15.g.
2012 / 09 / 12 ( Wed )
 再び息ができるようになった頃、まだあの音は止んでいなかった。
 その上、額を割られた少女の映像が目に焼き付いている。
 ミスリアは何とか思考を巡らせようとした。しかしパニックで考えは何一つまとまらなかった。

(なんて――なんて理不尽)
(羊って上顎に歯が無いはずのに、あんな牙ありえないわ)
(ツェレネさんは若くて夢があったのに。出会ったばかりなのに)

 ――違う、そんなことを考えている場合じゃない――
 羊頭の魔物は、山羊頭の魔物と似た体の構造をしていながら、胴体は女性だった。ふっくらとした乳房に鮮血が滴っている。

(助けなきゃ。まだ間に合う?)
(キモチワルイ)
(理不尽だわ)
(山羊の方はどうなったの、ゲズゥは無事かしら)

 ――違う、違う、早く聖気を。
 魔物がふと、啜るのを止めた。
 緋色の双眸が宙をさ迷い、やがてミスリアの上に焦点を定めた。獣の顔に表情は無いが、何故か笑っているように見えた。
 
(こわい。死にたくない)
(体が動かない)
(死にたくない)
(助けなきゃ)

 アミュレットに触れさえすれば聖気は展開できる。幸い、羊の魔物が動きそうな気配は無い。
 なのに全身に全神経を集中させても、やはり動けないものは動けなかった。
 途方に暮れていたら、聴き慣れた声が耳を打った。

「やめておけ、アレは助からない」
 ゲズゥはミスリアの心を読んだかのような発言をした。

(そんな残酷なこと言わないで)
 助ける努力くらいするべきでしょう、と抗議しようにも声が出ない。泥沼に浸かっているみたいに体がだるい。
 絶望が、見えない錘となって降りてくる。

 もう間に合わない。
 とっくにそれを知っていた、それでも受け入れられなかった。
 否、現実感が無いのだ。吐き過ぎた疲れもあって、熱があるように頭がぼうっとする。目の前の惨状を、呆然と眺めるしかできない。

「のた打ち回っても無駄だ。強くなりたいなら戦え」
 ゲズゥが珍しく声を荒げている。
 すぐ隣で誰かが咳き込む音に気付いて、今の言葉がトリスティオにかけられていたのだと知った。
 ミスリアは目だけを動かしてトリスティオの姿を探し、うずくまる少年を見つけた。肩で息をしながらしきりに呻いている。

「死にたくなければ、動け!」

 その言葉を聴いた途端、ミスリアは叩かれたみたいな衝撃を受けた。
 泥沼に浸かる錯覚が霧散した。

「何だ! 魔物が出たのか!?」
「ツェレネ!? いやあああああっ」
 今になって長老の次男夫婦が家の中から出て、現状にそれぞれ反応をした。気を失った妻を、顔面蒼白な夫が支える。
「どうした!」
 周りの家からも、人が出て来ている。ぽつぽつと松明の明かりが増えて、魔物の青白いゆらめきが目立たなくなった。

(このままでは犠牲者が増える)
 ゲズゥが山羊の魔物に何度も斬りかかるのを目の端で捉えながら、ミスリアは深呼吸した。脱力している場合では無い。
 自分がまず生き延びなければ、誰かを助けることなんてできやしないのだから。

 「聖女」ならば、一般人を守るのが当然の役目だ。
 ミスリアはその為の術と経験を持ち合わせている。他の誰が怖気づいたとしても、自分だけは最後まで立っていなければならない。
 既に失われた命に関しては、ひとまずはもう考えないようにした。

 今度は体のどれかひとつでも、動ける部位を探すことに集中した。
 そして発見した。
 震えがひどいが、何故か左手だけは動かせるようだ。

(お願い、動いて。動け!)
 左手の中指の先が、曲がった十字に似た形のアミュレットに触れた。

_______

 山羊男は、思ったよりなかなかにしぶとい。
 いくつかの傷口から体液をダダ漏れにしながらもまだまだ動き回る。あの血液だと思っていたモノは本当は奴らにとってさして重要でもないのだろうか、などとゲズゥは考えた。
 腕を一本切り落としてやったのだから少しは怯んで欲しいところである。

 羊女の方は赤毛の娘を食べている間は大人しくしているだろうと踏んで、ゲズゥは先に山羊男を相手にしている。
 今のところ二体ともまだミスリアに興味が行っていないのが救いだが、それも時間の問題だろう。

 山羊男は一度雄叫びのような声を出してから、突進し出した。その僅かな間にゲズゥは思案した。
 魔物の爪や角も問題だが、何よりもあの足に踏み付けられたらまずい。ゆえに奴の攻撃を避けつついかに隙を誘えるかが今一番の課題である。

 仁王立ちになって剣を構え直したゲズゥは、にわかにあることに気付いた。
 茂みの中から集落の民が何人か、鍬や鎌などを持ってこちらへ近づいている。
 勇敢で結構だが、動きを見る限りは皆まるっきりの素人のようだった。これでは、惚れた女の死を目の当たりにして使えなくなっているそこのガキよりも足手まといかもしれない。

 ――いや、逆に利用できるとすれば。
 何か名案に辿り着ける気がしたが、もう山羊の角がすぐそこまで迫ってきているのでやめた。

 ゲズゥは左下へ跳び、剣を薙いだ。そうして、魔物の前足を刃で捉え、切り離した。
 馬であれば、そのまま地面へ崩れたことだろう。だが期待外れなことに、そうはならなかった。

 山羊男はいつの間にか新たな、しかも前よりも明らかに倍は長い、腕を生やしていた。その腕を地面に立てて体勢が崩れるのを防いだ。緋色の目以外は何も考えていないような寝惚けた顔をしているのに、それくらいの知能はあるということか。
 ゲズゥは畳み掛けに攻撃をしようとまた構えた。ところが山羊男はものの数秒で無くなった足を再生し、振り下ろされる剣をかわした。

 まったく魔物と言うのはデタラメで面倒な存在だ、とゲズゥは舌打ちした。

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