34.e.
2014 / 07 / 14 ( Mon ) 「幻……じゃなくて。ほん、もの……?」
「何の話だ」 そっけない返答。疑う必要は無いと、左眼がドクンと強く鼓動を打った。 ――血の臭い。まさか此処まで来る途中で怪我したんじゃ―― 喉頭を使うよりも呪いの眼の通信機能の方が楽だったので、直接呼びかけた。依然姿が見えないけれど、確かに傍でその存在感を放っている血縁者に。 ――どうでもいい。ほぼ返り血だ。 至近距離からの「返事」は、何やら不思議な感じがした。 ――ほぼって、じゃあ多少は違うんだ……。 ――そんな話よりお前こそしっかりしろ。 大したことないよ、と声に出して笑おうとした途端、胃が急に凝縮した。焼けるように熱い物が喉を逆流する。苦味がひどい。 ゴボッ、と重苦しく濡れた噎せ方をした。液が唇から溢れて顎を伝う。それがそっと拭かれる感触があった。 ――ねえ、兄さん。僕はまだ、其処に居る? ――…………。 沈黙からは気遣われているような、心配されているような雰囲気が滲み出ている。 ――手足とか指とか揃ってる? ――質問の意味がわからんが、四肢は揃ってる。後は……アザが。 その一言から察した。全身の肌が所狭しと醜いアザに覆われていて、それも毒の作用なのだろう。 自分を取り巻いていた光景が幻覚に過ぎなかったのだと発覚して、リーデンは僅かに安堵した。それはほんの束の間の安堵ではあるが。 絶対的な別れの刻が迫っているのに変わりはない。 ――僕は今でも、里親を殺したことを後悔していないし、それが間違っていたとも思わないよ。でも、もしもあの時の僕に二人を赦すだけの器があったのなら……もしかしたら違った結末を迎えられたかもって、思う。 ――結末? くだらない話をするな。結末は今じゃない、もっと先にわかることだ。 ――先なんて無理だよ。だって…… ――無理じゃない。互いの存在が本気で鬱陶しくなって、どっちが先に老衰で逝くのか、遺る財産は誰の手に渡るのかと言い争うのが日常になるまで、ずっと付き合ってもらう。 「あはは、面白い、こと……言う、んだね」 それは彼らとは無縁な未来だった。財産と呼べるほどの何かが貯えられ、老衰による自然死を迎えるなどと。 「死ぬな、リーデン」 無機質が常な声に、一筋の焦燥が差す。 「お前が死んだら、お前だった魔物を捕えて籠に閉じ込めて一生苛めてやる」 横たわるリーデンの肩を支える手に、ぎゅっと力がこもった。温かい滴が落ちて来る気配がする。 「なに……それ。兄さん、すごく、きしょくわるいよ」 表情筋が緩んで笑みになったかもしれない。これまで聞いたことの無い、そして二度と聞く機会の無いであろう、兄の冗談が珍しくて。 (あーあ、どうしよう。今更、怖いなんて。寂しいと思うなんて。人間の感情って本当にめんどくさいなあ) この世に残るたった一つ意味のある存在の腕の中で息を引き取れるんだから、これでいいやって満足できれば良かったものの。 「冗談はこの辺で終わりにして、帰るぞ。ミスリアも、お前の可愛がってる女も待っ――……」 語尾に向けて、言葉が聴き取れなくなっていく。 (あれ? 水の中を伝ってるみたいに、ごぽごぽしてて聴こえないや) それだけでなく、握られている手を握り返したいのに、さっきから全く指が動かない。 残存する自我の中で、「嫌だ」と「ここまでか」という抵抗と諦めの意思がせめぎ合う。肉体からメキメキと引き剥がされるような妙な手応えがある。兄の声がすっかり遠のいたリーデンの耳には、獣の鳴き声が代わりに入り込んでいた。またお前らか、人喰い魚ども。 嫌だ、消えるのは嫌だ。まだやりたいことも話したいこともたくさんあるのに! ――助けて! 誰にも届かない声がさざなみと化して闇の中を広がる。助けて、助けて、助けて、助けて…… すり減らされた魂は震えながら泣いた。 嫌だ。泣き声は弱り、子供がぐずっているような音に変わっている。 いよいよこれで終わりか――? こんなに暗くて怖い場所が最後の思い出に残るなんて耐えられない。そう思っていても、魂が肉体から引き剥がされる―― ふと気が付けば黙り込んでいた。遠くから何かが来ると感じたからだ。透明な霊力と潤いを含んだ音が、遥か闇の向こう側から染み込む。 『お願いです、リーデンさん…………どうかゲズゥを独りにしないで下さい』 すぐ真上で何かがチカチカと光り出す。黄金色の信号だ。灯台の灯りと同じで、意識をそちらに集中させるべきだと、なんとなくわかった。 同調しながら気付かされた。 孤独な最期を恐れていても仕方がない。愛する者を独りにできないという想いの方が、恐怖を塗り替えられるだけの力を持つ。それを優先すればいいだけの話だ。思いやる心は力となる。 送り主の優しさをそのまま表した、この温かく淡い光が導いてくれる。 (諦めなければ、君が奇跡を呼び寄せてくれるんだね……。いいよ、ついて行こう) 光はおもむろに勢いを増して、散々しつこかった暗黒を破っていく。青白い小魚たちが光に触れるごとに銀色の素粒子となって分解される。暗闇はやがて曇ったガラス程度に明るくなり、次には――。 円の形に一箇所ずつ、曇りガラスから曇りが、見えない手によって拭い去られる。 長いこと封じられていた視覚に光が戻って、リーデンはつい目を眇めた。視界が安定した頃にちゃんと目を見開く。銀色のペンダントがすぐ近くにあった。羽の生えた槍にも見えるそれは、ヴィールヴ=ハイス教団と聖獣信仰の象徴だ。黄金色の輝きを未だに纏っている。これが光源だったのか、と静かに納得する。 そして次に目に飛び込んできた映像にリーデンは驚いた。いっそ、これまでの人生で一番驚いたかもしれない。 「なにそれ……もしかして、泣いてるの?」 からかうつもりは無い。無いのだが、あまりにも信じられない状況だからか、思わず明るく笑ってしまったのだった。 |
34.d.
2014 / 07 / 12 ( Sat ) _______
次に目が覚めた際には、全身が喰われかかっていた。 吹き矢の毒で鈍っていた神経が、氷の針を刺し込まれたように刺激される。最早何が現実であるのか全くわからなくなっていた。 「いっ……つ――」 激痛のあまりに声すらまともに出ない。 リーデンは瞑っていた目を何度か瞬いて、腹の上に目をやった。得体の知れない重みによって、全身が呪縛されている。 「おやふこうものぉ」 恨み節を吐くそれは鮫みたいな形をしていた。鮫の背びれは二つに裂け、それぞれに老人の人面が浮かんでいる。片方が老婆で、片方が老爺。 「ずっと一緒だぞい。一緒にいような」 払い落とせるものならそうしたいと、強く思った。だが手に力は入らず、鮫の口周りをぺちっと叩くしかできなかった。 「大人しく喰われろおおおおう」 ――ガツン! リーデンの右手の指が残らず噛み切られる。何が起こったのか理解できずに彼は白く光る手を見つめた。切断面からは血が出ない。代わりに白い瘴気みたいな靄が出た。 「ちょっと、人の指に何しちゃってくれてんの」 「クワレロ!」 開かれた鮫の口の中では、リーデンの指であったモノの破片が歯の間に挟まっている。気分の良い光景とは言い難い。 鮫は、今度は腹に噛み付いてきた。 「あああああああああああああああああ」 猛烈な痛みが弾けた。己をごっそり持っていかれた喪失感も。 「やめ……ろ! なんだ、よ。お前らなんか、死んだ……くせに!」 抵抗する力は無いので、せめて怒鳴り飛ばしてやろうと試みる。 今見える奴らのこの姿が、リーデンの良心の呵責の産物であるはずがない。そんなものは持ち合わせていない。あの日の惨劇を何度夢に見ようとも罪悪感など微塵も感じず、いつも痛快な気分になるだけだ。 ならば、これはもしかしたら本当にあの二人の魂が変じた姿なのかもしれない。そういえば死んだ人が魔物になると誰かが言っていた。 「死んだ? はて、死んだかな。死とはなんぞや」 「死なぬよ。わたしらは永遠の時をかけておまえを可愛がってやるゆえ。愛しているぞ」 「そんな重い愛、いらな、ぐっ!」 激痛、麻痺。激痛、寒冷。 (痛い! 寒い! 何処が痛いとか、じゃない! 何が痛いのか、わからない!) 思考から整合性が抜け落ちる。 (どうしてこんな) 自分は今本当に「起きて」いるのだろうか。これは自分の身体に起きている出来事で間違いないのだろうか。 減っているのは、すり減らされているのは、肉体か――? ひゅー、ひゅー、と満身創痍な呼吸音が繰り返される。いつしか腹部からは膿に似たどろっとした液体が垂れ出ていて、奇怪な鮫がそれを嬉しそうに啜っている。 鮫の下腹から生えた人間の腕が、今度はリーデンの腸をまさぐる。 おぞましい。なのに、そんな感覚すら現実味が薄れていくようである。 「た、すけ…………」 すり減らされていく内に、リーデン・ユラス・クレインカティが何処から何処までに存在しているのか、曖昧になってきていた。この闇も、魔物も、自分の一部なのか。それとも別の存在なのか。 嫌だ。こんな風に取り込まれて、終わるなんて。 「にい、ちゃ……」 兄に助けを求めたのは最後の手段のようなものだった。あの人はいつだって、弟の手助けを求めようとはしなかったから、自分だってやりたくなかったのだ。 返事は来ない。呼びかけが届かないのだろうか。それとも、来たくないのだろうか。 アヘンの煙が蔓延する場所で再会した時の記憶がちらついた。 よからぬ世界に踏み込んでからの弟と初めて対面した兄は、表情こそ変えなかったが、その瞳には冷たい失望が映し出されていた。 リーデンが、もしかしたら選択を間違えたかもしれないと感じたのは、そんな兄と目を合わせたあの瞬間だけである。 「ごめっ……、にいちゃ――」 本当はずっと、謝りたかった。 君の望むようになれなくてごめんなさいと、僕がこうなったのは君の所為じゃないよと、それだけ言ってあげれば兄は楽になれるかもしれないのに。その一言を発することができなかった。 指の残る左手を天に向けて伸ばしたのは、無意識からのことだ。 昔、転んだ時などに、この手を掴んで引っ張り上げてくれる人が居た。無愛想なせいか周りからは不気味がられていても、リーデンはその人を怖いと感じたことは無かった。あの落ち着いた空気の優しさと、握った手の温かさだけ信じていれば良かったのだから。 ――ゴメン。 唇がその言葉を形作った。 そして今度こそ意識が闇に落ちて、二度と醒めないだろうと予感がした―――――― 「リーデン!」 生者の世界から声が響いた。それは淀んだ闇を震えさせて、耳朶に届く。 伸ばしたままの左手が力強い熱によって圧される。生身の肌と肌が擦れ合って、痛いくらいに激しい生命力が伝わる。 そうしてリーデンは、今度こそこれが現実であることを認識した。 |
イラスト+ただの映画の話
2014 / 07 / 10 ( Thu ) 衝動的に描いた姫だっこならぬ姫キャッチ絵。いろいろおかしい しかもフードつけてあげるの忘れてた…。 トワノクオン昨日観賞し終わりました。 素晴らしすぎて今も呼吸困難です。製作して下さった皆様ありがとう。ハァ…ハァ… 初っ端からみんなのお父さん的クオンはもちろんだいすきですよ。神谷さんだし。 話が進むにつれて仙人みたいな雰囲気が崩れて人間っぽさっていうかただの少年だった頃の面影がどんどん濃くなっていったのが良かったです。秘密を知られて「人を殺したの?」と訊かれた時の対応が大人すぎて感動に震えました。これが他の作品や並のヒーローなら「俺に関わるな、俺の手は汚れてるんだ」とかって心閉ざす展開になるのに抱き締めながら「僕一人が背負うべきなのに見せちゃってごめんね」って、うあああああ (*´Д`)結婚して下さい 途中から瞬さんが熱くて熱くて。能力が暑苦しいけど。タカオはこの世界ではレアなテレポーターだったから力を使う度に燃えた。でも回数の制限がなんかw コイツにスタミナがあればもっと楽に話進んだだろうな。 第一章では戦闘要員が二人しかいなくて、瞬やユーマ君という貴重な戦力が加わった時の謎の感動。特にユーマ君は健気で、脇に抱えられながらも戦ってて(笑)、私の眠れるショタ魂がよびさまされました。欲しい、この子欲しい。お持ち帰りしたい。 アクションの激しい映画なのに驚く程味方戦力が少なかった。だからこそクオンと瞬の派手な立ち回りに ぐああああああ ってなるんだけど。瞬の死に方は予想が付きました。皆の未来の為に道を開いた感じが良かった(でもユーマ君にやらせた方が効率よかったんじゃ…)。でもやっぱめっちゃ悲しかったです_OTL ひづるやテイと穏やかに暮らして欲しかった…。熱すぎるんだよ全く。よもや早死にする熱さ。 気になるところは、1000年の間にクオンはどう時間を過ごしていたのかw 現代になる前は潜伏してひっそりと暮らしてたのかしら… そういえば食事してるシーン無かったような。不死身=カロリー不要? うーむ。 とにかく思うところが多すぎてどうすればいいのだよって感じ。もうしばらくはサウンドトラック流しながらこの映画のこと思い出しそうです。 素晴らしい映画をありがとうありがとう日本ありがとうアニメ文化ありがとう |
34.c.
2014 / 07 / 08 ( Tue ) 真実を知ったリーデンは体内の血を沸騰させた。当然、それまで以上に特大の癇癪を起こした。 椅子の一つや二つも投げただろう。食器を投げたり、ガラスを割ったりもしたと思う。「どうしてこんなことするの! うそつき!」 怯え蹲る老人たちに詰め寄った場面だ。 偽りの家族ごっこは、もう終わり。気付いた以上、奴らの出す飲食物を二度と口に入れることはなかった。自分が何者であるのかをまた見失うのが怖かったからだ。 「わたしたちの気持ちもわかっておくれよ。お前はあのままじゃあ壊れてしまいそうだったんだ。目を離せば遠くに行っちゃいそうで……」 「それじゃあ僕の気持ちはどうなるの!? にいちゃだって!」 苦しかったはずだ、悲しかったはずだ。 「二人も子供を養うのは無理だったんだ、お兄さんのことは仕方がなかったんだ」 「よく言うよ! 僕一人だって洗脳しなきゃ手に負えないくせに!」 「洗脳なんて言い方をするな。ちょっと物分りがよくなるおまじないだったんだよ」 「はっ、あれがおまじないなもんか! にいちゃだったら、きっとそんなことしない!」 「○○、頼むからわかってくれ――」 「その名で呼ぶな! 僕の名前はリーデンだ! 優しい母さんと、顔は怖いけどめっぽう強い父さんがつけてくれた!」 少年がそう叫んだ刹那、記憶の映像が弾けるように霧散した。 暗闇に取り残された十七歳のリーデンが喉を鳴らして嘲笑う。 「……兄さんならきっと、聞き分けの悪いガキ相手でも変わらず傍にいてくれる、世話を焼いてくれる――か。流石、昔から僕はめんどくさいクソガキだったね」 あの後、泣きながら許しを請う老夫婦に「家族として共に過ごした日々を思い出してくれ」などと願われても、思い出に輝きは残っていなかった。 並んで畑で汗を流したことも、暖炉を囲って絵本を読んだことも、雷の夜に三人で一緒の布団で寝たことも。真実を知ってしまえば、どれも生きた実感を伴わない薄ら寒い記憶となった。そこに「自分」は、リーデン・ユラス・クレインカティは居なかった。 思い返すと吐き気ばかりが込みあがった。 実の母と妹の死に顔を思い浮かべた方が、魂に火がつくような情を感じる。 にゅるり。 ふいに下から青白い手が伸びた。骨格や関節を感じさせない、しなやか過ぎる手だ。 ふくらはぎを撫でられたようなひやっとした感触があった。相変わらず自身の姿は視認できないので触覚のみを頼っている。 青白い手の隣にまた指がにゅっと伸びた。指に続いてもう一本、手が出てきた。次第に闇の底から二体の何かが這い上がる。 「ひどい子だね、お前は……。親不孝だ。親不孝者だい」 「苦しいぞよ。お前の所為だ。お前が親不孝者だった所為だ。育ててやったのに、わたしらをアッサリ殺しおって」 嫌な響きだ。歪んだ顔が発する歪んだ恨み言。 多分怖がるべきだとか憐れむべきなのだろう、とリーデンは冷静になった頭で考えていた。 「そんなの知ったこっちゃないね。勝手に苦しめば?」 が、彼の返答は冷ややかなものだった。今更、こんな夢に怯える可愛さは持ち合わせていない。 たとえ我が手で殺した老人たちのドロドロとした亡霊が蘇ろうと、気にかける筋合いは無い。 『お前はなんて醜い人間だ』 闇の奥から糾弾する声が轟いた。記憶の中の父の厳しい声色に似ている。 「僕が醜いのだとしたら、それは育てた親の醜悪さが反映されたからでしょ」 とっくにリーデンは開き直っていた。あのぬるっとした温かい血の感触に快感を覚えた、その瞬間から。 (あの日、僕は解放された) 鈍器で里親を殴り殺した直後。頭の中に兄の声が響いた。自分たちには遠く離れていても意思を通わせる手段があるのだと、その時に初めて発見できたのだった。 ――リーデン、お前はそれで良かったのか―― 最初はそれが兄の呼びかけと知らずに、適当に返事をしただけだった。 ――いいんだよ。だって、こんなにもスッキリできたんだし。 リーデンは静かに笑いながら二つだった血溜まりが繋がって一つの大きな輪を成す様を見下ろしていた。だがしばらく経つと疑問が大きくなった。 ――あれ? 何この声。アンタ誰? 訊ねても返事は無かった。直感的にリーデンは答えを掴んだ。 ――にいちゃ! そうでしょ!? 会いたいよ! 何処? 何処に行けば会えるの!? ――……教えられない。お前は、此処へ来るな。今からでも遅くない。お前だけは普通に生きて幸せになれ。 ――絶対、嫌。 兄の有無を言わせない口調に対してリーデンも頑固に答えた。どれだけ時間がかかろうとも必ず見つけ出してみせると、彼は心に決めたのだった。 当たり前ですがこれはフィクションです。癇癪ダメ、暴力ダメ、絶対。 年配の方には優しくしましょう_OTL |
34.b.
2014 / 07 / 07 ( Mon ) _______
また、目が覚めた。 さっきの出来事が夢であったのか、直後に落ちた状態の方が夢なのか、曖昧だ。周囲は再び一点の明かりも含まない闇と化していた。 静謐な闇の中から水たまりも魚たちの姿も無くなっていることに、安堵した。 「なんか村が燃えた時みたい。夢現の間を行き来するダンスにはもう飽き飽きしてるのになぁ」 煩わしげにリーデンは呟く。手足が容易に動かないのは先刻と変わらない。 ちかちかと遠い先の一点が光り出した。しばらく目を凝らしていると、そのうち老婆の姿が浮かび上がった。その隣に夫らしき老爺が並ぶ。二人は薪となる枝を集めて終えて帰路についているらしい。 どちらもかつてはよく見知っていた背中だ。 これが夢なのだろう、とリーデンは結論付けた。あの老夫婦はとうの昔に死に絶えているからだ。自分がこの手で屠ったはず。 「うそつきどもめ」 低い声で毒を吐いた。彼らの残滓を眺めていると嫌悪感しか生まれなかった。 大人は己の都合の為に他者をいくらでも踏みにじるのだと、最初に教えてくれたのが奴らだ。 「どうしたんだい、○○」 老婆は己と手を繋ぐ幼児に問いかけた。子供の頃のリーデンの姿だ。いつの間にか老夫婦の間に現れていた。 問いかけられた幼児はわんわんと泣き出す。 「おやおや○○、男の子がそう簡単に泣くもんじゃないよ」 老夫婦はリーデンに別の名を付けて呼んでいた。それまでの自分を、生活を思い出させない為にそうしたらしい。現在のリーデンは嫌悪感のあまりに、その名が何であったのか記憶から綺麗さっぱりと削除している。 「このお茶を飲みなさい。気分が落ち着いて、きっと元気が出るよ」 幼少の頃のリーデンは素直にそれを喉に流し込んでいたが、そうしていつも出されていたお茶に含まれていた薬草に気付くまでに何年も要した――。 映像が切り替わる。 いくらか成長した銀髪の少年が目をこすりながら「怖い夢を見たの。愛想のない、髪と目の黒い男の子が居たよ」と訴える場面だ。里親たちは「大丈夫だよ。怖い夢なんてこのお茶を飲んで忘れなさい」と答える。 映像が切り替わる。 更に成長した銀髪の少年は里親に「どうして僕の左目は白いの」と問いかける場面だ。老夫婦は「それは小さい頃の病気の後遺症だよ」と答え、やはり彼に茶を勧める。 また映像が切り替わる。 前触れなく、少年は癇癪を起こしていた。訳もわからずに怒りが全身を駆け巡り、寂しさに震えていた。泣き喚き、自室をひっくり返す勢いで物を投げては壊している。きっかけが何だったかはもう思い出せない。 里親は宥める。 「かあさんたちを困らせないでおくれ。いつもの愛らしくて聞き分けの良いお前に戻っておくれ。さあ、このお茶を飲めば落ち着くよ」 リーデンは勧められた茶ごと、老婆を突き飛ばした。 「要らない! そんなものいらないよ、ババア!」 「なぜだい、お前の一番好きなお茶だよ。ずっと三人で暮らしてきたのに、かあさんにひどいことを言わないでおくれ」 老爺が妻を助け起こしながら悲しそうに言う。「ずっと三人で暮らしてきたのに」という言葉に折れて、結局は茶を飲んだのだった。 しかしそれから更に時が経つと、例の茶の効き目が弱っていたのだろう。摂取する量を増やされながらもリーデンは時折狂ったように癇癪を起こした。その根源にあったのは老夫婦への怒りと、傍に居ない「誰か」への懐かしさと寂しさ。 それもふとある時に思い出すことになる。 突如、左眼が「映した」のだ。遠い土地、見知らぬ風景、自分の五感を通して感じたのではない、別の誰かを襲った衝撃。 それまでは視界や感覚の共有が起きないよう慎重に「遮断」していたであろう兄の身に、災いが降りかかったようだった。気絶するほど強く殴られた、あちらにしてみればそんな程度の体験だったろうけれど、リーデンの抑圧されていた自我を揺さぶるには十分だった。 己が何者であったのか。自分が失ったものが何であったのか、思い出した。一族を終わらせた悲劇と、たった一人一緒に生き延びてくれた兄のことも。 そして知った。 里親に何をされていたのか――怪しいと気付きさえすれば後は茶の成分を調べるだけ、そう難しい問題ではなかった。 遠い昔、家から兄が追い出されたと知った日に、リーデンはひどく取り乱していた。何度も里親を責めた。兄を追いかけたい、捜しに行きたい、と何度も家を飛び出した。そんなリーデンに手を焼いた老夫婦は、とある薬草に手を出したのだった。 それは忘却草(アムネジア)と呼ばれる代物で、一時的に人間の記憶を混乱させる効果がある毒だった。 彼らは混乱した状態のリーデンにさまざまな嘘を刷り込むことで、まるで本当の息子なのだと記憶を書き換え、洗脳した。 |
34.a.
2014 / 07 / 03 ( Thu ) 誰かに呼ばれたような気がして、リーデン・ユラス・クレインカティは意識を浮上させた。 浮上させた――はずなのだが、すぐに違和感を覚えた。(ここは……?) 僅かな光さえも認識できない、完全な闇に包まれている。 古びた木材の臭い、通気性の悪い空間。屋内のはずなのに外の冬の寒さと変わらない低温。 (屋内……そうか、僕は屋敷の中に潜入して……) 気怠い。頭が靄がかかったみたいにぼんやりするし、手足も動きそうにない。 リーデンは何度か冷たい息を吐いた。 (あーあ、しくじった。取り逃がした上にこのザマかぁ) 殺害対象であった男はヤシュレ出身の大富豪で、調べによると屋敷を五つほど構えているという。何でも少数民族の奴隷を集めるのが趣味だったそうで、呪いの眼の一族の住まう林もかつて何度も訪れてはその度に族長にこっぴどく追い払われていたらしい。十二年前にシャスヴォルの政府が村の殲滅を決めた時、何処からか噂を聞きつけて便乗したのだとか。 人間のクズとはこういう男の為にある言葉だ。得体の知れない種への恐怖ならまだギリギリ理解できなくもないが、この男の動機といえば、手に入らない他人様の玩具を逆恨んで壊そうとする、幼児以下の思考回路だ。 だがあろうことかそんな人間のクズには金があった。腕の立つ用心棒を大勢雇えるほどに。 全部の屋敷の警護は完璧、しかも自分がどの屋敷に滞在しているのかは常に曖昧にして。奴はそうしてのらりくらりと追跡をかわし、今日この日までどんな敵にも――もちろんゲズゥ・スディルにも――首をかられることなく生き長らえている。 本来なら暗殺行為を得意とするリーデンは、今回は焦りすぎた。これまでの四人の仇は兄が一人で始末したのだから自分も一人でやってみせなければ意味が無い、などとくだらない意地を張っていた。もっと周到に下調べをしてから協力者を揃え、寸分の狂いも生じない計画を立てるべきであった。 今更それを後悔してももう遅い。ターゲットはとっくに遠くへ逃げているだろうし、屋敷の人間は今も侵入者を仕留めようと目を光らせている。見つかるのは時間の問題に過ぎない。 (時間といえばどれくらい経ったんだろ。この屋根裏空間には窓があった記憶があるんだけど) 逃げ込んだ時にはこんなに暗かっただろうか? 最初に覚醒してから数分経ったはずなのに、何度瞬いても視界に明るみはもたらされない。知らぬ内に夜になっていたのだろうか。しかし夜だとしても今宵は新月ではない。 せめて自分の手くらいは見えるはず、そう思ってリーデンは右手に意識を集中させた。首を傾け、手を顔に近付ける。近付けたつもりであった。 指先が睫毛に当たっても、全くこれっぽっちも見えない。 脳の片隅にちらついていた一つの可能性が、いよいよ無視できない勢いをつけて警告を出している。 「視神経をトばす毒ね。また厄介なモノを……」 思い出した。敵から逃れた時、吹き矢が太腿に当たったのだった。その直後に身を隠し、いつの間にか意識を失っていた。 負った傷はそれだけだったのにこの急激な疲労、毒にやられたと考えるのが筋だ。他にも心当たりがあるとすれば、たとえばさっきから数分に一度、思い出したように吐き気が喉の奥を上っている。もう毒は回っていると考えられる。 左脚からじわじわと広がる疼痛が煩わしい。リーデンはため息を漏らした。 それと同時に霧が晴れるが如く、少しずつ視界に形が現れていた。全体の暗さは変わらない。 「なに? コレ」 リーデンは淡く光る薄い水たまりの中に居た。リィン、と音とも言えない音で、水たまりに波紋が浮かび上がる。 「幻覚、にしてはなんか……」 ――怖い。 不覚にも恐怖に震えた。自分の身に起きていることに対してそんな感情を覚えたのは、果たして何年振りだろうか。 死そのものが怖いのかというと、そうではない。リーデンは死後の世界に興味が無かった。死んだら同胞と再会できるなどと安易な考えは持っていない。意識が途切れて終わる、そのようにしか考えていない。 (違う。これはそういうんじゃない。消える) 何故そう思ったのかはわからない。 水たまりの中に青白く光る白玉のような丸い物が無数にぽこぽこと出てきた。 じっとそれを観察してると、それはやたら頭だけ大きいグッピーの群れのようだった。魚たちは小さな口を開いて、歯を見せた。 それらの一匹が、ぱくん! とリーデンに噛み付いてくる。実際には己の輪郭が何処にあるのか未だに見えないので、噛み付かれたような印象を受けた、ということになるが。 (僕という人間が『喰われる』!) 魚たちの動きが速くなった。今度はちゃんと、皮膚をかすったような感覚があった。 (嫌だ。この世から存在そのものが、僕がいたという事実が消えるのは嫌だ……!) 自我と記憶を失う恐怖。 リーデンには、覚えのある感覚だった。 それは即ち過去の経験――。 |
湿気ひどすぎ
2014 / 07 / 02 ( Wed ) 最近の拍手米返信。いつも訪問&パチパチありがとうございます!
06-26・06-30 みかん様 ケラケラ( ´∀`)ケラケラ いえまあ、申し訳ない気持ちで一杯ですがww しかしその一方で「きゃ~」と狙い以上の素晴らしい反応がもらえて嬉しくて…むぐふふ 待っていただけて私も我が子(キャラ)たちも幸せよのう さぁって、次話更新は明日 or 明後日になりますね。 さんざん続いたイマリナ=タユス編も後1,2節で閉じます。あれ、前にもそんなこと言いましたっけw? 次こそ行き先はクシェイヌ城になるか!? <引っ張りすぎ乙 でんでんの命運やいかに!? 待たれよ! (笑) |
33.g.
2014 / 06 / 30 ( Mon ) 「そんな、ことがあったのですね……」
呟いた少女の表情は翳っていてよく見えなかった。 「リーデンさんには、ずっと話さなかったのですか」 「ああ。アレは従来の勘の鋭さと情報力で勝手に答えを探り当てた」 老夫婦の元に置いて行った時、巻き込まずに済むと思って安堵していた、のに。 「きっと同じ場所に立って同じ景色を見て、荷を分かち合いたかったのではないですか。もしくは、先を行く貴方に憧れたのでしょう。私にも覚えがある感情です」 「だとしても」曇天を仰ぎつつ言葉を繋ぐ。「アレは現実主義だ。本当は、わかっているはずだ。俺の背中を追った所で、その果てには破滅しかない。呪われた一族の呪われた因果に関われば、どうせ呪われた未来しか待っていないんだろう。死んだ後でさえ」 「では復讐を中断するっていうのは、ダメですか?」 それはこれまでの人生で一度も脳裏を過ぎったことのない案だった。ゲズゥは率直に驚いてミスリアを見下ろした。 大きな茶色の瞳が真剣に見つめ返す。 「人を裁くのは同じ人でも法でもなく、摂理です。そして人の社会に生き、育てられ、守られるのならば法を守るのは民としての義務です。とはいえ、あなたの経緯を考えて、人間社会の法に従う気になれないのは仕方ないと思います」 「…………」 「こんなことを言っても偽善に聴こえますよね。でも」 少女は照れたように笑い、風に弄ばれる髪の一房を耳にかけ直して続けた。 「私は貴方が人間でいる間に苦しむのも、魔物になって苦しむのも、そのどちらも嫌です。だから罪を浄化して欲しいし、復讐だって諦めて欲しい」 その発言を聞いて何かが閃いた。 「……まさかお前は『天下の大罪人』の書類を読んで、同情したのか」 「それもありますけど……何度投獄されても人に疎まれても何にも屈しなかったところに惹かれたのだと思います。身体能力とは別に、不屈の精神みたいなものを、私は求めていました」 ミスリアは一息置いてまた続けた。 「会ってみて確信しました。どれだけの人間を敵に回しても貴方は決して自分を見失いません。そして根幹たる性質の内に理由なき悪意は含まれないのだと」 買い被りだ、という返事が喉の奥でつっかかった。 奪うばかりの世界への反撃として何もかもをめちゃくちゃにしたいと思った時だってあった。 それでも自分を見失わずにいられたのは縋るものがあったからだ。理性で感情を制する必要があった。あくまで従兄との約束の為に、そしてリーデンの身の安全を想って仇の五人を積極的に狩りにかかった。 「あの少年に、仇を徹底的に害しても心は晴れないと語りましたね。それこそが貴方が導き出した結論ではないのですか」 そう言われたゲズゥはいつまでも返事をすることなく、ただ目を細めた。 まだそれほど世間を知らないはずの十四歳の少女は随分な観察眼を磨いている、と感想を抱いたのは覚えている。 「ミスリア、お前は自分で、思っているよりも……」 考え事を声に出したことに気付かずに、ゲズゥは走る。周囲の景色は森に切り替わっていた。 別れ際に「奇跡を起こす女だ」と言った際のあの驚いた顔を思い返した。 この頃、ミスリアが魔物討伐の件を引きずって無力さに打ちひしがれていたことは傍(はた)から見てもわかっていた。ゲズゥはそのことを否定する言葉をかけてはいない。それも一つの事実であったからだ。 だが隣り合わせで別の事実がある。 自分に自信が無くても、弱さを隠して強がって、人に手を差し伸べるのを止めない。己の心を削って助けるのではなく、或いは彼女にしてみれば、人を助けることで得られる力があるのかもしれない。 嵐のような世界の中で、少女の周りだけ凪いでいるようだった。 弟が死ぬ、もうじき真に独りになってしまう、そう察した瞬間、急落したような感覚に陥っていた。 なのに少女の呼びかけで戻ってこれたのは、呼びかけが響いたからってだけではなく、過去の経験が理由だった。山賊の頭領とやり合った時、死の海の底に沈む自分を掬い上げた光――それに己の願いを託してみようという気にさせられたのだ。 『にいちゃ、だいすき』 この世界でただ一つ意味のある存在だと、長らく思っていた。 もう一度会えるなら。温かい手から熱が消えるのを阻止できるなら。 変わるのも厭わない。 神でも聖獣でも崇めてやる、心を入れ替えろ生き方を変えろというのなら毎日毎晩でも善行に励んでやる。想いや優しさを表現できる人間になってやる。一族の弔いを途中で投げ出すことでただ一人残る家族を引き留められるなら、潮時だと断じてそれをするのも良いだろう。 小さな聖女がこの奇跡を起こせるなら、これからは大切に大切に付き添ってやる。 ――だから。 ゲズゥは胸元で揺れるペンダントを一瞥した。 理でも運でも神でも聖女でも誰でも良い、刻一刻と迫る早すぎる決別を退けてくれ―― 視界が開け、すぐ先の丘の上に木立に囲まれた三階建ての屋敷が見えた。 目的地に着いたとゲズゥはすぐに悟った。 立ち止まり、息を整える。両目を閉じて意識を集中させた。心の内で「声」をかけても呼応するのは脈動のみである。 弱々しい。それでも確かに脈打つ生命を感じた。位置はおそらく屋根裏。 今度は屋敷の中の気配に意識を配り、進むべき道を思い描いて警戒した。持ち合わせている武器は短剣一本と我が身だけ。それでもどんな苦難が待ち受けていても撥ね退けるつもりでいる。 そして目を開き、再び疾走し出した。 以下ちょっとだけあとがき。 |
33.f.
2014 / 06 / 27 ( Fri ) ゲズゥ・スディル・クレインカティは、身一つで全力疾走していた。 常に持ち歩いている大剣ですら、邪魔になるからという理由で置いてきている。走りながらも右や左でさまざまな物にぶつかる。横から後ろから罵声を浴びせられている気がするが、更に速度を上げて走れば誰も追って来ることはなかった。 買い物籠を持った女にぶつかり、服を売る屋台や果物売りをも弾き飛ばした。視界の端々に果物の色が散らばる。構わずにひたすら走った。 鬱陶しいことにこの街は広い。道が入り組んでいてしかも障害物が多すぎる。野原を駆け抜けるようにはうまく行かない。 舌打ちした途端、ゲズゥの脳内にはあの猿みたいに身軽に動く聖女の護衛の姿が浮かんだ。そういえばあの男は屋根の上を飛び回っていた。 体格と体重が原因で、自分が同じことをすれば建物の中の人間に振動が伝わるだろう。差し当たり、文句を言われる前に次に跳び移ればいい。地上を行くよりはずっと邪魔が少ないはずだ。 狭い路地に入って塀の上に跳び上がった。そこから近くの建物のバルコニーに上がり、外壁を伝って屋根に上る。 人口密度の高い街であるだけに、屋根と屋根の間の隙間も小さい。ゲズゥは難なく走り進むことができた。 時折、屋根上警備兵の喚き声が聴こえるが、やはり構わずに走り抜ける。 今度は前方のバルコニーに警備兵が居た。こちらに気付いてクロスボゥを構えようとしている。そうなる前にゲズゥは加速して迫り、兵の横面を殴り飛ばした。バルコニーの手すりに足をかけて踏み台にし、またもや屋根の海を泳ぐ。 疲労は感じなかった。感じる余裕も無かった。 町の外に出た頃には、自分がどの方角を向いているのかも掴めなくなっていた。 ――方角なんてどうでもいい。向かうべき先は、「左眼」で感じ取るだけでいい。 畑が並ぶ場所で一旦立ち止まって、ゲズゥは自らに三十秒の休憩時間を許した。外の気温は低いのに、首周りは汗で濡れている。 リーデンの命が消えかかっていると感じ取ったのは間違いないが、感じ取れる生命力の強さに何故か揺れがあった。即死する種の致命傷を受けたのではないのだろう。 これならまだ猶予があるやもしれない。 三十秒数えてからゲズゥはまた走り出した。 尾行してでも一人で行かせるべきではなかった、などと悔やんでも後の祭り。拒絶しかしなかったのをやっとのことで譲歩して、それでアレの気が済めば、ようやく普通に仲が良かった頃に戻れるなどと期待していた。 昔々に寄り添った温もりも、しょっちゅう転んでは泣き喚いていた声も、無邪気な笑顔も、今でも思い出せる。 誤りだったのだろうか――元の仲に戻れなくても良いから、これまでのように危険から守る努力を選ぶべきだったのか。過保護にすることはリーデンの矜持を傷付ける、そう知っていながらも。 ――教えていただくわけには行きませんか? リーデンさんが何処へ何をしに行ったのか。 そういえば数時間前、教会へ向かう道すがらにミスリアにこの話をしたのだった。空は曇り、ゆるやかに吹く風が肌寒かったのを覚えている。 答えないという選択肢もあった。だがもう、限界だった。何年も同じ距離感をぐるぐる回るしかできない自分たちには第三者の介入が、意見が、必要だった。 だから話した。事の始まり、死に際の従兄と交わした約束から、何もかもを。村を滅ぼした五人の実行犯を見つけ出して殺す、その目的を果たす為に生きてきたことを。 「従兄がついに息を引き取った時、自分が泣いていたかどうかは覚えていない。ただ、周りが赤く燃え盛っていたにも関わらず……寒かったのを、覚えてる」 |
33.e.
2014 / 06 / 26 ( Thu ) ――チク、タク、チク、タク……。 礼拝室にてミスリアははっとなった。追憶の間に自分はいつの間にか机に両肘をついて祈る姿勢になっていたらしい。何枚目なのかももうわからない手紙に、零れた涙が何箇所か滲んでいた。黒いインクが形を成さなくなり、平坦な紙面を波立たせる。書き直さなきゃ、と目元の涙を拭いた。 けれども涙が止まらない。 これ以上手紙を濡らさないように机から身を引いた。 (こんなに私は涙もろかったかしら) などと疑問に思っても、思考は遮断された。 ついさっきの記憶が蘇り、頭の中を占める――。 「覚えていらっしゃいますね、護衛の方はここから先は進めません」 日課となりつつあった司教座聖堂へのご奉仕を始める直前、修道女たちが厳しい表情で告げた。ミスリアは中庭(コートヤード)を一度見回した。 空の深い蒼を表現した外観の大聖堂の敷地内にて、六角形型の中庭を突っ切った先にある水晶の祭壇は、司教が許可した人間しか近寄れない規則となっている。 「心得ています」 ミスリアは深く頷いた。此処の規則は既に聞き知っている。 中庭の中心に建つ大理石でできたガゼボの柱に背を預ける青年を見やった。ゲズゥは歩く時に使っている木製の杖を柱に寄りかからせ、自身は腕を組んで目を閉じている。 「では聖女様、本日は庭のお掃除を手伝っていただけますかしら」 「はい、喜んで」 ほとんどの葉を落とし終えている庭の木々が静かに佇む間に、冬の貯えを集めようと走り回るリスの姿があった。とても和む光景である。 レーキを借りてミスリアは修道女たちと共に庭の落ち葉を掃除した。三十分もすればそれは終わり、夕方までの間は参拝者に聖気を授けるつもりで、ミスリアは奥の部屋で純白の正装に着替えた。中庭に再び出て、まだゲズゥが定位置に居るのを横目に確認しながら、礼拝堂へ向かった。 (今日も、昨日と同じ……どうして、時間の流れを遅く感じるの) それはおそらく「待つ」行為の所為だろう、と自答した。待ち続けた先に、兄弟にとって納得の行く、結論じみた展開があるのだろうか。「待つ」時間が終わった後の行路は自ずと明らかになってくれるはずだ、そう思いたい。 ミスリアは白い衣を風になびかせながらしじまを横切る。寒さのためか中庭には他に誰も居なかった。 今日の晩御飯はイマリナさん何を作るのかしら、と至って平凡なことを思っていたら、背後からけたたましい音がした。 ガキャッ、と音はもう一度、更なる音量で繰り返された。何事かとミスリアは振り返った。 「ど、どうしたんですか!?」 どうやらあれはT字型の木製の杖が一本ずつ倒れた音だったらしい。ガゼボの大理石の床を打って大きな音を立てたのだろう。 でもそんなことよりも。 どんな怪我をしようがどんな無茶な運動を強いられようが、依然として地に足をつけてバランスを崩さない。ミスリアの知るゲズゥ・スディルはそういう男だった。その彼が、まるでいきなり腰を抜かしたみたいに大理石の上に転倒していた。片手を床につき、残る掌で左眼を覆っている。 「まだ全快じゃないのに連れ回してしまってごめんなさい」 脚の傷が痛んだのかと考えて、ミスリアは駆け寄った。しゃがみ、黒い衣服に染みが無いことを確認して傷が開いたのではないと安堵し、次に顔を覗き込む。 「……しに」 「え……? しっかりして下さい」 濃い肌色の人は顔色の変化が読み取りにくく、よほど悪くなければすぐに見てわかるものではない。 しかしその時ばかりは、ゲズゥは唇まで青くなっていたように見えた。苦痛に歪んだ表情とは程遠い、純粋なショックに彩られた顔だった。 「死、に。引きずられる」 「何を言っているんですか」 不穏な言葉に、様子に、ミスリアは目を瞠った。いつになく消え入りそうな声で、彼は答える。 「この衝撃………………アレの、命が、消える」 さあっと血の気が顔から引くのを感じた。 訊きたいことや言いたいことが怒涛のように駆け巡り、胸の内を制しようと、ミスリアは短くて荒い呼吸を繰り返し吐いた。 (また私は無力なの? 間に合わないの) 違う。断じて違う。間に合わせるのだ、そうでなければ―― (この力は、聖女なんて肩書は、お飾りだわ!) 迷う時間が無駄だ。 ミスリアは服の上のペンダントを首から外した。これは水晶の嵌め込まれた聖人・聖女たちのアミュレットとは違う、一般の聖職者が賜るひとまわり小さい銀細工のアミュレットだ。ユリャン山脈に居た頃に一度ゲズゥに貸した物と同じ型。 「行ってあげて下さい! 私は一人で平気ですから」 そのまま、未だ茫然自失としているゲズゥの首にそれをかけてやった。 「居場所はわかるんでしょう?」 右手をかざして、治りかけの脚の怪我も素早く治癒を施す。意地だとかけじめだとか、もう言っている場合じゃない。 「間に合うはずが――」 「間に合います! 間に合わせるんです!」 ガタガタ震え出した大きな両手を力の限り握り締めた。 「これからも一緒に生きて……重荷を分かち合って、年老いて行くんでしょう!? 家族なんですから! 大体、お兄さんより先に逝く弟さんなんて親より先に逝く子供と同じ、あってはならないことなんです!」 黒曜石に似た目が一瞬だけ見開かれた。 「奇跡を信じて……! 起きます、起こさせます」 俯き、祈るようにゲズゥの手を己の額にそっと押し当てた。 ミスリアは一緒には行けない。彼一人の方が機動力が上がる。だから、離れた場所からできることをするしかない。可能なのかすらわからないけれど、できなければ総てが終わる。 沈黙はそう長く続かなかった。 「…………ああ。そうだったな」 低い声は本来の落ち着きと生気を少しだけ取り戻したようだった。 「お前は、奇跡を起こす女だった」 ぱっと顔を上げたミスリアは、手を離した瞬間、ゲズゥが微かに笑うのを見た。 どういうつもりで言ったのかと問い質す間も無く、そうして玄関まで付き添い、彼を送り出した――。 ――それ以上、思い出す必要は無い。 机の上の時計によると、残る時間は四十五分ほどらしい。 涙を拭いて座布団に膝を揃えて座り直した。 強く両手の指を絡めて握る。 ミスリアは心の内で水晶の祭壇と神々にあらかじめ謝罪した。きっと祭壇に祈りを捧げる時刻になっても、自分はイマリナ=タユスの為に祈れない。それは傲慢で利己的な判断かもしれない。それでも、決心は変わらない。 「お願いです、リーデンさん。お兄さまが大好きだというのが貴方の本心なら、どうかゲズゥを独りにしないで下さい」 そうして遠い何処かでまだ息をしているはずの人の為に、聖気を展開した。 _______ おおう。ここ書いてた時、パソコンの前でボロ泣きしたのは内緒ですよ。 |
33.d.
2014 / 06 / 19 ( Thu ) ――回想を中断し、ミスリアは手をぎゅっと握りしめる。 あの時の感触がさっきのことのように思い出せる。それが、どうしようもなく苦しい。ふいに自らの呼吸音が嫌になって、思わず息を止めた。狭い部屋の中で、壁にかかった時計がチク、タク、と一定のリズムで鳴っている。それはとても控え目な音だけれど、防音設備がそれなりに整っている礼拝室の中ではやたらと大きな音として耳に届いた。 ミスリアは右手の指の背を左手で一撫でしてから、再び羽ペンを取った。
また、記憶の断片が蘇る。 リーデンがいなくなり、食事を食べ終えた時間になってもゲズゥの不機嫌は全く治まらなかった。いつもなら心地良いはずの彼の沈黙が息苦しくなり、ミスリアはつい口を開いてしまった。間が持たないことがこれほど気にかかったことは今までになかったのに。 試しに「なんとか言ってください」と訴えたら、「外に出る用事は無いのか」と返って来た。 なので別にその日にやろうと思っていたわけでもない用事を無理に考え付いて、二人は街に出たのだった。 (でも、探そうと思っていた聖女レティカは見つからなくて……巡礼について色々と訊きたいことがあったのだけど) 聖地や聖獣に至る道のりなどに対する疑問に関して、一年も旅をしていると言っていたので、彼女の方がわかることもあったはずだ。そう思ってミスリアはまずは街道近くの演壇を探した。居ないとわかって次は大聖堂を訪れ、そしてレティカ一行が魔物狩り師連合と何処かに引き篭もっているらしいことを知った。何処であるかまでは聞けなかった。 考え付いた用事も空振りとなってしまった。 その日はそのまま諦めて、買い物をして帰った。残る時間は屋内で過ごした。 次の日は大聖堂に行って礼拝に参加したり、ご奉仕に励んだ。その際、大聖堂の敷地内は安全だから護衛としてついてきてくれなくてもいいのに、とゲズゥに怪我の療養するように提案してみたりもした。返答は「聖職者だろうと他人は信用できない」といった旨のもの。やけにはっきりと断言するものだから、ミスリアは彼の言い分に従った。 更に次の日、偶然街中で強面で大柄な騎士風情の人間を見かけた。女性ながらスカートではなくズボンを履き、肩から足の先までを鼠色の鎧で覆っていた。 「レイさん! こんにちは」 「……聖女ミスリアと、護衛の方。こんにちは」 レイは鎧に包まれた腕をガシャリと組んでぶっきらぼうに答えた。 「貴女が此処に居るということは、聖女レティカも近くに居るのでしょうか」 話がしたいという願望をまだ捨てきれないミスリアはきょろきょろと周囲を見回した。レティカの姿も無いが、エンリオの姿も見当たらなかった。人混みの中に紛れている可能性も否めないけれど。 「レティカ様とエンリオならすぐ後ろの役所に。魔物狩り師連合と河辺の件で再討伐の作戦を練っているはず」 「再……討伐!? 教団本部の応援と指示を待たないってことですか?」 「本部を待ってたら数か月、下手したら一年は放っておかれるかもしれないからと……封印を施せる前に民に被害が及ばないように……レティカ様はそれが心配で。司教様も同じ気持ちで」 「そう……ですか」 理にかなっているようで、やはり何か違和感があった。作戦を練り直したり人員を増やしたくらいでどうにかなるような次元の問題だったとは思えない。あれだけの人命が失われた直後で、性急さの裏に何かありそうな気がした。 「失態を挽回しようと躍起になってるだけじゃないのか」 「!」 ゲズゥの無機質な意見が違和感の正体を暴いて疑問を凝縮した。 レイは身動き取らずに、ただ両目をギロリと光らせた。 「そうだとしても、私はレティカ様の決断に従う。そちらはどうされる? 聖女ミスリア」 「私は……」なんとなく隣の青年を見上げた。珍しく、黒曜石を思わせる右目には明確なメッセージ――やめておけ――と浮かび上がっていた。それでも、放っておけない気持ちは同じだ。「都合が合えば、討伐には参加します」 レイは一言「ありがたい」と伝えて一礼した。詳細が決定すれば使いを出させるという約束を口にしてから、彼女は踵を返した。 その後は大聖堂でまたご奉仕に励んでから、帰路についた。 リーデンがどうしているのか何もわからないまま三日過ぎ、今日に至る。 |
33.c.
2014 / 06 / 17 ( Tue ) あの朝、といっても正午近くに遅かった時刻――言い争う声で目が覚め、ミスリアは寝ぼけ眼をこすったのだった。 のろのろと布団から起き上がり、地下室の寒さに一度ぶるっと震えた。(この声、ゲズゥとリーデンさん?) 共通語ではなかったので、内容は全く頭に入らなかった。ただ、普段の二人とまるで結びつかないような激しい怒気が壁をすり抜けてまで反響している。 声の方に行くのが憚れる。けれど、気になる。 イマリナに借りた寝間着から部屋着に着替え、靴下と靴を履いて床に立った。 寝泊りしている部屋から出るとリビングルームがあり、その部屋を抜けた先にダイニングルームがある。外へ続く扉がダイニングルームに取り付けられているのは些か変わった構造だが、そもそもこの空間はちゃんとした家とは言い難いので問題ないのだろう。 バーガンディ色のカーテンをめくり、ミスリアはなるべく音を立てずに部屋に入った。 想像していた通りにかの兄弟が殴り合わん勢いで言い合っている。部屋の隅では、ミスリアと同じようにびくびくとした様子で見守るエプロン姿のイマリナが居た。 その時、リーデンの方が何か決定的な一言を言い放ったらしい。 ゲズゥは歯を噛み締めて押し黙った。数秒の間、兄が弟を睨み下ろす。そして舌打ちし、苛立たしげに漆黒の前髪を鷲掴みにした。 低い声が何かを呟いた。それを聴いてリーデンは満足そうに頷く。 (リーデンさんの我侭をゲズゥがイヤイヤ譲歩――承諾した、みたいな流れかしら……) 険悪な雰囲気の中を進み出ることが未だできずにいるミスリアは、特にすることもなく襟元のフリルを指で撫でたりした。 ふとリーデンがこちらを振り向いた。 「おはよう、聖女さん」 絶世の美青年はとろけるように微笑んだ。不覚にも心臓がドキリと跳ね上がる。何度見ても絶句してしまう美貌である。 彼の今日の服装は薄紫色の生地に背中に孔雀の刺繍、という派手な民族衣装だ。しかしそれが何故かあまりにも似合っていて、まるで孔雀という生き物が彼の為に存在しているのかと思い込みそうなほどである。 「お、おはようございます……」 俯き気味に応じた。 「そうだ、ご飯はマリちゃんに頼んで好きな物作ってもらってね。せっかく今会えたのに残念だけど、僕はこれから出かけるから」 「出かける? どちらへ?」 ミスリアは顔を上げて輝かしい緑色の瞳と視線を交わらせた。いつの間にかすぐ正面に来ていたらしい。 「ん~、まだ正確にはわからないや。これから居場所を突き止めなきゃならないから」 「居場所……?」 「ま、そういうことだからしばらく戻ってこないかも。扉の暗証番号はここにメモって置いたから好きに出入りしていーよ」 リーデンが左手の指の間に挟んでいる紙切れを見つめるや、ミスリアは嫌な予感がしていた。 「危険なことをしに行くんですね。も、戻って来ますよね……!?」 「確信を持ってその問いに答えることはできないね」 何でもなさそうに彼は笑って返事をした。 逡巡してから、ミスリアは象牙色の右手を両手で包んだ。リーデンは「おや」とやんわり驚いたように眉を上げる。 ミスリアは生温い体温を両手の指の間に感じながら、訴えかけた。 「お願いします。無事に帰ってきて下さい。こんな別れ方で、家族と二度と会えなくなるのは、悲しすぎます」 「あはは。他人なのに凄い感情移入だね」 「それは……」 食卓の傍に立つ長身の青年の方を一度見やった。彼は感情がまるっきり抜け落ちた人形みたいな表情でこちらを見ている。 二人の心中を想って、ミスリアは意を決した。 「私には歳の離れた姉が居ました。大好きな姉で、いつも一緒に笑って暮らしていました。だけどお姉さまは聖女になって、旅に出ることが決定して……私はそれが寂しくて、だから自分も早く大人になるんだっておかしな背伸びをしたくなったんです。お姉さまが出立する前の夜、意地を張ってしまいました」 リーデンは、ふうん、とだけ言った。 「いつものように外を歩いていた時に、手を繋ごうってお姉さまが私の手を取りました。それを私は、振り払ってしまった」 「早く大人になろうって思ってたんだったらそうしちゃうねぇ。手を繋ぐのがカッコ悪いみたいなね」 「はい。それはとても些細なことで、お姉さまは全く気に留めた風でもなく、普通に夜は更けました。そして次の朝には別れが――」 何度思い出しても悔い足りない。 ミスリアは一呼吸挟んでから、続けた。 「その後もしばらく私は後悔していました。多くの思い出の中でも、そればかりが気になって……どうして素直にならなかったんだろうって。そして数年が経ち、もう会えない事実を受け入れるようになれば、後悔は増すばかりでした」 帰って来て欲しいのは勿論、素直に別れを惜しんで欲しいとか和解して欲しいとか、もしかしたら自分はそういうことが言いたかったのだろうか。ミスリアは自分でもわからなくなってきていた。 美青年の表情に僅かな変化が表れた。次第に切なく儚げな微笑みとなるのを見て、ミスリアはもの悲しい気持ちに胸を締め付けられた。 「ごめんね。僕らはどうしてもこうなってしまうんだよ。だからこれからは聖女さんが代わりに兄さんの手を握ってやってよ。僕にはきっともう、それができないだろうから」 ぎゅっと右手を握り返された――と気付いた瞬間、リーデンは掌を上向きに返していた。彼はミスリアの細い右手をそっと引いて、第一関節に唇を寄せた。 思いがけぬ熱さと軟らかい感触に、小さく息を呑んだ。 |
突発的番外編
2014 / 06 / 12 ( Thu ) |
33.b.
2014 / 06 / 10 ( Tue ) 大聖堂の最上階には個人で使える礼拝室が幾つかある。人ひとりしか快適に過ごせないような狭い部屋の中、光源は三つ――机の上の蝋燭立て、聖堂を望める縦長の窓、ひし形の天窓。今はまだかろうじて自然光だけで明るい時刻だ。 部屋の中に椅子は無かった。代わりに長時間跪いていられるようにと置かれた柔らかいクリーム色の座布団が一枚、低い机の前にある。 長方形の机には引き出しに祈祷書や聖歌集、そして白紙と筆記用具が備えられている。白紙は祈祷を通して得られた発見や気持ちなどをしたためたり、祈りや歌を書写する為の物だ。 座布団の上に正座し、清めた身体から火照りが冷めていくのをぼんやり感じていた。体内から零れて散っていく温かさを惜しむようにミスリアは靴下のみに覆われた足を白いスカートの裾に包(くる)み、両手を擦り合わせた。 礼拝室は壁の色からカーペットや家具に至るまで、明るい色をベースにまとめられている。 通常であればもう精神は統一しやすい状態になっているはずだった。身を清めて純白の衣装に袖を通し、靴を脱いで穢れなき部屋に踏み込めば、その時点で準備は整っている。 机を構築するオーク材の香りが心をいくらか安らがせてくれる。 それでも胸の内がざわつき、思考がまぜこぜになっているのは変わらない。 (落ち着いて……、頭の中をちゃんと真っ白にしてから……) そうは思ってもうまく行かない。 (聖気、を…………急がなきゃ……) あちらこちらへと気持ちが浮遊していて物思いに耽ることさえできない。アミュレットを右掌にのせて何度か深呼吸をしてみた。 どうすれば考えを整理できるのか。 なんとなしに引き出しを引いて中身を改めて確かめた。 ふと、筆記用具がミスリアの興味を引いた。羽ペンとインクボトルを取り出して机の上に置き、次いで白紙に指を触れた。カサリ、爪の先をそっと引っ掻いてしまう。 「そうだ、手紙を書こう」 名案に辿り着いて、独り言が漏れた。 誰かに語る形式なら物事を順序良く並べ替えながら思い出せる。それもせっかく書くのだから、実際に手紙を出してみることにしよう。 机の前で膝立ちになって姿勢を正し、ペンにインクをつけ、そうしてミスリアは自身が唯一友人と呼べる人物に向けて手紙を書き綴った。
まずはユリャン山脈付近での集落に起きた悲劇を語った。それから山賊団と関わったこと、イトゥ=エンキを伴って山越えをしたこと、樹海を通り抜けてナキロスの町を訪れたことを書いた。ナキロスの町で教皇猊下に会って聖地を巡る意味を再考させられたことも綴った。 思い返しながらも時々沸き起こる悔恨を感情の中枢から切り離して、ペンを進める。 (さすがに自分がさらわれた話をするのは少し恥ずかしいかも……) 手を止め、ミスリアは一人苦笑いをした。時が経っても、味わった恐怖が悪夢に蘇ることは度々ある。 それでも語った。ただし、ゲズゥと交わした会話の一部は紙面に載せずに端折る。 やがてイマリナ=タユスを訪れて仇討ち少年や魔物討伐について書き出した頃、五枚目の紙に突入していた。 無力さに打ちひしがれての後味は鮮明だ。手先が小刻みに震え、黒いインクが数滴弾けて欄外に落ちた。 時間が惜しい。 今の自分が最も必要としているのはこの先を想うことだ。 震える右手を左手で掴んで押さえた。ミスリアはもう一度深呼吸し、白紙と向き直る。
視線は宙をさ迷い、脳裏には三日前の出来事が浮かび上がっていた――。 |
33.a.
2014 / 06 / 05 ( Thu ) これまでにも幾度となく見上げてきた背中が遠ざかっていく――。 聖女ミスリア・ノイラートはそれが人混みに呑み込まれて完全に見えなくなるまで、静かに見届けていた。あまり多くの時間を要しなかった。去り行く青年、ゲズゥ・スディルは元より足が速くて、そして今、何一つ顧みずに走っている。 そう、必死に駆けている。 ミスリアは彼の心中を想像してえもいわれぬ心苦しさを覚えた。同時に、幾月も共にあった護衛が離れて行くことに不安も覚えていた。 旅を始めた当初から変わらず、姿が見えなくてもいつも近くにその存在を感じていた。ウペティギの城での一件で一度引き離された時があったが、それを除けばほぼずっと一緒に居た。今はあの時とは事情が違うし、自ら送り出したのだと、わかっている、けれど。 モヤモヤとした薄暗い感情を鎮めようと、両手を握り合わせる。 「……どうか」 司教座聖堂の玄関先であることも気に留めずに跪き、深く頭を垂れて祈る姿勢を取った。 「どうか、彼らに大いなる神々と聖獣の加護があらんことを」 ヴィールヴ=ハイス教団に賜った聖女の証、十字に似た特殊な銀細工のペンダントを親指と人差し指の間に握った。 強く、強く握り締めた。 (お願い神さま聖獣さま……ううん、この祈りが届くなら誰でもいい) ぎゅっと目を瞑り、歯噛みして無心に祈った。 ――あのひとを助けてください――! 無事を願う、ひたすらにその為だけに。 力みすぎているのか、両手がガタガタと震えていた。 祈る心の強さが力となって通じるならば何時間でもそうしていたかった。けれども現実はあっさりと横槍を入れてくる。 「聖女ミスリア!? そのようなところで膝をついてはいけません、礼服が汚れましてよ!」 「お立ちになって!」 イマリナ=タユスの大聖堂(カテドラル)に仕える修道女たちが玄関に姿を現す。 両肩を掴まれ、強引に立たされる。ミスリアは特に抵抗しなかった。 そのまま蒼穹の建物の中へと引かれていった。 「まったくどうされましたの? 護衛の方もいきなり憑かれたように飛び出しますし……」 「聖女様、お顔色が優れませんね」 二人の修道女の呼びかけに、ミスリアは弱い笑みを返した。 「夕方の参拝……水晶の祭壇に祈りを捧げる時刻まで、どれくらいの猶予がありますか」 古風な造りの渡り廊下を歩きながら、口早に訊ねた。 外の風はもう冬のものと間違いないくらいに冷えている。 「え? そうですわね、二時間未満でしょうか」 二人は顔を見合わせてゆったり応ずる。 「では私はその時に備えて先に身を清めます。それからは礼拝室に篭もりますので、時間になったら呼びに来てください」 「まあ、篭もってどうされるんですの?」 「一切の妨げを失くして祈祷する以外に何がありましょう」 修道女の一人が首を傾げて質問するも、もう一人が当然だと言わんばかりに答えた。 「それはそうでしょうけれど……」 「聖女様がそれを望まれるのなら、わかりましたわ。後で呼びに行きます」 「ありがとうございます」 ミスリアは精一杯の微笑みをつくって一礼した。 _______ 始まりますよ~。 今回のエピソードは正統派群像劇(?)になると思います。またぐわっと長いかもしれませんが、一緒に走り抜けましょう★ね |