17.f.
2012 / 11 / 05 ( Mon )

 思えば、ゲズゥもまた肩書きとどこか噛み合わない性格をしている。
 どうしてそう感じるのかはまだ良くわからない。彼が顔色一つ変えずに人を殺すだろうことは想像に難くないし、あまり罪の意識を覚えている様子も無いのに、やはり「天下の大罪人」の呼び名と本人との間に違和感があるような気がするのだ。

(人は、心のままに生きるとは限らないのかしら)
 それとも、悪事を働く時だけの状況と条件があると?
 失礼にならない程度に鳥肉の煮物にそっと息を吹きかけながら、ミスリアは考えを巡らせた。

 煮物と言ってもほとんど具よりもスープの部分が多く占めているのでスープと呼んだ方が正確かもしれない。
 美味しそうな匂いに反応して胃が音を立てて踊る。熱いからまだダメ、と何度も頭の中で反芻した。一方、向かいに座る彼は何とも無さそうに片手でお椀を持ち上げてスープを啜っている。
 スープと湯気とイトゥ=エンキに気を取られ、ミスリアは横から現れた気配に気が付かなかった。

「なあなあ、ゲズゥ・スディルがヴィーナ姐さんの昔の恋人ってホントかっ?」
 いきなり誰かが隣に腰を下ろしてきた。肘をテーブルに乗せて、詰め寄ってくる。
「え」
 見知らぬ男性の出現にも驚いたけど、質問の内容に何より虚をつかれた。

「どぉなんだ?」
 ニヤニヤ笑いながら肥満気味の男は答えを促した。聞き慣れない訛りで南の共通語を話している。耳障りな声に、はっきり言って体臭のきつい人である。
 ミスリアは身を引いた。すると背中が何かにぶつかった。

「なんかそんな雰囲気だったじゃん、なあ」
 空いてた隣にまた誰かが腰を下ろしていた。こちらは酒臭い。
「嬢ちゃん、アイツの何? 泥沼ってヤツになるかねぇ。三角……じゃない、四角関係だな!」
 昼間であるに関わらず、明らかに酔った男がミスリアの背中を叩いてガハハと大笑いしている。顔の半分が薄茶色の髭に覆い隠されている。

(やだ、何この人達)
 両端を挟まれて逃げ場が無いミスリアは引きつった笑顔だけ返した。
(そんなこと訊かれたって、私だって知りたい側の人間だもん)
 昨夜は疲れて混乱していたため、そしてアミュレットの問題が優先だったため、何も見なかったことにした。後になって、二人の間にあったただならぬ空気が気になって気になって仕方がなかった。

 何か良からぬ感情が胸の奥で渦巻いている気がする。
 唯一の旅の供を失う不安だろうか? それよりもっと子供っぽい、独占欲?

 ミスリアが思い悩む横で、左右の男たちはグダグダ喋り続ける。

 ――ドン!
 いきなり大きな音が響き、勢いでテーブルが振動した。慌ててお椀を両手で支え直す。幸い、ミスリアのスープは零れなかった。
 食堂中に妙な沈黙が満ち、全員の注目がイトゥ=エンキに集まった。

「お前ら、ウザイ。嬢ちゃんと今話してるのオレなんだけど」
 紫色の双眸に一睨みされて、絡んできた男たちは青ざめた。
「五秒以内に失せろ、でないと耳の一つでももらうぞ」
 いつの間にか彼の手には鋭利な刃物が握られていた。普段腰に提げている直刀である。

「すいません、アニキ!」
 髭に侵食された方の男が謝ったのと同時に、二人は走り去っていた。
 更にイトゥ=エンキが素人のミスリアにすらはっきりと感じ取れる殺気を発したため、集まっていた視線は散った。

 内心気圧されているものの、ミスリアは落ち着いた様子を装った。
 二人は沈黙の中、スープを啜った。

(素朴だけど美味しい……)
 鳥を捌いた人の腕前か、肉の間に混ざるであろう骨の破片も少なくて食べやすい。
 お椀の中身が半分なくなった頃には食堂に喧騒と活気が戻っていた。それに乗じて、ミスリアも口火を切った。

「あの……不思議に思っていたんで訊いてもいいですか。愚問でしたらすみません」
「どーぞ?」
「……明らかに年上の方々に『アニキ』と呼ばれてるのは立場が上だからですか? 貴方の方が強いからですか……?」
「あー、そういう話。そりゃ弱かねーけど、アイツらが礼儀を払うのは別にオレの実力がどうとかじゃないぜ、頭の気に入りだからだ。つっても頭が好きなのはオレの顔だとさ」
「か、顔ですか?」
 予想外の返答にミスリアは目をぱちくりさせた。

「男色でなければ両刀だとか思ったろ?」
 イトゥ=エンキは頬杖ついて唇の左端だけ吊り上げて笑んだ。
「そんな下世話な想像なんてしてません!」
「ははは、冗談冗談。ただの芸術品を愛でるのと似たカンジだから。それより、オレの質問の番」

 彼がそう言った瞬間、空気が重くなったように感じられた。ミスリアはお椀を置き、姿勢を正した。

「はい。何でしょう」
「岸壁の上の教会ってのに、心当たりあるか?」
「!」
 ミスリアは息を呑んだ。

(それって――)
 深く大きな川に面し、突き出る高い岸壁。外界から隔たれたその場所に建つ、空と海の色に彩られた美しい教会。
 絵画や本で見ただけで自分の足ではまだ行ってみた事の無い場所だけれど、確かに知っている。

「あるんだな」
 イトゥ=エンキは確信したように一言だけ漏らした。

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18:09:31 | 小説 | コメント(0) | page top↑
17.e.
2012 / 10 / 30 ( Tue )

 夢と現の境を再び飛び越えた瞬間、目に映ったのは同じ端整な青年の顔だった。
 ミスリアは息を呑んだ。

 覗き込まれていると形容して良いほどに顔が近いが、相変わらずその顔に表情は浮かんでいない。
 状況を思えば、魘されていた、みたいな事を指摘されるかと思ったけれど、ゲズゥは開口一番に別のことを言った。

「模様の男が来てる」
「はい?」
 入り口に立つ、白いシャツに麻ズボンといった楽そうな格好をした男性の姿を認めて、ミスリアは理解した。肩に届くくらいの長さの黒髪が無造作に跳ねている。

「イトゥ=エンキさんですね。……あれは刺青では?」
「いや。おそらく『紋様の一族』だ。生まれ付きだろう」
「もんようの……?」
 ミスリアはベッドの上で起き上がり、夢の余韻を忘れようと努めた。寝汗が少し気持ち悪い。

「へー、よく知ってんな、超マイナーなのに」
 イトゥ=エンキは己の左頬をつねった。
「会うのは初めてだがな。話くらいは聞いていた」
「流石、同じマイノリティの『呪いの眼の一族』ってとこか」

 二人が何気なく言葉を交わす内にミスリアは自分の格好を見直し、失礼な箇所が無いと確認してから、ベッドを滑り降りた。
 紳士ならば寝起きの淑女の下をいきなり訪ねたりしないものである。ここでそういう常識が通用しないことにはもう驚いたりしない。

「オハヨウ、嬢ちゃん。昼でも一緒にどうだ?」
 イトゥ=エンキは軽い調子で誘った。よく見れば精悍な顔立ちなのに、やる気の無さそうな雰囲気がそれを些か台無しにしている。
「もうお昼の時間なんですか?」
 つい訊き返した。
「まあな。洞窟の中だと昼も夜もねーけど」
 彼は肩を竦めた。

(そんなに寝てしまったの)
 なんてだらしない。
 一瞬焦るものの、よく考えれば何時に寝たのかが定かではないのだから、短い睡眠時間だったかもしれない。

「この山脈全体がオレらの拠点みたいなもんだから、山々の間とか天辺に吹き曝しの集合場所があるぜ。そんで食堂も外だ。今日は晴れてるしちょうどいいだろ」
「凄いですね」
「来るか?」
 彼は再度誘いの言葉を発した。

「あ、はい、行きます」
 昨晩の約束があるので、迷わず承諾した。
 それまで静観していたゲズゥにも、一緒に来ないかとミスリアは目で問いかけた。

「俺はもう少し寝る」
 そう言いながら欠伸をしている。
「わかりました」
 ミスリアは支度をさっと済ませてから、イトゥ=エンキについて食堂へ行った。

 迷路のような洞窟を十分ほど進んで、やっと日の光が目に入る。
 あまりの眩しさにミスリアは瞼を伏せた。闇が急に光に転じるというのは、どことなく、さっき見た夢を思い出させる。それは決して気分の良いものではなかった。
 爽やかな午後の澄んだ空気を吸い込んで、頭の中を良い意味で真っ白にした。

 そこからしばらくの間、伐採された山肌を二人で登った。
 こうして見渡すと、伐採されているいくつかの箇所を除いて、山は全体的に濃い緑色に覆われていた。全貌を目に入れるとただ絶句するしかないような大自然は、山に慣れた人間、または余程の理由がある人間でなければ、踏み入ってみたいとは思わないような世界だった。

 登った先に、先ほど言っていた通りの吹き曝しの広場があった。足場が平たくなっていて歩きやすい。
 木製のベンチと長方形のテーブルが並び、その半分くらいが既に取られていた。
 笑い声と怒鳴り声と歌声が入り混じったようにざわついている。

「ここがそうだ。ウルサイとこで悪いなー」 
 イトゥ=エンキは片手をポケットに突っ込み、煙と湯気の立ち上がる場所へ向かってつかつかと歩いた。
「何食べる? 主な選択肢は煮物と揚げ物、鳥と兎と……」
「えーと、私はイトゥ=エンキさんと同じでいいです」
「りょうかい」

 料理人に向かって、彼はミスリアには理解できない言語で話しかけた。しばらくの応酬の後、木から彫られたお椀を両手に持ったイトゥ=エンキが先導して、二人は空いたテーブルに座った。

「熱いから気をつけてな」
「はい」
 他のテーブル含め、誰も食器を使っていないので、どうやら啜って飲む物らしい。いつも以上に注意を払いながら、お椀のふちに口をつけた。

(この人は親切そうなのに……というよりまともな人な感じがするのに、盗賊なのね)
 向かいに座る男性を上目遣いに盗み見た。

 ミスリアは困惑を覚えていた。自分が抱いていた賊のイメージと、目の前の人間が噛み合わない。
 ――悪事を働く人間が、果たして皆悪人であるのか?

 「天下の大罪人」に会うと決めた以前から疑問に思っていたことが、今またミスリアの中で一つの問題となって浮かび上がっていた。


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22:57:23 | 小説 | コメント(0) | page top↑
17.d.
2012 / 10 / 29 ( Mon )
「他の奴らには黙っててやるから、そのかわり、訊きたいことがあんだよ。別に今晩答えてくれなくてもいいからさ」
 低くなっていた声が、元通りに戻っている。心なしか笑っているようにすら思える。

 無害そうで、実際はほぼ逃げ場の無い提案だった。
 ミスリアが魔物を呼んだにせよ呼ばなかったにせよ、この男がこんな考えに辿り着いた以上はそれだけで波紋を広げるには十分である。味方が誰一人として居ない状況で、言いがかりを否定する力は皆無だ。
 しかも、請け負ったところでこの男が口約束を守る保証も無い。

 ミスリアはようやく、ゲズゥの後ろから踏み出した。

「……いいでしょう。私に答がわかる問いであれば、ですが」
 少女の貼り付けられた笑顔を見て、本当に魔物を呼んだのだな、とゲズゥは察した。
「わかるだろ多分。じゃ、部屋はここだ。厠はあっち」
 男は右を指差した。

「明日にでもまた話そうぜ……えーと、ミスリア嬢ちゃん」
 ゲズゥに向けては頷くだけで、名を呼ばない。
「……案内ありがとうございました」
 性分なのだろう、ミスリアは丁寧に礼を言い、お辞儀までした。模様の男の姿は闇に溶けて消えた。

 連れて来られたのは、殺風景な部屋だった。唯一のベッドはミスリアに譲り、床には毛皮のラッグがあるので、ゲズゥは迷わずそっちを選んだ。黄金色の毛皮は、山猫のものだろうか。暖かそうだ。
 
 ミスリアが隅の水瓶をじっと見つめている。何がしたいのかと訊ねたら、寝る前に手を洗いたい、でも重そうで自分では持ち上げられない、と返事を返された。
 ゲズゥは屈んで、水瓶を持ち上げた。

「…………お前が魔物を呼んだと言うのは」
 人の気配が無いことを確認してから、口を開いた。
 傾けた水瓶の口から、水が流れる。

「理論上は可能だと、カイルが教えてくれました。それを試したまでです」
 目線を手元から離さず、ミスリアは手を擦り合わせて洗っている。
「あくまで理論上の話で、実践訓練などで教えられるような技ではありません」
 そう続けて、どこからか取り出したハンカチで手を拭った。

 ゲズゥは水瓶を元に戻した。

 ――何故そんなことを?
 問い質そうかとも考えたが、ミスリアはこれ以上の会話を拒否するようにベッドに潜り、毛布に包まった。白い毛布からは彼女の髪の栗色だけがはみ出ている。

 後で聞き出せば良い。
 そう判断し、ゲズゥもラッグの上で眠りに落ちた。

_______

 ふと、目を覚ましたら――淀みない暗闇の中で浅い泉に立っていた。膝までの深さである。

 肌に水が触れているという曖昧な感覚があるだけで、足元を見下ろしても何も視認できない。
 水が冷たいのかどうか、温度の感覚も無い。
 訳がわからずに一歩踏み出した。

 音がしなかった。
 ならばとあることを試してみよう、と閃いた。
 左の掌に右手の指で自分の名前を書こうとするも、何度やってもうまくできなかった。

(字が形にならないということは、ここは夢の中なのね)
 ミスリア・ノイラートは納得した。勿論、字を書いてみれば夢かどうかわかる、というのは友人に教えてもらったマメ知識みたいなものだ。
 さて夢だとわかったからにはどうしようか、とのんびり考える。自覚しながらなんて、滅多に見れない類の夢だ。

(好きなものを登場させて楽しもうかしら……)
 俄かに視界が明るくなった。両目を手で覆ってやり過ごす。

「お姉さま!?」
 手をどけたら、目の前に懐かしい姉の姿があった。
 ミスリアと同じ栗色のウェーブ髪と、茶色の瞳。

(夢だから会えているだけ? それともお姉さま、何かを伝えようとしてるの――)
 優しく微笑む姉に向かって走り出した。
 忽ち、笑顔が曇った。次第にそれは物憂げな表情になり、ついには姉は泣き出した。

「せいじょになってはだめよ」

 ミスリアは怯み、立ち止まった。
 そして悲鳴を上げた。

 姉の額が、音も無く半分に割れたのだ。しかしそれはもう姉ではなく、赤い髪の少女になっていた。空のように青い瞳が恨めしげに睨んでくる。
 ミスリアは泣き崩れ、口の中で幾度と無く謝罪の言葉を連ねる。

 ――ボタリ。

 唐突な音が、しじまに響いた。
 指の間から覗き見ると、誰かの首から剣を抜く人影がいた。女性のシルエットに思えた。
 どうやら、記憶がごちゃ混ぜになって再現されているらしい。

(この場面は……)
 女騎士が隣国の兵隊長を殺した時のものだ。
 人影は満足そうに剣に付いた血を眺め、やがて高笑いしだした。

 理解できない、むしろ、一生理解したくも無い心情である。
 ミスリアは拳を握り締め、唇をかみ締めた。

 人影は剣を手放さないまま、振り向いた。
 それはいつの間にか、無表情に佇むゲズゥの姿に成り変わっていた。

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04:46:12 | 小説 | コメント(0) | page top↑
17.c.
2012 / 10 / 25 ( Thu )
 魔物を前にした彼女は恐怖心を制御し、むしろ闘志を沸き起こしたり、魔物へ憐憫の情を見せたりしていた。逆に人間の敵が相手だと、途方に暮れていたように思える。
 ――また一つ、この少女について発見をしたかもしれない。

「この通り、ペンダントは諦めた方が良さそうだな。まあ、後始末はちゃんとしとけよ。そんでとりあえずオレらは出ようぜ」
 模様の男は最初の言葉はベッドの上の男女に向け、最後はゲズゥたちに向けて言った。手首を振り、「ついて来い」と示している。

 断る理由も無いのでゲズゥは言われたままに部屋を出た。数秒後、俯き加減なミスリアも出てきた。首にペンダントを付け直している。
 模様の男が振り返った。

「手伝ってもらって悪いな。……で、お前は何で裸なんだ」
 苦笑いを浮かべて、男はゲズゥに訊ねた。
 言われて、ゲズゥは己を見下ろした。

 先ほどかぶった魔物の血を除けば、身を隠している物が何一つ無い。だからと言って自分では何とも思わないが、今更気付いたのか、隣のミスリアがあからさまに目を逸らした。

「慌てて飛び出すからよ」
 通路の奥から声がした。それに応じて模様の男が壁に寄り、背後から現れたアズリを通す。
「服、持ってきたんだけど。先に体洗った方がいいんじゃない?」

 ゲズゥはただ差し出された衣類を受け取った。尤もな提案だが、いい加減に眠い時間なので風呂は遠慮する。服が汚れるのも構わずに着直した。
 すぐ傍で、袖の長い、半透明の薄いガウンだけを纏った姿のアズリが昔と変わらない笑顔を浮かべている。

「姐さん、流石に遊びが過ぎませんか」
 模様の男は不快そうに顔を歪めた。アズリがゲズゥの服を持っていた点と、二人が発する微かな酒の匂いから何かしら察したのだろう。
「イトゥ=エンキ、あの人は私のすることにいちいち口出したりしないわよ」

「どーでしょーかね。頭はああ見えて嫉妬深いでしょ」
「以後、気を付けるわ」
 模様の男の指摘に、アズリは曖昧に笑った。下ろしたままの髪を指先で弄んでいる。

「魔物退治、お疲れさま」
 じゃあおやすみ、と言ってアズリはくるりと踵を返した。
 残り香が鼻孔をくすぐる。

 ――この女の上辺だけに騙される男が一体如何ほど居るのだろう、とたまに思いを馳せることがある。
 アズリの気遣いは総て形だけで、深みが無い。人を立てる言葉や行動を重ねていても、実際は何もかも己の為にやっていることだ。

 或いは男はその事実に気付いても、女の色香を求め、それに酔いたいのか。かつての自分を思い返して、ゲズゥは複雑な心持になった。
 模様の男が、短くため息を付いた。こいつもこいつで複雑そうである。

「ったく、しょうがねーヒトだな……」
 同感であるが、ゲズゥは相槌を打たなかった。
「空いた部屋まで案内するぜ」
 そう言って歩き出した男に、ゲズゥとミスリアは無言でついて行った。

 しばらくの間、誰も何も言わないまま、入り組んだ通路を曲がり曲がった。不自然な程に誰ともすれ違わないのは、この男の計らいだろうか。

「なあ」
 ふいに、先を歩く模様の男が、決して大きくない声を出した。
「そのペンダントの形……ヴィールヴ=ハイス教団と、聖獣信仰の象徴だろ。嬢ちゃん実は聖職者か?」
 男は立ち止まった。ポケットに両手を突っ込んだ状態で、振り返る。

 自ら答える気は無いのか、ミスリアはサッとゲズゥの背後に隠れた。
 仕方なく、背に隠れた少女に代わって、ゲズゥが男と睨み合った。濃い紫色の瞳だった。

「別に変な真似はしねーよ。ただ訊きたい事があるだけだ。交換条件とでも思えばいいだろ」
 模様の男の表情は真剣そのものだった。
「……どういう意味だ」
 ミスリアは未だにゲズゥの後ろから出て来ない。

「オレは見てたんだよ。さっき嬢ちゃんがペンダントを取り返して、途端に体が光って、そのすぐ後に魔物が現れたんだ」
 男は声を低くした。

 その言葉に、ゲズゥは目を細めた。ミスリアの体が光るのは別段珍しくも何とも無い話だが、そうした直後に魔物が現れると言う現象は、知らない。

「こう、矢みたいにまっすぐな光が上に伸びて。どういう魔術だかしんねーけど、嬢ちゃんが魔物を呼んだんじゃねーの」
 模様の男は人差し指を立て、天井へ向けて垂直に伸ばした。

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17:20:38 | 小説 | コメント(0) | page top↑
17.b.
2012 / 10 / 19 ( Fri )
 一人取り残されたアズリは髪をかき上げながら笑った。
 寝台の上で脚を組み替える。

「女を焦らすなんてひどいわね。でも、今のアンタの方が昔よりもずっと、ずっと面白いわ」
 悪戯を企む子供のように、彼女は唇の両端を吊り上げた。

_______

 自覚が無かった訳ではない。
 己の内に芽生えつつある望みを認めたくないだけで、だからこそいつもそれを頭の片隅に追いやっているのだ。
 大蛇の姿をした魔物の上顎と下顎を素手で掴んで引き裂きながら、ゲズゥはそんなことを思った。

 瞬間、何故か大量の血液が噴き出したため顔を逸らしたが、遅かった。髪から足の指まで、全身にたっぷりと紫黒色の液体がかかる。泥っぽいぬるま湯をかぶっているような不快感を覚えた。

 ゲズゥは瞼の回りを擦った。
 一度腹から息を吐いて、雑念を振り払う。
 右に一匹、前方にもう二匹――二体? 左前には人間が居るようだが、気を配ってやる義理は無いので放置している。

 前方の魔物たちは生き物というよりただのでこぼことした塊でしかない。素手ではやりづらい予感がするので、ゲズゥは右の芋虫に似た個体を先に片付けることにした。
 壁を伝い走って勢いを付け、頭に該当するであろう部分を思いっきり蹴り飛ばした。芋虫が倒れる間に、壁にかかっていた松明を手に取った。
 蠢く巨体に松明の火をつけると、次第に芋虫は燃え上がった。腐った肉が焼き上がるような臭いに、ゲズゥは鼻を手の甲で覆った。

「うわあ!」
 塊に襲われているらしい一組の男女が隅に縮こまっていた。そういえば此処は誰かの寝室に当たるらしい。
 ゲズゥの視線は二人と二体の上を通り過ぎ、手前に座り込んでいる少女の横顔に止まった。

「ミスリア」
 特に何も考えずに少女の名を呼んでみる。
 肩を震わせ、呼ばれたミスリアはゆっくりとこちらを向いた。

 少女の大きな茶色い瞳は先ずは驚きと怯えに見開かれ、次には安堵の色を映し出していた。
 おそらくは、この血塗れの姿に驚いていたのだろう。
 しかしゲズゥは、確かに見たのだった。

 振り向く直前のミスリアは恐怖を表情に浮かべ、今の今までゲズゥの存在に気付かない程に恐怖の対象を見つめていた。
 視線の先に居たのは、魔物ではなく、あの二人の人間だ。
 どう見ても恐れるに足る人間には見えないが、ゲズゥが到着する以前に何かがあったかもしれないので、一概には言えない。

 ――さて残された魔物をどうしようか――と考えていたら、誰かが後ろから飛び出し、直刀で塊たちを素早く切り刻んだ。
 ぼとっ、ぼとっ、と小さくなった黒い塊が散り散りになる。案外、呆気ないものだ。

 急に現れたその人物に誰もが驚愕する中、ゲズゥは一人感心していた。
 何故ならその男はいきなり現れたのではなく、巧みに気配を消して影の中に立っていたからだ。

「アニキ! すいませんっ」
 すかさず男の方が立ち上がり、謝罪した。
「別にいいぜ」
 遅れて現れた男はけろりと謝罪を流し、刀を収めた。すぐに助けに入らなかったことに微塵も後ろめたさを表していない。

 ゲズゥにもそれが誰なのかすぐにわかった。勿論、名前は覚えていないが。
 左頬に黒い墨で描いたような複雑な模様。頬骨から顎下まで続くそれは、パッと見た印象では文字が絡んでいるようで、同時に絵のようでもある。
 顔の模様があまりに目立つためか、男の他の特徴はなかなか記憶に残らない。

「で、何か揉めてたん? 魔物云々の前にも騒いでんの聴こえたぜ」
 模様の男はミスリアとベッドの上の下着姿の男女を見比べ、訊ねた。
「え、そこの小娘が盗んだ物返せーって」
「ふーん。何盗んだんだ」

「こいつが、風呂ん時に、水晶の付いた銀ペンダントを……」
 男は自分に寄り添う女を指差して言った。
「な、何よ。客人だとか言ったってこれくらい、盗られる方が悪いでしょ!?」
「それは別に否定しないけどさ」
 模様の男がやる気無さそうに頷いている。

「嬢ちゃん、大丈夫?」
 同じやる気の無さそうな声色で、模様の男が問いかけた。一歩、ミスリアに歩み寄る。
「……っ」
 ミスリアは体を強張らせ、両手を固く握り合わせた。その間に恐らくあの銀細工のペンダントがあるのだろう。

 こちらが目を瞠るほどに怯えている。
 確かにぬくぬくと安全な場所で育った人間ならば、賊を怖いと感じるのは当然かもしれない。しかしそれにしてもこの怯えようはおかしい。

 思えばミスリアは最初から、魔物などよりも人間を怖がっていたのではないか――ふと、そんな考えが脳裏を過ぎった。

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16:56:16 | 小説 | コメント(0) | page top↑
17.a.
2012 / 10 / 14 ( Sun )
**注意喚起?**

えーと、15…18禁? 線引きがよくわかりませんが。
なんかアレな感じなので心してお読みください/(^O^)\
_______

 暗闇の中で、蝋燭が一本だけ点されていた。ひんやりとした湿った空気の中、そこの周りだけ暖かく乾いている。
 そして寝台の上の男女を取り巻く空気には、未だ冷めない熱が残っていた。

 一糸纏わぬ女が伸びをすると、弾みで形のいい乳房が揺れた。
 女は寝台の横に置いてあった杯に手を伸ばし、ラム酒を喉に流し込む。二口ほど飲み込んでから、自分の下敷きになっている若い男をじっくり眺めた。

「……何だ? アズリ」
 怪訝そうに、青年は低い声で呟いた。彼もまた一糸纏わぬ姿である。この暗がりでも、その肌色の濃さがわかる。
 アズリと呼ばれた女は微笑んだ。

 今はヴィーナキラトラを名乗っているが、そのどちらも、彼女の生まれた時に与えられた名では無い。そんな物なら、とうの昔に失っている。
 アズリは杯を置いてから青年の腹筋の上で頬杖ついた。彼女の下ろされた長い髪がくすぐったいのか、彼は僅かに身じろぎした。

「そうねぇ。色々と、訊きたいことはあるけどね。どれも純粋な好奇心からだから、答えたかったらでいいわよ」
「……」
 青年――ゲズゥ・スディルは無表情のまま答えない。昔からそういう性格だったのはわかっているので、アズリは特に気にしない。

「たとえば……」
 言いながら、アズリはゲズゥの右手首を引き寄せた。
「ココ、どうしたのよ」
 手首の内側、そのすぐ下から肘へ向けて数インチを、白い指でなぞった。

「何が」
「それはとぼけてるの?」
 くすりと笑って、アズリは自分の右手首を返して見せた。
 そこには、一輪の淡く青い花の刺青が彫られている。

「アンタもあったでしょう、同じ場所に」
「…………削ぎ落とした」
 当たり前のことのように彼は短く答えた。
「あら。わざわざ痛いことするのね」
 アズリがそう言うと、ゲズゥは合わせていた目線を外した。

(何かに属している、所有されているみたいなカンジが嫌だったのかしら)
 理由に思い至ったアズリは一人納得して頷いた。
 ゲズゥの頬を片手で捉えて無理やり視線を絡み合わせ、アズリはシーツの下で腕を立てた。

「アンタがあんな子を連れ回してるなんて、意外だわ」
「どっちかと言うと、連れ回されてるのは俺の方だがな」
 黒い右目と白地に金色の斑点のついた左目が、至近距離のアズリの顔を映している。正確には、左目の猫の目のような瞳孔と色素の薄い瞳では何も映し出せないが。
 
「余計にありえない。アンタは、間違っても人に従うタイプじゃなかったもの」
 アズリの長い髪がするりと耳の後ろから滑り落ちて、ゲズゥの顔にかかる。
「命を助ける見返りに守って欲しいと、取引を持ちかけられたから乗っただけだ」

「本当にそれだけ? アンタがあの子にくっついてるのって、何かを『与えて』もらっているから……それとも何かに期待しているからでしょう。それが何なのか、興味あるわね」
 こつん、と額を合わせたら、アズリよりも十近く年下の青年は、眉をひそめた。

(そういう拗ねた顔、懐かしいわ)
 十五歳の少年だった彼の記憶が蘇る。半年に一度くらいしか笑わなそうなゲズゥでも、不機嫌な表情なら良く見せたものだった。

「自覚ナシだった? ねぇ、あんな女の子に何を期待してるの」
「煩い」
 そう言ってゲズゥは起き上がり、体勢を入れ替えた。組み敷かれたアズリはくすくすと笑う。

「ところでアンタ、公開処刑にかけられたってね。大陸は広くても人の噂は繋がっているから、それが取りやめられた理由も聞いているわ」
 逞しい肩に腕を回しながら、アズリはお喋りを続けた。
「あんな子が例の聖女だったのね。幼くて驚いたわ」

 無表情に戻ったゲズゥは返事をせず、無言でアズリの太ももに手をかけ、その細い腰を抱き寄せた。

「……ん」
 再び重なり合う熱の感触。思わず声が漏れる。
「ああ――」
 突き上げる快楽に、何の話をしていたのかも忘れかけた。

 もうすぐ絶頂に昇りつめるという時に、何の前触れも無く。
 女の悲鳴が遠くから響いた。
 洞窟であるだけに、よくこだまする。

「魔物でも出たかしら、珍しい」
 アズリはそのように囁いた。

 二度目の悲鳴は、最初のよりも音量は小さく、短かった。
 その音に、今度はゲズゥが動きを止めた。

「どうしたの? 魔物くらい、他の人に任せれば大丈夫よ」
「――今の声」
 彼はどうやら聞く耳を持つ気が無いらしい。寝台に起き上がり、何かを探すように辺りを見回している。

 目当ての物が見つからなかったのか、一度舌打ちをしてから、ゲズゥは立ち上がった。
 アズリが他に何か声をかけるよりも早く、彼は駆け出していた。

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16.g.
2012 / 10 / 12 ( Fri )
(そんなこと、私が知りたい)
 ミスリアは壁際のゲズゥを見た。相変わらず彼はどこへともなく視線を宙にさまよわせている。
 おそらく自分たちの生死のかかった問題だと言うのに、ゲズゥはまるで気にしている素振りを見せない。

(何か対策を練っているならいいけど……いいえ、他力本願ではダメ。私も考えないと)
 考えあぐねて弱気になりそうな自分を心の中で叱咤する。

「お前ら、東から来たんだろ」
 ふいに声をかけられて、ミスリアは顔を上げた。
「そうですけど」
 特に躊躇せずに答えた。

 最初に会った時と比べ、刺青の男に対する恐怖心は大分薄れている。隙あらばこちらを威嚇してきた他の男たちと違い、まとめ役たる彼は必要以上に関わってこなかった。ゲズゥを殴ったあの一回を除けば、暴力も振るわない。
 彼の言葉の発音が割とはっきりしているのもポイントである。

(それにしてもこの人は、いきなり何を確認しているのかしら)
 互いに遭遇した地点を思えば、ミスリアたちが東から山脈を進んでいたのは明白だったはずである。

「じゃあ知らないか……」
「何をです?」
「あー、気にすんな」
 訊き返しても、彼は返事を濁しただけだった。最初からこんな話が無かったかのように煙管に夢中になっている。

 しばしの静寂が訪れた。
 今のやり取りにどういう意味があるのか考える気力が無いので、言われたとおり気にしないことにする。
 ミスリアはゲズゥの傍へ近寄り、隣良いですか、と訊いた。彼は何も言わずに目配せを返した。

「なあ、呪いの眼って色々邪推されちゃいるが……実際は何の特殊機能も無いんじゃないのか」
 煙管を口元から離して、刺青の男は訊ねた。
 問われたゲズゥはすっと目を細めた。左目は黒い前髪の後ろに隠れていて見えない。この反応では肯定しているのか否定しているのか、推測できない。

 またしばらく、静寂が続いた。
 やがて奥の通路から誰かが出てきて、刺青の男を呼んだ。南の共通語ではなく、彼らの独特の言語で話し合っている。

「んじゃ、呼ばれたんで行くぜ。ああそうそう、オレはイトゥ=エンキ。気が向いたら覚えてくれよ」
 さっさと歩き去る彼の背中に向けて、ミスリアは「はい」と答えた。

 そして数秒経つと、自分たち以外には見張りの人しか居なくなった。
 ミスリアは小さめの声で、ゲズゥに話しかけた。

「昔のお友達とお会いできて、良かったですね」
 もっと根掘り葉掘り訊いてみたい衝動を抑えてそれだけ言った。何となく、両手を組み合わせる。
「…………別に」
 ゲズゥは、ほう、と煙たい息を吐いた。やはり変な臭いの煙である。

「嬉しくないんですか?」
「アズリのおかげで客扱いに格上げされたのは好都合だったが、別に俺は、再会してもしなくてもどっちでも良かった」
「仲良そうでしたのに」

「……お前にはそう見えるのか」
「はい?」
 それは仲良さそうに見えて、実は違うという意味だろうか。訳がわからずにゲズゥを見上げると、彼は何かに気付いたように片眉を上げた。

「お前、首」
 ゲズゥは自分の首回りをぐるりと指さしている。
「首?」
「いつも付けてるヤツが無い」

「いつも付けてるヤツって――あ! アミュレット!」
 首回りに触れてみると、確かにいつも身に付けているそれがなくなっているとわかった。体中を見回しても、何処にも見当たらない。お風呂の後に着替えた寝巻き兼用のこのワンピースにはポケットが付いていなかった。

 脱いだ衣類と一緒に置いたのかもしれないけれど、半ば脱がされたようなものなので記憶に無い。他の貴重品はバッグに入れて手に持っている。その中を見ても、やはり無い。
 来た道を戻ろうとミスリアは歩き出した。

「どうやって探す気だ」
「それは……多分大丈夫です」
 振り返らずに答えた。

 あのアミュレットとは強い縁で繋がれているので探すだけなら簡単である。
 走り出したら、柔らかいものとぶつかった。

「あら」
 自分よりも高い位置にある、サファイヤ色の双眸と目が合った。
「ヴィーナさん」
「急いじゃって、どうしたの」
 おっとりとした口調で、彼女が問いかける。

「ちょっと忘れ物を」
「高価な物と思われて、既に盗まれてそうだな」
「高価ではありますけど! それだけじゃなくて、大事な物なんですっ」
「ふーん? そう、頑張ってね」

 ヴィーナがミスリアの失くし物を取り戻す手伝いを申し出ると期待した訳ではなかったけれども、それにしても、まったくどうでも良さそうに笑っている。
 ならば、ゲズゥに一緒に来てくれと頼もうか検討する。

「ゲズゥ、ちょうど良かったわ。久しぶりに一杯どうかしら」
「…………ああ」
「とっておきのラム酒があるのよ。好きでしょう――」
 そんな会話が交わされている横で、ミスリアは諦めた。

(自力で取り戻すしか無いのね)
 億劫な気持ちになるも、あれが無いと聖女としての力をほとんど発揮できない。

 ミスリアは二人に背を向け、再び走り出した。

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22:58:32 | 小説 | コメント(0) | page top↑
16.f.
2012 / 10 / 09 ( Tue )
 ようやくヴィーナが離れると、二人の唇の間に糸のようなものが引いていた。
 微笑む彼女に対してゲズゥはいつもの無表情に戻っている。
 
(何なの……?)
 またしても頬が紅潮する。
 
「彼は私の友人だわ。あの人が帰るまでは客としてもてなしましょう。そちらの可愛いお嬢さんも、ね」
 美女の有無を言わせない微笑に気圧されてミスリアは首を縦に振った。展開の速さにもう頭が付いてきていない。
「姐さんがそう言うなら構いませんよー」
 不満そうな表情を浮かべる他の男たちと違って、刺青の男だけはにっこり笑って同意した。
 彼は短刀を懐から取り出し、ミスリアたちの縄を切った。
 
「最終的に二人をどうするかはあの人が決めるけどね。お嬢さん、名前を教えてくれないかしら」
「……ミスリア、です」
「ミスリアちゃんね。ユリャンへようこそ。迷路みたいな洞窟だから迷子にならないように気をつけてね?」
 ヴィーナはミスリアへ向き直り、手を取って引いた。
 彼女の柔らかい手が暖かい。
 
「はい……」
 誰かと手を繋ぐなんて子供の頃以来で、反応に困る。
「アナタたちの事情はあとでゆっくり聞きましょう。ねえ、お風呂入るわよね? お湯沸かさせるから」
 しどろもどろと答えるミスリアをよそに、ヴィーナはどんどん話を進めていった。
 
 ――気が付けば、ミスリアは数人の女性に背中を流してもらっていた。
 冷たい石の床を足の裏に感じながら、熱いお湯が全身を火照らせている。
 お湯が流れる内に、床も次第に暖まった。ミスリアは足の指を動かしたり伸ばしたりした。
 
(何でこんなことに)
 最初は抵抗しようとしたものの、数分で諦めた。女性たちの笑顔と、蓄積された疲れに屈したのである。旅とは疲れるものなのだと、実感した。
 道中のさまざまなエピソードを抜きにしても連日の移動は辛く、特に山を登るのは初めて経験する苦行であった。
 
(こんなんで本当に巡礼地に着くかしら……)
 そう考えながら、少しうとうとしてきた。
 またしても気が付けば着替えさせられていて、髪の毛もタオルで乾かされている。
 お風呂に入ったのにちゃんと休めた心地がしないのは、始終他人にまとわり付かれていたからだろうか。
 
「はーい、キレイになったねー」
「ありがとうございます」
 ミスリアがお礼を言っても、女性たちはくすくす笑うだけで直接返事をしなかった。
 その後、洞窟の中の複数の道が交差する場所に連れて行かれた。壁にいくつか灯りがともされている。
 
 交差点には見張り役の体格の良い男性が居て、その向かい側に刺青の男とゲズゥがくつろいでいる。二人は離れて立ってはいるけれどそれぞれ背中を壁に預け、手に何か煙管のような筒を持っている。
 意外な組み合わせなのにその絵自体には不思議と違和感を抱かなかった。
 
「お疲れ」
 改めて聴くと、刺青の男の声がハスキーボイスに分類されるものだとわかった。
 男が手を振ると、女性たちは笑いながら姿を消した。
 残されたミスリアはとりあえず会釈をしてみた。すると刺青の彼は、面白がるような表情を浮かべて小さく会釈を返した。
 
「二人で話をしていたのですか?」
「や、別に話はしてねーよ。並んで吸ってただけ」
「はあ……」
 何を、と訊いていいものか迷う。臭いからして煙草以外の麻薬かと思うけれども、煙草すら吸ったことが無いので自信は無い。ミスリアにとって煙草は、そういえば父親が吸っていた、と言った程度の認識である。
 
「頭はお前らをどうすんだろなー」
 煙を吐きながら、男はひとりごちた。

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18:40:44 | 小説 | コメント(0) | page top↑
16.e.
2012 / 10 / 03 ( Wed )
 優雅な佇まいだ。
 ヴィーナと呼ばれた女性は、腕を組んで微笑んでいた。第一印象では、妖艶さと包容力を併せ持った微笑みに思えた。
 二十代かもっと上なのか、年齢が推測しにくい容姿だ。

 彼女の形のいい眉毛と長い睫毛の下には、輝くサファイヤ色の瞳があった。
 鮮やかな口紅や、目の周りの薄紫をベースとした派手な化粧が良く似合っていた。
 銀みがかかった紺色の長い髪は複雑に編んで頭の左側にまとめ、宝石の付いた簪を挿している。右に垂らした一房の髪は丁寧に巻かれている。

「こっちが収穫? 私はヴィーナ、よろしくね」
 女性はミスリアに接近してきた。
 花と果実を思わせる甘い香りがふわっと広がり、眩暈がする。

(すごい格好……)
 全体を通して、凹凸のはっきりとした、女性的な線を強調した服装である。
 ヴィーナは短い袖の、パステルグリーン色のドレスを着ていた。ぴったりとした腹部の布は薄いピンクで半透明、そのため白い肌が透けている。フリルの付いた裾が斜めになっていて、一番短い部分では膝が露になっている。

 綺麗な鎖骨だな、と思いつつ、大きく開いた胸元に目が止まった。
 ミスリアは頬が紅潮するのを止められなかった。

「こんなに幼いんじゃあ私たちには使い道無さそうね」
 考え込むように人差し指を唇に押し当て、ヴィーナは「んー」と唸った。
  彼女が話すと、ふくよかな唇の動きを目で追いたくなるので不思議だ。白い歯の間に見え隠れする赤い舌も艶かしい。
 
「競売に出せば良い値が付くかもしれないけど。アナタ、生娘?」
「な、何を――」
 あまりに唐突過ぎる問いにミスリアは慌てふためいて、うまく答えられなかった。
「生娘なら高額で売れるのよ。その反応からして間違いないのかしら? で、こっちの男は肉体労働か闘技場に向いてそうね――って、あら?」
 ゲズゥに視線を移し、彼の顔を見上げて、ヴィーナは首を傾げた。

「アンタもしかして、ゲズゥじゃないの」
「アズリ」
 ゲズゥの声には、信じられないものを見るような驚きの色があった。

(え? また知り合い?)
 それも今度はすぐに名前を思い出している辺り、前に遭遇したオルトファキテ王子よりも親しい関係だったのではないか。

「今はヴィーナキラトラを名乗っているわ。でもアンタには覚えられないでしょうから、アズリでいいわよ」
 彼女は首を傾げたまま、にっこり笑った。
「随分と図体が大きくなっちゃって。四年前も十分大きかったのに、成長期の男の子は違うのね」
 
「お前はいつの間にこんなところに」
 ゲズゥは心底驚いたような顔をしていた。
「一年前からかしら。アンタ、『天下の大罪人』とか呼ばれてるんだって? しばらく会わなかった内に、出世したわねぇ」

「『天下の大罪人』!? マジ、本物?」
「スゲェ! 噂通り若いんだな」
 ヴィーナの言葉に、周りの男たちがざわざわと反応した。
「ああ、道理で……」
 刺青の男が、顎に手を当てて一人納得した風に頷いている。

(それって出世って呼ぶようなものなの?)
 ミスリアは疑問に思った。
 周囲の感嘆の声からして、どうやらこの人たちの価値観でいえばそういうことになるらしい。
 
「まぁ、生きてまた会えたのは素直に嬉しいわ」
 彼女はゲズゥの頬を両手で包んだ。
 背伸びをするヴィーナに合わせるように、ゲズゥが身を屈め――

 ――二人の唇が重なった。

(え……?)
 何が起きたのかわからず、ミスリアはただ何度も何度も瞬いた。

「えええぇええ!? 姐さん!?」
 露骨に動揺を表した男たちを、ヴィーナは無視していた。

 この類のことにまったく免疫の無いミスリアは、自分が何を見ているのかすらいまいちわからなかった。
 何かがくっついては離れるような音が、卑猥なモノに聴こえて、背筋がぞわぞわする。
 よくわからないけど、濃厚な接吻なのは間違いなかった。

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22:58:54 | 小説 | コメント(0) | page top↑
16.d.
2012 / 09 / 30 ( Sun )
 間もなくして姿を現したのは、十人もの男だった。多勢に無勢とはよく言ったものである。輪の形で、ミスリアたちは完全に囲まれていた。
 十人くらいならゲズゥには倒せるのではないか、と考えたりもするけれど、素人の考えは当てにならない。それに、目の前の敵を全員倒せたところでまた遭遇しないとも限らない。ここはやはり、山賊団の規模を把握した方が良いのだろう。

「うっひょー、久々のカモだぁ。連れ帰ったら姐さん褒めてくれっかな」
「何で姐さんがお前を褒めンだよ。南を見て来ようって提案したのオレだかんな」
「どうでもいいけど何だこの組み合わせ。珍しくね? 駆け落ち? 兄妹で家出?」
「普通、お嬢ちゃんはこんな危ねートコ居ないよなー」

 男たちは余裕綽々と互いにお喋りを始めた。各々、手に何かしら武器を持っていて、隙が無さそうなのは素人の目にもわかる。
 彼らは全員、その気になれば簡単に背景に溶け込めそうな濃い緑や紺色の服を身に纏っていた。
 先刻言われた通りにミスリアは始終黙っていた。けれども無意識にゲズゥの背に隠れ、彼の灰色のシャツの裾を握った。

「金目の物持ってなさそーだけど」
 ミスリアの視界の右端に居る男が、じろじろと嘗め回すようにこちらを眺めている。
「何だっていいだろ。山に入った人間をどうするかは頭が決めるこった」

 中心の、十人の内のまとめ役らしい男が前へ出た。多分二十代後半くらいの歳だろう。ゲズゥ程ではないけど背が高く、同じく細身の筋肉質といった体型である。
 彼の、顔の左半分の凝ったデザインの刺青が何よりも目に付いた。
 刺青の男は直刀をスラッと抜き、その先をゲズゥの顎に当てた。

「お前結構デキるみたいだけど、変な真似しないでくれよ。大人しく付いてきてくれたらヤサシクするぜ。余計な傷も付けないでやるから、どうよ」
「…………」
 瞬きの一つすら、ゲズゥは微動だにしない。
「無言は肯定と受け取るぜ。お前ら、コイツの武器一応没収しとけ。んで、二人とも適当に縛っとけ」
 刺青の男は武器を鞘にしまうと、顎で仲間に合図した。

「うーい」
 近くに居た男二人が手際よく、ゲズゥの腰の短剣と背中の大剣を引き剥がした。
「にしてもデケー剣だなぁおい。こんな形初めて見たぜ」
「重っ……。こんなん振り回せんの?」
 男たちはブツブツと呟き合った。

「お嬢ちゃん、そんな怯えなくてもいいぜ。別に殺しやしねーさ。すぐにはな」
 背後からそんな言葉をかけられ、ミスリアは震えが増した。縄をかけながら触れてくる手の感触が、気持ち悪い。
 ゲズゥを見上げると、彼は気付いて目だけ動かした。何の感情も映し出さない、黒曜石のような右目と一瞬だけ目が合うと、不思議とミスリアの不安も和らいだ。

「アニキ……オレ、この野郎の方、どっかで見た気がするんだけど……」
 若い男の一人が難しい顔をして呟いた。
「んー? ムカつく顔だよなあ。オレもどっかで見たことあるような気はするけどな――」
 刺青の男は振り返り様に、ゲズゥを殴り飛ばした。悲鳴を上げそうになるのを堪えて、ミスリアは息を飲むだけに留めた。

「ま、その内思い出せばいいってこった」
 男は興味をなくしたようにさっさと先を歩いてしまった。
 ゲズゥは血の混じった唾を吐いた。

 彼はミスリアに向かって、声を出さずに唇だけを動かした。その意図を受け取って、ミスリアは小さく頷いた。
 ――「治すな」――それは、聖女だと知られたら面倒が増えると言う旨のことだった。

_______

 二日二晩、連れ回された。
 道中、何度か魔物に襲われたりもしたけれど、そこは流石は組織である。十人の山賊は巧みな連携を用いて、あっという間に敵を倒した。いっそ感心を誘う手並だった。
 彼らの存在が山中の動物に知れ渡っているのか、熊や山猫に至っては近付いてすら来なかった。ミスリアは洗練された集団の凄さを見せ付けられた気分になった。

 そうしている内に、件の洞窟の入口の一つに、一同は着いた。
 時刻は既に深夜である。疲弊しきっているのに眠くないのは、それに勝る緊張感からだろう。
 林道が途切れるまで山肌を回り、崖を降った所の、岩と岩の間に隠されたような場所に入口はあった。そこにあるとあらかじめ知っていなければ絶対に見つけられないような位置である。

 洞窟の中を歩くと、三十分後に広い場所に出た。
 冷たく湿った空気が微かな風にかき乱されている。
 天井がどこか開いているのか、月明かりが広場の中心を明るく照らしていた。

「ただいまー。ヴィーナ姐さん、いるー?」
 刺青の男は見張りの男に手を振った。
「いるわよ」
 奥の暗闇の中から女性の声がした。

「お帰り。あの人ならまだ戻ってないわ」
 おっとりとした、急がない話し方だった。

 シャラン、と宝石やアクセサリー類特有の音を立てて、女性は影から踏み出した。
 月明かりに照らされたのは目を疑うほどの絶世の美女だった。

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21:42:51 | 小説 | コメント(0) | page top↑
16.c.
2012 / 09 / 29 ( Sat )
 吹き抜ける突風に、心臓が縮み上がった気がした。
 汗の雫が額から頬を伝った。
 時折聴こえる鷹の鳴き声が、やけに大きく鼓膜に響く。
 
(た、高い――)
 後ろを振り返っては駄目だと、ミスリアは何度も自分に言い聞かせた。
(何でこんな、落ちたら気絶も即死も出来ないような微妙な高さなの)
 きっと内出血でじわじわ死ぬか、獣か魔物に喰われて死ぬか――どの道、まともな最期を迎えられるとは到底思えない。

 三日前に決めた通り、ゲズゥとミスリアは山肌に沿って踏み進んでいた――
 
「情報によると教団の人間は大体北へ迂回して遠回りするそうです。私はできれば時間がかからない方を望みます。ゲズゥは何かご存知ではありませんか?」
「……確かユリャンの中央辺りに洞窟がある。そこを通れば一週間程度で楽に山脈を抜けられるが」
「が?」
「賊が張っているはずだ。無茶苦茶な通行料を要求されるらしい」
「大金ですか」
「もっと悪趣味だ。前に話していた知り合いが、旅の連れの一人を売られて、もう一人は腕一本失くしたと言っていた」
「そ、それは、困ります」
「山から下りずに南から回れば余分に二週間はかかるだろうが、山賊を完全に退けられるかもしれない」
「ではその行き方で――」
「……そこは、熊か大山猫が出ると聞く」
「熊!? 他に選択肢は無いんですか!?」
「無い」
「そんな……」

 ――結果、南へ進むことになった。

 道と呼べるような道はほとんど無かった。二人は腰まで来る長い野草を踏み分け、時には岩を登り、山肌を覆う森を突き進んだ。
 幸い、これといった野獣や魔物には遭遇していない。その点を不審に思うべきかどうかはまだわからない。

 ふと、ミスリアが足を踏み外した。
 何か掴める物を求めて両手を振り回したが、運悪く何も無かった。

(落ちる――!)
 最悪の事態を恐れて目を閉じるものの、体は宙に浮かなかった。代わりに、手首が強い力で掴まれた。
 目を開くと、ゲズゥの左右非対称の目と視線が絡み合った。

「ありがとうございます」
 思わずお礼を伝えた。
 ゲズゥは片手でミスリアを引っ張り上げ、次いで両手で抱え上げた。足首を器用に樹の根に引っ掛けて体重を支えている。

 ミスリアを腕に抱えたまま、彼はまた歩き出した。慌ててゲズゥの首に腕を回すと、汗が手に付いた。お互い動き回っているせいで体温が上昇している。

(今更だけど、やっぱりこれは恥ずかしいわ)
 勿論、その為の供でもある。ミスリア一人だったら目的地へ着く見込みが全く無かったであろう旅だ。
(軽々と運ぶんだもの。子供を抱き抱えるのに慣れてるのかしら?)
 そう考えると納得できそうなものだけれど、どこかイメージが合わない。

 草や藪や樹の入り混じった森を進んでく内に、大分標高も高くなっている。
 それまで枝を手や短剣で押し退けていたゲズゥが、手を止めた。途端に、道が開いたのだ。
 ゲズゥは眉間に皺を寄せて近くの枝を調べるように手に取った。

「どうしました?」
「切り口が新しい。奴らの縄張りは思ってたより広いらしいな」
 枝には切られたような痕があった。それは野獣や魔物ではなく、道具を使う人間が、この道を通ったことを物語っている。
「では、熊や魔物が出なかったのも……」
 山賊が原因なのだろうか。

「黙っていろ」
 ゲズゥはミスリアを下ろし、耳元で囁いた。
 耳に熱い息がかかって、ミスリアは反射的に小さく震えた。

「抵抗するな。捕まった方がかえって好都合になり得る。組織の規模や状況がわからないことには始まらない。どの道、今は逃げるのは不可能だ」
 低い声が、鼓膜を打った。
「……わかりました。私にはどうしようもできませんから、貴方の判断を信じます」
 ミスリアは素直に深く頷いた。

「あまり他人を信じると、いつか身を滅ぼす」
 彼はミスリアから離れて、鼻で笑った。
「ゲズゥは私にとって『他人』ですか?」
 どうしてそんなことを訊いたのか、自分でもよくわからない。利害が一致するだけの関係だと昨夜言われたのを、気にしてのことだろうか。

 一瞬、彼が自分を捨てて山賊の仲間入りを選ぶのではないかと頭を過ぎった。しかしそうなっても、詰る資格が自分にある訳が無い。

 ゲズゥは眉を吊り上げるだけで、何も答えなかった。
 そして彼がミスリアに背を向けたその時、周囲が一気にざわついた。

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18:33:51 | 小説 | コメント(0) | page top↑
16.b.
2012 / 09 / 28 ( Fri )
「魔物に怯えなくていい世界ってさ、どうすれば実現できると思う?」
「怯えなくていい世界……ですか? カイルサィートさん」
「そう。本当は魔物の居ない世界が理想なんだけど、それは人類の歴史とこの世の仕組みを見る限りは不可能そうだから。あと、カイルでいいって前から言ってるんだけどな。敬称も要らないよ」
「すみません」
 謝るミスリアに対して、カイルサィート・デューセは爽やかに笑いかけた。
 
 初めて実践訓練で彼と同じ班になった時のことだ。対象の魔物を無事に倒し、浄化も終わったばかりで、全員が帰路に着いた。最後尾で二人並んで歩いていたら、話しかけられた。
 同期の中でも幼かったミスリアは、当時十二歳。もともとあまり社交的と言えないミスリアは六つ年上の異性とは話が合うはずも無いと考え、それまで必要以上に口をきかなかったのだけれど。
 
「ミスリア、君はどう思う?」
 カイルの琥珀色の瞳の後ろには理知的な光があった。

 容姿や性格が特別目立たない彼は、聖気の扱いに秀でているか戦闘術に長けているということも無く、全ての聖典を網羅している風でもない。ゆえに他の同期生からは注目を浴びない。ところが実践訓練で一緒に組んでみてわかったが、彼はバランス良く何でもできるタイプだ。しかもどうやらかなり頭が良いらしい。
 
「そうですね。純粋に魔物の居ない世界が不可能だとすると……。『怯え』がポイントなら、『安心』できる世界を造れば良いと思います。いつどこに魔物が現れてもすぐに対応できるように結界や戦力が揃っていれば、人々は守られていることに安心するはずです」

「その考えには賛成。ただ問題は、教団が万年人手不足で魔物狩り師もあまり数が多くないことかな」
「確かに厳しいですね……」
「とりあえずは満たすべき条件を考えてみたんだけど、聞く?」
「はい」
 
「一つ目は、当然だけど、聖獣の復活。世界から完全に魔物を根絶やしにすることは不可能でも、数を大幅に減らす必要はある。
 二つ目は、魔物がよく出現する場所と出現しそうな場所を常に把握すること。といっても出現しそうな場所なんて『瘴気が濃い』と『死人の魂が多く浮遊してる』場所以上に絞りようが無いけどね。それでもう一つ条件があるんだけど……これが可能かどうか、或いは正しいのかすら、僕にはわからない」

「何ですか?」
 いつの間にか真剣にカイルの話に耳を傾けていた。
「それは――……」
 
_______
 
 回想から戻って、ミスリアは目の前の少年をもう一度まじまじと見つめた。
 どうして忘れていたのだろう。カイルが語っていたのは彼自身の仮説でしかなかっただろうけど、現実的で明白な手段だった。去り際に口にしていた「思うところ」も、これに関連していたのかもしれない。
 
「私には何とも言えませんけれど……トリスティオさん、貴方が求める答えを、知っていそうな人になら心当たりがあります」
 今のカイルなら、あれからもっと具体的な対策に辿り着いていたとしても何ら不思議は無い。
「いつか集落を離れる時があれば、聖人カイルサィート・デューセに会ってみてください」
 
「聖人……?」
 訝しげに訊き返すトリスティオに、ミスリアは頷いた。
「わかり、ました……覚えて置くっす」
 複雑そうな表情を浮かべている。昨日の今日で、無理も無い。
 トリスティオはいつの間にか隣に来ていたゲズゥの姿を見上げ、深々と頭を下げた。
 
「気を付けて下さい。特に山奥に入ると山賊の縄張りっすから」
「注意します。お世話になりました」
 無言の姿勢を貫くゲズゥの代わりに、ミスリアが礼を返した。
「や、こちらこそ」
 もう一度互いに礼をして、そうしてあっさりと別れは済んだ。
 
 去り行く少年の後姿を見届けてから、ミスリアは地面に膝を付いた。
 失われた命の為に追悼の祈りを捧げ、皆の魂の安息を願った。
 それが終わると、今度は自分の願いを心の内に唱えた。
 
(どうか、私に先へ進む勇気を下さい)
 ミスリアは聖獣か神々か、それとも亡くなった人間に願いかけていたのかもしれない。自分でもはっきりとはわからない。
 隣を見やると、不安や恐怖とは無縁そうな青年が無表情に遠くを見ていた。
 
「行きましょうか」
 ミスリアがぽそっと呟く。
 返事の代わりに、ゲズゥは歩き出した。

拍手[2回]

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06:20:24 | 小説 | コメント(0) | page top↑
16.a.
2012 / 09 / 24 ( Mon )
 山の上から眺める夜明けの色合いはたとえようも無く美しい。感嘆していたら、ちょうど白い鳥の群れが視界を過ぎった。
 澄んだ空気を肺一杯に吸い込むと、未だ昨晩の疲れが癒えない身体にも多少の活気が戻る。
 下へ視線をずらせば濃い緑色が辺りを占め、麓にあるはずの民家を隠している。

 その情景を目に入れたまま、ミスリア・ノイラートは自分の肩より少し長い、茶色の髪を指で梳いた。寝癖の所為かいつも以上にウェーブ髪がしつこく絡まりあっている。梳き終えると、ポニーテールに束ねた。

 ミスリアにしては珍しく、ズボンを履いた旅装姿である。
 アルシュント大陸では女性のズボン姿はあまり受け入れられていない。職業か稼業がそれを必要としているならともかく、淑女は決まってスカートを履くものとされている。
 しかし今は世間の目も無いし、山越えをするからには、動きやすい格好でいなければならない。

 大体の支度を終えたミスリアが振り返ると、ゲズゥ・スディルが同じく旅支度を整えていた。
 彼は父親の形見だという曲がった大剣を丁寧に拭っている。
 青年の整った横顔につい見惚れていたら、その顔が何かに気付いたようにこちらを向いた。

「お、お早うございます」
 ミスリアは本日最初の挨拶をするも、これといって返事は無かった。
 よく見れば、彼の黒い右目はミスリアを捉えていない。眼差しは左後ろへと通り過ぎている。
 その視線の先を追った。

「あ!」
 そこには昨夜会った、トリスティオと名乗った黒い巻き毛の少年が立っていた。相変わらず足音が静かである。
 初めて姿を見かけた時とほとんど変わらない格好で、俯いている。そのためか顔に陰りができて表情が良く見えない。

(って、あれ? 昨日とほとんど変わらないどころか……もしかして着替えてすらいない?)
 泥や返り血やらの痕と思しき汚れの付着した服と弓矢を見て、そんなことを思った。

「あの」
 意を決したように、少年は顔を上げた。
 彼の目の充血具合を見るに、一睡も眠らなかったのではなかろうか。夢すら見ない深い眠りを経たミスリアとしては、妙な罪悪感があった。
 けれども彼は、自分の両足で立っている。昨日の今日だというのに、賞賛すべき精神力だ。

「はい」
 ミスリアはただ一言、返事をした。
「……昨日は助けて下さって、ありがとうございました!」
 一度姿勢を正してから、トリスティオはがばっと頭を下げた。
「え? あ……いえ」
 急なことに、思わずしどろもどろになる。ゲズゥを見やると、彼は無関心そうに大剣の手入れを継続していた。

「なんか昔から何かあると余所者の所為って事になってて、皆はあんなでしたけど、でも助けて頂いた事に変わりありませんから! ちゃんとお礼言わなきゃって思って追ってきました。まだ近くに居てよかった」
「そんな……お気になさらないで下さい。私は無力でした。結局、救えなかった命も……」
 語尾に向けてミスリアの声は沈んでいった。

「いいえ。レネも、他の人たちも、おれが不甲斐ないからああなったんす。聖女さんが気にすることないっすよ」
 ミスリア以上に、トリスティオの声は暗い。
「……おれが子供だった頃はまだ魔物なんて全然少なくて、平和でしたよ。魔物狩り師になりたいって言ったら、バカなこと言ってないで畑を手伝えって大人たちに笑われてたんす。でもレネだけは笑わないで、応援してくれた……」
 懐かしむように、彼の口元が綻んだ。
「そう、だったんですか」
 後に魔物の数も増えて、周りも態度を改めたのだろうことは想像できた。

「生まれ育った場所を、仲間を、やっぱり守りたいって思うから、おれはまだ此処に残って、強くなります。レネの学校を開く夢も、代わりに叶えてやる方法が無いか、探したい。居なくなったなんて……全然そんな風には思えなくて……」
「……はい」
 他に、なんて声をかけてやれば良いのかわからなかった。亡くなった人がいつまでも傍に居る感覚を、ミスリアとて良く知っている。

「トリスティオさん……貴方にこんなことを言って良いのかわかりませんけど」
「なんすか? 遠慮しないでどうぞ」
「私がツェレネさんにあげると言った祈祷書があるんですが、あれを一緒に」
 葬ってあげて欲しい、と言おうとして詰まった。

「そうっすね、きっとその方がアイツも喜ぶっすよ。うちは火葬の風習があるんで燃やすことになりますけど」
 言い終わらなかったが、トリスティオはそれを察した。苦々しい顔をしているのは、遺体の状態を思い出したからなのかもしれない。
「構いません」
 たとえちゃんと供養してもらえても瘴気の濃い場所では魂が魔物に転じることはある。それを心配してのことだ。シャスヴォルの兵隊長にしたようにミスリアが自ら葬式を執り行う訳には行かないから、せめて神々と縁の深い祈祷書を一緒に葬らせる。
 
「聖女さん、一つ訊いていいっすか」
「はい」
 ミスリアは神妙な面持ちになった。トリスティオの森色の瞳が、微かに怨念の炎を宿したからである。

「魔物がいつどこで現れるのかは、予測できないものなんすよね。じゃあ人間は、一体どうすれば後手に回らずに済むんですか?」
「それ、は……」
 責め立てるような目に、ミスリアはたじろいだ。

 問いの答えを、ミスリアは知らない。
 魔物を阻んだり倒したり消滅させる方法は研究されているのに、現れる場所を特定する術は未だに存在しないのだ。ましてや、出現するのを阻止する方法なんて。

 だったら、情報を掻き集めて何とか対策を立てればいいのだろうけど。そこまでは修行で教えられないし、巧いやり方が開発されていないのかもしれない。
 たとえば今考えろと言われても思いつくものではない――

 ふと、友人の声が頭の中で響いた。

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23:38:52 | 小説 | コメント(0) | page top↑
15.j.
2012 / 09 / 22 ( Sat )
 しばらく平和だった場所に魔物が急に現れたのは偶然かもしれないし、必然だったかもしれない。
 魔物は性質上、聖気に惹かれて寄ってくる。自分が事の元凶だった可能性はどうしても否めない。
 考え出すとそうとしか思えなくなり、両手で頭を抱え、髪の毛をかき乱した。

「……彼女の未来が絶たれるくらいなら、私が代わりに死ねば良かった!」
 半ば自暴自棄、半ば本心からの言葉を吐き捨てた。
 将来の夢を持たない自分と、夢を持って輝いていた少女とでは、早世して可哀相なのは後者だ。自らの聖女としての使命と意義は、棚にあげるとして。

 無意識の独り言に、返事があった。

「馬鹿馬鹿しい」
 頭上から降ってきた苛立ちを含んだ声色に、ミスリアは少なからず驚いた。
「もしお前が代わりにやられていたとしてあの娘が死なずに済んだのか? 助かったかもしれないが、結局死んだかもしれない。正解の無い仮定を立てても時間の無駄だ」
「それはそうですけど」
 ミスリアは顔を上げた。距離は近いのに、暗過ぎてゲズゥがどんな表情をしているのかは見えない。

「単にお前が生き延びてあいつが死んだという事実があるだけだ」
 彼のあまりに冷淡な物言いに、ミスリアは身震いした。
「……恐ろしいほど正しくて、理にかなったことを言うんですね。私はそんな風には割り切れません。私とさえ出会っていなければって、どうしても思うんです!」
 つい身を乗り出し、ゲズゥに食って掛かった。普段なら考えられないことだが、今のミスリアは相当気が滅入っている。

「ならこれからはずっと野宿して行けばいい。何処の村や町とも誰とも関わらずにな」
 ミスリアに釣られているのか、ゲズゥもいつになく大きな声を出している。
「最悪、そうします。私は今まで甘かったんです」
 唇をきつく引き結んで答えた。

「お前のその責任感が、馬鹿馬鹿しいと言っている。聖女が与える恩恵はそれ以上に価値の無い物か? 世界とやらを救いたければ、犠牲にいちいち反応するな。所詮その程度の覚悟か。それこそ甘い」
 漆黒の前髪が揺れて、ゲズゥの呪いの左眼が顕になっている。光源は無いのに金色の斑点だけが光沢を放っているように見えたのは、錯覚かもしれない。

「私はっ……! 世界を救いたくて旅に出たんじゃありません!」
 視線を逸らさず、言い放った。
「じゃあ何の為だ!」
「言わなければいけませんか!?」
 夜を裂いてしまいそうな叫び声をあげて、ミスリアははっとなった。

 どこからか、小動物が逃げる音がする。
 後には奇妙な静寂が残った。
 やはり暗くてわからないけれど、ゲズゥが驚いた顔をしているみたいに感じた。

(どうしよう)
 ミスリアは俯き、袖で涙を拭った。
 思えば――言い方はひどいけれど、ゲズゥはウジウジと自責の念に囚われていた自分を諭してくれていただけである。
(私の方からこんな旅に巻き込んだんだもの)
 真意ぐらい話すべきだろう。でも、心の準備がまだ出来ていない。話せばまた、馬鹿馬鹿しいと一蹴されそうでもある。

 逡巡していたら、長いため息が聴こえた。
 ミスリアは反射的に顔を上げた。どうしたんですか、と訊いていいものか迷う。

「……十九年生きて、こんなに喋ったのは初めてな気がする」
 いつもは無機質な印象を与えがちな低い声が、この時は明らかな呆れを帯びていた。
「わ、私もこんなに怒鳴ったのは生まれて初めてです……」
 似たような告白を、ミスリアも返した。何故か恥ずかしくなって目を逸らした。

「別に、理由なんて言わなくていい。俺とお前は、互いを生かすという利害が一致する関係だ。それ以上の思惑を共有する必要は無い」
 もう一度ため息をついてから、ゲズゥは立ち上がった。
「………………はい」
 ミスリアは頷きながらも、少しだけ、寂しさが胸を突くのを感じた。

「それより、もう寝る」
 再びゲズゥはミスリアの首根っこを掴んだ。
「え」
「ここに居たら狼に襲われる」
 それだけ言うとゲズゥは傍の樹を登った。ミスリアを一本の枝に置いていき、彼自身は逆側の太い枝の上で横になった。

(狼って……)
 此処からは危険なユリャン山脈に入らねばならないのだと、今更ながらに思い出した。
 今だって、朝日が昇るまでにまた魔物に襲われるかもしれない。ちゃんと休めるか不安になる。

「あの、狭い範囲でなら、数時間ほど結界を張れると思います」
「……」
「カイルに水晶は預けてしまいましたけど、聖人と聖女のアミュレットには小さな水晶がついてますから」
 十字の形に似たアミュレットの左右の棒がちょうど下に曲がったところに、それぞれ紫色の水晶が付いている。滅多なことが無い限り、なるべく使わない決まりである。また、水晶は貴重なので、これは聖人聖女以外の他の聖職者のアミュレットには無い。

「狭いって、どのくらいだ」
「えーと、今の私に残る力だと、人一人囲めるくらいでしょうか……」
 そこまで言って、言いだしっぺのミスリアは肩を落とした。一人しか囲めないのなら結界を張る意味が無いに等しい。
「なるほど」
 その一声の後、本日三度目にミスリアは首根っこを掴まれた。

(私は猫じゃないのに――)
 抗議の一つも出来ない内に、今度は何か暖かい所に落とされた。

(ええぇえええ)
 そこはゲズゥのお腹の上だった。ミスリアはぎょっと驚いて身じろぎしたが、落ちないようにか、いつの間にか腰回りをきつく抱かれている。
(これなら一人分の広さでも二人囲めるけど!)
 慌てるミスリアに対して、ゲズゥは今にも眠りそうな様子でくつろいでいた。片腕で枕を作って、多分目を閉じている。

 こうなってはやむをえない。
 これは生きる為に必要なこと、意識してはダメ、と自分に言い聞かせながら。

 ミスリアは水晶に祈りを捧げ、結界を組み立てた。
 それが終わると同時に自分の意思とは無関係に、ゲズゥに重なるように前に倒れ込む。

 この体勢はマズイ。何とかどかなきゃ、みたいな考えが頭を過ぎるけれど、疲れと眠気で動けない。

 一定のリズムをもって上下する温もりと心音の心地よさに、ミスリアは身を委ねた。

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21:16:40 | 小説 | コメント(0) | page top↑
15.i.
2012 / 09 / 19 ( Wed )
 魔物は瞬時に大人しくなった。
 念のためにゲズゥは短剣を抜き、羊女の首を掻っ切った。血飛沫のようなモノが吹き出ても、魔物はそれでも暴れない。

 矢に射抜かれた箇所を中心に粒子化が進んでいるのを認めて、ゲズゥは魔物の背から飛び降りた。完治からは程遠い身体が軋む。
 そこから先ずは地面に両手を付いている少女の元へ行った。

「近付いて浄化しなくていいのか」
 ミスリアの傍らに立ち、訊ねかけた。山羊男も羊女も不動のまま質量が減って小さくなっているが、まだ油断はできない。
「……たぶん、大丈夫……だと、思います」
 普段は澄んでいる少女の声も今は掠れている。

「……そうか」
 ゲズゥ以上に魔物という存在を理解しているはずのミスリアがそう言うなら、信じて良いのだろう。
 原理は良くわからないが、彼女が相当な無理をして援護してくれたのもなんとなく感じ取れる。

「ぐ……うっ…………レネ……!」
 弓矢のガキは覚束ない足取りで無残な亡骸の傍へ駆け寄った。
 一連の流れに呆気に取られていた集落の人間も負傷者の手当てをし始め、犠牲者の死を嘆き出す。最初の赤毛の娘以外に、何人かが山羊男にやられたらしい。それ自体は、ゲズゥにとってはどうでもいいことだった。

 魔物が二体とも完全に消えるのを見届け、次にミスリアを見下ろした。
 悲しみに濡れた茶色の瞳が瞬き、涙が白い頬を伝っている。
 他に魔物の気配を感じないか訊くべきだという考えが、ゲズゥの脳裏を過ぎった。だがその問いは無意味だと判断する。他に魔物が居ようが居まいが、もう知った事ではない。

 ――もう少し休ませてやりたい気持ちも無くは無いが。
 ゲズゥは大剣を背負い直すと、ミスリアの首根っこを掴んだ。

「な!? 何ですか」
 少女の驚いた顔が見上げてくる。
「引き上げる」
 荷物が半分ほど部屋に置きっぱなしなのが惜しいが、この際諦めるしかないだろう。

「でも怪我をされた方の治癒をしないと……!」
「無駄だ。こうなった以上、俺らに居場所は無い」
 逃れようと抵抗するミスリアを、彼は両手で抱え上げた。
 庭は集まってきた大勢の人間の声でざわついている。

「どうしてこんなことになったんだ!」
「何週間も魔物なんて出なかったのに……」
「余所者を迎え入れたからだ。他に理由なんて考えられないだろう!?」
「そうね、そうに違いない。聖女さまだからって気を抜いたわ」
「あの二人の所為でこんなことに!」

 予想通りの非難の声と睨み付ける視線。実際に二人の所為だとしてもそうでなくとも、魔物を倒した功績も、もはや関係無い。
 困惑するミスリアを無視して、ゲズゥは山へ向かって走り出した。

_______

 道が途切れて既に三十分以上は経っている。
 こんな暗闇の林の中をこうも速く走れる人間はきっと他に居ないだろう。それもほとんどが斜面だ。自分を抱えて走る長身の青年を一瞥して、ミスリアは場違いな感心を覚えた。

(何だか逃げてばかり……)
 それも今回はシャスヴォルから逃げ出た時とは事情が違う。一体自分たちは今は何から逃げているというのだろうか。
 世間から追い出されたような疎外感を感じ――「天下の大罪人」と呼ばれるゲズゥは何時もこんな気持ちなのかと想像する。否、彼の孤独はこんなものではないはずだ――

「きゃっ」 
 急に取り落とされたように下ろされ、ミスリアは慌てて地に立った。
 振り返るとゲズゥは樹の根元を背に座り込んでいた。ひどく咳き込んでいる。見た目以上に重傷を負っているのかもしれない。

(治さなきゃ)
 ミスリアは歩み寄り、手をかざした。気力を使い果たして億劫だが、かろうじて聖気を展開できた。いつもよりは弱々しい光で傷だらけのゲズゥを包む。

 どれ程の間、そうしていたかはわからない。途中で何度も集中が途切れそうになるのを必死に堪え続けた。これくらいの労力は守ってもらう上での当然の対価である。
 やがて、ゲズゥが「もういい」と手を振って示した。それを待っていたかのように体中から勝手に力が抜け、ミスリアは地面にへたり込んだ。

(なんて一日……)
 今朝がものすごく遠い昔のように感じられる。
 今日の出来事を思い出しただけで疲れが増した。
(……たすけ、られなかった……)
 そしてツェレネの最期が生々しく脳裏に蘇った。ミスリアは反射的に口を覆う。

「私の、所為」
 涙が零れたのも、唇から言葉が漏れたのも、無意識からだった。

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