17.d.
2012 / 10 / 29 ( Mon )
「他の奴らには黙っててやるから、そのかわり、訊きたいことがあんだよ。別に今晩答えてくれなくてもいいからさ」
 低くなっていた声が、元通りに戻っている。心なしか笑っているようにすら思える。

 無害そうで、実際はほぼ逃げ場の無い提案だった。
 ミスリアが魔物を呼んだにせよ呼ばなかったにせよ、この男がこんな考えに辿り着いた以上はそれだけで波紋を広げるには十分である。味方が誰一人として居ない状況で、言いがかりを否定する力は皆無だ。
 しかも、請け負ったところでこの男が口約束を守る保証も無い。

 ミスリアはようやく、ゲズゥの後ろから踏み出した。

「……いいでしょう。私に答がわかる問いであれば、ですが」
 少女の貼り付けられた笑顔を見て、本当に魔物を呼んだのだな、とゲズゥは察した。
「わかるだろ多分。じゃ、部屋はここだ。厠はあっち」
 男は右を指差した。

「明日にでもまた話そうぜ……えーと、ミスリア嬢ちゃん」
 ゲズゥに向けては頷くだけで、名を呼ばない。
「……案内ありがとうございました」
 性分なのだろう、ミスリアは丁寧に礼を言い、お辞儀までした。模様の男の姿は闇に溶けて消えた。

 連れて来られたのは、殺風景な部屋だった。唯一のベッドはミスリアに譲り、床には毛皮のラッグがあるので、ゲズゥは迷わずそっちを選んだ。黄金色の毛皮は、山猫のものだろうか。暖かそうだ。
 
 ミスリアが隅の水瓶をじっと見つめている。何がしたいのかと訊ねたら、寝る前に手を洗いたい、でも重そうで自分では持ち上げられない、と返事を返された。
 ゲズゥは屈んで、水瓶を持ち上げた。

「…………お前が魔物を呼んだと言うのは」
 人の気配が無いことを確認してから、口を開いた。
 傾けた水瓶の口から、水が流れる。

「理論上は可能だと、カイルが教えてくれました。それを試したまでです」
 目線を手元から離さず、ミスリアは手を擦り合わせて洗っている。
「あくまで理論上の話で、実践訓練などで教えられるような技ではありません」
 そう続けて、どこからか取り出したハンカチで手を拭った。

 ゲズゥは水瓶を元に戻した。

 ――何故そんなことを?
 問い質そうかとも考えたが、ミスリアはこれ以上の会話を拒否するようにベッドに潜り、毛布に包まった。白い毛布からは彼女の髪の栗色だけがはみ出ている。

 後で聞き出せば良い。
 そう判断し、ゲズゥもラッグの上で眠りに落ちた。

_______

 ふと、目を覚ましたら――淀みない暗闇の中で浅い泉に立っていた。膝までの深さである。

 肌に水が触れているという曖昧な感覚があるだけで、足元を見下ろしても何も視認できない。
 水が冷たいのかどうか、温度の感覚も無い。
 訳がわからずに一歩踏み出した。

 音がしなかった。
 ならばとあることを試してみよう、と閃いた。
 左の掌に右手の指で自分の名前を書こうとするも、何度やってもうまくできなかった。

(字が形にならないということは、ここは夢の中なのね)
 ミスリア・ノイラートは納得した。勿論、字を書いてみれば夢かどうかわかる、というのは友人に教えてもらったマメ知識みたいなものだ。
 さて夢だとわかったからにはどうしようか、とのんびり考える。自覚しながらなんて、滅多に見れない類の夢だ。

(好きなものを登場させて楽しもうかしら……)
 俄かに視界が明るくなった。両目を手で覆ってやり過ごす。

「お姉さま!?」
 手をどけたら、目の前に懐かしい姉の姿があった。
 ミスリアと同じ栗色のウェーブ髪と、茶色の瞳。

(夢だから会えているだけ? それともお姉さま、何かを伝えようとしてるの――)
 優しく微笑む姉に向かって走り出した。
 忽ち、笑顔が曇った。次第にそれは物憂げな表情になり、ついには姉は泣き出した。

「せいじょになってはだめよ」

 ミスリアは怯み、立ち止まった。
 そして悲鳴を上げた。

 姉の額が、音も無く半分に割れたのだ。しかしそれはもう姉ではなく、赤い髪の少女になっていた。空のように青い瞳が恨めしげに睨んでくる。
 ミスリアは泣き崩れ、口の中で幾度と無く謝罪の言葉を連ねる。

 ――ボタリ。

 唐突な音が、しじまに響いた。
 指の間から覗き見ると、誰かの首から剣を抜く人影がいた。女性のシルエットに思えた。
 どうやら、記憶がごちゃ混ぜになって再現されているらしい。

(この場面は……)
 女騎士が隣国の兵隊長を殺した時のものだ。
 人影は満足そうに剣に付いた血を眺め、やがて高笑いしだした。

 理解できない、むしろ、一生理解したくも無い心情である。
 ミスリアは拳を握り締め、唇をかみ締めた。

 人影は剣を手放さないまま、振り向いた。
 それはいつの間にか、無表情に佇むゲズゥの姿に成り変わっていた。

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