直感に基づいての行動だった。 助走を付け、流れる動作で宙を高く跳んだ。己の全身の筋肉と瞬発力の総てを駆使して跳んだ。 目指していた場所には届かなかった。仕方なく、着地点から目標を抱きすくめた。 _______ 全身を真っ先に駆け巡ったのが恐怖だったのか畏怖だったのか或いはただの驚愕だったのか、ミスリア・ノイラートには確認する術が無い。 岩のような存在感を漂わせる巨漢に見下ろされてかろうじて平然としていられたのは、背中とお腹周りに感じた、知った感触のおかげだと思う。 何故彼がそこに居るのかはわからないけれど、おそらく自分が闘技場の中心から背を向けた間にどうやってか移動してきたのだろう。 珍しく上がった息に伴って、ゲズゥの胸板も通常より速いリズムで呼吸を繰り返している。 背中越しにぼんやりそんな発見をしたミスリアは、口を開いた。 「こんばんは」 目前の巨漢からの返答は無かった。ちょうど影がかかっていて顔も見えない。 男は数秒或いは数分の間、ミスリアを見下ろしていたように思えた。 さっきまで闘技場を賑わせていた歓声がいつの間にか止んでいる。己を抱きすくめる青年の呼吸音しか聴こえない。 |
17.h.
2012 / 11 / 12 ( Mon ) するりと、暖かい髪が首筋に触れる。くすぐったさに、ミスリアは身じろぎした。
すぐに背後からくすくすと笑い声が聴こえた。 「くすぐったかったかしら。ねえ、若さっていいわねぇ、少しぐらい手入れを怠っても髪の毛がこんなに柔らかくてサラサラなんだもの」 艶やかな女性の声がすぐ近くにある。 (若さって……そういう貴女はおいくつなんですか……) とは、口に出して問うことができない。 食事も済んで、何故かミスリアはヴィーナに髪を梳かしてもらっていた。勿論言いだしっぺはヴィーナである。食堂にいきなり現れてはミスリアを自室へ連れて来たのだった。広い部屋には灯かりがいくつも灯されていて、洞窟の中であるとはまったく感じられない。 そこでヴィーナは着せ替え人形にするように服を選び、次々とミスリアに着せた。ようやく、白地に真紅の花柄とフリルの付いたドレスに落ち着いたかと思えば、今度は鏡台の前に座らせて髪を梳き始めた。 馬の体毛を用いた高価なブラシが、ミスリアの栗色のウェーブがかった髪を通る。 その間、ミスリアは黙りこくっていた。 「生き別れた妹を思い出すわー」 うきうきとヴィーナが言った。 「妹さんはどうされたんですか?」 「あら? 適当に言っただけなんだけど、信じちゃったの?」 「はい?」 「いないわよー、妹なんて」 またくすくす笑う声がする。 (何でそんなこと) 一体何のために適当に嘘をつくのだろう。理由があろうともなかろうとも、からかわれているのは確かだ。ミスリアはわけがわからず、イライラしてきた。数時間も着せ替えに付き合ったストレスも溜まっている。しかし断れない性格のミスリアと強引なヴィーナとでは、覆せない結果である。 「ねえ」 「今度は何ですか」 いつになくキツイ口調になってしまい、ミスリアははっとした。謝るべきか検討するも、ヴィーナは気にしていないようだった。 「赤いチューリップに合わせて赤いカチューシャ。これを付けたら出来上がり」 フリルのついたカチューシャを渡された拍子に、ヴィーナのあの不思議な香りが微かに鼻に届いた。 ミスリアは言われたままにカチューシャをつけ、改めて鏡の中の自分の姿を確かめた。 すると自分でもどう反応すればいいのかわからないくらい可愛いらしい少女が写っていた。 着飾り、下ろした髪を綺麗に整えるだけで普段と全然違う印象をかもし出している。こういった柄や色は滅多に着ないので新鮮だった。 初めて味わう浮遊感に戸惑いつつも、ミスリアはお礼を伝えた。 「いいわよ、その服あげる。元の持ち主が着れなくなっちゃって。でもあんまり可愛いから取って置いたのよ。似合う靴が揃ってなくて残念だけど」 そう言って、ヴィーナはミスリアの肩を掴み、自分に向けるようにくるりと回転させた。 サファイア色の瞳が満足そうに輝いていた。 「ありがとうございます。でも、私には勿体無いので謹んで遠慮します」 もらった所で今後使い道が無さそうな服である。それでも、一応深々とお礼をした。それについては、ヴィーナは何も言わなかった。 「ねえ」 「はい?」 「私とゲズゥがどういう関係だったか、気になる?」 彼女は首を傾げて、ゆっくり訊ねた。刹那、彼女の両耳の大きなイヤリングが光を反射した。 ミスリアはその場で固まった。 「気になるでしょう」 「そ、それは……」 気にならないわけが無い。唐突に訊くものだから、取り繕う余裕が無くて困る。 「知りたかったら、教えてあげてもいいわよ」 ヴィーナはにっこり笑って見せた。優位に立つ者の話し方だった。 それからの沈黙がやけに重い。 鏡台の上に置かれた蝋燭の炎が揺らめいた。広い部屋で二人きりである事実を何故か急に意識してしまう。 「知りたいです」 ついには搾り出すような声で、ミスリアはお願いした。ゲズゥに聞いても答えてはくれないだろう。 人の過去を聞くことに後ろめたさはある。それでも、知りたい願望の方が圧倒的に強かった。或いはこんな風に追い立てられるように訊かれたのでなければ、「知りたくない」と答えられたかもしれない。 「――男と女の関係」 ふくよかな唇が囁いた。 (やっぱり) 予想内の返答に、ミスリアは膝の上で手を握り合わせる。 「……でもそこに愛は無かったわ」 淡々と言って、ヴィーナは簪を唇の間に銜えた。次いで空いた両手で長い紺色の巻き毛を一つにまとめ、簪を挿した。 ミスリアは彼女の次の言葉を待ちながら、鏡を見ていないのに器用だな、と思った。 「アナタにはまだ、意味がわからないかしら」 「……そう、ですね」 「あの子は恋と勘違いしてた時期もあったみたいだけど……」 ヴィーナは懐かしむように目を細めた。 (あれ? 何だかものすごく意外な単語を聞いたような) 返すべき反応がわからなくてミスリアは何も言わずに居る。 「あとは、本人に訊いてみるといいわ」 ふわっと微笑んで、ヴィーナは部屋の出入り口へ向き直った。ミスリアもそれに合わせて視線を右へずらした。 入り口の左右に、それぞれゲズゥとイトゥ=エンキが佇んでいた。二人とも気配が消えているのに、ヴィーナは良く気付いたものである。 「何を訊いてみるって?」 面白そうに訊ねたのはイトゥ=エンキだ。耳から上の髪の毛を後頭部で束ねている。 「なぁに、立ち聞きしてたんじゃないの?」 「生憎とオレは地獄耳じゃないんで。コッチは聴こえたかも」 彼は親指で向かいのゲズゥを指した。 「……」 ゲズゥは無言無表情を崩さなかった。 「まあ、私はどちらでも構わないわ」 そう言ってヴィーナはミスリアの手を引き、入り口まで近付いた。 「はは。嬢ちゃん、そういう格好もカワイイな」 「ありがとうございます」 ドレスを広げる礼を返した。 「それで? 私に何か用があったの? それともミスリアちゃんの方?」 「両方かな。頭から通達が来ましたよ。今晩の夜には戻るそうです」 「そうなの。それは色んな意味で楽しみね」 ヴィーナは二人の男の間を通って通路へ出た。身体にぴったりとしたドレスによって、後姿の曲線が目立つ。いっそ羨ましいほど綺麗なくびれである。 「そういうことだから、心の準備でもしとくんだな」 ミスリアを振り返ったイトゥ=エンキの顔には、意味深な微笑が浮かんでいた。 すぐに彼はヴィーナの後を追った。 残されたミスリアはゲズゥをチラッと見上げた。 左右非対称の両目が、じっと見つめ返す。 やがて彼は瞑目し、溜息を吐いた。 「……アズリが言うほど当時の俺は勘違いしていなかったが、アイツをがむしゃらに求めた根本にあったモノは支配欲とでも形容した方が的確だな」 「しはいよく……?」 「どの道アイツは俺を選ばなかった。ただの暇つぶしのつもりだったんだろう」 そう言って歩き出した青年の背中には、哀愁も何も漂っていなかった。 以前言った通り、再会してもしなくてもどうでも良いほどに未練が残っていないのかもしれない。 ミスリアは頭を振った。 恋だの欲だの、自分にとっては全く未知の世界である。考えれば考えるだけ頭が痛くなっていく。 そんなことより生死のかかった問題から焦点を当てていこう。 拳を握り締め、ミスリアはそう心に決めた。 |
17.g.
2012 / 11 / 07 ( Wed ) 「どうして貴方がそれを?」
ミスリアは慎重に訊き返した。 「どうして教会の存在を知っているかって? それともどうして場所を知りたがっているかって?」 「……では後者で」 「探してるモノがあるんだよ。見つかるとはもう思っちゃいねーが、手がかりはそこだけなんだ。嬢ちゃんが聖職者なら知ってるかもと思ったけど、当たったな」 紫色の瞳が悲しげに揺れている。何か深い事情があるのは明白だった。ミスリアはどう答えるべきか迷った。 アルシュント大陸が如何に広くとも、岸壁の上の教会は一軒しか存在しないはずだった。 その岸壁から東は深い樹海に覆われており、それも予め道を知っていなければ確実に迷うような場所である。なんでも、下手に踏み入れれば数分で眩暈に襲われては気絶するという、いわくつきの樹海だ。 逆に岸壁側から登るのもほぼ不可能とされている。 教会が建つにはやや不自然な地。しかしそれには勿論理由がある――。 イトゥ=エンキはテーブルに肘を付き、ミスリアに顔を近づけて、耳打ちした。 「オレをそこへ連れてってくれないか」 吐息が耳たぶにかかり、ミスリアは微かに身震いした。ハスキーボイスが妙に近い。 「できません。『訊きたい事』はそれだけですか?」 距離のせいか、つい囁くように返事をしてしまった。 「頼む」 「……すみません」 彼の切なげな表情に、ミスリアは動揺せざるを得なかった。それでも、是とは答えられない。 何故ならば、岸壁の上の教会が聖地に建っているからだ。皮肉にもそこが目指すべき最初の巡礼地でもあった。 聖地に賊を連れて行くことが叶うとは思えない。むしろ、聖女の護衛を務めるゲズゥですら敷地内に入れないかもしれない。 「本当は、自分の足で行ってみようと試した事もあった。でも樹海が阻む。どうあっても進められねーんだ」 「そうまでして何を探してらっしゃるんですか? 何を、ではなく、誰を、と訊ねるべきでしょうか」 「生きてるか死んでるか知りたいだけなんだよ。生きてるなら、元気かどうか確かめたい。十五年経ったけど、どうにも諦められないんだ。これって変だと思うか?」 ミスリアが口を開くより先に、頭上から低い声が降りかかった。 「変だなんてことは無い」 そう呟いたゲズゥがミスリアの隣に座った。鳥の揚げ物の串を三本、右手に持っている。 「何だ、盗み聞きか」 必死な表情がすっかり消えたイトゥ=エンキは怒っている風でもなく、のんびりとした口調だった。 「気にするな」 無機質な返事。バリバリと串の肉を一本分食べ切ってから、ゲズゥはまた喋った。 「家族の安否を諦められないのは当然だ」 ゲズゥはどうやら、イトゥ=エンキが家族を探しているらしいと文脈から拾ったようである。「気にするな」は盗み聞きの話ではなくさっきの「変だと思うか?」の質問に対して言っていたのかもしれない。 「……オレはお前と同じだよ、『呪いの眼の一族』。ウチの一族は駆逐こそされなかったが、紋様が美しいからって理由なだけで愛玩奴隷として求められ、利用され、飽きられたら捨てられた。そうして発狂し、果ては身を投げた同胞は多く居た」 何を思ったのか、イトゥ=エンキは愁いを帯びた声で壮絶な事実を語り出した。 「または、紋様の中に重大な魔術やら秘密やらが潜んでいると思い込んだ人間に監禁されたり、研究対象にされたり。そんな特殊な機能も意味も何も無いってんのに、悲惨なもんだよ」 「ああ。人間は醜い」 ゲズゥは二本目の鳥肉を食みつつ、あっさり賛同した。 何とも居心地悪い話題である。少数民族としての二人の会話に、一般人のミスリアが入っていくことはできない。 食堂では明るい話し声が飛び交っている。ここのテーブルだけ、切り離された空間みたいだった。 ミスリアは空になったお椀を指先で押し退けたり、そっと回したりして玩んだ。 「そういう訳だから、後生だ」 イトゥ=エンキは再びミスリアと目を合わせて懇願した。人目があるからなのか、手を合わせるまではしていない。そうでなければ土下座でもしそうな雰囲気である。 「ダメです。貴方を信用できませんから」 ここは一つ直球で応えることにした。 「じゃあ、これから信用に値する人間だってアピールするから、大丈夫だと判断した暁にはオレの頼みを聞いてくれるか」 「そ、そんなこと私の一存では……代わりに問い合わせることならできると思いますが」 ミスリアは口ごもった。あまりに真摯に頼むものだから、つい承諾しそうになってしまう。 (敷地まで入れなくても付いてくるくらいなら……) 後は教会に入ってミスリアがその人のことを訊ねればいい。そこまで譲歩してもいいと考え始めている。 「――最後に見たのは泣き顔だった」 ぽつり、彼は呟いた。伏目がちにテーブルに視線を放っているように見えるけれど、焦点がそこに合っていない。 「楽しい思い出も沢山あるけどな、この十五年間、一番思い出すのは最後に見た顔なんだよ。殴られた痕であちこち腫れてて。何があっても生きろと、泣きながらオレに言い聞かせた」 どれほどの苦しみであったのか、本人でなければわからない。 それでも話を断片的に聞いただけでもミスリアの胸は鋭く痛んだ。 「わかりました。では、貴方が信用できる人間とわかり次第、必ず連れて行くと約束します。イトゥ=エンキさん」 そう言葉をかけてやるのが精一杯だった。 |