34.d.
2014 / 07 / 12 ( Sat ) _______
次に目が覚めた際には、全身が喰われかかっていた。 吹き矢の毒で鈍っていた神経が、氷の針を刺し込まれたように刺激される。最早何が現実であるのか全くわからなくなっていた。 「いっ……つ――」 激痛のあまりに声すらまともに出ない。 リーデンは瞑っていた目を何度か瞬いて、腹の上に目をやった。得体の知れない重みによって、全身が呪縛されている。 「おやふこうものぉ」 恨み節を吐くそれは鮫みたいな形をしていた。鮫の背びれは二つに裂け、それぞれに老人の人面が浮かんでいる。片方が老婆で、片方が老爺。 「ずっと一緒だぞい。一緒にいような」 払い落とせるものならそうしたいと、強く思った。だが手に力は入らず、鮫の口周りをぺちっと叩くしかできなかった。 「大人しく喰われろおおおおう」 ――ガツン! リーデンの右手の指が残らず噛み切られる。何が起こったのか理解できずに彼は白く光る手を見つめた。切断面からは血が出ない。代わりに白い瘴気みたいな靄が出た。 「ちょっと、人の指に何しちゃってくれてんの」 「クワレロ!」 開かれた鮫の口の中では、リーデンの指であったモノの破片が歯の間に挟まっている。気分の良い光景とは言い難い。 鮫は、今度は腹に噛み付いてきた。 「あああああああああああああああああ」 猛烈な痛みが弾けた。己をごっそり持っていかれた喪失感も。 「やめ……ろ! なんだ、よ。お前らなんか、死んだ……くせに!」 抵抗する力は無いので、せめて怒鳴り飛ばしてやろうと試みる。 今見える奴らのこの姿が、リーデンの良心の呵責の産物であるはずがない。そんなものは持ち合わせていない。あの日の惨劇を何度夢に見ようとも罪悪感など微塵も感じず、いつも痛快な気分になるだけだ。 ならば、これはもしかしたら本当にあの二人の魂が変じた姿なのかもしれない。そういえば死んだ人が魔物になると誰かが言っていた。 「死んだ? はて、死んだかな。死とはなんぞや」 「死なぬよ。わたしらは永遠の時をかけておまえを可愛がってやるゆえ。愛しているぞ」 「そんな重い愛、いらな、ぐっ!」 激痛、麻痺。激痛、寒冷。 (痛い! 寒い! 何処が痛いとか、じゃない! 何が痛いのか、わからない!) 思考から整合性が抜け落ちる。 (どうしてこんな) 自分は今本当に「起きて」いるのだろうか。これは自分の身体に起きている出来事で間違いないのだろうか。 減っているのは、すり減らされているのは、肉体か――? ひゅー、ひゅー、と満身創痍な呼吸音が繰り返される。いつしか腹部からは膿に似たどろっとした液体が垂れ出ていて、奇怪な鮫がそれを嬉しそうに啜っている。 鮫の下腹から生えた人間の腕が、今度はリーデンの腸をまさぐる。 おぞましい。なのに、そんな感覚すら現実味が薄れていくようである。 「た、すけ…………」 すり減らされていく内に、リーデン・ユラス・クレインカティが何処から何処までに存在しているのか、曖昧になってきていた。この闇も、魔物も、自分の一部なのか。それとも別の存在なのか。 嫌だ。こんな風に取り込まれて、終わるなんて。 「にい、ちゃ……」 兄に助けを求めたのは最後の手段のようなものだった。あの人はいつだって、弟の手助けを求めようとはしなかったから、自分だってやりたくなかったのだ。 返事は来ない。呼びかけが届かないのだろうか。それとも、来たくないのだろうか。 アヘンの煙が蔓延する場所で再会した時の記憶がちらついた。 よからぬ世界に踏み込んでからの弟と初めて対面した兄は、表情こそ変えなかったが、その瞳には冷たい失望が映し出されていた。 リーデンが、もしかしたら選択を間違えたかもしれないと感じたのは、そんな兄と目を合わせたあの瞬間だけである。 「ごめっ……、にいちゃ――」 本当はずっと、謝りたかった。 君の望むようになれなくてごめんなさいと、僕がこうなったのは君の所為じゃないよと、それだけ言ってあげれば兄は楽になれるかもしれないのに。その一言を発することができなかった。 指の残る左手を天に向けて伸ばしたのは、無意識からのことだ。 昔、転んだ時などに、この手を掴んで引っ張り上げてくれる人が居た。無愛想なせいか周りからは不気味がられていても、リーデンはその人を怖いと感じたことは無かった。あの落ち着いた空気の優しさと、握った手の温かさだけ信じていれば良かったのだから。 ――ゴメン。 唇がその言葉を形作った。 そして今度こそ意識が闇に落ちて、二度と醒めないだろうと予感がした―――――― 「リーデン!」 生者の世界から声が響いた。それは淀んだ闇を震えさせて、耳朶に届く。 伸ばしたままの左手が力強い熱によって圧される。生身の肌と肌が擦れ合って、痛いくらいに激しい生命力が伝わる。 そうしてリーデンは、今度こそこれが現実であることを認識した。 |
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