26.b.
2013 / 09 / 05 ( Thu ) 「ほほう。それは聴きたいな。楽器を使うか?」
「では竪琴(ライアー)をお貸し下さいませ」 楽師たちが扱っていた楽器は一通り見ている。その中で一番扱い慣れた物を選んだ。 「よし、楽師ども! 聴こえただろう、貸してやれ」 ウペティギの命令に応じて、楽師の一人が歩み寄ってきた。同時に、ミスリアの手錠が兵士の手によって外される。 竪琴を受け取ると、ようやくミスリアは少し顔を上げた。 城主ウペティギを含む五人の貴族風の男性が瞳を期待に輝かせている。彼らの視線が自分の腰周りに集中している気もするけれど、それに関しては考えないことに決めた。 (聖歌の類は避けるとして……民謡がいいかしら。共通語版) いくつか暗唱できる歌から適当に一曲を脳裏に浮かべ、音程を確認する為に竪琴の弦を専用の爪(プレクトラム)でそっと弾いた。足を少し横にずらして床に座す。スカートがふわりと大理石に広がった。 部屋の中は既に静寂に包まれている。弦の音色だけが響いた。 ミスリアは弦の音程に合わせて少しだけ声を出した。喉が渇いているゆえ、歌う時に音をきれいに伸ばせるか不安はある。せめて声量だけでも高めようと、腹式呼吸を繰り返した。 もう準備もこれくらいでいいだろうと思えた時。 聞き手に向かってまず小さく礼をした。 それから短い序奏の後、歌い始める。 ――それは浜に打ち上げられた人魚姫と、彼女を見初めた平凡な漁師の悲恋物語を綴った歌であった。 とある辺境の島、何の取り柄も無い漁師はある日、仕事帰りに美しい人魚姫を見つける。漁師は人魚のこの世のものとは思えない美しさに心奪われ、思わず連れて帰った。そしてなけなしの金で広いバスタブを買い、村の反対を押し切って人魚を家に住まわせた。 漁師は彼女の気を引こうと毎日のように花を贈り、手作りの料理を食べさせ、自身の知る限りの面白い話をたくさん聞かせた。人魚姫はそんな漁師の一途な想いに心打たれ、いつしか同じ想いを抱えるようになるが――。 十数日も過ぎると人魚は唐突に病に臥した。元々深い海で生活していた人魚には、水圧の低い世界は毒だったのだ。これまでは元来の強い生命力が支えだったが、人魚とて不死身ではない。 海に帰すべきか、無理にでも傍に留めるか。漁師は迷い苦しみ、刻一刻と死に近づく恋人を泣きながら看ていた。人魚はそんな漁師を最期まで憎まなかった。 ――憎いだろう、私が。独りよがりで愚かで、こんなになってもお前を手放せない私が―― ――いいえ、わたくしは幸せです。自由を失っても、あなたさまに愛されて、とても充たされた日々を過ごせました。故郷もとても楽しい所でしたけれど、きっとこんな想いに出逢うことなく、長く平坦な一生を生きたことでしょう。わたくしに後悔はありません。短い間でしたが、とてもとても感謝しております―― やがてその瞬間は訪れた。 後に漁師は、人魚の遺体を浜辺で燃やし、灰を海に還した。彼女は以前から、そのように葬送して欲しいと話していた。 漁師は最愛の者の鱗だけを何枚か集めて、首輪を作った。彼は己が土に還る日まで、それを肌身離さず付けていたと言う――。 竪琴の音色の余韻が空気を震わせる。 部屋中の誰もがそれに浸るように身動きしない。 微かな振動すら消えてなくなった時――力強い拍手がミスリアの背後から聴こえた。 「見事な歌だ」 低いバリトンの声。振り返ればそこには、三十歳程度の中肉中背の男性が立っていた。男性は脇に巻物を抱えている。灰茶色の口髭と肩ぐらいの長さの髪、そして右目にかけているモノクルが印象的だ。服装や立ち居振る舞いに不思議な気品が漂っている。 「漁師の選択は残酷だな。心底愛しているのならば、別れが辛くとも海に帰すべきだった」 真剣な面持ちで男性は言った。ミスリアは突然現れたこの人に相槌を打って良いものかわからず、笑って礼だけを返した。彼もやんごとなき身分であるならば、「奴隷」の身では軽々しく返事をできない。 「民謡か? 人魚を題材にしたお伽話などあまり聞かない。そなた何処の出身だ?」 「ファイヌィ列島です」 こちらははっきりとミスリアに向けられた質問だったので、躊躇せずに答えた。俯いたまま、目線を合わせることなく。 (しまった。嘘をつくべきだったかな) そう考えて、すぐに思い直した。嘘の故郷を挙げて何か踏み入った質問をされれば、どのみちボロが出る。 「設計士。来ていたのか」ウペティギはモノクルの男性に向かって一度頷いてから、ミスリアに向き直った。「確かに見事な歌だった。して、お主いくつになる」 「次の春には十五になります」 「ほほう。歳の割には言葉遣いが丁寧で発音がはっきりしているな、学があるのか?」 「………………修道院にて何年か学びました」 迷った末に、ミスリアはそう答えた。 (嘘はついてないわ、嘘は) 確かにアルシュント大陸では、平民以下が修学できる場所といえば修道院、と言うのが一般常識である。ただし主に字の読み書きの為に何年か送り込まれる大抵の人間と違って、ミスリアは聖女過程まで修了しているが。 「そうかそうか。それは良い――」 「ウペティギ様、少しお時間頂けますでしょうか」 設計士と呼ばれた男性が臆せず城主の言葉を遮った。 「何だ、こんな時に。新しい罠でも考案したのか?」 城主は若干苛立たしげに答える。 「そのようなものです」 対する設計士の返答は早口で曖昧だった。 ふいに背後から紙がカサカサと乾いた音を立てたかと思えば、誰かが脇を通る気配を感じた。 すれ違いざまに、ミスリアの頭上にバリトンの声がかかる。 「本当に、見事な歌であった。機会があれば、また聴かせてくれ」 思わずミスリアは視線を動かした。 一瞬だけ、目が合う。 彼の濃い灰色の両目を過ぎった感情は、何故か「憐れみ」に見えた。 (悲しそうな人) 気が付けばミスリアは「設計士」に対してそんな感想を抱いていた。 PR |
26.a.
2013 / 08 / 29 ( Thu ) 煌びやかな光景には現実味が伴っていなかった。 いくつもの大きなシャンデリアに照らされる華々しい部屋。テンポの速い陽気な音楽。輪になって踊るたくさんの踊り子たち。豪華な食卓には何種類ものみずみずしい果物や豚の丸焼き、色とりどりのチーズなどが並べられている。その一切を、たった数人の男が独占している。ふかふかの長椅子にてくつろぎ、自分たちを中心に回る踊り子の輪を眺め、ワインを口に運び、大声で談笑する貴族風の五人。 広い部屋を満たす他の数十人の人間のほとんどが、彼らの為だけにこの場に居る、奴隷や召使や兵士だった。たとえ飢えていても許可無しではチーズの一口も味わうことが許されない身分。当然、多くが虚ろな表情をしていた。 皆、強制されてこの場に居るのが瞭然としている。膝をつく奴隷たちの列の後ろからミスリア・ノイラートはそう評価した。 中心の長椅子に座す男こそが、城主の「ウペティギ様」。 首もとの開けた緩やかな衣に包まれているのは、首も腰もどこにあるのかわからないような肥満体だった。太陽と無縁そうな、血管が透けるほどに色素の薄い肌。細い両目の周りは薄紫色に腫れ、唇も不自然に分厚い。最初に姿を目にした時、何故かガマガエルを思い浮かべ――否、比べてしまっては蛙の方がかわいそうである。 城主ウペティギは、下品な笑みを浮かべた。 歳のほどは四十路半ばだろうか。短く剃られた頭髪は白髪の割合が多いし、顔には皴が刻まれている。 彼は始終立ち上がることも無く、食べ物は召使が運んであげている。ウペティギが踊り子に拍手を送る都度、高価そうな首飾りや腕飾りが弾みで鳴った。その音色さえどうしてか耳障りに感じた。 そんな怠慢の権化のような男に、早くも先程話した女性たちが群がっている。どうやら既に気に入られている娘は手錠を外してもらえるらしい。そして自由の身になる代償は、貴族の男たちに酌をしてやるなり食べ物を食べさせるなり、とにかく媚びることだと見て取れた。 (貴族って、何だったかしら) 平民の出のミスリアには貴族の人間と関わる機会は少ない。教団で出会った上流階級の人間は何人か居るが、どれも、こんな風ではなかった気がする。しかし関わったのが教団という限られた場所であったため、彼らが城に帰るとどう振る舞うのかまでは知る由が無い。 (この人数が結束すれば逆らうことは簡単そうなのに。誰もその気が無いのは怖いから? それとも別の理由が……) 奴隷や召使はともかく――兵士に至っては、たった数人の貴族に抗わないのは幼少の頃から従うべきと刷り込まれたからなのか、それとも何か褒美をもらっているのか、定かではない。 ミスリアは視線を大理石の床の上にさまよわせた。 危険な考えである。 仮に皆を奮い立たせることに成功しても、それは後先考えずに下せる判断ではない。 自分よりも小さい少女二人を横目に見た。彼女らの上腕にそれぞれ、古い焼印がある。それはつまり、二人がこの城に連れて来られた以前から誰かの所有物だった事実を示している。そんな人間がこの部屋に他に何人も居ることは容易に想像が付いた。彼女らの将来が何処にあるのか、逃げ出した先に生きる術があるのか――。 (私だって、ここから逃げ出しさえすれば終わり、でもない) 城の位置もわからなければ土地勘も無いし、地図や身分証明書はいつの間にか紛失している。更に最悪なことに商売道具のアミュレットも無い。 (ゲズゥを探そうにも、もう遠くに消えている可能性だってあるものね) 考えたくはないが、現実的にありうる話だった。 八方塞がりである。ミスリアは膝だけでなく拳も静かに床に付いた。手錠に繋がる鎖が無情に音を立てる。 ミスリアの心の葛藤は人知れず続いたが、一方で貴族らの会話が盛り上がっていた。 「聞いたか? 大公閣下がそろそろ次女を嫁がせるらしい」 「ほう、相手は誰だろうな。ヌンディークの公子か、それとも帝国……」 「それよりもどうやら都市国家郡の情勢に変化が……」 「ミョレン王国の人間が絡んでいるという噂は本当だろうか」 「南西海岸の戦火が広がっていると聞いて……」 「帝王陛下の次の側室候補が……」 貴族の男たちは噂話を交わしている。ミスリアは耳を澄ませて内容をできるだけ拾った。どこぞの王室や貴族の結婚事情はあまり気にしても仕方ないけれど、政治的な問題は旅路に影響を及ぼさないとは限らない。 ――旅が続けられると前提して。 (都市国家郡とミョレン国がどうしたの?) 何か引っかかるものを感じたが、それが何なのか特定できなかった。空腹のせいか頗(すこぶ)る気分が悪く、集中しづらい。 (もう何時間も、何も口にしてないから) それでも、考えることを諦めるのだけはできない。ぼうっとしそうになる度に手錠を揺らしてその重みを確かめた。 「そういう話もほどほどにしようぞ。さあ、宴だ宴! 新しい娘が入ったというのは、どれだ?」 ウペティギのしゃがれた声が響いた。 その声を合図に、ミスリアと二人の幼い少女らの鎖が引っ張られた。 (い、痛い……!) 一瞬だけ表情を歪めてしまった。すぐにミスリアは無表情に戻る。 「この三人です」 鎖を引いた兵士が無機質に答えた。 「おお、これはまた小さいな! だがどれも充分に可愛い。よし! 何か面白いことをしろ!」 音楽もいつの間にか止まっており、広い部屋はしんと静まり返った。 「どうした? 芸だ。誰一人何もできないと言うなら兵士に玩具としてマワすぞ?」 ウペティギが「まわす」と口にした瞬間、部屋中の兵士が気味悪い笑みを浮かべた気がして、ミスリアは震えた。何をされようと最終的には殺されるだろうと直感した。 二人の少女はやはり寄り添ったまま、激しく震えている。心の中では声も出せずに泣いていることは、彼女らの目を見れば明らかだった。それはミスリアの心を揺さぶるには十分だった。 ――自分が生き延びる為だけでなく、二人の為にも何とかしなければ――。 「……う」 「う? どうした、栗色の髪の娘よ。はっきり言え」 「……歌が、得意でございます」 声が消え入らないように腹に力を込めつつ、ミスリアは力強く答えた。 |
25.f.
2013 / 08 / 16 ( Fri ) やがてゲズゥは、物音がすればいつでも目を覚ませるような、浅い眠りに落ちた。 虫の鳴き声が一匹、二匹と数が増えていく。これまでは警備兵のひそひそとした話し声以外は静かだったが、忽(たちま)ち虫の合奏が周囲を満たした。夢現をさ迷う意識の中にも届く程である。しばらくして、夜風の香りと共に淡い霧のように――夢が訪れた。 夢の中の少年には左目が無い。地に横たわり、眼球があるべき場所には空洞しかなく、そこからとめどなく鮮血が流れ出ている。少年は苦しげに胸を上下させて、青白い顔でこちらを見上げる。 いつも、どうしてやればいいのかわからなくて同じ行動を取る。ゲズゥは従兄の手を両手で掴み上げ、無言で強く握った。 湯気の上がる息を吐きながら、従兄は恨めしそうに呟く。 ――頼む、約束してくれ。大人になったら、かならずこの五人を殺せ―― 目の前の惨状や従兄に頼まれた内容よりも、ゲズゥは掌に伝わる温度が怖かった。周りが燃え上がって熱くて気がどうにかなりそうだったのに、握った手からは温もりがどんどん失われていく。自分が総てを失うのだと、それを止める術を持たないのだと、否が応でもわからせた。 ――任せたよ。族長の長男、お前なら、大丈夫だ―― 掠れた声から生気が抜け落ちていく。 突如、いくつもの鋭い鞘音に目が覚めた。 夢が霧散した。辺りはどっぷりと暗くなっている。 国境に異変があったのだと瞬時に気付き、ゲズゥは騒ぎの中心を探した。 「出たぞ! こっちだ!」 「弓兵、番え!」 十五人ほどの警備兵が二重に弧を描くように二列を組み立てている。「放て」の号令で、後列から一斉に矢の雨が飛ぶ。 矢を浴びた、樹の如くそびえる青白い異形は、刺さった矢を煩そうに払うだけで怯まない。 二本足で立って二本の長い腕を垂らしている姿はまるで人に見えた。と言っても、似ているのはそこまでだ。肩はあっても頭部が無い。 胴体から短い咆哮が響き、同時に腕から何本もの太い枝が伸びた。 「うああああ」 前列の人間が三人、枝によって貫かれた。痙攣する手から剣が落ち、金音がした。 「前衛、まだ交戦するな! 下がれ! 松明を投げろ!」 指示を出している人間はまだいくらか冷静さを保っていた。植物に構造の似た魔物なら炎がダメージを与えると考えたのだろう。 魔物に飛び移った炎が激しく燃え盛った。腐臭と煙と共に焦げた臭いが広がる。 しかしダメージを与えるには至らないのか、魔物は平然と火の伝う枝で警備兵らを次々と地に叩き伏せた。 赤く燃え上がる戦場を見ているだけで体温が上がりそうだった。ゲズゥは何度か深呼吸する。夢に出た光景と似ているせいで波立つ心を、鎮めねばならない。 最初から壁を越えられる場所は限られていた。門の近くは、論外。そして三ヤード以上の高さの壁はおそらく外にも内にも兵士が配置されている。壁を越えようとしても、登る間に誰かに見咎められて射落とされるのがオチだ。 だからこそこの場所である。 兵士が不自然に多く待機していたため、過去に魔物が出た事がある場所と踏み――期待通りに今夜も現れた。 これだけ混乱していれば人間の侵入者の一人や二人、気付けた所で迅速に対応できないはずだ。 ――魔物を利用して人間を退ける。 以前ミスリアが聖気で魔物を呼び寄せたと思しき時があったが、もしかしたら似たような理由からかもしれないと思う。 ゲズゥは自らに手ぬぐいを巻いて猿ぐつわにした。何かに驚いたり怪我をしても咄嗟に声を上げない為である。 地上を見下ろすと、燃える巨大な塊がさっきよりも壁に近付いていた。近くから増援も到着し、警備兵は前衛と後衛を巧く連携させて善戦しているようだが、魔物を倒せたとしてもそれまでに多数の犠牲が出るだろう。 かくいうゲズゥも挑んでみたいとは欠片も思わない。 ひゅっと息を吐いた。 次の瞬間には樹の枝から飛び降り、地に一回転し、戦場のすぐ横を全力で駆け抜けた。 「何だ!? 新手か!」 条件反射で矢が飛んできた。掠りもしなかった。 「あんな速さ、ヒトじゃないぞ!」 誰かがそう叫んだ。どうやらゲズゥは警備兵らに新手の魔物と認識されたらしい。 立ちはだかろうとする奴らの鎧を踏み付けて、跳躍した。 勿論、飛び越えるには高さが足りない。うまく行くかは賭けである。タイミングを見極め、ゲズゥは腰に提げた短剣を壁に垂直に突き立てた。奇跡的に剣は折れなかった。 ――これがエンだったら、鎖とフックを使って簡単に登れただろうに。 そう思いつつも、武器屋から借りていた曲刀を抜いた。修理の終わった大剣を鍛冶屋から受け取った際、なんとなく曲刀も手元に残そうと思って武器屋に代金を支払ったのである。持ち歩く荷物は増えたが、その苦労も今、報われる。 短剣と曲刀を交互に突き立て、壁をよじ登った。 背後では魔物の咆哮と、侵入者に驚く人々の声が上がる。それでも矢は飛んでこなかった。魔物を相手にするだけで精一杯なのだろう。 一分もしない内に登り切った。 曲刀は壁に残して踏み台にし、後は壁の内側に飛び込むだけって時に――何か熱いモノが右腕に絡みついた。肌に触れるそれの感覚は乾いていて、細く、硬い。 振り返った刹那、肩に激痛が走った。ボキッ、って音もしたかもしれない。 とにかく夢中で枝から逃れようとして、気付いた。右腕が動かない。 ――脱臼か! 戻している暇は無かった。利き手ではない左手に短剣を握り、枝を斬り落とす。自分の皮膚も何度か斬ってしまったが、構っていられない。 右腕を解放した直後にまた枝が伸び、それをすんでの所でかわして跳んだ。 壁の内側に着地すると同時に背の大剣を鞘から出さずに振り回した。内側に居た八人ほどの警備兵は魔物が現れるのをよほど緊張した様子で待ち構えていたのだろう。一方で人間の侵入者は予想外だったらしく、唖然としている。おかげで苦も無く全員を倒せた。 すぐに身を隠せる物影を求めて走る。登れそうな樹が無いので、低木の群れに紛れてしゃがみ込んだ。 動き回った所為で余計に肩が痛い。脈も息も荒くなっている。大きな汗の粒がいくつも顎から垂れた。幸い、口に含んだ布が功を成して呻き声一つも漏らさずにいる。 少しだけ、ゲズゥは呼吸が落ち着くのを待った。 さて、自分で脱臼を戻すのは非常に気が進まないが、利き手が使えないままでは不便である。後で聖気で完全に治してもらえば後遺症は残らずに済む。 それは、まずはミスリアを無事に助け出すのが絶対条件だが。 歯を食いしばりながら、ここまでする価値が本当にあの少女にあるのか、思いを馳せずにはいられなかった。 相変わらず何度考えてもわからない。どちらにせよ、この段階で引き返すことはできない。 動かせる方の左手で右腕を九十度に折り曲げ、脱臼した肩を戻す手順を辿った。決定的な一瞬まで、激痛の波に耐え続けた。 何故かその間、死の淵から還った時に見たミスリアの泣き顔と、握った小さな手の温もりを思い出していた。 |
25.e.
2013 / 08 / 12 ( Mon ) (ねえ、待って、スカートがほぼ透明なのに下はコレなの)
上の部分と色が合っているといえば合っているが、色々と大丈夫だろうか。心の内には疑念しか沸かない。 すうっと深呼吸した。スカートは履いたまま、素早く下着を着替える。兵の(と思われる)視線が突き刺さるが、恥じらっていられる心の余裕がもう無かった。できるだけ早く済ませたかった。最後に、一応変な箇所が無いように身なりを確かめる。 既に今日一連の展開がミスリアの常識の範疇を超えていた。 意を決し、声をひそめて女性たちに訊ねた。 「訊いても良い? 私たちは、これから何をさせられるの?」 「アタシたちは愛玩奴隷よぉ。ナニをさせられるかなんて決まってるじゃなぁい」 唇をすぼめて、黒髪の女性が答えた。 ミスリアは首を傾いだ。 「愛玩奴隷」とは人が使うのを聞いたことはあっても意味をあまりよく知らない、馴染みの無い言葉だった。愛玩動物ならわかるけれど。 「そんでねえ、特に気に入られたオンナは愛人にしてもらえる。そうしたらもっと金も贅沢も自由にできるんだからねーえ、アタシら必死にもなるワケよ」 「愛人……」 「おい、時間だ! 並べ。順番に手錠をつける」 兵士が張り上げた声により、会話が中断された。驚くほど速やかに、そして静かに、部屋中の女性が出入口へ向けて一列に並んだ。ミスリアも慌てて列の最後尾に続く。 隅に蹲(うずくま)っている小さな少女二人だけが立ち上がらなかった。 「耳が聴こえないのか!?」 兵士の一人がズカズカと彼女らに歩み寄った。 (――!) 次には信じられないことが起きた。兵士が少女の一人を蹴り飛ばしたのである。鮮やかな衣を纏った小さな身体が化粧台にぶつかって跳ね、残った少女が鋭い悲鳴を上げた。 「うるさい! お前もだ!」 今度は兵士は、少女の白い頬を叩いては腕を引っ張り、無理に立たせた。そして別の兵士が蹴飛ばされた方を半ば引きずるようにして列の前に投げ出した。 そこからは痛いほどの沈黙が続いた。 定期的に、ガシャン、と手錠が一人一人に付けられる音、ジャラ、と歩かされる女性たちの鎖が引きずる音、その両方が部屋に響き渡る。 音が一個ずつ重く胸に沈む内に、あわよくば逃げられないだろうかと心のどこかで考えていたのだと、ミスリアは自覚した。 体が小刻みに震えるのを抑えられなかった。あと五人もすれば自分の番になる。 手錠をつけられればもう終わりだ――本当にどうしようもなくなる――こんな故郷から離れた城の中に閉じ込められて一生を終えるのではないか―― 『死にたくなければ、動け』 ふいに頭に響いた声が考えを遮った。 次いで、何度も見てきたクシェイヌ城のイメージが脳裏にチラつく。 それらが消えると、後に残った強い使命感が胸の内に燃えていた。 ――だめだ、弱気になるのだけは。自分に何ができるか今はまだわからなくても、諦めたら本当に希望の一つも浮き出ては来ない。 唇を噛んで俯いていたのは、数秒だったかもしれないし数分だったかもしれない。 「次!」 呼ばれて顔を上げたミスリアは、自分がどんな表情をしているのかわからなかった。手錠を持った武装兵と目を合わせると、向こうは露骨に驚いて一瞬身じろぎした。物言いたげに眉間に皴を寄せている。 何か不自然だったかと疑問に思って目を逸らし、手を差し出した。兵士は結局何も言わなかった。 それからすぐに、両手首に冷たく硬い鉄が絡みついた。泣きたくなる重さだ。 「よし、全員手錠を付けたな。このまま一列に歩いて宴会室に向かうぞ。変な真似をしたら鞭で罰する。貴様らは奴隷だ、それだけは忘れるなよ!」 _______ 落日がゼテミアン国境の壁を緋色に染め上げる様を、木の葉の合間から見下ろしていた。 木々の枝を渡り、かなり高い場所に身を隠したゲズゥは、警備兵の数や装備を確認している。 警備が手薄な場所を探すのではなく、むしろその逆で、不自然に兵が多く配置されている場所を探していた。 全体を見渡せば、人が通れる門からは遠いのに兵士の多い箇所がいくつか見えた。 それらを目標と見定め、ゆっくりと枝の間を一本ずつ降下していく。ギリギリまだ全体の状況を把握していられるような高さに留まった。 後はもう、陽が完全に地に潜るのを待つだけである。 |
25.d.
2013 / 08 / 07 ( Wed ) (絶対嫌! ……でも、抵抗したら……どうなるんだろう)
扉の前で陣取る兵士たち四人を見やると、彼らは槍を手に目を光らせている。部屋に窓は無いし、扉は一つしかない。逃げ道があるとは到底考えられなかった。例えばゲズゥのように兵を斬り伏せる技量があれば話も違ってくるだろうに、生憎とそんな方法はミスリアには取れなかった。 唾を飲み込み、手の中の衣装を握り締める。背に腹は代えられない。 「好きなの選んで着替えてねぇ」 黒髪巻き毛の女性がウィンクする。 「う、うん……って」 部屋中を見回し、ミスリアは重要なことに気が付いた。 「身を隠す場所がないんだけど……」 「そりゃあ見えない所で着替えたら、何か凶器とか隠し持っちゃうかもしれないじゃない? しょうがないのよぅ。我慢してねえ」 豊満な体つきの茶髪の女性がひょいっと横から口を挟んできた。 「こ、こんな大勢が見る前で脱ぐんですか!?」 衝撃のあまりに思わず口調が元に戻った。部屋中の視線がミスリアに集まった。そのほとんどが陰鬱なものだったが、兵士からは厳しい目とたしなめる怒声が飛んできた。 「大声出しちゃだめよう」 三人目の、金色の髪を縦にぐるぐる巻いた女性がしーっと唇に指を当てた。 ごめんなさい、とミスリアはとりあえず謝る。納得はしていないけれど、どうしようもないのだろうと諦めねばならない。下着姿とどちらがましかと問われれば言葉に詰まるけれど。 結局最初に渡された赤と銀色の服を選んだ。付け方を確かめるように慎重に眺めて、部屋の隅に行ってからまずは上の部分を下着の上に付けた。 「ソレ、そんな風に着るんじゃないの。下着付けたままじゃだめデショ」 「わかってるよ」 金髪縦ロールの女性の指摘に、ミスリアは振り返らずに答えた。 元々上は、体を締め付けない緩いキャミソール型の白い下着を着ていた。普段は外出時は夏であっても何段にも重ね着をしているから、一番下の段は誰かの目に入る心配が無く、簡素な物を好んで使用している。 その上に衣装を付けてから、体を捩ってキャミソールだけを引き抜いた。肌に残った、布の面積が少ない衣装を、ちゃんとぴったり合うように結び目を調整した。 (ううううううううう、恥ずかしい) 面積は少なくてもせめて胸に当てられる部分はそれなりの厚さである点だけが救いだ。肌触りも悪くない。 ただしほとんど無い胸を強調するデザインがどうしようもなく恥ずかしい。一方で何だか悔しくなって、掌で胸の脂肪をかき集めたりしてしまう。 そしてミスリアははたと動きを止めた。 背中に冷や汗の粒が浮かび上がり、顔からは血の気がサアッと引いた。 ――アミュレットが無い! 下着の中や自分が転がされていた周辺の床を目で探ったが、やはりどこにも無い。 森の中で着替えていた時はまだ首にあったから、きっと攫われた最中に千切れて落ちたのだろう。 (何で……私の為に造られた唯一の物なのに――) 手元を離れたのは今回で二度目だ。しかも前回のように急いで取り戻す選択が無い。きっと教団に戻ったら説教され、罰掃除などさせられ、最低でも一週間の断食を強いられる。 ふっ、と自嘲げに笑った。 (そんな心配をするのは、教団に戻る以前に……ここから生きて帰らないと……) 迷走気味の思考がすぐに現実に着地し直した。口の中が妙に乾いている。 叱られる場面を想像して現実から逃避していた方が、まだ気分が良かった。 (でも、困ったわ) アミュレットが無いのが、どれほど不自由なことか。あれが肌に触れている状態でないと、聖気はほとんど扱えない。全神経で集中しても、かろうじて触れている相手のかすり傷を治せるか治せないか程度。当然、魔物の浄化はできないし、カイルに教えてもらった応用の術――その一つは魔物を意図的に呼び寄せる方法――も使えない。 のろのろと、ミスリアは衣装の下半分を手に取った。八割以上の透明度を誇る銀色のふわふわとしたスカートを、直視せずに履く。 「あ、ごめん。それもう一つパーツがあったわぁ」 金髪の女性が何かを投げてきた。もう何を見ても驚いてやらない、と意気込んで受け取ると、それはレースをふんだんにあしらった真紅の下着だった。 「…………」 「セットだからね、絶対揃えて着なきゃだめだかんね」 ミスリアはものも言わずにそれを見つめた。 |
25.c.
2013 / 08 / 05 ( Mon ) 「あららぁ、気が付いたの、新入りちゃん」
「んん――!」 人間の言葉を発せない状態にあるミスリアは身をよじり、声の主を探した。 「うん? 幼いのねーえ。顔はまあまあだけど、小さいし、ウペティギ様に気に入られるかもねぇ」 ひどく訛った共通語だった。 「ええー。困るわよぉ~、やっとアタシを見てくれるようになったのにぃ」 「自惚れてんの? 見てるも何もアンタ顔がそんなケバいから嫌でも目が行くだけデショ」 「あー言ったなー、アンタこそ人のこと言えないわよぅ」 むせ返るような香水の匂いにミスリアは咳き込んだ。 再び目を開けると、十代後半か二十代前半くらいの女性が三人、屈みこんでミスリアを頭から爪先まで眺めまわしている。白粉(おしろい)またはパウダーが濃くて、元の顔が美人なのか何とも判断し難い。 (ヴィーナさんを男性を振り回すタイプとするなら、目の前の三人は媚びるタイプかしら) そういった違いを解する日が自分に来るとは今まで想像したことが無かったが、これほどあからさまに差を見せつけられてしまえば嫌でも納得する。感心するあまりに置かれた状況への恐怖を数瞬の間忘れていられた。 派手な色の化粧は無駄に多い装飾品と調和が取れていないし、服と言えば袖が長いくせに肩や背中の露出は高く、布が変な形をなぞったりしてお世辞にもセンスが良いとは言えなかった。なのに扉の両脇を挟む武装した格好の兵士たちは、隙を見ては彼女らの露わになった肌や輝かしい首飾りに強調された胸元にばかり視線を這わせている。 「見張りさぁ~ん、新しい子起きたわよぉ」 三人の内、一番肉付きの良い茶髪の女性が兵士たちに話しかける。手招きすると同時に、袖のピンク色のフリルがヒラヒラと揺れる。 「縄を解いて身支度させろ」 兵の一人が歪んだ陰鬱な笑みを口元に張り付かせて言った。 「はぁ~い」 対する女性たちはゆとりのある表情をしている。 縄を解かれる間、ミスリアは「身支度」が何を意味するのか考えた。それにこの女性たちは何の為に一所に集められているのだろう。「ウペティギ様」、「気に入られる」は何か重要なキーワードだろうか。 考えても答えはわからないまま、自由の身になった。見張りの兵士が居るせいで、声に出して女性たちに問い質していいか迷う。 そこで察したのかどうかはわからないが、縄を解いてくれた黒い巻き毛の女性が顔を近付けてきた。 「いーい? 逃げようとか助けを待とうとか考えてもムダだかんね。絶対ムリ。ウペティギ様に気に入られるように頑張る方が生き延びられるんだからぁ」 だから諦めなさい、と彼女は強く言った。 (助け、なんて、待ったところで、来るかどうかも……) 小さく耳鳴りがしたと思ったら、一気に心の中に海が広がった。絶望という名の海に溺れていく手応えを、ミスリアは静かに感じた。 友人も家族も教団の仲間も旅の途中で出会ったちょっとした知り合いでさえも、何が起きても今は助けてくれたりしない。現実的に考えて、有り得ない。ミスリアがどうしているのか、その消息を積極的に追っていないのだから。たとえ追っていたとしても情報が入るまで最低でも数日の遅れがあり、助けを期待するには心もとない。 もしこの世で自分をここから連れ出してくれるかもしれない人物が居るとしたら、それはたった一人である。そのたった一人が来てくれるかどうか――自信は無い。 涙が滲まないように天井をさっと見上げた。 一瞬だけ――水を汲んでくる、と呟いて振り返ったゲズゥの、あの黒曜石にも似た黒い右目と所々金色に光る左目が記憶に浮かんで――心がざわついた。 あれが今生の別れになるかもしれない。 「……ご親切に、忠告ありがとうございます」 努めて笑顔を作り、ミスリアがそう返すと、黒髪の女性は大袈裟に手を広げて驚いた。 「やだあ、シンセツなワケ無いじゃなぁい。アンタなんかに負けない自信があるから言うのよ」 そうですか、とわざわざ返事をする気力が沸かなかった。 「なあによ、ねえ何でそんなに言葉がキレイなのよ」 問われてミスリアはただ苦笑した。巧い嘘がつけるはずが無いので、詮索は避けるのが得策である。 「それより、ウペティギ様って誰?」 話題を変えようとミスリアは明るく訊ねた。発音はどうしようもないけれど、とりあえず丁寧な口調を使うのはやめた。なるべく浮かない方が良い気がするからだ。 (一分一秒でも長く生き延びるしかないわ) 或いはそうしている間にもっと何か助かる方法が見えてくるかもしれない。 「ここの城主さま。焦らなくても夜宴で会えるわよー。ねね、それよりアンタどの服にする? この赤と銀色のヤツなんてちょうどいいんじゃなぁい?」 城主、について思考を巡らせたかったのに、ミスリアは黒髪の女性が差し出した衣装を受け取って顎を落とした。 「絶対似合うと思うのよぉ。ね? いいでしょ?」 「ほ、他に何かないの」 手の中の布をどう広げても、下着姿といい勝負の露出具合がうかがえる。いや、ミスリアの色気に乏しいもっさりとした下着相手ならどう考えてもこの衣装の完全勝利だ。 「他って言ってもねーえ、アンタのサイズじゃあこれとか……あとこれとか?」 更に差し出された服もどれもあまり多くの生地を使わずに作られていた。 絶句するほか無かった。つい引きつった笑みを浮かべてしまう。 一応三人の容姿ていうか髪を適当に別々にしましたが、性格は似たり寄ったりで区別する必要はありません。三人目は金髪縦ロールです。ついに出せた、縦ロール!! |
25.b.
2013 / 08 / 03 ( Sat ) 男の話によると、城の位置はディーナジャーヤ帝国の属国の一つである、ゼテミアン公国内にあるという。そう遠くない距離だが、問題は現在地と目的地の間に国境があることだ。 元々ゼテミアンの領土を通ってクシェイヌ城へ向かうつもりだった。ただし、ミスリアと一緒であることを前提としていた。身分証明書の類はミスリアが持っていたし、そもそも証明書など持たなくても聖女の力を少し見せ付けてやれば、大抵の国はあっさり受け入れるらしい。ところがゲズゥ個人はどの国の戸籍も持たない、元指名手配犯だ。運が良ければ追い払われるだけに留まり、悪ければ捕縛される。 ふと疑問が浮かび上がり、また質問を吐いた。 「連れ去った目的は何だ?」 「……」 男はガチガチ歯を鳴らしながらも答えない。その両目は挑戦的に睨み返してくる。 いちいち非協力的な態度に若干イラつき、ゲズゥは男の腹を思いっきり蹴った。言葉にならない呻き声が返る。 「目的」 声を低くして催促した。 「そっ……んなの決まってるでしょう!? ウペティギ様は、女が好きなんですよ! 若ければ若いほど良いっ。私らはだから、手当り次第に、連れ帰って、愛玩奴隷に……」 その返答にゲズゥは僅かばかり安堵した。ミスリアが聖女だとわかっていてさらったのではないのか。こんな単純な理由なら、身代金の要求に応じるなり複雑な交渉をする必要は無い。 同時に、別の焦燥も沸き起こる。愛玩奴隷は主の興味や寵愛を浴びている間は安全でも、飽きられた後が危険だ。捨てられた玩具は社会に返されるのか、どこかに維持されるのか、それともあっさり殺されるのか。 この際ゲズゥが案じてやれるのはせいぜいミスリアの生死だけで、助け出すまでの間に経験するかもしれない諸々の辱めや絶望に関してまでは気を配れない。気にしたところでどうしてやることもできないわけだが。 とにかく次の取るべき行動について思索した。 密入国――それは大陸中の他の国境ならいざ知らず、大国ディーナジャーヤの属国ともなると、容易には果たせない。警備体制は万全だと考えて然るべきである。 いかに足が速くて戦闘に長けていても、単独では使える方法に限りがある。ゲズゥは姿が見えなくなる術など持たない。変装しようにも体型が目立って難しいし、荷物に隠れようにもそんなに都合良く荷台を引く人間は現れない。 しかし全く方法が無いわけではない。かつてオルトと二人だけで似たような状況を打破したことがあった。あの時はオルトの立案で闇に、もとい混乱に乗じて警戒網を突き破ったのだ。 このやり方で行くなら下調べや準備が必要となる。 まだ他に必要な情報があっただろうかと男を見下ろすと、奴はひとりでに喋り出した。 「はっ、たとえ城に辿り着けても無駄ですよ。罠にかかって無残に殺されますから」 「……罠?」 「ゼテミアンの鉄に貫かれて苦しめ! ウペティギ様に歯向かう奴なんて皆死ねばいい! あははははははは」 笑い声が耳障りになり、ゲズゥは手早く男を殴って気絶させた。 ――それにしても無差別な人攫いを平然とやってのける貴族が野放しにされているとなると、国の政治体制や公平さなどにも期待できないだろう――。 ゲズゥは襲撃者どもを一人ずつ確実に気絶させてから、奴らの衣類からベルトの類を引き抜いて三人とも樹に縛り付けた。それから自分の持ち物を確かめ、更にミスリアの居た辺りまで戻って、落ちている荷物が無いか念入りに探した。 一分経っても何もみつからず、立ち上がってその場を去ろうとしたその時。苔に覆われた石の傍で何かが光ったのを目の端で捉え、近付いてしゃがみ込んだ。 手を伸ばして草をかき分けると、そこに落ちていたのはミスリアがいつも大事そうに持っていた銀細工のペンダントだった。 _______ 近頃頻繁に見るクシェイヌ城の夢から覚めた。 まどろむ間も無くミスリア・ノイラートはすぐに違和感を覚えた。そこは、随分と明るい場所だった。 部屋に三十人以上の若い女性が押し込められているように見える。大体の女性は沈んだ表情或いは無表情だったが、大きな化粧台と鏡の前では何人かの女性が黄色い声を出してはしゃいでいる。女性たちのほとんどは華やかな衣装や露出度の高い衣装などと、明らかに着飾っている風である。 (ううん、それより……動けない!? どうして?) ミスリアは可能な限り全身を注視したが、両手両足を後ろに縛らているようでうまく動けなかった。猿ぐつわも噛まされ、見たところ部屋の隅に転ばされている感じだ。全身がどことなく鈍く痛む。打撲でもしたのだろうか。 首を捻って壁を向くと、隅の最も暗い場所に互いに寄り添い合うように膝を抱える少女が二人居た。ミスリアと同い年か更に年下のようだ。痛々しいぐらいに怯えた目をしている。 (ここはどこ? 一体、何が起こったというの――) もう一度自分の身体に視線を走らせた。服が所々千切れている。それにほとんど下着姿である。 (うそ! あの時!?) 羞恥心が体中を駆け巡ったのとほぼ同時に、ミスリアは自分が着替えている最中に襲われたことを思い出した。 |
25.a.
2013 / 08 / 02 ( Fri ) ――油断した、と悟った時にはもう遅かった。
顔面めがけて斬り付けてくる剣をしゃがんで避け、左手を地面について側転の動作に入った。蹴りあげた足首を敵のうなじに絡ませ、回転に巻き込んで水面に叩きつける。 「すばしっこいな、このっ……」 背後から襲い掛かる二人目の敵に足払いをかけ、更に三人目を肘で殴り飛ばして、ようやくゲズゥ・スディルは現状確認をする為に一息つけた。 水が岩を打つ音が周囲に反響している。正面には高さ10ヤード以上の滝があって、その水が流れつく小川の中にゲズゥは直立していた。かなり冷たい水が脛の周りを通り抜けているが、その冷たさは淡水であるからだけではなく秋の訪れが近いからだろう。 両岸は隙間なく緑に覆われ、朝日が漏れる箇所もまばら、襲撃者が身を隠すにはもってこいの場所だ。 それでも雑魚が三人ぐらい来たって、数十秒で倒せたが。 一度深呼吸して、滝水の音の壁より外へ意識をやった。音が邪魔で感じ取りにくいが、どこにも人の気配がしない。紛れも無くもう遅かった。 ゲズゥが油断したのはこの雑魚ども相手にではない、ミスリアの方への注意を怠ったことにある。 鋭く舌打ちした。 着替えたいと言ったミスリアから離れたのは数分程度。普段なら背を向けて待ったものの、ちょうど水筒が空になっていたからその間にゲズゥは滝の水で水筒を補充しようと考えたのだ。 それが彼女の傍で何か異変があったと気付いて戻ろうとした途端、奇襲されてこのざまだ。 ――この状況は何だ。さらわれたとでも言うのか。 その瞬間、確かにゲズゥは眩暈を覚えた。少なからず動揺している。 旅する聖女の護衛という肩書に甘んじている以上、護るべき対象が失われた場合、どうすればいいのかわからなかった。 真っ先に思い浮かんだ選択肢は二つある。 解放されたと喜び、このまま行方をくらまして好きに生きるか。 護るべき少女を取り戻す為に奔走するか。 思わず右手でこめかみを抑えた。 するとこちらの思考とは無関係に、青緑に輝くトンボがぶぶーんと羽音を立てて視界に入った。まるでゲズゥを睨むように正面に止まって忙しなく羽ばたいている。何故だか、決断を迫られている気がした。 例えば前者を選んだとする。三度目の投獄以前の生活に戻ることになるだろう。 ……生活? 果たして自分には戻るほどの日々があっただろうか。もはや遠い昔のように感じられた。 やはり後者しかないかと考え――こんな時だが、少し前の会話が脳裏に蘇った。 ――オレとお前は確かに境遇が似ているし、だからこそそれなりに気が合った。だけど覚えとけよ、お前を救える人間が居るとしたらそれは外側からでないとダメだ。 ――そういうお前はこれからどうする気だ。 ――くすぶる恨みはまだ残ってるけどな、ケジメつけるよりこの町でぼへーっと過ごしてた方が多分オレには合ってるんじゃないかな。 ――ぼへー……。働き過ぎて過労死するなよ。 ――しないって。その前にヨン姉に叩き殺されるだろーし。ま、とにかく、嬢ちゃんをちゃんと大事にしてやれよ。役目なんだろ? エンが言っていた「外側」の意味はわかりそうでわからなかった。 ただ、ここで何もしなかったら自分の今後の一生、一切の選択肢がなくなりそうな気がした。そして、行方をくらますのは急がなくてもできるが、ミスリアを救いたければ一時も立ち止まっていられないだろう。 気が付けば襲撃者の一人の胸ぐらを掴んでいた。ざばっと音を立てて男を水中から引き上げる。冷たい水飛沫がそこら中に跳ねた。 「どこへ向かった」 主語を抜いて、抑揚の無い声でゲズゥは問い詰めた。奴の両手がゲズゥの手首にかかるが、全く問題にならない程度の腕力である。次に蹴ったり暴れたりして抵抗を試みているようだが、体勢が不利なせいかこれまた弱い。 「私は何も話しませんっ」 賊のような身なりに似合わず丁寧な発音の南の共通語だった。 「そうか」とだけ呟いてゲズゥは片手で素早く短剣を抜き、日頃からよく研いでいる刃を男の顎の下に当てた。 「ひいっ。ちょ、殺しちゃったらわからないんじゃないですか!」 「お前が死んでも後二人いる」 刃をぐいっと押し当て、近くで呻いている他二人の襲撃者を目頭で示した。殺しは駄目だとミスリアにさんざん念を押されているが、どうせ今この場に居ないのだから多少は妥協してもいいとゲズゥは考える。 「わ、わかりましたよ! 言いますから! 殺さないでください!」 男は青ざめて叫んだ。ゲズゥはただ男を射抜くように睨んだ。 「……ウペティギ様の城です」 冗談みたいな名前だと思いつつ、誰だ、と訊き返すと男は小ばかにするように鼻で笑った。 「大公家と縁ある血筋の貴族さまですよ、知らないんですか?」 「城はどこだ」 無視して問うた。貴族の血筋などどうでもいい、そんなものを聞いても名前と一緒にすかさず忘れそうである。 「誰がそこまで喋ると思っ――いたた、痛い、血が出てる! やめて! 言います!」 押し当てた刃を僅かに引いたのが効いた。 涙浮かべる男の返答を聞いて、これは面倒なことになった、とゲズゥは顔には出さずにげんなりした。 |
24.g.
2013 / 07 / 30 ( Tue ) こぽぽ、と小気味のいい音を立てて琥珀色の液体がカップを満たす。ミスリアにとっては珍しい陶磁器のティーセットだ。鮮やかな青い模様に塗られたポットから目が離れない。おそらくはディーナジャーヤ国産のものだ。
「どうぞ」 教皇猊下はポットを優雅な仕草でテーブルに下ろし、お茶を勧めた。 礼を言ってからミスリアは取っ手の無いカップをそっと手に取った。 お茶なら私が淹れるのに、と抗議したものの猊下はやんわり断ったのだった。ティーセットや茶葉を集めるのが好きで、自ら淹れて人に味わわせるのが楽しみだから、と。 (ってことはこのセットも私物として持参したのかしら……) 移動中にそれらを運んだのは護衛の人たちかもしれない。或いは、この町に来て買ったという可能性もある。そういう世間話も訊きたいと思う反面、ミスリアは今日呼ばれた用事が何であるのか知りたくて、先に猊下が話を切り出すのを待っている。 二人は街中のカフェテラスの三階にて、曇り空の下で軽食を採っていた。サンドイッチやサラダなどの簡単な料理を運んできて以来、店員は話の邪魔をしないように配慮してるのか姿を消している。 テラスの端でゲズゥは手摺に身を預けるように佇み、猊下の護衛二人はどこか目に見えない場所に控えている。町人の話し声や馬蹄の音は聞こえても、それは空間を形作る一部に思えた。 会議室で話した時は神父さまも居たのに、今度は教団で最も位の高いお方とこうして向き合って二人だけで会話しているのだと突然に自覚して、ミスリアは胃が緊張に強張るのを感じた。 和らげなければ。まずはカップを口元に運んだ。 「……おいしいです」 一口飲んで、ミスリアは驚きに目を見開いた。 微かに甘い香りは馴染みの無いハーブか花のもの、それがミントとよく合っていて互いの味の深みを引き出している。 「それは良かった。恥ずかしながら自作のブレンドでしてね。リコリスの根を使いました」 静かに椅子に腰を掛け、猊下もお茶を一口飲んではカップを下ろした。 「さて、私はこの後発つ予定です。聖女ミスリア、貴女も近いうちに出発されるでしょう?」 「はい。午後は鍛冶屋に寄って、夜は支度を整えて、明日の朝には発ちます」 「クシェイヌ城への道のりは確かめましたか」 猊下の問いにミスリアは首を縦に振った。 「そうですか。楽しみですね、貴女のこれからの旅路が」 「恐れ入ります」 二人はまたお茶をそっと啜った。 次に彼の碧眼と目が合った時には、猊下は何かを懐から出していた。ロウの印が既に開かれた書状である。 「手紙、ですか?」 「ええ。もう長いこと会っていない、隠居して久しい者からです――」 教皇猊下が懐かしそうに口にした名は、何年も前に体力の衰えを理由に役職を引退した、元・枢機卿猊下のものだった。しかし何故その話をミスリアにしているのか、理由は全く見えない。 「聖人カイルサィート・デューセは貴女と同期でしたね。それに少しの間、旅を共にしていたとか」 「確かにその通りです」 いきなり挙がったカイルの名に、ミスリアは戸惑いを隠せずにいた。 「どうやら彼は、貴女がたと別れた後にこの者を訪ねたそうです」 「そうだったんですか」 初耳である。あれからは連絡取れるような状況ではなかったので仕方の無いことだけれど。 「魔物対策を改めて欲しいという、実に興味深い手紙です。正直のところ教団にそれだけの余裕があるかは断言できませんけれど……」 猊下の話によるとどうやらその元・枢機卿の方は魔物対策についてカイルと似たような主張をし続けていたとか。しかし聖獣の復活を第一の優先すべき事項と考える猊下は、今は大幅な改革などしていられないと何度も答えたらしい。 もう一度その案を振ってきたのは、カイルと話し合って何か新しい発見があったからだろうか。訊いていいのか、ミスリアにはわからなかった。 「余談ではありますが、この大陸に魔物狩り師を養成する機関が存在しないのは、何故だと思います?」 「魔物狩り師の? それは……試みた国くらい居そうなものですが……何故かなんて」 少し考えを巡らせてみても、答えは思いつかなかった。 「誰もそんなコストをかけたくないからですよ。育てたところですぐに命を落とす人材などに、持続可能性はありません。わざわざそんな計画に投資するような物好きな国は居ないのでしょう」 「それは、そうですね」 ミスリアは頷いた。魔物を積極的に探し出して狩るのが仕事であるだけに、彼らの魔物との遭遇率は一般人の比ではないし、それゆえに死亡率がとび抜けて高い。いかに訓練を受けていても、確率の問題である。特に単独で活動する者は危険だ。 「かといって全大陸の結界の強化や聖人聖女の派遣も教団には負担が重く……まだ、魔物に対抗する策は完全とは程遠いですね。しかしその完全を追い求める人間が居ることはとても喜ばしいと思います」 「では猊下は聖人デューセらの提案を受け入れると……?」 「いいえ、現段階ではできません。改案の実現性がより確固たるものとして提示されれば、また話は違ってくるでしょう。けれども私は彼らと色々とこれから話し合いを重ね、進むべき道を一緒に探していこうと思います」 穏やかに微笑む猊下を、ミスリアはただ感心の瞳で見つめることしかできなかった。猊下だけではない。カイルやその元枢機卿の方も――誰かが聖獣を復活させた後の世界をどう収束させるのか、そこまで先を見据えている。 「して聖女ミスリア、貴女はこの点について、どう思われます?」 猊下は手紙をテーブルに置き、ある一行に細く白い指をのせた。 ざっと目を走らせて要点を拾うと、それはかつてカイルが話してくれた「魔物に怯えずに済む世界」に至る為の第三の条件と同じ内容だった。 「……魔物が生じる原理を、一般知識として広めるべきか、ですか」 誰にも会話が聴こえないはずなのに、思わず声をひそめた。 「ええ」 青い双眸は、探るように静かである。 「わかりません。聖人デューセがはっきりと答えを出せない難題に、私の考えが及ぶとは思えません。ただ、現状を変えようとすれば起こりうるであろう、混乱のいくつかは想像できます」 「そうですね。私にも混乱が視えます。ですがそれを乗り越えることが叶えば得られるものもあるでしょう。気長に、考え続けるとします。貴女も道中、何かわかったらお伝え下さいね」 勿論です、とミスリアは深く点頭した。 ふふ、と猊下は笑い、その後はサンドイッチの具が美味しい、とか、秋の訪れまであと何週間だろうか、とか他愛もない話を静かに交わした。 お茶も飲み終わった頃に猊下はミスリアに立ち上がって頭を下げるように言った。 しゅ、と袖の布が擦れる音がした後シーダーの香りが鼻腔をつく。次の瞬間、微かな温もりが額に触れた。 「どうかあなたがたに聖獣と神々の加護がありますよう。これからも長らく健やかに過ごせますように」 古き言語での短い祈祷の後、温もりの波が額を通して心臓へ、腕や足へ、指先まで通った。 「ありがたき幸せにございます」 ミスリアは何度か瞬いて顔を上げた。一瞬何かの秘術をかけられたのかと思ったけれど、普通の聖気だった。 そして猊下の中指の指輪に口づけを落とし、別れの挨拶を交わした。 それからしばらく後、ミスリアとゲズゥは鍛冶屋への道のりを歩み出す。なんとなく、道端の黒い石ころを数えながらミスリアは歩いた。 「明日には皆さんとお別れですか。寂しくなりますね。イトゥ=エンキさんなんて、ユリャン山脈から行動を共にしてきたのに」 戦力としても心強かったけれど、何より彼のひょうきんさはどこか話しているこちらの気持ちを軽くさせる効果があった。ここでお別れかと思うと――別にゲズゥ一人との旅が心細いのではなくて、純粋に寂しい。 「気にするな。あの男ならあっさり別れるだろう」 ゲズゥは断言する口調で返事をした。 「え、そ、そうですか?」 しんみりしてくれると期待したわけではなかったが、寂しいのがこっちだけだと思うと切ないものがある。 それも次の朝、結局はゲズゥの言った通りになった。 ナキロスの神父やヨンフェ=ジーディ、ラノグらとの別れが済んだ後。 イトゥ=エンキがミスリアにかけた言葉は「おう、じゃーな嬢ちゃん。色々ありがとな。あんま無理しないで、ちゃんと飯食って寝てすくすく育てよ~」だけだった。 |
24.f.
2013 / 07 / 29 ( Mon ) 24e に多少の加筆修正をしましたが、わざわざ読み返すほどではないです。
エンが更に「あがってけよー」と呼びかける。 するとラノグと呼ばれた男は微妙な顔で梯子を見つめた。 「イトゥ=エンキさん。屋根の上に……ですか?」 「だいじょーぶだって。こんな立派な屋根、大の男三人ぐらい支えられる」 「落ちたりしないんですか」 「この傾斜じゃ平気平気」 「はあ……」 まだ訝しげな表情を浮かべるも、ラノグは最終的に梯子を上がり、この突発的な集まりに参加した。 町の全景が、雲間から漏れる暮日の輝きを帯び始める。 三人はしばらくこれといって会話を交わさず、無言でシェリーを飲み回した。地上では人々があちこちで店を畳む準備をしている。 やがてエンが上半身を捻って隣に座す男を向いた。 「ラノグさんよ、あの十字架の意味わかる?」 訊きながら時計塔の上を指差している。 「あれは厳密には十字ではありませんよ。意味は確か……縦棒の上の部分が神々へと続く道で、下部分が大地またはアルシュント大陸を指し、それと交差する左右のゆるやかな渦巻きは翼を意味します。つまり――翼を持った聖獣が、我々地に生きる者を天へ昇れるように導く、と」 「へえー」 「教団に興味があるんですか?」 意外そうにラノグが訊ねる。 「さあ。罪を償えば聖獣が救ってくれるとかそういう話を教皇さんがしてたのは面白かったけどな」 エンは空を向き直り、組んだ腕を枕にして再び寝転がった。 「……貴方には何か償わなければならない罪が?」 ラノグはひっそりと声を静めた。まるで訊くのが憚れるように。 「まあ割とヤバいのの一つや二つな。償えるかわからんけど、気にはなる」 しかしエンは両目を閉じ、普段通りの声色で答えた。 「そうですか……」 ラノグの表情には同情が浮かんでいた。それでいて共感しているようにも見える。一方、『天下の大罪人』とも呼ばれるゲズゥは依然として他人事と割り切って会話を静観している。 「実は僕も償っているんです」 数十秒後、一大告白をするように、ラノグは顔を上げた。 「そいつぁ驚きだな。どんな? そういえば行き倒れてたんだっけ。どっかから逃げてたとか?」 エンは右目だけを開いて訊いた。発した言葉の調子は軽かったが、どこか優しい響きを含んでいる。 「傭兵砦からですよ。僕の父も祖父も曽祖父も、鍛冶師でした。人を害する為の武器や兵器を作って生計を立てていたんです。僕もまた、それを生涯の役割として受け入れていました」 一度、ふうと息をついてから語り続ける。 「自分が何をしていたのか何の疑問も抱かずに生きていたら、ある時戦火が僕らの砦までに忍び寄ってきて。最初は、自分の作った物が役に立っていることにただ喜びを覚えていたんですが」 顔が暗くなりつつあるラノグを気遣ってか、エンが口を出した。 「別に最後まで言わなくても大体予想はつくぜ」 「……いいえ。言わせて下さい。師匠にしか話したことが無かったんです」 「相手が数日前に会ったばっかのオレらでいーのかよ」 紫色の瞳がほとんど空になった酒瓶を一瞥した。奴の舌がよく回るのが酒のせいかと疑っているのだろう。 「構いません。いつか、町の皆にも明かしたいのでその練習みたいなものです」 「ならいいけど。で、何があったんだ?」 エンが促すと、ラノグは深いため息をひとつついた。 ――激化する戦い、それ自体は傭兵砦にとって大して珍しいことでも無かった。砦の仲間は投石器を放ち、迫りくる敵を一掃した。 だが戦闘も片が付いた頃、そこらに倒れていた敵兵がまだ十五歳程度の子供ばかりだったのだと気付いた――。 「何故それまで実感が無かったのでしょうね。僕は人がより効率良く人を殺せるような道具ばかり生産していたのに……。仲間だけじゃない。殺された人たちは、どこの誰であるのかこちらが知らなくても、皆、誰かにとっては大事な人だったはず。そんなことをして、お金を貰っていた僕は……」 「傭兵だったってんなら、戦を仕掛ける判断をしたワケじゃないんだろ。そればっかりはアンタの落ち度じゃねーよ。人が戦わなければいいだけだからな。どっかの性根の腐った奴が子供を兵士に使ったのだって」 「それでも、人を殺す道具を作ることが怖くなって、逃げ出しました」 「うーん、じゃあある意味悪いコトしたな」 エンはちらりとゲズゥの方を見た。 人を害する武器を、直して欲しいなどと言って鍛冶屋を訪ねたのが、嫌な過去を思い出させたかもしれないということだろうか。 「今は違います。確かに身を守る武器を作ってもいますが、大体の仕事は鍋や包丁や鍬など、人が『生きる』為に必要としている物の製作です。僕は、師匠と一緒にそれができるのがとても嬉しいんです」 その笑顔が総てを語っていた。 「そーか。いい話だな。毎日の積み重ねは大事だ」 そしてエンもまた笑顔で町を見下ろしていた。 「ありがとうございます」 照れ臭そうにラノグが頬をかく。 それまでゲズゥは変わらず傍観を貫いたが、心の中では何かよくわからない感情が蠢いていた。 ――生き方、償い、更生。積み重ねる日常。自分も変わりたいと願うのか? それとももう、変わり始めているのか。 刹那、今も聖堂の中で信徒に愛想を振りまく少女の姿が思い浮かぶ。 行き場の無い感情の渦を抱えたまま、ゲズゥはすぐ近くで響き始めた時計塔の音色に身を委ねた。 |
24.e.
2013 / 07 / 26 ( Fri ) ズボンを軽くはたいてからスッと背を伸ばした。直立してしまえば身長差はより際立ったものになり、女はあんぐりと口を開けたままゲズゥを見上げた。
何か頼みたいことがあるのなら早く言え、とゲズゥは視線で威圧する。女はみるみる青ざめていったが、両手を握り合わせ、ごくりと喉を鳴らしては発話した。 「そ、その、男性の方が今誰も居なくて。窓の外側を拭きたいのですが、二階の窓は私たちだけでは届きにくいのです。貴方は十分に背も高いですし、もしお時間があればお願いします……」 言い終わると女は恥ずかしそうに視線を地に落とした。 ゲズゥは首を鳴らしつつ考慮した。窓拭きぐらいなら、メリットさえあれば手を貸してやらないこともない。 「……勿論、ただでとは言いません! お礼に焼きたてのケーキやクッキーをいくらでも」 こちらが何か条件を言い出すより先に女が提案した。 「肉がいい」 と、答えた。ゲズゥは味の濃い食べ物が苦手である。とりわけ、女が作る焼き菓子は甘すぎると決まっている。腹にたまりもしないくせに胸やけばかりする。 「わかりました。市場もまだ開いてますし、お好きな肉を買ってきます」 「じゃあ、鳩」 この町で奴らが飛び回ってるのを見てる内に食べたくなってきた、というのは短絡かもしれないが、事実だった。 「はい! ありがとうございます!」 女は快諾した。 かくして、ゲズゥは長い梯子に上り、教会の窓を酢と古紙で磨くことになった。 わざわざこちらの望む物を買って礼をするほどである。それに見合う労働をさせられるだろうと頭の片隅では予想していたが、まさしくその通りだった。変な形の窓や体勢的に届きにくい位置にある小さい窓、終いにはあの聖堂に面している大きな染めガラスの窓が、ゲズゥに苦戦を強いた。 そして気が付けば夢中になっていた。ゲズゥは自分を結構大雑把だと評しているが、なかなかどうして、この類の作業だけは何故か本気で取り組まなければ気が済まない。 剣の手入れも一度たりとも手を抜いたことは無い。毎度、刃が眩い煌めきを放つまで徹底的に磨いてしまう。 もう陽も傾きかけているのに、ゲズゥは構わずに目の前の細かい汚れとばかり戦った。ガラスに顔を寄せ、酢の入った瓶を左手に、丸めた古紙を右手に握って。背後ではカラスがのんびり鳴いている。 「なあ、そんなに睨んだらせっかく磨いた窓に穴が開くんじゃねーの」 聴き慣れたハスキーボイスが頭にかかった。 チラリと視線を上へやると、にやにや笑うエンがいつの間にか屋根に立っていた。無造作な黒髪が微風に撫でられ揺れている。 「うーわ。酢くさっ」 「……お前もやるか」 「やらねーよ。それよりもうすぐ終わるん?」 エンは時計塔の天辺を飾る教団の象徴に肘を乗せ、狭い面積の屋根の上でバランスを取っているらしい。片腕だけを十字架から離し、肩にかけたずだ袋から小さいボトルを取り出した。仄めかすようにボトルを振っている。 「コイツで最後だ」 「じゃあ待ってるから終わったら付き合え。この町で作ってるシェリー酒だってさ」 そう答えてエンは時計塔から広い屋根の上へ移ってごろんと横になった。 シェリーといえば果物の甘味が難点だが、強い酒で、しかも安くは無い。興味は惹かれる。 すっかり興味の対象が窓から酒へと移ったことで、後は適当に拭いて終わらせた。 「こんなもんどこで手に入れたって訊きたそうだな」 屋根に上ると、エンは上体を起こして言った。 「それより使える金があったのか」 その隣に、ゲズゥはどかっと胡坐をかいた。 「んー? 日払いの工事の仕事とかで稼いだ」 「…………仕事?」 「後は町の端の麦畑が人手不足って言うから、行ってみたぜ。単調な作業ばっかだけどそれがまた面白いな。子供の頃は身体が弱かったから望んでもそういうの手伝えなかったし」 心底楽しそうな笑顔を浮かべ、エンがボトルを差し出してきた。言われてみれば、前より少し肌が日に焼けている気がする。屋外で仕事していたからだろう。 ゲズゥはボトルを受け取り、一口シェリーを喉に流し込んだ。次いでボトルの中を覗き込んだ。ドライタイプで、色は濃く、予想していたほど甘くない。嬉しい誤算である。 「実は夜も食物庫の門番の仕事引き受けてんだ。身元とか関係なく雇ってくれるのが助かるよ」 エンは屈託のない笑顔を満面に広げている。 働きづめな生活をこれほど喜べる人間を、ゲズゥは他に知らない。 この男は余程賊の生き方が性に合っていなかったように思う。ぶっ倒れるまで働き、物を生産して恍惚になる種の人間の話しぶりである。というよりも、これまで働く機会が無かったからこその反応か。洞窟の中では時折退屈そうな目をしていた理由が、今ならわかる気がした。 「にしたって、いい町だよなー。安全だし」 「確かに、そうだな」 後半に対してゲズゥは賛同した。町の良し悪しなどわからないが、治安が良いのは間違いない。強力な結界で魔物は中に入れないし、人々からは犯罪の気配が薄い。それはもう稀に感じる薄さだ。妙な町である。 「あ、あれって確か」エンは唐突に道を歩く人を凝視し出した。「おーい、鍛冶屋の弟子の兄ちゃん。ラノグ、だっけかー?」 呼ばれた人物は頭を振り仰ぎ、意外そうな顔をしてから、笑って手を振り返した。 |
24.d.
2013 / 07 / 17 ( Wed ) 「そうですね……。聖地が総てこのような危険を伴う場所でないと願っています」
ミスリアは苦笑を返した。 崖から落下していれば大怪我は免れず、もしかしたら河に落ちて溺れていたかもしれない。今更遅れてやってきた寒気に、身体が震えた。 何より、あの誰かに強制的に意識を占有されていたような感覚。自ら歌って魂を繋げた場合とは違う、実体の無い重圧。 それは同時に聖気の清らかさと暖かさを伴っていた。近い経験を探すなら、聖女としての修行の最終段階が似ているけれど――。 ――違う。あの時にも感じた圧倒的な存在感、それを今回はもっと身近に感じた。しかし決して喜ばしいと思えるような近さではなかった。 「……こわい……」 気が付けば呟いていた。 目を伏せて椅子の上で身を丸めた。何故だかわからない、ただ、先に進むのが怖い。 覚悟は決めていたはずなのに。わけもわからず揺らぐ心を、無視できなかった。 「私は弱いですね」 「知ってる」 か細い独り言に、変わらず落ち着いた声が相槌を打った。ミスリアが何に対して恐れを抱いているのか、彼は見通しているのだろうか。 「……軽蔑しますか?」 組んだ腕の中に顔を埋めた。 「別に。それほど迷惑はしてない」 無感動な声だった。気遣いなどではなく、本当に、ありのままの事実を話しているのだろう。それほどって言うからには、多少はしているはず。 「怖いならやめるか」 「いいえ! 私の気持ちは関係ありません、必ず目的を果たします」 ミスリアは素早く頭を上げて振り返り、対するゲズゥは、左右非対称の両目を一度瞬かせた。 「お前の目的は蝋燭の壁と関係があるのか」 「!」 彼が指す物に瞬時に思い当たって、怯んだ。 揺らめく炎の列が脳裏をよぎる。 よく考えたら隠す理由は無いはずである。数瞬の間、ミスリアは言葉を探した。 「そう、ですね。あの蝋燭立ての列は、旅の途中で消息を絶った聖人聖女を弔うものです」 ゲズゥはただ目を細めた。 一度深呼吸してから、ミスリアは続けた。 「彼らの為に私は旅に出ました」 静かな会議室に、自分の強張った声がやたら響いたように感じられた。 _______ 聖堂に並んだ蝋燭の列の、蝋燭立てに彫られている文字は、消えた人間の名前を表している。 隙を見て司祭に訊いたらそう説明を受けた。 ゲズゥ・スディルは木の枝に膝からぶら下がり、腹筋を鍛えつつ考え事をした。 真夏に相応しく気温の高い午後だったが、木陰に守られているためいくらか涼しい。湿気が多く、運動による汗が乾かずに滴った。全身がべたついて気持ち悪いが、南東生まれのゲズゥにとっては慣れればすぐに忘れられる程度の問題だった。 腹筋に力を込めて上半身を折り曲げる。その間の筋肉の引き締まりが、苦しい。同時に、踏ん張る一瞬には頭の中が驚くほど空っぽになった。体を折り下げては繰り返す。 数十の繰り返しを経てから、力を抜いて再びぶら下がった。着る者と一緒になって逆さになっているシャツを使い、顔の汗を拭う。 『私はっ……! 世界を救いたくて旅に出たんじゃありません!』 以前聞いた叫びが、ここぞとばかりに記憶に浮かび出た。 ――世界の為でないのなら、何の為に。 消息を絶った聖人聖女、「彼ら」と言ってもミスリアが泣き崩れたのはたった一つの蝋燭立てに目が留まった時だ。ならばその人間が特別であると断じていいのだろう。 件の蝋燭の位置は覚えていた。それについても司祭に訊いたら、そこに彫られた名が「聖女カタリア・ノイラート」であると判明した。 そうと聞いて、多少の仮定を立てることができた。 「もし……」 苗字は当然のこと、カタリアとミスリアでは名も似ているし、親類と考えて間違いないだろう。 「もし、そこの方。えーと……」 まさか消息を絶った人間を探そうと―― 「あの! お願いがございます!」 さっきから呼び声が自分に向けられているのだと、ゲズゥはようやく気付いた。何度か瞬き、逆さの映像を分析する。 全身を質素な衣で包んだ若い女が視界の中心に居た。作業用の被り物なのか、頭にはバンダナを巻いている。 「あの、お邪魔してすみません。手伝っていただけませんでしょうか」 言いにくそうに女はもじもじした。 「…………」 ゲズゥはとりあえず両腕を伸ばした。逆立ちになるよう樹の上から降り、次いで足を落としてしゃがむ形に着地した。 |
24.c.
2013 / 07 / 12 ( Fri ) ディーナジャーヤと言えばアルシュント大陸で最も広大な領土を誇る、大帝国である。過去数度にわたる大規模な戦によって土地を勝ち取り、更に三つの属国を従えている。 「でもあの城はもっと――」 「貴女がご存じなくても無理のないこと。数百年前、聖獣が飛び立つ直前まではクシェイヌ城は忌み地でした。人間同士の激しい闘争の歴史を背負った場所でしてね、聖獣によって浄化された後に聖地に変わったのですよ」 「では私が視たのが忌み地だった頃の姿ですか?」 「同調、できたのですね。よかった。おめでとうございます、聖女ミスリア。貴女はもう得るべきものを得たのです。次に何をすべきかおわかりでしょう」 (まだ不安も謎も残っているけど……) 「大丈夫ですよ。次の聖地に行けば、もっと色々なことがわかるでしょう。聖人聖女たちの道のりが重ならない理由も含めて」 「はい、猊下」 「あの、ところで今は夕方ですよね。私はどれくらいの時間、意識を失っていたんですか?」 隣の神父と顔を見合わせた後、猊下がその柔らかい微笑みをミスリアの背後に立つゲズゥへ移す。 「三十分くらい崖っぷちで突っ立ってた」 「よろめいて、膝をついて……しばらくして倒れた。二時間経ったら起き上がって、草の中をのたうち回って、這いずって、また意識を失った。それからは起きるまで動かなかった」 いいえ、とミスリアは頭を振った。 「スディル氏、あれほど手を出してはいけないと申しましたのを、ちゃんと守って下さったんですね」 (きっと猊下に言われたから動かなかったんじゃなくて、自分なりの理由があったのね) 「さて、私はそろそろ失礼します。聖女ミスリア、貴女はまだこの町に滞在されますよね?」 「ではまた後ほどお話しましょう。別件について、貴女の意見をお聞きしたい」 「ええ。今晩はゆっくりお休みなさい」 そうして二人は会議室を辞した。彼らは他に仕事が残っているのだろうか。今夜は晩御飯の席で顔を合わせることが無いだろうと予感がした。 (最近こういう流れが多いわ。これって、体力つけるべき?) ふと目が合うと、意外なことに、彼の唇が動いた。 「お前は、よく崖から落ちなかったな」 |
24.b.
2013 / 07 / 07 ( Sun ) 朝、とある問いの答えを求めて聖地へ赴いた。 聖地は最初に夢で視た通りの穏やかな場所だった。真っ白な綿雲に空は覆われ、草花は微風に吹かれて揺れる。野花の周りを蝶や蜂が元気に飛び回っている。 四百年以上前――かつて聖獣が大陸を浄化する為に飛翔し、途中でこの岸壁を選んで休憩をしたと伝えられているのが、この地である。 まさに偉大なる聖獣が降り立ち、丸一日の休眠を取ったらしいとされる崖に、ミスリアは向かっていた。 空気は澄み渡り、聖気の暖かさとは異なる、何かの透明な存在感が周囲に満ちていた。 ミスリアは五感を研ぎ澄ませて探した。一歩踏み出すごとに、僅かな変化でも感じ取れるように努めた。けれども未だに問いの答えに近づけそうにない。 昨夜、ミスリアにその問いを課したのは教皇猊下だった―― 「聖女ミスリア、我々が何故聖地を巡るのか、わかりますか?」 「聖獣様の安眠の地へ辿り着けるよう、繋ぎ合わせるべき情報を得る為ですよね、猊下」 「ええ。その認識に間違いはありません。教団でもそのように教えているのでしょう。ですが、言い方に多少の語弊があるかもしれませんね」 「語弊ですか?」 「情報がどのような形をしているものと考えますか? 地図の中の隠し文字、秘術によって作り上げられた迷路のような道……そういったカラクリや仕掛けによって偽の情報の中に真実の断片が隠され、ばら撒かれていると学びましたか?」 「はい。教団ではそのように……」 「確かにそれらもまた、実在するものです。ですが、その実、聖人・聖女であればそんな方法に頼る必要はありませんし、わざわざ聖地を訪れる理由にはなりません。『聖地を巡れ』以外の指示は受けていないでしょう?」 言われてみれば、そうだった。 聖地のどこに次に向かうべき場所の手がかりがあるのか、まったく聞いていない。教会の人が知っているのか、書物を調べればいいのか、詳しい指示は受けていない。 そもそも旅に出る聖人・聖女が皆誰しも他の誰かと道のりが重ならないと言われているのが妙である。 真実の情報を探す使命が共通し、それを見つける方法――対象に祈りを捧げ、水晶で照らす――までもが同じなら、少なくとも何人かは似た軌跡を辿るはずだ。 ミスリアはこれまでに教えられた以上の真実に思いを馳せたことは無かった。 ただ漠然と、偶然の働きで誰も同じ行路を辿ることが無いのだと思っていたし、よくわからない点は実際に聖地を巡礼してみれば明らかになるだろうと想像していた。 なら聖地で得る情報とは本当は何か、と訊ね返すと、猊下はやはりこう答えた。 「まずは行ってみることです。こればかりは、誰かに伝え聞いただけでは理解が及ばないでしょうから」 ――したがって、ミスリアは一人で崖上の草原に立つことになった。 背後、かなり離れた位置にゲズゥがどこかの樹に寄り添って様子を見ている。 彼はナキロスの神父と教皇猊下に絶対に聖地に踏み入れないよう言い聞かせられていた。理由は、魂の穢れた者が聖地に与えるであろう影響を怖れてのこと。聖女であるミスリアとて、入念に身を清めた。 そして何が起きてもミスリアが自力で戻ってくるまで決して手を出してはいけない、と猊下はきつく言った。 (何も起こらないまま岩壁の先端まで来てしまったわ) 足元に注意を払いつつ、ミスリアは崖下の川を見下ろした。なんて澄んだ水だろうと思う。 瞬間、全身に何か強烈なエネルギーが流れ、髪の一本一本までもが浮上した――ように感じられた。次いで心の内にとてつもない重圧を感じた。 今までの人生経験の中で、この重圧に一番近かったのは魔物と魂を繋いだ時だ。最近だと、ゲズゥの故郷で彼の母だった魔物の記憶を覗いたのがいい例である。 (でも……もう一つの、感覚は――聖気……!?) 普段、自分が展開している聖気や他者から受けたことのある聖気とは比べ物にならないほどの強い力と流れである。 ふいに映像が脳内に浮かんだ。 (谷? 城……塔? 山、と泉……) 同時にいくつものぼやけた映像が重なったため自信は無い。どの場所も、これといった特徴を読み取れなかったので認識できなかった。 そうしてその後に、廃城のイメージを視たのだった――。 ミスリアがひととおり話し終えると、一同は教会の一室に移動していた。小さな会議室である。 「私が視たのは黒ずんだ崩れた廃城でした。堀があって、死体の積み重なった……。でもそんな場所は、現在保護されている二十九の聖地にありませんよね」 一連の出来事を思い出しながら、次の聖地の手がかりをビジョンとして視ることが情報を得る方法では、とこっそり仮定を立てていた。だが、あのイメージの性質を思えば、これは見当外れだったのではないかとミスリアには思えてきた。 「ありますよ」 「え?」 あまりにあっさりと否定されたので、思わず頓狂な声が出た。 「貴女が視たのは、今とは時を同じくしない聖地の姿です。ディーナジャーヤ国のクシェイヌ城ですね」 教皇猊下はへにゃりと笑った。 |
24.a.
2013 / 07 / 05 ( Fri ) 赤黒い空を背景に、見覚えの無い古城を見上げていた。むしろ、廃城か荒城と呼んだ方が似合うような歪な形である。 人の気配はない。烏の鳴き声を除けば完全な静謐が辺りに流れていた。 城の端にある瓦礫の山にて数羽の烏が戯れ、城の壁は蔦に覆われている。どこからか腐臭が漂っている気がした。烏たちが突付いているのは或いは何かの骸であるのかもしれない。 瘴気が周囲に充満しているのは明らかだ。ならば、此処は忌み地だろうか。 低い丘の上で、堀に囲まれた黒ずんだ城。これまでに見てきた絵画や記録を思い返しても、これに該当するものは無かった。 ――それにしても、おかしい。 自分はいつの間にこんな、まるで記憶に無いような地を訪れたのか。これより以前に何をしていたのか、どうやっても思い出せなかった。 「もしかして夢?」 その言葉が舌を転がり落ちた途端、何かが足首を強く圧迫した。 「ひっ」 ひどく冷たい感触に全身が鳥肌立った。 鋭く足元を睨むと、そこには頭部の右半分がごっそり欠けた人間らしきモノが這っていた。 恐怖とおぞましさで声が出なかった。魔物、だろうか。生死をさ迷う人間、だろうか。 思わず、自由な方の足でソレを蹴った。足首にかかった力が弱まると、そこから逃げ出した。 しかしあろうことか自分は古城に向かって走り出していた。間違った判断だと頭の中ではわかっているのに、どうしてか体が方向転換できない。 かろうじて堀の前で停止した。 すぐに吐き気を催した。 堀の中は、腐敗した人の屍骸でぎゅうぎゅう詰めになっていた。 (夢なら今すぐ覚めて――!) 心の中の叫びに応えてのことなのか、世界がフッと消えて別のものに入れ替わった。同時に意識から何かが抜け落ちたような、切り離されたような、妙な手応えを感じた。 掌に触れる感触はひんやりとしていて柔らかい。視界の半分は緑色に輝いている。この匂い、草だ。 目に映る空はやはり赤いけれど、つい今まで見上げていた重苦しい色ではなく、茜と薄紫が入り混じった優しげな模様である。これは夕暮れ時の色。 どうやら夢の中と違って現実では自分は横たわっているらしい。 ゆっくり身を起こすと、目に見える世界を野原が満たした。 「聖女ミスリア。気が付きましたか」 離れた場所から、柔らかい声が響いてきた。気遣い、慈しむ声音である。 「あの……此処はどこで、私は……」 だれ、と問いそうになって、やめた。 (ミスリア……そう、だわ。私はミスリア・ノイラート。教団に属する聖女) 自分が身にまとっているのは聖女の着る純白の衣装で間違いなかった。 そこまではわかる。が、そこからが曖昧にしか思い出せない。 呼びかけてきた声の主は両手を組み合わせた丁寧な立ち振る舞いで、微笑んだ。 真っ直ぐな黄金色の長髪が風にそよいでいる。男性だとは思うけれど、小柄で華奢な体型だった。ぼんやりとしか姿が確認できないほどに、その人は離れた位置に佇んでいる。 「では、私が誰だかわかりますか?」 彼はミスリアの問いかけには答えずに別の質問を返した。 「……私にとって身近な方でしょうか」 失礼な物言いと思いながらも、ミスリアはそのようにしか返せなかった。見知った人間であることは薄っすらと感じられる。 「いいえ。あまりよく知らないかもしれません。困りましたね」 金髪の男性は隣に立つ別の男性を振り仰いだ。裾の長い黒装束は、司祭の位を持つ者が着る正装に見えた。こちらの司祭の人は金髪の男性以上に、ミスリアには知らない人に思えた。 (ところでどうして彼らはあんなに離れているのかしら) 助け起こして欲しいとまでは思わなくても、この距離の取り方は不自然に思えた。 二人の更に後ろに、もう一人男性が立っていた。 遠目にも長身とわかる、黒髪の青年だ。両腕を組んで静止している。 「ゲズゥ!」 より自分にとって身近な人間の姿を認めて、ミスリアの脳は冴え渡った。 思い出した。 (私は巡礼の旅をしている。そして、最初の聖地である岸壁の上の教会を訪れた) でも、それならどうしてあんな不吉なイメージを見たのだろう? 聖地とはいったい何であったのか―― 前触れもなく息が苦しくなった。襟元を片手で押さえ込む。 ひとつの想いが、目的が、全身を占め付けていく。他のことを考えようとすれば頭が激痛を訴えた。 ――行かなければ! あの地へ! 直ちに! 行くのだ! 「聖女ミスリア」 力強い、澄んだ声に、ミスリアはハッとした。 「落ち着いて。まずはこちらにおいでなさい。一緒に順を追って、思い出して行きましょう。あなたが経験した一切を」 「げい……か……」 尚も混乱する心を落ち着けて、何とか立ち上がった。ゲズゥが、身動き取らずにじっとこちらの動向を見守っている。 はい、と声を絞り出して、ようやくミスリアは三人に向かって一歩踏み出した。 |


