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23.g.
2013 / 06 / 29 ( Sat )
賊であった以上、人を恐喝した事も、拷問にかけた事も、殺した事もあるはずだ。生きる為だったとしても、世間が認める道徳に反しているのは事実である。何より、穢れた手で家族に触れていいものか迷う気持ちは、ゲズゥには自分の事のようによくわかった。自分がソレをするのはどうでもよくても、大事な人に伝染させたくはない。

「知った時にどう反応するのか、それが怖いんだよ。臆病者で情けないだろ?」
 紫色の双眸が映し出す哀しみは深い。
 その問いに、少女はぶんぶんと頭を振って否定した。

「そんなことありません。過程がどうであれ、貴方は危険を冒して行動に移しました。大切な人と再会できた今では、それを『遅すぎる』と批判できる人はいないはずです。彼女にすべてを打ち明けるのが正しいのかどうかまでは私にはわかりませんけど……」
 語尾に向けて声が沈んでいく。

「でも、イトゥ=エンキさんがお姉さんの心の動きを恐れるのは人として当然のことだと思います。情けなくなんてありません」
「はは、ありがと。気休めでも嬉しい」
 エンがミスリアの頭を優しく撫でると、ミスリアは益々複雑そうな顔をした。エンはミスリアから手を放した後はまた片手をポケットに突っ込んだ。

「……それはそうと、いい加減、謝りに行くかな」
 時計塔の方角を見上げてエンは呟いた。
「多分、夕飯時にでもまた会うだろ。じゃーなー」
 既に踵を返し手を振るエンに対してゲズゥは「ああ」と答え、ミスリアは「頑張って下さい!」と答える。

 人混みに溶けて消える後ろ姿を見送った後、ゲズゥとミスリアは町の散策を再開した。
 目に映る景色や道を記憶の内に刻みながら、二人は歩を進める。

「お昼、どうします?」
 先を歩いていたミスリアが、振り返って訊ねた。言われてみれば、いつの間にか胃袋が空洞と化していた。
「食えれば何でもいい」

「ではあちらに見えるカフェで――」
 道の向かい側を通る小さな集団を目に入れて、ミスリアは露骨に後退った。そして恐怖に鋭く息を呑んだ。

「え? な、何か問題が?」
 向かい側を歩く男がこちらに気付いて、困惑している。だが少女の目が釘付けになっていたのは人間の方ではなかった。

 三頭の山羊だ。
 黒い毛皮のそれらは縄でできた首輪によって繋がれ、まるで飼い主の男に散歩をさせられているようにも見えた。実際は、男は山羊たちを売る為に移動させているのだろう。

「何でもない」
 顔面蒼白で硬直したミスリアに代わってゲズゥが口を開いた。強引にミスリアの腕を引いて歩かせる。面倒臭い状況に発展しないようにさっさとその場を去った。
 カフェまでの間、ミスリアは唇を噛み締めたまま何も言わない。何か苦々しい思い出に囚われている――山羊から連想できる、何か。

 ユリャン山脈付近の集落。
 瞬時に脳裏に浮かんだのは、無残に殺された赤い髪の少女。そう、その晩に襲ってきた異形どもは、身体の一部が山羊と羊の姿に似ていたのだ。

 確かにあれは楽な退治ではなかったし、犠牲者も出た。
 だが過ぎた事だ。トラウマという形で精神に影響を残していてはいずれ先に進めなくなるのも必至。普通に生活しているならいざ知らず、ミスリアは大きな目的を抱いて旅をしている聖女だ。

 こんな調子で本当に聖獣まで辿り着けるのか。
 ゲズゥがそれを思い悩むのおかしいが、多少の疑念が沸いた。

_______

 ドタバタと走り回る七、八人の子供の渦中に、探し人は立っていた。ここは教会の二階にある、いわゆる「子供部屋」である。床には木馬や人形などのおもちゃが散りばめられている。

「こら! 土足で部屋上がっちゃだめだっていつも言ってるでしょ! 言うこと聞かないと今日はご飯抜きにするわよ!」
 腕に三歳くらいの子を抱くその女性は周囲の子供たちに怒気を放った。
「うっそだあ」
 子供たちは聞く耳持たない。

「いいわ。人間は三日くらい食べなくても、平気だものね。悪い子たちには緑期日まで何も食べさせるなって、皆に言っておくから」
「ええー。ヨン姉ひどいっ」
「わかったら靴脱いで! それと、食事の前はちゃんと手を洗うのよ」
 はーい、と誰もが合唱する中、一人だけ部屋を飛び出す少年が居た。

「やなこった!」
「あ、待ちなさい――」
 そこで更に説教を畳み掛けたかっただろうに、腕の中の子供が泣きだしたため、ヨンフェ=ジーディはあやす方に意識を集中した。

(ふむ。手を貸すか)
 さっきから廊下で静観していただけのイトゥ=エンキは、逃げ行く少年の足を引っ掛けた。少年は、どてん、と大きな音を立てて転んだ。我ながら単純な手段だ。

「なにすんだよっ」
 転ばされた少年はイトゥ=エンキの足に殴りかかる。
「まーまー。ご飯三日も抜かれんのはマジでやばい。悪い事言わんから従っとけって、な」
 イトゥ=エンキは少年を楽々と腕に抱えて、子供部屋に返す。抱えている間も何かと殴られたり蹴られたりしたが、気にならなかった。

 下ろされた少年はふてくされながらも、他の子たちに合わせて靴を脱ぐ。皆はその後は部屋の片隅の水瓶に向かっていく。
 ヨンフェ=ジーディのブルー・ヘーゼル色の瞳が、静かにイトゥ=エンキを見つめていた。彼女の肩に寄りかかる幼児は、眠そうな顔で親指をくわえている。

「…………えーと、ただいま」
 なんとまあ、気まずい。ひとまず何か言おうと思って、無難な言葉を選んだ。今笑っていいものか自信が無いので、自分でもよくわからない顔になっている気がする。

「お帰りなさい」姉は眉根を寄せたが、応じてくれた。「言いたいことはたくさんあるけど。……お昼もう食べた?」
「や、まだ」
「作り置きで良ければ、温めるわ」
「ん。じゃーもらう」
 ありがと、と小さく追加しておくと、ヨンフェ=ジーディは何も言わずに微笑んだ。

 締め付けられる想いがした。
 痛いのは喉なのか胸なのか、とにかく息が詰まった。微笑みを返そうにも顔の筋肉が言うことを聞かない。
 一体それをどれ程の間、切望したことか。

 彼女の笑顔を最後に見たのが何十年も前だった感覚がある。泣き顔ばかりが浮かんで、笑った顔を忘れてしまうのが怖くて、洞窟の闇の中で幾度と無く思い出した。おかげで思い出は薄れても、消えはしなかった。

 もう二度と見られないと思っていた。
 それを言うなら、二度と声を聞くことも、手を握ることも、叱られることもできないと思っていた。
 今更、生きて再会できたのだという実感が全身を駆け抜けた。同時に、紋様がじわじわと広がっているのがわかる。

 ――会いたかったよ、ヨン姉。

 そう伝えるのは、後の機会に取って置こう。これからゆっくりと、色々な話をしていけばいい。今はまだ話せないことも、いつかは――。
 顎を引いて、くくっと喉を鳴らして笑う。

「どうしたの」
 心配そうな声がかかる。
「あー、いや」
 顔を上げた時にはもう、イトゥ=エンキはいつもの人を食ったような笑みを浮かべていた。紋様の広がりも引いている。

「アイツら、下まで連れてくんだよな。手伝うぜ」
「え? うんそうだけど……いいの?」
 首を傾げたヨンフェ=ジーディは、どこか嬉しそうだった。

「もたもたすんなよ、ガキどもー」
 ユリャンでもたまに子供の相手をすることはあった。イトゥ=エンキは嬉々として群れに混じった。
「おにいちゃんだれ?」
「さあ、ちゃんと二十まで数えて手を洗ったら教えてやるよ。ほら、せっけん」
「あーい」
 少女が石鹸の欠片をイトゥ=エンキから受け取る。

(ま、今はこれでいっか)
 まだ考慮しなければならない問題は多くあったが、これからどうすればいいのかの決断は先延ばしにしても大丈夫だろう。急ぐ必要は無かった。
 どうせもう、他に行きたい場所も会いたい人も居ないのだから。

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23.f.
2013 / 06 / 26 ( Wed )
「めざといな、お前」気まずい空気をかもし出すことなく、エンはけらけらと笑った。「別にコレは理由の内じゃねーけど。見られたくないのは違いないな」
 奴が手首を翻し、傷痕は視界から消えた。
「そうか」
 とだけ、ゲズゥは返した。

 花壇から目線を移したミスリアが、大きな目を瞬かせている。
 暫時の沈黙が流れた。
 往来の人々はゲズゥらに関心を示すことなく、忙しなく通り過ぎている。水瓶を頭に乗せた女がすれ違いざまに一瞬だけこちらをチラリと見たが、それだけだった。

 ミスリアがゆっくりと立ち上がる。茶色の瞳はエンをしっかりと捉えていた。ところが、次いで発せられた言葉は心もとない。

「あ、あの、私にできることがあれば言ってください。古い傷を治すのは難しいんですけど、精一杯頑張りますから……」
 オロオロとかける言葉に困るその様を、ゲズゥは今までに幾度も見てきた。

 相手を気遣いたい気持ちを持て余し、どう言ってあげるのが一番いいのかわかりかねているのだ。それを「できることがあれば」の言葉に包む事で、何より相手を尊重したいという意思を示している。「お前にできることは無い」と相手がそう断じれば、大人しく従うだろう。
 押し付けがましくない分、そういった想いが純粋に届くこともある。

 エンは最初、驚いたようだった。次には、朗らかに笑った。

「……嬢ちゃんはホントお人よしだなぁ。そんなんじゃ早死にしそうでこえーよ。誰も彼も助けようとして、疲れないか?」
 ゲズゥも何度か抱いてきた疑問である。今となっては、この娘の根本を成す性質だと受け入れて諦めている。

「私……私たちは、何度も貴方に助けられていますから。信頼に値する人物だと思ってます」
「カワイイこと言うじゃん」
「はい?」

 次の瞬間、エンは大股でミスリアに近付いた。長身の男は少女を両手でひょいっと抱き上げ、子供に高い高いをするように空に放った。

「きゃあ! イトゥ=エンキさん!? 何するんですか、やめ、やめてください!?」
「ははははは」
 エンは笑うだけで取り合わない。

 きゃあきゃあ喚く少女を、道行く人々は好奇の目で見る。あらまあ仲良いのねー、と口元に手を当ててくすくす笑う女も居た。
 あまり長引くと不審者だと勘違いされないだろうか。ゲズゥはふとそんなことを考えた。

 少なくともミスリアに害が及ぶ予感は全くしないので、手を出さないでいる。
 が、助けを求める目がこちらを向いた。タイミングを同じくして、エンはくるりと身体を巡らせた。

「ほれ、パス」
 宙に飛ばされ、ミスリアが小さな悲鳴を上げる。
 ゲズゥは飛んできた華奢な身体を素早く受け止め、地に下ろしてやった。
 若干目を回しているのか、ミスリアはぼんやりとしていた。

「ごめんなさいっ」
 我に返ると、すぐにゲズゥの腕から逃れた。何を謝ったのかは謎である。
「オレ妹欲しかったなー。来たのは姉だったけど」
 エンは両腕を組んで、悪びれずに言う。

「……来た、ですか? やはり血は繋がっていないのですね」
「わかったか。っていうか全然似てないだろ? ヨン姉は父さんがこの町まで遠出に行ったある時、連れて帰ってきた孤児だよ」
「そうだったんですか」
「そ。たまたま同族だからか感情移入しちゃって、教会から引き取ったってさ」

 それを聞いて、ゲズゥは色々と納得した。生き別れた後の姉の消息を、元々彼女と縁の深い教会なら何かわかるだろうと考えたのはそういうことか――。
 そして、十五年前にあの女やエンが味わったであろう絶望をなんとなく想像して、冷風が吹いたような錯覚を一瞬覚えた。

「イトゥ=エンキさんは、どうしてお姉さんを避けるんですか? 会いたかったのでしょう……?」
 少女の澄んだ声が静かに問うた。どこか、陰を内包した声だった。
「そりゃあ……ヨン姉は十五年前までのオレしか知らないんだよ」
 ミスリアの様子に気付いたとしても、エンもやはり静かに答えた。

「……? 必然的にそうなりますね」
「つまり。これまでに何処でどうやって、何をして生きてきたのか、知らないワケだ」

 即時にゲズゥは理解した。
 隣のミスリアも、エンとの最初の出会いやユリャン山脈を思い出したのだろう。今にも泣き出しそうな顔をしていた。

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23.e.
2013 / 06 / 21 ( Fri )
 いくら何でも気前が良すぎる。そう思ったが、口には出さなかった。こちらにとって都合が良いのだから敢えて不平を言うのもおかしい。

「そんな――」ミスリアは何かを言いかけて顔を伏せた。
 逡巡してから、再び顔を上げる。
「教団との協力関係への感謝……そして代わりに、巡礼を必ず成功させて欲しいとの期待を込めてのことでしょうか」

「……町の偉いさんの考えはわからんよ。わしらが聖女様の成功を願ってるのは間違いないがね。とにかく気にせんでくれい」
 職人は分厚い手で帽子を被りなおした。屈託の無い笑顔が印象的である。

「わかりました。ご厚意、有り難く頂戴します」
 ミスリアが返したのは、民の期待を一身に背負った聖女に相応しい、使命感と誇りに溢れた微笑みだった。
 鍛冶屋の師弟は反射的に手を合わせて頭を下げる。傍らではエンが物珍しげな顔つきをしていた。

「あ、でもそっちの兄ちゃんは何かして欲しいなら払わないといかんぞ。すまんな」
 職人が祈祷の姿勢から顔を上げる。
「当然だな」名指されたエンはまったく気を悪くした素振りを見せずに笑った。「で、それなんだけどー」

 エンは腰の鉄鎖を外し、先端についている細い三又(みつまた)のフックを掌に乗せた。フックは鋭いものではないらしく、鎖を何かに巻き付ける時の滑り止めに見えた。
 歯の二本が歪に折れ曲がっている。

「む。ぼきっといっちゃってるのう」
「いっそ直さずに取り替えてみては? 確か武器屋に似たものの完成品が置いてあるはずです」
「それが良いな」
 職人は己の弟子の提案に首肯した。

「大剣は預けてもらえんかね。ちょうど今、手が空いててな。ちょっと向こうで時間潰してくれればその間に修理するぞ」
「できれば鞘も頼もうと思っていた」
 ゲズゥは大剣を両手に乗せ、差し出す形で応じる。

「あぁ、なるほど。だったら合わせて数日かかるな。とりあえず代わりになる得物を武器屋から借りるといいぞい」
 職人が剣を受け取った。
 ゲズゥはミスリアを見下ろした――この町で何日を過ごす気でいたのか知らないが、一応同意を得る必要はあるだろう。少女は小さく頷きを返した。

「どうか私からもお願いします」
「うむ。この形だと剣を『引き抜く』タイプの鞘じゃダメだな……二つの面を合わせて留め金付けるのがいいじゃろう。それで後ろ手に外せれば……」
 ブツブツと職人はひとりごちる。やがて、弟子の方も案を挙げていく。

「形はお前らに任せる」
 二人の会話を遮るようにしてゲズゥは言った。彼は鞘の質にはこだわっていなかった。
 それに、こういったものは玄人の考えに従うのが一番だ。この二人ならおそらく大丈夫だろう。工房の壁や床など至る所に積まれているさまざまな鉄器の試作品を見るに、腕は確かなようだった。
「おう、任せとけい」

「では後で教会でお会いしましょう」
「はい。案内ありがとうございました、ラノグさん」
 簡単な別れの挨拶を交わしてからゲズゥたち三人は工房を後にした。
 来た道を辿ると、坂を上ってすぐそこに武器屋があった。

 品揃えはそこそこ良かった。ゲズゥは隠し持てるタイプのナイフと予備の短剣を新調し、ついでに曲刀を借りた。際立った特徴の無い、一般的な曲刀である。
 ミスリアにも何かしら持たせた方がいいのか迷ったが、使いこなせないのならかえって危険だと考えて、止めた。

 エンは鉄鎖に付ける新しいフック、直刀、そして黒革の手袋を買っていた。指の第二関節までの長さの、指先が空いた手袋である。

「ふー、いい買い物したな」 
「私も何か買ってみたかったです」
「や、別にいーんじゃねーの、嬢ちゃんはそのまんまで」
「そう思いますか?」

 昼も近い頃、三人はぶらぶらと町をふらついていた。ふいに小さな花壇の前でミスリアがしゃがみこんで、鮮やかな色の蝶を見つめる。
 ゲズゥはその姿を背後からぼうっと観察していた。一眠りしたくなるようないい天気である。
 
 その時、何か気になるものが目の端を過ぎった。首を振り向くと、横でエンが手袋を付けたり外したりと調整をしている。
 奴の手首の内側、黒い革が途切れるすぐ下。そこにミミズが這うような皮膚の盛り上がりがあった。

 ――あれは……いつも手をポケットに入れているからあまり気付かないが、そういえばごくたまにチラリと目に入ることがあった――。
 他人の事情に関与しない主義のゲズゥは、これまでは無視し続けていたのに、何故かその時声を出さずにいられなかった。

「……エン」
「んあ?」
「お前がやたらと姉を避けるのは、その傷痕を見られたくないからか」
 治った痕を見る限り、それはためらい傷と呼ぶにはあまりに深かった。死ぬつもりだったというより、まさに死にかけたのかもしれない。

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13:20:30 | 小説 | コメント(0) | page top↑
23.d.
2013 / 06 / 13 ( Thu )
 どうして人混みに揉まれていたのか、向かう場所があったのかそれともふらふらと目的地も無く暇を潰していたのか。訊ける前に彼の方が先に問いを振った。

「どっか行くん?」
「鍛冶工房と武器屋」
 これにはゲズゥが答えた。
「マジでー、いいなソレ。オレも行く」
「あの! その前にちょっと」
 ミスリアは思わず声を上げた。この流れのままに進む前に、伝えるべきことがある。

「ヨンフェ=ジーディが探していましたよ。血相を変えていたと言ってもいいでしょう」
 その先を、戻ってきたラノグが告げた。心なしか責めるような声音だった。
「へえ。そりゃ悪いことしたな、後で謝っとくよ」
 対するイトゥ=エンキは含みのある笑みを作った。紫色の双眸を明らかな拒絶の光が過ぎる。まるで「身内の問題に他人が口出しするな」とでも言いたげだ。

「……なら、いいのですが」
 ラノグは食い下がらず、むしろ気圧されたように僅かにたじろいだ。
「で、武器屋に行くんだって? オレも連れてってくれよ」
 打って変わって、イトゥ=エンキの雰囲気が明るくなった。束の間張り詰めてた空気が和らぐ。
「…………そうですね。この道です。ついてきてください」
 まだ何か言いたげな、複雑そうな表情を浮かべつつも、ラノグは一同を先導した。

_______

 南端に並ぶ店の背後。緑茂る坂を下りた先に、一軒だけ建物がポツリと建っていた。
 街から少し離れているのはおそらくはあの煙突から上るおびただしい煙が人の迷惑にならない為だろう、とゲズゥ・スディルは考える。
 灰銀色の屋根とベージュ色に塗られたレンガは薄汚れ、街中の建物より全体的に華やかさで劣る外観だが、二階建てで広そうではある。

 ハンマーが何かを叩く音が外にまで響いている。
 これでは扉にノックをしたところで聞こえやしない、ということで全員はそのまま入口から入った。鍵はかかっていなかった。
 工房の中心にて鉄を鍛える初老の男がいる。

「師匠、おはようございます! 昼前に起きてらっしゃるなんて珍しいですね!」
「おう、ラノグか。よく来たな。死んだ女房に怒鳴り散らされる夢見て、目が早く覚めただけじゃい」
 ハンマーを下ろす手を止め、鍛冶職人は前歯の抜けた笑みを返した。その背後で、加熱炉の炎が激しく燃えている。おかげで屋内の温度はなかなかに高かった。

「んで? 客か、さっさと紹介せんか、バカ弟子」
「バカは余計です。えーと、こちらが巡礼の聖女様と護衛の方。こちらは……」弟子の男はエンに顔を向けて、口ごもった。「お二人と一緒に来た方で、まあヨンフェ=ジーディの弟さん? だそうですけど……?」
「ほお」

「よろしくお願いします。ミスリア・ノイラートと申します。それから、私の旅の護衛のスディル氏です」
 スカートを広げる礼と共にミスリアは自己紹介をした。隣でゲズゥは特に何もしなかった。
「どーも。オレはイトゥ=エンキってんだけど、ヨロシク」
 エンは片手をポケットに突っ込んだまま、空いた片手を振った。

「ほお、ほほお。聖女様、しかも可愛いお嬢さんは大歓迎だ。よろしくよろしく。にしてもそっちの兄ちゃんは顔にすごい刺青じゃな」
 長いあごひげを撫でながら、値踏みする目で鍛冶職人は来訪者を一人一人見回した。
「コレは生まれつきですよー」

「生まれつき? ソイツは傑作じゃ」
 何がどう傑作なのかよくわからないが、エンと職人が笑い出したので弟子もミスリアもなんとなく合わせて笑っている。

「さぁて。今日は何か特定の用向きでもあるんかいの。そのバカデカい剣なんてどうじゃ。鞘が無いのかね」
 職人は腕を組んでゲズゥを見上げた。正確に言えばゲズゥの背中の大剣を凝視している。
 ゲズゥは剣を下ろし、巻いてある包帯を手早く解いた。

 刃が露わになった途端に職人とその弟子が真剣な面持ちになって近付いてくる。

「こりゃあ見たことの無い型の剣じゃな。しかも鉄も珍しい……」
 指を刃の上に滑らせたりしている。
「こことか、所々に綻びが見えますね。修理しますか?」
 弟子の方が顔を上げて訊ねる。

「ああ。いくらかかる」
 金の管理をしているのはミスリアであるにも関わらず、ゲズゥは真っ先にそれを訊いた。
「まさか、受け取れませんよ。巡礼中の聖人・聖女様方からはお金を取らないのがナキロスでの原則です」
 弟子は意外な返事をした。

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13:31:52 | 小説 | コメント(0) | page top↑
23.c.
2013 / 06 / 08 ( Sat )
 弟と言っても二十六歳の成人男性のことだ。普通なら、一晩姿を見なかったくらいでここまで気にかける必要は無いはずである。しかしこの姉弟は十五年も離れて生きていて、突然再会したばかりだ。決して普通とは言えないだろう。

「大体、身体が弱いのに一人で街中をふらついていいはずが無いんです」
「あ、そのことでしたら、もうすっかり健康になったそうですよ」
 彼女のただならぬ気の揉み方に別の理由が垣間見えた気がして、ミスリアは思わず言った。

「強がりではなくて?」
 ヨンフェ=ジーディが訝しげに眉根を寄せる。
「はい。実際、旅の道中も涼しい顔で長い時間ずっと走っていましたし」
「そう、ですか」
 彼女は考え込むように口元を指先で押さえた。きれいな形に切り揃えられた爪が目に付く。

(改めてよく見ると、イトゥ=エンキさんにどこもかしこも似てない)
 髪や瞳や肌の色だけでなく輪郭や顔のパーツですら似ている箇所が無い。唯一共通しているのは、紋様の一族である点だけだ。ここまでだと、いっそ血が繋がってないのかな、などとも考える。
 ふいに背後で扉が開く音がした。皆の注目がそちらに集まる。

「……もしも街中で奴に会ったら、お前が探していたと伝えておく」
 振り返らずにゲズゥが無機質に言った。その言葉をきっかけに、ラノグも動き出した。
「じゃあそういうことだからヨンフェ、また後で」
「わかったわ……。気を付けて」

 頷いたヨンフェ=ジーディに、ミスリアは会釈した。
 教会を出て通りに出るとラノグが申し訳なさそうに笑った。

「すみません、聖女様。ヨンフェは元から心配性なんですけど、今回はなんていうか……特別なんでしょうね」
「気にしていません。それだけ彼女は思いやりが深いのですね」
「そう、そうなんです」
 彼はとても嬉しそうに破顔する。なんとなくこっちも嬉しくなってきて、笑みをこぼす。

 ミスリアとラノグは並んで道を歩いた。大剣を背負ったゲズゥが無言で数歩後ろをついてきている。
 レンガに舗装された道の手入れが行き届いていて歩きやすいことに、なんとなくミスリアは気が付いた。

「何を隠そう僕は行き倒れていたところを彼女に救われまして」
「行き倒れたのですか?」
「はい、その時は一人旅をしていて、この町に辿り着いて間も無く体力が尽きたんです」
「大変ですね」

「そうですね。でも皆さまの優しさに救われた、という大切な想い出なので……」
 ラノグは急に手を広げて町並みを指した。
「この町、ナキロスは美しいでしょう?」
 彼の動きに吃驚した鳩がパタパタと飛び交う。

 美しいか、と訊ねられてミスリアは周囲に視線を巡らせた。
 辺りの建物の輪郭が青い空にくっきりと浮かんでいる。黒または灰色の屋根が白とパステルカラーの外装の建物たちによく似合っていたし、植物の緑に彩られたベランダや丸く可愛い窓の形まで、すべて丁寧に設計されたのだと素人目にもわかる。

 外観だけではない。設備がしっかりしているのだろう、汚水の漏れや汚臭も無い。町の清潔は生活水準の高さと結び付きが深いものだ。
 この町は西に断崖、東に樹海と地理的に孤立していながらも栄えている。それはヴィールヴ=ハイス教団が多方面で支援しているからであって、一方で国家からはある程度の自治権を認められているらしい。

「確かに素敵だと思います」
 ミスリアは強く肯定した。
 その時、近くの建物の屋根を夢中で清掃していた中年女性が顔を上げて手を振った。ラノグが快く手を振り返す。二人は声を張り上げて世間話をし出した。

(きっと美しいのは見た目だけじゃなくて)
 余所者を受け入れる心の広さ。ミスリアが教団から聞いていた話でも、ナキロスは何かと移住者が多いらしかった。ほとんどの者は何か或いは誰かから命からがら逃げてくるのだという――。

 ふとゲズゥに視線をやってみると、彼は先の方の人混みを見ていた。どうかしたのかとミスリアが首を傾げる。ゲズゥは前方の一つの人影を指差した。
 差された人物が早足に距離を詰めてきている。

「よ。何してんだ、嬢ちゃん」
「イトゥ=エンキさん! 何処から現れたんですか」
 今ではすっかり見慣れた笑顔を認めて、ミスリアは驚きに声を上げた。

「んーと、あそこの人混みに揉まれてたんだけど、ゲズゥが見えたから来てみた感じ」
 いつものハスキーボイスで、イトゥ=エンキは質問の答えになってない答えを返した。

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13:14:30 | 小説 | コメント(0) | page top↑
23.b.
2013 / 06 / 01 ( Sat )

(昨夜から姿を見ないと思ったら……樹の上で寝たのね……)
 今更呆れるまでもなく、ミスリアはただ納得した。
(相変わらずな人)
 内心くすりと笑って、気を緩めた。

 祭壇の前で泣き崩れる所を見られた所為で気まずいかも、と心のどこかで心配していたけれど、おそらくゲズゥは気に留めていない。だったら、一方的に気にしても仕方のない問題だった。

「それで一言『かわる』と言って斧を取られました。おかげで休憩できましたよ」
「そうだったんですか」
 ミスリアは黙々と薪を割り続けるゲズゥ・スディルを観察した。薪の山はどんどん積み上がっている。彼の手際がいいせいだろうか、あっという間に終わりそうである。勿論、顔には疲れの色など微塵も浮かんでいなかった。

(いつもと同じ無表情なのに。どうしてかな、ちょっと楽しそう)
 手作業に没頭するという状況を楽しみたかったのか、それとも単に身体を動かしたいだけだったのか。正解は、本人にしかわからない。

「さて。そろそろまた僕がやりますよ。あと少しですね」
 五個目のスコーンを飲み込んだラノグが立ち上がった。彼はズボンをはたいて食べカスを払い、近くに置いてあった手ぬぐいで指を拭いてから、袖をまくりあげた。
 ゲズゥはラノグの顔を直視せずに斧を手渡した。そうして今度は彼が切り株に腰をかけた。

(あ、コップ一つしか持って来てないわ)
 手元のトレイにはラノグの飲みかけのガラスコップが置いてある。同じのを使うのはゲズゥは嫌がるだろうか、と首を傾げていたら、横から褐色の手が伸びた。

 ゲズゥはコップではなく水差しを片手に取った。それを頭よりも高い位置に持ち上げ、上向きに首を傾け、開いた口にとくとくと水を注ぎ込んだ。注ぎ口に触れることなく。

「き、器用な飲み方ですね」
 などと感想を述べても、返事は無い。うっかり漏れたりしないかなー、とハラハラして見守った。
「………………町に」
 ようやく水差しを下ろしたゲズゥが呟いた。前髪に隠れていない黒曜石に似た右目が、何かを問うようにミスリアを見つめている。

「町に?」
 話が掴めなくて思わず復唱する。
「そいつが町の鍛冶屋で働いていると」
 水差しをトレイに戻して、ゲズゥが答えた。「そいつ」とはラノグのことを指しているのだろうか。

「鍛冶屋ですか」
「そこから武器屋も近いらしい。俺は見に行きたいが、お前はどうする」
 ゲズゥが立ち上がった。黒い瞳が返答を待ちながら見下ろしてくる。
「私は……」
 武器屋に行きたいけどミスリアと離れては護衛の役割を果たせないから、一緒に来るかと誘っているのだとわかった。こちらとしては教会に残っていてもやることが無いし、ついていくのが妥当だろう。

「行きます。ラノグさんも、是非、ご案内お願いします」
 ラノグを向き直り、ミスリアはきっちりとお辞儀した。
「勿論いいですよ!」
 額の汗を布で拭いつつ、彼は気持ちのいい笑顔を返した。

 数十分後には割り終えた薪を纏めて教会の中に持ち込み、三人は町に出る為に正面玄関に向かった。
 ところが扉に手をかけた瞬間、階下から上がって来る人間に呼び止められた。

「どこ行くの?」
 振り返ると、長い蜂蜜色の髪を一本の三つ編みに纏めた女性が階段の手すりに片手を添えて立っていた。この教会の女性の普段着である灰色のワンピースを着ている。確か彼女はイトゥ=エンキの生き別れた姉で、名をヨンフェ=ジーディと言った。

「やあ、ヨンフェ。少し早いけど、鍛冶屋の方に行くよ。聖女様方も行きたいそうだし」
 明るい声でラノグが応じた。
 彼女は一言、あらそう、と意外と身の入らない応答をした。
 そして気難しい顔で手すりを睨んでから、また顔を上げた。

「ねえ。イトゥ=エンキを見なかった? あの子、昨日はどこ泊まったのかしら……晩餐にも来なかったわ」
「君の弟だという彼? 僕は見ていないな。聖女様は?」
 そう言ってラノグはミスリアたちとも顔を見合わせた。
「いいえ、私も昨晩からは……」
 自身に欠ける声でミスリアが答える。

 昨晩、イトゥ=エンキが「町に消える」や「晩御飯を適当にどこかで食べる」と言っていたことは伝えるべきだろうかと迷う。本人は、あまり追われたく無さそうだった。

「朝は一瞬だけ聖堂に居たって司祭様の証言があるのだけれど。逃げられている気がするのはどうしてかしら」
「そこまで心配しなくてもそのうち戻ってくるんじゃないか」
「わからないわ」
 ヨンフェ=ジーディは足早に残りの階段を上り切り、三つ編みを揺らしながらミスリアに近付いた。

「聖女様、お願いです。昨日は訊けなかったけど、教えて欲しいことがあります。イトゥ=エンキとはどうやって出会ったんですか? どうして一緒に旅をしてたんですか? あの子は今までどこで何をして――」
 こちらに返答を挟む隙も与えず、彼女は次々と質問を並び立てた。

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07:54:57 | 小説 | コメント(0) | page top↑
23.a.
2013 / 05 / 21 ( Tue )
 時計塔の鐘が鳴り終わるまで、ミスリア・ノイラートは灰銀色の屋根の塔を見上げて待った。
 十回鳴った後で音が止まる。
 その余韻がまだ耳朶に残っている内に、ミスリアは目を瞑って一呼吸した。

 日差しが心地良い。どこからか風に乗って伝わってくる焼き立てのパンの匂いが香ばしい。足元で、鳩が食べ物を求めてレンガの道を突く音がする。
 通りを行き交う人々の声に、雑踏に、活気が溢れていた。こうしていればその活気を分けてもらえる気がした。

(よし。私も一日頑張ろう)
 両手で頬を軽く叩いて、ミスリアは目を開いた。

「おはようございます、聖女様」
 開いた目に入ってきたのは黒い服と銀のアミュレット。真正面に、いつの間にか誰かが立っていた。聖女の制服を着ていないのにそう呼ばれたからには、知り合いなのだろう。
 ミスリアは目線を上げて、茶色の巻き毛と垂れた耳たぶが特徴の、昨日出会ったばかりの中年男性を認めた。

「おはようございます、神父さま」
「まだ寝ているものかと思っていました。疲れていらっしゃるでしょう」
 神父は元々細い目を更に細めて、のほほんと笑った。
「いいえ、そんな訳には」
 ミスリアは頭を振った。

 この町の朝は早く、既に一日が始まってから数時間経っている。旅の疲れがあったものの、周りより起きるのが遅かったことに対してミスリアは何故か申し訳ない気持ちになっていた。

「そういえば神父さま、聖地へご案内していただけませんか?」
 思い出したようにそう訊ねると神父の笑顔が揺れた。
「聖女ミスリア、それはいけません。週の始めの赤期日と言えば聖職に携わる者にとっての正式な休日。今日は、のんびりと何もしなくて良いのですよ」

「で、でも……。ではせめて何かお手伝いします」
 何もしなくていいと言われると余計に戸惑う。
 教会に住んでいる人間は休日を利用して家事やら買い物やらに忙しいのに、自分だけ何もしないのは気分が落ち着かなかった。

「それも、いけません。貴女様は大切なお客様です。お手を煩わせるなど」
 口元をむっと引き結んで、神父は取り合わなかった。
「私が望んでいても……ですか」

「困った言い方をしますね。では、そうですね。庭の方で薪割りをしていらっしゃるラノグさんに飲物を持って行って下さいませんか」
「勿論構いません」
 ミスリアは笑顔で請け負った。

 そうして、水差しとコップとスコーンの乗ったトレイを持って裏庭に向かうことになった。
 庭は広く、ずっと先まで見渡せばやがて庭から野原に変わり、そして緑が途絶える。あそこが聖地たる崖なのだろう。いずれゆっくりと見て回る必要があった。

 右へ進み、斧が木を打つ小気味良い音を辿って、ミスリアは探し人を見つけ出した。
 しかし彼は木の株に腰を下ろしていた。ミスリアに気付いて顔を上げ、明るく手を振って来る。

「聖女様! おはようございます。いいお天気ですね」
「おはようございますラノグさん。休憩中なら調度良かったです、お水とお菓子をどうぞ」
 ミスリアは薪割りを続行するもう一人の人物の姿に驚きながらも、まずは挨拶した。
 差し出されたトレイをラノグが受け取ると、ミスリアは水差しからコップへと透明の水を注いだ。

「有り難いです。いただきます」
 ラノグは夢中になってスコーンの山を一個ずつ崩し始めた。その間も、すぐ隣で薪が割られる音は続いた。
 しばらくしてミスリアは薪割りに没頭する長身の青年を振り返った。

 脱いだシャツを腰に巻いて、青年は傷跡だらけの褐色肌の上半身を日に晒していた。どれくらい作業をしていたのだろうか、黒髪から汗の粒が滴っている。
 苦笑しながら、ミスリアはラノグに小声で問うた。

「……ところで、どのように誘って彼の協力を得たのですか?」
「僕から誘ったワケでは無いですよ。ここで薪を割ってたら降ってきたんです。えーと、ちょうどあの辺りの樹の上から」
 ラノグは近くの大樹を指差して答えた。

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22:53:46 | 小説 | コメント(0) | page top↑
22.g.
2013 / 05 / 17 ( Fri )
 ミスリアの顔に安堵の色が広がるのを目の端で捉えた。
 一方、優男教皇は胡散臭い笑みを浮かべている。

「そうですか、失礼しました。なにぶん少数民族に関する情報が少なすぎますから。聖女ミスリアは息災そうですし、私は護衛である貴方に感謝こそすれ責め立てる理由はありませんね」
 そう言ってやっと手の力をいくらか抜いた。
 奴はまだ何か訊きたそうな目をしていたが、ゲズゥはその隙に手を引いた。これ以上の会話をする気は無いとの意思表示で顔を逸らす。

 一瞬、黒い兄弟から鋭く睨まれた気がした。

「では、そろそろ私は皆に挨拶をして回ります。また後ほどお会いしましょう」
 意思が通じたのか、教皇は裾を翻してすたすたと聖堂を後にした。兄弟がその後ろに続く。奴は結局何の為に聖堂に寄ったのか、これではまるで雑談をしに来ただけである。
 残った三人の間に数秒ほどの沈黙が訪れた。

「じゃあオレは町にでも消えるかな」
 と言ってエンも出入口に向かい出した。
「イトゥ=エンキさん? 晩御飯はいいのですか?」
「パス。適当にどっかで食ってくるから」

「そうですか……」ミスリアは残念そうに俯き、次いで何か思いついたように顔を上げた。「余り分があったら夜食として出しっぱなしにされると思います。後で、誰も居なくなった時にでもどうぞ」

「おー、気が向いたら寄っとく」
 振り返りざまに一度笑ってから、エンは音を立てずに去った。
 おそらく姉を避けたい理由が口で言った以上にいくつもあるのだろう。事情は詳しく知らないが、複雑な心境であることは間違いない。ミスリアもそれを察し、寂しそうな表情を浮かべるも引き留めようとしなかった。

 しばらくして、脱いだ手ぬぐいを両手の間に折ったり広げたりして、少女は何か言いたそうに視線を彷徨わせた。

「大丈夫ですか」
 ミスリアがゲズゥを見上げて訊ねる。
「何が」
 思い当たる節が無くて思わず訊き返した。

「……その眼の話をするのは、好きではないのでしょう?」
 伏し目がちに、静かな口調でミスリアは言った。
「群れのボスより、俺を気遣うのか」
 気が付けばそう答えていた。

「ボスって、教皇猊下の事ですか? それは……立場も大事ですけど。身近……な人間を思いやりたいですから。ゲズゥを私の旅に付き合わせて、嫌な想いをさせたかった訳ではありませんし……」

 遠慮がちに答える少女を見下ろし、ゲズゥは得体の知れない優越感を覚えていた。
 頂点に立つ上司よりも優先してもらえたから? 「身近」と言ってもらえたから?
 ――わからない。実に、得体の知れない――

「気にするな。ああいう誤認には慣れている」
「……本当に?」
 上目づかいで茶色の瞳が見上げてくる。

「一族も別に正そうとしなかった。『呪いの眼』と自称していたのは、ソレを持って生まれた人間が呪われているからだ。最初から、他人を呪う力など無い」
 だったら「呪われた眼」と呼ぶべきだったかもしれない。先祖の考えた事はわからない。

「なら……理不尽な差別に怒らないのですか……」
「無意味だ。何を主張した所で、見た目が気味悪いのは変わらない」
「私は綺麗だと思います」
「お前は少数派だ」
 そこで、会話がぱたりと止んだ。

 ミスリアはどこか居心地悪そうに辺りをきょろきょろと見回し――ある壁の前で唐突に表情が翳った。
 何を見たのだろうかとゲズゥは視線を追う。演壇から見て左隣の壁だ。台の上で蝋燭が列になってびっしりと並べ置かれている。蝋燭は全部に火が点いていない。

 急に我を忘れたように、滑るように歩いてミスリアはその台を目指した。ゲズゥは動かずに、目だけで後ろ姿を追った。
 蝋燭の一本一本に、銀細工のリングみたいな蝋燭立てが付いていた。何か彫られているのだろうか、ミスリアは指先でそれらを夢中で確認している。

 やがて目当ての一本を見つけ、白い指はある一本の蝋燭の前で止まった。ミスリアは片手で口元を覆い、空いた手をマッチ箱へ伸ばした。震える手で蝋燭に火を灯す。
 ことん、と音を立ててマッチ箱が戻された。

 少女はしばらく揺れる炎を見つめていた。
 次には両手を絡み合わせ、祈る姿勢で何かを呟いていた。それもしばらくして崩れる。ミスリアは力なく床にへたり込んだ。頼りなく細い肩が激しく震えている。

 すすり泣きが、聴こえた。

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01:47:19 | 小説 | コメント(0) | page top↑
22.f.
2013 / 05 / 15 ( Wed )
 顔を上げ、ミスリアは差し伸べられた手を小さな両手で口元に引き寄せ――教皇の右手の中指に嵌められているごつい指輪に口付けを落とした。
 ゲズゥは片眉を吊り上げた。男が女の手にキスするのはそれなりによく見る挨拶だが、女が男にそうする場面は初めて見たかもしれない。

「よくぞ無事にここまで辿り着けましたね。安心しました。貴女は世に出た聖人聖女たちの中でも最年少ですし、何かと気がかりで」
 教皇は子供か教え子にするように少女の頭を優しく撫でた。ミスリアはくすぐったそうに身じろぎする。

「ありがとうございます、猊下。苦難あれど、何とか旅を進めています」
 ミスリアの返答に教皇は満足げに微笑むと、今度はゲズゥへと眼差しを移した。振り向く際に、低い位置で一つにくくられた髪が揺れた。

「左目がうまいこと黒い前髪に隠れていますけれど、貴方がゲズゥ・スディル氏ですね。お初にお目にかかります、私はヴィールヴ=ハイス教団を代表する者の一人。位は教皇。聖女ミスリアがお世話になっております」
 優雅に一礼してから教皇は右手を伸ばした。数フィート離れているというのに、まさか握手しに来いとでも言いたいのだろうか。ゲズゥは微動だにしなかった。

「ちなみに指輪にキス、は信徒の挨拶。信徒じゃないなら握手でいいんだよ」
 エンが楽しげに耳打ちしてきた。
「教皇っつーと最高責任者だな。そいつの握手を拒むのって、スッゲー失礼だと思うぞー? 従者の黒い兄弟に刺されるかも」
 そういうエンも失礼な口を利いていたはずだが、特に問題ないのか、教皇や兄弟からの反応は無い。

「俺に礼節を重んじろと」
「ココの飯食うつもりなら重んじた方がいーんじゃねーの。ミスリア嬢ちゃんの生活費とか教団からもらってんだろーし。お前も世話になってんじゃん?」
 声を小声から普通の音量に戻し、エンは肩をすくめた。

「貴方の釈放を許可したのも私ですけれどね?」教皇がにっこり笑う。「おかげさまで対犯罪組織の怒りを買ってしまいましたよ。とはいえ元々あの組織もシャスヴォル国もいちいち過激です。死は本当の意味では贖罪になりえませんのに」
「…………」

 どうやらこの男は死刑に対して反対のスタンスを通しているらしい。だからこそ「天下の大罪人」の釈放に繋がったのだろうが、それでも礼を言う気になどならない。
 ゲズゥは沈黙の内にいくつかの事項を考慮し、主にエンの意見を取り入れて噛み締めた。

 この優男教皇と友好関係を築いた方が今後動きやすそうだろうという結論に至り、重い足取りで教皇の前まで歩いた。顔を見ずに、奴の骨ばった細い手に己の手を重ねた。想像通りの弱い握手が返ってきた。

「時に、スディル氏」
 何故かシーダーの香りが鼻をかすめた気がしたのと同時に、教皇の握手に見た目からは想像できない強い力が加えられた。反射的に抵抗しかけ、思い直して力を抜いた。相手の骨を折る結果を招きかねない。

「経過はどうです。貴方にとってどのような行路であるのかは存じませんけれど、我々の大事な人財に、まさか呪いをかけたりはしていませんね?」
 脈絡の無い問いかけにゲズゥは教皇の白い顔面へと目線を上げ、瞬いた。

 ――旅の途中でミスリアに呪いをかけたりしていないか――?

 普段のゲズゥならば馬鹿馬鹿しいと一蹴するか無視するような、くだらない質問である。
 そんな心配をするぐらいなら最初から釈放を許可しなければいいだろうに。そもそも「呪いの眼」という呼び名から派生する誤解と迷信を信じているなら、当人に面と向かって訊けないはずだ。冗談に過ぎないのか、教皇の意図が掴めなかった。

 ところが優男の鮮やかな青い双眸や掌を圧迫する握力が、何故か言い逃れを許さない雰囲気を湛えている。意図が何であれ半端な答えに納得するとは思えない。いっそ今からでも無視してやろうか、と奴の顔から視線を外した。

 不安と気遣いに表情を曇らせる少女の姿が目に入り、ゲズゥはしばらくミスリアの茶色の瞳を見つめて更に思考を巡らせた。
 気遣いの心が何を意味するのかはわからない。ただ、他でもないこれからも一緒に旅を続けなければならない聖女に、こっそりと化け物と疑われるのは面倒ではある。

「…………思い過ごしだ。左眼に他人を呪う力は無い」
 やがてゲズゥは、これまでぼかし続けてきた問題について、今は真実を答えるべきだと判断した。

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13:56:58 | 小説 | コメント(0) | page top↑
22.e.
2013 / 05 / 11 ( Sat )
「お二人とも凛々しいお顔立ちですね」
 突然、感心混じりに男が述べ――そう思いませんか、と後ろについてきた二人の長身痩躯の男を振り返った。黒ずくめの男二人は最後列のベンチの後ろに直立して控えている。双子か兄弟だろうか、よく似ていた。兄弟は意見を挙げずにただ頷いた。

「それはどーも」
 煙を吐きつつエンが不敵な笑みを浮かべる。

 前を向き直り、へにゃり、と華奢男は頬を緩めた。どこか気の抜けた笑い顔が、益々男臭さを遠ざける。ただでさえ眉毛が細く、肌がキレイすぎる。この男の顔にはニキビや日焼けの痕もシミも見当たらない。そのためか年齢が推測不能だ。

 腰上に巻かれたスカーフのような絹をなびかせ、男は歩み寄ってきた。教団の象徴を象った巨大なペンダントをかけている。人間の掌より全長が長く、嵌められている紫水晶も雀の卵と同等の大きさである。

「……神様ってのは人類を試したり裁いたりするもんだろ?」
 男が立ち止まるのを待って、エンが言った。ゲズゥは無意識にその「凛々しい」横顔に目をやった。
 当然のように掠り傷や僅かな髭の剃り残しがある。一層、頬に赤みすら無い華奢男の方が病気に思えた。

「さてどうでしょう。神の在り様が――命を生むもの、世界を創造するもの、裁くもの、救うもの、と多く説かれています。神々は多くの事象を司る、人間の理解の範疇を超えた大いなる存在です」
 男の話し方は音楽的で、それでいて確信が込められていた。すべて、と発音した瞬間など、大袈裟に手を広げていた。

「摂理をお決めになるのが神様? それとも、理そのものが神様であらせられるのか? その答えは、誰にもわかりません」
 間近だと、男が斜視であることが見て取れた。真正面を見ているのに、左目だけがわずかにずれていた。

「オレにも訳わかんねーよ。このロン毛優男(ヤサオ)は何言ってんだ?」
 エンは軽く笑った。後半の質問はゲズゥに向けられたが、まさかこちらにもわかる訳が無く、頭を振った。

「基準なんて判然としなくても良いのです。命ある限り償い続ければ、いつかは聖獣の恩恵にあずかります。それが摂理なのですから、罪を犯した者にも神々へと続く道が照らされる日は訪れます」
 そう言って微笑んだ男の存在感に、ゲズゥは何か妙な引っかかりを覚えた。
 奴が現れた瞬間をエン共々に感じ取れなかった点から元々生命力が希薄だったのかと思ったが、少し違う。聖気を使う時のミスリアみたいな、この世とかけ離れた儚さに似ている。

「そして聖獣が我らを救う存在であると、それだけは確かです。私(わたくし)はそれを説いて、人々を導くのが役目ですから」
「確かって言うからには、何か証拠があるんか?」

「難しい事をお訊ねになりますね。証拠や確信の有無について話すには、二日や三日ではこと足りませんよ」
「はは、今してる話だって十分難しいじゃねーか」
「それもそうですね!」

 二人が笑い合う横で、ゲズゥは欠伸をした。存外、エンも本気でこの雲の上の会話を楽しんでいるように見える。こっちはとっくに振り落されて飽きているというのに。
 その時、扉が開いて手ぬぐいを被ったエプロン姿のミスリアが入ってきた。

「ゲズゥ、イトゥ=エンキさん、やっぱりここに居ましたね。お腹空いてますか? 食事の準備が整いましたよ」
 呼びかける途中で、佇立した二人の黒服の男に気付き、ミスリアは振っていた手を下ろした。
 瓜二つの男を見比べて更に通路の先の華奢男へと視線を流した。男は肩を振り返ってミスリアと目を合わせた。

「……おや。もしや聖女ノイラート――いえ、聖女ミスリアですね?」
 男は嬉しそうに目を細めた。何故呼び方を言い直したのかは不明である。
「教皇猊下! もういらしていたのですか」
 慌てて手ぬぐいを引っ掴んでは脱ぎ捨て、ミスリアはその場で跪いた。

「予定より早く着いてしまいましたので先に聖堂に寄ってみたのですよ」
 教皇と呼ばれた男は通路を歩き出した。一歩進む度に白い服の裾が床に引きずり、しゅる、しゅる、と小さな音を立てた。
 教皇は膝をついた少女の元へゆっくりと近寄り、右手の甲を差し伸べた。

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12:43:43 | 小説 | コメント(0) | page top↑
22.d.
2013 / 05 / 07 ( Tue )
 動揺に反応して紋様が広がっていくのがわかる。向かい合っているヨンフェ=ジーディも同じで、彼女の場合は顔の右半分と首周りに黒い模様が広がっている。元々彼女の紋様はイトゥ=エンキのそれと比べて感情の起伏に影響されにくく、それ以上は広まらなかった。

 やがて連れの男がそっと近付き、ヨンフェ=ジーディを引き剥がしてくれた。「落ち着いて」と優しく声をかけながら。

「積もる話もあるだろうから、教会に着いてからまたゆっくり続きを話そう」
 男の提案に、彼女は目元を拭いながら頷いた。イトゥ=エンキは心の中で男に感謝する。野次馬の注目がそろそろウザかった。
「では行きましょうか。僕のことはラノグと呼んで下さい」
 こちらに向かって男が手を伸ばし、握手を求めた。

 握りたくは無かったが、拒絶する訳にも行かなかった。ここはミスリアに代表してもらおうと考え、イトゥ=エンキはくるっと身を翻して少女の右手を取った。仲介人の真似事で、横に立って二人を握手させる。
 ミスリアは驚いた表情を見せたが、すぐに微笑みで対応した。

「ミスリア・ノイラートと申します。よろしくお願いします」
 心底嬉しそうな笑顔だった。何がそんなに嬉しいのか謎だ。
 こちらを一瞥したミスリアの茶色の大きな瞳には、「よかったですね」或いは「おめでとうございます」と書いてあった。ああ、それが嬉しいのか。

(良かったけど。素直に喜べねーし)
 と、イトゥ=エンキは作り笑いの下で苦々しく思った。

_______

 ゲズゥ・スディルは色の付いた窓を眺める内に既視感を覚えていた。少し後退って、縦長の窓をもう一度眺めると、それが一つの絵画のようになっているのだとわかった。
 ここが教会の聖堂という場所なら、絵は聖獣を描いているのだろう。

 ――そうか。林の中の教会も、聖獣の絵を飾っていた。
 あの時も静寂の中で宗教画を眺めていたのだった。

 印象派めいたあの天井の絵と違って、この窓の絵はもう少しはっきりとしていた。
 翼の生えたサンショウウオが野原に降り立っているように見える。ゲズゥは首を傾げ、聖獣はこういう姿なのか、と不思議に思った。

 ふいに入り口の扉が開き、長身の男がするりと入り込んできた。風呂に入って着替えたためか先刻よりも身なりはきちんとしている。黒髪を頭の後ろに結び、服は教会の人間が用意した無地の物で、小麦色の肌に合っている。腰に巻かれた太い鎖さえ無ければ、そこらの町人の群れの中に溶け込めるかもしれない。

「ステンドグラスか」
 エンはゲズゥが見ていた着色ガラスへと視線を向けた。聖獣の絵を一瞥してから、興味をなくし、どこからか小型の煙管を取り出した。
「教会って禁煙だっけか? ……まあどっちでもいいや」
 などと自問自答してから火を着けた。ふう、と灰色の煙を吐く。

「晩餐とか冗談じゃねーよ。堅苦しーんだよ。ガキの頃ならともかく……オレは頭の商談にだって参加したくなかった系だ」
 他に誰も居ない聖堂の中で、エンはぶつぶつと文句を垂れ始めた。ポケットに片手を突っ込み、煙管をゲズゥにも差し出した。

「意外だな。お前は社交性が高いと思っていたが」
 差し出された煙管を受け取り、ゲズゥも吸っては煙を吐いた。
 夕刻に近い今、教会の人間は特別な客とやらを迎える準備に奔走している。それが誰であるのかまでは聞いていないし、興味も無いが。既に巻き込まれたミスリアを放って、ゲズゥは掃除も済んでちょうど無人となっていた聖堂に逃げた。

 エンは姉によって巻き込まれたのかと思っていたら、こいつも上手いこと逃げたらしい。
 
「まあ、普通はな。でもヨン姉が居ると、どういう顔すればいいのかわかんないんだよ。起き上がれない度に麦粥を匙で食べさせてくれた人相手に、今更カッコつけられっか。年中同じ顔のお前には関係ない悩みかもだけど」

「……ああ」
 ゲズゥは煙管を返した。この男が、済ました顔を演じていられないほど精神的な余裕を奪われるなど。それだけ、家族は特別だということだろう。
 一つため息ついて、エンは広い聖堂の奥の方へ歩き出した。ステンドグラスの窓の前に演壇が置かれ、窓を挟む垂れ幕には、例の十字に似た象徴がそれぞれ描かれている。

「聖獣信仰の教えって何だっけか。善事に励めば天に昇れる、聖獣が蘇れば世界が美しくなる、って親が言ってたよーな」
 ゲズゥはゆっくり首肯した。
「……多分、ミスリアも似たようなことを言っていた。それと、罪人などが死ねば魔物になると」
 これだけは公にされていない情報だとも言っていた気がする。

「うげー、めんどくさそう」
 嫌そうな顔をしてはいるものの、エンの反応に深刻さは無かった。
「生きている内に全部償えば救われるらしいが」
 これも受け売りであった。

「曖昧だなぁ。人殺した罪とかは、生き返らせられないんだからどうやったら償い切れるか基準がわからないじゃん。誰かが上から見てて、たくさん良い事したんだからこのくらいでちょうどいい、って決めるのか?」

「――決定を下すのが『誰か』であると、そう考えられますか?」
 背後からした澄んだ声に、二人は振り返った。

 小柄な人間が通路の真ん中にちょこんと佇んでいた。長い黄金色の髪と、空よりも鮮やかな青い瞳が目立った。肌色は血管が透けそうなほど白い。喉仏からして男であるようだが、声が高めだ。幾重にも重なる刺繍の施された白装束が包む身体は、男にしては異様に華奢だった。

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23:39:24 | 小説 | コメント(1) | page top↑
22.c.
2013 / 05 / 01 ( Wed )
 女は素早くこちらに歩み寄って右腕を伸ばした。
 ほっそりとした指が頬に触れる。突然の温かさに、肌が震えた。
 文句を言う間も無く、イトゥ=エンキはただ表情を強張らせた。

「ヨンフェ=ジーディ? 何を……」
 連れの男が動揺を隠せない様子で問うたが、女はそれには答えなかった。

「これは私の夢か幻に違いないわ」
 そう呟いた女の声音も、頬を撫でる指先も、愛しい者に向ける類のものだった。もしや知り合いだったのかと考え、イトゥ=エンキは女の顔をじっくり見直した。

 最初にヘーゼルに混じった青だと思っていた瞳が、よく見ればその逆だった。青い色の瞳の中に、瞳孔の周りだけ濃いヘーゼルの輪があった。
 キレイに反り返るふさふさの睫毛は髪よりも暗い色で茶に近い。顔は面長でありながら輪郭は柔らかく丸めで、全体的に温和そうな印象を受ける。

「イトゥ=エンキ……生きてたの……?」
 女の痛切な呼びかけは、氷水を浴びるよりも強烈に脳に届いた。
 ――何でその名を知っている――。問い詰めるつもりが、声が出なかった。

 遅れて脳が情報を処理し出したのである。
 この女の名前は、ヨンフェ=ジーディ、と言った。

 信じがたいが、確認する方法ならある。
 彼女の長い髪を手ですくい、その下に現れた形の良い耳の後ろに目をやった。

 細やかな黒い模様があった。耳の後ろに始まり、うねうねと蔦のように下に伸び、うなじ辺りで小さく丸まった形。ちょっと朝顔に似てるね、と初めて会った時に言った覚えがある。

(そんなはず無い)
 身を引いて、イトゥ=エンキは心の中で現状を否定した。
 やっと山と樹海を超えて町に着いて。手がかりを求めに教会を訪ねて、もう何年も経っているから詳しくはわからないと煙に巻かれて。そこから更に町中の人が集まる場所を回って、終いには人の家にまで聞き込みに行って。

 それぐらいの苦労をしてもなお、足取りを掴めないだろうと予想していたのに。

「……っ、ごめんなさい……」
 泣きながら謝るとその人の顔は、記憶の中の面影と重なった。
 イトゥ=エンキが息を止めたのと同時に、視界が暗転した。周囲の場景が闇に呑まれて消えた。

 ――ごめんなさい、ごめんなさい。あなたは生きて。お願い……!

 声が辺りに響いた。その時自分は、床を注視していた。
 足元に浮かんでいた光の窓が閉ざされていくのを認め、心臓が早鐘を打つ。
 がこっ、と音がするのと同時に、戸が閉められた。

 一切の闇。屋根裏部屋の中の生温く淀んだ空気。
 足音が、人の気配が遠ざかる。怖い。独りは怖い――。
 声を漏らさないよう、袖ごと手首を噛んだ。強く、強く噛み締めて泣いた。叶わない願いと知っていながら。

 ――嫌だ、嫌だよヨン姉。行かないで……置いていかないで……ヨン姉! 戻ってきて――

 肩を掴まれた感覚で、イトゥ=エンキは我に返った。ヨンフェ=ジーディが必死の形相で何かを言っているが、よく聴き取れない。

(ああ、何だ。記憶の再現だったんか)
 思い出すまいとあれから何年もかけて封じた記憶が鮮烈に再生されたのは、彼女の涙が引き金だったのだろうか。
 何にせよ今起きていることではないのだとわかって、小さく安堵のため息をついた。

「お前が求めていたのは、ソレじゃないのか」
 いつの間にか隣に来ていたゲズゥが訊ねた。
「……確かにそうだけど。オレはなー、ヨン姉の墓と対面する覚悟は前々から決めてたけど、こうもイキナリ生身の本人に会う心の準備はできてなかったんだよ」
 生身、の言葉を強調しながらイトゥ=エンキは額に掌を当てた。

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12:54:12 | 小説 | コメント(0) | page top↑
22.b.
2013 / 04 / 24 ( Wed )
 町の人間に恩を売るのもいいかもな、などと考えながら走る。
 人混みを抜ける少年たちの逃げ足はなかなか速かったが、何かと追っ手を気にかけて振り返っているのが敗因だ。一番遅れている少年ひったくり犯が前を向き直った隙を狙って、イトゥ=エンキは鎖を放った。

「うぎゃっ」
 情けない声が少年から漏れた。鎖はしっかりと右足首に巻きついて、少年を転ばせた。
「弱いくせに無理すんなよー」
 挑発とも受け取れそうなその言葉は、イトゥ=エンキにしてみれば本気の忠告だった。やり遂げる力量が無いくせに無茶をすれば、死に至るだけである。

 少年は言い返さずに唸った。「こんなはずじゃ……」みたいなことをひとりごちていたかもしれない。

「まあ、オレの知ったこっちゃねーけどなぁ」
 のた打ち回って恨み言を連ねる少年は食に困っている風には見えなかったし、大切な誰かの為に盗みを決心した、といった必死さも無かった。やはり遊び心だったのだろう。

(同情の余地なしってことで)
 イトゥ=エンキは屈み込んで買い物籠を取り上げ、元の持ち主の姿を探した。ついでに、転がり出た籠の中身を拾い上げて戻す。

 ふと前を見上げればゲズゥが地面を蹴っていた。
 彼は残る二人のひったくり犯が直線状に並ぶのを狙って、跳び蹴りを決めた。
 後方の少年が背中を蹴られて吹っ飛び、前のもう一人に激突した。その瞬間、最初に吹っ飛んだ方がぴたっと止まってぶつけられた二人目が今度は宙を飛んだ。

「運動量保存の法則じゃん」
 キャロム・ビリヤード――キューと呼ばれる棒で一個の球を打ち、二個目や三個目の別の球に当てる卓上遊戯――に用いる物理法則と同じだ。ぶつかり合う対象の質量が同等でないと発動しない。つまり、二人の少年たちの体重は同じくらいになる。

 イトゥ=エンキは思わず膝を叩いて拍手を送った。といっても、ゲズゥ本人はこのような生きていく上で不要な情報など知らないだろう。

「お疲れ様です。ありがとうございました」
「……疲れていないが」
 ミスリアが歩み寄り丁寧に頭を下げると、無機質な声でゲズゥが応じた。
 イトゥ=エンキは可笑しさについ噴き出した。

「単なる労わりの挨拶だろ、言葉通りに受け取るなって」
「……」
 ゲズゥは踵を返して荷物の方へ戻って行った。去る背中を見守りつつ、イトゥ=エンキはミスリアと顔を見合わせ、肩をすくめる。

「あの、本当にありがとうございました!」
 被害者たちも各々礼を言いに来た。金で礼をしたいと提案する者も居たが、ミスリアが頑なにそれを拒んだ。
 その間、周囲に集まっていた町人らが自ら少年ひったくり犯の身柄を確保し、役所へ連行している。

 三組目の被害者の番になった途端、イトゥ=エンキは「あ」と声を漏らした。自分より背の低い男を見下ろして確認する。

「さっきの結婚しないカップルの」
「はい?」
 歩み寄ってきた男が不思議そうな顔をした。
「すれ違いに会話が聴こえたんで」
 にっ、とイトゥ=エンキは悪戯っぽく笑った。

「……それはお恥ずかしいところを」察して、誠実そうな男が頭をかいた。「結婚ではなくお付き合いを申し込んでいたのですよ」
 それを聞いて、なるほど、とイトゥ=エンキは点頭した。

(しっかし恋愛もいいけど荷物はもっとしっかり持とうぜ)
 他人のことなのでどうでもいいが。ある意味、間抜けな人間が居てくれないと盗んで生きなければならない側も苦労する――そう考えかけて、内心苦笑した。ユリャンの連中だったら心配するまでも無いだろう。

「何はともあれ、本当に助かりました。僕たちにできることなら何でもお礼しますよ」
 ――この男、軽々しく「何でも」を口にするとは世間知らずな――。答えずにイトゥ=エンキは隣のミスリアを見下ろした。

「では、岸壁の上の教会に行きたいのですが、方向はあちらでよろしいでしょうか?」
 前方にそびえ立つ時計塔を指差して、少女が訊ねる。
「はい。それなら、我々は教会の縁者でちょうど向かっていた所です。お客様を迎え入れる予定ですので、晩餐の準備もしています。ぜひご一緒に」

「ありがとうございます」
 深々とミスリアが頭を下げた。
「君もそれで構わないね」
 男は、それまで空気のように静かに突っ立っていた相方の女に声をかけた。男の一歩後ろに居た女はずっと何か考え込んでいたのか、今までの会話に入って来なかった。

「ええ」
 短く返事をし、女は男の隣に並んだ。長く真っ直ぐな蜂蜜色の髪が、ふわふわと風になびく。
「さっきからやけに静かだけど、大丈夫かい」
 女の肩に手をかけ、心配そうに男が声をかける。ひったくり騒ぎで怖い思いをしたと懸念しているらしい。

「……そうね、大丈夫」
 ヘーゼルに青が混じった色の視線が、痛いくらいにイトゥ=エンキに突き刺さった。何をそんなに凝視してるのかと思えば、左頬に視線が集中している。

「その模様は生まれつきですか?」
 囁くような問いだった。
「コレ? そーですケド」
「……嘘でしょう」
 イトゥ=エンキが軽い調子で答えると、女は信じられないものを見る目になった。

「や、本当だって。何の言いがかりだ」
 初対面の人間がどうしてそんなことを聞いてくるのか不思議でならなかったが、女の次の行動の方が遥かに驚愕を誘うものだった。

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23:23:11 | 小説 | コメント(0) | page top↑
22.a.
2013 / 04 / 17 ( Wed )
「何としても僕は! 一生をかけて必ず君を幸せにする。お願いだ、もう一度考え直してくれないか」
「……ごめんなさい……あなたに落ち度があるわけじゃないわ。むしろ私は、あなたが私なんかに時間を費やしてくれてることが心苦しいの」

「何を言っているんだ、君は素敵な女性だよ。時間がどうとか、悲しいコト言わないでくれ」
「あなたを想ってる女性は他にもたくさん居るから、私よりもその子たちのどれかを選んで幸せにしてあげて……」

 雑踏の中、イトゥ=エンキは込み入った会話を交わす一組の男女とすれ違った。周りにまったく気を配らずに大声で話す二人を少し振り返って一瞥する。
 男の方は中背だが肩が広くがっしりとした体格で、清潔そうなシンプルな色合いのシャツを着ている。女は男の前を歩いているため、蜂蜜色の長い髪以外の後ろ姿は、男の身体に隠れていて見えない。

(こーんな大勢の人間が行き来する場所で、面白い話してんなぁ)
 イトゥ=エンキは手に持った焼き菓子をぱくっと食んで、もう一度二人を流し見た。男は決して美丈夫と言えるような顔つきではないが、眉の形などから誠実そうな印象を受ける。
(不満があるわけじゃあないのかー。あの断る理由はマジっぽかったし)
 男のプロポーズを女が丁重に断り、男が納得していない、というシナリオだろうか。

 世の中の女どもがどういう男と結婚したいのかはわからないが、イトゥ=エンキには男は良さそうな物件に見えた。家庭を大事にしつつ、しっかりとした職に就いて真面目に働きそうな、そんなイメージである。
 この場合、間違いなく女の方に理由があるのだろう。しかも話しぶりからして、何か問題を抱えていそうだ。

(なんだろーな。身体的欠陥? 泥臭い人間関係? 過去の罪?)
 大して意味の無い物思いにふわふわと思考をさまよわせながら、イトゥ=エンキは青空を仰いだ。綿菓子よりも柔らかくて美味しそうな雲がのんびり飛んでいる。

(焼き菓子も甘くてオイシイけど、これじゃあ綿菓子欲しくなるな)
 露天商から買った菓子を残らず口に放り込んだ。
 実はイトゥ=エンキは子供の頃から大の甘党だったが、残念ながら山賊団の仲間に味の好みの合う仲間は居なかった。

(某オヤジは辛い物としょっぱい物が大好きだったし)
 その影響か山脈にはなかなか甘い物は出回らなかった。もう他の人間に合わせる必要は無い、と思うと心躍る。

 次は何を買ってみようかと大通りに並ぶ露店を見回し、そこでイトゥ=エンキはとある二十歳前後の青年に視線を留めた。長身で黒髪と褐色肌、汚れた身なりに大荷物、などとかなり目立つ容貌だ。道行く人間の誰もが一度は振り返っているというのに、本人は面白いくらいに周りを見向きしない。

 そんな上の空な青年の傍では栗色ウェーブ髪の小さな女の子が露天商の商品を見比べていた。肥え気味の若い女が熱心に己の商品の素晴らしさを説いているのを、少女は相槌を打ちながら聞いている。

「蝶の翅(はね)で作った絵模様ですか。色鮮やかで、とても綺麗ですね」
 などと少女は微笑むが、口元が引きつっていた。多分、蝶が生きてる時に翅を抜かれたのか死んだ後に抜かれたのか訊きたいけど知りたくない、という心境だと思う。
 そうでしょうそうでしょう、どれも珍しい一点物ですよ、と露天商人は熱心に勧める。

 逃げるタイミングを計りかねている少女の首根っこを、青年が無言で掴んでは引き上げた。名残惜しそうに肥え気味の女が声をかけるも、青年は全く構わなかった。

(こっちはこっちで、なし崩し的に付き合いそーだな)
 ミスリアを引き連れたゲズゥが無表情にこちらに向かって来るので、イトゥ=エンキはへらへらと笑っておいた。

 二人が互いにそれらしく意識し合う段階に至っていないのは見ていてわかる。だが長い二人旅である以上は、機会はこれからいくらでもあろうというもの。しかもゲズゥの方は一旦目標を定めたら速やかに逃げ場を絶って相手を包囲しながら絆しそうなタイプだ。あくまでイメージに過ぎないが。

(大人しそうに見えて、絶対、攻めまくる側の人間だよな)
 と、やはり大して意味の無い物思いに耽った。

 長年追い求めていた答えがすぐ近くにあるかもしれないのだ。期待が膨らみ過ぎないよう、時間を稼ぎつつ気を紛らわせようとしている。
 お遊びもこのくらいにしてそろそろ教会寄ってこうか、と提案しようと思ってイトゥ=エンキは口を開きかけた。

「きゃああ! ひったくりー!」
 甲高い悲鳴。
 誰かが走り去る時にできる疾風を頬に感じ、イトゥ=エンキはたった今通り過ぎた複数の人影を目で追った。

「おお。集団でひったくりとかあんま見ねーなー。しかもアレ、三人ともガキじゃねーの? 完全に遊び心じゃん」
「何呑気なこと言ってるんですか、捕まえて下さいっ」
 と、目の前に立った少女ミスリアが懇願する。

「何で?」
 あんなん、盗られる方が間抜けだろ、とは言わなかった。
「何でって……とにかくお願いします!」
 今度はゲズゥに向けて懇願している。

「荷物見てろ」
 ゲズゥの対応には躊躇が無かった。大荷物を脱ぎ捨て、脱兎もびっくりな速さで走り出している。どう考えてもひったくられた人間を助けたい一心からではない。ミスリアに対する従順さからなのか、それはわからない。

(コイツ、絶対なーんも考えてないな。言われたから素直に動いてみた、ってなノリだ)
 それとも目の前を通り過ぎた小鳥をつい追いかける猫と同じ心理か。
 仕方なく、イトゥ=エンキも後に続いた。

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10:42:53 | 小説 | コメント(0) | page top↑
21.i.
2013 / 04 / 17 ( Wed )
 それからゲズゥは何度か地面を蹴って勢いを緩和し、無事に着地した。
 辺りが再び静まり返っている。他に敵が居る気配はしない。
 振り返れば、エンが暴れ続けるトカゲの胴体を鎖で何重にも縛っていた。

「とりあえずこれで終わったんか? 思ったより呆気ないな」
「終わったと、思いますけど……」
 エンの問いかけに、ミスリアは歯切れの悪い返答をした。首の落ちた方向へと、こわごわと歩いている。その背中を追ってゲズゥも歩き出した。

 ミスリアはトカゲの首に近づき、4フィートの距離のところでゆっくりしゃがんだ。膝の上に手を揃え、真剣な眼差しで首の動きを凝視している。止まるのを待っているのだろうが、生き物と違って、いつ力尽きるか見当が付けられない。

「止めを刺す」
 ゲズゥは大剣を構え直し、「手伝え」とミスリアに目配せした。
 察して、ミスリアはそっと右手を剣の先に添えた。銀色の光の帯が剣を包み込む。

 しばらくして少女の白い手が離れると、ゲズゥは一歩前へ踏み出た。
 いつしかトカゲの首も大人しくなっていた。爬虫類の両目がこちらをひたと見据えている。聖気が近くにあることに、関係があるのかもしれない。どちらにせよ好都合である。

 ゲズゥは魔物の脳天に剣を突き刺した。剣先を覆う聖気がじわじわと魔物を粒子に変え、浄化してゆく。その間にミスリアが胴体をも浄化していた。

 全てが終わってもミスリアの顔が晴れず、むしろ眉間に皴が寄っているのを、ゲズゥは目の端で捉えた。
 何か不自然な点があっただろうかと一部始終を思い返し――魔物らの表面に人面が浮かばなかった事に気付いた。そこでミスリアが立ち上がって静かに話し出した。

「……どうやら人間をもとにしたのではなく、動物をもとにした魍魎だったようです。大昔はそれこそ普通のトビトカゲで……瘴気に当てられて生態が変質し、死体喰らいや共食いをする内に魔物になったのでしょう。ずっと分離と喰らい合いの悪循環を」

 魔物の生じる原理について聞いた事があるゲズゥはなんとなく納得し、事情を断片的にしか理解していないエンは考え込むように顔を歪めた。そして現状に関する重要な情報だけに焦点を当てた。

「分離って何だ? じゃあ同じようなのが何匹も居たのは大元からの分身だったってか」
「大元が居たかどうか、そこまではわかりません。分離した後はそれぞれの個体が独立して行動するのだと思いますけど……困りましたね、これでは樹海の中はもしかしたら……」
「似たようなのがまだうじゃうじゃ居るんだろーな」

 エンが淡々とその先を告げた。
 刹那、誰もが互いの顔を見合わせるだけで次の言葉を発さなかった。

「…………いちいち退治していては日が暮れる」
 ゲズゥは己の考えを提示した。
「だよなぁ。そうなったら状況が悪化する一方だし。突っ切るか」
 同意しつつもエンは戦闘中に手放した荷物をせっせと片付けだした。それに倣ってミスリアもゲズゥも支度を整える。

 またしても慌しく移動せねばならない現状に、ゲズゥは何も思わなかった。どうせこの大陸をうろつく限り、安寧の日々は遠い。
 ――そもそも安寧がどんなものであるのか、あまり思い出せない。
 村を失って以来、長く平和な日常が続いたためしが無かったからだ。

「なあ、オレ替わってやろうか?」
 ふいにエンは手で何かを背負う仕草を真似た。ミスリアの正面に立ちながらも、こちらを見て話している。
「たまには休みたいだろ。あーいや、嬢ちゃんが重いとかそういう話じゃなくてだな」
 ミスリアを背負って走る役割を替わろうか、という話らしい。休みたいとは特に思わないが、替わってくれるならそれも良いだろう。

「え、ええ、それはあの、できれば遠慮……させて頂きたく……」
 ゲズゥが口を開く前に、当人が何やら恥ずかしそうに頭を振った。
「えー? 遠慮すんなよ、まだ全快じゃないんだろ。それとも……」エンは顎に手を当て、ニヤニヤと口の左端を吊り上げた。「コイツが良くてオレが駄目な訳ね、ほほー。なーんかフラれた気分だな」

「そんな……本当はどっちも嫌……じゃなくて、えーと、ゲズゥの場合は仕方ないと割り切ったのですが、イトゥ=エンキさんにそんな迷惑かけるには心の準備が……」
「ふむふむ」
 挙動不審なミスリアに対し、エンは喉を鳴らして笑いを噛み殺している。

 結局、普段と変わらずゲズゥがミスリアを抱えて走ることになり、それからは三人は言葉を交わさずに黙々と進んだ。
 「道」を探し出しては先へ急ぐ――その繰り返しだった。
 魔物に遭遇しても大抵は戦闘に展開させずになんとか逃げ切った。

 静寂の中、平常より速まっている己の呼吸音がよく聴こえる。エンも息が上がって、たまに立ち止まっては顔に浮かんだ汗を服で拭っている。
 二、三度休憩を挟んではいるが、もう一時間近く走り回っている気がする。出口に近づけている感覚が全く無かった。

「あと少しのはずです」
 少女の吐息が、ゲズゥの黒髪に降りかかった。
 ゲズゥは返事の代わりにただ頷いた。ミスリアが指差す次の方向へ、走り出す。

「……イトゥ=エンキさん」
 ふとミスリアが呟いた。
「ん?」
「貴方が探しているのってどんな人ですか?」
「あー……」
 考えをまとめようとエンが唸る。

「姉だよ。長い蜂蜜色の髪で、はにかんだ笑顔が可愛い感じの」ふう、と一度空に向けてため息をついてから、エンは話を続けた。「岸壁の上の教会のコトを、自分にとって一番安らぐ聖域だって言ってた。だから別れた後、あそこなら何か手がかりがあるかもってオレは考えたんだ」

「お姉さまは、教会に行った事が?」
「行った事あるっつーか――」
 答える途中で、エンは口をつぐんだ。正面を向き直り、何かに耳を澄ませている風だった。

 ゲズゥも耳を澄ませてみた。
 微かに、長く伸びた音が聴こえる。よく聴き慣れた規則的な響き。最初は一つしか聴こえなかった音が、意識してしまえば重奏になった。

 蝉だ。
 生き物の気配が希薄だった樹海の中に、新たな空気が吹き込まれる錯覚がした。淀んだ瘴気に混じって生命と緑の香りが鼻腔に届く。
 無意識にゲズゥはペースを上げて走った。すぐ後ろにエンがついている。

 境界が近い。闇が解けてゆく――

 ぶわっと暖気が身体を包んだ。樹海の中の空気とは違う、正常な夏の風そのものだ。
 晴れ渡った空に目を眇める。時刻はいつの間にか正午近くになっていた。

 坂下に広がる町は白と黒と灰色の建物が多く、その上空にはカモメが飛んでいた。町は全体的に明るい雰囲気を発し、しかもかなり発展しているように見える。建築物のどれもが手の込んだ芸術品並に凝った外観をしている。
 市場や行商は賑わい、人々の表情は遠くから見ても楽しそうである。野菜売り場で、子連れの母が猛然と値切っている以外には。

 まるでゲズゥらを待ち受けていたかのように、ちょうどその時に時計塔が鳴り出した。重厚な音が蝉の声すらかき消す。
 視界の一番奥、つまり此処から最も遠い位置の建物からだった。

「今の四つの音の短い旋律は……四十五分って事ですね。あれが教会でしょうか」
 ミスリアの問いに答えずに、ゲズゥは目を凝らした。確かに時計塔は単独に建っているのではなく何かの建物にくっついている。
「時計塔が町の中心でなく端にあるのは教会に付いているからかもしれません」
 さあ、とゲズゥは少女を腕の中から下ろした。

「でもそれより、無事に着きましたね」
「……ああ」
 嬉しそうに話すミスリアに、ゲズゥは頷いた。
 これでまだ「最初の巡礼地」だというのだから、これからも当分旅が続くのかと想像して、ゲズゥはなんともいえない心持になった。ミスリアの旅が終わった暁には自分がどうなるのかなど、まだ考えなくていいはず――。

「イトゥ=エンキさん?」
 ミスリアの声で気付き、ゲズゥもエンの方を振り返った。
 左頬に複雑な模様がある男からは返事が無かった。奴は呆然と町を見下ろすばかりである。

「大丈夫ですか?」
「……あー、うん」
 再度の呼びかけに、エンは瞬きをして応え、一度深呼吸をしてから次の言葉を搾り出した。

「話には聞いてたけどちゃんと見てみるとスゲーなあ。や、そんなことより、やっとだ。やっと、ヨン姉の好きな教会に行って、手がかりを探せる。十五年は長かったぜ」
 黒い模様が徐々に触手を伸ばしてエンの笑顔を侵食した。抑えきれない程の喜びがあるのか、それとも単にもう感情を抑えるのを止めようと決めたのか。

 もしかしたらその現象を初めて目にするかもしれないミスリアは、目を丸くして彼を見つめていた。

「よかったな」
 一言、ゲズゥはそう言った。本心からだった。
「おうよ。行こうぜ」
 そうして三人、坂を下りた。

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