9. d.
2026 / 03 / 28 ( Sat ) 「うん、でも来週の予報は大雪らしいよ。また積もるかも」
「早いな今年……本格的な冬は年明けからじゃなかったのかよ。あー、暖炉のある家に住んでみてえな」 「いまから見つけられても、間に合うかな。冬に引っ越すの大変じゃない?」 「そん時は業者呼んでサクッと終わらせようぜ。そういう金はケチるもんじゃねえよ」 「そうだよね」 要するにお金をかけて手間を省こうと言うのである。シェリーもその選択には同意できた。そもそも自分は車を持っていないので、業者に頼むのが一番丸い。 「ね、私たちって結構、価値観が合うと思わない? 生活のテンポも。だからこんなに居心地良いのかな」 「バカ言え。合わせるんだよ、そういうのは。めんどくせえけど意見が一致しなかったら、都度話し合って妥協点をさがす」 「あ、そっか」 能動的だ、と感じ入る。ほぼ母に従っていればよかっただけのシェリーには、価値観を擦り合わせるというのが、まだ慣れない発想だった。これも「脳の筋肉」というものに連なるのだろう。 臆してばかりいないで、踏み出すしかない。 「アレクス、来週仕事ある?」 「さすがにクリスマス前後は予定入らねえよ。なに、なんかしたいことあんの」 「したいことって言うか」 シェリーは苦笑した。 (一緒に過ごしたいだけなんだけど……) むず痒くて口にできない。答えあぐねてると、リクターが「あっ」と言ってこちらを見下ろした。 「そういや同僚が美味いタイ・中華料理やってるとこ見つけたって。365日開いてるらしいから、当日はテイクアウトにしようぜ」 「中華好きだし、いいよ」 そう答えながらも、シェリーはやや拍子抜けする。 自身で素晴らしい晩餐を用意しようと企画していたわけではないが、クリスマスにテイクアウトはなんというか、初めてである。 (そういうのでいいんだ) なんとなく彼が祭日にこだわらないタイプな気はしていた。 (家族は――アレクスは疎遠になってるから関係ないか。私は、叔父さん叔母さんのお誘いはもう遠慮しておいたし) 自分たちはこれでいい。誰に断る必要もない。 (イルミネーションを見に行かなくても、私の暗闇を照らしてくれる導はもうここにある......なんてね) 親族への義務よりも二人で祝日を過ごすのを想像するほうが、心が躍った。実はこっそりプレゼントも買ってある。ツリーもライトも飾らなくても、二人で決めた過ごし方こそが正解なのである。 「んでクソ映画も観ようぜ」 「それなら私が選んでみたい。ホラーじゃないけどベタなクリスマス映画」 「ダッセェのにしてくれよ」 「任せて」 「おう、楽しみにしてる」 並んで歩きながら――今日の幸福と、来週、そしてその先に続くであろう時間に想いを馳せた。ふたりでテイクアウトを平らげて、後片付けを後回しにして。ブランケットに包まって、もし映画がつまらなかったらそこで寝ちゃったりして。プレゼントを渡すタイミングは食事時でいいだろうか。どんな顔をしてくれるだろうか。 いつかまた別れが来たとしても、今度はずっと思い出が心の支えとなってくれるように。そっと、胸の内に願う。 それから来年は暖炉の前で、もしかしたら新しいソファで、身を寄せ合ってやはりダサい映画を鑑賞している様子を夢想する。 どれも、とてもとても幸せな光景だった。 |
9. c.
2026 / 03 / 27 ( Fri ) 「三年だね。わかった、そうしよう。二人で決めるって、いいね」
「契約っつーもんはそのうち呪いに感じるかもしんねえけどな」 「かもしれない。でもどんなに重荷でも苦しくても、その度に今日のことを思い出すよ。こんなに幸せだったんだなって」 「……そうかよ」 「そうだよ――って、痛っ!」 鳩にかかとを突かれて、シェリーは反射的に右足で宙を蹴った。うかつだった。まだ片手に持っていたプレッツェルの破片が、ぽろりと地面に落ちていく。 身を乗り出して手を伸ばしたと同時に横からカメラのシャッター音がした。 この男は、またしても。 「変な時に撮るのやめてよー」 呆れてものを言っている間に、鳩たちが落ちたプレッツェルの欠片を奪っていく。なんて抜かりのない生き物だろうと思う。 「写真があったほうが今日のことを思い出しやすくなるだろ」 笑いを押し殺したような声でリクターが応じる。今回使ったカメラはポラロイドらしい。機械音がして、白い紙が吐き出される。 「鳩に敗北してる瞬間を見て思い出せって言うの……」 「そういう写真のほうが、『人生』を感じるんじゃねえか」 「もう」 あまりに彼が楽しそうなので、結局シェリーは怒るのをやめた。 「お、見えてきた」 長方形のポラロイド写真を共に覗き込むと、そこには必死な表情をしたシェリーと鳩との可笑しな一瞬が浮かび上がった。写真の端には菓子袋のロゴが写りこんでいる。その結び目が不思議と、縁起の良いものに見えてきた。 「これもらってもいいかな」 「ダメ。オレが財布に入れるからって、いま決定した」 「えぇ、これを? 私マヌケ顔だけど……じゃあ代わりにあなたを撮らせてよ」 自分も財布に入れて持ち歩ける写真が欲しい、とは言わない。 「今度な」 「絶対だよ。なんなら、散髪した直後とか」 「……わかった」 「やった!」 言質も取れたことなので、もう一度写真を覗き込んでみる。 昔の東洋文明(中国だっただろうか)では、婚儀に花嫁と婿が結び紐を持たされていたらしい。いつか籍を入れる日が来たら、その時もプレッツェルを食べようと思った。 「なに笑ってんだ」 「内緒」 「ふーん……? このあと本屋行っていいか」 「いいよ、私はコーヒー買おうかな」 ここから近い大手チェーンの本屋の中にはカフェスペースが 設けられている。午後ともなると頭が緩慢になりそうなので、ちょうどいい。 「いんじゃね。あそこのダーク・ロースト結構いける」 ゴミを近くの公用ゴミ箱に捨てて、共に公園を横切った。 犬に向かってフリズビーを投げる少年。この季節に敢えてアイスクリームを食べ歩きしている学生の群れ。楽しそうな人々を見て、つられて気分は上昇する。 歩き出して数フィートのところ、シェリーは勇気を出して隣の男と腕を組んでみた。リクターはそれには特に追及せずに普通に話し出した。 「今日だいぶあったけえな」 |
9. b.
2026 / 03 / 26 ( Thu ) 「私はね――」
自宅に近いショッピングモールの美容室の名を答える。 そのあともしばらく雑談が続いた。主にシェリーが昨日あった出来事を語り、リクターが相槌を打ちながら横で食べているという形で。 昨日といえば、叔父夫婦が訪問してくれたのだった。ここ数週間の内に親族を代わる代わる呼んで、母の遺品の処理を進めていて、もうすぐひと段落しそうなところである。遺品を手にしてかつてを振り返り、思い出を語り合ったりもした。その間、シェリーは法律事務所の仕事に復帰し、少しずつ日常を取り戻しつつあった。 喪失感は完全には癒えない。それでも穏やかな気持ちになれる日が増えていく。 なあ、と言ってリクターは最後のプレッツェルの一口を飲み込んだ。 「前のアパートを引き払うんだろ」 「うん。まだ次どうしようか決めてないけどね」 「新しいとこ探さねえか」 「うん……?」 「お前が過去を清算しようとしてるの見てると、オレもコンドミニアム売った方がいい気がしてきてな」 「探すって、つまり」 「一緒に住むかって話」 「え、買うの? 賃貸? それより、一緒にって」 貯金はそれなりにあるが――思い切りすぎでは、という考えがまず最初に浮かぶ。 「別にツーベッドルームアパートでも、タウンホームでもいい。いきなり共同が無理なら、区切って生活すればいいだろ」 「あの、そうじゃなくて。私たち、夫婦でも長く交際してきたわけでもないから、提案自体にびっくりしてるんだよ」 「長さは関係あるか?」 「あ、あるよ」 「つっても、どうせ......」 「ちょっと待って。ちょっと、考えるから」 シェリーは食べかけのプレッツェルを見下ろす。中心のまだ繋がったままの結び目が目についた。指先でプレッツェルの柔らかい結び目をほどき、千切っては食べる。甘さに包まれた絶妙な旨味が、ハニーマスタード味の魅力だ。 彼の言いかけた先がわかってしまう。結婚していなくても、長年の付き合いでなくても、どうせ毎日会いたいのである。同じ家に帰りたい。別々に暮らしている間は移動時間やら家賃やら、無駄が多いとすら言える。 むしろこれはチャンスと見るべきか。お互いのタイミングが合うのだから、この決断が前倒しになっても不思議ではない。 「でもいま流れに任せたらずるずる何年も同棲だけして『結婚しよう』って話がなかなか持ち上がらなくなるかも。それはなんか嫌だ」 シェリーはそう口に出していた。 「まさか書類上の契約にこだわってんのか。わざわざ結婚してどうなるってんだ」 意外そうにリクターが眉を上げる。確かに、お互い両親が別れているので婚姻という制度に思い入れは無い方であるが。 「保険とか税金で大きくアドバンテージがあるよ」 と、淀みなく答えた。世間体のことも多少なりとも気になるが、それは言わないでおく。 「……すげえ現実的な動機。法に触れる職種なだけあるな」 「信頼関係を築くなら、二人の口座を開けるとか、退職金の話もしなきゃだよね」 「確かに」 男は手をぱんぱんとはたいて、指についた菓子のパウダーを払う。そして顎に手を当て、考え込む素振りをした。 「じゃあさ、こうするか」 「うん」 「三年一緒に住んで、それでまだ一緒に居たいって思えるなら、結婚しよう」 「その、三年って数字の意図は」 「オレが三十歳になるから。キリがいいし、決めたことを簡単に覆さなそうな感じがするだろ」 「なるほど?」 そんな感じがするかも、とシェリーは首を傾げた。たとえば車のローンも三から五年契約を結ぶのがメジャーな気がする。 ――結婚、か。 改めて口にするまで、自分にそのような願望があるとは思ってもみなかった。花嫁やウェディングへの憧れは人並み以下にしかなく、両親の昔の記念写真を眺めてうっとりした日々はあまりに遠い昔のことだった。高価な指輪も要らない。 欲しいのは、そう、契りだ。 共に老いることができたなら、どんなに素敵だろうか。 |
9. a.
2026 / 03 / 25 ( Wed ) 青よりも灰寄りの淡い色彩の空から、雲が引いて日の光が染み込んでいく。 待ち合わせの時間にはすっかり晴れているかもしれない。そう考えながら、シェリーはショートブーツを履いた足をのんびり動かした。 クリスマスまであと一週間も残っていないからか、町中は浮足立っている。リースやリボン、ストッキング型のライトをつけた街頭を通り過ぎる。毎年恒例の冬祭りイベントや「ナットクラッカー」「メサイア(ヘンデル)」公演を報せる煌びやかなポスターも、見ていて飽きない。 あちこちに、土曜日の午後のショッピングに繰り出す家族連れが散見される。きっとクリスマス直前セールやらプレゼント探しやらサンタとの記念撮影やらで忙しいのだろう。しばらくとんでもなく寒かったのが急に気温が少し上がったからか、ここぞとばかりに人出が多い。 人波の間を縫い、いくつかの交差点を渡った。やがて公園の端のベンチに腰を掛けて、シェリーは上空に向けて息を吐いた。一応これでも白かったが、やはり今日は体感そこまで寒くない。マフラーを緩め、ダッフルコートの前を開ける。 結果、首元がひんやりと寒くなった。 (早まったかな) 冬に散髪なんてするものではなかったか。先日、背中を悠々と流れていた頭髪を、うなじがあらわになるくらいに短くしてきたのである。今までなかった前髪も作ってもらえた。 文字通り、軽くなった。心も体も。今までの見えない束縛を断ち切る意味もあった。人生で髪がこんなに短かったことなんて、きっと幼児だった頃にしかない。解放感と不安がどちらもすぐそこにあった。 それはそれとして首が寒い。 かと思ったら、くしゃっとした紙の音とともに、暖かいものが耳に押し当てられた。焼きたてのパンみたいな香ばしい匂いがする。 「よ」 右隣を見上げると、アレクス・リクターがいつものトレンチコートを着て、手袋なしの手で白い菓子袋を二つ指に挟んで差し出していた。袋には見覚えのあるマークがプリントされている。 「プレッツェルだ」 「サワークリームオニオンかハニーマスタード。どっちにする?」 男は出会い頭に問いかけて、ベンチに腰を下ろした。珍しくタバコの匂いがしない。 「ハニーマスタードがいいな」 「ほい」 菓子袋を片方渡される。しばらく互いにプレッツェルにかぶりついた。時々リクターは足元に群がる鳩を煩わしそうに蹴っているが、鳩たちはすんでのところで逃げるので、ひとつも攻撃が当たらない。 そういえば違うのはタバコの匂いだけではない、とシェリーは気づく。 「あれ、香水変えた?」 「変えたっつーか、元々好きなやつ三、四種類でローテーションしてんだよ」 「へえ」 「そういやおまえはこれといってつけてないんだな。今度選んでやろうか」 「お願いしようかな」 「おう」 以前と違って、どんなに小さなことでも、未来の話をするのはもう辛くなかった。 (私の人生にできるだけ長くこの人がいるといいな) 再会してひと月と少ししか経たないのに、ごく自然にそう願うようになっていた。最近ではほぼ毎日のように会っているし、互いの家にもちょくちょく泊まる。 「オレも切るかな、髪」 「いいと思うよ。ほかの髪型も似合いそう」 「長いのが好きっつーわけでもねえし」 「そうなんだ?」 「昔はクソ親父に刈り上げにさせられてたからな。解放された後のささやかな反抗で伸ばしっぱなしにして、そのままな。結んでないとすぐ邪魔になる。おまえはどこで切ってきた?」 |
8. f.
2026 / 03 / 23 ( Mon ) 「じゃああの」
「ん」 逆向きにソファの背にもたれかかって、リクターが応じた。 「あなたの唯一無二の、特別なひとになりたい。私が……安息を、つくってみせるから」 「おう」 「それとね。信頼関係を、ちゃんと築きたい」 しばしの間をおいてから、「善処する」と返事があった。 「まだほかに何か言いたそうだな」 「ひ……」 「ひ?」 「お膝に、のせてください」 「今?」 「い、いまがいい」 ソファの背に顔面を沈めて、くぐもった声で男は笑い出した。 「ついにおまえも甘え方をおぼえたか」 「甘え方って?」 「なんでもない。こっちの話」 顔を上げるとリクターは微笑を浮かべて、手招きの動作をして見せた。 今度こそ、シェリーは大人しくソファの影から出てきた。そしておずおずと膝乗りの体勢に移る。 「ソファでこれだと座りづらいんじゃねえの」 「平気だよ」 確かにちょっと足の行き場がないけれど、膝を折っていれば何とかなる問題だった。腰に、男の腕が回される感触があった。 シェリーはといえば、リクターの頬に手を添えていた。 「くすぐってえな」 「もうちょっとだけ、こうしてたい」 鼻先が触れ合うような距離で囁く。「うーん、でもタバコ臭いね」 「ガム買えってか」 ※ニコチンガムは90年代後半から医師に処方されなくても購入可能になっている。 「そうだね。身体を大事にしてほしいから、喫煙はやめてくれると嬉しい」 「それも、善処する」 「男のひとの肌ってじょりじょりしてて、変な感じ」 「何の感想だ」 顔を近付けすぎると唇を重ねたくなるらしい、とどこか他人事めいたことを考える。そして相手も同じ衝動を覚えたようで、そういうことになった。 柔らかい。温かい。目を閉じて浸っていたい―― 「こら、どこ触ってるの」 腰にあったはずの手が、いつしか尻を撫でていた。大きくて温かい手のひらの心地に、そわっとする。 「そっちが誘ってんじゃねえか」 「……まあ、否定はできないかな」 「なんならやめるか?」 「やめないよ」 次の接吻は、もっと長く、そして激しかった。 9話でおしまーい |
8. e.
2026 / 03 / 21 ( Sat ) 「もう大人にもなれば、いちいち自分が見捨てられたっていう落胆は感じなくなる。そんなもんを感じる余裕もなかった、が正しいな」
「……」 いつの間にか、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちていた。せっかくのホットココアが台無しになってしまう、と慌ててシェリーはカップの中身を飲み干した。空になったマグカップを足元によける。その様子を、リクターは目を細めて眺めていた。 「いちいち同調しなくていいんだって」 「同調じゃないよ。私はあなたが送ってきて苦しい人生を代わりに嘆いているんだよ」 「なんで」 「なんでって、それは」 「おまえ、そんなにオレが好きなんか」 突然言い当てられて、シェリーは立ち上がり、ソファの後ろにしゃがんで隠れた。相手の表情なんて確認できるはずがない。 「好きだよ。好きだもん。ごめんなさいね」 と、早口でまくし立てた。 「いや、責めてるんじゃなくてだな。驚いてるだけ。出て来いよ」 「やだ」 「おい――」 「私、恋とかしたことないから、たぶん小娘みたいに舞い上がるし、下手したら粘着するかも。あなたの厚意を、どんどん勘違いする。縁を切るなら今だよ」 言葉を被せて一気に喋った。もうこの際、自分の中にくすぶる醜い感情を全部吐き出してしまおう。これで軽蔑されるなら、もとよりされるべきかもしれない。 嫌われたら悲しい。悲しいけれど、本心を偽ってまで一緒にいられる自信はなかった。ぎゅっと膝を抱えてうずくまり、意味もなく頭を横に振った。 「なんでそう……オレが受け止めきれないみたいに思い込んでんだ。別に舞い上がってればいいだろ」 「だって恋人はめんどくさいって、そう言ってたよ」 「言ったけど。『恋人』はめんどくさいって。気も遣うし」 妙に間があったので、シェリーはおそるおそる振り返った。 リクターはガシガシと髪を片手で乱している。 「おまえのことは、ずっと昔から、かわいくてしょうがないんだよ」 「本当に? 話合わせてくれてるんじゃなくて?」 「そこまで気ぃ回さねえって」本当、と念を押すように答える。「あの頃は……おまえが引っ越した時、アレ以上は互いの人生に踏み込めやしないだろうって。そんなもんだろうと思ってた」 そうだね、とシェリーも同意する。 実際に十年以上会わなかった上に、思い出す頻度も年々減っていった。別々の道を歩んでいるのだと、漠然と理解していたのだ。窮地に立たされなければ、再会したいと強く願うこともなかった。 「もう親はいないし、人生をどうするかは自分で決められるようなとこにいるだろ。だからどうしたいか、言ってみればいい。代わりにどうしてやれるか、オレも考える」 その言葉を聞いて、カチリと頭の中で歯車が合った音がした。 きっとこのひととなら生きていける。嫌なことももちろんあるだろうけれど、アレクス・リクターは、一緒に考えてくれるひとだ。シェリーと共に物事を解決してくれるひとだ。本人が意識しているかはわからないが、既にそうしたいと結論を出しているようだった。 なので自分も考えていかねばならない。どうすれば一緒にうまくやっていけるか、努力を続けねばならない。その責任から決して逃げてはならないのだと思った。 |
8. d.
2026 / 03 / 20 ( Fri ) 「色々あって、ダメになった。でも今はこれでいいと思ってる。家族に元に戻って欲しいとかはなくて、むしろさっさとバラバラになるべきだった」
「そんな風に思えるのはあなたが強いひとだからだよ――って、言ったら怒る?」 「怒らねえよ」 リクターはむしろ呆れたように笑った。 「話してくれてありがとう。私も、これから見つけていくよ。家族……との付き合い方」 「おう」 じっとりと横目で見られている――かと思えばそっぽを向かれた。 「オレの周りって本当に薄情な奴ばっかだったんだよ。実の母親にすら捨てられた」 「う、うん。大変だったね」 「何で姉貴だけ連れてくんだよって問い詰めたら、『あんたは未成年で大して稼げないでしょ、お荷物よ』ってさ」 あまりにひどい話に、シェリーはどう返事をすればいいかわからなかった。 「無責任な女だったよ。けど金が絡んでんだから、結局憎む気にもなれなかった。てめえのいないとこで元気にやってやるよって、ガキっぽい捨て台詞くらいしか吐いてやれなかった」 しばしの間が続き、シェリーは語られたことを反芻した。 (このひとはたぶん頭が良いだけに、気持ちが整理できてるんだろうな) そして相手の視点に立って物事を見ることに、悲しいくらいに長けている。自分の感情を端から咀嚼して、消化できてしまう程度には。 リクターはサイドテーブルからタバコの箱を取り出した。箱を開けないで、角を膝にトントンと当てている。無意識の挙動だろうか。苛立ちとも取れるような、落ち着かなさがにじみ出ている。 やがて箱をいじる手が止まった。 「父親も、アレクス・リクターだった」 「え? そうなんだ」 親子で同じ名前を持たされるということ自体は、男児、とりわけ長男には珍しくなかった。 「家族にジュニアって呼ばれんのが死ぬほど嫌いだった。自分だけの名前が無いのも、あのクソ野郎とほぼ同姓同名なのも」 「……」 自身の名をあれほど毛嫌いしていた裏には、こんな事情があったのか。 「時々、理由もなく、消えたいと思った」 「あ、あなたは! あなたのお父さんとは違うよ。私が言っても、何の気休めにもならないかもしれないけど。同じなのは、絶対に、名前だけだから」 ――ありがとう。 そう呟いて、リクターはタバコの箱をもとの場所に戻した。一方でシェリーは、柄にもなく興奮してしまった己を反省した。 「おまえはオレがいなくなったら悲しいって。別れる前に、最後会った日にそう言った」 「そうだったね」 「あの時にひらめいた。肉親がダメでも、他人との間になら、オレの安息はみつかるんじゃないかって。それがずっと励みだった」 シェリーは、静かに続く男の声を聞き取りながら、喉の奥で息が詰まるのを感じていた。 「だから例のカウンセラーとか職場の奴らと出会えた時、歩み寄ろうって思えたのも、巡り巡って、おまえのおかげかもな。人間関係うまく行かなくても、引きずらないで生きてこれた」 はあ、と彼は一旦ため息をつく。苦い記憶を嫌々洗い出すように、眉間に皺を寄せた。 |
8. c.
2026 / 03 / 19 ( Thu ) 「石の破片?」
マグカップをいったんサイドテーブルに置いて、渡されたものを観察した。 「ジオードだってよ。中身はたぶんクォーツ」 「ありがと」 晶洞(ジオード)の名はなんとなく知っているが、実物を見たり触れたりするのは初めてである。シェリーは受け取ったそれを、片手の中で転がしては、膝の上に乗せた。片面が滑らかで片面はでこぼことしている。ついさっきまでリクターの手に握られていたせいか、温もりが残っている。 外側はただの地味な石ながら、内側は青みがかった白い水晶に彩られている。濁っていて、美しいとは形容しづらいが、眺めていて不思議な気分になった。 半分に割られたと思しき石の片割れは、未だに男の手の中にある。 「前にも言ったな、お前は真面目すぎんだよ。自分本位で何が悪い。社会に貢献するとか何のための人生とかいちいち考えなくたって、日は昇るだろ。衣食住を確保して、他人に迷惑かけない程度に好きなことやってりゃ、十分なんだって」 「そう、だよね」 「生きる意味とか夢ってやつは見つかれば見つかるし、見つからないなら見つからないでいいんじゃね」 「…………うん」 「鬱々してる時って何言われても響かないだろうけど。これだけは言っとく」 男の静かな語り口がほんの少し速まったのを聞き取って、シェリーは顔を上げた。 見下ろす表情は、いつになく真剣だった。 「オレはおまえの味方だ」 すぐさま、首を傾げるようにして目を逸らされた。 立ち去ろうとする男のシャツの裾を、反射的に握った。柔らかい生地の感触が指の間に擦れる。 気恥ずかしくて、シェリーは男の黒いシャツの端を見つめた。 「ありがとう。響いたよ」 「なら、いい」 「こんなにもらってばかりで……私は変なものいっぱい引っ提げているのに、あなたは、よく付き合ってくれるよ。あの頃から私は、何も返せてないのに」 「はあ」なぜか気の抜けた返事があった。「変なモン引っ提げてんのは何もおまえだけじゃねえだろ。むしろなんでオレが何ももらってないって思ってんだ」 「え? だって本当に何も……してあげられてないよ」 はあ、と再び盛大なため息をつかれる。 リクターはどかっとソファに腰をかけ、テーブルに置かれたシェリーの飲みかけのホットココアを手にした。二口ほど飲んでは、こちらに渡してきた。その拍子に触れた指先の温かさに、心臓の音が弾んだ。 「オレはクソ親父の死んだ日に、毎年花を手向けに行ってる。今年もてめえみたいにならずに済んだって、報告しに。向こうがそれを望んでるなんて絶対思わねえけど」 男の目線は部屋中をさまよい、しばらくしてから、手の中のジオードの上に落ち着いた。 「うちもずっとずっと昔は、普通だったんだよ。普通に家族やってて、親父は建設会社の社員やってて。休みの日に公園行って、月に一度は揃って外食して」 「そっか」 シェリーたち二人が出会った頃には、リクター家の「普通」にそのような微笑ましい光景は含まれていなかった。それを思うといたたまれなくて、胸が苦しい。たとえ当の本人はほとんど吹っ切れたように話していても。 |
8. b.
2026 / 03 / 17 ( Tue ) 外階段を一段、また一段と上っていくうちに、胸中が静かになっていく。 リクターが先導して開けてくれた扉を通る。壁に差し込まれた小型ナイトライトだけが淡く照らす空間を、怖いとは感じなかった。 大仰な音を立てて扉が閉まる。 靴を脱ぎ終わったのと同時に、後ろから抱きすくめられた。 わっと小さく声を上げた後、どうしたの、と訊くことができなかった。暗闇の中で立ち尽くす。 「…………今後は、勝手に消えるなよ」 肩を包み込む腕の力の強さに驚きながら、男の指先が、声が、微かに震えていることに気付く。己の行動が彼を深く傷付けたのだという自覚が、この時にしてようやく芽生えた。 「うん。二度と、しないよ……。約束する」 この決意が伝わればいいなと思う。 肩を抱く手に自身の手を重ねて、心の中でそう願った。 「粉末ココアあったわ。飲むか」 毛布に包まって温まってろと命じられておとなしく従っていたシェリーは、その質問に小さく頷いた。 リクターは普段あまり使用しないという旅行用バックパックを漁っている。灯台を往復したのをきっかけに、前回使ってから荷ほどきをまだ完全にしていなかったと思い出したらしい。 「消費期限は大丈夫なの」 「半年過ぎてるだけだ、大丈夫だろ」 ガスコンロが点火する。ケトルが温まるのを待っている間、ソファの端に座って、シェリーはぼうっとした。 「私、弁護士になんてなりたくないよ」 「あ? 急にどうした」 「だって人前に立って喋るのは好きじゃないし。弁論とか議論とか、苦手なんだよね」 「まあ、そんな気ぃしてた」 「これからどうしよう……」 敷かれたレールをこのまま突っ走ることはもはや不可能だ。結局、自分の気持ちに折り合いをつけなければならないし、身の振り方も決めねばならない。 「難しいなぁ。自分で決めるのって、難しいよ」 大海に投げ出されたような、そんな気分だった。もちろん実際にそんな経験をしたことはない。 毛布を頭から被った。暗くて狭くて温かい空間に身を委ねる。 「そこんとこ、問題は一個ずつ向き合うしかないな」 「……ちょっと、喋っててもいい?」 毛布をずらして隙間を作り、外に向かって問いかける。 「おう」 了承を得たので、シェリーはとりとめのない話をした。順序不同、脈絡はあってないような独白。法律は何年学んでも特段好きになれないけれど、調べ物や読み物をするのは好きということ。リクターの棚で見つけて勝手に読んだSF冒険譚が面白かったこと。母に対する不満、尊敬、それから、子供の頃から知らず知らず他の人に抱いてきた憧憬について。抱いてきた対象の中には、かつてのルームメイトたちも含まれた。 やがて話の焦点は、母を喪い、自分本位に生きることへの不安に戻った。何もかもダメなのに、こんな自分が生きていていいのか――。 他人に愚痴ってどうしたいのだろう。これといった目的を見いだせないまま、ただ心の内を吐露した。対するリクターは時折短い相槌を打つだけで、口を挟まなかった。 お湯が沸いて熱々のマグカップを手渡された頃にはシェリーにはもう話したいことがすっかり減っていた。毛布を脱いで室内の明るさに再び目を慣らすと、ざわついていた心も、いくらか落ち着いてきたように感じる。 濃厚な甘い香りを発する熱い液体の表面に、息を吹きかけた。涙が滲んだのは心の動きがあったからなのか、それとも単に湯気がまつ毛をくすぐるからか。 少し飲んでみる。さすがは粉末ココア――消費期限を過ぎていても、ちゃんと美味しい。 「やる」 手のひらに載るほどの大きさの硬いものを差し出された。彼が以前の旅先で拾ってきたのだという。 |
8. a.
2026 / 03 / 12 ( Thu ) 頬が撫でられた感触で、目を覚ました。寝ぼけ眼を開けると、呆れまじりの微笑が目に飛び込んでくる。 「起きろ。着いたぞ」 リクターは車のハンドルの上に腕を組んで頭を休めた。さすがの彼も疲れたのだろうか。少し乱れた濃い茶色の髪が、鼻にかかっている。 「運転ありがとう」 先ほどのお返しとばかりにシェリーは手を伸ばして、垂れた髪のひと房をそっとどけてやる。 「それくらい、別にいい」 「ね、私さっき昔の夢を見てたみたい。あなたが飴玉で慰めてくれた時のこと」 「飴玉? んなことあったか」 シェリーは首肯した。夢に見るまで記憶が薄れていただけで、確かにあったのだ。正確なきっかけはもう忘れてしまったが、些細な失敗をして母に無能だと罵られた時のことだった。夜中に窓から入ってきた少年が、泣いているシェリーを気遣って、ポケットから棒についた大きめの飴を取り出して渡してくれた。 ――ほら。いい加減、泣き止めって。 ――ロリポップ? ――学校の行事でもらった。この前イースターだったろ。それでも食って元気出せよ。 ――でももう歯磨いちゃったよ。 ――そんなん一回ぐらいサボったって死にゃしねえって。 ――これ、あなたが自分で欲しいと思って取っといたんじゃないの? ――オレがいいっつってんだからいいんだよ。さっさと受け取れ。 当時の顛末を話し終えると、現在のリクターは苦笑いをした。 「あったな、そんなことも」 「自分が食べたかったはずなのに私を励ますために譲ってくれたの。優しいのは昔からだね」 一瞬、何かを言いたそうな表情をして、けれども気が変わったかのように、リクターは顔を逸らした。次いでエンジンを切って、車から出た。 シェリーにはどうしたのと問い詰められるほどの勇気も――彼の言葉を借りれば「信頼関係」も――ないので、とりあえず自身もカードアを開けることにした。 ハンドバッグを取り、地面に足を移すのにもたついていたら、いつの間にか視界に男性用のミリタリーブーツと暗い色のジーンズが入り込んでいた。 「その解釈は微妙に違う」 「え?」 「さっきの話――っと、足滑らせないように気を付けろよ」 手を差し出された。シェリーは素直にそれに自らの手を重ねる。 互いに断りを入れるでもなく、そのまま手を繋いで慎重に歩いた。 「解釈が違うっていうのは?」 「そんな都合良く飴を持ち歩いてたわけねえだろ。オレは最初から、おまえにやるつもりで持ってたんだよ。もっと言えば、学校から袋いっぱいのイースターエッグとキャンディを持って帰ってきた時点で、何をあげれば喜ぶか考えて……まあ、無難なところに落ち着いたな」 「そうだったんだね。なんであれ、私は嬉しかったよ。甘くて、美味しかった」 「そうかよ」 「お母さんにはいい物食べさせてもらってたし、凝ったお菓子ももらえたけど、キャンディはあんまり食べさせてもらえなかったな」 「ハロウィンの戦利品も取り上げられてた的な?」 「そもそも、トリックオアトリートは本当に小さい頃にモールに行ったきり、その後は全然行かなかったよ」 「おまえんち金あったくせに、変なとこで損してんな」 「今だから言えるけど、私もそう思うよ……」 振り返れば振り返るほど、わからなくなる。己の中の不足していた部分と、満足していた時間は、どれも真実だったように思う。 わからないことだらけだけど、もうひとりで考えなくてもいいと思うと、いくらか気が楽だった。 |
7. g.
2026 / 03 / 11 ( Wed ) 「おまえは! オレをロボットか何かと勘違いしてんのか!」
「え!? なんで」 「昔馴染みが現れて、そんでいきなり消えて、何も感じないような奴だって。そう思ってんのか。そりゃあオレの周りは薄情な人間ばっかだったけど、そこまで染まっちゃいねえよ」 「ち、違うよ。薄情だなんて絶対に思ってない」 むしろ今も昔も、面倒見のいいお兄さんだと思っている――こんなグダグダな自分の相手もしてくれるくらいには。 (烈火のごとく怒ってる……どうして……?) 抱えていた頭を上げて、シェリーは正面の男を見上げた。いつの間にフードを被り直して、片手で引っ張るようにして固定している。 髪と影がかかっていて顔がよく見えない。 「こっちだって、居心地が良かったんだよ」 風と水の音の合間を縫うように。彼は、とても静かに語った。 「オレはおまえにコーヒーを淹れるのも、一緒に飯作ったりクソ映画を観たりするのも、楽しい。だから」 ――行くなよ。 その一言が脳に染み渡った瞬間、喉の奥にぐっと何かがつかえた。目に涙がにじむのがわかる。 「実際のところ、どうしたいんだよ」 「私、は……」 ごくりと生唾を飲み込む。言葉にできるだろうか。今なら、本心を。もう一度息を吐いて、吸い込んだ。 「本当は、この生活が楽しいよ。離れるのは嫌……だよ。隣でテレビ観たりごはんを食べるのが好きだし、一緒に洗濯物を畳む時間も好き。冷蔵庫に残った肉も作りたい、栄養バランスのいいものを食べさせたい……それであなたにも、贅肉つけてほしい」 「…………贅肉?」 「本心だよ」 「ハッ、なんだそれ」 そういうたまに漏れるちょっとした笑い声も、ついでに寝息も、実は好きだ。でも恥ずかしいので、さすがにここまでは言えない。 「戻ろうぜ。詳しい話はそれからだ」 彼は親指で駐車場を差した。 シェリーが必死の覚悟で言語化した想いを、リクターは一笑に付した。けれどそれを腹立たしいと感じずに、どこか安堵してしまう。 引かれなかった。それどころかどうしてこうも、受け入れてくれるのか。何事もなかったかのように、話を繋いでくれるのか。 「あの車レンタル? どこ社?」 問われて、シェリーは黒と黄色のロゴの某有名レンタカー会社の名を答えた。一日だけ借りる予定だったので、保険プランは取っていない。 「ここから五分の距離に支店があるぞ。返しに行くなら付き合う」 「今返却したら私、足が無くなるけど」 「帰り乗せてってやるから」 「えー……」 荷物はもう自宅にあるし、色々と面倒では――言い訳を考えている間に手首を掴まれたので、シェリーは結局言われるがままにした。彼が力を加減したのか、本気で振りほどこうと思えばできただろう。 流されたと言えばそれまでだが、満更でもなさそうだと言われれば、それもその通りだったのである。 * 「ありがとうございました! またのご利用お待ちしております」 「はい、また」 他愛ない挨拶を交わして、シェリーはレンタカー会社の店舗を後にする。自動ドアが開くと、ぶわっと冷気が皮膚に当たる。慌てて手袋を付けなおし、足元に注意を払う。 駐車場までの歩道は丁寧に雪かきがされていた。店員の頑張りに内心で敬意を払いながら、電柱の近くでたむろしているトレンチコートの男を探す。 リクターは片手に開閉式の携帯電話を手にしていた。通話を終えたばかりのようで、端末を耳から離し、パタンと閉じた。 「フリップフォンだ。携帯電話、持ってるんだね。使用料高くない?」 「借りモンだよ。出先で連絡つくように、上司に持たされてる」 「へえ。それで同僚の人と話してたの」 「そんなとこ。顔出せって言われたのに行かないことにしたから、せめてあれこれの進捗は聞いとこうかと」 「…………ごめ」 言葉半ばに鼻を摘まま摘ままれた。皮膚に、冷えた革の感触が擦れる。 「無事だったから、いい」 鼻を解放された後にシェリーは頷いた。 無言で、大きな背中についていく。 リクターの車は本人が宣言した通りにやや旧そうなモデルの、ハッチバックだった。独り身なのにこうも広いのは機材を運ぶためだろうか。 「眠かったら寝ていいぞ。どうせ、道中は大して見るもんないだろ」 「わかった」 車体の右側の助手席に乗り込んでシートベルトを締めた。カーシートの生地はあまり座り心地がよくなかったが、席を倒して、精一杯くつろげるようにする。 「一本いいか」 「あ……うん。どうぞ」 「おまえ、オレをストレスを感じない人種とでも思ってる? そんなわけねえし」 男はタバコの箱を振って、早口でまくしたてた。火をつける手付きにも、苛立ちが滲んでいる。 (私、何も言ってないのに) 無意識に疑問符を飛ばしたのだろうか。そういえばタバコを吸う人は、極度のストレスを感じるといつも以上に吸いたくなると聞いた気がする。 (……それだけ心配してくれたのかな……。自惚れかな) 煙たくならないように窓が少しだけ開いている。冷気が入り込んで寒いが、シェリーは言及しないでおいた。 「あのね」 リクターが吸い殻の処理をしている間に、声をかける。 「んん」 「迎えに来てくれて、ありがとう」 「おうよ」 エンジンがつく音を聴いた途端、どうしようもなく眠くなった。あの嗅ぎ慣れてしまった香水とタバコの匂いが、車内に充満している。ごうごうと暖房がうるさいのも、しばらくして気にならなくなった。 鼓膜の奥に湖の音が残っている。 たとえ体勢がよくなくても、きっと穏やかな眠りにつけそうだと、そんな予感がした。 残りが微妙な長さだったので一気に出しました。 |
7. f.
2026 / 03 / 05 ( Thu ) 「捨てられた子犬みたいな顔してた奴が数日後に『もう大丈夫』つったところで、それを鵜呑みにしていいほどの信頼関係があるか? オレとおまえに」
「え……? わ、かんないよ」 シェリーはこうして責められながらも、リクターが心配してくれたのだと言うことは、なんとなく感じ取っていた。 「いつからここに居た?」 「三十分に満たないかな……一度家に帰ってからまた出て……車の手配して」 それにしても寒い。降雪は止みつつあったが、冷えてきたため言葉を発しづらい。顎が震えて、舌もうまく回らない。 リクターはベンチの正面に周り込み、軽く雪を払ってから、座った。 「気が済むまでいればいいって、最初に言っただろ。それで気は済んだのか」 「…………」 しばらく、何も告げることができなかった。自分の奥深くで渦巻く本音を言語化するには、まだ心の準備が足りない。 手元から視線を上げず、十数秒経ってから、言葉を繋いだ。 「何日も居座っちゃって、やっぱりよくないなって。迷惑をかける前に出ていこうと思ったの。そうすべきだと思ったから」 「自己完結してんじゃねえ。オレは一度でも『出て行け』と言ったか」 リクターの返答は刺々しい。 「言ってない……でも」 「おまえがオレの迷惑を語るな。再会して一週間も経ってないのに、話し合わずに相手の視点から推し量ろうってのが無理な話なんだよ」 「い、いちいち正論だね」 「思い込みだけで大胆な決断すんなっつーんだよ。危なっかしいったらありゃしねえ」 反論できなかった。 言いたい放題だな、という不快感と、こういう風に怒る人だったんだ、という奇妙な感心が同時に沸き起こっていた。 男は腕を組んで、黒い手袋に覆われた指で軽く腕を叩いている。湖を見ているのだろうか、その横顔は真剣そうだった。 「で? 出て行った後はどうする気だったんだ」 目が合った。横顔を盗み見ていたことはバレてしまったに違いない。 どぎまぎしながら、シェリーはこれから身辺整理をするつもりだと話した。 「ふーん。ひとりでか」 「どうだろう、落ち着いたら一度叔父さん……お母さんの弟さんに連絡しようかなって。手伝ってくれるかはまだわからないけど……」 長いため息が聴こえた。 「勝手に消えんなって言ったのに」 ――ん? 話が見えない。と同時に、ちらりと古い記憶が呼び覚まされかけた。いつ、そんなことを言われたのか。思い出そうとして考え込んで、別の疑問が沸いた。 「あの、どうやって私の居場所がわかったの? それも結構、追いつくのが早かったような」 リクターはフンと鼻を鳴らした。 「物覚えはいい方だっつっただろ。ここが気になってたって会話があったから、もしかしてと思って写真の束を漁ったら、ちょうど一枚なくなってるのに気付いたまでだ」 「うん。言ってたね」 物覚えが良いと、最初から言っていた。そして、これでひとつ合点が行った。 「あなたは――あの時の約束も憶えていたんだね」 「おう、『死にたくなったら会いに来い』だろ。果たしに来たのはそっちだったけどな」 今日初めて聴く柔らかな声。白い吐息の向こうに、珍しく柔らかな表情が浮かんでいる。 ――そうか。この人は憶えていたから、再会したときからそういう風に受け取って、受け入れたんだ。だからきっと、手首の傷にも目ざとく気付いた。 (かなわないなぁ) 恥ずかしさを感じたと同時に、頼ってよかった、という安心感があった。 「んで重ねて訊くけど。本当にもう大丈夫なのか」 「だって……ダメだよ」 「どうすべきかとかじゃなくて、おまえ自身はどうしたいのかまだ聞いてないって話」 射貫くような双眸に、シェリーはもう一度「ダメだよ」と呟いた。 「あなたの傍は居心地が良すぎる。私の願いは、きっと呪いになる」 言い終わらないうちに男が素早く立ち上がった。 ――ガンッ! 突然の衝撃に、小さく悲鳴を上げて怯んだ。 ベンチの足を蹴られたのである。 |
7. e.
2026 / 03 / 04 ( Wed ) 小腹が空いて起き上がった時、そういえばベッドは空(から)だった。居候はトイレにでも行っているのかとあの時は気に留めなかったが、廊下は暗い。眠りについた際は、確かに傍に居たのに。 「せっかくですが」 『珍しいな、先約か』 「先約ってわけでは……」 返事を先延ばしにしながら、電話のコードを目いっぱい引っ張って、歩き回る。 コーヒーテーブルの上に見覚えのない紙切れが置いてあった。ホテルで配布されるようなメモ用紙を破いたのか、端っこに有名なホテルチェーンのロゴがある。 手に取って、短い内容に目を通した。 それを二、三度読み返すと、胃に鉛が落ちたような気がした。 シェリーが去る時は引き留めないつもりでいたのに。これでは、放っておけるわけがない。むしろ、おそらく、人としてその選択は間違っている。 「すみません。用事が出来たので見送らせてください。落ち着いたらまた電話します」 『お? なんだなんだ。よくわからんが、気を付けろよ』 ――この男はどんな時でも気遣いの言葉を添えてくれる。 短く礼を言ってから受話器を戻し、車のカギを手にした。 (闇雲に捜しても意味がないな。家の番号……は知らんし) 職場は法律事務所の名前でイェローページを調べれば電話番号が見つかるかもしれないが、この時間にかけたところで誰も出ないだろう。 車のカギを繋いでいるキーリングを人差し指でぐるぐる回しながら思考回路を働かせた。実際は、考えているだけで二十分以上は経った。 あれの好きな場所も思い出の場所もわからない。普通に家に戻ったのかとも考えられるが、他に手掛かりがあるとすれば――。 ふと棚の上の箱が目に入った。 普段の位置とややずれているような気がした。それはこの間、開けられたばかりだからだ。その際のやり取りが脳裏によみがえる。 何かを察して、アレクスは箱に手を伸ばした。 * 「おまえ、メモになんて書いたか思い出せ。あんな文面じゃ、身投げに行ったかと思っただろ」 「私、そんな怖いこと書いた!?」 指摘されて、シェリーは真剣に思い返す。書き置きにはたった二文を綴っていた。 ――― Thank you for everything. I'm all right now, so I'll be heading out. (何から何までありがとうございました。 もう大丈夫なので、私は出て行きます。) ――― ごく普通の文言のように思えた。世話になった礼と、急にいなくなったことに対して、事件性がないと告げる言葉。面と向かってお別れを言わなかったのは、ちゃんと言える自信がなかったからであって、それ以上に変な意味はない。 「訊かれてもないのに大丈夫って言うやつは信用ならねえんだよ」 「飛躍しすぎじゃないかなぁ」 あの二文を遺書と解釈するのは、いくらなんでも無理があるように思えた。「行く」や「旅立つ」という類の言葉から「この世を去る」の意を汲み取ることもできなくはないかもしれないが。 |
7. d.
2026 / 02 / 27 ( Fri ) もうひとつ―― 温かくて柔らかい、いつかの少女との約束。 どういう声だったか、どういう顔だったか。年々記憶は薄れていったが、その時に抱いた感情はずっと覚えている。 たとえ新しい連絡先を手に入れていたとしても、きっとあの母親に妨害されて話をすることは叶わなかっただろう。脳内で何度もそう言い訳して、心底やっていられない時にあの約束を思い返して、腐らずに生きていこうと己を鼓舞した。 それが数日前の夜、リビングに現れた女を認識して、驚愕した。 懐かしい面影を見つけて、それでも警戒したままに話を聞き出して――ああやっぱりそうなったか、とどこかで腑に落ちたりもした。 彼女はアレクスと違って裕福な家庭で可愛がられて育ちながら、心の休め方を知らないまま成長してしまった。それを憐れに感じたから、泊めてと乞われたらあっさり受け入れた。 最初は深く考えていなかった。 昔の知り合いと言ってももはや他人、また距離を縮めるプロセスは、どうしても面倒だった。 だったのに―― 『いらっしゃい!』 『おはよう』 『おかえりなさい』 迎え入れる満面の笑顔が、昔と重なった。後にも先にも、こんなに嬉しそうに自分に挨拶をしてくれる人間はシェリーだけだろう。 身体が成長していても、中身の純真なところはまるで変わっていない。この世に変わらないものを見つけられて――口には絶対に出さないが――実は感動していた。 ――なんだ、この安心感は。 ダラダラ喋っていても飽きが来なくて、気楽なものだった。彼女には打算的な部分が認められない。 これが、拠り所。 いつしか考え込むようになっていた。どうすればこの娘は手元に残ってくれるだろうかと。そして思い至った。 ここに居て欲しいなら、居座りたくなるような環境を作ればいい。半ば無意識に、あれこれと手を焼いてやっていたのは、つまりそういう思惑があってのことだった。 だが無理強いはできない。 何故なら、あれはまだ、自由意志というものを掴もうとしている段階にあるからだ。考え抜いた末に元の生活に戻りたいと結論付くのであれば、引き留めるのは野暮というもの。 けれど今度はちゃんと電話番号と住所を聞いておこう、とだけアレクスは考えていた。 水を飲んで冷蔵庫から出したストリングチーズを食べ終わった頃合いに、電話が鳴った。 (いや、朝の六時) どうせチームリーダーだろう。あの男はいい記事の芽を見つけ出す嗅覚に優れているが、一度走り出すと周りの都合を考慮しない猪突猛進な性質がある。 (あー……ワインはどうにも相性悪ぃな) 体感、赤ワインは後日胃腸に響いたり、頭痛に転じやすい。今回はどこが悪いと特定はできないが、全体的にだるい。 急がずに向かい、三回鳴ったところでようやくたどり着けた。受話器を耳に当てると、途端に元気いっぱいな声が響いた。 『よろこべリクター!』 「うるさっ――何ですか朝っぱらから」 『昨日の嵐、案外積もらなかったぞ。除雪車が頑張ってくれた甲斐もあって、車道はすっかり開通してる。おまえいつも仕事増やしたがってるだろ』 今日は休みではなくなったから、出社して来いとのことだった。 ――人をまるで働くマシーンみたいに。 が、これまでを振り返ると、否定はできなかった。金はいくらあっても足りないし、時間を拘束しうる他の要素がアレクスの生活には無かった。もともと定時に上がるような職種ではなかったし、週末だろうと夜中だろうと呼び出しに応じてきた。 けれど今日は―― 室内に視線を巡らせて、はっとする。 ここ数日ソファの横に置きっぱなしになっていたボストンバッグが無くなっている。 |
7. c.
2026 / 02 / 24 ( Tue ) 「そういうおまえは何でこんなところに居んだよ」
聞いたことのないような毒を含んだ声が返ってきた。元々彼は顔立ちは整っていた方だと思うが、怒りに歪んでいると、威圧感がすごかった。 「私は、えっと……」言い淀んで、うまい答えが思いつかなくて、目を泳がせた。「あの、なんか怒ってる?」 「怒ってるように見えるか」 「見えるけど。心当たりが無いというか、なんというか」 思いがけず、呆れたようなため息が聞こえた。シェリーは泳がせた視線を再び、相手の面(おもて)に定める。 「…………飛び込んでたらどうしようかと」 これもまた、見たことのないような苦い表情をしている。 「え、え?」 あんなに寒そうな湖に、飛び込む――? 正面を向き直り、灯台の下(もと)で揺らめく湖面を見渡した。水面は相変わらず、凪いでいる。 * アレクス・リクターの人生において幸いだったのは、模範とすべき人間と反面教師とすべき人間のどちらとも出会えたことと、双方を的確に処理する賢さを自身が持ち備えていたことである。 そして巡り合わせが、タイミングが良かったことだ。 万引きで捕まって某スクールカウンセラーに気をかけてもらえたのと同時期に、酒やタバコを教わった悪友がそれぞれ面倒ごとを起こしたため、結果的に縁が切れることとなった。ひとりは女関係でヘマをやって妊娠・中絶の後始末に追われ、もうひとりは未成年の麻薬保持により少年院行き。その後は生存確認くらいはするものの、つるむ機会は完全になくなった。 自分はそうはなるまいと、アレクスは努めて軌道修正した。 趣味に打ち込んだり、余った時間は市営図書館でやり過ごしたり。できるだけ遅くまでシフトを入れていれば、家族とはちあわずに済むので気楽だった。親の署名が必要な書類は当然ながら、でっち上げた。父の字を真似るくらいはわけがなかった。それから、家に帰りたくない日に訪ねる友人は、以前よりも慎重に選ぶようになった。 その頃には既に父の酒癖は悪化して、パートすら続かなくなっていた。それまでなんとか家を支えていた母もついに嫌気がさしたと吐き捨てて、姉を連れて出て行った。 見捨てられた。 アレクスがそう感じたのも、当然の流れだった。肉親ですらこれだから、他人にはなおさら期待しない。 だというのにあのカウンセラーだけは、どんなに忙しそうにしていても必ず声をかけてくれたし、対話する時間を取ってくれた。背が低くて肥え気味な冴えない印象の眼鏡男で、禿げた頭を撫でながらのんびり喋る癖があった。 『人には心を休める術が必要だよ。それがあれば案外、この世は捨てたもんじゃないって思える。君に足りないのは、好きなものを探す努力と時間――それを自分で自分に課すことだ』 勧められた通りにしてみたら、本当に色々とマシになった。 高校(ハイスクール)を無事に卒業できたのは、そのカウンセラーのおかげだったといっても過言ではない。後に働く場所を求めてさまよっても、行く先々で程よい人間関係を築くことができたものだ。他人に期待しすぎず、失望しすぎず、それなりのいなし方もおぼえた。 『趣味でもいいし、安らげる相手でもいい。子供は甘えられる大人が必要で、大人にだって拠り所が必要なんだ。君の家にそれがなかったのは残念だけど、どうか腐らずに今後も頑張ってほしい』 『あんたにもらったもんを無駄にしない程度には頑張るよ』 『あはは、気楽にな。頑張って生きてるだけでえらいんだよ。君は本当は、美しいものを探すのが好きなんだろう?』 『うるせえ』 美しいものを探して、画像に納めるのが密かに好きだった。 飾りたいわけでも見せびらかしたいわけでもなくて、手元に仕舞ってあるという事実が、いつも支えになっていた。人との関係は流動するものだが、美しい瞬間は永遠だ。 |


