3. c.
2026 / 01 / 03 ( Sat )
「十一年生(ジュニア)の時に付き合った女」
 距離が近づいた瞬間、タバコの匂いがした。外で吸ってきたばかりなのだろうか。寝ている間もずっとまとわりついてくる香りの唐突な濃度に、心がざわついた。
 いや、それよりも、今の発言は聞き捨てならなかった。
「このひと、彼女さんだったの」
「三ヶ月で別れたけどな」

 本人は僅かに懐かしがって終わったようだが、シェリーはそうと聞いてそわそわした。
 数か月の仲とはいえ、こういう女性がタイプなのだろうか。滑らかそうな真っすぐな長い金髪に明るい青目をした、スレンダー体形の小顔美人。服飾店の前のマネキンと並んでお茶目なポーズを取っている。頭身が高く、モデルだって務められそうだった。どちらかというと平均女性より背が低くて丸い(顔も肉付きも)寄りのシェリーには羨ましい容姿である。

「今は、特別な人いないの」
 一拍置いて、ここぞとばかりに訊ねてみた。
 こんな踏み込んだ質問、はぐらかされても仕方ないと思ってダメ元で訊いたのに、あっさりと返答があった。
「いない。めんどくせえだろ、『恋人』って。金かかるし。特に付き合いはじめ前後の、あの腹の探り合いが面倒」

「は、腹のさぐりあい」
 交際経験がないシェリーには想像がつかない。
 リクターは大きく欠伸をした。
「何やってたんだ。掃除?」
「ちょっとね。お世話になってるから、これくらいはね」

「その服でか」
「え?」
 服がどうしたのかと視線を落とす。上は白い毛網みのセーター、下は母の趣味で買わされたロングスカートを履いていた。スカートは淡い色を並べた柔らかい生地のもので、洗濯機ではなく手洗い推奨のやや不便な一着である。見た目がどうというより、丸めるように畳むと場所を取らないので、その理由で選んで荷物に含めていた。改めて考えると、裾がくるぶしまで長い上にフリルが多くて家事をするには向かない。

 ところがこれには愛着もないので、汚れても悲しくない。シェリーはなんといえばいいかわからず、肩をすくめてみせた。
「そうだ、パスタみつけたから茹でようと思うの。いいかな」
「いいけどたぶんソース系ねえぞ。買ってくるか」
「オリーブオイルさえあれば形になるよ」
 あの黒い瓶、と彼はキッチンカウンターの端に向かって指を差した。

「ニンニクとかパセリは? 乾燥ものでもいいよ」
「上のキャビネット、左側」
 示された場所を確認してみると、ガーリックソルト、乾燥パセリ、そしてチリフレークもあった。加えて、さっきシェリーは冷蔵庫の中に賞味期限がひと月ほど過ぎたパルメザンチーズを見つけていた。

「これだけあれば大丈夫そう」
「そ。じゃあオレはシャワー浴びて寝る。晩飯前には起きるから」
「お疲れ様」
 また仕事のことを聞きそびれた――去る背中を見つめながら、シェリーは胸に巣くっていた漠然とした不安とモヤモヤが晴れゆくのを感じた。



 目覚まし時計などの音はしなかったのに、宣言通りにリクターは午後五時半には起きていた。寝足りないのではと問うと、こんな半端なタイミングで二時間以上寝る方がまずい、と彼は答える。
 通常結われている茶髪は無造作に肩の上まで流れ、しかも寝ぐせだらけだった。男は上下一式の着心地よさそうな紺色のスウェット姿で、眼鏡をかけ、またもや欠伸をする。そしてキッチンに入り、キャビネットからコップを取り出し、フィルター付きウォーターピッチャーの水をコップに注ぎながら、顎辺りを掻いている。

 異性と過ごす時間が極めて少なかった人生だったため、シェリーがそれが生えてきた髭を煩わしがる仕草だと気付いたのは、数秒遅れてのことだった。
 リクターは口元にコップを当てた状態で「なあ」とくぐもった言葉を発した。

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00:40:43 | 小説 | コメント(0) | page top↑
3. b.
2026 / 01 / 01 ( Thu )
(触ればわかる、か)
 ――わからない。そもそも自分は、恋と呼ばれるものを求めていたつもりはない。
 けれど食べ物を共有したことにも、触られたことにも、嫌悪感を抱かなかったのは確かだった。
 単に少女の頃の感覚の延長線上にいるだけな気もする。異性を知らない分、気持ち悪がっている余地もないというか、彼を異性と捉えているのかすら定かではないというか。

(うーん、雑念。よし、これ以上は考えるのはやめよう)
 着替えも終わり、髪を団子にまとめあげて、午前中シェリーはまずはトイレ掃除に勤しんだ。掃除道具はシンクの下という、わかりやすい位置に揃えてあった。
 昨夜はここで吐いてしまったという負い目があったからこそのチョイスだ。幸いなことに目に見えて便器に跡は残っていなかったが、それでも念入りに洗剤をかけてブラシで擦った。この廊下のトイレはおそらく客用だ。普段はそんなに使われていないのかもしれない、隅っこには蜘蛛の巣ができていた。

 昼過ぎになると、少しお腹が減った気がしなくもないので、勧められていた通りにシリアルをほんの少し食べた。シリアルは浮き輪の形をしたプレーンなものである。
 牛乳を出した際、冷蔵庫の空っぽさに驚いた。リクターがコーヒーは手間をかけて淹れるのに食には手間をかけないのがどうにも不思議だった。
 食べ終わってボウルも洗い終わると、他に何があるのか気になって、一応キャビネットを一通り見て回った。インスタントマッシュドポテトやパスタの箱がいくつか置いてあった。

(これは晩御飯に使えそう)
 食欲が無い時こその炭水化物である。少なくともチリドッグよりは、胃におとなしく収まりそうだった。
 暖房や冷蔵庫が発する機械音のせいだろうか、気が付けばぼーっと立っていた。今何時くらいだろうか。くるりと振り返ると同時に、人の居ない空間を見渡す。
 暗い考えが脳裏から這い上がってきた。

 ――このまま帰って来なかったら。
 母も、自分が一緒にいなかった間に亡くなった。再びすべてを失う恐怖が心臓を鷲掴みにした。
 違う――!
 根拠なしに最悪を想像しても仕方がない。

 身体の動きを止めたら沼に沈む。シェリーは己を奮い立たせて掃除を再開した。
 単調な動作を繰り返してキッチンカウンターを拭き、床にほうきをかけた。自分ひとりでアパートの闇に佇んでいた頃と比べて何かをしたいモチベーションを保ちやすいのは、誰かがここに帰って来てくれると信じるからだ。

 いつしかリビングの本棚の埃を拭いていたら、上の小さな段ボール箱に目が行った。
 なぜその箱が気になったのかはわからない。茶色で無地のただの箱だった。シェリーはつま先立ちに背伸びをして箱を取り下ろす。
 蓋が引っかかって、開けるのに苦戦した。弾みで飛び散った埃を吸い込み、咳が出た。
 咳がおさまるのを待ってから、箱の中身を確認した。

(写真? しかもこの上に束になってるのってポラロイド?)
 決して詳しくはないが、確かポラロイドはフィルムの値段が張るはずだった。これはご家族が撮ったものなのか、或いは――
 鍵が回る音と玄関扉が開く音がして、シェリーは写真の束からハッと顔を上げた。
 出た時と比べていくらか疲れの色を表した長身の男が、入口のところでブーツを脱いでいる。

「おかえり。無事だったんだね、よかった」
 安堵に笑って迎えると、リクターは首を傾げたようだった。仕事の呼び出しで出かけただけで、無事を危ぶまれるのに違和感をおぼえたのかもしれない。
「おまえこそもう元気そうだな」
「うん。心配してくれたの?」

「しないほうがよかったか」
「そんなわけない。ありがとう」
 頭をぶんぶんと振った拍子に、写真の束が崩れて箱から何枚から落ちた。慌てて拾い集める。
 荷物を床に置いた家主が、写真を覗き込んであっと小さく声を上げた。

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23:32:20 | 小説 | コメント(0) | page top↑
3. a.
2025 / 12 / 31 ( Wed )
(シャワーを浴びたら掃除でもしてみようかな)
 週末とはいえ、寝てばかりでは自堕落が過ぎる。この家に押しかけて三日目にもなって、ようやくシェリーは朝のうちに目を覚ますことができた。
 陽射しが眩しい、朝の九時半だった。家の主は未だに帰ってきていない。
 リクター不在の中、マスターベッドルームまで入り込んでシャワーを借りるのは気が引けるが、清潔さを保つためこれ以上この問題は先送りにできなかった。

「お邪魔します」
 忍び足で寝室に入ると、しんと冷えた空気に出迎えられた。ここでもタバコと香水の残り香が漂っている。黒と灰色の柄のベッドシーツの上に、脱ぎ捨てられたズボンや革ベルトがあった。リビングと同じで、片付いているとも散らかっているとも言えない、ほどよい使用感のある部屋だ。
 入口から右手奥に、寝室につながる形でバスルームがあった。踏み入ると、タイルの冷たい感触が足の裏をくすぐる。

 シェリーは先にシャワーを付けてから、バツが悪い気持ちで、急いで服を脱いだ。当然ながら、寒い。
 シャワーカーテンは面白味の無い、水色の無地のものだ。バスタブの数フィート上に取り外せないタイプのシャワーヘッドがある。自分も昔はこういう感じのシャワーを使っていたなと、懐かしくなった。今のアパートではシャワー室がバスタブと隣接している形だった。

 意を決し、カーテンをサッと開けて、湯に当たりに行く。
 荷物の中にシャンプーや石鹸は持ってきておらず、この場にあるものを拝借するしかなかった。どれも男性向けの知らないメーカーの製品ばかりだった。石鹸からはミントと、木材を彷彿とさせる香りがする。洗い流す間、終始落ち着かない気分だった。
 木材みたいな匂いは、ウィスキー或いはバーボンを連想させる。飲むのだろうか。だとしたら似合う気がする、などとくだらないことを考えながらお湯を止めた。

(このタイミングで帰ってきたら嫌だな)
 クローゼットの中に折り畳んであったタオルを一枚借りて、手早く髪や身体を乾かした。肌から漂う慣れない匂いに戸惑う。
 左手首を掠めた時、一瞬の鋭い痛みがあった。まだ塞がっていないのか、数日前にできた細い傷口を指先でなぞる。くすぐったいようなかゆいような感覚があった。

(そういえば昨夜……)
 どさくさに紛れて腕をつかまれた時の感触を思い出す。その時は気にしている余裕がなかったけれど、改めて意識してみると、妙な気分になった。
 あんな風に男の人に触られたのは初めてだ。引っ張る力の強さにも、革手袋越しに伝わった体温にも驚いた。
 シェリーは、何年も前にあったひとつの会話を思い出していた。



 大学生活が始まって間もない頃のことだった。ルームメイトは二人いて、片方は勉強一筋の生真面目なクリスチャン、もう一人はその真逆のタイプで、遊ぶのが大好きな明るい子だった。後者は男子にかなりの人気があって、その日も誰かから交際を申し込まれたという話をしていた。返事は保留にしたという。

「受ければよかったじゃない。いまあなた、これと決まった彼氏がいないのでしょう」
 真面目な方の子は男子に興味が無いことを名言していたどころか、「近付きたくない」や「理解不能」とすら言っていた。この手の話題には常にそっけなかった。
「悪い奴じゃないんだけどねえ。顔も好みっちゃ好み……なーんかピンと来ないんだよね、好きになれる気がしないっていうか」
「なら誰にでも思わせぶりな態度をとるの、いい加減にやめたら」

「アタシは普通にしてるだけなんだけどなあ。ね、シェリーはどう思う? 試しに付き合えばよかった?」
 今にして思えば、彼女にとって相談相手は誰でもよかったのだろう。シェリーに交際経験が無いと知っていて、話を振ったのだった。
「私は、好意を向けられるのは嬉しいけど、自分が同じくらいの気持ちじゃないなら付き合うのは失礼だと思うかな」

「でも知らないひとでも、付き合ってみたら案外好きになったりするもんだよ? 相性が良ければ」
「その相性とやらは、どうやってわかるのよ」
 もう一人のルームメイトは教科書に目を落としたまま話していた。
「触ってみればわかるよ。生理的に合わない人は、最初から最後まで無理だから。性格を好きになれても、異性の魅力を感じないのはどうしようもないんだ。恋愛として成立しない」

 それが彼女の持論だった。
 中学(ミドルスクール)の頃から試行錯誤を繰り返すように幾人も男性と付き合っては別れていたらしいが、最終的にちょうどいい相手に巡り会えたのかは、シェリーの知るところではない。




マスターベッドルーム伝わりますかね? 家主が使う一番大きい寝室。

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21:45:01 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2. f.
2025 / 12 / 30 ( Tue )
「もしかして私、口に出してた?」
「嫌いだったわけじゃない、辺りからな」
 思考を全部垂れ流しにしていたと知り、羞恥にカッと顔が熱くなる。
「ごめんなさい。つまらないよね、私の話ばっかり――いたっ!?」
 俯いた途端、後ろ頭をはたかれた。結構強い力だったのか目の前がチカチカする。

「つまんないなんて思ってねえって。いちいち謝るんじゃねえ。おまえは他人の顔色、気にし過ぎだ」
「そうかな」
「誰だって自分のことしか見えねえんだから、堂々と自分の話してりゃいいだろ」
「は、はい。あ、でも私はあなたの話も聞きたいよ」
 思ったままに返すと、長身の男は、面食らったようだった。目をしばしぱちくりさせてから、ため息を吐くように静かに答えた。

「そうかよ」
「うん」
 階段を上り、再び部屋の前に立った。リクターは鍵を差し入れて回した。
「オレの話つっても、何が聞きたいんだ」
 あのね、と口を開けようとしたのに、シェリーは声を出すことができなかった。比喩ではなく喉が詰まったのである。

 眩暈がした。胃の中がぐるぐると、猛烈な不快感を訴えかけている。いつからだったのかはわからないが、喉元からこめかみまでが、鈍く痛んでいる。
 こちらを覗き込んだリクターは、すかさずシェリーの腕を引っつかんで、土足なのも気にせずに廊下を突き進んだ。

「吐くなら便器にしてくれ。シンク、詰まりやすいんだよ」
 冷静な声。口元を押さえていたシェリーは、頷く間もなく、言われた通りにした。
 吐いたと言っても、胃の中には大した物量が入っていなかったので、すぐに胃液を出し切ってはえづいただけとなってしまった。
 顔を洗った後、くらくらする頭で、ソファの上に丸まった。

「せっかく、美味しかったのに……もったいない……」
 後ろで家主がテレビをつけながら「さすがにチリドッグは重すぎたか」と感慨なさそうに漏らしていた。これでも気遣ってくれているのだろう、リクターはテレビの音量を思い切り下げてからチャンネルを漁っていた。
 止まった先は雄大な山の自然を映したドキュメンタリーだった。猛禽類が翼を広げて青空を横切っていく映像だ。こういうのが好きなのかと思うと、意外だ。

(うう、気持ち悪い)
 ペットボトルの水をちまちま飲む。まだ頭がぼんやりしているし、視界が定まらない。
 いつしかシェリーはまた自分語りを始めてしまった。
「お母さん、働きすぎて死んじゃった。このまま行ったら、私も同じ道を辿るのかな」
 腹の奥に溜まっている不安の一端は、ここにある。

 シェリーは他の生き方を知らない。母が決めた進路、住処、交友関係。彼女のカーボンコピーとして育てられたはずなのだから、同じ末路を辿ることになっても不思議はない。
 直接の死因は急性心不全と言われた。前触れがあったとしても母は面に出さず、その日も普通に出勤していた。何気ない朝の挨拶が、今生の別れになった。
 怖い。働き過ぎのラインとは、どれくらいだろうか。自分も残業する方だし、自宅に資料を持ち帰ることに抵抗が無い。睡眠時間を削って書類作成した夜も少なくない。

「いまから軌道修正したらいいだろ」
 男の声は淡々としていた。
(どうやって)
 いとも簡単そうに言うリクターに、イラっとした。
(私は自由意志の持ち方すらよくわかっていないのに)
 敷かれたレールからどうやって降りればいいのだろう。自分で考えるのは苦手だ。

(……これも思い込み?)
 ずっと昔に住んでいたコンドミニアムの住所を探し出して、タクシーに乗ってここまで来たのは、自分で考えた結果ではないのか。
 そんなことを思いながら、うとうとする。




 ――トゥルルルル。
 シェリーが電話の音に驚いて目を覚ますと、時刻は夜中の十時を回っていた。
 壁にかかっている家電がしつこく鳴り続ける。自分の家ではないので出るべきか決めかねていると、大股で部屋を横切る男の気配があった。真っ暗な中でも迷いがない動きだ。

「Hello」
 短いやり取りがあった。意図して抑えているのと男の声がもともと掠れがちなのが相まって、あまり聞き取れなかった。やがてガチャリと小気味のいい音を立てて、受話器が元の場所に帰る。
 こちらの視線に気付いていたのか、リクターは躊躇いがちに口火を切った。

「あー、今から、出かける」
「こんな時間に?」
「呼び出された。まあ、仕事」
「土曜日なのに」
 そういえばどういう仕事をしているのか聞いていなかったと、今更気付く。といっても、急いでいるようで、とても訊ける雰囲気ではなかった。

「こういうこと、たまにあるんだよ。おまえは休んでろ。食欲戻りそうだったら、冷蔵庫の上にシリアルの箱が置いてある」
 男はもう身支度を始めていた。ちょっと悪いな、と言って電気を点けている。窓の外は仄かにピンク色に見えた。きっと雪雲に電灯が反射している色だ。
 あの重そうなショルダーバッグには、今日も拳銃が入っているのだろうか。
 心配だった。何がどうして心配なのかは、うまく言語化できない。

「えっと、気を付けてね」
「ん。おやすみ」
 また後でな、と言い残して彼は出て行った。
 重々しく閉まった扉を、シェリーは数分の間、じっと見つめ続けた。
 そしてふと思い当たった。

「また鍵かけ忘れてるよ!」
 急いでいたとはいえ、一人暮らしにはあまりに不用心だ。毛布を肩に巻いて立ち上がり、シェリーは内側から鍵とドアロックをしっかりとかけてやった。知らず知らず、口元が綻んでいた。




2話おわり。残りが微妙な長さだったので区切らずに一気出し。
家族旅行に出ていて数日更新が開いてしまいました。大掃除してねー うえーい

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04:22:52 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2. e.
2025 / 12 / 25 ( Thu )
(私も笑ってる?)
 選ぶことを、練習する。普通の子供が幼い頃に会得するであろう、普通のスキル。大人になってからこれをやるのは新鮮な感じがしてわくわくしたが、母の死がきっかけなのは、どうしても複雑な心境である。
「あれ、でも待って。公園じゃあ本来の目的を果たせないんじゃ」

「とりあえずオレが食いたいもん買いに行く。気が向いたら口にしてみろ」
 長身の男はさくさくと先を歩いた。寒いのだからあまり動きを止めないのは賢明である。歩幅が違うため、シェリーの方はついていくのに必死だった。
 リクターが食べたい物とは、チリドッグだったらしい。公園の端に陣取っている露店商の前に止まって、肉付きの良い黒人男性と会話していた。

「ダンナ、図体でかいのにこんなんで足りるんかいね。もう一本買っていきな」
「足りるよ。知ってたか、タバコって、食欲を抑制すんだ」
「知ってるに決まってんだろ。あんた、今日は別嬪さん連れてんじゃねぇか。なんか買ってやらねぇんかい」
「余計なお世話だっつうの」

「へいへーい、まいど」
 行きつけのところだったらしい。リクターは支払いを済ませる間も、気心が知れた相手とするように、店の主と値上げがどうのこうのと冗談交じりに罵詈雑言を投げ合った。口の悪さは健在である。
 彼はようやく踵を返したと思ったら、アルミホイルからのぞくチリドッグをずいと差し出してきた。

「やる。最初の一口」
「私に?」
「欲しけりゃの話。んで、気に入ったなら半分食っていいぞ」
 熱々のチーズの香りが、鼻先をくすぐる。食欲がないはずなのに、こうして促されては試してみたくもなる。
 シェリーはプレッシャーに負けて、ぱくついた。

(そうだ。ホットドッグってこんな味だった)
 ホットドッグと、トッピングの溶けたチーズと牛ひき肉の、濃厚な旨味に驚いた。子供の頃に父にねだって買ってもらっていたものよりも、ずっと衝撃的だ。バンズもちょうどいい柔らかさである。思わずそのまま二口、三口目と続いた。
「おいしい」

「もういいのか」
「うん、ありがとう――あ、手袋にちょっとついたかな」
 ホイルから垂れたチーズが男の黒い革手袋に付着したようだったが、当人は「気にすんな」と言って露店商からもらったナプキンで雑に拭いてみせた。
「げ、雪。公園で食べてくのは無理だな。戻るか」

 大きな雪結晶が空からこぼれ始めたのを見て、ふたりは深くフードを被った。
 男は、頬をもぐもぐ動かしながらも早歩きをやめない。豪快に大口で食べているのに、器用にも口周りが汚れないし、あっという間に完食していた。
 食事は座ってするものと厳しく躾けられてきたシェリーは、妙な心持ちでついていった。

(相変わらず自由だなぁ)
 我が強いとも考えられるし、親が放任だったから早くに自主性を身に着けたとも推測できる。二十五歳にもなって些細なことであたふたしてしまう自分とはなんて違うのだろう。
 羨ましいと言ったら彼は怒るだろうか。
 胸がぐっと痛んだ。

 ――私はお母さんが嫌いだったわけじゃない。
 もっと私の言葉を聞いてほしかった。私をちゃんと見てほしかった。今日は何したいとか、何が欲しいとか、将来はどんなことがやりたい? ってたまには訊いてほしかっただけ。
 私たちの間にあったこの何十年もの時間は、なんだったの――。

 地面を見つめて歩いていたことに、気が付いた。先を進んでいたミリタリーブーツが、ふいに止まったのである。もうコンドミニアムの階段の前まで来ていたところだ。
 なぜ止まったのだろうと、シェリーは不思議そうに顔を上げた。リクターが珍妙な物を見るような顔でこちらを見下ろしている。

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23:39:24 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2. d.
2025 / 12 / 24 ( Wed )
「なんていうか、支度にかかる時間がもったいないな、って……お化粧さえなければもっと早く家を出られるのにって思ってた……。夜も、メイク落としが面倒だし、ネイルは……匂いが嫌だし」
「おう。これからはそんなもん全部やめて、時間ギリギリまで寝てればいいだろ」
「ほんとに、いいのかな」

「誰に断る必要があんだよ」
「はい……」
 リクターの言動には不思議な説得力があった。昔からそうだ。
 言われた通り、やりたいようにしてみようと思った。仕事はさすがに薄化粧で続けるか――また出勤する日が来れば。
 ハンドバッグに詰まっている化粧道具を意識した。これがなければバッグが軽くなる。ずっと興味があった、肩にかけるタイプの小型のバッグに乗り換えてみるのも楽しそうだ。

「おまえ、食いたいもんあるか」
 しばらく歩いてからふいに足を止めて、リクターがまた振り返った。今から? と訊き返すと、そうだ、と返された。
 食材の買い出しに行くのではなかったのかと面食らう。
「うーん、ない。むしろ、たぶん、食欲があんまりない」
 数十秒かけて頑張って考えてみるも、シェリーには何もいい案が浮かばなかった。

「近しいヤツが死んだあと胃腸が何年もおかしいっつう例もまあまああるらしいな」
「おか、しい……」
 言われてみれば、お腹に溜まるようなものをずっと口にしていない。お腹が減っている気はするのに、咀嚼する気力がどうにも湧かない。

「食べないと余計に眠れないだろうし、パンくらいは……でもパンだったらスーパーで買った方が……?」お金をかけるならせめて体に良さそうなものを、と思っても、サラダを食べたい気分でもない。「優柔不断でごめんなさい。私って昔から、自分じゃ何も決められなくて」
 煮え切らないシェリーに対して、リクターは訝しげな顔をした。
「思い込みだろ。自分はダメなやつって、あの母親に刷り込まれたんじゃねえの」

「そんなこと、ない」
「選択なんて脳の筋肉みたいなもんだ。使わなきゃ衰えるし、鍛えれば発達する」
「え、えー? そうかな」
「いまここで左に行くか右に行くか、おまえが決めろ」
 男は、黒い革手袋に覆われた手をポケットから出して、真っすぐに伸ばした。人差し指が順に左と右を差していく。

「判断材料が足りないよ。私は食べたいものがないし」
「いいから」
 シェリーの抗議もむなしく、彼は答えを促すように視線で圧をかけ続けた。
「せめて、先に何があるの教えて」
「左はアーケード街で右は公園だな」
 ふたつのキーワードを、シェリーは顎に手を当ててしばし咀嚼した。

(どうしよう)
 色々と理由を並べて考えた。その間、傍らの男は「さみぃな」とぼやいたものの、急かす素振りは見せない。
(このひとは――待ってくれるひとだった)
 ふっと胸の奥が軽くなった気がした。

「……右にする」
 アーケード街の方が色々な食べ物がありそうだ。けれど、いまこの時に見たいと思ったのは、公園だった。ただそれだけの理由でも、それが自分の正直な気持ちだった。
「できんじゃねえか」
「このやり取りで五分は使ったよ」

「練習すりゃ早くなる。洗脳が行き届いてなくてよかったな」
 トレンチコートのポケットに両手を戻したリクターは、ふっと白い息を吐いて――笑った。
 目元が柔らかく細められ、口角が少し上がっただけで、数年の時間がとけていくようだった。
 悪戯を思いついた少年の表情。変わったと思ったら、根っこの部分は変わっていないのではないかと、くすぐったいような嬉しさがある。

「楽しそうだね」
「そっちこそ」
 言われてみれば、とまた頬に触れてみた。

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05:14:38 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2. c.
2025 / 12 / 23 ( Tue )
「あ、の。ここに住んでるのは、あなただけなの?」
 ようやく勇気を出して、問い質す。
「見ての通りだけど」
「……ご家族はどうしたのかなって」

 歩道(サイドウォーク)に出るまでの間、応答はなかった。さらに角を曲がったら大通りに出た。
 雑踏と車の音が大きくなる。どこに向かえばいいのか知らされていないシェリーは、流れに任せて、男の一歩後ろを歩いた。
 交差点で信号待ちになった。その時になって、やっと答えが返ってきた。

「母と姉はとっくに家を出てった。父親は八年前に飲酒運転やらかして事故死......ほかに誰も巻き込まれなかったのが不幸中の幸いだな」
 白い息を吐き出しながらまるで他人事のように淡々と語る彼を、シェリーは驚愕した顔で見上げた。
「ご、ごめんなさい。辛いことを思い出させて」

「別に悲しむようなアレじゃなかったしな。むしろローンを残しやがった。ただ――」
 男の横顔は、強張ったように見えた。
 クラクションが鳴り重なっている。土曜日だというのにせっかちな人間ばかりだ、と頭の片隅で思った。

「クソみたいな幼少期とクソみたいな家族を反面教師にしてやるって、それをバネに生きてきたつもりだったのに……見返す相手が勝手にいなくなったってのは、なんつうか、モヤモヤしたもんが残るな」
 そんな、とシェリーは言いかける。
「渡れるぞ」

 一瞬、諦観した顔を見せた後、リクターは再び歩き出した。数歩遅れてシェリーはその後ろについていく。
 事故死したという彼の父親の顔はもうあまり記憶にない。たまに見かけてもいつも怒鳴っていて、酒臭かった、と思う。母と姉は、派手な感じだった、となんとなくおぼえている。
 横断歩道を渡り切ってしばらくすると、こちらの遅れを気にしたのか、男が振り返った。そして変なものを見つけたように、眉を吊り上げた。

「ひっどい顔してんな」
「そう、かな。ごめんなさい」
「謝ってほしいんじゃねえって。泣くなって話」
 呆れて言う彼に、憂いのようなものは感じられない。その心中を真に図るのは難しいが、家族のことで気を遣って欲しくないというのは伝わった。

「泣いてないよ、って、あれ」
 頬に触れると確かに濡れていた。同時に別のことを思い出して、シェリーは立ち止まった。
「なんだよ」
「お化粧し忘れた」
 母にメイクを教えられてからほぼ毎日、欠かしたことはなかった。ちょっとゴミを捨てに行くだけでも身だしなみには気をつけなさいと、厳しくしつけられてきたのに。

 他人の家で寝起きしたせいで習慣が崩れてしまうのも仕方はないのだが、それ以前に、自分の精神状態はもしかしてだいぶ不安定なのだろうかと疑問に思った。
「いらねえだろ。肌の状態良さそうだし」
「そ、そういう問題じゃないの。だらしない姿を人に見せるなって、お母さんが」

 言いつつも、男の人にはどうでもいい話題かもしれないなと思い当たった。少なくとも大学で関りがあった男性は、女性グループが服飾やらファッションやらの話で盛り上がっていても、興味が無さそうにしていた。職場の異性に至っては仕事に関わる会話しか交わしたことがない。

「自分の考えじゃねえじゃん。だらしない恰好したいなら、すればいいだろ」
「......え」
「おまえ自身は、どう思ってるんだよ」
「わ、私?」
 話にのってくれるどころか逆に意見を訊かれると思わなくて、しどろもどろになった。

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03:43:26 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2. b.
2025 / 12 / 22 ( Mon )
「あんまし食うもんがない」
「あ、はい。行こうかな、ううん、行く」
 大人ひとりとふたりでは食材の消費量が全然違う。人数が倍になった時点で、対策を考える必要はある。

(へんな感じ)
 家族以外と生活したのは、大学生の頃くらいだ。最初の二年はルームメイトが居たが、彼女らとは友達と言いづらい関係だった。マイペースにそれぞれ過ごして、足並みを揃えたりはしなかった。

「あなたは自炊してるの」
「週一、二くらい。めんどくさいから、だいたいどっかから買ってきてる」
「私が作ろうか? お世話になるわけだし」
「好きにすれば。オレはどっちでもいい」
「でも」
 食い下がろうとするシェリーを、彼は手を振って遮った。

「だらだら毎日を生きてるだけだから、そこにもうひとり人間を挟んだって、気にならねえよ。だからおまえも気にすんな」
 乾いた音を立てて新聞が畳まれる。
 返事をしそびれたまま数秒が過ぎてしまったので、シェリーはコーヒーを味わうことにした。

(おいしい。味は濃い目なのにどこか果物っぽい甘さがある)
 飲み終わるまでの間に、リクターがマスターベッドルームへと消えてしまっていた。身支度をしているのだろうか、電気シェーバーらしき電動音が聴こえる。
 シェリーは荷物に入っていたヘアブラシを出して髪を梳かしながら、言われたことを反芻する。生まれつきの巻き毛を背中まで伸ばしているのでこれは結構な手間だったが、朝晩の習慣なので考え事をしながらでもうまくやれた。

(ひとり人間を挟んだって気にならない……? 私が居座っても、怒る恋人とかいないのかな)
 だらだら生きている、の感覚がよくわからなかった。そう言う割には、銃を持ち歩いているのではないか。
(私、いまのあのひとのこと、なんにも知らないんだなぁ)
 至極当然の事実を思い知らされる。
 梳き終わった髪を手慣れた動作で三つ編みにすると、シェリーはハンドバッグの中身を軽く整理した。

(知らないのはお互い様か)
 聞きたい。彼は気怠そうな雰囲気は昔のままでも、当然ながら、前よりも大人びている。それを近寄りがたいと感じずに――もっと話してみたい、もっと仲良くなりたいと願うこの気持ちは、自然に沸き起こっていた。
 ずっと自分のことで精一杯だったシェリーには久しい感情だった。

 立ち上がり、出かけるための支度を続ける。
 外は雪こそ降っていないものの、窓についた霜の具合からして寒そうだった。下は紺色のジーンズに長いブーツを加え、上は厚着にマフラーをして、最後に膝までの長さのもこもこの白いダウンコートを身に着けた。なお、これ以外の靴とコートは持ってきていない。

 深い緑色のフード付きトレンチコートを着て出てきたリクターは、出入口前でミリタリーブーツに足を突っ込んだ。昨夜と違って今日はショルダーバッグをかけていない。眼鏡もまたいつの間にか外していた。
 そうして外廊下に出た。肌に触れる外気の冷たさで、家の中はちゃんとヒーターが効いていたのだなと思い知る。
 扉が大仰な音を立てて閉まった。鍵がかけられる間、シェリーは周囲を見回して懐かしくなっていた。

(四階建てのミドルライズ・コンドミニアム。彼は三階、私たちは二階に住んでた。見た目は古くなってるけど、そんなに変わらない)
 リクターの背中を見つめながら、外の階段をゆっくり降りる。
 ここで親の目を盗んで遊んだこともあった。ボールを転がしたり、小石を集めたりと、振り返ってみれば大した遊びでもなかった気がするけれど。通りすがりの他の住民にはさぞ邪魔だったことだろう。

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03:45:22 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2. a.
2025 / 12 / 20 ( Sat )

 親の傀儡として生きてきたシェリーには理想の紳士像がなく、リクターという男からの優しさへの期待値も高く抱いていなかったので、古びたソファで一晩を過ごした事実に対しても悪感情がなかった。別の誰かだったならば家主の態度に「女性への気遣いが足りない!」のように憤慨したかもしれないが、押しかけたのは自分の方であることを自覚しているシェリーは、そんな厚かましい考えは持ち合わせていなかった。

 異性と交際した経験、ゼロ。結婚相手はいずれ母が探してくる予定だった。男女間の事情に関する知識はフィクションや、人づてに聞いたエピソードの領域を出ない。
 寝ぼけ眼をこすりながら、思い切ったことをしたものだ、と遅れて自省した。
 ここに来て何がしたかったのだろう。昔の知り合いに会ってどうなるというものでもないのに。ただ、底なしの虚しさを紛らわせたかったという点では、成功したかもしれない。

 コーヒーの香りが漂っている。そこでハッとなる。
 慌てて腕時計を確認すると、もう時刻は昼過ぎだった。シェリーはソファから跳ね起きた。
 ここから見て、左手にキッチンスペースがある。そして、キッチンカウンターに寄りかかってマグカップに口をつけている長身の男の姿があった。襟の高い灰色のセーターを着て、濃い茶色の髪は昨晩と同じく首の後ろで一つに結んでいる。そこからほどけた髪がひと房、緩く波を打って肩にかかっていた。

 目が合うと開口一番にリクターはこう言った。
「眠れなかったか」
 片手でカップを持ったまま、空いた方の手で目の下を指差している。シェリーは自分の目の下にそっと触れた。腫れている感触があった。
「寝たり覚めたりだね。お母さんが亡くなってからずっとこんな感じだから。ここがダメだとか、そういうことじゃないよ」

「眠剤は」
「処方してもらってない……だって、こわい、よ。相談できるお医者さん、いないし」
 誰かに診てもらおうという発想が湧かなかったのも一因だが、改めて考えると、睡眠薬は恐ろしかった。それで誤って永眠してしまった俳優のニュースが、最近報道されたばかりだ。
 まあそうだな、とリクターはなんともなさそうに話題を流した。ずず、と飲み物を啜る音がした。

「おまえ、コーヒー飲むひと?」
「飲むよ」
「いる? いるならもう一杯淹れる」
「じゃあ、いただきます」

 おう、と短い返事で請け負って、男はくるりと背を向けた。豆から挽いてお湯で淹れるつもりらしい。一杯が出来上がるまでに数分かかったので、その間にシェリーは廊下のトイレへ着替えと顔を洗いに行った。
 洗面台には歯ブラシが置かれていない。相変わらず、他の家族の住んでいる様子がない。

(昔、この家に入ったことあったっけ。なかったかな)
 だいたい少年の方から会いに来てくれたのである。うろ覚えだが、彼には父母と姉が居たはず。なのに今は一人で暮らしているとしか思えなかった。
 ダイニングテーブルすら置いていない。食事はテレビの前のコーヒーテーブルとソファにて済ませているのではないかと疑うくらいだ。或いは、寝室か。

 戻ると、リクターはカウンターの上に新聞を広げて読んでいた。いつの間にか長方形フレームの眼鏡をかけている。記憶の中の姿よりも日焼けしているな、となんとなく思った。
 カウンターの上にマグカップを滑らせる形で、すいとコーヒーを差し出された。向かい合って立っているのが少し気まずくて、横にずれた。

「ありがとう」
「ブラックでよかったか」
「あるなら、砂糖はほしいかな」
 ほれ、と今度は小さなスプーンの入った瓶を差し出された。二度すくって、カップに入れる。
 新聞がめくれる音がする。

「今日予定ないなら、出かけるか」
「え?」
 顔を上げたら目が合った。影がかかっているからか、リクターの双眸は今は青茶というべき色に近い。
 シェリーは首を傾げた。出会った(正確には再会した)翌日の人間に共に出かける誘いをしてくるのに、驚いたのである。
 次に続いた言葉を聞いて、腑に落ちた。

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00:44:43 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1. c.
2025 / 12 / 19 ( Fri )

 すると後頭部に感じていた嫌な圧力がなくなった。足音がしたかと思えば、今度は電気がついた。
 目を片手で覆って振り返る。

「おまえ、シェリーじゃねえか」
「おぼえててくれたの」
 ゆっくりと手をどけて、シェリーは明かりに慣れるまで目を瞬かせた。
「オレは物覚えはいい方だ」

 得意げに言ったのは、すらりと背の高い長髪の男だった。髪を首の後ろで束ねていて、長いトレンチコートが様になっていた。
 今年で二十七歳のはずだ。眉と目元の力強い印象は記憶の中と変わらない。直線的でスッと通る鼻梁に、角ばった頬と顎も。
 肩辺りに少し雪が積もっているのが気になった。もう深夜一時を回っているのが、棚の上の時計からも明らかなのに。

「あなたは、変わったかも」
「最後に会ったの何年前だと思ってんだ。そりゃ変わるわ」
「十年とか十二年……?」
 はあ、と男は長いため息をついた。そして慣れた手つきで拳銃を大きなショルダーバッグにしまった。それでようやく、場に満ちていた緊張感が空に弾けた。

 この男こそ、記憶の中の近所の少年に相違ない。髪型と声音が変わっていても、はっきりと面影があった。
 苗字はリクター。ドイツ系の移民の子孫なものの、代を経て「リヒター」ではなく英語読みをしているらしい。ちなみにファーストネームは知らない。好きじゃないからと、本人が頑なに教えてくれなかった。

「で。その荷物、なに」
 リクターの視線は、シェリーの足元にある大きなボストンバッグに流れた。
「えっと、ちょっと泊めてもらえないかな、って」
「なんで」
 男が単刀直入に訊いた。

 シェリーは、己の身の上に起きたことを掻い摘んで語った。母の死後、寂しくて気が狂いそうになっていたこと、途方に暮れたこと。子供の頃の約束を思い返していた点は、なんとなく省いた。
 いつしか、リクターはコートを脱いでソファでくつろいでいた。間に開いた人ひとり分の距離が、十年とちょっとの心の距離感をも表しているようだった。

 話しながらもシェリーは辺りに目をやっていた。タバコの煙が気まぐれそうに宙を舞う。
 ほどほどに片付いている部屋だ。あまり頻繁に掃除していないのだろう、埃っぽさはあったが、隅に積まれた雑誌を除いて、余計なものは置かれていない印象だ。リビングと台所の空間が繋がっている設計だった。

 話がひと段落すると、シェリーは横を盗み見た。
 ガラス製の灰皿にタバコの先を押し当てる指は、やや骨ばっていて、長い。
「ま、いんじゃねえの。とりあえず今日のところはそこで寝てもらうか」
 そこ、と言って彼はソファを差していた。ベッドルームが二つあっても片方は物置きになっているという。

「い、いいの。迷惑じゃない?」
 話があっさりと進みすぎて、思わず訊き返した。そういえば彼が当時と同じコンドミニアムに住んでいる時点で驚いたが、他の家族の痕跡が無いのも気になった。
「迷惑かけないんなら迷惑じゃねえよ」
 なんとも、答えになっていない答えだった。

「ほぼ他人だよ。信用されなくても仕方ないものと」
「おう。寝首かかれないように気を付ける」
 男はわざとらしく欠伸をした。
「ありがとう」
「ご愁傷様。そうか、あの母親ついにいったか。よかったな、つうのもなんか違うか。腐っても肉親だしな」

「…………うん」
 肉親と言った時の声は、どこか皮肉そうに聴こえた。
「気が済むまでいれば。予備の毛布、テーブルの下な。共用のトイレは廊下。風呂設備はマスターベッドルームの中にしかないから、シャワー浴びたくなったら言え」
 踏み入った質問を重ねずに、リクターは席を立った。



 その夜、シェリーは年季の入ってそうな冷蔵庫の音を聞きながら、浅い眠りについた。
(私はお母さんの敷いたレールの上を走るだけでよかったのに)
 完全に自分の意思で行動をしたのが久しぶりに思えて、気持ちが落ち着かない。近くから人の気配がするのも、それが成人男性のものであるのも、慣れない。
 冬に触れる頃の、とある金曜日のことだった。

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00:59:31 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1. b.
2025 / 12 / 18 ( Thu )

 ――あんま洗脳されんなよ。いまはそれでもいいかもしんねえけど、大人になったらめんどくせえことになるぞ。

 何度目かの目覚めの時に、頭の中に少年の声がした。ついに幻聴が聴こえるようになったのか。ゆっくりと頭を振る。
 なんとか立ち上がり、コップに水道水を注いで飲み干してからも、その声はまだ意識の端に残っていた。
 かつてそう言ってくれたのは誰だったか。ぶっきらぼうに、しかしどこか心配そうに。

(小さい頃よく遊んだ近所の子だ)
 両親の離婚後、よりよい学区に入るためという名目でシェリーは隣町に引っ越したが、それまでは二年くらい、毎日のように顔を合わせた男の子がいた。

 品格を落とすような友達付き合いはやめなさい。母からは口うるさく叱られたものだった。それでも隠れて会うのをやめられなかった。
 口が悪くて時々乱暴で、なのに面倒見のいい少年だった。シェリーより二つ年上だったから、宿題を手伝ってくれたこともあった。もちろん、母には内緒で。

(あの子は窓から入ってきてたっけ。二階だったのによく怪我しなかったよね)
 思い出を辿るうちに懐かしくなり、心の内側にポッと暖かさが灯った気がした。
 ずっと、AからZまで母が決めてくれた。疑念を抱かなかったわけではないが、優秀で素敵な彼女を尊敬もしていたから、言うとおりにしていればいいんだと、無理やり自分を納得させてきた。

 そんなシェリーでも、その少年に関してだけは、最後まで従わなかった。
 母が厳選した「友人」とうわべだけの付き合いをしていたばかりの人生において、唯一、自分の意志ではっきりと「友達」と胸を張って言える人物。日々の生活に追われているとたまにしか思い出してやれないが、それでも、好きだった気持ちは残っている。
 短く刈り上げられた茶髪に、少し痩せ気味の体躯。青と緑の中間のような瞳は確か吊り上がっていた。

 まだ、彼はあの町にいるだろうか。
 引っ越した時、シェリーは自身の新住所を伝えることが叶わなかった。それがずっと、心残りだった。
 次いで少年の家族を思い出して、シェリーは顔を曇らせた。
 そうだった。酒浸しで暴力的な父親とネグレクト気味の母親から逃げていたのだ、彼は。満足な食事をしていなかったから、シェリーはふたりの時間によくお菓子を分け与えていた。

 そして――
 会わなくなる前に交わした約束を、あの子はおぼえているだろうか。
 ――おまえ、引っ越すんか。つまんね。あーあ、クソみてえな毎日に逆戻りだな。いっそ、死んじまうか。
 少年は真夏でも長袖長ズボンだった。横腹をさすりながら、苦々しい表情をしていた。

 ――そんなこと言わないで。きみがいなくなったら、私、悲しいよ。すっごくすっごく悲しい。約束して。ひとりでいなくならないで、おねがい……死にたくなったら、会いにきて。
 当時のシェリーは、死を決した人間を自分なら引き留められるとか、命を大事にしてほしいとか、そんな大それたことはもちろん考えていなかった。純粋に悲しかった。その子に害が及ぶのも、彼が生きるのを諦めたくなっているのも。

 ――わかったよ。わかったから、泣くな。あと急に抱き着くんじゃねえ。暑いんだよ。
 ――ほんと? 約束? ぜったい、会いに来る?
 ――約束する。だから、おまえもだ。おまえもいつか、死にたくなるようなことがあっても、ひとりで勝手に消えるんじゃねえぞ。



 カチッ。
 規則的に時刻を刻んでいた時計の音が、妙に大きく、耳に届いた。それでも母とふたりで生活していたアパートにあった時計よりも、控えめな音だった。
 鮮明になりつつある頭で、シェリーは状況を改めて理解した。
 とにかく弁明しなくては。

「ご、ごめんなさい。外で待とうと思ってたんだけど、あんまり寒くて、つい」
「不法侵入を謝ってどうすん……あ?」
 男は何かに気付いたように黙り込んだ。

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00:00:59 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1. a.
2025 / 12 / 17 ( Wed )

 慣れない場所で目を覚ました。
 寝心地からしてここはベッドの上ではない。タバコと、男物の香水の残り香がする。どれも普段の生活の中では嗅ぐことのない匂いだった。
 上体を起こしたら、手のひらに何か薄っぺらいものがついた。よほど古いソファなのだろう、ちょっとした拍子で表面が剥がれてしまったようだ。

(私、どうしたんだっけ)
 薄暗い。
 目前にコーヒーテーブル、その向こうには小型テレビのシルエットが見えた。電化製品が発しているであろう振動音を除いて、辺りは静かだったが――足音。
 背後から人の気配が近づいている。

「動くな」
 ガチャリ。
 実物を見たことはなくても、映画やテレビで聞き知っている音。冷たく、無機質な感触が後頭部に触れる。
 銃口だ。

「空き巣で寝落ちって、ふざけてんな」
 抑え込まれたような怒気と警戒。男の掠れ気味の低い声に、全身がすくんだ。
 動くなと言われているのに、震えながら言い訳した。
「違うの、私は、その……えっと、鍵が開いてて」

「あぁ? 鍵がかかってなきゃ何してもいいのかよ」
 ごりっと、鉄の擦る感触が頭蓋骨に伝わった。
「ごめんなさい」
 どうしてこんなことに――思考は数時間前までさかのぼる。



 母が過労死した。
 その事実に対して胸が張り裂けそうな悲しみが確かにあるのに、紛れもない安堵と解放感を覚える自分に、嫌気がさした。

(お母さん、私はどうしたら)
 先々週までふたりで暮らしていたアパートの中で、シェリーはひとり身震いした。空調をつけるのがなんとなく気が引けて、ウール製ブランケットに包まりながら、何をするでもなく膝を抱えて悶々と過ごしていた。

 ちっ、ちっ。壁の時計は午後九時を回っていた。すっかり夜なのだから暗くしなきゃ――義務感でリビング中の明かりを落とす。カーテンも閉めた。窓の外からのぞく世界は都会らしく、まだまだ行き交う車のヘッドライトや営業中のビルの明かりに彩られていた。
 完全に暗くするとどうしようもなく寂しくなって、眠れない。だから明かりはひとつふたつ、残しておく。

 もう何日もまともに寝れていない。寝室に行くには母の部屋の前を通らなければいけないので、それが嫌で、夜な夜なソファで横になっていた。値の張るソファクッションの寝心地自体は悪くないが、頭の中は黒い靄がかかったように重い。
 シェリー・ハリスには、十年以上前から、母しかいなかった。大学教授だった父と法律家だった母はとうの昔に別れていて、そこからシェリーは女手一つで育てられたのである。

 息苦しい人生だった。
 お金ならあった。なかったのは、自由だ。行動の自由、選択の自由、そういった普通の人間が持っているはずのもろもろを、母は残らず奪ったのである。そうとわかっていながら、長年抗うことができずにいた。
 だが母がいなくなったらなったで、どうやって生きればいいのかわからなくなってしまった。

(どうしよう)
 仕事はしばらく休みをもらっている。司法試験に受かるまではここで経験を積むようにと母のコネクションで始めさせられた仕事なので、迷惑をかけているという申し訳なさはあっても、戻りたいという意欲はあまりなかった。

(アパートだって……)
 遺品整理をせねばならないが、親族は手伝ってくれそうにない。もとから叔父や叔母とは疎遠気味で、彼らは葬式に顔を出した後はさっさとそれぞれの住む州へ帰ってしまった。
 首都の中心部に高層ビルの部屋を借りられたのは弁護士だった母の収入があってこそできたことだ。法律事務所勤めとはいえ助手でしかない自分の給金と、保険金でこのまま住み続けていいものか、シェリーにはわからなかった。

 精神衛生的にも出ていきたい気持ちはあった。住む地域を選んだのは母だし、内装も全部母の趣味だ。亡霊にまとわりつかれているようで気分が悪い。だからといって遺されたものを全部捨てるのは、亡くなったばかりの家族への無礼にも思えた。

 いくら考えても答えは出なかった。やる気も出なかった。
 質の悪い睡眠を繰り返し、目を覚ます度に時計を見やった。まだだ、まだ朝が来ない。
 永遠のように続く虚脱感。なにも、何もしたくない。手足を動かすのも億劫だった。




お久しぶりです。皆様お元気でしたか。
たぶん毎日更新します。

ふんいき2000年代のアメリカ中西部のどこかの都市、携帯電話が普及する前後。

途中でR18がひょろっと入るのでその話には注意書きを入れます。(読んでも読まなくてもストーリーの流れは伝わる、はず

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04:51:08 | 小説 | コメント(0) | page top↑
4-1. e
2024 / 01 / 16 ( Tue )
     *
 強烈な夢を見た。
 内容を断片的にしか覚えていなくても、ただの夢だと自分に何度言い聞かせても、胃の奥に残る嫌な感触は消えなかった。

(遅くまでネット検索してたからかな)
 布団にくるまっていても寒さがしみ込んでくる夜は、いまは遠くに行ってしまった居候のことを思い出してしまう。眠りにつけず、スマホを眺めている時間が長くなる。
 軽い気持ちで、インドネシアと蛇について調べるべきではなかった。

(ちがう。ナガメが、そういう目に遭うわけじゃないんだから)
 半分飲んでしまったアールグレイを片手に取り、もう片方の手でマウスを繰り、ループにして流していた「心を落ち着かせるせせらぎの音」の動画を止めた。マグカップから、すっかり冷めてしまったお茶をすする。誰もいない部屋に帰る気になれなくて、連日、唯美子は職場近くのカフェにとどまっていた。

 東南アジアは蛇革の産地だという。
 大小さまざまな種類の蛇が、現地民に乱獲されては、残酷な方法で皮を剥がされている――どこかの記事にはそう書かれていた。動物愛護団体も爬虫類にはそこまで関心が無いのか、または蛇革を使ったファッション用品が高く売れるからか、売買を取り締まる厳密な法は無いらしい。

 ブログ記事を読み漁っただけだから真偽のほどはわからないが、唯美子の不安を募らせるには十分だった。
 ナガメはいつも、肝心なことは教えてくれない。彼が助ける「同胞」とは、ほかの爬虫類なのではないか。そもそも、どういう助けを乞われたのか。

(思い過ごし……全部ぜんぶ、変なこと考えてるわたしが悪いんだ)
 大蛇の姿で、知り合いの引っ越しを手伝いに行くだけなのかもしれない。戦いに行くとはひとことも言っていなかったはずだ。
『なるべくはやく帰ってくる』
 幼児が単独で旅をしていたら不自然だろうとの唯美子の進言を受け、出かける日は青年の姿になって、ナガメは少しぶっきらぼうに言ったのだった。

 帰ってくるという言い回しにとまどって、返事はすぐにできなかった。色々と考えたものの、最終的に「待ってるね」と答えた。自分がどんな顔をしていたのかはわからない。
 最初の数日は普通に寂しかった。一週間も経てば少し前の一人暮らしに戻っただけのように感じた。それが二週目に入り、更にもう一週間も経つと、心配し始めるようになった。

 何といっても連絡を取る手段が無いのである。織元に連絡してみたりもしたが、彼は何も聞いていないという。


『何故、発つ前の本人に詳細を訊ねなかったのですか?』
『それは……だって……』
『ゆっくり、言語化してみてください。私はそれなりに暇です。ユミコ嬢が己の中の答えを見つけるまでの時間くらいはあります』


 ――怖いから。
 何も教えてくれないと不満に思う一方で、本当は自分のせいだとわかっていた。踏み込んだ質問をして、干渉しすぎて、それでナガメに嫌な顔のひとつでもされてしまったら。
 名前の無いこの関係はきっと、崩れ去ってしまう。

 悶々とした気持ちのまま、アパートに戻った。
 当たり前のように明かりのついていない部屋に、うっすらと隙間風が吹く。ため息を漏らしつつ壁をまさぐって、電気をつけた。
 届いてからまだ一度も使われていない座布団にまず目をやるのが、もはやくせになっている――

 が、今日はそこにちょこんと座している何者かの姿があって、唯美子は仰天した。



あけましておめでとうございます!! 今年はいっぱい書きます絶対!

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13:13:27 | 小説 | コメント(0) | page top↑
4-1. d
2023 / 12 / 10 ( Sun )
「たすけを乞われた」
 お互いに話し出すこともなく、帰路について、アパートの扉が閉まったタイミングで、ナガメがぽつりと言った。パーカーのポケットに両手を突っ込み、片足のかかとを使ってもう片足のスニーカーを器用に脱ぎながら。

「助けって、ほかの……『けもの』だっけ? からお願いされたってこと」
 人類のことは人類がどうにかすればいいと彼が以前に言っていたのを記憶しているので、助けを求めたのは同類かと推測する。織元を通した依頼からナガメが人間のために動く場合は、しっかり報酬を受け取っているはずだった。
「そ」
 彼は居間に入るや否や、スニーカーにしたのと同じ方法で靴下を脱ぎ始めた。

「ナガメは応えるつもりなの」
「ん-、たぶん」
「あんまり気乗りしない感じ?」
 少年が質問に答えるまでに、不自然な間があった。その間、唯美子は荷物を置いたり上着を脱いだり、暖房をつけたりした。

「知ってるヤツが……関わり合いになりたくねーけど、ほっといたらめんどくさくなりそう、つーか」
 ナガメにしては歯切れの悪い物言いだな、と思いながらも、唯美子は続きを待った。けれども数分ほど経ってもそれ以上は語られず、目があうこともなく、ナガメはちゃぶ台の下に転がり込んでしまった。知り合いに助力するのは普通のことだろうに、渋る事情でもあるのだろうか。

「今晩はレトルトでいいかな」
「んにゃ。水曜だし、もう食わなくていーや」
「あ、お昼もそんなこと言ってたね」
 もとより蛇は大きさによって週に何度か、或いは二週間に一度くらいしか食事をとらない生き物だ。昼間の温泉では気を遣って(?)残さず食べてくれたが、当分は満腹なのだろう。

 ならば自分の食事を軽く用意するだけで済む。作り置きしてあったおかずと漬物、インスタント味噌汁、あとはご飯だけ炊いて。丼に適当に盛り付けて、テレビをつけようとする。
 にゅるりと、ナガメがちゃぶ台の下から出てきた。驚いて、思わず声を上げる。

「急にどうしたの」
「ちょっと遠いんだよな」
 助けを求めてる相手の話だと、すぐに気が付いた。唯美子は味噌汁をすする合間に、「どのくらい?」と訊く。テレビは結局、付けないことにした。

「わかんね」
「え?」
「インドネシアかもしれないし、もっと近いかもしれないんだよな。でもたぶん実際は遠い」
「意味がわからないよ」
 やたら曖昧な話に首を傾げる。

「場所が幻術で覆われてるってさ。だから、踏み込んで調べてみないとどうしよーもない」
 ――胸騒ぎがした。
「調べるって、時間がかかるってことだよね。それこそ、どのくらい?」
「…………」
 ナガメの双眸が淡く光った気がした。

「きみがやらなきゃいけない、ううん、きみがやりたいことなんだね」
「そうなるな」
 子供の姿と声での大人びたトーンが、いつも以上に含みのあるように聞こえた。口元を手で隠して窓の外を見やる横顔はまるで知らない誰かのもののようで、何故だか泣きたい気持ちにさせる。
 これ以上は何も言えないと思い、唯美子は静かにご飯を咀嚼した。

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13:16:40 | 小説 | コメント(0) | page top↑
4-1. c
2023 / 11 / 01 ( Wed )
 そう言って断ったのに、目線を外したのと同時に、右手に指が絡まってきた。ぬるま湯に似た体温だったので、不意打ちだと少し冷たいとすら感じる。
 驚いて振り返った。
 ナガメが舌を出して悪戯っぽく笑っている。彼がよくやる、蛇のように舌をちろちろと動かす風にして。

「なあ。ゆみは、子供ほしいん」
 語尾の捻り方が曖昧で、質問なのかすぐにはわからなかった。動揺を悟られまいと視線を逸らす。
「どうだろ。好きだとは思うけど、ほしいかどうかはわからないよ。相手もいないし」
 なぜ動揺しているのか自分でもわからなくて、早口に続けた。

「お兄さんがね、家族がいるほうが人生に張り合いが出るみたいなこと言ってたな。あれ、張り合い? 潤いだったかな。わたしはコレって言える生きがいがあるわけでもないし、仕事も生活のためにしてるだけだし、平穏に生きられたらそれでいいかなって」
 言っているうちに、思い当たったものがあった。

 心の奥底では、厄寄せの性質から、周りに嫌われるのを恐れていたのかもしれない。祖母の術によって記憶を消されていた間も、他人と関わることに消極的だったように思う。
 子孫にこの性質は遺伝するだろうか。目にはっきりと見えない、来るかどうかもわからない厄災に怯える日々を、我が子が送らなければならないと思うとやりきれない。

(でも、わたしは)
 同年代の誰もが人生設計を進めているのにひとりだけ取り残された気分になる――のが、普通の感覚のはずだった。
 のんびりした性格だから、とか、まだ二十代で結婚を焦るには時間があるから、というのは違う気がした。

 今までにも増して家庭を持ちたいと強く願わなくなったのは、「死ぬまで一緒にいる」と言ったナニカが、手を繋いでくれているからではないか。寂しくなければ、退屈もしない。

 感謝している。話が迷走したけれど、これだけは伝えたいな、と思って立ち止まる。
 頭上から細かい振動の音がした。

 見上げると、青いトンボが旋回している。
「鉄紺」
 ナガメがトンボを呼ばわる声がどこか強張っていて、嫌な予感がした。

 青いトンボは主に語り掛けているみたいだが、唯美子にはもちろん聴こえない。
「いつまでに?」
 長い沈黙のあと、ナガメが静かに訊き返した。
 質問の答えをいつになく真剣な表情で聞いている。やがて右手に触れている指が、びくりと動いた。

「......わかった。今夜中に決めるって返しとけ」
 羽音が一瞬大きくなった。主の意図を受け取った僕は、そのまま上昇して遠ざかっていく。
 何の話だったのかと訊けずに、唯美子は足元に落ちている枯れ葉をしばらく見つめ続けた。

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